上田藩の死者数、正福寺の千人塚
千曲川流域には、「戌の満水」の流死者供養塔が幾つも残されている。それには2種類ある。一つは、多くの犠牲者を出した現地に建てられたもの、もう一つはたくさんの流死者が流れ着いて埋葬された場所に建てられたものだ。千曲川の上流では、上畑村(佐久穂町・248人)小諸城下(小諸市・507人)所沢川流域の金井村(東御市・130人)田中宿・常田村(東御市・68人)などで多くの流死者を出した。そして、まず大量に流れ着いたのが、上田だった。
「千曲川も上田まで来ると、流れが緩やかになる。上流から流されてきた死体が上田に流れ着いた。上田藩主の命令で段丘上の秋和の正福寺の門前に引き上げ、埋葬して、後に碑を建てた。それが千人塚と呼ばれている。また正福寺境内には石造地蔵尊があり、縁者がたくさん亡くなった上田・海野町の講中が洪水の4年後に建てたものと言われている。
上田藩の死者数
災害の死者数は把握が難しいが、「戌の満水」では、上田藩の死者数が最も混乱している。「上田市史」の540人余りから「小県郡史」の196人、「上田小県誌」の158人と3通りあり、数字の違いの幅も大きい。最初の流死者540人余の数値は、8月初めに書いたものと思われその後、上田の城下も大騒ぎで日記を記す時間もなく調査し、次に書いたものが8月12日で、死者数196人と記されている。最初の流死者540人余は、噂が飛び交う時の数値で、細かい字でせわしない書き方となっている。その後、落ち着いて被害を確認したところ、数値が小さくなっており書き改めたと解釈できる。
上田藩において、当時の「戌の満水」の被害の様子が残されている場所としては上田城の崖下があり、千曲川が氾濫し浸水した様子が見て取れる。
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投稿者 | さとし |
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