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1上田紬の歴史<衰退>上田紬の歴史<衰退>前回の投稿で繁栄した上田紬はその後衰退していきました。今回はその背景をまとめます。 盛んだった上田紬は、明治維新後に絹糸の輸出が盛んに行われるようになり、生産量が減り始めました。 その後は1930年代に世界大恐慌があり、糸代の大暴落によって蚕種業が壊滅的な状況になり、戦争が始まってからは衰退の一途を辿りました。2023-02-01
2農村女性に望む農村女性に望む戦時中の苦労や恐怖からと終戦に対する幸福感が書かれている。それとともにもう戦争のことなど考えず農家の女性としてこれから生きていくことが力強く書かれている。 まとめ 終戦直後の混乱状態のリアルなこえをまとめることができた。青年は敗戦に落ち込まず前向きに復興へとすすんでいることが読み取れた。 被害が多くなかったとは言え様々な問題を抱えていたことが分かった。2023-01-31
3戦時版の新聞③「プロパガンダ映画」とまとめ戦時版の新聞③「プロパガンダ映画」とまとめ映画までもプロパガンダとして利用されていたことが分かる記事である。 イギリス領インドの青年を日本人(岡倉天心等)が助けるといった内容であると書かれている。 実際の人物までもプロパガンダ映画で使われていたことに驚いた。 岡倉天心の「東洋は一つ」という言葉を都合よく解釈し、戦争に利用したように感じる。 参考サイト 【戦後75年】戦時中の中部日本新聞をPDFで読んでみよう 2023年1月31日閲覧 ▼この資料は以下から参照できます。 『中部日本戦時版』「2023-01-31
4戦時版の新聞②戦時版の新聞②バチカン市国について書かれた記事である。しかし、内容は敵国(アメリカ、イギリス)に対する批判である。 現代の世界史とは違った視点から歴史を見ることができ、興味深く感じた。 参考サイト 【戦後75年】戦時中の中部日本新聞をPDFで読んでみよう 2023年1月31日閲覧 ▼この資料は以下から参照できます。 『中部日本戦時版』「戦争と闘ふヴアチカン 非道へ法王の睨み」(昭和19年3月16日)2023-01-31
5記事2記事2 これらの記事から、満州事変後に、満洲国の移民の宣伝である、東京以外の地方ではそういう宣伝があれば全方位で、特にあの時代で影響力が高いの新聞で宣伝が多ければ、全面戦争の始まりのサインではないかと思う。 参考資料:西塩田時報(1937~)第161号~第180号 昭和十二年四月号 昭和十二年七月号 2023-01-30
6記事1記事1昭和六年一月号  この記事は徴兵制度を示したものである、全面戦争前の1931年に戦争の準備をはじめと見える様子。 参考資料:西塩田時報(1930~)第81号~第100号 昭和六年一月号2023-01-30
7防空講習(1937)防空講習(1937)1937年7月7日に当時の上田中学校で、防空に関する講演があったと書いてある。防空とは敵の空中からの攻撃から身を守ることである。1937年7月7日は日中戦争が開戦した日であり、当時の学校にも戦争に対する緊迫感が漂っていたことが予測される。 #738 「西塩田時報」第165号(1937年8月1日)2頁 https://mmdb.net/mlab/uedagaku/pdf/nishishioda/ns10_161to180.pdf2023-01-27
8戦後80年で人々の価値観はどう動いたのか戦後80年で人々の価値観はどう動いたのか 戦後日本において、新幹線が開通し、オリンピックが開催され、インターネットが普及する間に、日本人の価値観・人生観はその生活の様相とともに大きく動いてきたように思われる。そこで、戦前の人々の価値観は、現在を生きる我々から見ていかに違うのかを研究する。  本記事では西塩田時報第百八十二號第五頁を取り上げて述べる。 「幹部修養講習會に出席して」という項目は、「原田晴章」なる人物が、「三好武治」なる人物の講演の一端を書くというもの。講演の内容は、主に支那事変(日中戦争の、当時の日本での呼び名の一つ)についてのものである。 「日本で今度の事變での勝利は精神力である」 「支那事變は世界に類の無立派なる所の正しき戰争である」  このような記述がある。やはり根拠のない精神論や戦争を美化する意2023-01-26
