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2023信州上田学テキスト
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登録リスト(該当:98件)
≪
1
≫
写真
タイトル
説明
登録日
1
繭毛羽取機
綺麗にスキャンすることができた。
2024-06-24
2
常田館製糸場について
これはボイラー室の煙突です。主に従業員の生活のために使われいました。当時は個々の横に物資搬入用のトロッコが走っていたそうです。燃料となる石炭を搬入していました。また、トロッコは上田駅までつながっていて、製糸場でできた絹を上田駅まで届けていました。
2024-02-07
3
常田館製糸場について
これは五階鉄筋繭倉庫です。繭を保存するのに使われていました。鉄筋コンクリートでできた建物で、100年以上前からあります。社長さん曰く、鉄筋コンクリートの建物は50年ほどで崩れてしまうそうですが、この建物は、素材が山からの塩分が入ってないもので作られているため、100年経っても崩れることなく維持されているそうです。たまに東大の教授などがこの五階鉄筋繭倉庫の研究をしにきているそうです。
2024-01-31
4
上田紬
長野県の上田市、飯田市、松本市、岡山市、駒ケ根市周辺などで生産されている絹織物の総称を「信州紬」という。 信州紬の種類として上田紬、飯田紬、伊那紬、松本紬の四種類ある。上田市の上田紬とは江戸時代に信州紬の中で最も有名だった紬の着物である。昔は愛染系の縞柄が基調の着物だったため、「上田縞」とも呼ばれていた。特徴として縞と格子柄で丈夫でしなやかな風合いである。 この上田紬の織りを体験できる場所として「織りの休日俱楽部」がある。そこではストールが作れる。一ヵ月に一回と開催日が少なく、参加費も一万二千円と高めではある。 このような体験は上田市に限らず、他の地域でも行われていることが分かった。 上田紬についてもう少し詳しく調べてみた。 生糸に適さない屑繭を真綿にし、 真綿からつむいだ紬糸
2024-01-23
5
若竹屋紬店本店
今回は、別所温泉にある若竹屋紬店本店を訪れた。 若竹屋紬店は、上田紬の販売を始めてから五十年以上経つ老舗である。現在は、二階に「繭の家」という上田紬ギャラリーを併設するなど、博物館的な特徴を持った店舗になっているようだ。 看板となる商品は、『七久里の華』という「上田紬」と「農民美術」の融合製品。上田紬は、着物だけでなく上田紬押絵など芸術にも用いられることが分かった。 別所温泉と蚕糸業のつながりを思い起こさせるようなお店だと感じた。ちなみに隣接する建物では、鎧兜や多くの飾り雛が展示されているため、あわせて立ち寄ってみてほしい。
2023-11-26
6
上田蚕種:蚕種製造1風景:繭の搬入→オスメス鑑別
蚕種製造の作業は、藤本蚕業株式会社では蚕種製造用の繭を農家から搬入してもらうところから始まります。この日6/15は茨城県かすみがうら市の契約農家から運ばれた繭を車から降ろすところから作業が始まりました。 蛹を繭と分離し、さらにオスメスを鑑別してオスメスを別々に養生します。作業工程をビデオに収録しておいたので御覧ください。 この後は10日ほど経過した後、羽化したオスメスの蛾を交尾させることで受精卵を取り出します。以上が蚕種製造の工程です。
2023-06-17
7
上田蚕種:蚕種製造の現場・雄雌鑑別
かつての日本の基幹産業・蚕糸業を支えた蚕種製造業。6/15、上田蚕種株式会社で養蚕農家から集荷した繭から蛹を取り出し、雄雌を鑑別する作業が行われました。その貴重な作業風景を学生と映像記録、これからネット等へ出していきます。
2023-06-16
8
上田紬
上田紬は、上田地方の農家や機屋で江戸時代からおられている織物です。初めは紬織物だったようですが、江戸中期以降上田縞と称する、より絹織物に近い風合いの織物が主流となりました。つむぎはもともと絹糸にできないくず繭を真綿にしてそれから紡いだ糸で織った製品ですので、いわば廃物利用品です。 上田紬は当初各農家の自家用として、地機や高機によっておられたようですが、その後生産に移行し、県外に大量に出荷され、布地の丈夫なこと、すぐれた染色によって、全国的に知られた特産物に発展してきました。 しかし、明治に入ってから徐々に衰退し第2次世界対戦中にはほとんど途絶えてしまいましたが、戦後復興され、現在では手織りと機械織りの両方で生産されています。
2023-05-11
9
信州大学 繊維学部 講堂
中には入っていないが、素敵な講堂を見つけた。 これは、信州大学繊維学部の前身である上田天蚕専門学校の講堂である。この講堂の特徴は、蚕糸のシンボルである桑・繭・蛾が各所に意匠として付けられている点である。口の天井の換気口には繭と蛾、ステージの柱には桑、アーチ の縁飾りには蛾と桑、演台には蛾と繭、脇台には桑が使われている。映画のロケ地としても使われている。 参考文献 「信州シルクロード」より https://shinshu-silkroad.jp/%E4%BF%A1%E5%B7%9E%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E7%B9%8A%E7%B6%AD%E5%AD%A6%E9%83%A8%E8%AC%9B%E5%A0%82/
2023-02-06
10
常田製糸場
【概要】 常田館製糸場は明治33年(1900年)創業の製糸工場である。笠原工業株式会社構内に常田館製糸場に関連する施設15棟が現存しており、そのうち明治から大正時代にかけて建てられた7棟が平成24年に国の重要文化財に指定されている。国内最高層の木造5階建繭倉庫、大正時代末の鉄筋コンクリート5階建倉庫群などは、製糸技術が発達した時代の先人達の工夫と知恵の足跡が歴然と残る貴重な文化遺産である。 【歴史】 嘉永5年(1852)諏訪郡平野村に生まれた笠原房吉(かさはらふさきち)が、明治33年「常田館製糸場」を創業した。以来110年余、製糸業の隆盛と衰退のなかで、製糸工場建物は増築・取り壊し・焼失・改築・移転・用途変更等の紆余曲折を経ながら今日に至っている。 【現在】 笠原工業(株)では施設の一部を一般公開している。 公開
2023-01-26
11
蚕都上田の歴史と未来
私は「蚕都上田の歴史と未来」というテーマで蚕都について探求しました。より考えを深めるために計四か所の施設に見学に行きました。 一枚目の写真は上田駅の構内に設置されている繭の女神様です。蚕糸業の全盛期時代である大正時代から蚕は上田の地を支える存在であったことが分かりました。 二枚目、三枚目の写真は常田館製糸場と上田蚕種協同組合事務棟です。製糸場は繭の乾燥や保管のために多窓式になっているなど建物ごとに様々な工夫が見られました。製糸場の建物15棟中7棟は国の重要文化財に、事務棟は文化庁の登録有形文化財にそれぞれ指定されています。四枚目の写真はホール、美術館などの複合施設であるサントミューゼです。名前の由来は蚕都からきており、人々の交流の場として上田市には欠かせない存在になっています
2023-01-26
12
信州上田学まとめ
私は蚕都上田の歴史について探求しました。重要文化財である常田館製糸場や上田蚕種協業組合などに見学に行き、実際に使われていた建物をこの目で確かめることができ、改めて上田が蚕都の盛んな地域だったということを実感しました。特に印象的だったのが常田館製糸場の建物内で見つけた「猫は蚕の神様です」という言葉です。蚕が無事育ち、良い繭を作ってくれるようネズミ避けのために猫にまつわる様々な祈願がされていたと分かりました。常田館製糸場は綺麗に保管されており、中には繭で作った作品などもあったので、行ったことが無い方はぜひ足を運んでいただきたいと思いました。
