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登録リスト(該当:57件)

写真タイトル説明登録日
1中央デパート中央デパート国道20号線大社通り交差点(四ツ角交差点)にある衣料品店「中央デパート」は長年にわたり下諏訪町民に親しまれてきたが、令和6(2024)年3月74年の歴史に幕を下ろした。写真は開店前の店先、入口の看板。 以前は手前茶色い建物は菓子店、白い建物は文房具店、人形店、中央デパートと店が並んでいた。2024-03-26
2えびす講売り出しえびす講売り出し御田劇場内で開かれたゑびす講大売り出し。 まつや呉服店による売り出し風景。 反物や洋傘、ブラウスなどが所狭しとと並べられている。御田劇場があった跡地には、諏訪信用金庫御田町支店の建物が建っている。2023-01-24
3博愛館博愛館自由民権運動・青年会の活動が活発になった明治の時代、活動の拠点となる場所を求めるこえが強くなり、他の地区でも新しい集会所が次々に建てられた。神風社(青年会)の建議を受け明治40(1907)年5月に落成した。総工費1343円、全額区民95戸の寄付金で賄われた。 現在建物はなく駐車場になっている。2021-12-23
4本陣跡本陣跡下諏訪宿本陣遺構。本陣は最初小口氏が務めたが、のち岩波氏に代わった。文久元(1861)年の図面では、建屋280坪、建物並びに庭545坪、畳数232畳、総坪825坪と記されている。現在の本陣遺構とホテル聴泉閣かめやを合わせた敷地にあたる。 本陣の業務は大名・幕府役人の宿泊であるが、運営の費用は問屋業の収益でまかなわれた。2022-03-19
5今井邦子記念館今井邦子記念館「松屋」は中山道の宿場内にあって、間口が狭く奥行きの長い典型的な宿場の建物であったが、当時の面影を可能な限り再現して建て替えられ、現在は「今井邦子文学館」として開放されている。今井邦子は少女時代に下諏訪町に住み、島木赤彦との巡り合いにより短歌の新境地を開き、「明日香」を創始して歌人の道を歩んだ。館内には今井邦子や「明日香」の資料が展示されている。また、旧中山道を散策する人々が一服できる場所ともなっている。2022-03-19
6橋本政屋橋本政屋甲州道中の下諏訪宿と上諏訪宿の間の茶屋として栄えた。表は千本格子で、二階は出梁作りとなっている。諏訪湖を一望でき江戸時代の面影が残る建物。こて絵の力蔵(りきぐら)、高島城より拝領のおひねりの松・石燈など見どころも多い。2021-06-10
7下諏訪町立博物館下諏訪町立博物館昭和26(1951)年12月3日下諏訪町に文化財保存会が出来翌27(1952)年秋宮神饌(しんせん)を借用して神社共有の博物館がた開館した。建物は「諏訪大社宝物陳列場」に併設されていた。 昭和46(1971)年4月1日、高浜湾岸に鉄筋コンクリート二階建ての博物館が出来た。 平成5(1993)年6月、「諏訪湖博物館・赤彦記念館」として湖岸通りの西高木にオープンした。2024-03-20
8旧和田峠トンネル工事関係の建物旧和田峠トンネル工事関係の建物旧和田峠トンネル工事関係のいろいろな建物。2022-03-10
9東明館・地鎮祭東明館・地鎮祭中村勝五郎文書に「明治三十三年十二月二十六日湯田町集会所建る」とある。この集会所(東明館)は明治40(1907)年の来迎寺の火事の後間もなく焼失したので、大正4(1915)年に現在地(新町上)に再建された。 1772から1777までは東明館建て替え工事の一連の写真。この写真はこの大正4年に建てられた建物の建て替え工事のための地鎮祭の様子。なおこの工事がいつ行われたかは調査中。2022-01-12
