キーワードで探す
並び替え:

登録リスト(該当:36件)

写真タイトル説明登録日
1隠岐のあごなし地蔵・愛宕地蔵尊隠岐のあごなし地蔵・愛宕地蔵尊 昔、神殿(ごうどの)【大祝居館(おおほうりやかた)、現下諏訪中学校地籍】の西つづきに、犬射馬場(いぬいばば)と呼ばれた練武場があり、武士たちが日々練武に励んでいた。ある日、武士の流矢が隣の空き地で遊んでいた子どもたちの中に飛び込んだ。子どもの泣き声があがり、武士が顔色を変えて駈け寄ると、子どもたちに囲まれて下あごに矢を受けられたお地蔵様が横たわっていた。抱き起こすとお地蔵様の下あごが削れ落ちたという。  村人は、子どもたちの身代わりになられたお地蔵様の功徳に感謝し、馬場に隣接して祠(ほこら)を設け、懇(ねんご)ろにおまつりして「隠岐(おき)のあごなし地蔵」と呼んだ。なぜ「隠岐」とつけたかは明らかではない。2023-12-03
2社中学校社中学校昭和57年(1982年)4月に下諏訪中学校から分かれて開校した下諏訪社中学校。眼下に諏訪湖を望み、遥かに南アルプスと霊峰富士を望める望湖台に建つ。 「絆」を建学の精神とし、学校教育目標「強く、賢く、頼もしく」(平成23年度改定) を掲げている。2022-03-19
3犬射馬場跡標石犬射馬場跡標石犬射馬場四至ノ標石の内、北東と東南隅の写真。山王台の下に郷殿という諏訪明神大祝の屋敷(下諏訪中学校あたり)があり、この屋敷の西続き下の段を馬場(ばっぱ)といい、犬射馬場があった。鎌倉時代の武士たちは、日ごろから笠懸・流鏑馬・犬追物などの鍛錬に励んでいた。この馬場では主に犬追物を行い、またその事にまつわる祭場でもあった。江戸時代になりそれらが廃ると馬場には人家ができるなどしたため、享保18(1733)年、さらに明和6(1769)年に神社・氏子立ち合いで検地確認したという。これはその時の標石である。2022-03-19
4冠水した線路冠水した線路平成18(2006)年7月19日未明の豪雨災害。 大和電機工業㈱前のJR線路内が冠水。 承知川のはんらんで国道20号線を超えた水が一気にJRの線路へ流れ込み、数百メートル離れたイングスシナノ付近から側道に流れ出た。このためポイントが故障し、下諏訪中学校下の甲州第三踏切は遮断機が下がったままの状態になった。2020-09-09
5阿木翁助氏阿木翁助氏昭和6(1931)年に旧制諏訪中学を卒業(同期生に新田次郎氏)、上京し新聞配りをしながら築地小劇場研究所に学び、小林多喜二労農葬の名目上の実行委員長を務めた歴史の証人でもある。ムーランルージュや新生新派などの大衆演劇で活躍。戦後は菊田一夫氏とともに連続ラジオドラマの脚本家としても鳴らした。当時は日本放送作家協会理事の現職にあった。阿木氏はこの日から二ヶ月後の8月25日、癌研究附属病院で年肺がん切除の手術を受けた。平成14(2002)年に没。なお昭和52(1977)年に紫綬褒章受賞。本名は安達鉄翁。下諏訪生まれ。写真の阿木氏は何歳ごろのものか不明。2021-11-13
6下諏訪町東国民学校下諏訪町東国民学校校門の右の石柱に「下諏訪町東国民學校」、左の石柱に「下諏訪青年學校」「下諏訪實科高等學校」とある。 東国民學校はそれまでの下諏訪尋常高等小學校から昭和16(1941)年に名称変更されている。下諏訪青年學校は昭和10(1935)年に下諏訪實業補習學校と青年訓練所が統合して設立している。下諏訪實科高等學校は大正15(1926)年に通年性補習學校から改称されている。写真は昭和16(1941)年に東国民學校となったときに門柱の名札が付け替えられたとき撮影されたものと推察する。2023-02-26
7街並み街並み旧甲州街道(甲州道中)、下諏訪中学校近くの建物、建物横に見える長い棒ははざかけ棒と思われるが、土壁とともに懐かしさを感じさせる。2020-03-06
8街並み街並み旧甲州街道(甲州道中)。上久保(下諏訪中学校)付近の街並み。このカーブの先右には土田墓地がある。2020-03-06
9野球大会出場前日野球大会出場前日諏訪中学校野球部主催の郡下の野球大会が毎年春秋二季行われ、小学生ばかりではなく父兄も町村の人々もその勝敗に熱中した。諏訪中の校庭に集まるのは全郡下のほとんどの小学校で学校の規模の大小を問わず各1チームを編成して参加した。長い伝統に輝く大会だった。岡谷や川岸の小学校もみな歩いて行った。下諏訪からも往復三里も遠しとせずに応援に出かけたという。2020-03-06
10諏訪湖のスケート風景諏訪湖のスケート風景諏訪湖のスケート 諏訪中(旧制)の生徒か? 古田明氏寄贈2020-03-06
11記念写真記念写真下諏訪学校。2020-03-06
