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1
【上田市の銭湯】銭湯の分布から見る地域の考察
突然ですが、皆さんは銭湯に行ったことはありますか? 銭湯というと、富士山の壁画が描かれた、東京の大きな下町銭湯を思い浮かべる人が多いと思います。ここでいう銭湯とは、法律で定められた一般公衆浴場のことです。 ここ上田市にも、地域に根付いた街のお風呂屋さん、銭湯が2軒あります。ですが最盛期には、なんと24軒もの銭湯がありました。昔は市街地ではお風呂のある家庭は一般的ではなく、農村部のお百姓さんの家、どこかの大富豪の社長さんの家など、限られた家庭にしかありませんでした。そこで、「浴場業(銭湯)」という一つの業種が確立されたんですね。今回はこれまでの調査のまとめとして、「銭湯の分布から見る地域の考察」を題として、上田市の銭湯の現状とともに記していきます。 ◎上田市の銭湯の現状 下に上
2024-02-12
2
【上田市の銭湯】地図から銭湯の分布を見てみよう~「史的ニ上田」編~
突然ですが、皆さんは銭湯に行ったことはありますか? 銭湯というと、富士山の壁画が描かれた、東京の大きな下町銭湯を思い浮かべる人が多いと思います。ここでいう銭湯とは、法律で定められた一般公衆浴場のことです。 ここ上田市にも、地域に根付いた街のお風呂屋さん、銭湯が2軒あります。ですが最盛期には、なんと24軒もの銭湯がありました。昔は市街地ではお風呂のある家庭は一般的ではなく、農村部のお百姓さんの家、どこかの大富豪の社長さんの家など、限られた家庭にしかありませんでした。そこで、「浴場業(銭湯)」という一つの業種が確立されたんですね。今回は、上田市の銭湯を研究するための必読書、「史的ニ上田(15)上田の銭湯」という文献をご紹介します。 (画像は、文中にも登場する中央3丁目(松原町)の「竹の
2024-02-12
3
【上田市の銭湯】地図から銭湯の分布を見てみよう~大正期編~
突然ですが、皆さんは銭湯に行ったことはありますか? 銭湯というと、富士山の壁画が描かれた、東京の大きな下町銭湯を思い浮かべる人が多いと思います。ここでいう銭湯とは、法律で定められた一般公衆浴場のことです。 ここ上田市にも、地域に根付いた街のお風呂屋さん、銭湯が2軒あります。ですが最盛期には、なんと24軒もの銭湯がありました。昔は市街地ではお風呂のある家庭は一般的ではなく、農村部のお百姓さんの家、どこかの大富豪の社長さんの家など、限られた家庭にしかありませんでした。そこで、「浴場業(銭湯)」という一つの業種が確立されたんですね。今回は、そんな上田市の銭湯の分布を、2つの大正期の地図から探っていきましょう。 (画像は最盛期の銭湯をGISアプリで国土地理院の地理院地図にプロットしたもの)
2024-02-12
4
塩田分校を訪問する
これは塩田にある分校でのインタビュー内容が記載されている史料である。記事を見ると、塩田分校では教育方針として「農村を担う中堅的人材」を育てることを掲げており、そのために高等学校での基礎的な一般教養に加え、家庭科や農業科の専門的技能を体得させること、そして一番に「人間としての素養を育て上げること」を重んじていることが読み取れる。 このことから、塩田分校では学生に対して専門的知識を持った地域に根差す人材、並びに志や人徳の高い学生を理想像としていたのではないかと考察した。 ▼この記事は以下から参照できます。 #1192 『西塩田公報』第66号(1953年3月5日)2頁
2024-01-23
5
西塩田時報 面白いと感じた記事 2
情報通信文化論 西塩田時報切り抜き2 この記事も自身がもう一つ選んだ記事と同じく、過去の日本の変化がみられる記事の一つで、第二次世界大戦が終わった日本が封建的思想から次第に目覚めていき、デモクラシー的な自由な世界となろうとしてる、といった記事であり、終戦後から大正デモクラシーにつながっていくであろう過程が分かるような記事になっており、これもまた自身が学んだ歴史を振り返っているようで面白いと感じました。西塩田時報vol.2 7ページ左上農村青年より
