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写真タイトル説明登録日
1三協精機野球部三協精機野球部三協精機の野球チームは昭和36(1961)年から昭和50(1975)年まで都合9回「都市対抗野球」に信越代表で出場している。特に昭和46(1971)年の時は準決勝まで進出し、ベスト4に入っている。また、昭和49(1974)年の第一回全日本社会人野球選手権大会では優勝し、ダイヤモンド気を手中にしている。この時三協のエース大塚は9回2アウトまでノーヒットノーランを記録していた。惜しくも9回2アウトからヒットを許し大記録はならなかったが4-0の快勝であった。監督は光沢監督であった。写真は場所、年月も不明だが、応援の様子から後楽園球場の都市対抗の一場面と推察する。2022-02-24
2町営総合運動場町営総合運動場町の総合運動場。2020-03-06
3町民体操栽町民体操栽第29回町民体操祭、校歌のダンスを披露する小学生。新聞社後援の体操祭、この辺りではこの町だけが根気よく続けている。2020-03-06
4テニスコートテニスコート町営球場テニスコート。昭和20年代には野球場側のみであったが、道路側にあった屋外バレーコートが室内になり、テニスコートが拡大された。2020-03-06
5下諏訪球場下諏訪球場町営球場。バックネット後方に諏訪ガスのガスタンク(現在は無い)が見える。2020-03-06
6下諏訪町営総合運動場下諏訪町営総合運動場町営球場。下諏訪町は昭和24(1949)年、旧鐘紡敷地(中央車両株式会社所有)を買収し、公園並びに総合運動場敷地として計画。野球場は同年8月竣工した。ちなみに陸上競技場は昭和35(1960)年に完成している。2020-03-06
7町民体操祭町民体操祭町民体操祭の模様。2020-03-06
8町民体操祭町民体操祭町民体操祭の模様。2020-03-06
9町民体操祭町民体操祭町民体操祭の模様。「町民体操祭」は昭和33(1958)~平成2(1990)年の間行われた。2020-03-06
10町民体操祭町民体操祭町民体操祭で模範演技をする諏訪二葉高校体操部、同体操部は県下でも上位高であった。 「社会教育しもすわ」の記事の中で昭和33(1958)年「五千町民の躍動。 日本体操祭下諏訪大会は、5000人の競技者・演技者と3000人の観衆を集め、午前9時から町営球場で盛大に開催、美と力の祭典の歴史が始まった。」と書かれている。2020-03-06
11町民体操祭町民体操祭町民体操祭で模範演技をする諏訪二葉高校体操部、同体操部は県下でも上位高であった。 「社会教育しもすわ」の記事の中で昭和33(1958)年「五千町民の躍動。 日本体操祭下諏訪大会は、5000人の競技者・演技者と3000人の観衆を集め、午前9時から町営球場で盛大に開催、美と力の祭典の歴史が始まった。」と書かれている。2020-03-06
12町民体操祭町民体操祭町民体操祭で模範演技をする諏訪二葉高校体操部、同体操部は県下でも上位高であった。 「社会教育しもすわ」の記事の中で昭和33(1958)年「五千町民の躍動。日本体操祭下諏訪大会は、5000人の競技者・演技者と3000人の観衆を集め、午前9時から町営球場で盛大に開催、美と力の祭典の歴史が始まった。」と書かれている。2020-03-06
13陸上競技場陸上競技場陸上競技場は昭和36(1961)年11月に野球場南側に隣接してつくられたもので完成前の陸上競技場、まだアンツーカーなどの整備はされていない。2020-03-06
14総合運動場総合運動場ガスタンクの上から撮影した総合運動場全景。 球場では大会が開催されていて、多くの観客が観戦している。 当時庭球コートは6面、バレーボールコートは3面がとれたという。 陸上競技場はまだできていない。 2枚組み写真。 町営総合運動場の完成は昭和24(1949)年8月。 陸上競技場完成は昭和36(1961)年11月5日である。 ちなみにこの敷地は中央車輌株式会社所有地(旧鐘紡敷地)の整理にあたって町が買収したものである。2020-03-06
15実業団野球選手行進実業団野球選手行進実業団野球大会が鷹野町野球場で行われた。 そのときの選手団が諏訪大社下社秋宮に参拝し、その後消防団ラッパ隊の先導で球場まで行進した。2020-03-06
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