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登録リスト(該当:95件)
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1
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1
松平忠固の側室おつま夫人
東京在住ですが、数年前から折に触れて上田藩士だった山口家のファミリーヒストリーを追っています。『埋もれた歴史』を出版なさった東郷えりかさんと2022年秋にお会いして以来、多くの方法を教えていただいています。この春、上田市立博物館と上田市立図書館で調査したところ、松平忠固の側室おつま夫人について私なりの発見がありました。先祖調べを始めた亡母にもきっと想定外のこと、調べるほどに興味深い事実に出会い、歴史を大切に扱ってこられた上田の方々に感謝の念を強くしています。
2024-06-20
2
舌喰池
日本遺産の「塩田平のため池群」の一つである。年間降水量が全国で最も少ない上田市は、農業用水を確保するためにため池を100か所以上作った。そのうちの一つが舌喰池である。貯水量は、138,000㎥、満水面積は、61,400㎡、堤高は7.0mである。舌喰池周辺の水田では、上田藩で作られる米の約半分が作られ、他にも雨乞いをする儀式の場としても使われた。舌喰池の名前の由来の一つとして、ある昔話が関係している。昔この池が造られた頃、土手から水が漏れて、十分に水を溜めることができなかった。そこで池の改修をするにあたり、土手に、生きた人を土中に埋めて祈るという「人柱」を入れなければ水が溜まらないという話があった。 くじ引きで決められたある娘さんは、日夜悲しみに明け暮れていたが、人柱に立つ前の晩、身の不運を嘆いて舌
2024-02-13
3
信州上田祇園祭
美しい装飾の神輿40基と、賑やかな「そいや」の掛け声。提灯がたくさんついたような見た目の神輿の中には「樽みこし」というものもあるらしい。とにかく賑やかで迫力のある祭りだった。 この祭りの起源は上田藩の重要な行事として行われていたことにあるそうだ。以来、真田氏、仙石氏、松平氏の時代を通じて、疫病退散や豊作、地域安泰などを祈願し行われてきた。後に信州上田祇園祭実行委員会が結成され現在のようなお祭りが行われるようになったという。 このお祭りは特に人々の熱量がすごく感じられた。近隣の夏祭りの先陣を切る祭りでもあるらしい。一年間待ち望んだ祭りだからこその熱量なのだろう。
2024-02-12
4
6代松平忠優(忠固)はどんな人物か
下の画像:ミッチーの画像を引用 上田市中央にある願行寺の松平氏の墓所を訪れた。写真に見えるのは、四角い石碑を外して、右手側から、上田藩6代藩主の松平忠優(ただます)またの名を忠固(ただかた)、4代藩主の松平忠済、そして忠済の嫡男で20歳くらいで若くして亡くなった忠英(ただつね)の墓である。この記事では、松平忠固の功績を取り上げたい。 忠固を一言で表すとすれば、幕府の体制を、開国つまり外国と貿易を始めるよう向かわせた人物である(オランダ、中国、朝鮮は入らない)。なぜか。忠固は二度、幕府の中枢つまり幕閣で老中という役職を務めている。そして、忠固の一度目の就任期間時には、幕府は日米和親条約を締結し、二度目の就任期間時には、幕府は日米修好通商条約を締結している。忠固は開国派の立場を
2024-02-08
5
紺屋町 八幡神社
上田市中央西にある神社。境内には小さな公園もある。 市指定の文化財に指定さている「紺野町八幡社絵馬」が奉納されていた。現在は上田市立博物館に展示されている。 1688(貞享8)年、徳川綱吉が世を収めていたこの時代に当時の上田藩主、仙石政明らによって奉納された大絵馬である。高さは102㎝、幅160cmの大きさを誇り、黒と白の大鷹が描かれている。長谷川派の作者によるもの。 この神社は上田城から見て鬼門の方向にあるため、当時から上田城主に手厚く保護されていたようだ。 近くにはスーパーやホームセンター、喫茶店があるため買い物やお茶ついでにいらしてほしい。
2024-01-20
6
水かけ地蔵
旧街道でもある柳町商店街の入り口付近にちんまりとたたずむ一体のお地蔵様。すぐ近くにある湧き水を柄杓ですくい、お地蔵様にかけると縁結びのご利益があるようだ。 この湧き水は明治時代初期に海禅寺の境内から柳町まで地中に敷いた木管を流れてくる「保命水」だという。 隣の石碑には江戸時代の俳人である加舎白雄が柳町で詠んだ句が彫られている。白雄は上田藩主の次男である。 「白壁に 百筋あまり 柳かな」
2023-12-21
7
生島足島神社
生島足島神社は、生島大神と足島大神を祭っている神社である。御神体は「大地」であり、日本の真ん中に位置している神とされている。中世以降は、武田信玄や真田氏など歴代の上田藩主に守られたとされている。
2023-12-19
8
生島足島神社
平安時代初期にまとめられた延喜式に「生島足島神社二座名神大」と載っている。中世末期以降には「下之郷大名神」などと呼ばれ、武田氏や歴代上田藩主の保護を受けていたという歴史がある。
2023-12-07
9
男池
日本遺産の「塩田平のため池群」の一つである。上田市の池は戦国時代から昭和時代までの間に数多く作られてきた。その背景には、上田地域が全国でも有数の寡雨地域であることがある。一方、雨が少ないため晴天の日が多く、気温も低すぎることは無かった。したがって、肥沃な土地で農業用水を確保さえすれば、水田農業に適した土地であった。農民たちはため池を造成し、男池も農業用水確保のために作られた。男池は、江戸時代に仙石氏が統治していた時に作られたため池であるとされている。江戸時代では、ため池の存在は重要であったため上田藩をあげて作られた。現在の男池は、農業用水として使われ、産川からため池に水を貯水している。男池の貯水量は約50000㎥で、満水面積は約20600㎡、堤高は8mである。 男池が作られた背景を知る
2023-11-30
10
生島足島神社
上田市を代表する生島足島神社を探求することで、歴史について感じ取れると思ったので、生島足島神社について紹介する。 日本遺産に認定されている生島足島神社は、太古より国土の鎮守と仰がれ、国の真ん中あたりにお祀りされる大八洲(日本列島)の神、生島大神・足島大神が鎮座している。寛政11年に生島足島神社と社名を改めており、中世以降には「下之郷大明神」「諏訪法性大明神」などと呼ばれ、武田信玄や真田氏、歴代上田藩主の手厚い加護を受けた。参道は、夏至に朝日の太陽が昇り、冬至には夕日の太陽が輝くという東西に延びる太陽の線上に配置されており、「太陽」と「大地」を結ぶ神社といわれる。 生島足島神社を訪れた時、七五三の人数が多くて、上田市を代表するとともに、昔から市民に愛されている神社であると
2023-11-30