2023-12-11
6
西塩田時報 面白いと感じた記事1
情報通信文化論 西塩田時報切り抜き1 この一つ目の記事では終戦後一年目を迎えた日本の状況やその時代の青年に求められたことが読み取れる良い記事だと思いました。終戦後一年経った日本は依然として食糧問題が発生しており、農村に住んでいる青年の仕事ぶりが大事であるといったことや、「ポツダム宣言以来、日本の人々が好む好まずを関係なしに、民主主義的生活様式を採用せざるを得なかった」という文章から戦後に変わっていく日本が過去に自身が歴史の授業で学んだ通りに西塩田時報に描写されているのが個人的に面白く感じました。 西塩田時報vol.2 3ページ左下現代青年の任務より
2023-12-11
7
22世紀に残したい上田の風景:わらボッチと稲わら焼き
上田に暮らして以来、かけがえのないこの地域の風景として心に刻まれたのが塩田平のわらボッチと稲わら焼きの風景です。2007/11/03、塩田平で撮った風景を載せておきます。 茨城や山形でもこのような原初的なわらぼっちと稲わら焼きの風景は見たことがありません。機械化による大規模な営農でなく、手作業による昔からの営農の姿がこの風景に顕れています。ちなみにわらボッチはこの地域では「にょっ」と呼ぶらしい。円錐形をなしたわらボッチが整然と立ち並ぶこの地域の無形的な文化形態は美しく、絵になります。 稲わら焼きは条例によって禁止されている県もあります。秋になるとそこかしこで稲わら焼きの煙が立ち上ります。いつまでこのような風景を見続けることができるのか。わらぼっちと言い、稲わら焼きの煙と言い、心の中に眠
2023-02-25
8
農村女性に望む
戦時中の苦労や恐怖からと終戦に対する幸福感が書かれている。それとともにもう戦争のことなど考えず農家の女性としてこれから生きていくことが力強く書かれている。 まとめ 終戦直後の混乱状態のリアルなこえをまとめることができた。青年は敗戦に落ち込まず前向きに復興へとすすんでいることが読み取れた。 被害が多くなかったとは言え様々な問題を抱えていたことが分かった。
2023-01-31
9
初代上田藩主 真田信之
真田信之は初代上田藩主を務めた人物であり、上田城を築城した真田昌幸の息子である。信之は徳川家に仕える猛将本田忠勝の娘、小松姫と結婚し、関ヶ原の戦いでは父昌幸、弟幸村とは対立することとなる。その後は上田領を任され、農村の復興と上田城下町の整備に尽力したが、1622年に松代へと移封されることとなる。 参考サイト 上田市デジタルアーカイブポータルサイト https://museum.umic.jp/sakuhin/web.html 上田市博物館 https://museum.umic.jp/hakubutsukan/ueda-castle-history/03/
2023-01-28
10
大東亜戦争完遂映画会(『西塩田村公報』第5号4項)
農村でも映画会を開き、戦果を伝え、国民の団結力と忠誠心を強めていたと考えると、いかにマスメディアが戦争に利用されていたかが分かる。 上映されていたものはおそらく大本営の戦果発表だと思われる。そのアーカイブはNHKの戦争証言アーカイブス、戦時録音資料で参照できる。 この記事が書かれた当時(1942年5月22日)は、日本軍が優勢であったとされる。アジア・太平洋戦争の転換期であるミッドウェー海戦はこの新聞が発行されて約2週間後に起こる。 NHK「戦争証言アーカイブ 戦時記録資料 勝利の記録」
https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/sp/list.cgi?cat=kiroku
2023年1月25日閲覧 ▼この記事は以下から参照できます。
#930 『西塩田村公