12英語授業風景英語授業風景下中の外人講師による英語授業。下諏訪町では昭和59(1984)年度から外国人講師を雇っている。平成元(1989)年度予算は460万円。講師はカリフォルニア大学学院生(28歳)日本史専攻・柔道初段。写真は中学二年の授業風景。2020-03-06
13むらの語り部むらの語り部写真は「村の歳時記(全4巻)」著者。「ワープロで本の原稿を進める85歳」今井久雄氏。「村の歳時記」は明治・大正・昭和の下諏訪町の民族・歴史について書かれている。今井久雄氏は明治37年富部に生まれ、旧制諏訪中学校を中退した後、自宅の養蚕業に従事した。その後、下諏訪町青年会長、教育委員長、公民館長などを歴任した。2020-03-06
14阿木翁助氏阿木翁助氏帰郷し、なじみのスナック(スナック天国)でくつろぐ劇作家の阿木翁助さん(当時77歳)。昭和6(1931)年に旧制諏訪中学を卒業(同期生に新田次郎氏)、上京し新聞配りをしながら築地小劇場研究所に学び、小林多喜二労農葬の名目上の実行委員長を務めた歴史の証人でもある。ムーランルージュや新生新派などの大衆演劇で活躍。戦後は菊田一夫氏とともに連続ラジオドラマの脚本家としても鳴らした。当時は日本放送作家協会理事の現職にあった。阿木氏はこの日から二ヶ月後の8月25日、癌研究附属病院で年肺がん切除の手術を受けた。平成14(2002)年に没。なお昭和52(1977)年に紫綬褒章受賞。本名は安達鉄翁。下諏訪生まれ。2020-03-06
15諏訪実高下諏訪分校閉校式諏訪実高下諏訪分校閉校式諏訪実高下諏訪分校閉校式の日の校舎と記念碑。分校の跡地は現在下諏訪中学校の屋根付きプールとなっている。2020-03-06
16授業風景授業風景下諏訪中学校3年生の国語の授業。小口崇博先生の授業風景。2020-03-06
17下諏訪中学校下諏訪中学校下諏訪中学校の職員室。この日は参観日で、職員室の予定黒板には、午前は自由参観、午後は学年学級懇談会の予定が書かれている。2020-03-06
18犬射馬場、上馬場の標石。犬射馬場、上馬場の標石。諏訪大社の神官は上代末から中世までは武士であった。そのため練武の場を設けて武技を練り、神事にも取り入れられていた。犬射馬場は神殿の西続きにあり、現在も上馬場(かみばっぱ)の名を残している。享保18(1733)年検地をし、四隅に標石(武居入りから出土している「六方石」が使われている)が立てられた。東西約152m南北約73m周囲約450m。(下諏訪町の文化財には455m、下諏訪町の歴史には488mなどの記述も見える) 「下諏訪町の文化財」には、東北隅の標石は「享保十八癸巳年三月改、明和六己巳八月廿五日御宮奉行氏子方立会改候所、享保年中検地之節(境)目石書付。当社馬場依是南江。依是西江。」 北西隅の標石は「享保十八癸巳年三月改、従是東江八十三間二尺。当社之馬場従是南江四拾間二尺。」 東南隅の標石は「当社之馬場従是北江三2020-03-06
19諏訪実業高校下諏訪分校最後の授業諏訪実業高校下諏訪分校最後の授業終戦後昭和23(1948)年それまでの青年学校並びに実科高等女学校が廃され諏訪実業高校下諏訪分校が下諏訪中学校に併設された。それから約40年後、生徒が3人だけになってしまい、昭和63(1988)年度を持って閉校と決まった。この日は3月4日の卒業式を前に生徒3人が午後5時半最後の授業の席に着いた。下諏訪分校(夜間)最後の授業。2020-03-06
20諏訪実下諏訪分校諏訪実下諏訪分校昭和23(1948)年3月31日、それまでの青年学校並びに実科高等女学校が廃され、全日制の下諏訪実業高等学校の設置が認可され、下諏訪中学校に併設された。次いで昭和24(1949)年4月1日、諏訪実業高校に統合され下諏訪分校となった。 №627参照。2020-03-06
21下諏訪尋常小学校下諏訪尋常小学校明治41(1908)年11月3日日露役前からの懸案であった建築の増築校舎が落成。下諏訪尋常小学校、後に下諏訪中学校として使用される。2020-03-06
22下諏訪学校野球大会優勝下諏訪学校野球大会優勝明治41(1908)年秋、諏訪中学主催野球大会に下諏訪学校が優勝。なおうしろにかざられた優勝旗には明治40(1907)年春も下諏訪学校の名が刻まれている。2020-03-06
23諏訪実高校下諏訪分校諏訪実高校下諏訪分校諏訪実業高校下諏訪分校。(現在は下諏訪中学校プールになっている) 昭和23(1948)年3月31日全日制の下諏訪実業高等学校が認可となり青年学校並びに実家高等女学校が廃された。しかし学校建設は実現に至らず、下諏訪中学校に併設された。次いで昭和24(1949)年4月1日には諏訪実業高等学校に統合され下諏訪分校となった。教科課程は普通科・被服科を置き、定時制の四年制であった。 №642参照。2020-03-06
