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登録リスト(該当:17件)

写真タイトル説明登録日
1マツムシソウ解体図マツムシソウ解体図マツムシソウ(マツムシソウ科)松虫草 蕾~開花~果実  霧ヶ峰観察記録 2013.8.22 ※マツムシソウは周りの舌状花から開き、その内側の筒状花から、そして中心部分からも順次開花する。舌状花は上唇は小さく2裂、下唇は大きく3裂。筒状花も雄しべ4本 ※名前の由来は巡礼が家々を回り、鐘をたたいてお布施を乞うた。その鐘を昔から松虫と呼んで、果実の形が似ていることから。 もう1説は、マツムシが鳴く頃咲くので。 ※2年草で、当年の花の咲くものを移植しても、もう花は咲かない。2021-11-11
2八島レンゲツツジ八島レンゲツツジ多くのファンのいる霧ヶ峰のレンゲツツジ。八島周辺でも鹿食害に会わず健在。2021-10-15
3御射山神社御射山神社中世における諏訪明神最大の祭りは、8月27日を中心とした御射山祭だった。霧ヶ峰の一角、八島高原の東に続く旧御射山で祭事が行われ、信濃・回の武士は言うに及ばず、鎌倉幕府はじめ各地の武将たちが集まり神事の後武技を競い合った。旧御射山社前にその競技場跡があり、土段の桟敷席が残っている。しかし社が遠距離の所にあり道も険しく不便と慶長(1596~1615)の頃、秋宮から4キロの武居入りに遷座したのが現在の御射山社(写真)である。御射山祭は今、幼児が洲小山に育つことを祈る祭りとなり、8月26・27日の例祭には2歳の幼児とともに参拝するのがこの地の習わしになっている。 写真下は同じ境内にある大元尊社である。2021-12-26
4ホザキシモツケホザキシモツケ隔離分布し、霧ヶ峰がその南限で、これはバラ科木本で、穂状の花を付ける。2020-09-09
5レンゲツツジレンゲツツジ霧ヶ峰の6月の花とといえばレンゲツツジ。 鹿食害はなく人気の花健在。2020-09-09
6ニッコウキスゲニッコウキスゲ一枚目は、八島高原のニッコウキスゲ。写真左は八島高原入り口の駐車場。 八島高原のニッコウキスゲ。 二枚目の写真左に「八島池」が見える。 初夏、シュレーゲルアオガエルの鳴き声は「日本の音百選」に選ばれ、高原を訪れる観光客を楽しませている。2022-01-18
7旧御射山旧御射山山上の聖地、旧御射山(もとみさやま)社、諏訪大社下社の奥宮の例祭、旧暦7月26日から29日にかけてこの山上に人里ができるほどの賑わいを見せたと和歌に残されている。「尾花ふく 穂屋のめぐりの一村は しばし里あり 秋の御射山」 金刺盛久の歌。旧御射山社例祭の様子。 №1087・1083・1086の写真は8月27日に諏訪大社下社の一連の行事として行われる。また、旧暦7月27日の正午に、月・日・星の三光(さんこう)を同時に拝することができたといわれ、一説では御射山山中の湿原の池に三光を映したともいわれている。この不思議な現象は諏訪神社下社の七不思議に数えられている。御射山祭は、大勢の人々が参籠(さんろう)する仮屋が穂の出た薄(すすき)で作られたことから、穂屋祭ともいわれ「穂屋野の三光」ともいわれている。2020-03-06
8旧御射山旧御射山奥霧ケ峰、八島ヶ原湿原近くにある旧御射山社、鎌倉時代には高原で御射山神事のニエを得るための御狩が行われ、社前で小笠懸け、草鹿とよぶ弓術の技が競われた。祭りに参加した武士たちが、穂屋を建てて籠もった土壇が三方の丘に残っている。平成元年現在の旧(もと)御射山の土壇の様子。2020-03-06
