はじめての方へ
|
新規ユーザー登録
ログイン
カテゴリ選択
最初の投稿
藤本史料ピックアップ
ようこそ上田!
歴史文化スポット
地域の記録
自然
温泉・観光・食
祭・イベント
商品・工芸品
気になるスポット
地域めぐり・まちあるき
旅れぽ
文書記録
写真記録
講座等記録
面白記事抄
私の地域探求
上田のelaboration
人物伝
2020信州上田学A
2020信州上田学B
2021信州上田学A&B
2022信州上田学
プロジェクト研究
地域学習研修記録
公文書利用地域学講座
長大サミット2021
その他
登録リスト(該当:48件)
≪
1
≫
写真
タイトル
説明
登録日
1
学生による地域キュレーション2022(信州上田学A受講生)
長野大学の地域科目「信州上田学A」を受講した学生が「信州上田」を接点とした地域キュレーションの学習成果です。タイトルを選ぶとその学生のマイサイトを表示します。 ▼カテゴリ1:蚕都上田
【1】
長野県の中でなぜ上田市が蚕都で有名なのか
【2】
上田の養蚕の歴史を掘り下げ、伝え続けるには。
【3】
蚕都上田の歴史と未来
【4】
製糸業の歴史
【5】
蚕都上田の歴史
【6】
蚕都上田
2023-02-10
2
持続的な地域活性化~大洗モデル~3 発表(最終)版
プロジェクト研究の足跡をまとめた発表資料になります。 それぞれの実施内容はこのマイテーマ(プロジェクト研究・卒業研究)をご覧ください。 持続的な地域活性化策~大洗モデル~とは、大洗町において持続的な地域活性化策というテーマを研究する者であり、卒業研究、地域活動という視点から3つの取り組みを行い、そこで得た知見を大洗町にフィードバックするものです。 茨城県大洗町とは茨城県東部に位置する小さな観光都市で、海が観光資源となっています。また、アニメ『ガールズ&パンツァー』を利用したコンテンツツーリズムを10年間推進しています。 その一方で、人口減少、海水浴客の減少、町の活気のなさといった社会課題を抱えています。 そこでまず実施内容1として、「create owarai」に参加しました。この「create owarai
2023-01-26
3
名工の社殿と養蚕農家 ~上田市下堀地区~
信濃国分寺駅の南側に位置する下堀地区です。 ここには堀川神社があり、今でも地区住民によって守られています。 拝殿は一見シンプルですが、本殿を見ると見事な装飾があります。これは1886年(明治19年)に上田の名工竹内八十吉によって掘られたものです。八十吉は1815年(文化12年)から1898年(明治31年)まで活躍した諏訪立川流の大工で、堀川神社以外にも信濃国分寺の本殿の彫刻も掘っている。 次に下堀地区は養蚕業で栄えていた地区である。その証拠がこの石垣である。 これは、ぼたもち積みと呼ばれる積み方でお金持ちの家しか作ることができない石垣である。https://d-commons.net/upload/4/575/054168_0023_006.jpg養蚕業で儲けていたからこそできる石垣で、当時は養蚕農家それぞれが競い合って家を建てていたそうだ。それほどまでにこの地区の養
2023-01-19
4
旧小県蚕業学校(現上田東高校)