10東明館の解体作業東明館の解体作業中村勝五郎文書に「明治三十三年十二月二十六日湯田町集会所建る」とある。この集会所(東明館)は明治40(1907)年の来迎寺の火事の後間もなく焼失したので、大正4(1915)年に現在地(新町上)に再建された。写真はこの時建設された建物を建て替える際の解体工事写真と思われる。解体前の東明館は1772から1777参照。 なお、この工事がいつ行われたかはまだ未確認。調査中。2022-01-12
11長持ちと笠踊り長持ちと笠踊り四王若連の長持ちと花笠踊りの様子。 場所は西鷹野町にあった公民館前(元下諏訪町役場) この建物は昭和23年3月~昭和45年1月(新庁舎着工)頃、公民館として使われていた。2022-06-08
12旧中部電力旧中部電力立町の中部電力㈱下諏訪営業所を、リノベーションをし、現在は「しもすわ今昔館おいでや」(旧諏訪湖時の科学館儀象堂)になっている。工事作業中の写真。この建物の角に「諏訪電気発祥の地」の碑がたてられている。 1枚目の写真はみなと屋側から撮影。奴の看板が見える。2020-03-06
13湯田坂湯田坂国道142号辺りから見下ろした湯田坂。 左の大きな建物は旧旅館喜楽。 旧中山道の風情が残る街並み。2020-03-06
14街並み街並み旧甲州街道(甲州道中)、下諏訪中学校近くの建物、建物横に見える長い棒ははざかけ棒と思われるが、土壁とともに懐かしさを感じさせる。2020-03-06
15八幡坂の街並み八幡坂の街並み写真右に見えるのは専女(とうめ)社のけやき。工事を行っている場所は、現在は土産物屋(専女八幡)になっている。奥の茶色の建物は今は亡き「ホテル山王閣」。№1519,1520参照。2020-03-06
16商店商店旧甲州街道沿いにあった「青柳商店」の改築工事風景。現在は住宅となっている。後ろに見える建物は今はない「ホテル山王閣」。2020-03-06
17売り工場売り工場昔の岡谷。売り工場「売り(貸)工場、土地9.938坪・建物4.196坪、お問い合わせの方は当事務所までお出で下い」と書かれた看板。壁の向こうは、満開の桜。2020-03-06
18小料理屋小料理屋 御田町にあった料理や「や寿た」(やすだの表記)の建物。昭和24年の町勢要覧(ほがらかお料理やすだの広告)。1970年の商工名鑑飲食店にも店の名が載っている。 場所は衣文坂ジュミー美容室隣、道路を挟んだ御田町寄りにあった。2020-03-06
19牛山家住宅牛山家住宅玄関左手に出っ張りの馬屋のある旧豪農の曲がり屋の牛山氏宅。かつては村きっての大百姓で名主も務めた家。江戸末・文政期間(推定)の建物で昔は茅葺だった。馬屋を抱え込んだ曲り屋は諏訪地方では珍しい。玄関右手はお役人を迎えるための「お座敷」と呼ぶ12畳間・8畳間。2020-03-06
20横町の新築住宅横町の新築住宅旧宿場町、横町の新築住宅。旅館の建物を取り壊した跡地に、宿場の雰囲気を残した鉄骨造三階建て住宅が新築された。2020-03-06
21湖国新聞の印刷湖国新聞の印刷湖国新聞の印刷風景。昭和60(1985)年から写植機を導入、印刷は平台の凸版刷りのタブロイド判4pの日刊紙を発行。昭和32(1957)年創刊。前身の雑誌は「湖国新報」は大正13(1924)年創刊された。大正、昭和にかけて多くの郷土誌紙が発行された。現在新聞は休刊、この建物もなくなり一般住宅となっている。№1102参照。2020-03-06
22小路の風景小路の風景路地にひっそり、旧下諏訪遊郭の建物。遊郭時代「新塚田」と呼ばれる妓楼だったという。昭和になりアパートに移築された。2020-03-06
23平成最初の参院選ポスター平成最初の参院選ポスター参院選ポスター。町内100か所に設けられた公営ポスター掲示所の一つ。後ろに見える建物は三協精機社宅。 この年の選挙は、消費税導入の税制改革を中心に、リクルート事件にからむ政治倫理問題、農産物の輸入自由化問題などが争点となって与党自民党が苦戦、与野党逆転が話題となった選挙であった。2020-03-06