9大東亜戦争完遂映画会(『西塩田村公報』第5号4項)大東亜戦争完遂映画会(『西塩田村公報』第5号4項)農村でも映画会を開き、戦果を伝え、国民の団結力と忠誠心を強めていたと考えると、いかにマスメディアが戦争に利用されていたかが分かる。 上映されていたものはおそらく大本営の戦果発表だと思われる。そのアーカイブはNHKの戦争証言アーカイブス、戦時録音資料で参照できる。 この記事が書かれた当時(1942年5月22日)は、日本軍が優勢であったとされる。アジア・太平洋戦争の転換期であるミッドウェー海戦はこの新聞が発行されて約2週間後に起こる。 NHK「戦争証言アーカイブ 戦時記録資料 勝利の記録」 https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/sp/list.cgi?cat=kiroku 2023年1月25日閲覧 ▼この記事は以下から参照できます。 #930 『西塩田村公2023-01-25
10無言館無言館日中戦争、太平洋戦争で亡くなった役130名の画学生の作品が展示してあります。画学生の魂が込められた作品は作者を思うと大変心が痛みましたが、同時に目が離せませんでした。第2展示館入口にある絵筆のベンチ(3枚目の写真)は最初見たとき、なんなのか分かりませんでしたが、彼らの筆なのだろうかと思うとなんとも言えない気持ちに襲われました。2022-12-05
11青年の聲 【『西塩田時報[戦後]』第4号(1947年4月20日)1頁】青年の聲 【『西塩田時報[戦後]』第4号(1947年4月20日)1頁】太平洋戦争が終結した際の日本国内の様子が書かれている。自分にとっては教科書的な内容であった国民主権や思想良心の自由への移行への国内の動向を知ることが出来た。今では当たり前にあるような考え方も当時は反発もあったようだ。現代とギャップが非常に興味深いものだった。2022-12-25
12壮丁学力検査問題(『西塩田時報』第1号(1923年7月1日)1頁)壮丁学力検査問題(『西塩田時報』第1号(1923年7月1日)1頁)明治時代、徴兵制度に基づいて満20歳の青年全員に行われた「壮丁検査学力試験」の問題が載っていました。壮丁検査とは、徴兵検査受検義務者を壮丁と称し、教育や学力の程度を測るための調査です。 「人の本分は何か」という問いや、「我等の進むべき道」という題の作文がありました。また、書取では「議会協賛」や「心身鍛錬」などが出題されていました。問題から、戦争が身近にあり、求められているのは化学的な知識や学力ではなく、愛国心や天皇や国策に関する理解だったことが読み取れました。 この記事は以下から参照できます。 #1『西塩田時報』第1号(1923年7月1日)1頁 https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p0001.jpg2022-12-25
13米の節約!勝利の一歩(『西塩田時報』第198号1項)米の節約!勝利の一歩(『西塩田時報』第198号1項)日中戦争時、東京などの都市だけでなく、地方でも節米運動が行なわれていたことが分かる記事である。白米ではなく、麺類や七分づき米、雑穀米を代用として食べるように書かれている。戦時中、栄養不足にならないために栄養豊富である雑穀米などを食べていたのだと考えていたが、日本の物資不足も要因の一つであったことが分かった。 また、「勝利への第一歩」という言葉から、国民の戦争意欲を高めようとしていることがうかがえる。戦時中という時代背景を強く実感できる記事のタイトルだと感じた。 ▼この記事は以下から参照できます。 #879 『西塩田時報』第198号(1940年5月1日)1頁2022-12-23
14青年の聲 【『西塩田時報[戦後]』第4号(1947年4月20日)1頁】青年の聲 【『西塩田時報[戦後]』第4号(1947年4月20日)1頁】これは当時の太平洋戦争が終わりポツダム宣言を受諾した日本の意見が良く分かる記事です。おそらくこの記事のようにポツダム宣言に賛成した派と否定派で激しく争ったように感じ取れます。そのような昔の雰囲気を感じ取れる記事として面白く思えました。 ▼この記事は以下から参照できます。 #985 『西塩田時報[戦後]』第4号(1947年4月20日)1頁 https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p1261.jpg2022-12-21
