笹沢檪亭 (ささざわれきてい)

笹沢檪亭 (ささざわれきてい)

檪亭は、安政2年(1855)、小県郡坂井村(現上田市塩川)に生まれ、本名を清十といい、幼い頃より画才に富み、花鳥画を描いては村人を感嘆させたといいます。早くに父を亡くし苦労して育ちますが、母の理解もあって、明治6年(1873)、18歳の折に島田桃渓とうけいに師事して絵の指導を受けたのを手始めに、明治18年(1885)、29歳の時には、水戸の木下華圃かほに師事。この頃から専業画家としての道を歩むことを真剣に考え始めたものと思われます。
 明治19年(1866)、31歳の折には終生の師となる児玉果亭に入門を許され、果亭より檪亭の雅号を受けました。この檪亭が入門した明治19年は、第2回内国絵画共進会に出品した果亭の即品が天覧に供され、出品2点のうち1点が宮内省買上げ、1点が銀杯(この年、金杯はなく銀杯が最高の評価)を受賞するというように、果亭の名声が一挙に高まった年でした。この受賞を契機に県内はもちろん、新潟・群馬などから入門者が集まりましたが、菊池契月けいげつなどに交じって檪亭も加わっており、以後本格的な南画家としての道を歩むことになったのです。
 果亭は『芥子園画伝』の四君子(蘭・竹・菊・梅)の手本の描写から始める独特の指導法により、多くの弟子を養成しましたが、果亭門下への入門を境に檪亭の画才は一挙に花開き、明治24年37歳の時、京都市の日本画共進会に出品した『仙客観瀑せんきゃくかんばく図』が二等賞となったのを最初に各地の展覧会に出品・受賞を繰り返し、文字どおり南画家としての地位を固めることになりました。
 30代から40代が檪亭にとっての飛躍の時期とするならば、50代以降は円熟の時期といえます。郷土にしっかりと根をおろして、制作活動を続けるかたわら幾多の弟子の育成にも情熱を注ぎ、平林大虚たいきょ・青木石農せきのう・庄村竹亭ちくていなど、後にこの地方の画檀を担う画家たちを輩出しました。その門人は数十人に及び、上小地方に一大勢力を築きました。
 大正2年、58歳の時には、南画家を主とする全県的規模の「信濃美術会」を発足させ、会長に就任。画家として、指導者としての顔のほか、関係団体の役員としての活動も活発に行いました。60歳以降の晩年には檪堂れきどうと号し、昭和10年、80歳で逝去しました。

https://museum.umic.jp/jinbutu/data/036.html

登録日:2023-02-01 投稿者:M
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