高木薬師堂 由緒
高木公民館の中にある薬師堂の由緒書。小口明氏のかかれたものと推察する。
高木薬師堂 由緒
となりが三百年前高木の先人がつくり守り育て、今なお高木区の宝「高木薬師堂」。最上段中央に薬師如来画像、その前に本尊薬師如来像を安置、左右にクビラ、バサラなど眷属十二神将を並べ、その隣に江戸時代末期の薬師堂の危機を救った温泉寺石和和尚位牌・区出身戦没者位牌安置。下段は香炉・供花たてなど仏具 その下の押入には区民寄進の仏画軸 仏語書軸・巡礼判軸などと念仏講で念仏会使用の百万通数珠など仏具収納。
明治時代子の薬師堂は津島神社境内にあり、念仏講が運営。明治6年から9年三十人の子が学ぶ「高木学校」となり、下諏訪学校に合併後は区集会所を兼ねた。そして大正中期、区集会所新築発議、だが直前の区共同温泉新築で財政難。知恵をしぼり、津島神社に合殿空地となった天狗社空地(現在地)に「薬師堂」「津島社社務所」併置集会所新築企画。薬師堂売却財源に加え、津島社林の立木も用材として大正十三年新築。新薬師堂は入口右側に外からも参拝できるよう格子づくりで仏像安置。運営は百名をこえる区民有志が毎月八日参集念仏する念仏講に委ねた。講は区民逝去時、通夜に参じ、霊前で念仏。区民の心をこめ祈った。こうした状況が一変したのは、敗戦時「政教分離」の考えが決まり、「公民館に仏像は?」と、改築のたび薬師堂は片すみに追われ、ついに棚におしこまれ、区理事者も念仏堂の管理・運営は念仏講と考え,講も衰退。こうした状況憂慮、平成末年の館大改修時、区理事者・念仏講記録をもとに区所有の宝ものを確認。それなりの堂改修実施。だが同時に高齢化した念仏講は休講となった。この上は区民知恵をしぼり区先人の遺した宝ものにこめた願いをうけとめ、うけつぐことをのぞみたい。(平成31年3月)
千連に返しご唱和 高木ぞや薬師ぼさつ慈悲の世の中
約三百年昔、諏訪藩制作地図「一村限村絵図・高木村」の津島牛頭天王者前に「薬師堂」がある。「除災・厄除・無病息災」を神徳とする。津島神社が諏訪地方に勧進されたのは、江戸時代十七世紀後半。疫病流行時、防災の神符を「御使(おし)」という人たちが配り、その効果に諏訪の人々が感じたからだという。一方「薬師如来信仰」。仏教伝来直後から後世より現世で けが病気から薬師如来さまに救ってもらい健康で生きたいと民間信仰として生まれたもの。津島社勧進のきっかけとなった疫病流行時、寺院のない高木の人々が病いよけのため薬師如来に念仏し救いを求め堂を作り、同じ「防災」「無病息災」神徳をもつ津島社近くに堂をたてたのは、うなづける。こう考えると「高木薬師堂」の建立時期は津島社建立とあまりちがわないと推定される。絵図作成(享保10三七二五)時以降は記録あり、①東高木街道ぞい移転②再び津島神社境内へ③また大沢川ぞいの三昧場さんまいば(火葬場)へ④三度目の津島社境内へ。こうした度重なる移転は、その近くで不信心者による凶事発生のためだという。津島社三度目の薬師堂「堂守り」をおいたが、これが悪者で、本尊薬師如来像をもち逃げ。堂は荒れ村人は苦労。見かねた温泉寺石和尚(いしおしょう)、寺の薬師如来像を贈り、隠居後、堂を「温泉寺別院遼明院(りょうめいいん)」にと提案。村人よろこび同意。改修材料も用意したが、和尚急逝。実現しなかった。しかし、村人くじけず堂経営にあたり、江戸時代末期選ばれた「諏訪百番霊場」(東33番)(中34番)(西33番)のうち、西(大麻村~諏訪湖をとりまき)下桑原村古内43)25番高木薬師堂。
| 撮影場所 | 北高木9117 |
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| 撮影年月日 | 令和7年10月1日 |
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| 撮影(西暦) | 2025 |
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| 色調 | カラー |
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| 所蔵者 | フシミヤ |
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| 作業日 | 2025.12.4 |
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| 参考文献 | 「高木風土記 3部作 第2部津島神社」10p「仏像図典」佐和隆研編 吉川光文堂 179p |
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| 地区コード | 北高木 |
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ハッシュタグ (キーワード) | |
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| ライセンス | 表示(BY) |
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| 投稿者 | フシミヤ |
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