2023-01-25
11
金井正について
金井正は、明治19年神川村国分に、金井家の三男として生まれました。県立長野中学校(現上田高等学校)に入学。家庭の事情から家督を継ぎ、父が局長を務める国分郵便局の事務員として勤務しました。その一方で哲学者西田幾多郎の存在を知り、哲学に関心を高め、神川読書会を企画したり同人雑誌の創刊し、社会主義による啓蒙を図りました。山本鼎がヨーロッパ留学から戻り、訪ね、児童自由画教育と農民美術運動に感銘を受け、協力を約束し、鼎による講演会「児童自由画の奨励について」を企画。続いて「第1回児童自由画展」を開催し、予想以上の成功を収めました。 農民美術運動については、鼎と連名で日本農民美術建業の趣意書を作成して、神川村の人々に働きかけました。大正8年に第1回農民美術練習所を神川小学校で開設し、
2023-01-25
12
農民美術運動を促進した人物
版画家・山本鼎は、明治15年愛知県岡崎市で生まれましたが、父親が小県郡神川村大屋(現在の上田市大屋)に大屋医院を開業したため、鼎は上田との由縁がありました。 鼎は版画家としてだけでなく、画家としてもその名を残しました。明治35年、20歳で東京美術学校へ入学し、「湖畔」で有名な黒田清輝に油絵を学びました。大正元年にはフランスに渡り、その間に描いた作品はどれも好評を博しました。 帰国後、児童画とその指導方法の改革を目指した運動を起こします。鼎は絵を描く技術、方法が重要ではなく、自分の目で見て、感じたとったものを描くことが、児童の発達に大切などだと説きました。その後大正8年4月には神川小学校で第一回児童自由画展覧会を開催し、自由画教育は全国各地に広がりました。 一方、大正8年11月には神川村
2023-01-25
13
農民美術を再び普及させるには
私は課題探求ゼミナールで森林資源の活用方法として農民美術のこっぱ人形に利用できないかと考えていたため農民美術を再び普及させるためにはどうすればよいかを探求テーマとした。 農民美術は今からおよそ100年前に山本鼎によって提唱された。農村部の若者たちに手工芸品の技術を教え農閑期の副業としまた、それまで無縁であった美術活動への参加を促すものであった。上田市を拠点とし全国へと波及したが戦後は徐々に衰退した。 木っ端人形をふたたび普及させるためにまずは尾澤木彫美術館にて実際に木っ端人形の製作を体験した。実際に体験してみると道具の使い方が想像以上に難しいと感じた。また使用する道具も多く個人で気軽にできるものではないと感じた。 体験を踏まえて、講師による指導のもとで気軽に製作体験ができる体験会
2023-01-23
14
農村のテトメよ
男尊女卑が激しく当時は束縛が多かった女性だが農業をすることには何の束縛はないという当時の風習が分かるという部分が興味深く面白いです。 ▼この記事は以下から参照できます。 #364 #364 『西塩田時報』第84号(1930年11月1日)2頁 https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p0364.jpg
2022-12-26
15
課題発見ゼミ 12月15日 まとめ
12月15日分 調査まとめ 開国後の日本による生糸輸出と上田の関わりについて 上田藩主・松平忠固と生糸輸出 鎖国を解き、開国を果たした日本が世界に進出する際に大きな武器となった生糸の輸出。それに多大な貢献をした人物が松平忠固である。六代目上田藩主、幕府の老中も務めた松平忠固は、日本開国のきっかけとなった日米和親条約の締結に関わりがあった。この開国をきっかけとして、忠固は上田藩の特産品を諸外国に売ることで利益を上げようとしていた。 その中で注目されたのが上田の「生糸」である。雨が少なく乾燥した地域である上田は江戸時代ごろから蚕種業が始まっており、のちに蚕種業の発展に大きな貢献をした「藤本善右衛門」の家系が先駆けだと言われている。忠固は生糸の輸出を行うことを決め、生糸輸出による利益
