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登録リスト(該当:37件)

写真タイトル説明登録日
1七曜星社蔵七曜星社蔵武藤工業(株)から寄贈された中山道沿いの土蔵(木造二階敷地面積16平方メートル)を改修し中山道など街歩き休憩所にしました。蔵は海鼠(なまこ)壁が美しい。 この場所で七曜星社という製糸工場を営んでいたことから七曜星社蔵(しちょうせいしゃぐら)という名前が付いた。2023-07-16
2冠水した線路冠水した線路平成18(2006)年7月19日未明の豪雨災害。 大和電機工業㈱前のJR線路内が冠水。 承知川のはんらんで国道20号線を超えた水が一気にJRの線路へ流れ込み、数百メートル離れたイングスシナノ付近から側道に流れ出た。このためポイントが故障し、下諏訪中学校下の甲州第三踏切は遮断機が下がったままの状態になった。2020-09-09
3メーデーメーデー昭和39年メーデー ヤジカ前(現ムトー工業)2020-09-05
4旧中山道旧中山道旧中山道、武藤工業裏手付近。2020-03-06
5下諏訪上空下諏訪上空町屋敷工業団地。町内企業の振興を図るため平成2(1990)年から造成に着手し翌年平成3(1991)年、13区画35227㎡の工業団地が町屋敷に完成した。2020-03-06
6精密機械工業精密機械工業工場内の作業風景。2020-03-06
7高林選手高林選手高林清高選手。岡谷工業学校時代は戦争中で活躍の場はなかったが明治大学に進んでから日本を代表するスプリンターとなる。日本選手権では500mに3連覇。オリンピックで6位入賞を果たした。昭和29(1954)年日本初世界選手権札幌大会では銅メダルを獲得した。2020-03-06
8丸六製糸丸六製糸丸六※製糸(片倉兼太郎)。湯田新町(旧ヤシカ跡・現ムトー工業)片倉組製糸の下諏訪製糸所。明治18(1885)年創業の井上善次郎工場を買収して、明治32(1899)年に創業、昭和18(1943)年軍需工場となり、昭和23(1948)年再開するも昭和30(1955)年ヤシカとなる。現在はムトー工業となっている。  2020-03-06
9製糸工場製糸工場堀内忠夫氏の製糸場。中央通り旧湖北工業跡、現フレール隣、大正8(1919)年創業の角ヤ※小口組製糸工場が昭和6(1931)年の大恐慌で倒産、その後青木村出身の堀内忠夫氏(後の町議会議長・商工会議所会頭)が引き継ぐが、昭和32(1957)年廃業。№1287と同じ写真。 2020-03-06
10日新社製糸場日新社製糸場日新社製糸場(林栄一)。後の山二笠原製糸場を経て日新工業(日新工業)となり、ギターの製造を行っていたが昭和 年火災により閉業現在町営御田町駐車場。奥の森は青塚その左は来迎寺。2021-04-01
11三協精機三協精機三協体育館で行われた、精密電子メーカー「技術交流プラザ・技術成果展」会場。一番人気は「絵描きロボット」だった。 三協精機は、昭和21(1946)年当時の北澤工業に勤めていた3人により下諏訪町に三協精機製作所として創立した。かつてはオルゴールのムーブメント製造が看板事業で、一時は世界のオルゴールムーブメントシェア80%を誇った。しかし、現在は、本体としては同事業からは撤退し、子会社の日本電産サンキョーオルゴール株式会社で取り扱っている。 平成15(2003)年に業績不振から日本電産株式会社傘下入りを発表し、社名も日本電産サンキョー株式会社となった。2020-03-06
12五味工業五味工業五味工業の工場内の様子。小規模工場ながら一台5000万円のマシニングセンタなど高性能機器が並ぶ。工場要員は全員が技術検定取得者、技能オリンピック出場者を3人出すなど技術に磨きをかけている。この会社の会長(当時85)は元生糸商で、工場も製糸所の跡地にある。ここにもシルク王国の遺産が生きている。2020-03-06
13華道教室華道教室勤め帰りに華道教室のお稽古。お師匠さんは国鉄職員の奥さんで、自宅に作業所を造り、マイクロモーターなどの線材の圧着の仕事をしていた。すわ湖工業地帯らしい風景。2020-03-06
