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1臼井峠より浅間を見る図〔信州の浮世絵〕臼井峠より浅間を見る図〔信州の浮世絵〕江戸後期の浮世絵師、歌川国芳による風景画。「一勇斎国芳画」とある。 国芳は葛飾北斎、歌川広重らと同時代を生き、豪快な武者絵などで人気を博した。西洋の遠近法や陰影法を取り入れた風景画を描いており、この絵でもそれら技法を駆使して信濃国と上野国の境に位置する臼井峠(碓氷峠)から、浅間山を遠望する雄大な景色を描いている。峠には旅姿の人々や、背に荷を積んだ馬が引かれているのが見える。碓氷峠は当時、中山道においても関東と信濃国や北陸とを結ぶ要所であり、峠の江戸側には関所が置かれて厳しく取り締まられた。また古くから難所として知られ、皇女和宮が徳川家茂に嫁ぐために中山道を通ることが決まると、一部大工事が行われて「和宮道」と呼ばれる多少平易なルートが開拓された。 URL:https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommo2023-02-01
2戸隠山九頭龍大権現〔信州の浮世絵〕戸隠山九頭龍大権現〔信州の浮世絵〕江戸時代の浮世絵師、二代歌川広重による錦絵の揃物「諸国名所百景」の一つ。 初代広重の門人で、師の亡き後その画風を継承した二代広重が、安政6年(1859)から文久元年(1861)にかけて制作した。版元は、初代広重晩年の作「名所江戸百景」を出版した魚屋栄吉。徳川家の手厚い保護を受け、戸隠山顕光寺として信仰を集めた神仏混合の時代を描く。九頭龍大権現(現在の九頭龍社)の右に奥院(奥社)、江戸末期の狩野派絵師河鍋暁斎作の「龍の天井絵」がある中院(中社)、右下の石階段の先が宝光院(宝光社)とみられる。参道には杉木立の合間に院坊が立ち並び、参拝者や商人らが行き交う門前町として栄えた当時の様子を描いている。九頭龍社は古くから地主神として祀られてきた。 水の神、雨乞いの神、虫歯の神、縁結びの神として信仰を2023-02-01
3錦絵真田幸村巡見図錦絵真田幸村巡見図大坂の陣で大久保彦左衛門とともに身を隠す徳川家康(左下)と、それを捜す幸村を描いている。明治期の錦絵。作者は月岡芳年。芳年は明治に入って近代的な感覚を盛り込んだ歴史画に本領を発揮した人で、特に欧米で評価が高い。2023-02-01
4真田幸村真田幸村幸村(信繁)は上田城を築いた真田昌幸の次男(信之〔のぶゆき〕の弟)として生まれ、2度にわたる徳川軍による上田城攻撃を父とともに退けている。 そして、大坂の役にあたっては、豊臣秀頼の大坂城に招かれ、徳川勢を相手に華々しい活躍ののちに討死〔うちじ〕にし、名を後世に残した。2023-02-01
5初代上田藩主 真田信之初代上田藩主 真田信之真田信之は初代上田藩主を務めた人物であり、上田城を築城した真田昌幸の息子である。信之は徳川家に仕える猛将本田忠勝の娘、小松姫と結婚し、関ヶ原の戦いでは父昌幸、弟幸村とは対立することとなる。その後は上田領を任され、農村の復興と上田城下町の整備に尽力したが、1622年に松代へと移封されることとなる。 参考サイト 上田市デジタルアーカイブポータルサイト https://museum.umic.jp/sakuhin/web.html 上田市博物館 https://museum.umic.jp/hakubutsukan/ueda-castle-history/03/2023-01-28