24湯田坂湯田坂湯田坂、右手のオレンジの建物が旦過の湯。続いて鉄鉱泉の看板、道路北側の電柱が見える。その後環境美化がすすみ現在片側(北側)の電柱はなくなっている。2020-03-06
25公園で遊ぶ親子公園で遊ぶ親子あすなろ公園で遊ぶ母子。後ろの建物の窓は旧下諏訪町立図書館。2020-03-06
26ユーペンハウスユーペンハウス国際ペンションのロビーでくつろぐ若い人たち。大喪の礼の日からの三連休を利用した、スキーツアーの若者たちでにぎわった。いずれも和田峠越えで、新設の鷹山スキー場(小県郡長門町)へ行ってきたと話していた。湖を見下ろす丘に建つこのペンションの建物は北欧に留学した設計家が設計した。2020-03-06
27山王閣屋上からの眺望山王閣屋上からの眺望白鳥がシベリアへ去った日の諏訪湖と湖の町、諏訪大社秋宮外苑の旧山ホテル王閣屋上からの町並み。現在建物はなく駐車場になっている。2020-03-06
28小路の風景小路の風景路地裏にひっそりとたたずむ旧下諏訪遊郭の建物。 遊郭時代「新塚田」とよばれる妓楼だったという。昭和になりアパートに移築された。  2020-03-06
29山王閣屋上からの眺望山王閣屋上からの眺望白鳥がシベリアへ去った日の諏訪湖と湖の町、諏訪大社秋宮外苑の旧「ホテル山王閣」屋上からの町並み。現在建物はなくなり駐車場になっている。2020-03-06
30旧西友旧西友旧西友店頭風景。現在は大門通り(諏訪倉庫跡地)へ移転したがこの時は、中央通りの建物の中にあった「西友」の店舗。2020-03-06
31承知川の旧発電所承知川の旧発電所承知川の旧発電所。小口製糸所。この発電所(出力60キロ)は製糸工場の私設発電所の建物。大正17(1918)年岡谷から下諏訪駅前へ進出した山十組山八製糸工場が承知川水源へ設け。水利権をめぐり農業者と紛争が起きたという話も伝えられている。 1枚目の写真は表からの撮影。2020-03-06
32出初式出初式1月8日挙行予定だった消防団出初式。この年は昭和天皇の崩御で延期され1月29日(日)に行われた。左の建物が文化センター、正面が体育館。2020-03-06
33東餅屋東餅屋和田峠を越える古峠道(江戸時和田峠は餅屋峠とも呼ばれていた)慶応五年の記録では中山道で樋橋上のほうろくから山かげを通ると東餅屋があった。東餅屋は五軒の茶屋があった。現在、茶屋跡には一軒のドライブイン意外建物はなく石垣によって区分された屋敷跡にはカラマツが植えられている。2020-03-06
34下諏訪宿風景下諏訪宿風景明治22(1989)年(推定)当時は、この横町・木の下・湯田町が下諏訪宿の中心街であった。写真左手前の旅籠屋が菊本(元桧物屋)で、甲州街道の終点で甲州道中と中山道合流地であった。高い火の見櫓(ヤグラ)のむこうに秋宮の森が見える。右側には桔梗屋の看板が見えている。中山道は桔梗屋前で右・立町に折れて塩尻峠に向かっている。この写真は外国人の写したもので早稲田大学図書館に所蔵されていたものを青木枝朗氏が複写したものである。 建物は宿場らしさが残っているが、軒に街灯・軒灯が見えている風景が時代の変化を思わせている。2020-03-06
35蕉鹿庵前の酒宴蕉鹿庵前の酒宴写真は大正15(1926)年10月31日撮影、水月会が蕉鹿庵の前で観楓会を開いた時のもの。写真裏に右から中村春吉、中村尚(其梅)、吉沢兼之助(晩雪)河西庄三郎、中村卯一郎(如佛)、中村橲一、中村茂重(柳月)、浜平三郎(木章)、林巻平(渓月)中村牧五郎(梅屋)と名前が記録されている。 大正4(1915)年天龍道人壱百年忌記念事業にあたって慈雲寺庭前に天龍道人の詩碑を建て、遺墨展を開いた。この時、水月園の正岡子規碑左手にの観月堂のある平の一角に蕉鹿庵を茶室として建設した。8坪ほどの茶室風の建物で、句会やお花見などに利用されたが、昭和25(1950)年の台風により倒壊し除去された。 ちなみに焦鹿というのは天龍道人が愛用した「焦鹿」という言葉に由来している。。2020-03-06