2023-01-25
13
蚕業の施設
長野県上田市では、かつては蚕業が盛んな地域であった。それを象徴するのが常田館製糸場である。この製糸場は明治33年創業の歴史ある建造物である。当時の養蚕業は日本の近代化の原動力であり、様々な箇所で利用されていた。この施設では、室温度、通風、乾燥などを整えることで、一年を通して平均的に生糸を生産することが可能となっていた。 木造5階建繭倉庫、鉄筋コンクリート5階建倉庫群などは、国指定重要文化財に指定されている。
2023-01-25
14
test蚕糸試験場 蚕糸の森公園
蚕糸試験場 蚕糸の森公園 子供時代に蚕糸試験場(東京杉並区)が近所にあり、 すでに廃墟となっていて不思議なところだと思っていました。 春蚕繭繰糸試験成績一覧表 藤本蚕業デジタル資料館 https://d-commons.net/fujimoto-index/?c=&p=11876 近代化と国際規格と日本の関係性、 国際規格の導入と変遷は絹糸が最初ではないか? 以前自動車業界にいて国際規格からSDGsに変遷していった過程から、 規格の重要性が正義や善につながっていて基本なるのは美学ではないか?と考えています。 naganuma
2022-12-17
15
現代にも伝わる養蚕
上田市の小学校では、3・4年時に蚕を育てる学校が数多くあります。塩川小学校では、8月に上田市常田にある「上田蚕種」から蚕種を譲り受け、9月下旬頃に繭になるまで育てます。小学校生活の思い出として強烈に残る学年行事です。
2023-01-20
16
上田紬
現代でも蚕の繭から紡ぐ紬は上田紬というブランドで親しまれている。着物だけでなく、ストールやがま口などの小物、アクセサリーにもなり人々の暮らしを彩っている。上田紬を身につけているとなんだか心が安らぐ気がする。
2022-12-01
17
養蚕業が衰退した理由
日本の繭生産量は、今から約90年前1930年(昭和5年)の40万トンをピークに減少し、昭和40年代に持ち直しの傾向が見られたものの、2016年(平成28年)には約130トンまで落ち込んでしまいました。繭生産量の減少に伴う製糸業の衰退も著しく、昭和34年には1871工場あった国内製糸工場数は、平成26年にはわずか7工場を残すのみとなってしまいました。 日本の絹産業は、生糸の原料となる蚕の繭を作る養蚕農家から、生糸を作る製糸業者へ。そして絹織物業者へという流れから、おもに着物や帯などに加工・縫製されて小売される形になっている。 衰退した理由としては和装から洋装へ変化する「和装離れ」により需要そのものが減少したと考えられている。価格競争で中国などから低価格繭の流入や、後継者不足など社会構造の変化も考えられます。
2022-11-30
18
繭倉庫
常田館製糸場の繭倉庫。大通りに位置しているため観光にも訪れやすいのではないだろうか
2022-11-30
19
常田館製糸場
国指定重要文化財にされた「笠原工業旧常田館製糸場施設」を見学しに行きました。構内には建物15棟が現存されていて、その内7棟が重要文化財として一般公開されています。昔のままの木造の繭倉庫は圧巻でした。機械などはありませんでしたが、当時の技術を知ることができました。展示品もあり、なんだか心が和みました。 常田館製糸場は1900年(明治33年)に創業し、110年余り、製糸業の隆盛と衰退の中で、製糸工場建物は増築、取り壊し、焼失、改築、移転、用途変更等の紆余曲折を経ながら今に至ります。現在はスチロール製品を製造しています。3階繭倉庫と5階繭倉庫は、多窓式と呼ばれる自然乾燥を前提とした繭倉庫の形式である一方で、4階繭倉庫と5階鉄筋繭倉庫は密閉 式の繭倉庫であり、大正時代以降は乾燥機の発達により通風による乾燥が
2022-11-30
20
前橋蚕糸記念館②
繭から糸を取り出す際古くは口の中に繭を含み糸を引き出したという。やがて繭を煮て手繰る「手繰り」が始まりそれを小枠にに巻き取っていた。江戸時代後期には歯車を用いて小枠を回転させる座繰が発明され1857年に高橋邦七によって弓のついた座繰(上州座繰)が発明された。上州座繰は県内だけでなく信州方面にも広く普及されていた。
2022-11-30
21
桑折における養蚕業②
現在桑折町では製糸業は営まれていません。しかし、いくつか名残りのある場所を発見したのでそれについて述べていきます。 まず、桑折町における養蚕業①で触れた郡是製糸工場ですが平成15年に建物が解体された後、東日本大震災の災害公営住宅が建てられています。郡是製糸工場時代の面影は庭園の一角にある「多行松」のみになってしまいましたが、「桑折町蚕糸記念公園」と名を付け、養蚕業によって繫栄した歴史を伝え、町民や来訪者の交流の場になることを願って新たに公園として再生されました。また、桑折町の伊達崎と呼ばれる地区にはかつて養蚕家だった大きな家が見られる他、桑折町の本町通りにある商店街には繭を取り扱う問屋である蚕問屋が今でも残されています。そして、実際に私が通っていた醸芳中学校では校章に桑の葉が
2022-11-30
22
桑折における養蚕業①
福島県の北側に位置する桑折町は現在毎年皇室に桃を献上することから献上桃の郷として知られていますが、実は古くから養蚕との関係が深い地域とされています。 養蚕には、蚕を育てて繭を出荷する養蚕業と蚕種の売買の二つがありますが、桑折町では江戸時代からそのどちらの生産も盛んでした。そのため、桑折町を含む伊達地方の蚕種(蚕の卵)は「奥州本場蚕種」として全国に販売され、輸出もされていました。その後、明治からの昭和初期にかけては製糸業が発展しました。昭和8年には郡是製糸工場が桑折町に建てられ、約500人の女性従業員を雇用すると共に工場内に「家政女学院」が設立されたことにより、女性に教育と労働の機会が与えられたといいます。昭和22年には昭和天皇も視察として訪れ、記念として「蚕祖神」の記念碑の建設
2022-11-30
23
上田の蚕業
長野県上田市では、かつては蚕業が盛んな地域であった。それを象徴するのが常田館製糸場である。この製糸場は明治33年創業の歴史ある建造物である。当時の養蚕業は日本の近代化の原動力であり、様々な箇所で利用されていた。この施設では、室温度、通風、乾燥などを整えることで、一年を通して平均的に生糸を生産することが可能となっていた。 木造5階建繭倉庫、鉄筋コンクリート5階建倉庫群などは、国指定重要文化財に指定されている。
2022-11-30
24
四階繭倉庫
干繭倉として建てられた。東西には窓が一つもなく、通し柱がなく繭の保管や作業に考慮した造りになっています。壁に雨がかからないように、各界部分に下屋がついていました。
2022-11-30
25
蚕の神様
蚕やさなぎ、繭までをかじり荒らす鼠は養蚕を悩ませてきました。鼠駆除のために猫を飼う一方、蚕が良い繭を作ってくれるように猫にまつわる様々な祈願をしました。上田地域周辺では「唐猫さま」と呼ばれていたり、「猫瓦」と呼ばれる猫耳状の二つの角が出ている屋根もあるそうです。 常田館製糸場内の展示にも四匹の猫を見つけました。現在身近な存在である猫が神様として祀られていることが興味深かったです。
2022-11-30
26
五階鉄筋繭倉庫
