上田の蚕業について③
上田の蚕業について記された記録には、工女の消費活動についても以下のような記述があります。
工場の休日は日頃の長時間労働から解放された工女にとっては楽しいひとときで、小間物屋に寄って化粧品や小物を求めたり、呉服屋で普段着を買ったりしました。おやつの鯛焼きは工女に人気があり、休日や工場の開業前になると店先に行列ができるほどでした。(中略)常田館などのような大きな工場になると、呉服屋や小間物屋などが出張して郷里へのお土産を売りました。(「上田市誌 近現代編(2) 蚕都上田の栄光」135、136ページ上田市誌編さん委員会 平成15年3月1日信毎書籍印刷株式会社より)
既婚でもなく、子どもでもない、大人の労働者である工女たちの消費行動は羽振りが良いように感じられます。加えて、結婚前に、経済力と自由がある自立した期間を設けることは、女性の自立や経済など様々な側面に影響を及ぼし、社会にとって大きな意味があったのではないかと考えます。
働く製糸工女について地域の人がどのように思っていたのかがうかがえる俳句も残されています。
糸とりのもはん工女やじみ姿 秀人 (「蚕糸」114号 大正9・8)
糸を取る娘の派手着して噂立つ 三石堅 (「蚕糸」115号 大正9・8)
(「上田市誌 近現代編(2) 蚕都上田の栄光」136ページ上田市誌編さん委員会 平成15年3月1日信毎書籍印刷株式会社より)
現在も母親が「母親らしい格好をするべきだ。」「露出が多すぎる。」という批判を受けたり、男性よりも経済力がある女性はあまり快く思われなかったりしますが、当時は現在よりもかなり女性差別がひどく、男性と女性それぞれにとっての、理想の女性像についてもかなりのギャップがありました。単なる嫉妬もあるかもしれませんが、工女として実家を出て働く間は、父親に従い、夫に従い、息子に従うという民法の方針には比較的沿わない期間であったため、経済力を持ちお金を自分の好きなことに使う様子は、当時の人の目には貞淑さに欠けるように映ったのかもしれません。
しかし、村が工女に対して支出を許すこともありました。同誌によると、「注目されることは、村でも製糸業に大きな期待をかけていたことです。「川西村のあゆみ」には「明治二十六年十月、村は製糸改良社の工女に、村費で工女褒章を与えた」と書かれています。」と記されています。実情としては労働力が足りないため、雇用はあり、しかし同時に差別も存在するという現在の日本に重なる部分もあると考えます。
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投稿者 | tohu |
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