明治25年1892年に小県蚕業学校が蚕業学校として全国に先駆けて設立された。当時は上田町の丸堀の民家を校舎にして開校した。大正8年には皇太子様が来校されていることから当時でも注目されていた学校なのだと考えた。昭和19年12月9日に戦災によって本館の建物外10棟、1093坪を焼失してしまった。その後昭和21年以降、林業科、農業科、蚕業科を置いた上田農業学校となった。昭和35年には2度目の火災にあい、建物は全半焼、1237坪を焼失した。昭和37年には現在の名である長野県上田東高等学校となる。翌年昭和38年には蚕業科の生徒募集停止され、その後続々と農業科、林業科、家政科が廃止され、普通科のみの学校となった。
2022-11-29
5
上田城の堀の秘密
上田城の堀には1箇所欠けている部分があります。 これは建設当時、風水において縁起の悪い方角を無くす目的があったそうです。これがあったからこそ真田晶幸は徳川軍を退けることができたのかもしれません。
2022-10-29
6
上田城を攻めるには
上田城に続く道は私が見たところ三本ありました。三方向からこれるのは、今も、昔もなのでしょうか。お堀があるのは、このことも関係しているのでしょうか。
2022-10-29
7
上田城豆知識
上田城や藩主屋形(上田高校)の土塁、堀、城下の寺社の配置等には鬼門除けが見られます。真田氏の頃から設けられていたものとされているようです。鬼門とは北東の方位で、鬼が出入りする方角として忌み嫌われ上田城では、東北の角を落としていることが分かります。
2022-10-29
8
上田城のトンネル
上田城の外側の堀ですが、実は昔電車が通っていました。上田交通真田傍陽線(さなだそえひせん)という電車が50年間走っていました。 廃線となったのは1972年だそうです。なんか懐かしい感じ。知らんけど。
2022-10-29
9
上田城
上田城の本丸跡は、二重の堀に囲まれているように見えた。調べてみると、一つ目は、本丸土塁の隅おとしだということがわかった。これは土塁の北東を、切り込み「鬼門よけ」としたもので、上田城の大きな特徴の1つであるとわかった。二つ目は、尼ヶ淵と呼ばれるものであり、当時城の粛には千曲川が流れ、穏やかで深みのある流れが、天然の堀となっていたと分かった。
2022-10-29
10
昭和の残り香を巡る~①上田城編~
上田城やその城下町が残る上田市、江戸時代より城下町として繁栄を続けてきた。今回の探求では知られざる明治から昭和時代の「昭和の残り香を巡る」というテーマで探求を行いました。 今回は「遊郭としての上田城」の紹介です。 遊廓(ゆうかく)とは、公許の遊女屋(女郎屋)を集め、周囲を塀や堀などで囲った区画のことです。 上田城は戦国時代、真田家の防衛拠点として大きな戦果を挙げた城で有名な場所であります。 一方、戦国時代が終わった後明治維新以降、二基の櫓は、払い下げが行われ、それぞれ金州楼、万富楼という名前を付けられ、昭和の初期まで遊郭の妓楼としての役割を果たしていました。 ※妓楼→遊女を置いて客を遊ばせる家。 防衛拠点としての上田城は皆さんが良く知る歴史であります。しかしそれ以降の歴史は知らな
2022-10-25
11
上田城の知られざる歴史
上田城の入り口はいくつかありますが、市役所に最も近い入口は橋になっています。橋の下は昔堀がありましたが、ちょうど50年前までは、この場所に電車が走っていました。「上田交通 真田傍陽線」という路線で、写真の場所には「公園前」という駅がありました。橋の裏側には電車の架線の跡が残っています。
2022-10-25
12
彼は誰なのでしょう?