11
生島足島神社 諏訪神社
諏訪神を祭神としている。上田藩主真田信之が建てたことがわかっている。社殿の軸部は朱漆塗、羽目板や軒裏板は胡粉塗彫刻は極彩色とするなど全体に彩色を施してある。これは塗り直しによって塗られたものだが当初から同じように塗装されていたと考えられる。 生島足島神社の少し奥まった場所にあるためはじめは気づかないこともあるかもしれないが美しい朱色でありとても美しい建物であるため是非訪れてほしい場所である。
2023-11-29
12
5代松平忠学と明倫堂
この場所にはかつて、松平忠学(たださと)の命によって設立された明倫堂があった。ここで、上田藩の多くの若者が文武教育を受けた。 私が散策したところ、この学校(現在は上田市立第三中学校となっている。)は3種類の石垣によって囲まれているのが分かった。左から二つ目の石垣は、横に長く敷き詰められており、一枚一枚はの厚さは薄く、どれも四角形であった。左から三つ目の石垣と一番右の石垣を比べると、左の石垣は、全体的に白く、配列がきれいである。それに対し右の石垣は、全体的に黒いけれども青、赤、黄などの色の石もあり、また、上にいけばいくほど石の大きさが小さくなっている。配列が乱れている箇所もある。 おそらく左から二番目の石垣は今日に近しい時代に、一番右の石垣は古い時代に積まれたものだろう。
2023-11-25
13
4代松平忠済と藩主居館の門
これは歴代の上田藩主が住んでいた居館の表門である。寛政1年(1789)にこの門と居館は全焼したが、松平忠済(ただまさ)が翌年に再建させている。 瓦屋根の軒の両端を見てほしい。上田藩松平家の家紋「五三の桐紋」があしらわれた瓦が取り付けられている。屋根の棟板金を見てほしい。ここにもまた家紋の飾りが2つ取り付けられている。家紋の瓦からは、この門が持つ格式の高さが感じられる。門の両側には、白い塀がずらっと続いている。何だか「居館」というよりも「お寺」のイメージを彷彿とさせる。軒下には雨樋が付いている。化合した金属で作られたものだろう。江戸時代だったら、木材や竹で雨樋を作っただろうから、この樋は最近のものだろう。 門だけでなく雨樋や塀、屋根の状態などを見ると面白いだろう。
2023-11-25
14
仙石氏~松平氏 藩主の移り変わり
仙石氏3代の後に上田藩主を務める松平氏は、上田藩の歴史の中で一番長い7代続くことになる。松平氏で初めて上田藩主を務めたのは松平忠周であるが、彼の時代に上田へ移封されたのだが、同じく但馬国出石(兵庫県)へ移封された仙石氏とは領地を入れ替わる形で上田を収めることとなった。 参考サイト 上田市デジタルアーカイブポータルサイト https://museum.umic.jp/sakuhin/web.html 上田市立博物館 https://museum.umic.jp/hakubutsukan/ueda-castle-history/03/
2023-01-29
15
初代上田藩主 真田信之
真田信之は初代上田藩主を務めた人物であり、上田城を築城した真田昌幸の息子である。信之は徳川家に仕える猛将本田忠勝の娘、小松姫と結婚し、関ヶ原の戦いでは父昌幸、弟幸村とは対立することとなる。その後は上田領を任され、農村の復興と上田城下町の整備に尽力したが、1622年に松代へと移封されることとなる。 参考サイト 上田市デジタルアーカイブポータルサイト https://museum.umic.jp/sakuhin/web.html 上田市博物館 https://museum.umic.jp/hakubutsukan/ueda-castle-history/03/
2023-01-28
16
松平忠固
松平家は仙石氏3代の後に上田藩主を務める事になった家である。その中でも特に功績を残したのが忠固であるといえるだろう。忠固は上田藩主だけでなく当時の江戸幕府老中も務めており、条約の締結や、開国が成された際に上田の特産物を貿易に用いようと提案した人物でもある。 参考サイト 上田市立博物館 https://museum.umic.jp/hakubutsukan/ueda-castle-history/03/ 松平忠固史 https://www.matsudairatadakata.com/
2023-01-28
17
別所温泉の歴史
塩田平を囲む山なみの西方にそびえる夫神(おがみ)岳のふもとに、この地方の古い歴史とともに、絶えまなく湧き続けて来たのが別所の温泉である。この自然の出湯と人とのかかわりは、夫神岳の麓から古代の布目瓦が多数発掘されたことによっても、その古さが想像される。 国造や国府の所在していた古代から、庶民の安息療養の場所であり、また温泉の効能と医薬信仰が、やがて仏教の霊場としての北向観音堂となったであろう。 別所の温泉は昔から”七久里(ななくり)の湯”と呼ばれたといわれ、平安時代の有名な和歌集にもその名をとどめている。 鎌倉時代には北条氏の居館塩田城にも近いので北条一族の好んで来湯することも多かったと想像される。国宝八角三重塔のある名刹安楽禅寺は北条氏の開基によるところから、別所とい
2023-01-26
18
市街地方面の神社・寺院と真田氏
上田城周辺には、神社・寺院が多数存在する。しかも、同じような場所に集まっている場合が多い。これは、地域のシンボルである上田城に深く関わってくる。1583(天正11)年、上田城を築城した真田昌幸は、城下町として海野町を作った。これは、先祖の地である海野郷(現在の東御市本海野)より、新たな本拠地近くに住民を移住させたことに由来する。それに伴い、海野郷近辺にあった寺院を城の近くに移した。例えば願行寺や日輪寺といった寺院がこれに該当し、真田氏の先祖である海野氏が開いたとされる場合が多い。特に願行寺は、江戸時代に上田藩の菩提寺になったほど、この地域や人々に深く根付いていたと考えられる。また海野町には、商売繁盛を利益とする高市神社がある。これは昌幸がつくったものだ。 このように、上田城を築城す
2023-01-26
19
仙石氏中興の祖 仙石秀久
上田藩主を務めてはいないが、仙石氏について調べる上で欠かせない人物が秀久である。秀久は織田、豊臣に仕えた後、関ヶ原の戦いでは徳川方に参戦していた。豊臣時代に小諸城主と小諸藩主を務めたが、仙石氏は小諸藩から上田藩に移封されることとなった。秀久は小諸藩時代に死去していたため息子忠政が信之の跡を継ぎ、仙石氏3代による上田統治の時代が始まった。 参考サイト 上田市デジタルアーカイブポータルサイト https://museum.umic.jp/sakuhin/web.html 上田市立博物館 https://museum.umic.jp/hakubutsukan/ueda-castle-history/03/
2023-01-25
20
真田氏~仙石氏 藩主の移り変わり