6仙石氏中興の祖 仙石秀久仙石氏中興の祖 仙石秀久上田藩主を務めてはいないが、仙石氏について調べる上で欠かせない人物が秀久である。秀久は織田、豊臣に仕えた後、関ヶ原の戦いでは徳川方に参戦していた。豊臣時代に小諸城主と小諸藩主を務めたが、仙石氏は小諸藩から上田藩に移封されることとなった。秀久は小諸藩時代に死去していたため息子忠政が信之の跡を継ぎ、仙石氏3代による上田統治の時代が始まった。 参考サイト 上田市デジタルアーカイブポータルサイト https://museum.umic.jp/sakuhin/web.html 上田市立博物館 https://museum.umic.jp/hakubutsukan/ueda-castle-history/03/2023-01-25
7上田市立博物館上田市立博物館上田市立博物館に行き真田幸村(信繋)について学んできました。 真田家は織田、武田、豊臣家など仕える先を転々としており、豊臣家に仕えた時期が一番長かったそうです。 徳川家と豊臣家の関係が悪化してきた頃、幸村は豊臣家に誘われ、大阪城入りをします。 そこで真田丸という砦を城南に作ります。 その後に勃発した大阪冬の陣で徳川を破り、幸村は武名をあげました。 しかし、その後に起こった大坂夏の陣で徳川、真田両軍とも力尽き、幸村は命を落としました。 幸村がどんなことを行った人なのかよく理解していなかったので知ることができてよかった。 このほかにも上田の歴史を様々な面から見ることができて勉強になった。 また、十勇士の中で穴山小助、海野六郎などは実際に絵があったため 存在する人物であったと考え2023-01-23
812月22日分 調査まとめ12月22日分 調査まとめ上田城の築城・歴史 「日本一の兵」真田幸村を輩出した真田氏は、現在の上田市真田町の周辺を拠点として活動していた。上田城の築城が開始されたのは1583年のことで、真田幸村の父である真田昌幸によって築城が開始された。当時徳川家康に仕えていた昌幸は、その援助を受けながら築城をしていた。しかし、北条と手を組もうとする徳川から土地の受領を要請された際にこれを拒否。徳川と断絶した昌幸は、上杉家に助力を求め次男の幸村を人質に差し出す。これにより、上杉方から戦力と築城の支援を受けた。上田城が一旦の完成を迎えた1585年、家康は鳥居元忠らを真田領に進軍させ「第一次上田合戦」が始まった。およそ1万の軍勢で進軍してきた徳川軍を昌幸は謀略を用いて少数の軍勢で撃退した。時は流れて関ヶ原の戦い最中の1600年、家康の息2022-12-22
9上田城上田城真田幸村で有名な上田城。二度にわたる徳川軍を退けた難攻不落の城と呼ばれている。大河ドラマの「真田幸村」や「サマーウォーズ」のモデルとしても知られ、多くのファンから人気の観光スポットにもなっている。春に行ったときは桜が満開で川に移る姿や楽し気な屋台の列が印象的でした。奥に進むと結構大きな神社もあって素敵な場所でした。2022-12-05
10上田城上田城天正11年(1583)真田昌幸によって築城されました。 第一次・第二次上田合戦で徳川軍を二度にわたり撃退した難攻不落の城と呼ばれています。 信州上田真田丸大河ドラマ館が併設しており、信州上田の主たる観光地として観光客でにぎわいます。2022-10-31
11真田十勇士②真田十勇士②③海野六郎 比較的目立たないが十勇士のまとめ役であり、いなくてはならない存在 知略で徳川方を悩ませた。 ④三好清海入道 像を見ただけではわからないが180センチで怪力の持ち主。 太い樫の棒を振り回し戦った。真田幸村の父と親戚。2022-10-29
12上田城の堀の秘密上田城の堀の秘密上田城の堀には1箇所欠けている部分があります。 これは建設当時、風水において縁起の悪い方角を無くす目的があったそうです。これがあったからこそ真田晶幸は徳川軍を退けることができたのかもしれません。2022-10-29