上田城のお堀の外側にある胸像です。長いこと存在は知っていましたが、他の胸像に比べ目立ちにくいところにあり気付かれにくいのであまり有名な人ではないのかなと考えていました。誰の胸像なのでしょうか。調べたところ勝俣英吉郎さんの胸像だそうです。2代目上田市長らしいのですが初めて聞いた名前でした。
2022-10-24
13
古城の門
真田家のお屋敷跡にある上田高等学校。上田高校はお堀や門に囲まれており、「古城の門」 と呼ばれる門は日本一格式高い校門として知られている。
2022-10-24
14
上田といえば…
上田と言えば、やはり、「真田」、上田城ではないでしょうか。この尼が淵は、下に千曲川が流れている場所に建設したことで堀として川を利用していたことを証明できる、最もわかりやすい場所であると思います。
2022-10-17
15
ニジマス釣り体験
リフレッシュパークあおきにて撮影。 釣りが体験できる施設で、釣った魚は網を借りてこのように入れておける。 イワナやニジマスが渓流釣りで釣れる。 釣り堀ではニジマスが釣れる。
2022-05-12
16
日米和親条約と日米修好通商条約
出典:Wikipedia 下関戦争https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E9%96%A2%E6%88%A6%E4%BA%89 最後に、忠固が関わった二つの条約について詳しく見ていきたい。 日米和親条約の調印前に忠固(当時は忠優)は徳川斉昭との論争を制し、城中評議の場で五年後の交易承認という結論が出ていた。評議の翌日、斉昭は抗議の意思から参与辞職の意向を、自らの参与就任を推薦した老中首座の阿部正弘に伝えた。これを受けて阿部は、参与辞職を思いとどまらせるために会議の結論を覆し、交易の承認をしないという決定をした。そして日米和親条約は交渉術で勝った日本がアメリカから譲歩を引き出し、漂流民の人道的な扱いや食料・薪水・石炭の供与、長崎・下田・函館の開港などの内容に留まった。日米和親条約締結後、斉昭はアメリカの条約に基づいた「下田三箇条」と呼
2022-02-14
17
戦国時代の上田城
戦国時代、天才的な軍略家として称された真田昌幸が、上杉家に対抗するため徳川家康を説得し、上田城を築城した。上田城の築城構想は、実に巧みなものとなっている。 千曲川の北岸一帯は、神川や矢出沢川が作った谷間にある、勾配の大きな扇状地となっており、千曲川の河岸段丘となっている。そのため、大外堀の役割を果たしているため、簡単には攻め込まれない。城の南端でも、千曲川の分流が高低差の大きな岸をつくっていることや、対岸や東側も難攻不落の地となっている。 この時代から土地を生かした築城がされていたとは驚きで、上田の土地柄ならではのことであると感じた。 参考文献・資料 ・
信州街あるき 上田城址を訪ねる
・
上田城跡
2022-02-04
18
堀内紙店
この写真は、海野町商店街にある海野町会館が所蔵する一枚である。 一枚目が平成11年のアーケード取壊し前、二枚目が昭和41年の海野町拡幅工事前に撮影された写真である。
2022-02-07
19
上田藩主居館
現在上田高校がある場所には、かつての真田氏以降、仙石氏、松平と続いた上田藩主の居館がありました。一般的に城主の御殿は城の本丸に設けられていますが、上田城は徳川家に恨みを買っていた歴史的背景があり、三の丸とはいえ城の中心からだいぶ離れた場所に建てられました。同行東側の表門と、その両脇に続く土塀、堀、土塁は上田市の文化財に指定されています。
2022-01-31
20
4 年表からひもとく
坂井村誌内の年表を一部引用し、特に重要な部分をまとめた。
昭和12年(1937年)
・
盧溝橋事件が勃発。村内の予備兵に召集下令があり、村内に一気に緊張感が流れた。
・銃後後援会(後に奉公会)結成、村防護団結成・応召家庭の農作業奉仕。 ・軍の指示により、初めて防空演習が行われる。 ・国防婦人会結成(全村)、国民精神総動員長野県実行委員会(会長・県知事)坂井村支部(支部長・村長)結成。 ⇒日中全面戦争の開始に伴って始められた、国民の戦争協力を促す官製国民運動。「精動」と略されることもある。1937年(昭和12)8月第一次近衛文麿(このえふみまろ)内閣は「国民精神総動員実施要綱」を閣議決定し、同年10月「挙国一致、尽忠(じんちゅう)報国、堅忍(けんにん)持久」のスローガンのもとに国民精神総動員