仙石氏が上田藩主を務めることになった理由は、1622年に当時の上田藩主を務めていた、真田信之(幸村の兄)が松代へ移封されたことが原因である。 「上田城は真田の城」というイメージが強いが、実は真田氏が城主を務めたのは信之とその父昌幸の2代だけである。 参考サイト 上田市立博物館 https://museum.umic.jp/hakubutsukan/ueda-castle-history/03/
2023-01-25
21
別所温泉 解説
塩田平を囲む山なみの西方にそびえる夫神(おがみ)岳のふもとに、この地方の古い歴史とともに、絶えまなく湧き続けて来たのが別所の温泉である。この自然の出湯と人とのかかわりは、夫神岳の麓から古代の布目瓦が多数発掘されたことによっても、その古さが想像される。 国造や国府の所在していた古代から、庶民の安息療養の場所であり、また温泉の効能と医薬信仰が、やがて仏教の霊場としての北向観音堂となったであろう。 別所の温泉は昔から”七久里(ななくり)の湯”と呼ばれたといわれ、平安時代の有名な和歌集にもその名をとどめている。 鎌倉時代には北条氏の居館塩田城にも近いので北条一族の好んで来湯することも多かったと想像される。国宝八角三重塔のある名刹安楽禅寺は北条氏の開基によるところから、別所という地名は
2023-01-25
22
塩田平の魅力の発信
塩田平のちにはため池が点在しており、塩田平の駅を降りるとため池が広がっています。もともとこの土地は塩田3万石といわれる上田藩の穀倉地帯だったのにも関わらず、恵みの雨が少ない地域でした。そのため、古くから人々にとってため池は、支えになっていたのです。そして、この塩田平には長い歴史があります。歴史があるということは、人が生きた物語があるということです。私は、こういったものを上田の地元の人はもちろん、観光客の方にも伝え発信していきたいと考えました。 こういった、地方の魅力を磨き上げ発信していくためには、まず若者の力は必要です。しかし、現在、地方の若者の人口は年々減少し、若者はみんな都心に流出していしまっています。その原因には、地方の地元の魅力をあまり理解できてなく、利便性だけが追
2023-01-23
23
1年後期 前川課題発見ゼミ最終まとめ
調査テーマ「地域の特色・歴史」まとめ 上田の歴史的な出来事・人物と聞かれれば多くの人々が「真田氏」に関する事柄を思い浮かべるだろう。しかし、今回の調査を行う中で、真田氏以外にも日本の歴史・文化に多大な影響を与えたと言える人物も存在することを知った。 例えば、上田藩主を務めただけでなく、江戸幕府老中として条約の締結にも尽力した「松平忠固」、日本の児童画に大きな転換・影響を与えた「山本鼎」は良い例だろう。功績としては素晴らしい物であると断言できるものばかりだ。 特に山本の考えは当時としては(今の価値観で考えても)先進的な物だった。山本は真の意味での「自由」を求めた人物であり、今日の教育活動に一石を投じるものであると感じた。現代ですら「型にはまった教育」が基本的である中、山本は
2023-01-19
24
12月22日分 調査まとめ
上田城の築城・歴史 「日本一の兵」真田幸村を輩出した真田氏は、現在の上田市真田町の周辺を拠点として活動していた。上田城の築城が開始されたのは1583年のことで、真田幸村の父である真田昌幸によって築城が開始された。当時徳川家康に仕えていた昌幸は、その援助を受けながら築城をしていた。しかし、北条と手を組もうとする徳川から土地の受領を要請された際にこれを拒否。徳川と断絶した昌幸は、上杉家に助力を求め次男の幸村を人質に差し出す。これにより、上杉方から戦力と築城の支援を受けた。上田城が一旦の完成を迎えた1585年、家康は鳥居元忠らを真田領に進軍させ「第一次上田合戦」が始まった。およそ1万の軍勢で進軍してきた徳川軍を昌幸は謀略を用いて少数の軍勢で撃退した。時は流れて関ヶ原の戦い最中の1600年、家康の息
2022-12-22
25
課題発見ゼミ 12月15日 まとめ
12月15日分 調査まとめ 開国後の日本による生糸輸出と上田の関わりについて 上田藩主・松平忠固と生糸輸出 鎖国を解き、開国を果たした日本が世界に進出する際に大きな武器となった生糸の輸出。それに多大な貢献をした人物が松平忠固である。六代目上田藩主、幕府の老中も務めた松平忠固は、日本開国のきっかけとなった日米和親条約の締結に関わりがあった。この開国をきっかけとして、忠固は上田藩の特産品を諸外国に売ることで利益を上げようとしていた。 その中で注目されたのが上田の「生糸」である。雨が少なく乾燥した地域である上田は江戸時代ごろから蚕種業が始まっており、のちに蚕種業の発展に大きな貢献をした「藤本善右衛門」の家系が先駆けだと言われている。忠固は生糸の輸出を行うことを決め、生糸輸出による利益
2022-12-15
26
小文『プリンス・マツダイラ物語』
明治5年からアメリカへ留学した最後の上田藩主・松平忠礼と弟の忠厚。その後忠厚は日本へ帰ることなく土木と建築を学びアメリカ人女性と結婚し、エンジニアとして測量器具を発明、大陸各地の橋や鉄道建設に携わる活躍をしながらも肺結核に倒れ、37才の若さでデンバーで亡くなりました。 今では上田の方々にはよく知られた話ですが、2000年上田市立博物館での松平忠厚展を機にした『プリンス・マツダイラ物語』は、2人の留学に随行した山口慎(山口平太郎毅の息子)の孫の金子香代が2004年「文芸せたがや」に書いたものです。ファミリーヒストリーの延長で当時随筆部門の3席でしかなく、批評の通り、練り直しを考えつつもできないまま没しました。そんな母の小文ですが、最近Wikipediaなどから関心を持って下さる方がいるので、この場をお借
2022-12-02
27
眞田神社
眞田神社は上田城本丸跡に鎮座しており、真田氏、仙谷氏、松平氏という歴代の上田城主を御祭神としている。しかし、本来は松平家の御先祖をお祀りする御宮であり、松平(しょうへい)神社と称していた。 松平家は、真田氏、仙谷氏のあと、江戸時代中期から明治の廃藩に至るまで7代160余年の長きにわたる上田藩主であった。 上田藩主となった系統の藤井松平氏の初代忠晴公は、隠退後は忠山と号した。寛文9年(1669)に亡くなった。忠山公の御墓所は京都の金戒光明寺にあり、京都に忠山公の御霊をまつる忠山社が設けられてもいた。これが眞田神社の起源となっている。 明治維新の変革の中、国に接収された上田城もまもなく民間に払い下げられ、城跡は急速に桑園・麦畑などに変化していった。そのような情勢の中で、旧上田藩士や
2022-11-30
28
正福寺
「戌の満水」の流死者を上田藩主の命令で段丘上の秋和の正福寺の門前に引き上げ、埋葬して、後に碑を建てた。それが千人塚と呼ばれている。
2022-11-03
29
上田藩士・山口毅(平太郎)