2022-12-15
16
上田の蚕業について④
蚕業を行っていた頃の農家の主婦についても現在の社会の状況と重なる部分が多々あります。 女性の労働について記録された書籍(「人権の確立と女性のあゆみ」 (平成14年)編集者 上田市誌編さん委員会 発行者 上田市・上田市誌刊行会より)に載っている写真を見ると、家の一角のような場所で女性や子どもが写っていたり、女性が男性に交じって働く写真があったり、特定の性別や年齢で限らず、人々の生活に蚕業が根付いていたように思われます。特に女性の仕事は家事育児、給桑作業や農作業など多岐にわたるように見受けられました。 同誌によると、 「明治から大正期に蚕糸業が全盛であった上田地域では、多くの農家の主婦が蚕の世話に始まる農作業や家事に追われ、目の回る忙しさでした。乳幼児をかかえた母親たちも例外ではなく、重
2022-11-28
17
尾澤木彫美術館
尾澤木彫美術館では山本鼎氏が信州にもたらした農民美術に関連した作品や世界各国の木彫品を見ることができ、農村の風俗が表れた木片人形などは見ていてとても楽しい物だった。
2022-05-17
18
上窪池(かみくぼいけ)
上窪池は1645年に池を改修するまで「泥池」と呼ばれていた。 1957年の新農村建設で、ため池を使って養鯉を計画した際、その先頭に立ったのが上窪池である。これが成功し、塩田平の他のため池にも広がった。そして、1975年頃には生産量が1千トンを上回り、「塩田鯉」として全国に名をとどろかせた。 現在、上窪池のほとりにある泥宮の境内に「塩田鯉」と刻まれた石碑が建っている。 山田池でも養鯉が行われていたが、この上窪池が始まりであったことが分かる。 〈参考文献〉 信州上田 塩田の里 http://www.shiodanosato.jp/tameike/mukashi.php
2022-02-09
19
上田紬について③
上田紬が高級品になった背景 終戦後、まだ衣類が欠乏していた頃、商工省は京都のコブラン機とともに上田紬など数種を、技術保存織物として自由商品に指定した。 などの数種を、技術保存織物として自由商品に指定した。農家の家内生産によって、ほそぼそ自家用を織りだす程度であって、絹紬が機業として再開していく機会が、なかなか熟さないでいた。このとき昭和24~5年頃から、神科出身で元蒙古自治政府最高顧問をされた故金井章次氏は、軍放出の真綿を利用して糸を紡ぐことを提唱、農村副業による手織りのなかから紬織りの再興を考えた。草木染の紬織りを現代に生かそうと苦心をされる一方、草木染料や媒染材の化学研究をされて、生産量の増大や、新販路の開拓のことに努力をはらわれた。江戸時代からの上田縞・上田紬の名声は、特
2022-02-09
20
第二次世界大戦以後の上田紬
第二次世界大戦以後の上田紬 終戦後、まだ衣類が欠乏していた頃、商工省は京都のコブラン機とともに上田紬など数種を、技術保存織物として自由商品に指定した。 などの数種を、技術保存織物として自由商品に指定した。農家の家内生産によって、ほそぼそ自家用を織りだす程度であって、絹紬が機業として再開していく機会が、なかなか熟さないでいた。このとき昭和24~5年頃から、神科出身で元蒙古自治政府最高顧問をされた故金井章次氏は、軍放出の真綿を利用して糸を紡ぐことを提唱、農村副業による手織りのなかから紬織りの再興を考えた。草木染の紬織りを現代に生かそうと苦心をされる一方、草木染料や媒染材の化学研究をされて、生産量の増大や、新販路の開拓のことに努力をはらわれた。江戸時代からの上田縞・上田紬の名声は、特有
2022-02-08
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第二次世界大戦以後の上田紬
