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写真タイトル説明登録日
1蒸気機関車 C1266蒸気機関車 C1266現在真岡(モオカ)鉄道にいる「カマ(機関車)」の30年前の姿。 当時上諏訪機関区には3両のC12がいた。C1267は茅野市に保存展示されている。 C1266は木曽福島から会津若松、そして旧川俣線が廃止される前日の営業最終列車の後、自力で川俣駅へ回送されたと聞いている。 ここで保存された後真岡鉄道で復活、NHK4の朝ドラにも出演、地味な現役時代とはまたひと味違った姿になっている。 復活後はまだ見ていないがそのうち会いに行こうと思う。 【百瀬氏文】 C12形式SL 文化財として27両が全国的に保存されている。C1266とC12777号が動態保存に復元されて、それぞれ真岡(モオカ)鉄道と大井川鉄道で運転されている。2024-01-24
2初売り初売り駅前商栄会の初売り風景。手前に見えるのは福袋。2023-02-26
3御湖鶴・世界一の称号御湖鶴・世界一の称号令和3年(2021)、世界最大級のワイン品評会(International Wine Challenge)の日本酒部門で「チャンピオン・サケ」を受賞し、7月5日に諏訪御湖鶴酒造でセレモニーが行われた。受賞酒の「御湖鶴純米吟醸山恵錦」は、長野県で開発された酒造好適米「山恵錦」を使用。主催者は「フルーツを想わせる香りが際立ち、繊細でまとまりのある舌ざわり」と評価された。諏訪御湖鶴酒造所は一時途絶えたが、コロナ化に立ち向かい、復活から3年で世界一の称号を手に入れた。ちなみに御湖鶴再建には福島県の磐栄運送が当たっている。2022-01-13
4レンプクソウ解体図レンプクソウ解体図山地の林内に生える多年草。フクジュソウに長い地下茎が続いているように見た人が、連福草と言い出して名がついた。 花が5個付くのでゴリンバナとも。2022-03-15
5サクラあれこれサクラあれこれ桜あれこれ 2012.5.12林業センター 上より。 ・かたおかザクラ(片丘桜) 花弁数:5枚  カスミザクラの栽培品。幼木でもよく花をつける、塩尻市片丘で見つける。樹高4mほど。 ・しょうげつ(松月) 花弁数:20~30  サトザクラの栽培品種。明治期の荒川堤から広がった。名前の由来は不明。 ・楊貴妃 花弁数:15~20  サトザクラの栽培品種。奈良の興福寺にいた玄宗という僧侶が庭の桜に愛情を注いだことから、その桜を「楊貴妃」と呼ぶようになったといわれる。 ・紅玉錦   ・フゲンゾウ(普賢象) 20~50  サトザクラの栽培品種。2本の雌しべが葉化し、これを歯、八重の花弁を鼻と、普賢菩薩の乗る白象に見立てた。 ・北鵬 ・普賢象 ・かんざん(関山) 花弁数:20~50  2021-11-02
6若宮源湯と湯神碑若宮源湯と湯神碑戦後上総(かずさ)掘り方式で昭和38(1963)年八月に自噴、「若宮源湯」と命名。地域の発展と福祉の向上をうたって、昭和39(1964)年6月「富部温泉」ができた。この碑を祀り繁栄を祈った。温泉は第十区の区有温泉として広く利用されていたが、平成19(2007)年3月末に廃業した。2021-12-23
7東山田・若宮社跡東山田・若宮社跡副祝山田氏の祝神と伝えられている。旧中山道の福沢川と鋳物師沢川の中間に鳥居と祠があったとされるが、昭和初期の水害で流され自宅屋敷内に移されている。写真は若宮社跡の案内板である。2022-03-24
8福沢川・法泉寺横福沢川・法泉寺横東山田の法泉寺とその東側を流れる福沢川。2022-03-19
9法泉寺法泉寺福沢山清泰院法泉寺、浄土宗の寺。室町時代に開山されたと伝えられているが、文政年間の火災のため資料を欠き詳細は不明。江戸時代から明治維新までは寺子屋として、明治7年から明治23年までは東山田学校(郷学)として使用された。門前には東山田学校跡、六地蔵菩薩を祀ってある石碑や石佛がある。前を通る道は塩尻道と呼ばれ、中山道の近道として利用されていた。道を挟んで東側を福沢川が流れている。2022-03-19
10東山田屯所・山花東山田屯所・山花法泉寺の角の交差点に、東山田第七分団屯所が福沢川の左岸に、道を挟んで西側に食事処「山花」がある。この道は急ぎの旅人などが春宮東で中山道をそれ、東山田を通り西山田(中村)を経て今井から中山道に入った近道で、塩尻道ともよばれていた。参勤交代に合わないための間道として御岳山の行者などが多く利用したという。2022-03-19