山口毅(つよし、通称:平太郎、号:玄山)1818年(文政元)-1873年(明治6) 山口家は初代権兵衛が1673年(延宝元)に召し出されてより代々上田藩士で、毅は6代目。松平忠礼が藩主を継いだ後、塩崎の旗本松平家へ養子となった弟の忠厚について塩崎知行所代官として仕える。明治維新後は権大参事職。明治2年に忠礼の御婚姻御用掛、明治4年には翌年にアメリカ留学を控えた忠礼と忠厚の御修行御供を命じられたが、病気のため次男の山口慎(別のファイル)に後を託し退職する。明治6年、東京の旧藩邸で死去、56才。
2022-05-10
30
江戸の上田藩中屋敷跡を対岸から望む
▲上:上田藩中屋敷跡を対岸から望む ▼下:『江戸切絵図・浅草御蔵前辺図』の部分(屋敷は松平伊賀守と記されている) (下記国立国会図書館の図版を使用) 隅田川のこの地点(▲上)は、東京都墨田区横網町になります。ちょうど背後に両国国技館がある辺りの位置です。対岸は浅草橋付近、かつては浅草瓦町と呼ばれた辺りで、上田藩中屋敷の跡地になります。向かって右手方向は幕府の御蔵(米蔵)が建ち並んでいた場所になります。言い換えれば、舟運が物流の主流であった時代、ここがまさにその物流の江戸の中心地でした。 上田藩の江戸屋敷は年代によって変遷します。上屋敷は長らく神田の昌平橋付近にありました。上田藩主松平忠固が老中になったのに伴い、上屋敷は大名小路(現在の皇居外苑)に移ります。その後、幕末はこの
2022-05-09
31
『埋もれた歴史』自費出版の労作
今から3年ぐらい前になるのかな? ふだんは翻訳のお仕事をされている東郷えりかさんが歴史の探求で上田市に来られてその時にお話をお聞きし、上田市教育委員会にご案内しました。その探究成果を『埋もれた歴史』という書籍にまとめられました。それが2年前の2020年です。 書籍の表紙の写真にご注目ください。馬に乗る人物が最後の上田藩主松平忠礼です。その傍に佇む方が東郷さんの高祖父の方になります。この方は「
門倉伝次郎
[LINK]
」です。『
上田市史・下巻
[LINK]
』(1940年、1238~1239頁)に記されています。 幕末、上田藩上屋敷は隅田川に面した浅草瓦町、幕府の御蔵のすぐ隣にありました(「
2022-05-08
32
山口慎『白露日記』改訂・現代語訳(明治中期のペルー日記)
私の曾祖父・山口慎の『白露日記』(明治22-23年)の現代語訳を今回少し改訂しました。上田藩出身の武士道精神は潔く、故郷の多くの方に知っていただければと思います。 山口慎(1846-1913)は上田藩士・山口毅の次男で、明治5年に松平忠礼・忠厚兄弟公のアメリカ留学に随行し、帰国後、東京銀座で日本初の西洋酒問屋「清水谷商会」を営みました。明治22年、高橋是清のペルー銀山開拓事業に同行し、その顛末を『白露日記』として残します。明治45年、旧藩主・松平家の財政再建を頼まれ、東京の松平邸に移り住んで私財を投げうつも病いに倒れました。 五味篤氏の『銀嶺のアンデス』、板谷敏彦氏の『小説高橋是清』でも取り上げられた日記です。
2023-05-20
33
山口慎『白露日記』原本
激動の明治時代を生きた上田出身の私の曾祖父・山口慎について上田の方々に知っていただけたらと思い投稿します。別ファイルに現代語訳があります。 山口慎(1846-1913)は上田藩士・山口毅の次男で明治5年松平忠礼・忠厚兄弟公のアメリカ留学に随行し、帰国後は東京銀座で日本初の西洋酒問屋「清水谷商会」を営む。明治22年、高橋是清のペルー銀山開拓事業に同行し、その顛末を『白露日記』に残す。明治45年には松平家から財政再建を頼まれて、東京の松平邸に移り住み私財を投げ打つが病いに倒れた。
2022-05-07
34
蕎麦でつながる地域の輪
但馬には出石という場所があり、出石そばが有名です。 実は、この出石そばは上田と深いつながりがあります。 江戸時代中期のお国替えにより、出石藩主松平氏と信州上田藩仙石氏が入れ替わりとなりました。 その際、仙石氏とともに来たそば職人の技法が在来のそば打ちの技術に加えられ、出石そばができました。 このことがきっかけで、出石が所属する豊岡市と上田市は姉妹都市として交流しています。 いつか出石そばと信州そばを食べくらべしてみたいです。
2022-05-05
35
自力で、ファミリーヒストリー
人物伝に、曾祖父志津衛は、上田の士族、鈴木幸蔵の次男とあります。兄は平吉さん。こちらが本家筋になります。外地で殉職して、引き揚げてきたため、志津衛の墓石は、本家の隣に置かせていただいています。そこには古いご先祖様方の墓石があり、三太夫重明、彦三郎重義、重直、六郎衛門頼母などの名前が読み取れます。これら検索して行くと、静岡あたりにつながるようなのですが、どうなのでしょう?上田にはたくさん古地図が残っていてアーカイブ化されていますね。街中にも掲示されているものがあります。どれどれと探していると、鈴木姓がいくつか見つかりました。助之進という方は娘が殿様に嫁入りされたような・・・ 昨日、上田にお邪魔した際に、再度その地図を確認したところ市役所に隣接している場所に、鈴木平太左衛門とい
2022-02-21
36
「私の地域探求」一覧(情報通信文化論2021成果物)
★
:マイテーマ
◆
:探求者のマイサイトにリンク 【1】~【7】の地域は上田
【1】上田の歴史
★
1「上田藩第6代藩主 松平忠固」
(探求者:
yo-to
)
★
2「上田の歴史(貿易、蚕糸業、金融)」
(探求者:
じょうじ
)
◆
3「明治の上田での生活」
(探求者:
T
)
★
4「戦時中の暮らしについて」
(探求者:
みるくた
2022-02-13
37
上田藩主としての松平忠固
出典:横浜市「横浜港の歴史(変遷図、年表)」https://www.google.com/url?sa=i&url=https%3A%2F%2Fwww.city.yokohama.lg.jp%2Fkanko-bunka%2Fminato%2Ftaikan%2Fmanabu%2Frekishi%2Fhistory0.html&psig=AOvVaw2ehsoQQMOejw2Wg80v6XoR&ust=1644781455506000&source=images&cd=vfe&ved=2ahUKEwjptbDE9vr1AhWdTPUHHbouAioQr4kDegUIARC_AQ 上田藩主としても忠固は養蚕・生糸・絹織物産業を振興し、生糸を日本の代表的輸出品へと押し上げた。条約調印前から生糸輸出の準備をし、老中から失脚した後も横浜開港に備え生糸輸出に注力した。生糸輸出の先駆けとなったのはやはり上田藩だった。 しかし、忠固は横浜開港から三か月後の1859年7月1日に死去してしまう。 忠固の先見の明に感服すると同時に、後世でいいように言われ続けたのはこの早世による部分もあるのではないかとも思う。
2022-02-08
38
松平忠固とは