終戦後、まだ衣類が欠乏していた頃、商工省は京都のコブラン機とともに上田紬など数種を、技術保存織物として自由商品に指定した。 などの数種を、技術保存織物として自由商品に指定した。農家の家内生産によって、ほそぼそ自家用を織りだす程度であって、絹紬が機業として再開していく機会が、なかなか熟さないでいた。このとき昭和24~5年頃から、神科出身で元蒙古自治政府最高顧問をされた故金井章次氏は、軍放出の真綿を利用して糸を紡ぐことを提唱、農村副業による手織りのなかから紬織りの再興を考えた。草木染の紬織りを現代に生かそうと苦心をされる一方、草木染料や媒染材の化学研究をされて、生産量の増大や、新販路の開拓のことに努力をはらわれた。江戸時代からの上田縞・上田紬の名声は、特有の風合や柄模様にもあったが
2022-02-08
22
上田紬が庶民的なものから高級品になるまで~戦後以降~
第二次世界大戦以後の上田紬 終戦後、まだ衣類が欠乏していた頃、商工省は京都のコブラン機とともに上田紬など数種を、技術保存織物として自由商品に指定した。 などの数種を、技術保存織物として自由商品に指定した。農家の家内生産によって、ほそぼそ自家用を織りだす程度であって、絹紬が機業として再開していく機会が、なかなか熟さないでいた。このとき昭和24~5年頃から、神科出身で元蒙古自治政府最高顧問をされた故金井章次氏は、軍放出の真綿を利用して糸を紡ぐことを提唱、農村副業による手織りのなかから紬織りの再興を考えた。草木染の紬織りを現代に生かそうと苦心をされる一方、草木染料や媒染材の化学研究をされて、生産量の増大や、新販路の開拓のことに努力をはらわれた。江戸時代からの上田縞・上田紬の名声は、特有
2022-02-08
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井上農村公園隣のため池
井上農村公園隣のため池には複数種類のカモがおり、中でも上田ではあまり見ないオナガガモが観察できることが特徴的だった。この時は雪が少々降っていて、雪が少しカモの背中に積もっているのが風情あって美しかった。 池の面積は他のため池と比べても大きい方だったが、水鳥はオナガガモ2羽しかいなかった。理由はアシハラなどは生えておらず、縁もコンクリートで覆われている部分が多かったため栄養が少なかったと考察した。 観察した野鳥 ・オナガガモ ・ハクセキレイ ・ハシブトガラス
2022-02-01
24
ため池と防災
地震によって堤体に亀裂が入ったり、大雨によって水位が上昇したりして、決壊の危険性が高まることがある。これに対して、上田市はハザードマップを出している。
ため池ハザードマップ|上田市ホームページ
また、ため池は減災にも役に立っている。保水能力が高く、洪水を防いだり、土石流をせき止めたりすることもある。 実際に大雨被害では平成16年の台風23号によって淡路島だけで1013箇所のため池が被災し、内178か所が決壊してしまった。地震では平成23年の東日本大震災では、3700か所のため池が被災し、被害額約400億円の被害を出した。 参考
ため池の災害事例から見た減災機能と維持管理|茨城大学農学部毛利栄征
2022-01-30
25
ため池の現状と様々な機能
長野県のため池の数は全国26位の1892か所であり、全国的にため池は、瀬戸内海式気候の場所に多いことがわかる。この気候区は降水量が少なく比較的晴天率が高いという、上田市と同じような特徴を持っている。 ため池は様々な機能を持っている。 その土地独自の生態系を保ったり、地域の歴史的な文化の保持などが挙げられる。山間部のため池では、洪水調節機能や、土砂流出防止機能なども挙げられる。 また、現在、全国ではため池の様々な利用が進んでいる。福岡県福岡市では、蓮花寺池というため池に、水上太陽光発電を設置し利用を進めており、約400世帯の電気を発電している。 参考・引用
ため池をめぐる状況について|農林水産省農村振興局整備部防災課
2022-01-30
26
4 年表からひもとく
坂井村誌内の年表を一部引用し、特に重要な部分をまとめた。
昭和12年(1937年)
・