13上田城 二の丸跡の歴史物⑤ 青年眞田幸村公之像上田城 二の丸跡の歴史物⑤ 青年眞田幸村公之像幸村の初陣とされる第一次上田合戦頃の、青年・真田幸村をイメージして造型されたもの。彼の眼が見据える先は徳川の大軍である。 <引用文> https://kojodan.jp/castle/60/photo/229664.html 10月21日15時頃にフィールドワークしました。  青年時代の真田幸村を表した銅像。眞田神社すぐ横にある。後ろには、壮大な景色が広がっていてとても綺麗でした。この銅像の場面は幸村の初陣、徳川との戦いを表しています。なんとこの戦いの結果は幸村が勝利を収め、大名として独立を確定させた戦いです。こう言ったことから眞田神社のご利益が「勝負運」なのかと考察できました。2022-10-27
14上田城 二の丸跡の歴史物② 東虎口櫓門上田城 二の丸跡の歴史物② 東虎口櫓門天正11年(1583)真田昌幸によって築城された上田城は、第一次・第二次上田合戦で徳川軍を二度にわたり撃退した難攻不落の城。春は上田城千本桜まつり・秋には上田城紅葉まつりが行われ、現在は信州上田真田丸大河ドラマ館が併設しており、信州上田の主たる観光地として観光客でにぎわいます。 <引用文> https://nagano-ueda.gr.jp/uedajo/about.html 10月21日15時頃にフィールドワークしました。  上田城跡に聳え立つ大きな門、この門はなんと、大河ドラマだけでなくサマーウォーズに出てくる門のモデルにもなってるそうです。徳川軍を二度も撃退したなんて、凄く頑丈なことがわかります。歴史的にも、見た目も話題性がとても高い歴史物だと感じました!!2022-10-26
15眞田神社眞田神社徳川軍から2度も守った不落城の上田城。不落ということから受験に落ちない、として縁起のいい神社である。受験前に訪れた人も多いのではないか。2022-10-24
16上田城跡公園上田城跡公園上田市1の観光スポット。真田昌幸が建て、徳川軍から2度も守った不落城である。春には千本桜まつりが開かれ大勢の人が訪れる。2022-10-24
17上田城 二の丸跡上田城 二の丸跡上田探検の西部地域の最終地点は、上田城の二の丸跡である。上田市に来たら訪れない人はいないのではないだろうか。第一次、第二次上田合戦で徳川軍を二度にわたり撃退した難攻不落の城。大河ドラマ真田丸でも有名なこの地に、容易にアクセスできることは、非常に貴重なことであると再認した。2022-10-21
18上田城上田城大きな門がお出迎えする上田城。ここで思い浮かべるとしたら真田一族をおいて他にないでしょう。真田の父、真田昌幸によって築城された上田城は第一次・第二次上田合戦で徳川軍を二度にわたり撃退した難攻不落の城として知られています。NHKの大河ドラマ「真田丸」でも注目を集めました。また、上田城の東虎口櫓門(ひがしこぐち・やぐらもん)はサマーウォーズの陣内家の門のモデルになっています。  観光客の姿は、門付近と真田神社で多くみられましたが、上田城跡公園内は忍者修練場などはあるものの、閑散としていている印象をもちました。  途中に博物館もありましたが、人はあまり入っていないようでした。個人的な感想ですが、資料館には堅い雰囲気があり、気軽に入りずらいということと興味のない人は楽しみ方がわからないと2022-08-09
19上田市別所温泉 将軍塚上田市別所温泉 将軍塚上田市別所温泉駅から少し登ったところにある。戸隠にいたという伝説がある鬼女紅葉を倒したと伝わる、平維茂の塚。 塚には「朝日さし夕日かがやくそのもとに黄金千枚二千枚」という、朝日長者や徳川埋蔵金伝説に登場する歌と類似した詩が書かれている。別所が衰退し、家屋が残り3軒になったら掘って、埋まっている黄金を使え。3軒になる前に掘り返すと別所が滅びるという言い伝えが残っている。 ちなみに、鬼女紅葉を倒すことに使われた刀は北向観音で授かったとされているそうだ。2022-05-10