出火全焼のために建て替えられた、鉄筋コンクリート造りの五階建て建築物です。木造五階建繭倉とは異なり、干繭倉として建てられたもので、入り口は両開きの鉄扉が使用されています。階高も約240~345㎝と木造より高くなっており、繭の乾燥に優れた造りになっていました。
2022-11-30
27
常田館製糸場 見学
現笠原工業株式会社の常田製糸場は80年余りにわたって生糸の製造がおこなわれていました。構内には建物15棟が現存しており、うち7棟が国の重要文化財に指定されています。 この写真は五階繭倉庫です。多窓式繭乾燥・保管のための生繭倉庫として建設されました。製糸方法の変化に伴い、繭の保管・乾燥という目的から品質向上を目的とした干繭倉に改造され、小窓の多い造りになっている。
2022-11-30
28
猫は蚕の神様です
常田館製糸場の建物の中で見かけた「猫は蚕の神様です」という文がとても印象的でした。蚕が無事育ち、良い繭を作ってくれるようネズミよけのため猫にまつわる様々な祈願がされていたようです。
2022-11-29
29
繭の女神
上田駅内に蚕神の像が飾られていました。駅舎改装の折、故中村直人画伯から贈られたそうです。
2022-11-29
30
三階繭倉庫・五階繭倉庫通路
三階繭倉庫・五階繭倉庫は木造であり、「多窓式繭乾燥」・保管のための倉庫として、建築されたそうです。窓をよく見ると、黒く塗り固めています。これは、製糸方法の変化に伴い、通風の確保を必要としなくなり、保管のみの目的にかわったことからこのような工夫がなされているのだそうです。 製糸業の盛んな時期にも、新しい技術や工夫が加えられて行ったことが分かりました。
2022-11-29
31
五階鉄筋繭倉庫内部
「猫は蚕の神様です」と紹介されています。 養蚕が盛んであった昭和まで、「鼠」は蚕、さなぎ、繭をかじってしまうため、人々を悩ませてきたと言います。その鼠を駆除する目的で、猫を飼ったり、猫の神様を祀り良い繭を作ってくれるよう願ったとのことです。 五階鉄筋繭倉庫は、防火を重視した当時の技術が結集された物だと言います。干繭倉(繭を乾燥させて蛹を殺す過程)として建てられたものとされています。コンクリートを使用するなど、当時の技術を集結させているのだなと歴史を感じました。
2022-11-29
32
常田館製糸場外観
左から、五階鉄筋繭倉庫・三階繭倉庫・五階繭倉庫。 三つの建物は、国指定重要文化財です。 木造の繭倉庫は国内随一の規模であり、鉄筋コンクリートの繭倉庫も当時の技術・知恵が残るものとして、貴重な遺産であるとされているそうです。 年間通して、均一な生糸の生産には「湿度・温度・風通し・乾燥・保管管理」など、大切なことがたくさんあるようです。これを管理しやすくする工夫が、建物の構造にあるのだと思いました。
2022-11-29
33
常田館製糸場へ。
上田駅から徒歩で10分弱。重要文化財として登録される常田館製糸場があります。 現笠原工業の構内に現存する15棟の製糸場時代の建物のうち7棟が重要文化財に指定されています。現在は、製糸業は終了し、他事業へ転換していますが、当時の建物を倉庫として使用されているようです。その為、予約なしで見学できるのは、「五階鉄筋繭倉庫」「三階繭倉庫」「五階繭倉庫」の三つの建物のみとなっていました。 入口付近、常田館製糸場の概要が書かれた看板には、 群馬県富岡製糸場は、「国営」の模範工場として「フランス式」の製糸が行われた。対して、常田館など、諏訪・岡谷では「民営」で「イタリー式」の製糸が行われた。 といったことが書かれています。 富岡製糸場など、群馬の製糸業と比較するのも面白いなと思いました。
2022-11-29
34
常田館資料室
長野県での蚕種製造の歴史は上田地方が最も早く、藤本善右衛門家によって寛文の時代に始められたとされている。はじめ奥州産蚕種を仕入れ販売していたものが、次第に奥州へ出向き蚕種製造をするようになり、自家製造へ発展し全国へと販路を広げていった。上田地方が日本一の蚕種製造地帯となった背景としては、蚕種の改良と歩桑による種繭の生産によるものである。
2022-11-28
35
五階鉄筋繭倉庫
長野県内に現存する最古の鉄筋コンクリート造五階建て建築物である。大正14年10月に旧倉庫が出火全焼したため、当時の技術を集結し建て替えられた。
2022-11-28
36
美ヶ原高原
上田市の有名な観光地である美ヶ原高原。あまり蚕都と関係の無いように思えるこの地域では、お正月に三九郎と呼ばれる行事(一般的に言うどんど焼き)にて、繭玉と呼ばれる、蚕の繭の形に似せたお餅を焼いて食べる習慣があるそうです。上田地域では広い範囲で、蚕都と関係のある遺産や文化が残っていることが分かりました。
2022-11-28
37
蚕養国神社①
上田市内には「蚕」の名がつく神社が7社ある。 その中で、蚕が繭になる直前の大きさと同じ大きさの女神像が安置されている蚕養国神社に行ってきた。 昭和12年に上小蚕糸同盟会は蚕糸業界の尊崇神として蚕影神社の建立を決議したが、具体的には上田大星神社の摂社蚕養国神社の増営をすることとなった。工事が完了したのは昭和16年6月28日で、同時に遷奉祝祭が執り行われた。以後関係者によって例年蚕糸祭が開かれている。
2022-11-27
38
蚕神像
手に繭をのせた「蚕神」のブロンズ像が上田駅構内に飾られている。上田市内には蚕の神に関する神社も多数存在している。
2022-11-27
39
旧上田蚕糸専門学校(信州大学繊維学部)
旧上田蚕糸専門学校は1910(明治43)年に設立しました。信州大学繊維学部の講堂が登録有形文化財として保存されています。この建物は蚕糸にちなんだ桑・繭・蛾の意匠が内部の各所に付けられていることが特徴です。
2022-11-27
40
常田館製糸場見学まとめ
常田館製糸場を見学させて頂いて改めて、蚕糸業、製糸業について興味を持つことができました。常田館製糸場の施設15棟のうち7棟は重要文化財、他の施設は上田市指定文化財に指定されており、貴重な建物であることが感じられました。 分かったこととして、建物の至る所に繭を守るための工夫がされていると感じました。その中でも国内唯一の木造五階繭倉庫は存在感があり、繭を守るため扉が四重になっているそうです。長い歴史の中で最善の工夫がされてきたから、ここまで建物が残り、製糸業が続いているのだと思いました。そして養蚕業、製糸業が上田の発展を支えてきたのだと感じました。 今回は予約をとっていなかったので、五階繭倉庫の中は見学することはできませんでしたが、団体で見学する際は予約をとって、ガイドをしてもらい、
2022-11-26
41
常田館製糸場見学4
三階繭倉庫、二階繭倉庫、五階繭倉庫の壁にそった通り道です。階段ではなく、なだらかな傾斜になっていました。なぜこのような造りにしてあるのかは分かりませんが、歩きやすく、重たいものを運ぶ際は運びやすいと感じました。 その通り道にせみ竿が展示されていました。現在のクレーンのような役割をしており、重いものを少ない労力で持ち上げるためのものだそうです。昔の人の工夫が感じられました。
2022-11-26
42
常田館製糸場見学3
五回鉄筋繭倉庫の1、2階を見学させて頂きました。現在は展示会場となっていましたが、建物はそのままなので、階段の急さに驚きました。また防火が重視された造りになっており、火事などが起きても建物が焼失しないよう工夫されているのだと感じました。 様々な作品や切り繭などを見ることができました。蚕や蛹をかじってしまう鼠を駆除する目的で猫が飼われたり、祈願されたりしていたということも初めて知りました。
2022-11-26