盧溝橋事件が勃発。村内の予備兵に召集下令があり、村内に一気に緊張感が流れた。
・銃後後援会(後に奉公会)結成、村防護団結成・応召家庭の農作業奉仕。 ・軍の指示により、初めて防空演習が行われる。 ・国防婦人会結成(全村)、国民精神総動員長野県実行委員会(会長・県知事)坂井村支部(支部長・村長)結成。 ⇒日中全面戦争の開始に伴って始められた、国民の戦争協力を促す官製国民運動。「精動」と略されることもある。1937年(昭和12)8月第一次近衛文麿(このえふみまろ)内閣は「国民精神総動員実施要綱」を閣議決定し、同年10月「挙国一致、尽忠(じんちゅう)報国、堅忍(けんにん)持久」のスローガンのもとに国民精神総動員
2022-01-29
27
民主苦言(『西塩田青年団報』第2号(1946年9月20日)1頁)
農村の民主化政策に対して消極的、反動的な意見を排除して意欲的に民主化を進めようと呼びかけた記事。 GHQを中心とした国内改革の成果が見られる記事であるように感じた。
2022-01-27
28
上田紬が庶民的なものから高級品になるまで~江戸時代から戦前~
古代から中世にかけて信濃の織物として知られていたのは、麻布であった。(中略)紬は屑繭等を原料として地機で織れたから、原料生産地がそのまま織物生産地となり得た。しかもそれは商品としてよりも、農村で自家用として織られている場合が多かった。 紬は、江戸時代の庶民に許された唯一の絹織物であった。 上小地方の蚕糸業は江戸中期を過ぎる頃から、1つは養種製造、もう一方は生糸生産へと重点が移っていった。江戸中期にすぐれた繰糸技術が取り入れられ、良質の生糸が生産されるようになった。その結果蚕種・生糸の生産で十分な利益を挙げることができるのであれば、手間のかかる機織をする必要はない。このようにして幕末期に近づくに従って、上小地方の上田紬・上田縞の生産は減少していった。 さらに安政6年横浜開港以
2022-01-26
29
上田紬が庶民的なものから高級品になるまで~江戸時代から戦前~
古代から中世にかけて信濃の織物として知られていたのは、麻布であった。(中略)紬は屑繭等を原料として地機で織れたから、原料生産地がそのまま織物生産地となり得た。しかもそれは商品としてよりも、農村で自家用として織られている場合が多かった。 紬は、江戸時代の庶民に許された唯一の絹織物であった。 上小地方の蚕糸業は江戸中期を過ぎる頃から、1つは養種製造、もう一方は生糸生産へと重点が移っていった。江戸中期にすぐれた繰糸技術が取り入れられ、良質の生糸が生産されるようになった。その結果蚕種・生糸の生産で十分な利益を挙げることができるのであれば、手間のかかる機織をする必要はない。このようにして幕末期に近づくに従って、上小地方の上田紬・上田縞の生産は減少していった。 さらに安政6年横浜開港以
2022-01-26
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上田紬が庶民的なものから高級品になるまで~江戸時代から戦前~
古代から中世にかけて信濃の織物として知られていたのは、麻布であった。(中略)紬は屑繭等を原料として地機で織れたから、原料生産地がそのまま織物生産地となり得た。しかもそれは商品としてよりも、農村で自家用として織られている場合が多かった。 紬は、江戸時代の庶民に許された唯一の絹織物であった。 上小地方の蚕糸業は江戸中期を過ぎる頃から、1つは養種製造、もう一方は生糸生産へと重点が移っていった。江戸中期にすぐれた繰糸技術が取り入れられ、良質の生糸が生産されるようになった。その結果蚕種・生糸の生産で十分な利益を挙げることができるのであれば、手間のかかる機織をする必要はない。このようにして幕末期に近づくに従って、上小地方の上田紬・上田縞の生産は減少していった。 さらに安政6年横浜開港以
2022-01-26
31
『農村女性のあり方』(『西塩田時報[戦後]』第4号(1947年4月20日)2頁)
