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写真タイトル説明登録日
1根(寝)入りの杉根(寝)入りの杉 下社秋宮境内に、周囲を石の玉垣(たまがき)に囲まれた杉の大樹がある。この杉は御柱に根が生えて生長したとか、弘法大師(こうぼうだいし)が参拝に来られたとき、境内に立てた杖に根が生じて生長したとも杉の挿し木に根が生えたとも伝えられている。  一説には、杉の木の枝が垂れ下がっていて木が寝入っているように見えることや、夜中になるとさらに枝を垂らして鳥居を枕にして眠り、時には寝息やいびきが聞こえることがあるといわれることなどから「寝入りの杉」ともいわれている。また、その威容(いよう)から「お宝木」ともいわれる。  この杉の木の皮をいただいて、夜泣きをする子どもの枕の下に置くと、子どもはよく眠るようになるとか、落ち葉を煎(せん)じて飲ませると子どもの夜泣きが止むともいわれている。2023-12-03
2みそなめ地蔵みそなめ地蔵東山田にある地蔵。地元の人は「みそなめ地蔵」「庄塚のばばあ」と呼んでいる。歯が痛いとき、生みそをお供えすると歯の痛みを抑えてくれるというお地蔵さまで、痛みが落ち着くと地蔵にお茶を備えてお礼参りをしたという。また、咳き込むときには焼き味噌を供えたという。東山田権殿林(ごんどのばやし)墓地上野古田家墓地内に、形の小さい横穴式石槨の一部が露出おり、その開口部に地蔵が半ば土に埋まっている。個人の墓地敷地内につき、参拝には配慮が必要である。2023-11-26
3諏訪大社秋宮ライトアップ諏訪大社秋宮ライトアップ令和4(2022)年8月、諏訪大社は5日夜、秋宮のライトアップを始めた。半年の無事に感謝し、残りの平穏を願って参拝する「夏詣(なつもうで)」にちなみ初めて企画したもの。社殿や鳥居などを照らし、境内は幻想的な雰囲気に包まれた。ライトアップは14日(日)まで午後5時から午後10時まで行った。神職は「諏訪大社で行う夏詣の取り組みは2年目。来年も続けていければ」としている。神社も時代と共に変化している。 2022-09-14
4秋宮境内の電子案内板秋宮境内の電子案内板令和4(2022)年、諏訪大社秋宮境内に電子案内板が登場。時代の流れは神社の案内板も電子パネル化され、神社の由来や境内の案内などがボタン一つで大きな画面に表示されるようになった。パネルの横画面には身長を測るメモリもついていて参拝に合わせて子供の成長を確認できる心くばりも備えている。2022-05-21
5下馬橋下馬橋御手洗(みたらし)川に架けられた屋根付きの反り橋で、その形から俗に太鼓橋ともよばれる。天正(1578)年の造営帳に記録があると言い、元文年間(1736~41)に修築したと伝わる。切り妻造りで簡素な内にも力強さを具えている。下社の内で最も古い建造物とされている。昔はここで下乗・下馬・籠や馬から降り、身を清めて参拝した。大社の遷座祭の時には、神の御神輿に限ってこの橋を渡る。現在は一般庶民が堂々と車に乗って昔の参道を行く姿を見ると時代の流れをつくづくを考えさせられる。2022-03-24
6御射山神社御射山神社中世における諏訪明神最大の祭りは、8月27日を中心とした御射山祭だった。霧ヶ峰の一角、八島高原の東に続く旧御射山で祭事が行われ、信濃・回の武士は言うに及ばず、鎌倉幕府はじめ各地の武将たちが集まり神事の後武技を競い合った。旧御射山社前にその競技場跡があり、土段の桟敷席が残っている。しかし社が遠距離の所にあり道も険しく不便と慶長(1596~1615)の頃、秋宮から4キロの武居入りに遷座したのが現在の御射山社(写真)である。御射山祭は今、幼児が洲小山に育つことを祈る祭りとなり、8月26・27日の例祭には2歳の幼児とともに参拝するのがこの地の習わしになっている。 写真下は同じ境内にある大元尊社である。2021-12-26
7下馬橋下馬橋春宮大門通りの下馬橋。俗に「太鼓橋}と呼ぶ。 天将6(1578年造営、元文年間(1736頃)の修造といわれ、切り妻造りで古い様式を残す建物である。この橋より奥は神域で、馬上の人は馬を降りて橋の下を流れる御手洗川で身を清めて参拝したという。2020-07-23