36金馬簾(きんばれん)披露式金馬簾(きんばれん)披露式写真後ろの建物は明治9(1876)年建築の下諏訪学校。第3回金馬簾(きんばれん)披露式が明治37(1904)年9月23日下諏訪学校校庭にて挙行されたときの記念撮影。下諏訪町消防組は公設消防としてその功績が認められ、明治35(1902)年10月23日金馬簾一条の使用を許された。馬簾とは纏(まとい)の飾りのこと。2020-03-06
37陸軍航空隊航空写真陸軍航空隊航空写真大正6(1917)年2月16日、陸軍航空隊のモーリス・ファルマン機上から撮影した下諏訪町の中心部。中央の建物が下諏訪学校、その上の森が諏訪大社秋宮、その左斜面前方に続く町並みが中山道で塩尻方面に向かっている。2020-03-06
38中部配電裏の建物中部配電裏の建物中部配電裏の建物。2020-03-06
39明新館明新館古くは行屋(お堂)があったところで、明治10(1877)年に学校建築の費用に充てるため御堂と土地を民間に売ったが、明治24(1891)年にお堂を取り壊して集会所を建て、「明新館」と名付けた。 下諏訪町最初の集会所。その後何回か改修を重ねてきたが老朽化により昭和41(1966)年現在の建物に改築されている。 写真は改築直前の昭和40(1965)年の明新館。 下原中村勝五郎の日記(日嘉恵雑書帳)に「明治24年200円にて明新館建てる」とある。玄関と平石屋根は明治32(1899)年の改修。行屋にあった十王像(町文化財)は現在同館に保存されている。2020-03-06
40昭和7年航空写真昭和7年航空写真中央の白い屋根が青年図書館。その向うの黒い建物が霞城館2020-03-06
41陸軍航空隊航空写真陸軍航空隊航空写真航空写真。写真の中心近くに下諏訪学校の三階の望楼が分かる。旧甲州道中、旧中山道、八幡坂などの様子や秋宮鳥居周辺の戦前の建物が密集している様子がよくわかる。2020-03-06
42陸軍航空隊航空写真陸軍航空隊航空写真大正6(1917)年2月16日、陸軍航空隊モーリス・ファルマン機上から撮影した下諏訪町の中心部。寒中の山岳飛行並びに氷上試験飛行のため来諏の際の撮影。中央の建物は当時の下諏訪学校(友の町字神殿)で現在の下諏訪中学校の前身。周辺には秋宮の森・製糸工場・中央東線・国道20号線などが見える。2020-03-06
43諏訪自動車初期のもの諏訪自動車初期のもの林嘉平氏所蔵の諏訪自動車初期の写真。建物入り口に「高濱瀧温泉」の看板がある。2020-03-06
44山王閣山王閣山王閣(久保海道方面からの撮影)左手の平屋の建物は諏訪湖が一望できる大浴場。武居源湯から引湯。2020-03-06
45土橋家土橋家明治22(1889)年5月2日。初代村長に、土橋實也が選出された。 土波止新田(赤砂)からの土橋家を撮影。この旧家も、昭和46(1971)年大改修され貴重な文化財であったが、昔の面影は見られない。写真は表側。 2枚目は建物の裏からの撮影。2020-03-06
46公民館公民館昭和23(1948)年4月29日、建物がない下諏訪公民館(館長宮坂実之助氏)として発足したが、昭和26(1951)年3月25日西鷹野町の中央車両株式会社の事務所を買収できて、下諏訪公民館として開館する(昭和27(1952)年7月21日開館)。後下諏訪町庁舎が建築され、公民館は大社通り旧庁舎へ移った。現在公民館は下諏訪町文化センター内に併設されている。2022-01-20