松平忠固(1812年~1859年)は上田藩の第6代藩主(上田城主に直すと真田昌幸から数えて11代目)で、日米和親条約と日米修好通商条約の調印時に老中を務めた人物である。最初の老中就任時は「忠優(ただます)」という名で、二度目の時は「忠固(ただかた)」に改名している。 忠固は終始一貫して開国と交易を主張し、徳川斉昭や井伊直弼と対立しながらも二つの条約の調印を断行した。その一方で、養蚕業を推進して海外輸出の地盤を固め、日本経済の礎を築いた。
2022-02-08
39
上田藩第6代藩主 松平忠固
関良基著『日本を開国させた男、松平忠固: 近代日本の礎を築いた老中』 当初、上田藩主をマイテーマとして設定していたが、歴代藩主は扱いきれないため、今回は上田藩主の中でも特筆すべき功績を持つ松平忠固をマイテーマとし、探求してきた成果を伝えていきたいと思う。 基本的な情報源は、関良基著の「日本を開国させた男、松平忠固 近代日本の礎を築いた老中」になるが、私たちが学んできた常識を覆される内容が多くあるので、ぜひ歴史的事実との違いを感じてほしい。
2022-02-08
40
蚕都
江戸中期の寛保2年、奥州(福島県)でのこと。福島の蚕種家、遠藤氏が自家で製造した蚕種(蚕の卵)を「蚕都」と命名。この蚕種を遠藤氏と親交のあった上田藩上塩尻村の塚田与右衛門が仕入れ、当地近郷で販売したことから「蚕都」の名が上田小県で知られるようになった。 「参考文献」画像 https://www.tamarokuto.or.jp/blog/rokuto-report/2020/09/05/kaiko25/
2022-02-08
41
上田藩主居館
現在上田高校がある場所には、かつての真田氏以降、仙石氏、松平と続いた上田藩主の居館がありました。一般的に城主の御殿は城の本丸に設けられていますが、上田城は徳川家に恨みを買っていた歴史的背景があり、三の丸とはいえ城の中心からだいぶ離れた場所に建てられました。同行東側の表門と、その両脇に続く土塀、堀、土塁は上田市の文化財に指定されています。
2022-01-31
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上田紬について①
〇紬とは 紬とは、紬糸を平織りにした絹織物で作られた着物のこと。 絹特有の光沢を持つ生糸とは違い、紬糸で織られた生地は落ち着いた光沢と凹凸のある表面で独特の風合いがある。 丈夫で軽く、普段着やちょっとしたおしゃれ着におすすめな着物で、最初はかっちりとした着心地ですが、着慣れるほどに柔らかく馴染んできます。簡単に言うと、糸を先に染めたあとに布を織る絹織物でかつ、カジュアル 用のきもののことです。 〇上田紬の魅力 目の細かい糸使いでしっかりと織り込まれていて丈夫で強い。縞・格子柄が多く、 シンプルで飽きのこないデザインで江戸時代から織り継がれている。また、大島紬や結城紬と並ぶ日本の三大紬として知られ、紬の中でも軽くて丈夫なことから全国で広く愛用されてきた。 〇上田紬の歴史 今から
2022-01-27
43
ため池の工事
江戸時代の塩田のため池の工事は、元は小さな池を広げることから始まったそうです。「塩沼という小さな池だったのを、村人が殿様(仙石忠政)に願い出て、元禄12年(1702年)に大きな池にする工事が行われ、塩吹池は東西194メートル、南北212メートルの大きなため池になりました。このような大きな工事の費用は上田藩が出しました。」引用
ため池のれきし-信州上田|塩田の里|とっこ館
(2022/01/26閲覧)とあるように大規模な工事であったことがうかがえます。このような大規模な工事を経て、今私たちが住んでいる塩田平の風景が形成され、この土地に住む人々を助けています。 参考:
ため池のれきし-信州上田|塩田の里|とっこ館
2022-01-26
44
ため池がもたらしたもの
塩田平のため池は、平安時代の条里制の地割りが残っているため、平安時代からため池があったことが推測されますが、史料が残っていません。そこから、江戸時代から盛んに開発がされました。すると、ため池を得た塩田平の農地は、生産量を伸ばし、結果として、上田藩の約半分を占める石高を残し、「塩田3万石」ともいわれるようになりました。それらは今でも塩田を潤しています。 参考:
ため池のれきし-信州上田|塩田の里|とっこ館
2022-01-26
45
小島大池(こじまおおいけ)
小島大池は塩田平の中でも大きなため池であり、1618年に造られたものである。そんな小島大池の1689年に起きた事件についての民話を紹介していきたい。 下之郷山から降りてきた沢山の猪によって田んぼが荒らされ、田んぼの稲を守ろうと玉の入っていない鉄砲を一発打った。驚いた猪は小島大池に飛び込んでしまい、22匹のうち5匹が溺死してしまった。 騒ぎが大きくなり上田藩に届け出たところ、役人から「入念に猪の死骸を埋め、猪が死んだ理由を書いた木札を立て、周りを竹矢来で囲みなさい」といった処置が命じられた。 なぜ猪のためにこれほど大騒ぎになったのか。それは、当時徳川幕府の将軍綱吉が「生類憐みの令」を出しており、動物に危害を加えた場合重い罰が与えられたからである。 なお、小島大池に実際に行ったところ、現在工
2022-01-26
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空池(からいけ)
空池は、1734年5月に西前山の庄屋児玉伝兵衛がため池を造る許可を上田藩に願い出たことで作られた。1737年2月14日から毎日5~600人、延べ10,167名もの人足が動員され、1ヶ月後の3月15日に完成し、翌3月16日に完成届(目録書)が上田藩に差し出された。 しかし、水が思うようにたまらず1736年4月14日から6日間、約600人の人足をかけ、1737年には2,240人の人足をかけて池の修繕をしたが、漏水が多く2~3年後には空池となってしまった。 現在は公民館と付近の畑が池の跡地である。 〈参考文献〉 信州上田 塩田の里 http://www.shiodanosato.jp/tameike/mukashi.php
2022-01-26
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手洗池(てあらいけ)
手洗池には二つの名前の由来がある。こららを紹介したいと思う。 昔、柳沢村(現上田市古安曽)に幹が6メートルもある大きなけやきの木がありました。ある秋、このけやきの木の枝が折れてしまい、村人は何か変わったことが起きるのではないかと心配していました。すると翌年の夏、すさまじい嵐が起こりました。このため山のほとんどの木が風や落雷のために倒れてしまい、村人は途方に暮れました。さらにこの年も大きなけやきの木の枝が折れてしまい、その翌年もまた大荒れに見舞われました。村人たちは、大きなけやきのせいではないかと考えるようになり、どのようにしたらよいか考えていました。 ちょうどその時、木曽義仲に仕えていた手塚太郎金刺光盛という人が、丸子のお城から手塚へ帰る途中、柳沢を通られましたので、相談した