15海軍一等機関兵勲八等土屋八八郎碑海軍一等機関兵勲八等土屋八八郎碑小諸市大字菱平字稲荷地籍に建てられた土屋八八郎 の碑 土屋八八郎は1883(明治16)年6月10日 北佐久郡大里村生まれ。日露戦争に従軍し、戦艦三笠乗務。1905(明治38)年9月11日佐世保港において火薬庫爆発のため死亡。死亡後勲八等白色桐葉章受章。 三笠の沈没については下記のサイトを参照。 https://www.jacar.go.jp/modernjapan/p10.html2022-12-09
16上田招魂社上田招魂社上田招魂社は眞田神社と同じく上田城内に建立されている神社です。戊辰戦役従軍の戦死者をはじめ日清日露の戦争を経て今次の大東亜戦争に至る間国家の為尊き命を捧げられた5,936人の英霊をまつる御社です。2022-12-05
17無言館無言館 太平洋戦争などで戦死した画学生の遺作や遺品を展示する、戦没画学生慰霊美術館 無言館。  今年の24時間テレビのスペシャルドラマの題材にも取り上げられていたため以前から興味があり、今回初めて訪れることができた。  「自問坂」という大変急な坂道を上った先の、コンクリート造りで静けさに包まれた館内には、画学生が出兵前や戦地にいる間に描いた作品や家族に送った手紙、画材などが展示されている。遺族が語る画学生の人物像や彼らとの思い出とともに作品を眺めることで、彼らが必死に作品に込めた家族や故郷への愛、絵画・彫刻への情熱を受け取れた気がした。2022-11-30
18上田の蚕業について④上田の蚕業について④蚕業を行っていた頃の農家の主婦についても現在の社会の状況と重なる部分が多々あります。 女性の労働について記録された書籍(「人権の確立と女性のあゆみ」 (平成14年)編集者 上田市誌編さん委員会 発行者 上田市・上田市誌刊行会より)に載っている写真を見ると、家の一角のような場所で女性や子どもが写っていたり、女性が男性に交じって働く写真があったり、特定の性別や年齢で限らず、人々の生活に蚕業が根付いていたように思われます。特に女性の仕事は家事育児、給桑作業や農作業など多岐にわたるように見受けられました。 同誌によると、 「明治から大正期に蚕糸業が全盛であった上田地域では、多くの農家の主婦が蚕の世話に始まる農作業や家事に追われ、目の回る忙しさでした。乳幼児をかかえた母親たちも例外ではなく、重2022-11-28
19二十四の瞳二十四の瞳2022/03/01 二十四の瞳の舞台。小豆島へ。 小豆島というと私が思い浮かぶのは「オリーブ」「二十四の瞳」「昔の車のCM」。小学校の頃からいつか行きたいな~。と思っていた。 小豆島に入ってすぐに、二十四の瞳の像が。 うわ~、ホンモノだ。写真で見てたやつ!となり小豆島に来たんだな~と実感した。 その後、車で小豆島を回り念願の「二十四の瞳映画村」へ! しかし、なんとコロナウイルスの影響で臨時閉館していた。行きたくてたまらなかった私はすき間から映画村をたくさん覗いた。 二十四の瞳映画村がしまっていてショックを受けたのかなと思いながら、この日の日記を見ると 「二十四の瞳映画村にいくと臨時休館していた。また小豆島に来る理由ができた。ラッキー!」(当時の日記より) と書いてあった。 いや、、どん2022-11-25
20無言館無言館戦没画学生慰霊美術館である無言館です。八月末くらいの24時間テレビか何かのドラマで舞台になっていました。 このような戦争の面影を見ることのできる戦争遺跡のような場所は、もちろん横浜市にもあります。高校の授業で横浜市内の戦争遺跡について調べたことがありましたが、このような戦争遺跡はどこにおいても戦争のことを人々が忘れずにい続けるためには必要だと思いました。2022-10-28