8諏訪大社秋宮諏訪大社秋宮諏訪大社下社神楽殿。 大注連縄に赤い提灯が飾り付けられている。 神楽殿横を歩く御田植祭りの早乙女と思われる姿が見え、周りに参拝客や観光客の姿が多数見える。2021-12-18
9七五三の宮参り七五三の宮参り七五三の宮参り風景(秋宮)。この年は男児の和装が例年になく多く目についたという。近年七五三の宮参りも11月に入る前から参拝風景が見られる。2020-03-06
10秋宮の七五三柱(しめばしら)秋宮の七五三柱(しめばしら)秋宮駐車場から参道を横から入るところにある七五三柱(しめばしら)、社務所横の秋宮駐車場から境内に入る場所に建立されている。大鳥居をくぐることを省略して参拝することになるので、平成元(1989)年に七五三柱を建て大鳥居をくぐったと同じになった。柱に「平成元己巳(つちのとみ)年十月二十五日全国諏訪神社連合会」と彫られている。この七五三鳥居を入るとすぐ右手に温泉を引いた手水が置かれている。2020-03-06
11秋宮の観光客秋宮の観光客昭和59(1984)年に引湯した時に参拝の手水(ちょうず)用にと新設したもの。湯口は竜神伝説にちなんで竜の口をかたどった(御神湯)。50℃を越す熱さで観光客に人気がある。秋宮の観光客がお湯の出る手水を前にひとしきり談笑している。2020-03-06
12翼賛壮年団(大社)参拝翼賛壮年団(大社)参拝のぼり端には諏訪郡内各町村の「翼賛壮年団」と書かれている。大日本翼賛壮年団は大政翼賛会の傘下団体の一つで昭和17(1942)年1月に結成された。各地区の若者組を退会した壮年団(組)が地域の行政にかかわる活動をしていたというがその活動は詳らかではない。その後戦時体制下にあっては戦争協力の会(大政翼賛会)として活動したところが多いという。写真は秋宮幣拝殿前と思われる。2020-03-06
13秋宮鳥居前秋宮鳥居前秋宮鳥居前、辻屋の看板に「参拝土産、大社飴 電話四十五番」とある。当時はみな町湯へ出かけていった、綿の湯へは秋宮社や辻屋の前を通った。2020-03-06
14第一区両社詣り第一区両社詣り出征軍人の健康祈願のため区の主催で区民がたびたび諏訪大社の上下両社に歩いてお詣りした。写真は上社石段での記念撮影。 前列中央の男性が「日本第一軍神」の旗を持っている。 両社参りとは豊作を祈り六月一日に行われていた。 戦争中はこの日に限らず諏訪上下社に参拝した。 上社へは上諏訪の駅から歩いて参拝した。2022-03-15
15戦時献金戦時献金戦時献金 昭和17(1942)年春宮の鳥居前でお舟祭の参拝者に献金をお願いしている女子青年団。「献金樽」と書かれた樽が置かれている。2020-03-06
16皇太子殿下参拝皇太子殿下参拝宮司と共に参拝され説明を聞かれる皇太子殿下。(平成天皇陛下・令和上皇様)2020-03-06
17尾掛松(杉の木神社)尾掛松(杉の木神社)絵葉書になった「尾掛松」。古代の「松之木湛(たたえ)」神事の地と伝えられている。「湛」とは「たたり」のことで、尾掛松に神霊が大空より降臨することを信じて祀ったものである。「杉の木様」とも呼ばれていた。 樹種はヒノキ科ビャクシンで、住民はもとより甲州道中を旅する人も参拝したという。 また諏訪湖上で漁をする人の目印の巨木でもあったが、枯れ死していたので、平成16(2004)年1月に安全上の配慮から伐採され幹だけが残る。 この尾掛松には諏訪明神様が出雲出へ掛けた時、竜神が頭だけ出したので、他の神様が尾はどこにあるのか聞いたところ、「尾は(大和)諏訪湖のそばの高い木(高木)に掛けてある」と答えたことから、それが大和・高木の地名の起源と伝えられている。なお地名の語源には諸説あります。現在は「杉の木神社」2020-03-06
18実業団野球選手行進実業団野球選手行進実業団野球大会が鷹野町野球場で行われた。 そのときの選手団が諏訪大社下社秋宮に参拝し、その後消防団ラッパ隊の先導で球場まで行進した。2020-03-06
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