2022-01-26
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山田池(やまだいけ)
山田池は1938年に沢山池が造られるまで塩田平一の大きなため池だった。 池の歴史は古いため増築年は不詳だが、1650年にそれまで並んでいた2つの池を1つにまとめ現在の池ができた。 この池では、1840年頃に養鯉を試みたり、上田藩の事業として薬草の栽培をしたりしていた。古くから農業用水の確保としてだけでなく、様々なことに利用されていたことが分かる。 〈参考文献〉 信州上田 塩田の里 http://www.shiodanosato.jp/tameike/rekishi.php
2022-01-26
49
上田藩の死者数、正福寺の千人塚
千曲川流域には、「戌の満水」の流死者供養塔が幾つも残されている。それには2種類ある。一つは、多くの犠牲者を出した現地に建てられたもの、もう一つはたくさんの流死者が流れ着いて埋葬された場所に建てられたものだ。千曲川の上流では、上畑村(佐久穂町・248人)小諸城下(小諸市・507人)所沢川流域の金井村(東御市・130人)田中宿・常田村(東御市・68人)などで多くの流死者を出した。そして、まず大量に流れ着いたのが、上田だった。 「千曲川も上田まで来ると、流れが緩やかになる。上流から流されてきた死体が上田に流れ着いた。上田藩主の命令で段丘上の秋和の正福寺の門前に引き上げ、埋葬して、後に碑を建てた。それが千人塚と呼ばれている。また正福寺境内には石造地蔵尊があり、縁者がたくさん亡くなっ
2022-01-24
50
上田藩主
上田と言えば真田氏が思い浮かぶが、その後の仙石氏・松平氏の治政はどのようなものだったのか気になったので調べ、それぞれを比較してみたいと思う。 参考資料については、上田市立博物館やデジタルアーカイブなどを活用して調べていきたい。
2021-12-21
51
上田の人物伝一覧(『上田市史』1940から)
『
上田市史・下巻(1940)
』の「社寺古墳及人物誌/
人物篇
」をハイパーメディア化。(長野大学「マルチメディア論」2020/2021実習で分担作成)
人物01 真田昌幸
真田一徳斎幸隆の第三子、天文十六年生る。
人物02 真田信之
真田昌幸の嫡男、永禄九年生る。母は寒松院三修氏、幼名を源三郎と言ふ。
人物04 真田幸村
幸村は正幸の代二子、永禄十一年生ると云う。
人物05 仙石政俊
先の小諸城主後上田城主たりし仙石忠政の
2021-07-21
52
人物62 小河滋次郎
信濃国上田城下で上田藩医・金子宗元の次男として生まれ、1918年には方面委員制度(民生委員の前身)の確立に尽力した人物である。
2021-07-20
53
人物40 門倉伝次郎
上田藩士。文政三年八月二十六日生る。(略) 慢性腎臓炎に罹り、十月十八日逝く。年七十一 『上田市史・下巻(1940)』1238~1239頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌 人物篇
2021-07-19
54
人物19 山田維則
維則は上田藩士。(略) あすよりは春をむかふるいとなみに軒の松葉の雪や拂はん 『上田市史・下巻(1940)』1209~1210頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌 人物篇
2021-07-19
55
人物56 鈴木志津衛
父は旧上田藩士、幸蔵の次男。明治五年九月二十七日生る。 『上田市史・下巻(1940)』1269~1271頁を転載 社寺古墳及人物誌 人物篇
2021-07-19
56
人物11 井上直元
直元は上田藩士。元俊の子。通称は四郎左衛門。字は仲泰、宜休又水風と号す。延宝5年6月生る。天性温潤、学を好む。風に伊藤仁斎に就きて学び、終身其説を奉ず。 『上田市史・下巻(1940)』1195頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌 人物篇
2021-07-19
57
人物18 糸賀希亮
希亮は上田藩士、通称は聘三。(以下略) 『上田市史・下巻(1940)』1209頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌 人物篇
2021-07-19
58
人物09松平忠厚
忠厚、通称銀次郎。上田藩主松平伊賀守忠固の二男にして、嘉永四年八月二十四日江戸に生る。 『上田市史・下巻(1203)』1019頁を転載 (目次位地) 社寺古墳及人物誌 人物編
2021-07-19
59
人物43 服部元戴
上田藩士、義孚の二子。享和元年5月生る。名は義則、通称は半左衛門、元戴或は半斉と號す。(略) 『上田市史・下巻(1940)』1242頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌 人物篇
2021-07-19
60
人物53 正力直太郎
安政三年十一月九日上田藩士正力六郎左衛門の長男として、上田市木町(当時鉄砲屋敷という)に生る。(略) 殊に信州教育界に対しては空に輝く明星として、永遠に不滅の光を放つべし。 『上田市史・下巻(1940)』1266、1267頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌 人物篇
2021-07-19
61
人物25 瀧澤省吾
上田藩士。文政九年十一月十九日生る。(略) 『上田市史・下巻(1940)』1033頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌 人物篇
2021-07-19
62
人物65 勝俣英吉郎
慶應元年三月十八日上田藩御殿医勝保家に生る。(略) ~やみのゝむらかはき 『上田市史・下巻(1940)』1282頁、1283頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌 人物篇
2021-07-16
63
人物36 勝俣守謙
守謙は上田藩士。(略) 門下に掛山勘右衛門、木村盛珍あらはる。 『上田市史・下巻』2/2(1940年)1236頁 人物誌
2021-07-14
64
人物33 田毎月丸
上田藩士、平野六左衛門の子にして、天文六年三月上田鎌原口に生る。(略) ~後評者と仰がれたり。 『上田市史・下巻(1940)』1044~1048頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌 人物篇
2021-07-14
65
人物21 山口毅
