【上田市の銭湯】地図から銭湯の分布を見てみよう~大正期編~
突然ですが、皆さんは銭湯に行ったことはありますか?
銭湯というと、富士山の壁画が描かれた、東京の大きな下町銭湯を思い浮かべる人が多いと思います。ここでいう銭湯とは、法律で定められた一般公衆浴場のことです。
ここ上田市にも、地域に根付いた街のお風呂屋さん、銭湯が2軒あります。ですが最盛期には、なんと24軒もの銭湯がありました。昔は市街地ではお風呂のある家庭は一般的ではなく、農村部のお百姓さんの家、どこかの大富豪の社長さんの家など、限られた家庭にしかありませんでした。そこで、「浴場業(銭湯)」という一つの業種が確立されたんですね。今回は、そんな上田市の銭湯の分布を、2つの大正期の地図から探っていきましょう。
(画像は最盛期の銭湯をGISアプリで国土地理院の地理院地図にプロットしたもの)
①東京交通社『上田市街明細図』
この地図は、1922年(大正11年)の上田市街地を中心とした地図です。この地図には、当時営業していた事業所が克明に記載されており、ここで対象とする銭湯は、地図内には「〇〇湯」(〇〇内には銭湯名が入る)と記されていました。また地図の裏面には事業所名一覧が記載されていて、このうち銭湯は「洗場業」として10軒の名前(屋号)と所在地が記されています。
以下、銭湯名と所在地を原文ママでまとめます。
崖の湯 車坂ヌノ十一
常盤湯 緑丁チノ九
名かの湯 仲丁チノ八
錦湯 錦丁リノ九
天神の湯 天神丁チノ十一
宮佐久良の湯 日の出丁二ノ九
だるまの湯 川原柳丁トノ四
命の母湯 新田区リノ五
梅香湯 紺屋丁ルノ五
棗の湯 鍛冶丁トノ七
以上の通りです。このデータは、本サイト「みんなでつくる信州上田デジタルマップ」内、「トップ→文書記録→上田市街明細図(1922年 大正11年)」で誰でも閲覧可能です。
リンクも貼付しておきます。
https://d-commons.net/uedagaku/?c=&p=3116
この大正期の銭湯リストを見ますと、今もある銭湯、名前を変えて残っている銭湯、比較的近年のリストにも出てこない銭湯など、さまざまです。ひとつひとつ見ていきましょう。
「崖の湯」は、上田駅の近く、厩裏と呼ばれるエリアにありました。「車坂」というのは、みすゞ飴で有名な飯島商店さんとルートインさん側の高層マンションの間にある、狭く急な坂道とその付近を指す名称です。ここの坂が急であるのは、千曲川が蛇行していたときに、浸食をして崖をつくったからなんですね。つまり「崖の湯」は、地形を反映してこの屋号にしたのでしょう。
「常盤湯」は、今の上田映劇の並びにありました。最近の文献ではもう一本南側の通りに同名の銭湯が書かれているので、移転したものなのかもしれません。
「名かの湯」は、袋町の北側を流れる蛭沢川のたもとにありました。今は袋町という名前の指す地域は拡大していますが、銭湯のあった路地は「仲町」と言われていて、屋号はここからとったものと推測できます。
「錦湯」は、今の原町付近にあった銭湯です。この地図に掲載されている地名は「錦丁」ですが、今ではその名を余り聞きません。
「天神の湯」は、今の上田駅前ビル「パレオ」付近にあった銭湯です。駅前にあったことから、旅人などで繁盛したでしょう。この屋号も地名由来と推測できます。
「宮佐久良の湯」は、おそらく今の「宮桜の湯」の表記が異なるものですね。屋号の由来については、のちの文献にて登場しますのでその時にご紹介します。
「だるまの湯」は、今では中央5丁目付近にあたる川原柳にあった銭湯です。のちの文献に寄れば、2000年前後の比較的近年まで営業していた店舗であったことが分かります。屋号はおそらく縁起物由来でしょう。
「命の母湯」は、今の「柳の湯」付近にあった銭湯です。実は、屋号は経営者の交代や時流などで度々変わることがあり、この「命の母湯」というのも「柳の湯」の前の名前かもしれませんね。しかし、地図を見れば矢出沢川と蛭沢川の合流部の点で若干位置が異なるようにも見えますので、川の流路が変更された可能性も視野にいれながら、今後調査する予定です。屋号はおそらく薬湯由来で、もしかしたら「中将湯温泉」「光明石温泉」などといった商品の名前がそのままついた可能性もあるといえます。
「梅香湯」は、紺屋町にあった銭湯です。この銭湯だけ、のちの文献や地図にも一切登場しません(逆に他の銭湯は何らかの形で登場します)。屋号はおそらく縁起物由来であると推測できます。(この銭湯の推定所在地を今回の記事の位置情報として記録してあります)
「棗の湯」は、今のトンカツの店「こぶたや」さんの近くにあった銭湯です。屋号は筆者調べですが、かつて蛭沢川沿いに棗の木が並んでいたから付近が棗町と呼ばれたからではないかと推測できます。
②三好町史編纂委員会『三好町史』
この書籍自体は、1978(昭和53)年に三好町自治会から発行されたものですが、この中に1923(大正12)年当時の復刻地図が掲載されています。三好町は上田橋の南詰付近の地区ですが、かつては上田温泉電軌の終点であったため、市街地と同様に発展していました。この地図には、「つばめの湯」という表記が残っています。三好町には最盛期に「島の湯」「三好の湯」という2軒の銭湯が存在していたことがわかっていますが、このうちの「島の湯」が地図中の「つばめの湯」に近く、前身であった可能性も否定できません。
以上、大正期の地図から銭湯の分布を見ていきましたが、いかがだったでしょうか。銭湯は付近の住民の生活衛生に欠かせないものですから、こうした分布を見て町の様子を知ることができます。次回は、上田の銭湯を研究するための必読書である、「史的ニ上田(15)上田の銭湯」という文献を紹介します!
ハッシュタグ (キーワード) | |
---|
ライセンス | 表示(BY) |
---|
投稿者 | なかじぃ |
---|