農村で働く女性の扱われ方、女性という立場の不自由さが赤裸々に述べられている。 これからの社会では、もっと「男女平等」を図っていかなければならないということを訴えかけており、令和の今でもよく取り上げられる問題が、戦後のこの時代から問題視されていたのだと思うと考え深い。
2021-12-14
32
農村 (『西塩田時報』第108号(1932年11月1日)1頁)
これは農村の困窮についての記事です。時報のなかでもかなり新しいもので、農村で暮らす庶民のリアルな生活が書かれています。こういった時代のなかでも、より暮らしやすい世を目指すために声を上げる人がいるからこそ今の世があるのだと思いました。こういった姿勢を失わないようにしていきたいです。
2021-12-14
33
農村の若人に(一)(『西塩田時報』第121号(1933年12月1日)4頁)
この文章は、匿名のYさんから農村の若者に向けた物である。 世界は戦争や疫病により、落ちぶれてしまっている。世界では資本主義や社会主義、科学を主体とする思想も広がっている。日本もそれを色々と真似ようとしているが、執筆者から見たら、立派な青年(日本)が不良な青年(外国)と遊んでいて悪い癖を覚えさせられているように感じられているそうだ。現に世界恐慌の際、労働者と資本家も苦しんでいる中で、大資本家や国際的な資本家は卑しく笑っていた。また、人間は自ら見つけた科学を全力で成長させてきた。その科学は完全に人間の上に立ち、一切の指令権を持つようになり、人間は科学に職を追われ科学の犠牲になりつつある。歴史ある美しき日本を守れ。そして、大和魂を持って世界を再生することが使命である。 ある程度理解
2021-12-12
34
第三農村の疲弊(『西塩田時報』第124号(1934年3月1日)1頁)
私が興味を引かれたのは、「第三農村の疲弊」という記事。 インフレ景気において利潤を得る都市部の市場と比較し、経済状況に苦しむ地方農村の状況を述べている記事だった。 私が面白いと思ったのは、地元紙であるからこうした苦境に立たされている農村の人々に寄り添い、政治に批判的な内容を書くのかと思いきや、逆に自分たちの批判的な心を改めるべきだと述べている事だ。戦争が近づく中で、国に対する忠誠心なども高められてきたことも関係しているのだろうか、と推測でき、興味深かった。 この記事は以下から参照できます。 https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p0549.jpg
2021-12-11
35
海野町史-海野町の誕生
海野町は、真田安房守昌幸が先祖の地である海野郷から住人を移住させて、街並みをつくらせたのが起源である。また、三年遅れて、原の郷から招致したのが原町である。この海野町と原町を上田城下の元町という。海野町と原町は、真田・仙台・松平時代から明治・大正・昭和まで上田の中心枢要な位置にあり、共に商業経済の発展に貢献している。 海野町へ移住して来た人々は、海野郷大平寺村の住人で、氏神様の深海神社の祠(ほこら)だけを残し、全村挙って五十八家族が移住した。その人々は、思い思いに農村風の家を作り、大方南側に向き、従来に出入り口のない家や瓦をのせず床もない素朴な家に住んでいたという歴史が残っている。(海野町史第1章より)
2021-01-31
36
私の『西塩田時報』面白記事ピックアップ②
『ムシ歯予防デー(昭和12年6月1日)』通しp732 『ムシ歯予防デー(昭和12年6月1日)』についての私の意見を述べる。『歯の衛生と農村保健運動とは重大な関係を持つて居ります。』という書き出しにインパクトを感じ選んだ。現在の「歯と口の健康習慣」(6月4日~10日)はこの虫歯予防デーが元である。私は予防医療が浸透した時代に生まれたが、予防医療の発達以前はどのような取組み・姿勢だったのか興味がある。当該記事では『病は口より入る』の諺や『私達の病気は口から入つていくと言つてもいい位で、言はば病気の通路みたいなものと言へる』と、概念的に理解しやすいような記述が見られる。