14公共下水道工事公共下水道工事進む公共下水道建設、200mm管渠の敷設工事。諏訪湖流域下水道は、昭和43(1968)年秋に起きた湖水の重金属汚染騒ぎから、政府のてこ入れもあって建設が急がれた。昭和49(1974)年着工、昭和54(1979)年に一部開始された。工業配水も受け入れたため、終末汚泥の処理が悩みの種となっている。この町の下水道普及率はこの年の3月末で79.0%で県下一だった。現在はほぼ100%。2020-03-06
15スケート部の陸上トレーニングスケート部の陸上トレーニング体協スケート部の陸上トレーニング。下諏訪町の保健センター駐車場を借用してのローラースケートの練習。向かいに小松工業の看板が見える。2020-03-06
16砥川土手砥川土手オオマツヨイグサの咲く砥川の土手。富士見橋付近から諏訪湖方面を写している。2020-03-06
17砥川土手砥川土手砥川の土手富士見橋付近から諏訪湖に向かって撮影。林工業(西弥生町)の看板が見えるが、ここには弥生町にあった旧諏訪女子学園があった。2020-03-06
18花見新道からの景色花見新道からの景色花見新道(国道142号線)から見た下諏訪町の風景。中央のシルバー屋根は御田町「武藤工業㈱諏訪工場(旧ヤシカ)」その奥が「入一通信工業㈱諏訪工場」2020-03-06
19製糸時代のメインストリート、今は御田町通り製糸時代のメインストリート、今は御田町通り戦前はこの通りに片倉、入一など大手製糸工場が並び、月二回の定休日には通りにあふれるほどの工女たちで賑わったものという。工女たちを集めた御田町劇場はもうない。戦後も片倉跡が「ヤシカカメラ」の工場になって、従業員の往来で活気を見せていたが、同工場が岡谷へ去ってから、(現在は「武藤工業(株)諏訪工場」に代わって)静かな商店街にな様変わりしている。2020-03-06
20下諏訪機械金属工業会の新年会下諏訪機械金属工業会の新年会前年創業30周年を祝った下諏訪機械金属工業会の新年会。会員数57社「オイルショックも円高も工夫と努力で乗り切ってきた。これからも技術力で生き抜いてみせる」と社長たちは胸を張る。町の工業事業所数は461、従業者数5269、製品出荷額954億4720万円。2022-03-19
21三陽精機三陽精機三陽精機(プレス)。2021-04-01
22小松工業小松工業西鷹野町工業団地にある㈱小松工業のロングストローク特殊プレス機による冷間塑性加工工場。630トン、600トンのプレス機を使って大型部品を「しぼって」作る。内陸にあって精密工業の発達している諏訪地方では、やや大型の部品を扱う工場は多くはない。技術水準を上げるため、埼玉県から工学博士を招いて指導を受けているという。2021-04-01
23確定申告相談風景確定申告相談風景「確定申告申請受付町屋敷公会所へ出前」。町役場が5キロ離れた山間地区の町屋敷公会所で確定申告相談所を開設。お百姓さんや家内工業者らが利用していた。2021-04-15
24下請け工場で働く主婦下請け工場で働く主婦諏訪の精密工業を支える二次加工専門の下請工場春元精機製作所で働く主婦たち、皆さん結婚前は時計やカメラ工場で働いていた人たちばかりなので腕は確か、一人ひとりが徹底した品質管理をしているという。伝票にはソニー・オリンパスなどのスタンプが見られる。2021-04-01
25竹村製作所の作業風景竹村製作所の作業風景自動車の心臓部の部品仕上げをを受け持つ家内工業。竹村製作所の作業風景。あらゆる車種のオイルリングを製造していた。親子三人と外注の内緒k8人で月産100万本のフル操業。もとは時計ケース加工から転進した。2020-03-06
26和田峠黒曜石採掘の跡和田峠黒曜石採掘の跡和田峠トンネル西口200m手前国道沿いの黒曜石採掘場。昭和23(1948)年頃の吉沢太七郎の旧抗を清水明氏が写す。工業用材としては昭和31(1956)年小野田セメント㈱がホシガトウ及び東餅屋で断熱材として、また昭和45(1970)年からフヨーライト㈱が和田トンネル西方で採掘して本社に搬出している。2020-03-06
27ヤシカ工場(旧片倉製糸)ヤシカ工場(旧片倉製糸)東洋のスイスといわれていた頃の精密工業(カメラ工場)の様子。ベルトコンベアー・システムによって次々に完成品が作られてゆく。 戦後のカメラブームの中、昭和24(1949)年諏訪市の八洲精機製作所を継承したヤシカカメラは、昭和30(1955)年下諏訪町の旧片倉製糸下諏訪製糸所に本社工場を移転し、新型カメラを登場させ市場にアピールした。新興メーカー・ヤシカは安さも売りの一つで成長し、昭和30年代には国内販売高も輸出も首位を占めていた。昭和47(1972)年本社を岡谷市長地に移転したが、昭和50(1975)年に経営破綻し、京セラに吸収合併された。 全てをベルトコンベアシステムにより最終時加工(1枚目の写真)。工場内は若い労働者によって占められている。  2021-03-27