43
笠原工業常田館製糸場
笠原工業に残る製糸工場の遺産は、「蚕都」とうたわれた上田地域の製糸工場に関連する倉庫群や建造物が、セットとして残っていることにその価値が集約されています。製糸場道構では、この常田館は民営で、イタリー式製糸を行っており、日本の近代製糸業を語り対比する上で欠かすことのできない遺産です。繭倉庫は、南乾燥機が発達した時代の倉庫までの変選が歴然と残り、学術的にも貴重な近代化道産として指定されました。
2022-11-25
44
みすゞ飴店舗
土蔵は明治27年に建てられた繭蔵です。上田駅から出荷される蚕の繭を一時的に集積されるために建てられました。当時多くあった繭蔵は、やがて蚕業の衰えと共に壊されてしまいました。蚕都だった当時の上田を伝える貴重な産業遺産として今も大切に保存されています。
2022-11-24
45
蚕神の像「繭の女神」
中村直人さんから贈られ、正面の水飲み場の上に飾られたのが、蚕神の像です。蚕都上田の残像によせる上田・小県地方の人々の心を現したのが、手に繭を捧げる、この女神だったのでした。
2022-11-24
46
常田館製糸場見学2
常田館製糸場の外観です。 製糸場は蚕の繭から生糸を作る工場であり、繭を乾燥させ保管する工程、繭を出庫し、煮て柔らかくする工程、繰糸機械を使って糸とりする工程などが行われているそうです。 4棟残る繭倉庫は、初期の多窓式多層倉庫から繭乾燥機が発達した時代の倉庫までの変遷が歴然と残り、学術的にも貴重な近代文化遺産として指定されています。
2022-11-24
47
みすゞ飴本舗
明治27年に上田倉庫株式会社の蚕繭集積倉庫として建築され、蚕繭出荷の前線基地として活躍した繭倉の一つです。 蚕都上田が盛んだった当時は数十棟の繭倉が上田駅前に軒を連ねていましたが、終戦後は生糸関連産業が急速に衰退し、昭和30年代から40年代前半にかけて次々と取り壊されていきました。 昭和45年、飯島商店(現在のみすゞ飴本舗)が諏訪倉庫から2棟の繭倉を購入し、現在も飯島商店事務棟・作業棟であるとともに、当時の蚕都上田について知ることができる貴重な産業遺産になっています。
2022-11-13
48
笠原工業常田館製糸場
平成24年12月28日 旧常田館製糸場施設が重要文化財として指定。 平成22年2月17日 笠原工業常田館製糸場が上田市指定文化財に指定。 明治33年(1900年)に笠原房吉によって「常田館製糸場」(屋号は〇二)は創業しました。明治以降、日本の生糸は輸出世界一の座を占有してきました。生糸の性状は原料である繭の影響を直接受けて変化します。国内最高層の木造5階建て繭倉庫、大正時代末の鉄筋コンクリート5階建て倉庫群などによって、年間を通して均等な生糸を生産した常田館製糸場は学術的にも貴重な文化財になっています。
2022-11-13
49
繭の女神
蚕都上田の残映によせる上田・小県地方の人々の心を現したのが、天に繭を捧げる女神の像です。 上田駅改装の際に故中村直人画伯から贈られ、正面の水飲み場の上に飾られていたが、後に駅改築に伴い倉庫にしまわれていました。 しかし、当時の活力を思い出すために再びかざられることとなりました。 場所 上田駅エントランス前
2022-11-03
50
みすゞ飴本舗
現在のみすゞ飴本舗は、上田駅から出荷される蚕の繭の一時集積用に建てられた繭蔵でした。蚕の業の衰えとともに次々と壊されていった繭蔵の中で、僅かに残った2棟を飯島商店が購入し、今は国指定登録有形文化財となっています。 みすゞ飴や、蚕の餌でもあった桑の木の実のジャムも販売されています。 場所 お城口から徒歩3分 営業時間 10:00~18:00
2022-11-03
51
重文常田製糸場
製糸場は蚕の繭から生糸を作る工場です。昭和59年に製糸業は終了したが、構内には旧笠原組常田館製糸場時代の建物15棟が維持され、そのうちの7棟が国の重要文化財に指定されているそうです。 公開時間:10時~16時(15時30分入場まで) 公開日程:3月下旬より11月末日(期間内無休) アクセス:上田駅から徒歩7分
2022-10-30
52
猫は蚕の神様
蚕や蛹や繭まであたりかまわずかじってしまうほど鼠の害は長年人類の暮らしを悩ませていました。 そのため、養蚕をする人々は鼠駆除の目的で実際に猫を飼ったりする一方で蚕が無事に育っていい繭を作ってくれるよう鼠除けのために猫に丸わる様々な祈願をしたとされているそうです。
2022-10-30
53
現代に繋がる主導的産業の偏移について
幕末の開港によって長野県は地域経済を世界につなげることになった。そこで長野県を国外まで広げる一翼を担ったのは生糸でした。 長野県は外国との交流が始まると、器械製糸を取り入れ、養蚕や蚕種業の技術開発や改良に力を入れました。それで、蚕糸王国と呼ばれることになったわけです。長野県の近代のあゆみは養蚕や製糸業の盛衰に左右され長野県の命綱は、蚕糸業であったと断言して過言ではありません。 長野県の製糸業は県外や外国にまで進出し、日本の製糸の中心となります。なので、長野県内のいたるところの農家では養蚕が営まれました。 蚕糸業は大正時代から昭和初年にかけて全盛期を迎えますが、1929年(昭和4)からの世界大恐慌の影響をうけ、製糸業を営む会社の倒産が相次ぎ、繭価の価値の大暴落のため生活を養蚕に
2022-08-10
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みすゞ飴本舗 飯島商店で歴史を感じる
上田駅から徒歩3分程度にある、みすゞ飴本舗 飯島商店 上田本店に初めて行ってきました。 本店は大正モダンな雰囲気で、みすず飴やジャムが販売されていました。みすず飴の他にも大正時代のものと思われる道具、花岡塗という上田市特有の漆工芸品が展示されていました。 ショーケースにはみすず飴が展示されており、宝石のような輝きを放っていました。上田市民ですが、みすず飴がこんなに綺麗なものだとは思っていなかったので驚きでした。 本店を出て少し歩いたところに分店がありました。分店は明治時代に養蚕業が栄えていた頃、上田駅から出荷される蚕の繭を一次集積用に建てられた繭蔵だそうです。この建物は貴重な国民的財産として大切にされています。 分店でもみすず飴やジャムを購入できます。 みすず飴本舗専用の駐車場
2022-05-10
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常田館製糸場
嘉永5年(1852)諏訪郡平野村(現岡谷市)に生まれた笠原房吉は、開通したばかりの信越線上田駅に近いこの地に、明治33年(1900)「常田館製糸場」を創業した。常田館製糸場は、かつてあった講堂・劇場や病室は失われてしまっているが、近代製糸工場の前途の特徴を示す建物群がまとまって残っているのは県内ではここだけである。国内最高層の木造5階建繭倉庫、大正時代末の鉄筋コンクリート5階建て倉庫群などは製糸技術が発達した時代の先人達の工夫と知恵の足跡が歴然と残り、学術的にも貴重な文化遺産になっている。 「参考文献」 http://www.kasahara.co.jp/kasahara/tokidakan/
2022-02-08
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蚕とは