20まとめまとめ松平忠固を調べる中で関良基さんの著書『日本を開国させた男、松平忠固』の比重が大きくなってしまったが、本書を読んで、慈悲深い領地運営や開国と交易の主張を貫いた姿勢から忠固の人となりが見えてきた。また、井伊直弼や徳川斉昭、開国、不平等条約改正などさまざまなものの見方が変わったことは収穫だったと思う。歴史から抹消されていた史実が掘り返されると通説が覆されることがあるので、本当の歴史を知っておくためにもそういった情報を仕入れていきたい。 参考資料等 ・関良基著『日本を開国させた男、松平忠固: 近代日本の礎を築いた老中』(1,2番目の記事の写真の出典) https://www.google.com/url?sa=i&url=https%3A%2F%2Fwww.amazon.co.jp%2F%25E6%2597%25A5%25E6%259C%25AC%25E3%2582%2592%25E9%2596%258B%25E5%259B%25BD%25E3%2581%2595%25E3%2581%259B%25E3%2581%259F%25E7%2594%25B7%25E3%252022-02-14
21日米和親条約と日米修好通商条約日米和親条約と日米修好通商条約出典:Wikipedia 下関戦争https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E9%96%A2%E6%88%A6%E4%BA%89  最後に、忠固が関わった二つの条約について詳しく見ていきたい。  日米和親条約の調印前に忠固(当時は忠優)は徳川斉昭との論争を制し、城中評議の場で五年後の交易承認という結論が出ていた。評議の翌日、斉昭は抗議の意思から参与辞職の意向を、自らの参与就任を推薦した老中首座の阿部正弘に伝えた。これを受けて阿部は、参与辞職を思いとどまらせるために会議の結論を覆し、交易の承認をしないという決定をした。そして日米和親条約は交渉術で勝った日本がアメリカから譲歩を引き出し、漂流民の人道的な扱いや食料・薪水・石炭の供与、長崎・下田・函館の開港などの内容に留まった。日米和親条約締結後、斉昭はアメリカの条約に基づいた「下田三箇条」と呼2022-02-14
22戦国時代の上田城戦国時代の上田城戦国時代、天才的な軍略家として称された真田昌幸が、上杉家に対抗するため徳川家康を説得し、上田城を築城した。上田城の築城構想は、実に巧みなものとなっている。 千曲川の北岸一帯は、神川や矢出沢川が作った谷間にある、勾配の大きな扇状地となっており、千曲川の河岸段丘となっている。そのため、大外堀の役割を果たしているため、簡単には攻め込まれない。城の南端でも、千曲川の分流が高低差の大きな岸をつくっていることや、対岸や東側も難攻不落の地となっている。 この時代から土地を生かした築城がされていたとは驚きで、上田の土地柄ならではのことであると感じた。 参考文献・資料 ・信州街あるき 上田城址を訪ねる上田城跡2022-02-04
23老中としての松平忠固老中としての松平忠固出典:横浜美術館「コレクション紹介」https://yokohama.art.museum/collection/collection.html    忠固は、すでに日米和親条約の頃から閣内で交易通商論を唱えており、ペリーとの条約交渉の当初から交易通商を条約に含めようとしていた。そこに立ちふさがったのが徳川御三家の水戸の前藩主で、尊王攘夷思想の震源徳川斉昭である。日米和親条約調印の翌年、斉昭によって失脚に追い込まれたもののハリスとの通商条約交渉に際して忠固は老中に復帰し、井伊直弼の調印には勅許を必要とするとの訴えを押し切って調印を断行した。その後責任を負い失脚した。  以上の老中としての行動からは、忠固の信念強さがうかがえる。2022-02-08