2021-01-10
37
『西塩田時報』第3号(1923年11月30日)1頁
『弱きものよ、汝の名は農民なり』という題名の、秀三という人の詩のようなものが載せられている。 この詩は、サブタイトルに「~わが農村の人たちへ送る~」とあるように、西塩田の農民の人たちを鼓舞し励ましつつも政府を風刺している。 この記事は、西塩田時報が西塩田の人々に寄り添ったものであることがよくわかる記事で、詩の内容もとてもいい詩だなと感じられるものだった。 ▼この記事は以下から参照できます。 #9
『西塩田時報』第3号(1923年11月30日)1頁
2020-12-14
38
『西塩田時報』第3号(1923年11月30日)1頁
『弱きものよ、汝の名は農民なり』という題名の、秀三という人の詩のようなものが載せられている。 この詩は、サブタイトルに「~わが農村の人たちへ送る~」とあるように、西塩田の農民の人たちを鼓舞し励ましつつも政府を風刺している。 この記事は、西塩田時報が西塩田の人々に寄り添ったものであることがよくわかる記事で、詩の内容もとてもいい詩だなと感じられるものだった。 ▼この記事は以下から参照できます。 #9
『西塩田時報』第3号(1923年11月30日)1頁
2020-12-14
39
農村の若人に捧ぐ(『西塩田時報』第26号(1926年1月1日)4頁)
この記事は、農村の若人に対して捧げたいことが書かれており、それぞれの段落が「若人よ、」という詩のような始まり方で、若人に投げかけるように書かれている。 今でも若者が重要視されることが多いが、この記事が書かれた当時もやはり若人が注目されているように感じ、そして、若者は村や地域にとっては今も昔もとても大きな存在であると感じられる。 ▼この記事は以下から参照できます。 #118
『西塩田時報』第26号(1926年1月1日)4頁
2020-12-09
40
菱平農事実行組合 共有土地維持略歴
菱野区の旧公民館に掲げられていた共有土地維持略歴 ・明治維新により地域の共有林が国有林に編入されたこと、 ・図面作成の請負手となった区民が請負人の立場ではあったが、村民の利益を失うことに異を唱えたこと、 ・国の官吏との折衝に苦労してほぼ主張が認められたこと、 ・菱野区後平区の名義で登記できず、六人の共有名義としたこと、 ・1932年(昭和7)産業組合法が改正され昭和8年農事実行組合が組織されるに当たり、その名義としたこと、 ・菱野公会堂(旧公民館)新築に当たり、共有林からの材木を使ったこと、 ・将来に向かって愛郷の念が益々高まることを祈っていること がわかる。 菱平農事実行組合 共有土地維持略歴 大里村大字菱平字宇坪入 一四六八番イ号
2020-07-26
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尾澤木彫美術館の外観
尾澤木彫美術館は長野県上田市に位置する農民美術の美術館。館長の尾澤敏春氏およびその先代である尾澤千春氏の作品を数多く展示している。また世界各地の木彫人形も展示している。建物は新潟の豪雪地帯から移築した寄棟中門造の民家を改装したもの。 農民美術とは 長野県上田市を中心とした大正時代の工芸運動。東京美術学校を卒業し、パリで留学していた画家・山本鼎(1882~1946)が提唱した。冬場の副業として取り組み、農村の経済水準と文化水準を高めることを目指したもの。器や小物入れといった日用品から人形や木版画といった美術品、また手縫いや刺しゅう等その領域は多岐に渡る。 【参考文献】 石川義宗、禹在勇(2018)『長野県の木工文化:デザイン史から見た農民美術の意義』日本デザイン学会デザイン学研究概要集 神田愛子『
2020-07-15
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