蚕とは、蝶や蛾の仲間で鱗翅目カイコガ科に属する昆虫である。幼虫が作る繭から絹糸をとるために人が飼育していた虫である。主に、くわの葉を食べて育っていく。生まれてから約30日程度で営繭(繭を作ること)になる。蚕の成長はとても速い。 「参考文献」https://www.naro.affrc.go.jp/archive/nias/gmo/kaiko/kaikobio.pdf https://mirusiru.jp/nature/animal/kaiko
2022-02-08
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6.若者に蚕を知ってもらうには
これまで蚕について様々なトピックを紹介してきましたが、蚕糸業の衰退を止めるためには若者の力が必要不可欠です。 若者に蚕を知ってもらうための策を幾つか考えました。 5の記事で紹介した蚕糸を使ったアートを通して蚕を知ってもらう策。 近年、SNSの普及に伴い若者の影響力が絶大的な権限を得ています。日本の世の中の流行は若者のスマホの中から始まっていて、何気ない投稿がその年の流行を決めるとも言われています。 SNSに蚕を使ったアートを載せたり、アリオやサントミューゼなどの大型施設で展示会をするなど人の目に触れさせるようにしなければならないと感じました。 蚕の飼育を流行にする案。 蚕という虫は品種改良されたため、人の管理がないと生きられません。そのデメリットを逆手にとって若い人が蚕を飼育しや
2022-02-03
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5.蚕を使ったアート
私は常田館製糸場を訪れた時、鉄骨繭倉庫には絹糸を使ったアートが沢山並んでいました。様々な種類のアートが展示してあり、絵のようなものから立体なアートまで若者が興味を持ちそうな作品が沢山展示してありました。 近年、InstagramやTIKTOKが文化の流行を促しており、それを利用している年齢の層は若者です。 そういった若者をターゲットに普段、馴染みのない蚕を知ってもらう機会を設けて蚕という文化に触れてもらうといった策で蚕糸業を活性化しようと考えました。 次の記事では蚕を若者にどうやってアピールするかを考察していきます。
2022-02-03
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3.蚕(カイコ)という虫について
今回のテーマである蚕糸産業では蚕という虫が欠かせない存在です。そんな蚕について解説していきます。 長野県民の方なら授業で習う機会もあるらしいのですが、県外出身の私は授業などで習ったことはなく、名前だけしか知りませんでした。 蚕(カイコ)という名前は知ってるけど、どういった虫かはあまり知りませんよね。 カイコは別名カイコガ(学名:Bombyx mori) チョウ目カイコガ科に属する昆虫です。 蚕は自然界に存在しない虫で、遥か昔に家畜化された虫なので人間が世話をしないと生きていけない虫なのです。 何故、世話をしなければ生きていけないのか ・幼虫の頃は脚が弱く、葉にくっつけないから。 ・成虫になり、羽があるのに一切飛べないから。 蚕の起源 5000年前の中国で東アジアに生息するクワコという蛾の一種を糸と
2022-02-02
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2.上田市の蚕の歴史
信州上田では江戸時代から蚕の卵の生産で栄え、その後も養蚕、製糸業などさまざまな発展を遂げていき全国から「蚕都上田」と呼ばれるようになりました。 しかし、現在は様々な理由から蚕糸業は全国で衰退し、風前の灯火となっています。 衰退している蚕糸業ですが、上田地域でもまだ蚕糸業は残っています。 上田地域で有名な蚕関連の会社は常田館製糸場という会社。明治33年(1900年)に創業された製糸工場です。 蚕糸業は大きく分けて蚕種業、養蚕業、製糸業の3つに分けられ、蚕の卵を生産し、質を高める「蚕種業」、蚕を成虫まで育ててそれを管理する「養蚕業」、蚕の繭から糸を取り生糸に加工する「製糸業」に分かれます。 次の記事では蚕という虫について解説していきます。 今の若い人は蚕という虫に接点が全くないので少
2022-02-02
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上田紬が庶民的なものから高級品になるまで~江戸時代から戦前~
古代から中世にかけて信濃の織物として知られていたのは、麻布であった。(中略)紬は屑繭等を原料として地機で織れたから、原料生産地がそのまま織物生産地となり得た。しかもそれは商品としてよりも、農村で自家用として織られている場合が多かった。 紬は、江戸時代の庶民に許された唯一の絹織物であった。 上小地方の蚕糸業は江戸中期を過ぎる頃から、1つは養種製造、もう一方は生糸生産へと重点が移っていった。江戸中期にすぐれた繰糸技術が取り入れられ、良質の生糸が生産されるようになった。その結果蚕種・生糸の生産で十分な利益を挙げることができるのであれば、手間のかかる機織をする必要はない。このようにして幕末期に近づくに従って、上小地方の上田紬・上田縞の生産は減少していった。 さらに安政6年横浜開港以
2022-01-26
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上田紬が庶民的なものから高級品になるまで~江戸時代から戦前~
古代から中世にかけて信濃の織物として知られていたのは、麻布であった。(中略)紬は屑繭等を原料として地機で織れたから、原料生産地がそのまま織物生産地となり得た。しかもそれは商品としてよりも、農村で自家用として織られている場合が多かった。 紬は、江戸時代の庶民に許された唯一の絹織物であった。 上小地方の蚕糸業は江戸中期を過ぎる頃から、1つは養種製造、もう一方は生糸生産へと重点が移っていった。江戸中期にすぐれた繰糸技術が取り入れられ、良質の生糸が生産されるようになった。その結果蚕種・生糸の生産で十分な利益を挙げることができるのであれば、手間のかかる機織をする必要はない。このようにして幕末期に近づくに従って、上小地方の上田紬・上田縞の生産は減少していった。 さらに安政6年横浜開港以
2022-01-26
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上田紬が庶民的なものから高級品になるまで~江戸時代から戦前~
古代から中世にかけて信濃の織物として知られていたのは、麻布であった。(中略)紬は屑繭等を原料として地機で織れたから、原料生産地がそのまま織物生産地となり得た。しかもそれは商品としてよりも、農村で自家用として織られている場合が多かった。 紬は、江戸時代の庶民に許された唯一の絹織物であった。 上小地方の蚕糸業は江戸中期を過ぎる頃から、1つは養種製造、もう一方は生糸生産へと重点が移っていった。江戸中期にすぐれた繰糸技術が取り入れられ、良質の生糸が生産されるようになった。その結果蚕種・生糸の生産で十分な利益を挙げることができるのであれば、手間のかかる機織をする必要はない。このようにして幕末期に近づくに従って、上小地方の上田紬・上田縞の生産は減少していった。 さらに安政6年横浜開港以
2022-01-26
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信州大学繊維学部資料館(旧貯文繭庫)
信州大学繊維学部の母体である官立上田蚕糸専門学校は、日本が工業立国として台頭しようとした明治43年(1910年)に、蚕糸に関する初の口頭教育機関、また、長野県初の国立学校として設立された。そのあと、繊維科学技術全般にわたる高等教育機関に発展し、昭和24年」(1949年)の学制改革により信州大学繊維学部として現在に至っている。