24松平忠固とは松平忠固とは 松平忠固(1812年~1859年)は上田藩の第6代藩主(上田城主に直すと真田昌幸から数えて11代目)で、日米和親条約と日米修好通商条約の調印時に老中を務めた人物である。最初の老中就任時は「忠優(ただます)」という名で、二度目の時は「忠固(ただかた)」に改名している。 忠固は終始一貫して開国と交易を主張し、徳川斉昭や井伊直弼と対立しながらも二つの条約の調印を断行した。その一方で、養蚕業を推進して海外輸出の地盤を固め、日本経済の礎を築いた。2022-02-08
25上田藩主居館上田藩主居館 現在上田高校がある場所には、かつての真田氏以降、仙石氏、松平と続いた上田藩主の居館がありました。一般的に城主の御殿は城の本丸に設けられていますが、上田城は徳川家に恨みを買っていた歴史的背景があり、三の丸とはいえ城の中心からだいぶ離れた場所に建てられました。同行東側の表門と、その両脇に続く土塀、堀、土塁は上田市の文化財に指定されています。2022-01-31
26小島大池(こじまおおいけ)小島大池(こじまおおいけ)小島大池は塩田平の中でも大きなため池であり、1618年に造られたものである。そんな小島大池の1689年に起きた事件についての民話を紹介していきたい。 下之郷山から降りてきた沢山の猪によって田んぼが荒らされ、田んぼの稲を守ろうと玉の入っていない鉄砲を一発打った。驚いた猪は小島大池に飛び込んでしまい、22匹のうち5匹が溺死してしまった。 騒ぎが大きくなり上田藩に届け出たところ、役人から「入念に猪の死骸を埋め、猪が死んだ理由を書いた木札を立て、周りを竹矢来で囲みなさい」といった処置が命じられた。 なぜ猪のためにこれほど大騒ぎになったのか。それは、当時徳川幕府の将軍綱吉が「生類憐みの令」を出しており、動物に危害を加えた場合重い罰が与えられたからである。 なお、小島大池に実際に行ったところ、現在工2022-01-26
27会見之地会見之地真田と徳川の合戦のなかで国分寺が登場するのが第二次上田合戦。この地で1600年9月(慶長5年)「国分寺の会見」が行われたとされている。真田が徳川秀忠の軍を足止めしたことで秀忠は関ヶ原の戦に間に合わず、後の家康と秀忠の関係に影を落としたそう。2022-01-26
28上田城の歴史2上田城の歴史2関ヶ原の合戦後、上田城は徳川の手で破却されたが、真田に代わって上田城主となった仙石氏によって復興された。1626年に修復された上田城は真田氏時代の縄張りを受け継いだとみられ、仙石氏の後に城主となった松平氏の代になっても、その姿にほとんど変化はなかった。明治維新後、廃藩置県により1874年に上田城は民間に払い下げられ、再び廃城となった。この際、本丸付近を一括して購入した丸山平八郎氏は、1879年の祭り神社(現真田神社)創建に当たり本丸南側の土地を神社用として寄附し1893年には残りの土地を遊園地要として寄附した。これが上田城跡のの公園化の第一歩になった。2021-11-14
29上田城の歴史上田城の歴史上田城は、真田幸村の父、真田昌幸によって1585年に完成したと考えられている。初め徳川家康のもとで上杉に対する城として築かれたが、沼田領の帰属をめぐり、徳川と手切れとなり、その後上杉方の城として完成した。 その直後、徳川の大軍が上田城を責め、第一次上田合戦(神川合戦)が勃発したが、昌幸の巧みな戦術により徳川軍は大敗した。また、1600年には関ヶ原合戦の前哨戦といえる第二次上田合戦が起こり、徳川秀忠率いる3万8千人の軍勢が攻め寄せたが、これも見事に退けた。この徳川との二度の合戦に勝利したことで、真田と上田城の名は、天下に知られるところとなった。2021-11-14
30上田城 真田神社上田城 真田神社中心部に位置する場所に真田神社があります。真田神社は徳川軍を二度も破ったという功績から、「不落城」にあやかり受験生に人気な神社になっています。そこの神社では、コロナウイルスの影響か、鈴が非接触型のパネルになっていて時代の流れを感じました。また、その奥には真田井戸や西櫓があります。2021-11-12