28下諏訪町明細全図下諏訪町明細全図「官幣中社諏訪神社並二下諏訪町明細全図」当時の下諏訪市街地図。  明治41(1908)年5月諏訪神社御柱祭記念に東京の出版社が、下諏訪商工業者の協力で発行した下諏訪町明細全図。  御田町・花咲町もなく、平沢小路は重要な三角八町の間道だった。図の右手前に下諏訪駅、さらにその右手に諏訪湖天然氷株式会社の氷庫、大通りに人力車が続いている、御柱当日の一風景。2020-03-06
29製糸工場風景製糸工場風景絵葉書「信陽諏訪下諏訪入一※組製糸会社全景」の文字。入一※組製糸は明治34(1901)年に創業した入丸※製糸が明治43(1910)年に分離し、入一として創業(小口松五郎・川村蓑吉・山田由蔵・河西寅吉の合名会社)した。入一※製糸は入丸より分離したメンバーに河西友吉・河西勝太郎・今井栄人(入一社長)が加盟し、最盛期の大正10(1921)年頃(1150釜)は茨城・静岡に支店を出し、大正12(1923)年には南四王(現ジャスコ跡)に分工場を建設した。昭和4・5(1929/1930)年の不況により今井栄人が入一通信工業に転換した。下の原方面からの写真、中央辺りに平沢小路~下の原への道路が見える。2021-04-01
30下諏訪全景下諏訪全景河西政常氏撮影。製糸工場の煙突の煙が見える。白い建物は ※丸六製糸(現在のムトー工業の位置)。2020-03-06
31花見新道から見た下諏訪花見新道から見た下諏訪花見新道の桜の向こうに手前から ※丸六製糸(現ムトウ工業)、 入一組製糸所、その向うに旧役場、下諏訪尋常高等小学校(高等小学校、実科女学校、現下諏訪中学校)、南校(現下諏訪南小学校)が見える。 手前には諏訪地方特有の石置き屋根の民家も見える。2020-03-06
32製糸の町岡谷製糸の町岡谷満面に水をたたえた天竜川。明治後期の釜口橋付近で、橋脚が補強されている。 大きな繭倉が建てられ、工業地帯に変貌しようとしている。2020-03-06
33製糸の町岡谷製糸の町岡谷天竜川沿いに製糸工場の煙突が沢山見える。製糸工業全盛期「岡谷の千本煙突」・「岡谷のスズメは黒い」など言われることもあった。 天竜川河岸に水車と思われるものが写っている。2020-03-06
34中央車両工業(中央工業)慰安旅行記念写真中央車両工業(中央工業)慰安旅行記念写真杖突峠の標識看板がある。トラックには中央車両工業株式会社の文字。2020-03-06
35三国座落成記念写真三国座落成記念写真駅前から四ツ角方面の振興を目的に友之町の本通り・大社通り・菅野町・駅通りの商工業者が映画館「三国座」を建設した際の関係者の記念写真。昭和29(1954)年9月1日にオープンし、「ローマの休日」を上映した。諏訪の都座の系統で当時珍しかった洋画も上映した。昭和47(1972)年9月25日閉鎖された。館名は一般より募集した。(撮影日は下諏訪町誌参考)2020-03-06
36御田劇場御田劇場「御田劇場」は入一製糸場(現入一通信工業)が社員の慰安と御田町商店街の発展策として、大正2(1913)年完成した。前進座の公演を見るために行列を作る人たちが写っている。上諏訪の清水町にあった旧高島座を一万円で買収、移築した。その後、昭和32(1957)年9月ヤシカに売却、ヤシカ会館となり、現在は諏訪信用金庫御田町支店と駐車場となっている。2020-03-06
37片倉組丸六製糸場片倉組丸六製糸場明治42(1909)年片倉組丸六製糸場で下諏訪町における創業10周年記念祝賀会当日に撮影された写真。手前の道は花見新道(御作田社より上にある道)大八車の轍が線路のように残っている。右手前の木は御作田社、左中ほどの町並みは湯田仲町、左遠方の高い建物は中学校の塔、間に見える畑は桑畑で当時は多く見られた。後方にはうっすら白く諏訪湖が広がっている。2020-03-06
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