上田紬について③

上田紬が高級品になった背景

終戦後、まだ衣類が欠乏していた頃、商工省は京都のコブラン機とともに上田紬など数種を、技術保存織物として自由商品に指定した。
などの数種を、技術保存織物として自由商品に指定した。農家の家内生産によって、ほそぼそ自家用を織りだす程度であって、絹紬が機業として再開していく機会が、なかなか熟さないでいた。このとき昭和24~5年頃から、神科出身で元蒙古自治政府最高顧問をされた故金井章次氏は、軍放出の真綿を利用して糸を紡ぐことを提唱、農村副業による手織りのなかから紬織りの再興を考えた。草木染の紬織りを現代に生かそうと苦心をされる一方、草木染料や媒染材の化学研究をされて、生産量の増大や、新販路の開拓のことに努力をはらわれた。江戸時代からの上田縞・上田紬の名声は、特有の風合や柄模様にもあったが、その核心は、布地の丈夫なこと、本藍染と草木染の特色ある染色法で、色があせないで堅牢なことにあったので、この研究を復興への第一条件とされて、その改善工夫に尽くされたのであった。このような指導のもとに、原始的な草木染に科学のメスに加え、ヨモギ・キキョウ・月見草・イタドリ・山ウルシ・ザクロ・クルミ・ウメなどから粉末染料の製造に成功した。この草木染の研究に対して、昭和26年度文部省民間助成費として2万5千円が交付されるなど、特産繊維品としての上田紬の将来に、ようやく曙光が輝きだしたのである。
昭和31年には経済の飛躍的成長で、その需要も拡大し、生活の落書きの中から生まれた和服復活の波に乗って、久しぶりによみがえったのである。
しかし、手織り紬は全体的に生産量が少ないため、高級品となった。

参考文献
『郷土の工芸 上田紬』上田市立博物館

登録日:2022-02-09 投稿者:なかしま はるか
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