47芸者踊り芸者踊り三井屋の前、芸者の踊り。御柱祭に芸者集も大勢参加した。向かって左の建物から「本陣事務所」「つじや」「オオクマヤ」と並んでいた。芸者の多さにも驚くが群衆の中の子どもの多さにも驚かされる。2020-03-06
48下諏訪遠景下諏訪遠景諏訪湖遠景。写真手前の左側の建物は片倉製糸、右側が入一製糸、左端の樹木は秋宮の森、その隣が現下諏訪中学校。2020-03-06
49山王台を望む山王台を望む大正15(1926)年、久保海道付近、国道20号付近の承知川。写真左側の建物の奥は土田遺跡(土田墓地付近)。2020-03-06
50航空写真 秋宮周辺航空写真 秋宮周辺下社秋宮の森、今はない山王閣の建物が見える。画面左下には青塚が見えている。2020-03-06
51下諏訪全景下諏訪全景河西政常氏撮影。製糸工場の煙突の煙が見える。白い建物は ※丸六製糸(現在のムトー工業の位置)。2020-03-06
52下諏訪町遠望下諏訪町遠望富部の山の手から撮影。国鉄(現JR)との立体交差の始まった冬。立体交差は昭和32(1957)年5月20日開通式を行う。写真手前家並みは中山道。その上側に農耕地が広がり写真右に土田墓地、駅構内の線路、駅の手前にダイヤ豆腐の工場、画面左端には下諏訪小学校の講堂と思われる建物が見える。写真中央を中央線と国道20号線沿いの家並みが線状に見えている。遠く水田地帯、砥川、長地の集落と思われる風景が続く。2020-03-06
53カヤ屋根の葺き替えカヤ屋根の葺き替え茅ぶき屋根の家。大正末期までは区内に数十軒あったが生活様式の変化で昭和60年ごろには全てなくなった屋内で火を焚いて煤が茅につくので一代に一回葺き替えればよいとされたが大変な労力が入るので「ゆい」や「かや無尽」があった。2020-03-06
54商工会館落成記念写真商工会館落成記念写真駅前にあった商工会館落成記念写真。下諏訪町が活気のあった時代を支えていた人たちが多い。青年は落成記念に仮装行列を組み盛り上げた。建物は現在の日本電産サンキョーの入口の位置にあった。2020-03-06
55駅前通り舗装工事駅前通り舗装工事舗装工事中の駅前通り。 右側の洋風の建物はシロトリ写真館。突き当たりが下諏訪駅でその前には宮大工の手による前回の御柱用材を利用した鳥居が建てられていた。 作業中の人は、町の失業対策事業の人たちである。広瀬町の名前のとおり、地中には大きな川原石がゴロゴロしていた。 同写真館は、大正12(1923)年箕輪で創業、その後岡谷の丸山橋、下諏訪では昭和2(1927)年御田町で開業、その後現在の広瀬町に移った。2021-05-03
56ダイヤ豆腐周辺の航空写真ダイヤ豆腐周辺の航空写真当時景気が良かったダイヤ豆腐による航空写真。ダイヤ豆腐は線路横の煙突の立っている建物、現下諏訪南小学校前を通る田中線は砥川で止まっている。田中線の右端に小学校の校舎が見え、砥川の手前には昭和24(1979)年から整備されてきた総合運動所が見える。現在のジャスコ通りにあたる道沿いには昭和28(1953)年栄町から移転ひかり味噌が見える。線路下には、桑畑とりんご畑が広がっていた。2020-03-06
57秋宮鳥居前集合写真秋宮鳥居前集合写真徴兵検査合格者の記念写真。 旅館の名前の入った旗があることから下諏訪温泉に宿泊した県内の人たちが多数含まれていると思われる。また、学生服を着た大学生の姿も見られる。この写真では手水舎が現在と反対側にある。手水舎は昭和28(1953)年に八幡側から千尋池側に移った。向かって右に見える道は、昭和15(1940)年以前は武居に行く唯一の道であった。また、鳥居の左側の現在千尋池となっている場所に商家などの建物が見えている。鳥居前千尋館の二階から撮影された写真である。2020-03-06
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