上田藩士。通称は平太郎字は子強、玄山と号す。(略) 明治五年死す。年五十六。 『上田市史・下巻(1940)』1030頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌 人物篇
2021-07-14
66
人物33 田毎月丸
上田藩士、平野六左衛門の子にして、天文六年三月上田鎌原口に生る。(略) ~後評者と仰がれたり。 『上田市史・下巻(1940)』1044~1048頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌 人物篇
2021-07-14
67
人物16 林希言
希言は上田藩士。道信(原泉)の孫。初名道理、字は有中又士寛、金渓と号す。兄弟五人希言は其長なり。(以下略) 『上田市史・下巻(1940)』1208・1209頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌 人物篇
2021-07-14
68
人物10 河瀬運甕
名は義胤。通稱は丈右衛門、字は貞郷、運甕又蓬州と號す。上田藩士。(略) 河瀬丈右衛門義胤之墓と刻す。 『上田市史・下巻(1940)』1198・1199頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌 人物篇
2021-07-14
69
人物12 林道信
道信は上田藩士。通称は四郎兵衛。 原泉、また有隣と號す。(略) 『上田市史・下巻(1940)』1205頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌 人物篇
2021-07-14
70
日本シルクロード講座・横浜編(4)上田と横浜の歴史アラカルト
2011年10月29日 会場:北仲BRICK(横浜、旧帝蚕倉庫事務棟)
講座「上田と横浜の歴史アラカルト」ダイジェスト版
3分で講座の概略を掴むことができます。
講座「上田と横浜の歴史アラカルト」ノーカット版
45分 「日本シルクロード学びあい講座・港都横浜編」蚕都上田プロジェクト主催 <講座1日目> (4)上田と横浜の歴史アラカルト、横浜まちあるきのみどころ 講師: 前川道博(長野大学企業情報学部准教授、蚕都上田プロジェクト事務局長) 水島久光(東海大学文学部教授、北仲スクール) 特別ゲスト: 浦辺信子
2021-07-11
71
日本シルクロード講座・横浜編・ダイジェスト版
ダイジェスト版25分 2011年10月29日 会場:北仲BRICK(旧帝蚕倉庫事務棟、横浜) 提供:蚕都上田プロジェクト 横浜を訪ねて上田を知る。蚕都上田全盛時の生糸貿易とゆかりのある歴史的建造物「旧帝蚕倉庫」(信州の生糸が貯蔵された倉庫)の事務棟を会場に横浜と上田の人々がお互いの地域の歴史を学びあいました。
講座内容
(1)新しい地域学習のすすめ 講師:前川道博(長野大学准教授)、水島久光(東海大学教授) (2)横浜開港と生糸貿易 講師:小泉勝夫(シルク博物館元部長) (3)日本初の生糸輸出は信州上田から 講師:阿部勇さん(上田歴史研究会会長) (4)上田と横浜の歴史アラカルト 講師:前川道博+水島久光 ゲスト:浦辺信子(上田藩松平家直系御子孫) (撮影・編集 森田文和@おらほ放送局) ※肩書
2021-07-11
72
上田城 堀の中の自然
上田城の魅力の一つに堀がある。その中を歩いているとたくさんの自然に触れることができる。ふと上を向くと…。きれいな景色がどこでも見れてしまう。 昔通っていた電車の名残も感じながら、歴史ロマンに浸るのもいいのではないだろうか。
2021-05-05
73
[14/09/11]山家の「真田氏館跡」
枡形道路とたつ道を進むと民家の石垣にぶつかりT字路となります。余談ですが、このような傾斜地に広がる集落がどことなく和歌山県の九度山に似ていることを想起しました。 この民家のある土地が平らに整地されていることから、ここに館があったという推定が興味を引きます。さらに、ここが真田氏の館跡であるという仮説もワクワクするようなものです。 真田氏の館跡はすでに真田町の各所で見てきました。角間の館跡、ここ山家の館跡、お屋敷公園の館跡、伊勢山にも館跡があったらしい。真田氏は角間から次第に低い方へと移り、やがて上田城へ。やがて真田信幸の代になり、上田藩主居館跡に、更にその後は松代へ移ることになります。この変遷をたどるだけでも実に興味深い。
2021-05-01
74
上田探検Ⅲ 上田藩主屋敷門跡
上田高校の「古城の門」は江戸期上田城三の丸藩主居館の表御門でした。この上田藩主居館表門及び土塀・濠・土塁は上田市指定文化財に指定されています。門と塀を見る限り、高校だとはあまり思えない見た目です。でも昔の形を残しているのはその時代を伝えるために大事なのだと感じました。門の近くには堀もあって、上田城に関わっているのだと感じさせられます。
2020-11-14
75
上田市立第二中学校
今まで見てきた中学校の中で1番か2番を争う程の美しさ。校内も覗いてみたいものだった。調べたところ、現在の場所には上田藩の藩校明倫堂があったそうだ。また、元内閣総理大臣である羽田孜の出身校だそうだ。
2020-11-05
76
上田城 真田神社
上田城本丸跡にある神社で、真田・仙石・松平の歴代上田藩主を祀っているそうです。 真田神社は、徳川の大軍でも攻め落とされなかったことから「落ちない」縁起をかついで受験生などに人気になっているようです。 また、絵馬のトンネルもあり、幻想的で見ごたえがありました。内容は受験に関することが多かったです。わたしもこれから資格取得や就活の時にはお参りしようと思います。
2020-11-03
77
人物11 井上直元
直元は上田藩士。元彼の子。(略) 以下続きにその事跡を載す。 『上田市史・下巻(1940)』1204頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌 人物篇
2020-07-23
78
人物53 正木直太郎
安政3年11月9日上田藩士正木六郎左衛門の長男として上田市木町に生まれる。 母つねは須坂藩駒澤氏の女なり。 『上田市史・下巻(1940)』1266頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌 人物篇
2020-07-20
79
人物12 桂道信
道信は上田藩士。 通称は四郎兵衛。 『上田市史・下巻(1940)』1205頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌 人物篇
2020-07-20
80
人物23 上野尚志
上田藩士。(略) 幼にして山田篁軒學び、弱冠にして古賀伺庵(精理の字)に従ひ、昌平校に學ぶ、暇あれば四方に遊歴して、文武の士を訪ふ。 『上田市史・下巻(1940)』1215頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌 人物篇