11神明館・神明社神明館・神明社神明館については№1173を参照していただきたい。神明館入り口に祀られている「神明神社」は大正12(1923)年に区民の寄付によって建立し、毎年10月10日を例大祭としている。なお、神社前には道祖神も建てられている。そもそもこの地区は「流れ」と呼ばれた砥川・鋳物師川・福沢川・十四瀬川の洪水常習地帯で、住宅ができたのは明治9(1876)年からで特に明治23(1890)年現国道20号線が開通してから戸数が増えてきた。新しい街だからこそ神明社は大事に守られてきたのだと思われる。2022-03-19
12フクジュソウフクジュソウ福寿草(フクジュソウ)。 春を告げるおなじみの花で、花弁(カベン)はパラボラアンテナのようで光を集める。2020-09-09
13天皇皇后両陛下来訪天皇皇后両陛下来訪天皇皇后両陛下(現上皇様)が平成4(1992)年9月6・7日来訪。6日のご視察は信濃医療福祉センター・長野県花田養護学校。7日は㈱三協精機製作所・諏訪市温泉植物園・諏訪北澤美術館へご視察。 写真は㈱三協精機製作所(社名が㈱日本電産サンキョーへ変わり現在は㈱ニディックインスツルメンツ)へご視察。2023-09-28
14福澤川山腹工事福澤川山腹工事(諏訪郡長地)福澤川に於ける山腹工事の一部(施工直後)。場所は当時の東山田村。年月等不明。2022-04-19
15保育園保育園昭和30(1955)年頃の保育園の風景。 町勢要覧の中で「児童の遊び場設置について昭和24年6月第一次児童福祉法改定項より母の会を中心にこどもに良い環境をという運動が活発になり、昭和25年7月15日復式スベリ台1基3蓮式ブランコ1基の遊園地が一か所誕生、その後各部落に設置がされ昭和26年には13か所となった。2020-08-02
16空襲に備えて空襲に備えて昭和20年も4月頃になれば戦況はいよいよ厳しくなり、空襲警報もしばしば発令されるようになり、主婦たちも空襲を想定してバケツリレーで消火訓練をした。学童も授業を中止して帰宅することが多くなってきた。この写真は御田町通りのバケツリレーの様子である。写真右からカネタマル・福助堂・橋本屋・安兵ヱといった店が並んでいた。 女性は防空頭巾にモンペ姿、男性は国民服にゲートルなど当時の服装がよくわかる。2022-06-09
17御柱祭御柱祭御柱祭。左端に「奈良屋・・・」と読める看板。福ダルマに仮装した長持衆。2020-03-06
18旧社東町公民館旧社東町公民館旧下諏訪製糸共同病院の本館を昭和2(1927)年12月に買収移転した地区公民館(神明館)。現在の社東町付近は、砥川と十四瀬川に挟まれ、特に砥川と福沢川の合流地はたびたび洪水に見舞われてきたので、古くは「流れ」がそこの通り名であったという。明治以後徐々に人が住みはじめ、旧中山道の北に新道が通ったり、河川改修工事などが進み、人家が増加した。昭和33(1988)年に岡谷市から下諏訪町に合併して第八区となった。2020-03-06
19夏の夜の御田町夏の夜の御田町夏の夜の「御田町」交差点付近。道路左手に福田屋と右手にステップカサイの看板が見える。2020-03-06
20戦没者追悼式戦没者追悼式第44回戦没者追悼式。8月15日は44回目の終戦記念日、町主催の戦没者追悼式で祭壇に白菊を手向ける遺族たち。会場は町老人福祉センター。 町の戦没者は日清戦役以来450柱、遺族会員は420人。2020-03-06
21下の原の幟立て下の原の幟立て「萬物長養徳」「万穀豊穣福」の一対の幟、安政5(1858)年に玉骨道人が書いた。毎年8月1日の遷座祭や御柱祭りの際に宮坂に建てられる。下の原の幟立て。中央に見える道を下ると龍の口がある。 ちなみに玉骨道人は、下の原の観照寺などで修業した後、岡谷横川の真秀寺の住職になった人で、和歌俳諧をよくし書にも優れて下の原には他の幟や石碑が多くある。この幟を書くときは慈雲寺に村人が硯を持ち寄って墨をすり、手桶にためて道人が大筆で一気に書いたと伝えられている。2020-03-06
22寒の雨寒の雨厳寒の雨は酷寒の地諏訪地方では珍しく、この日の最低気温は0.5度(平年比7.7度高)、最高気温は6.5度(同3.6度高)だった。御田町の風景写真左が居酒屋「甚八」右手には福田屋菓子店。2020-03-06