21現代に繋がる主導的産業の偏移について現代に繋がる主導的産業の偏移について 幕末の開港によって長野県は地域経済を世界につなげることになった。そこで長野県を国外まで広げる一翼を担ったのは生糸でした。  長野県は外国との交流が始まると、器械製糸を取り入れ、養蚕や蚕種業の技術開発や改良に力を入れました。それで、蚕糸王国と呼ばれることになったわけです。長野県の近代のあゆみは養蚕や製糸業の盛衰に左右され長野県の命綱は、蚕糸業であったと断言して過言ではありません。 長野県の製糸業は県外や外国にまで進出し、日本の製糸の中心となります。なので、長野県内のいたるところの農家では養蚕が営まれました。  蚕糸業は大正時代から昭和初年にかけて全盛期を迎えますが、1929年(昭和4)からの世界大恐慌の影響をうけ、製糸業を営む会社の倒産が相次ぎ、繭価の価値の大暴落のため生活を養蚕に2022-08-10
22長野飛行場跡地長野飛行場跡地長野県長野市大豆島には長野飛行場の跡地があります。長野飛行場は昭和14年に開場され、東京や大阪などに定期便が運行し、その2年後の昭和16年に軍用飛行場として利用されるようになりました。しかし昭和20年、太平洋戦争によって長野市は空襲に遭い、飛行場とその周辺の民家にまで被害が及びました。 戦後は民間飛行場としてセスナ機や鉄道機関、長野県警のヘリポートとして利用されていましたが、平成2年に閉鎖されました。現在は中学校や住宅が立ち並んでおり、一目見ただけでは跡地だとは分からないのですが、当時の滑走路は現在も道路として残っています。 現在の日本は戦争とは無縁のような社会ですが、この飛行場の歴史を知って、戦争というものを少し身近に感じました。2022-08-09
23上田飛行場跡(上田千曲高校)上田飛行場跡(上田千曲高校)上田千曲高校に足を運び、戦前に上田市に存在した「上田飛行場跡」の碑を見に行った。 碑には戦時中の上田地域での主な出来事などが記されており、飢饉があったことなどがわかった。2022-05-17
24第28号『上田小県における感染症の歴史』第28号『上田小県における感染症の歴史』上田小県近現代史研究会ブックレット第28号『上田小県における感染症の歴史』 【編著・発行】上田小県近現代史研究会 【発行】2021年12月10日 【定価】600円(税別)上田市内の書店でお買い求めください。  パンデミック(世界的大流行)はこれまでも幾度となく立ち現れ、先人たちもその度に脅かされてきました。多くの命が奪われ、社会活動に支障をきたしました。しかし、その都度全力で立ち向かい、できる限りの対策を講じて乗りこえようとしてきました。なす術もないと思われた時でさえ絶望せず、しばしば神仏に疫病退散を祈り続けました。(略)  もう一度各章にわたり取り上げたテーマについて、明らかにできた教訓や課題、厳しい条件の中でも命や暮らし、さらには文化を守るための人々の努力があったことを確認してみましょう。(2022-03-13
25当研究会発行のブックレット バックナンバー当研究会発行のブックレット バックナンバー号によっては品切れがあります。上田市内の書店でお買い求めください。または上田小県近現代史研究会事務局へお申込みください(下記に住所記載)。 号数 ブックレットタイトル 著者 発行年月 1 『深町広子と上田自由大学』上原民恵[著] 1995.03,2000[改訂]【品切れ】 2 『上田小県地方に空襲があった』新津新生[著] 1996.07,2005[改訂]【品切れ】 2 『上田小県地方に空襲があった 増補改訂版』新津新生[著] 2005.07【品切れ】 3 『信州の鎌倉 別所温泉―歴史と文化―』上田小県近現代史研究会[編] 1997.10,1998[改訂]【品切れ】 4 『2022-03-06
26実物の書物実物の書物こちらは、ネット検索で、東京の古書店から手に入れた、工作の教材です。著者名や書籍名で検索して、運良く古書店が登録してくれていると出会えることがあります。大概は捨てられてしまうのでしょうが、古書店に渡って、うまく発掘できれば手に入れることができるのです。 網目模様をバックに、オレンジなどの色使いやデザインも斬新です。でも落下傘や飛行機などちょっと戦争の色も感じられて少し複雑な感じもします。2022-02-23