2023-05-01
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蚕の飼育について(幼虫~脱皮~繭形成)
2021/07/09 「渋沢栄一と小諸商人」展(糸のまち・こもろプロジェクト主催) 会場にて(長野県小諸市) 話し手:糸のまち・こもろプロジェクト理事長 清水寛美
2021-11-16
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上田紬を学ぶ①
写真1枚目は紬糸を染色する作業場です。 今回見学させていただいた小岩井紬工房さんでは染料に化学染料とりんごの木を使っているそうです。手前のバケツに入っているのが染料になるりんごの木です。 写真2枚目は紬糸の原料となる繭です。 もともと上田紬は生糸にできない質の悪い繭から作った紬糸を使った、庶民が着るための服でした。しかし今では手作業で紬糸を紡ぐほうが逆にコストがかかってしまうため、昔のような手軽さはなくなってしまいました。
2021-11-15
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岡谷探索-4
岡谷駅の駅名標。岡谷駅は1905(明治38)年に鉄道院中央本線の終着駅として整備された。製糸業の中心地として、繭を県内・県外に輸送したり、石炭を天竜川の船に輸送する役割を果たした。1905年は日露戦争の年であり、またその4年後に日本は生糸輸出量で世界一位となっている。日本の産業、また国力上重要な期間に岡谷駅は整備されたのである。
2021-07-19
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信州が蚕糸王国ってホント? ポスト蚕糸業(産業)の視点から
信州が蚕糸王国ってホント? ポスト蚕糸業(産業)の視点から(講演採録全文) 講師:前川道博(長野大学企業情報学部教授) ▼元の講演はコチラ https://youtu.be/yS-xdWDMTwE?t=2779 信州学「信州の蚕糸業とシルクロード」講座 第2回 2016年10月6日/まちなかキャンパスうえだ
【1】蚕糸業って何? 蚕種製造、養蚕、製糸
■そもそも蚕糸業とは?
今回、この講座は、多くの方に、後からも学習していただけるように、ということで、オンデマンド配信することを想定していますので、全く初めての方がこれを見ると「えっ? 蚕糸業って何?」、そういう基本的な疑問ですね。これを最初の方は誰もわからないわけです。その辺のところも含めてお話をさせていただきたいと思います。
2021-07-15
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「渋澤栄一と小諸商人」展
NPO糸のまち・こもろプロジェクト代表の清水寛美さんが中心となり企画展示「渋澤栄一と小諸商人」を小諸本町のゆもと京都屋呉服店で開いています。7/3、会場を訪れ清水さんをはじめ関係の方々とお会いしてきました。 清水さんは、長年、小諸の蚕糸業や着物と関わる探求をされてきました。関係の資料も収集され、唯一無二の一次資料も相当数あります。さまざまな文献・論文等から小諸と関わりのある情報源を渉猟され、カテゴリ別に分けて展示構成をされています。何と言っても驚くのは資料の物量と展示構成のキュレーション力。博物館の学芸員でもここまで探求しキュレートできるものでもありません。一個人がこれだけのキュレーションをされたことが驚きです。 展示のコーナーは次のように構成しています。 ●製糸業コーナー ●絹業
2021-07-09
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岡谷蚕糸博物館(1)
「岡谷蚕糸博物館」は昭和39年10月に開館し、製糸機械や製糸経営史料等の展示や、製糸工場を併設して動態展示を行う貴重な博物館である。 館内のミュージアムエリアは主に3つのコーナーに分かれていたため、記事を分けて投稿する。 1つ目のコーナーでは、蚕から絹製品になるまでの流れや、日本・岡谷の製糸業のあゆみ等が大きなパネルにて展示されていた。(写真2枚目) その中でも、特に目を惹かれたのが「フランス式繰糸機」と「諏訪式繰糸機」の実物の展示である。 写真3枚目が実際に展示されていたフランス式繰糸機だ。これは、官営富岡製糸場に設置された300釜の中の2釜で、日本に残る唯一のフランス式繰糸機である。明治5年(1872)~昭和6年(1931)まで使われていた。 写真4枚目は実際に展示されていた諏訪式繰糸機で、武居代
2021-01-27
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上田蚕種協業組合事務棟
「上田蚕種協業組合事務棟」は、大正6年から現在(2021年1月)にわたり蚕種製造を行っている会社である。当時は1万4000坪もの敷地があったそうだ。最盛期の昭和40年代には、46億の蚕種の製造販売を誇り、現在は2000万の蚕種を製造している。 蚕種には様々な種類があるが、ここでは日本産と中国産を掛け合わせて、より強い種を生み出している。そして、薬の刺激を与えて約12日後に孵化させる「人工孵化法」を用いて、蚕種を孵化させている。3、4枚目は蚕種の洗い場や、繭をカットして中から蛹を取り出す機械の写真だ。蚕糸業が衰退する中、現役で養蚕を続けている会社があり、尚且つ見学も可能であるというのは、上田が「蚕都」であるからこそできる貴重な体験だと考える。 参考URL:
上田蚕種協業組合事務
2021-01-27
72
常田館製糸場 (五階繭倉庫)
これは常田館製糸場の「五階繭倉庫」の写真である。明治38年(1905年)に建築された国内唯一の木造5階建繭倉だ。当時は繭を乾燥・保管する目的で作られたが、現在は比較的軽いプラスチックや発泡スチロールなどの倉庫として利用されている。建物の軽量化をはかるため、壁は薄く、柱もやわいが、震度4にも耐えられるくらい丈夫な造りとなっている。 参考URL:
常田館製糸場 施設紹介
2021-01-27
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常田館製糸場 (五階鉄筋繭倉庫)
常田館製糸場は明治33年(1900年)創業の製糸工場だ。 15棟の施設が現存しており、そのうち7棟が国の重要文化財に指定されている。 写真3枚目は、「五階鉄筋繭倉庫」の内部である。大正15年(1926年)に竣工した、長野県内に現存する最古の鉄筋コンクリ―ト造5階建て建築物だ。現在1階はイベントの開催やワインセラーとして利用されており、2階と3階には従業員の方々が制作した芸術作品が展示されている。作品はライトアップされており美しかった。 参考URL:
常田館製糸場 施設紹介
2021-01-27
74
上田市と岡谷市における蚕業の比較
・地域探求テーマ 「上田市と岡谷市における蚕業の比較」 ・この探求テーマを選んだ理由 私の地元では、小学校の地域学習として岡谷蚕糸博物館や宮坂製糸所の見学を行っており、蚕業を身近に感じる機会が多くあった。また、上田市と岡谷市は蚕業が盛んであったことが共通しており、それぞれの蚕業の歴史の仔細や、そこに共通点があるかどうかについて興味があるから。 ・探求しアウトプット化すること 上田市と岡谷市の蚕業の歴史や当時の様子について探求するとともに、そこから共通点や相違点等を見つけ出し、記事にまとめて投稿したい。 ・具体的に調べる資料 信州上田デジタルマップ 信州デジタルコモンズ 長野大学附属図書館の地域資料室 岡谷蚕糸博物館 など ・調査記事一覧