2020-07-20
81
人物38 八木剛助
上田藩士にして享和元年生。名は千之、通称は剛助後興一右衛門、 籟洞と号す。(略) 『上田市史・下巻(1940)』1236~1237頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌 人物篇
2020-07-20
82
人物24 櫻井純造
上田藩士。徳基の長子。文政九年十一月十五日上田に生る。 『上田市史・下巻(1940)』1216頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌 人物篇
2020-07-20
83
人物20 山田貫兵衛
上田藩士 兵藏の子。文化十年に生る。名は定吉、通称を貫兵衛。後永胤と改む。(略) 『上田市史・下巻(1940)』1027~1030頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌 人物篇
2020-07-19
84
人物42 植村重遠
上田藩士。通称半兵衛。(略)数理を好み竹内武信の高弟なり。仕えて会計の吏となる。 『上田市史・下巻(1940)』1242頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌 人物篇
2020-07-19
85
人物54 河内山寅
河内山寅は安政二年八月二十六日、旧上田藩士河内山長善の長女として、上田藩鷹匠町に生れる。(略) 刀自は常に「憂き事の尚此の上に積れかし限りある身の力ためさん」「心だに誠の道にかなひなば祈らずとても神や守らん」との二首を座右の銘となしたりと云う。 『上田市史・下巻(1940)』1267・1268頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌 人物篇
2020-07-18
86
人物13 津田有栄
上田藩士。幼名有禎、後良基と改む。(略) 法名を教学院心休学道居士と云う。 『上田市史・下巻(1940)』1205・1206頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌 人物篇
2020-07-18
87
人物17 加藤維藩
維藩は上田藩士、(略) 『上田市史・下巻(1940)』1209頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌 人物篇
2020-07-18
88
上田藩主/老中・松平忠固の墓
2018/05/10、願行寺にある松平忠固の墓を訪れました。上田藩主・松平忠固(1812~1859)は2度に渡り、老中をつとめた人物です。老中の職にあった時に、日米和親条約(1854年締結)、日米修好通商条約(1858年締結)を結んだことの功績は極めて大きい。日本が列強と互角に対し、列強並みの好条件で列強と貿易協定を結んだことは、その後の日本の近代化を決定づけたと言ってもいい。貿易を推進し、殖産興業を推進しました。 上田における松平氏に対する関心の低さは、この墓の状況が端的に物語っています。かつての願行寺は上田城と対峙するように大手町~海野町の旧城下町のメインストリートの対極に位置し、海野町の通りはその門前のように位置していました。しかし、その道筋が真っ直ぐに貫通し、願行寺の真ん中は道路によって分断されました。さら
2020-07-18
89
人物37 相馬通孝
上田藩士、與右衛門と稱す。(略) 文政年間の作なる「童歌田面のさかへ」はよく時勢に適中せりと謂はる。 『上田市史・下巻(1940)』1236頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌 人物篇
2020-07-15
90
人物63 山際勝三郎
上田藩士山本政策の三男、文久三年二月生る。(略) 『上田市史・下巻(1940)』1279・1280・1281頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌 人物篇
2020-07-15
91
上田と生糸貿易‐1 ~開国、横浜開港後~
上田の生糸は主に横浜港を通じ、世界との貿易に関わることになる。横浜港は1859年に開港したが、上田の商人達は、まさにその直後から横浜で貿易活動を行っていたことが知られている。そこには、当時の上田藩主松平忠固の尽力があったとされる。松平忠固は、日米和親条約、日米修好通商条約の2つの条約締結の調印時に老中を務め、条約締結を急いだ積極的開国派であった。彼のもとで上田藩は開港と同時に生糸の輸出を始め、これにより日本の生糸貿易は上田から始まったとも言われるようになるのである。 画像は「横浜海岸フランス役館之景」(横浜開港資料館所蔵)により URL:https://www.mmdb.net/santo-ueda/mono/cn1/pg45.html
2020-07-08
92
『上田市史・上巻』1/2(1940年)画像データ
ページ番号は表紙からの通し番号になっています。それぞれはJPG画像です。ダウンロードしてお使いください。
1ページ
表紙
2ページ
序
3ページ
4ページ
緒言
5ページ
6ページ
編集の経過
7ページ
8ページ
目次
2020-06-28
93
『上田市史・下巻』2/2(1940年)画像データ
ページ番号(画像の連番)は表紙からの通し番号になっています。それぞれはJPG画像です。ダウンロードしてお使いください。
1ページ
表紙
2ページ
目次
3ページ
4ページ
5ページ
6ページ
7ページ
8ページ
9
2020-06-28
94
上田藩主居館跡(上田高校)
上田城に近く現在の上田高校のある地に、関ヶ原の合戦後、上田を治めることになった真田昌幸の嫡男である信幸(信之)の居館が築かれた。信之はここで政務を取り仕切っていたといわれている。その名残で上田高校の正門は写真のように当時の正門が使われ、周囲には堀(水堀り)も見ることができる。
2020-06-23
95
蚕都上田まちあるき2008
企画・制作:蚕都上田プロジェクト 2008/10/25の記録 竹内秀夫さん(都市・建築工房、建築設計) 斎藤功さん(長野大学環境ツーリズム学部教授、地理学) 新津新生さん(上田小県近現代史研究会) 小野寺芙美子さん(梅花幼稚園園長) 三田育雄さん(長野大学地域連携センター長)=まちあるきの企画者 <まちあるき探訪先リスト> リンクを選ぶとその部分を頭出し再生できます。 1.
上田駅前に集合
2.
往時の駅前の状況
3.
曳家した繭倉 木造4階建(笠原工業)
4.
2020-05-24
≪
1
≫
歴史(36)
人物(29)
上田市史(18)
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