2022-01-29
21
2 探求にあたり
・今回の探求では日中戦争から太平洋戦争にかけて(昭和12年ころ~昭和20年)を対象として調査する ・主な資料として「坂井村誌」を参考文献とする ・はじめに年表から紐解いていき、特に気になった点について深堀していきたい
2022-01-29
22
蛇石
蛇石 碑文 蛇石の由来 蛇堀川の南、加増村の字袖川原に、長さ六米、幅 二米、高さ一・五米の巨大な自然石で、その上には 小祠が立てられていて、石の周囲に大きな筋目 二条ついている。この石を蛇石とよんでいる。 伝説によると、近くの堀川に大蛇が生息して おり、夜になると出てきて、その石に横たわり、 通って畑を荒し百姓を苦しめたという。 蛇石様として祀ったので、その後は災がなく なり二条の筋目は大蛇のとぐろの跡だといい 伝えている。子どもの臍の緒をあげると、虫を 痛まないといわれている。 この石は享禄四年(一五三一)十一月二十二日から 二十三日にかけての大雪と浅間の噴火によって 蛇堀川に沿って土石流で押し出し、七尋石などと 同じ時に、ここに流れ着いたものと考えられている。 祭神は蛇で神様の使
2021-11-18
23
明治二十四年上田全図
この図面は、上田の町を印刷により表わした初期の地図だ。実測図ではないため、縮尺や距離感は不正確である。地図の周囲にとは、明治維新後の近代化した上田の姿を、建築物を中心に表している。「上田尋常小学校」「高等小学校(旧藩主屋敷)」、「上田女学校」、「上田停車場」、「第十九国立銀行」、「上田橋」などが見られる。図面の中央の上田城本丸には「松平神社」がある。また、本丸には櫓が2基残っていたことがわかる。二の丸は「監獄」となっている。また、大手門の堀が残存していた。明治21年に鉄道の駅「上田停車場」(現在の上田駅の前身)が営業を開始するとともに、駅と「海野町」「原町」をつなぐ「松尾町」も開通した。
2021-11-14
24
安政年間上田城下町絵図
松平氏在城時代の上田城下町絵図で、武家屋敷の屋敷割を中心に描かれている。基本的には元禄年間の上田城下町絵図と変わっていない。上田城の本丸については「御本丸」と書かれているのみで省略されている。また、二の丸には、堀や石垣・土塁は描かれており、櫓や門などの建築物がない様子が分かる。 二の丸東虎口の外には、「文武学校」・「稲荷宮」がある。ここは、元禄年間の上田城下町絵図では、家臣の屋敷地だった。また、「御作事」と記載されている場所は、元禄年間の上田城下町絵図では「御中屋敷」だった。現在の清明小学校の敷地となっている。
2021-11-14
25
上田染谷丘高等学校
この写真は、海野町商店街にあるすや呉服店が所蔵する一枚である。 明治34年「小県郡立上田高等女学校」として設立された。写真の建物が建てられたのは、現在の上田城跡公園の東側、清明小学校がある場所である。 明治42年には女子中等教育の充実を図るため、郡立から県立へ移管され、「長野県立上田高等女学校」と変更された。 大正 5年に校舎は、上田城近くの丸堀校舎から、上田町鍛冶町裏の新校舎へ移転となった。 現在の「上田染谷丘高等学校」になったのは、昭和 23年4月である。
2021-07-24
26
上田城 大手門
大手門は城の正面にあり、上田城では門の枡形を構成する石垣と、その前南北に堀があっただけで城門は造られていなかったと言われています。
2021-07-23
27
上田の人物伝一覧(『上田市史』1940から)
『
上田市史・下巻(1940)
』の「社寺古墳及人物誌/
人物篇
」をハイパーメディア化。(長野大学「マルチメディア論」2020/2021実習で分担作成)
人物01 真田昌幸
真田一徳斎幸隆の第三子、天文十六年生る。
人物02 真田信之
真田昌幸の嫡男、永禄九年生る。母は寒松院三修氏、幼名を源三郎と言ふ。
人物04 真田幸村
幸村は正幸の代二子、永禄十一年生ると云う。
人物05 仙石政俊
先の小諸城主後上田城主たりし仙石忠政の