2020-12-21
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常田館製糸場②
木造繭倉庫は足場が悪く、階段も急なため、お年寄りの方が見学するには危険な場所であると感じました。当時、製糸場で働いていた人がこんなに過酷な環境で働いていたということを知り驚きましま。
2020-11-19
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常田館製糸場①
常田館製糸場の見学をしてきました。蚕糸業が盛んであった上田市の遺産として残された常田館製糸場は、当時の姿をそのまま残した貴重な文化財であることが分かりました。鉄筋繭倉庫にはギャラリーがあり、そこでは様々な展示物も見ることが出来ます。
2020-11-19
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常田館製糸場 エレベーター
このエレベーターを使って大量の繭を運んでいたのだろう。階段が非常に急で一段一段高かったが、労働者はこのエレベーターを使っていたのだろうか。
2020-11-19
78
常田館製糸場内の床
所々隙間があり、歩いていると床を貫通しそうで心配だった。ここを通って当時の女性たちが大量の繭を運んでいたと考えると、感慨深い。
2020-11-19
79
常田館製糸場
明治時代からの建物が現在に至っており、当時の様子が伺える。繭を大量に保管しており、蚕糸業において重要な役割をしていたのだろう。
2020-11-19
80
常田館製糸場-4
繭蔵内にある倉庫の一つ。旧字体で「第二号倉庫」と書かれている。このように現在では使用されていない漢字が表記されていることからも、繭蔵が非常に歴史の古い建物であることが感じられる。
2020-11-18
81
常田館製糸場-3
常田館製糸場の鉄筋コンクリート造りの繭蔵。この繭蔵も当初は木造であったが、1925(大正14)年に出火し建物が全焼したため、1926(大正15)年に鉄筋コンクリート製に新築された。鉄筋コンクリート造りの建物は当時としては珍しく、最新の技術を用いて強固に作られている。
2020-11-18
82
常田館製糸場-2
常田館製糸場にある木造繭蔵。この繭蔵は、国内では最高層の木造五階建繭倉庫で、1905(明治38)年に建てられた。建物では蚕種の均等な製造を行うため、窓を四重にするなど蚕の徹底的な管理が施されており、品質向上に向けて努力した後が伺える。
2020-11-18
83
常田館製糸場
常田館製糸場は明治33年(1900年)創業の製糸工場で、敷地内には施設15棟が現存しており、そのうち明治から大正時代にかけて建てられた7棟が平成24年に国の重要文化財に指定されている。実際に無料でいくつかの建物を見学することができ、ところどころに繭が置いてあった。木製の床はかなり老朽化が進んでいるためか危険なところもあり、良くも悪くも歴史を感じられる建物だった。
2020-11-17
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【肝試し会場?】常田館製糸場 内観 #2
常田館製糸場北側にある三階繭倉庫、五階繭倉庫の廊下、内観です。 重たい扉を開けると、#1の鉄筋倉庫と比べて明らかに手が付けられていない上、殆ど光が入ってこずほぼ真っ暗な空間が出現。床も古いが故にかなりギシギシしていて、今にもお化けが出そうな場所でした。 ただ、祖父母の家にも無いような古い機械、骨董品、天板や壁、文字書きなど、かなり面白いものが見れて良かったです。
2020-11-17
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常田館製糸場 内観 #1
常田館製糸場の内部はかなり面白い物が存在していたので、更に2つに分けて紹介します。 写真は場内西にある「五階鉄筋繭倉庫」の内部です。どうやら定期的にイベントがここで開催されているらしく、大正時代のまま残されていそうな壁の中にミニ会場のようなものがありました。上階には様々な繭作品が展示されていて、どれも綺麗でした。 また、袋に入った大量の繭が置いてありました。おそらくイベント用に置かれているものでしょう。 #2では場内北の建物を紹介します。
2020-11-17
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信濃蚕種組合事務所外部及内部之図(日本博覧図1897所載)
『日本博覧図』は関東を中心とした地域の名所旧跡、寺社、豪商の邸宅等を描いた銅版画集。1897年(明治30年)発刊の第12編には上田小県の寺社・邸宅等20点の銅版画が収録されている。「信濃蚕種組合事務所外部及内部之図」はその一つである。 信濃蚕種組合は1889年(明治22年)、藤本善右衛門(塩尻村)、工藤善助(丸子村)、田中忠七(上田町)、倉島弥平(神川村)、佐藤郡三(県村)の5人が発起人となって上田小県全域の蚕種製造家と販売業者が一緒になって結成した。良質の蚕種の製造と販売を保つため、蚕病検査、種繭の処理法、採桑の規定を設けて組合員に遵守させた。組合長の藤本善右衛門らは長野県に検査所を設ける運動を起こし、国会にも要請し1897年(明治30年)、蚕種検査法が成立した。その結果1898年(明治31年)、小県郡蚕種同業組合が設立された。1897
2020-09-24
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繭蔵1
みすゞ飴本舗の駐車場にあった建物。昔は繭蔵として使われ、上田駅への輸送基地になっていた。和風で、歴史を感じさせる。
2020-07-20
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蚕都上田ストーリー「蚕の卵は世界を救う」
★YouTube「蚕の卵は世界を救う」 25分
2019/10/05「キモノマルシェin上田」で30分、ミニレクチャーをしました。 ★YouTube「蚕の卵は世界を救う」ダイジェスト版 5分27秒
「蚕の卵は世界を救う」。これは誇張でもほら吹きでもなく、歴史の真実です。レトリックはありません。 19世紀中葉、蚕が全滅したヨーロッパの絹文化を救ったのは日本産の生糸、というよりも、日本の蚕種です。種が絶滅したわけですから、本当に喉から手が出るほど欲しがったのは生糸では
2020-07-18
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野球と蚕糸業
1927年に建設された上田市営野球場。蚕都上田の隆盛があって、地元に野球場が出来る。キモノマルシェで旧常田館製糸場の鉄筋繭倉庫を現存する長野県最古の鉄筋コンクリート造の建物(1926年=大正15年)として紹介したばかり。なるほど、この野球場の建物に接する鉄筋コンクリート造の橋はその竣工年がその翌年(1927年=昭和2年)になっています。蚕都上田の隆盛を背景に当時としてはまだ数少なかった鉄筋コンクリートの建造物が建造されたことがわかります。 野球と蚕糸業。この視点で知り得ているのは諏訪蚕糸学校(現岡谷工業)の甲子園での輝かしい準優勝の記録。校名に「蚕糸」とあることからもはっきりとその学校の背景がわかります。蚕糸業による経済的繁栄があって、野球が盛んになったことが物語られています。 (2016/10/28投稿