27書物とインターネット書物とインターネット何度か御参りしている時に、戒名にある”江南”ってなに?京城と関係があるのかな?と思い、なぜか鈴木江南と検索してみると、一つのブログ記事にたどり着きました。 これが大きなきっかけになりました。作家で古書収集がご趣味だった黒岩比佐子さんの古書の森という収集した古書について説明とコメントを書かれたものの一つがヒットしたのです。子ども向けの教材のようなものでした。小学校の先生をしていたことはわかっていましたが、そんなものを作っていたということは聞いていないし、教材は東京の京橋区あたりで出版されています。今の距離感から考えても、一致するとはいいがたい。ただ 教材の中には当時の戦争の色や仁川など韓国にある地名などの記述もあり、それっぽい。確信が持てないまま時間が過ぎました。黒岩さんにも直2022-02-21
28まとめまとめ松平忠固を調べる中で関良基さんの著書『日本を開国させた男、松平忠固』の比重が大きくなってしまったが、本書を読んで、慈悲深い領地運営や開国と交易の主張を貫いた姿勢から忠固の人となりが見えてきた。また、井伊直弼や徳川斉昭、開国、不平等条約改正などさまざまなものの見方が変わったことは収穫だったと思う。歴史から抹消されていた史実が掘り返されると通説が覆されることがあるので、本当の歴史を知っておくためにもそういった情報を仕入れていきたい。 参考資料等 ・関良基著『日本を開国させた男、松平忠固: 近代日本の礎を築いた老中』(1,2番目の記事の写真の出典) https://www.google.com/url?sa=i&url=https%3A%2F%2Fwww.amazon.co.jp%2F%25E6%2597%25A5%25E6%259C%25AC%25E3%2582%2592%25E9%2596%258B%25E5%259B%25BD%25E3%2581%2595%25E3%2581%259B%25E3%2581%259F%25E7%2594%25B7%25E3%252022-02-14
29日米和親条約と日米修好通商条約日米和親条約と日米修好通商条約出典:Wikipedia 下関戦争https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E9%96%A2%E6%88%A6%E4%BA%89  最後に、忠固が関わった二つの条約について詳しく見ていきたい。  日米和親条約の調印前に忠固(当時は忠優)は徳川斉昭との論争を制し、城中評議の場で五年後の交易承認という結論が出ていた。評議の翌日、斉昭は抗議の意思から参与辞職の意向を、自らの参与就任を推薦した老中首座の阿部正弘に伝えた。これを受けて阿部は、参与辞職を思いとどまらせるために会議の結論を覆し、交易の承認をしないという決定をした。そして日米和親条約は交渉術で勝った日本がアメリカから譲歩を引き出し、漂流民の人道的な扱いや食料・薪水・石炭の供与、長崎・下田・函館の開港などの内容に留まった。日米和親条約締結後、斉昭はアメリカの条約に基づいた「下田三箇条」と呼2022-02-14
30「私の地域探求」一覧(情報通信文化論2021成果物)「私の地域探求」一覧(情報通信文化論2021成果物):マイテーマ :探求者のマイサイトにリンク 【1】~【7】の地域は上田 【1】上田の歴史 1「上田藩第6代藩主 松平忠固」(探求者:yo-to) 2「上田の歴史(貿易、蚕糸業、金融)」(探求者:じょうじ) 3「明治の上田での生活」(探求者:) 4「戦時中の暮らしについて」(探求者:みるくた2022-02-13
31ごはんのようい(『西塩田時報』第178号(1938年9月10日)2頁)ごはんのようい(『西塩田時報』第178号(1938年9月10日)2頁)第169号(1937年12月25日)の辺りから急に戦争ムードに突入し、「戦線」「陸軍」「兵隊さん」などととてもレシピどころではない言葉が並んでいた『西塩田時報』であったが、その中に一つほっこりする記事を一つ見つけた。 「尋二西」とあること、この記事が小学校便りであることから、おそらく書き手は10歳以下であろう。そんな子供が、母の頼みを聞いて、妹と思われる「やい子」と一緒にご飯を炊き、茹でたとうもろこしを妹と二人で食べるという内容である。 発行された当時にも、この記事を読んで心が癒された人は多かっただろう。 ▼資料出典元 #792 『西塩田時報』第178号(1938年9月10日)2頁2022-02-09