2021-07-21
28
松本行きました
松本城とても綺麗でした 綺麗な街並みで、街全体が景観を保っていてとても雰囲気が良かったです。 将来住むならこのような街に住みたいと思いました。
2021-05-06
29
上田城跡公園野球場
上田城跡のすぐ横にある野球場である。 通称は上田市営球場。 2008年に公開した映画「ラストゲーム 最後の早慶戦」のロケ地にもなった。 上田城跡公園のすぐ横に位置していることもあり、野球の試合があるときは多くの市民が観戦しています。(公開試合の場合)
2021-05-05
30
上杉神社
上杉神社は戦国最強の武将と語り継がれている上杉謙信を祭神として米沢城本丸跡に建立されました。上杉謙信にあやかって開運招福や諸願成就、さらには学業成就や商売繁盛のご利益もあるとされるパワースポットです。春には米沢上杉祭り、冬には上杉雪灯篭祭りが行われます。
2021-05-05
31
上田城跡公園
徳川家康が上杉氏に対抗するために築城した。その後上杉に奪われ増築されている。真田氏が第一次上田合戦時、徳川の軍を撃退。現在残っているモノは江戸時代に再建されたモノらしい。堀は深く出入り口も限られているため、責めるのはとても苦労したことがうかがえる。自然豊かで、落ち着いているため観光目的でも休憩目的でも立ち寄る価値は十分あると思う。
2021-05-05
32
上田城 堀の中の自然
上田城の魅力の一つに堀がある。その中を歩いているとたくさんの自然に触れることができる。ふと上を向くと…。きれいな景色がどこでも見れてしまう。 昔通っていた電車の名残も感じながら、歴史ロマンに浸るのもいいのではないだろうか。
2021-05-05
33
上田探検Ⅲ 上田藩主屋敷門跡
上田高校の「古城の門」は江戸期上田城三の丸藩主居館の表御門でした。この上田藩主居館表門及び土塀・濠・土塁は上田市指定文化財に指定されています。門と塀を見る限り、高校だとはあまり思えない見た目です。でも昔の形を残しているのはその時代を伝えるために大事なのだと感じました。門の近くには堀もあって、上田城に関わっているのだと感じさせられます。
2020-11-14
34
上田城の堀
上田城は上田合戦で徳川軍に2度勝ったということで有名ですが、この深い堀を実際に見るといかに上田城が攻めにくい城であったかということが分かりました。
2020-11-05
35
上田城跡公園
城の跡がわかりやすく残っている公園だった。 時期柄や自分の行った日が平日だった影響もあるかも知れないが観光客より公園として散歩をする人の方が多く見受けられた。 南櫓にある真下を見下ろせる隙間やかなり深いお堀など実戦時にはかなり有用だったのだろうと思った。
2020-11-04
36
小山亮先生像
小諸出身の政治家、小山亮の像。内堀功の作。 糠塚山の中腹に小諸の町、浅間山を望むように設置されている。
2020-11-04
37
上田城
上田市に引っ越して間もない5月に上田城を訪れました。 上田城は真田幸村の父、真田昌幸によって築城され、徳川氏の軍勢を2度にわたって撃退したことで有名です。巨大な堀、城への入口の狭さなどの敵軍を寄せ付けない様々な工夫から、築城能力の高さがうかがえます。 私が上田城を訪れた時は春でしたので、木々には緑の葉が生い茂り、共に見る上田城はとても美しかったです。桜や紅葉の時期に行けばまた違った美しさがあると思うので、ぜひまた行きたいと思いました。
2020-10-04
38
人物49内堀茂八
小懸郡依田村内堀茂市の子、邁延元年二年生る(略) 以下にその事跡を載す。 『上田市史・下巻(1940)』1263頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌 人物篇
2020-07-27
39
人物49 内堀茂八
2020-07-16
40
旧堀切邸の裏
夜だったので旧堀切邸は開いてはなっかたが夜ということもありなかなかいい雰囲気だった。 昼間は中に無料で入ることができ、足湯・手湯にもつかることができる。旧堀切邸には歴史ある建物が存在し、江戸時代にタイムスリップした感覚を味わえるかもしれない。
2020-07-14
41
お城の堀を歩ける!?