2020-07-18
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信大繊維学部、上田蚕糸専門学校の遺産
2018/05/10、1年生ゼミで上田探検。旧常田館製糸場に続き、信大繊維学部を見学しました。見学というよりもキャンパスを通り抜けたという感じの見学です。旧上田蚕糸専門学校講堂の内部を見学させていただくともっと感じるものはあったかもしれません。とは言え、見学行程全体のバランスを考えると時間がかかる一方なので、内部見学の事前予約はせず「じっくり見るのはまたの機会にしてね」と外観だけ見て内部見学はパス。 本当は感性工学科H棟内にある「疾走するファイバー展」も、赤レンガ造りの資料館(旧貯繭庫)の蚕糸関係の展示も面白いのだけれど。知的好奇心の高い学生たちにパスさせたのはもったいなかった! 時間の兼ね合いを考慮することもやむを得ない選択です。 キャンパスを通り抜けながら、長野大学よりも大学らしいキ
2020-07-18
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歴博の「上塩尻」蚕種製造に関する展示
2017/10/15、千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館(歴博)を訪れてきました。目的は、上塩尻の蚕種製造に関わる展示を見学するためです。展示場所は第三展示室の「知識と技術」のコーナーです。 「蚕を飼う」「養蚕技術の普及」「桑の葉の収集」「『蚕書の里』上塩尻村」「商品と技術と風雅の交流」「繭の歴年標本」「世界に知られた日本の養蚕技術」というパネル構成です。このうち、「繭の歴年標本」は奥州本場蚕種の梁川の展示。他は全て上塩尻です。 資料として展示されているものは次のとおりです。 ・清水金左衛門『養蚕教弘録』1847 ・清水金左衛門『養蚕乾湿計用方』メガルカヤを利用した養蚕乾湿計 ・座間神社句合わせ ・いははな集 1800年 ・「いははな集」参加村と蚕種の行商先 など。 展示は杉仁氏の著作『近世の地域と
2020-07-18
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臼田橋の由来
【もろもろ小諸】臼田橋の由来 本町から相生町に抜ける「おふらや小路」、松井川に架かる「臼田橋」は個人で開道、架橋された。小諸商人の心と力を感じる。由来がレストラン車留夢の入口に掲げられている。 「おふらや新道と臼田橋の由来 明治二十一年信越線が開通した頃は小諸驛へ直行する主要道路がなく、 本町方面から停車場への往来は現在の東電前からパリの湯前を経て筒井町へ抜ける迂回路に頼っていた。 因って明治三十六年当時本町在住の呉服太物商臼田彦五郎義敬が、菱野、六供、本町地区から停車場への交通の便を図るため私有地を開鑿(かいさく)して本町より現在の相生町への開道と中間を流れる松井川への架橋を計画したが、たまたま日露両国の開戦により延計し開道と架橋の完成は明治四十四年七月、道路はおふらや
2020-07-16
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常田館製糸場 四階繭倉庫
常田館製糸場から交差点を挟んで少し歩いたところに繭倉庫があります。繭の保管や作業を行うために適した作りとなっている。現在、上田市と国が指定する重要文化財となっている。外から中の様子をみることができるようになっているが中に入ることができなくなっている。そして、中の様子は段ボールや発泡スチロールが置かれている。役割は変わったが、現在も利用されているようだった。
2020-06-23
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第十九国立銀行について-3
黒澤鷹次郎像。黒沢 鷹次郎(嘉永2年(1850年) - 大正8年(1919年)1月27日)は、明治-大正期の銀行家で、明治10年(1877年)に第十九国立銀行の設立に参加した。黒沢鷹次郎は当時の常識を破り動産(原料繭)担保の融資で製糸業者を支援し、また、債権の保全と繭の品質向上のため、明治42年(1909年)1月、自ら諏訪倉庫建設に着手するなど、製糸業発展に貢献した。第1次世界大戦の後、不況に見舞われた岡谷の製糸業界は黒沢の金融政策によって救われ、更なる躍進を遂げた。
2020-06-22
95
『信濃蚕糸業史・上巻』(1937年)
『信濃蚕糸業史・上巻』(1937年)
1077頁/容量 129MB ダウンロード表示には時間がかかります。
★
目次と奥付(抜粋・PDF)
<目次> 栽桑篇 第一章 桑園の期限及発達 第二章 桑品種の変遷 第三章 桑苗生産の変遷 第四章 栽培法の桑栽培法 第五章 桑樹仕立法の変遷 第六章 桑園肥料 第七章 歩桑々園の発達 第八章 夏秋蚕専用桑園の期限及発達 第九章 桑葉売買 第十章 桑園災害 第十一章 桑園の消長 第十二章 桑園経済 第十三章 桑園改善に関する本県当局の施設 第十四章 桑園の分布 第
2020-06-21
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大屋駅内の時計
以前の投稿にも書いたように、大屋駅は昔蚕の繭から取れる糸を運ぶ駅として利用されていました。 駅内にある時計は対象11年に設置され、修理や改善は行われているものの、今でも時を刻んでいます。 まさに「大きな古時計」です。古い建物や物の存続は難しいと思うのに、今でもこうして残されているのは地域の方の思いがあるからなのではないかと思いました。これらは存続していくべきだと思います。
2020-06-15
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NPO法人リベルテ・ギャラリーグリーン
北國街道 柳町にある「リベルテ」は、障害から文化を考えるための言葉や時間、場所作っていきたいというNPO法人が運営するスペースです。何気ない自由や権利を尊重していける社会や人の関係づくりを行っているそうです。
2020-05-26
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蚕都上田まちあるき2008
企画・制作:蚕都上田プロジェクト 2008/10/25の記録 竹内秀夫さん(都市・建築工房、建築設計) 斎藤功さん(長野大学環境ツーリズム学部教授、地理学) 新津新生さん(上田小県近現代史研究会) 小野寺芙美子さん(梅花幼稚園園長) 三田育雄さん(長野大学地域連携センター長)=まちあるきの企画者 <まちあるき探訪先リスト> リンクを選ぶとその部分を頭出し再生できます。 1.
上田駅前に集合
2.
往時の駅前の状況
3.
曳家した繭倉 木造4階建(笠原工業)
4.
2020-05-24
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常田館製糸場(2)
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蚕糸業(1)
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