23御湖鶴モロミ仕込御湖鶴モロミ仕込地酒「御湖鶴」の蔵元。モロミ仕込(最終日)この道40年の杜氏を始め酒造り衆は5人いずれも郡内の農家の人たち。米だけによる本作り戻っている。オンザロックでも飲める超辛口も出している。 御湖鶴酒造は、大正元(1912)年下諏訪町御田町にて創業。 大正7(1918)年10月『下諏訪酒造株式会社』として法人設立。 大正11(1192)年『菱友醸造株式会社』に改称。 平成29(2017)年4月22日付で事業停止、同4月25日付で破産開始決定。平成30(2018)年2月、福島県いわき市の運送会社『磐栄運送』が、『菱友醸造』の土地や設備などを買い取って御湖鶴ブランドを引き継ぎ、同年秋に仕込み開始、12月10日に新酒の販売を開始している。2020-03-06
24諏訪大社節分祭諏訪大社節分祭春をつげる諏訪大社下社の「節分祭」の様子。恒例の宝投げに沢山の手が福をつかもうとしている。赤鬼・青鬼が登場しその浸入を防ごうと神官が立ちふざかるしぐさなど見ていて楽しい行事である。2020-03-06
25冬の砥川冬の砥川冬の流れ(砥川)。砥川は全長12.9km町内で一番大きな川である。土砂の流出が多く、写真の医王渡橋付近より下流は度々流路が変わるほどの洪水を起こしてきた。また天井川を形成している。2020-03-06
26春宮大門先大鳥居建立春宮大門先大鳥居建立この写真には「明治25(1892)年春宮大門先に建てる銅(からかね)鳥居を塩尻峠経由で到着させるとこ」と裏書あり。春宮大門先へ銅鳥居が建つ(明治25(189)2年)。大鳥居建設落札者河西準之助、河西寅吉と鋳造者小島大二郎(上田市)の三氏が礼服乗馬で指揮して、その部品を荷馬車で和田峠越えが困難なために保福寺峠を迂回して松本・塩尻峠経由で運んだという。2020-03-06
27ルーテル協会の婦人会ルーテル協会の婦人会この時から宣教開始 諏訪地方最初のルーテル教会ウーシータロ嬢が、湯田新町医師三輪甲子三郎宅跡にきて、福音宣伝を開始する。 写真はルーテル教会婦人会。 中央がミンキネン譲、後列右がニュールンド嬢。 この時、花見新道上字天白に洋館が新築されて牧師の宿舎とされ、異人館と呼ばれていたという。2020-03-06
28福沢川の氾濫福沢川の氾濫昭和10(1935)年6月29日砥川・承知川大出水、殊に福沢川の部落内の被害は甚大で、写真は福沢川の橋より東2・3軒目の裏手から砂瓦礫が浸入した様子。2020-03-06
29砥川砥川集中豪雨により砥川の出水、医王渡橋付近。昭和10(1935)年6月29日、砥川・承知川で出水。殊に福沢川の部落内の被害は甚大であった。2020-03-06
30片倉館片倉館片倉館。大正から昭和初期に製糸業で栄えた片倉財閥が、創業50周年記念に二代目片倉兼太郎により、片倉財閥関係者のみならず地域住民の厚生と社交の場として昭和3(1928)年に建てられた。 会館、浴場、渡廊下の3棟が国指定重要文化財に指定されている。特に千人風呂と呼ばれる大浴場が特徴で、深さ1.1メートルもあり底の玉砂利が足の裏を心地よく刺激する。 同敷地内に諏訪市美術館がある。2021-04-01
31片倉館片倉館片倉館は片倉紡績(株)により御大典奉祝や片倉創立50周年を背景に製糸工場従業員の福祉施設として昭和3(1928)年、建設。総工費80円余り。一度に1000人入れる「千人風呂」があり、休みの日には従業員たちが岡谷から船に乗ってやってきたという。一般の人たちにも解放され建物は国指定重要文化財に指定されている。当時の入浴料は2銭だった。2020-03-06
32学校プール合宿風景学校プール合宿風景完成と同時に合宿に来た選手たちと黒田町長はじめ町関係者。 福島滋雄選手と思われる。福島滋雄は身長181cmの長身のスイマーで、200M背泳ぎで2分16秒1の世界記録を樹立したり、日本選手権で1962年から1968年まで7年連続優勝したりしている。2020-03-06
33丸屋呉服店丸屋呉服店御田町にあった丸屋(まるや)呉服店、現在は共益金物になっている。 「連合大売出し御田町商業会」ののぼり旗も見え当時の御田町の賑わいが感じられる。 店の右端には「名実共ニ日本一福助足袋」の丸い看板も見える。 御田町通りは明治44(1921)年に新たに開かれた通りある。2021-05-03
34青木健一町長就任記念写真青木健一町長就任記念写真現庁舎前。青木健一町長以下議員、役場幹部。 第29代町長、青木健一氏は昭和45(1970)年~昭和57(1982)年まで3期12年町長を務める。在任中新庁舎完成、北小開校、社中開校、町屋敷団地完成、東俣浄水場建設、老人福祉センター開設、清掃センター完成、体育館完成などに尽力した。2020-03-06
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