上田紬が庶民的なものから高級品になるまで~江戸時代から戦前~
古代から中世にかけて信濃の織物として知られていたのは、麻布であった。(中略)紬は屑繭等を原料として地機で織れたから、原料生産地がそのまま織物生産地となり得た。しかもそれは商品としてよりも、農村で自家用として織られている場合が多かった。
紬は、江戸時代の庶民に許された唯一の絹織物であった。
上小地方の蚕糸業は江戸中期を過ぎる頃から、1つは養種製造、もう一方は生糸生産へと重点が移っていった。江戸中期にすぐれた繰糸技術が取り入れられ、良質の生糸が生産されるようになった。その結果蚕種・生糸の生産で十分な利益を挙げることができるのであれば、手間のかかる機織をする必要はない。このようにして幕末期に近づくに従って、上小地方の上田紬・上田縞の生産は減少していった。
さらに安政6年横浜開港以来外国貿易の影響で生糸の値段が高騰して、絹織物に使われていた生糸の大部分が輸出に集中した。そのため、絹織物は衰退の悲運に見舞われ、江戸時代の盛大さが失われた。
参考文献
『郷土の工芸 上田紬』上田市立博物館
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投稿者 | ももか |
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