先日、上田城の近くを歩いていると気になる物を発見しました。 それは、城の堀です! なんと、かつては水の中にあった堀が、今は歩道になっているんです。 実は、歩道になる前は鉄道が走っていたとか? そう考えると、なんだか面白いですね。
2020-06-23
42
上田藩主居館跡(上田高校)
上田城に近く現在の上田高校のある地に、関ヶ原の合戦後、上田を治めることになった真田昌幸の嫡男である信幸(信之)の居館が築かれた。信之はここで政務を取り仕切っていたといわれている。その名残で上田高校の正門は写真のように当時の正門が使われ、周囲には堀(水堀り)も見ることができる。
2020-06-23
43
縁の下の力持ち(架線柱の基礎)
苔むしたコンクリートの塊から飛び出る、錆びた金属片。 これも実は真田傍陽線の遺構である。 電車には当然電気が必要であり、その電気を電車に送るために必要なのが、架線という電線である。 その架線を吊り下げる柱、重い架線柱を支えていたのがこのコンクリートの基礎なのである。 上田城の堀の区間では、確認できたもので5つも残されていた。 全国数ある廃線跡の中でも、こういったものがこれだけ残っているところはそう多くない。 ここはとても貴重な場所なのだということをもっと広めていきたいと考えた。。
2020-06-22
44
堀から鉄路、遊歩道へ(公園前駅跡)
切通しの底にある、立派な石のトンネルと低い石積みのホーム。 ここは公園前駅の跡。 元々は上田城の二の丸掘りであったところに、1927年に真田傍陽線が通された。 トンネルに見えるのは上田城址公園への橋で、側面上部には電線を通すための碍子(がいし)も残されている。 廃線後、現在はケヤキ並木遊歩道として整備され、人々の憩いの場所となっている。 城の守りの要から人々の生活の足へ、そして憩いの遊歩道へ。 不思議な人生(土地生?)もあるものだ、と考えた。
2020-06-22
45
支え続ける、足元で(古レールの車止め)
お城のほど近くの月極駐車場。 やけに細長くまっすぐな土地、そして車止めに使われているのはなんと鉄道用のレールだ。 ここも、上田交通真田傍陽線の廃線跡のうち1つである。 電車は上田駅を出てから北へ進路を変え、ここを通ってお城の堀を登って行った。 昔は電車を、今は車を支える存在となった古レール。 半世紀前に、確かにここには鉄道が通っていた。 その歴史の生き証人として、今日も静かに横たわっている。
2020-06-22
46
絶景イルミネーション
写真は国営アルプスあづみ野公園(堀金・穂高地区)で撮りました。 敷地いっぱいに張り巡らされたイルミネーションはどこから見ても本当に絶景です。また、年によってイルミネーションのテーマが変わるので何度来ても楽しむことが出来ます。イルミネーションが好きな方や興味のある方は是非一度足を運んでみてはいかがでしょうか。
2020-06-01
47
上田城の夜桜
上田城跡公園の夜桜です。上田で春、桜を観るにはここです。堀の周りを囲む桜が美しくライトアップされています。約1000本の桜が堀の水面になり映り日本らしい景色を堪能できます。上田城千本祭りというイベントも開催され、上田の銘品やステージイベントなどで来た人を楽しませてくれます。
2020-05-26
48
四季豊かな高田城跡公園
場所:新潟県上越市 ここは私の住む近くの大きな公園で、高田城や四季に応じた様々な美しい景色を見ることができる。春には三大夜桜が公園中に開花し、お花見に来る観光客でにぎわう。夏は蓮の花がお堀に咲く。同じ高田城でも季節によって景色が豊かにかわる。また公園の周りには多くの学校があり、学生でにぎわう。 私も小さなころから今までの様々な思い出が詰まった公園である。これからもこの公園で思い出を作っていきたいと思う。
2020-05-25
≪
1
≫
堀(1)
上田城(1)
ログイン
トップページへ