31上田城の歴史上田城の歴史 上田城は天正11(1583)年真田幸村の父である真田昌幸によって築城され、天正13(1585)年第一次上田合戦・慶長5(1600)年第二次上田合戦の二度にわたり徳川の大軍を退けたことで知られています。 二度もの実戦経験があり、上田城のような戦歴を持つ城は全国でも珍しく、他に例がありません。 関ヶ原の合戦後、上田城主は真田信之となり、以後には仙石氏(三代)、松平氏(七代)と代わり、廃城後は公園となり現在に至っています。2021-10-29
32人物02 真田信之人物02 真田信之 真田昌幸の嫡男、永禄九年生る。母は寒松院三修氏、幼名を源三郎と言ふ。天正十八年徳川家康の女小松姫を迎て室とす。文禄二年九月諸大夫に任じ、伊豆守と稱す。以下真田氏篇第三章にその事跡を載す。 『上田市史・下巻(1940)』1195頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌  人物篇2021-07-21
33阿梅の墓、真田大八(片倉守信)の墓阿梅の墓、真田大八(片倉守信)の墓白石市の当信寺に阿梅の墓、片倉守信の墓が並んで建っています。阿梅は幸村の三女、片倉守信は次男、真田大八です。真田幸村は大坂夏の陣の際に、敵将であった片倉重長に子どもの養育を託したと言われています。重長は阿梅、姉妹の阿菖蒲、おかね)、大八を養育しました。 阿梅は重長の正室の死後、重長の後妻となります。大八は片倉守信と改名して仙台藩士となります。大八の家系が後に復活を徳川幕府から許された仙台真田家になります。現在に至るもなお、姉と弟の墓が白石に残っています。昔を今に伝える数奇な物語です。2021-05-11
34駿府城駿府城これは静岡市にある駿府城の写真である。別名が静岡城や府中城。築城主は徳川家康であり、石垣やお濠などが存在する。いくつか再建造物があるがとても歴史があるものである。上田には上田城があるため相違点や類似点などを見る懈怠と思う。2021-05-05
35上田城跡公園上田城跡公園徳川家康が上杉氏に対抗するために築城した。その後上杉に奪われ増築されている。真田氏が第一次上田合戦時、徳川の軍を撃退。現在残っているモノは江戸時代に再建されたモノらしい。堀は深く出入り口も限られているため、責めるのはとても苦労したことがうかがえる。自然豊かで、落ち着いているため観光目的でも休憩目的でも立ち寄る価値は十分あると思う。2021-05-05
36上田城跡公園上田城跡公園上田城は、徳川の大軍を2度にわたって退け、日本全国に名を馳せた真田昌幸の居城です。 現在は城跡公園として整備され、上田市の観光拠点になっています。2021-05-03
37富士山本宮浅間大社富士山本宮浅間大社全国に約1,300社ある浅間神社の総本社で、本宮の本殿は徳川家康による造営で、「浅間造」という独特の神社建築様式であり、国の重要文化財に指定されています。GWということもあり、流鏑馬祭りを行っていました。とても賑わっていました。2021-05-03
38上田城の堀上田城の堀上田城は上田合戦で徳川軍に2度勝ったということで有名ですが、この深い堀を実際に見るといかに上田城が攻めにくい城であったかということが分かりました。2020-11-05
39上田城上田城上田城は徳川軍を二度にわたって退けたことで知られているのだそう。 駐車場から上田城に向かうけやき並木遊歩道は紅葉した木々に囲まれていてきれいだった。 写真は本丸東虎口に復元された櫓門。2020-11-04
40上田城 真田神社上田城 真田神社上田城本丸跡にある神社で、真田・仙石・松平の歴代上田藩主を祀っているそうです。  真田神社は、徳川の大軍でも攻め落とされなかったことから「落ちない」縁起をかついで受験生などに人気になっているようです。 また、絵馬のトンネルもあり、幻想的で見ごたえがありました。内容は受験に関することが多かったです。わたしもこれから資格取得や就活の時にはお参りしようと思います。2020-11-03