9斧立(よきたて)社斧立(よきたて)社斧立(よきたて)社は萩倉の奥にあり、御柱祭りの際に御神木伐採の刃物の修跋式(しゅうばつしき)を行う社。東俣の浄水場の道向かいの山脇に置かれている。この日は斧立社例祭。斧立とは・・樹木を伐採する前に山の神(大山祇神)を祀る行事。 ちなみにこの日は奥霧ヶ峰・八島ヶ原湿原にある「旧御射山社」で関係者による例祭が行われる。 №1087・1083・1086の写真は8月27日に諏訪大社下社の一連の行事として行われる。2020-03-06
10八島ヶ原高層湿八島ヶ原高層湿秋風わたる八島ヶ原高層湿原(国の天然記念物)。わが国の代表的な楯状火山霧ケ峰の台地上に展開する三つの高層湿原のうち、最も規模が大きい。ミズゴケなどが堆積して凸レンズ状に盛り上がった湿原で、泥炭層の厚さは8.05メートルに達し、我が国の代表的高層湿原とされている。日本列島の高層湿原では南限にあたる存在でもある。標高1.600メートル、お盆を過ぎれば高原はもう秋である。写真の池は八島ヶ原湿原入り口にある「八島池」である。2020-03-06
11奉射会の矢渡し奉射会の矢渡し8月26日からの御射山社祭を前に町弓道場で行われた御射山奉射会の矢渡し。63歳の弓士(5段)が小笠原流の礼法を見せた。御射山社祭は諏訪大社の最も大事な祭りの一つ。鎌倉時代には奥霧ケ峰で行われたこの祭りに集まってきた諸国の武家が、祭りの余興に小笠懸、草鹿(くさじし)などの弓術を演じ、優れた射手にはすすきの穂を添えた征矢が与えられたという故実から、この奉射会がはじめられた。奉納会はこの年67回目を数えた。2020-03-06
12砥川の風景砥川の風景立秋、霧ケ峰から諏訪湖へ流れる砥川で「カジカ」を追う子どもたち。砥川の清流と呼ばれてきたが、近頃はだいぶ汚れてきて、「カジカ」はほとんどとれない。河岸の草の穂に秋を感じさせる風景。2020-03-06
13ニッコウキスゲの群生ニッコウキスゲの群生夕暮れ迫る奥霧ケ峰のニッコウキスゲの花。観光の過剰利用で草原が衰え、かつてのような密度濃い花の群生は見られなくなった。「霧ケ峰は滅びるだろう」とこの高原の麓で育った故新田二郎は小説「霧の子孫たち」の中でもらしている。2021-04-04
14レンゲツツジの花レンゲツツジの花霧のはう奥霧ケ峰の草原に朱の色を散らすレンゲツツジの花。霧ケ峰は昭和30年代頃まで麓の農村の採草地だったため大草原が保たれてきたのだが、野焼きや、草刈が行われなくなって、最近は森林化が進み始めている。2020-03-06
15旧御射山(もとみさやま)遺跡調査旧御射山(もとみさやま)遺跡調査諏訪史第一巻編纂あたり旧御射山遺跡の調)査をする(写真に「本郡先史時代最高遺跡地(舊御射山)一行」と記載。写真中央に腕組みしているのが鳥居龍蔵と思われる。調査員一行は大正9(1920)年、霧ヶ峰山塊北西部に位置する星ヶ塔周辺が黒曜石原産地遺跡と明らかにしている。 鳥居龍蔵一行、左から萩倉の人、浜孝吉、鵜飼貞直、鳥居龍蔵、牛山伝蔵、八幡一郎、鳥居の後ろに立つのは今井真樹、その隣は萩倉の人。2020-03-06
16池のくるみ池のくるみスキーのジャンプ台、オリンピックの開催を夢見ていた。スキー板を持った人が見える。2020-03-06
17秋宮周辺航空写真秋宮周辺航空写真勝山写真館(上諏訪)が赤砂飛行場を離陸撮影した航空写真。秋宮周辺の宿場町の町並みが残っている。左下に旧町役場庁舎、左端の中あたりに中部電力前身の信州電気、その前の立町通突き当りには二階建ての綿の湯、その周りには改築前の旅館、鳥居前は当時の街道の風情が色濃く残り千尋館なども見られる。 勝山写真館では霧ケ峰強清水のスキー場の写真などを空から撮影していた。2020-03-06
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