24陸軍航空隊航空写真陸軍航空隊航空写真大正6(1917)年2月16日、陸軍航空隊モーリス・ファルマン機上から撮影した下諏訪町の中心部。寒中の山岳飛行並びに氷上試験飛行のため来諏の際の撮影。中央の建物は当時の下諏訪学校(友の町字神殿)で現在の下諏訪中学校の前身。周辺には秋宮の森・製糸工場・中央東線・国道20号線などが見える。2020-03-06
25第一保育園第一保育園久保(現下諏訪中学校庭南)に大正15(1926)年1月19日下諏訪保育園を設立。この保育園は県下保育施設の草分けだった。大正時代に入ると町の国用製糸は一層盛んになり大正14(1925)年には62工場、就業者数1240人に達した。その工女の半数が既婚で共働きが多かった。乳幼児を抱えた就業は大きな課題となっていた。大正14(1925)年6月に友之町にテスト会所した託児所を保育園として開設したものである。2020-03-06
26下諏訪遠景下諏訪遠景諏訪湖遠景。写真手前の左側の建物は片倉製糸、右側が入一製糸、左端の樹木は秋宮の森、その隣が現下諏訪中学校。2020-03-06
27下諏訪中学校庭下諏訪中学校庭下諏訪中学校グラウンド(バックネット前)。2020-03-06
28野球チーム記念写真野球チーム記念写真野球チームの記念写真。写真に「早大招待野球、大正14.8.21」と書かれている。前列2列目には「WASEDA」の文字が並ぶ。大正14(1925)年4月に富部西豊の岩波春海氏(早稲田出身)の労によって早稲田を招いて親善試合を行った。結果は14対2、大学レベルの強さをまざまざと見せつけられ大差で敗れた。2020-03-06
29奉安殿奉安殿下諏訪小学校(現中学)運動場の南端に奉安殿施工する。生徒たちは登校の際、最敬礼をして通過した。昭和21(1946)年1月御真影を地方事務所に奉環し奉安殿も姿を消した。2020-03-06
30諏訪中入学の記念写真諏訪中入学の記念写真下諏訪からの通学者の入学後の記念写真。 1年生が後ろで5年生が前、現在では考えられない。 下諏訪黎明会という会を作っていた。 後ろの秋宮幣拝殿の前に釣り灯篭があるが、その後行方不明になっている。 前列の生徒の足元を見ると約半数は下駄をはいている。2020-03-06
31花見新道から見た下諏訪花見新道から見た下諏訪花見新道の桜の向こうに手前から ※丸六製糸(現ムトウ工業)、 入一組製糸所、その向うに旧役場、下諏訪尋常高等小学校(高等小学校、実科女学校、現下諏訪中学校)、南校(現下諏訪南小学校)が見える。 手前には諏訪地方特有の石置き屋根の民家も見える。2020-03-06
32図書館利用者の集合写真図書館利用者の集合写真戦前の下諏訪町青年会図書館。 昭和3(1928)年に下諏訪青年会が山王台に建てた、昭和11(1936)年4月、片倉公園造成のため山王台から下中のバックネットの裏に移設された。2020-03-06
33下諏訪町消防団第3分団下諏訪町消防団第3分団下諏訪中学校講堂前で下諏訪第3分団記念の写真。2020-03-06
34裏参道開通記念裏参道開通記念昭和15(1940)年12月29日不況対策事業で裏参道開削がほぼ完成し通行できるようになった。 さらに同18(1943)年8月10日、字三王・久保・臺の公園敷地が川岸村長より寄附があり、同19(1944)年7月秋宮裏参道が竣工した。その際の記念写真、町長初め町理事者、地域関係者が写る。現在の「ヤマモト」の横付近で撮影、坂の中ほどに現下諏訪中学校、奥に諏訪大社下社秋宮の森が見える。2020-03-06
35戦前の下諏訪小学校(現下諏訪中学校と南小学校)戦前の下諏訪小学校(現下諏訪中学校と南小学校)写真上は明治41(1908)年建築の下諏訪尋常高等小学校(現下諏訪中学校の校舎)。第二次大戦中は東国民学校と改称され、青年学校・実科高等女学校を併設していた。写真下は大正12(1923)年に四王に作られた南校(戦争中南国民学校現南小学校)の敷地に、昭和6(1931)年に不況対策事業として建設された小学校講堂である。ともに卒業アルバムの写真で、写真下の講堂の規模は県下有数であった。2020-03-06
36中学校横の土砂崩れ中学校横の土砂崩れ昭和40(1965)年5月下諏訪中学校第2体育館横災害記録写真。 下諏訪中学校第二体育館横の土砂崩れの様子。2020-03-06
地図で見る

キーワード

ログイン トップページへ