41上田城上田城上田市に引っ越して間もない5月に上田城を訪れました。 上田城は真田幸村の父、真田昌幸によって築城され、徳川氏の軍勢を2度にわたって撃退したことで有名です。巨大な堀、城への入口の狭さなどの敵軍を寄せ付けない様々な工夫から、築城能力の高さがうかがえます。 私が上田城を訪れた時は春でしたので、木々には緑の葉が生い茂り、共に見る上田城はとても美しかったです。桜や紅葉の時期に行けばまた違った美しさがあると思うので、ぜひまた行きたいと思いました。2020-10-04
42鷹匠町の街並みと人物鷹匠町の街並みと人物鷹匠町は、江戸時代真田正之の松代移封後の、仙石氏の時代に生まれた武士の町であるが、犬公方といわれた5代将軍徳川綱吉の生類憐みの令により翻弄された面もあったと聞くが、武家屋敷の絵図面に鷹匠、餌指と鷹匠町の地名が付されて来た。明治21年(1888年)できた信越線上田停車場から海野町に繋がる松尾町が独立したが、河岸段丘上の鷹匠町は蚕都上田を象徴する人物宅跡もあり、江戸時代から残る坂地名等の街並みや小路の風情を歩いて見ませんか?2020-07-26
43上田城上田城真田昌幸が築いた平城である。2度にわたって徳川軍を撃退したことで知られている。上田城は天守閣がないため、見どころがないように感じるが城好きには十分楽しめると思う。個人的には城の南側から見る尼ヶ淵側の石垣が迫力がある。もちろん、上田城といえば写真の東虎口櫓門がイメージされるが、これもまた迫力があり、とても美しい。2020-06-23
44上田のシンボル 上田城上田のシンボル 上田城上田市のシンボルとも言える上田城は真田信繁(幸村)の父、真田昌幸によって築城されました。 第一次・第二次上田合戦で徳川軍を二度にわたり撃退した難攻不落の城として知られ、あのサマーウォーズのモデルにもなっています。 現在は花見や観光、ウォーキングの名所として広く親しまれています。2020-05-26
45田安門田安門徳川家16代目の徳川家達の屋敷に置かれていた門です。家達は東京に移住したもののこの門は静岡に残され、その後の静岡大空襲でも滅びることがありませんでした。 現在は私の母校の高校の門として利用されています。そのような歴史ある門が母校にあることを誇りに思います。2020-05-25
46静岡浅間神社静岡浅間神社徳川家康とゆかりが深い神社で、徳川幕府の指示によって造営されたものです。静岡を代表するお祭りの1つである廿日会祭が開催される神社として知られています。 明治時代に別々の家で管理されていた3つの神社が、1つの神社となったことが面白いなと思います。2020-05-25
47久能山東照宮久能山東照宮晩年を駿府で過ごした徳川家康が埋葬された神社で、国宝にも認定されています。明治時代以降50年に一度社殿を始めとした諸建造物の漆塗り替えが行われています。 東照宮までには1159段の階段があり、「いちいちご苦労さん」と呼ばれていることに市民の親しみを感じます。2020-05-25
48駿府城駿府城1585年に徳川家康によって建てられ、家康の隠居場所として利用されていた城です。 私は通っていた学校が目の前にあり、毎日この城を見て過ごしていたことから親しみがあります。駿府城公園として多くの市民に愛されています。2020-05-25
49神川合戦の地神川合戦の地これは神川地区にある神川合戦の地というところの木で作られた六文銭です。 このご時世なのでコロナウイルスがいち早く終息するようにというメッセージが書かれています。 地域のある団体の方が作ったそうで、こういった取り組みは素晴らしいなと思いました。2020-05-25
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