32戦時中のタンパク質は蜂の子!?戦時中のタンパク質は蜂の子!? 戦争中はタンパク質不足による栄養不足が多かったという。そのタンパク質不足を補うために蜂の巣から取れる蜂の子を貴重な栄養源として食べていたらしい…  蜂の子は食べたことはないが虫の佃煮に感覚は近いのだろうか…  くれぐれも栄養不足にはご注意を…2022-02-09
33富士地区の経済発展の成り行き富士地区の経済発展の成り行き明治18年、富士地区で富士製紙株式会社の影響により、紙の資源となる富士山麓の木材を効率よく輸送するため、富士市から富士宮市大宮までの「富士馬車鉄道」が開業される。その後さらなる効率化を目指し、大宮から人穴まで富士軌道を開業し、この影響により、富士地区の経済は発展していった。 このころ、鉄道の開通の出願が増えており、この富士地区の鉄道計画に関して資産家らが「富士川鉄道」を設立し、国からの免許が下りたが、日清戦争により経済が悪化し、結局富士川鉄道に対して運行の免許が取り消されてしまった。2022-02-05
34キュレーションのまとめキュレーションのまとめ 電線の無電柱化は、景観の向上・災害時の被害の軽減・防災時に自治体が緊急輸送路に指定している道路のためなど、自然災害が多く観光や地域文化や歴史を大切にしている日本にとって、これからの日本の未来を担う大切な取り組みだと感じた。  電線と電柱は太平洋戦争終戦後、戦後の日本の経済復興として、急増する電力や通信需要を支えるためにたくさん建てられてきたものです。そのため、経済のために活躍してきてくれた電線と電柱に感謝しながら、次世代の無電柱化の日本をこの上田市も積極的に目指していければと思う。2022-02-02
357 総括7 総括今回私は、地元である旧・坂井村が戦時中にどのような影響を受けたのか、村誌を中心に紐解いていった。 まず第一に、これまでに自分の出身地について調べるために村誌を読んだり、自分の地域と戦争を絡めて当時のことを考えた経験があまりなかったため、今回調べたことで新たに知った内容がとても多かった。そのなかの大きな一つが松根油の採取だ。 私の祖母も戦争を経験している世代で、隣接している麻績村で育った。当時の状況や、今の自分と同じ年代のころに何を体験し、何を考えていたのか、知りたいと強く思うきっかけとなった。 今の私たち学生世代は、戦争についてやはり遠い存在に感じている面がある。私は今回、地元と絡めて戦争を見たことで、今まで以上に当時の状況や出来事に興味や関心を抱いたし、何より戦時中の生活2022-01-29
366 松根油の生産について6 松根油の生産について画像は「長崎ディープブログ「長崎街道11~松並木と松根油と」」から転載 http://blog.nadeg.jp/?eid=43&imageviewer&image=20171028_726412.jpg 年表・数字からひもといた中で、特に「航空燃料用の松根油」の生産に関して注目したいと感じた。 興味を感じた理由は下記の二つである。 ①自分の生まれ育った地域、しかも長野県の山の中で航空機の燃料を作っていたことを全く知らなかった。日本の山奥で航空燃料を生産するに至るまでに、どのような経緯があったのか調べたい。 ②のちに記すが、坂井村誌内の記述によると、私の実家の近く、小学校の通学路の橋の袂で生産を行っていたらしい。そのためより身近に感じた。

村誌内の記述

下記は坂井村誌内に記述されている、松根油に関する記述である。 -------------------- 松根油 昭和20年に入ると、松根
2022-01-29
375 数字からひもとく5 数字からひもとく昭和16年 関東軍特別大演習 →兵力約70万が動員(wikipediaより) →坂井村からは予備役・後備役補充兵役の16名が召集。軍服ではなく作業衣や浴衣を着て部隊に集合せよという状態であった。(村誌より) 日支事変以来の大戦での坂井村の戦没犠牲者 108名(村誌より) →昭和22年の臨時国勢調査による統計によると、昭和21年の坂井村総人口は2,998人 →正確な数字ではないが、人口のおよそ3%が戦争によって命を落とした2022-01-29
384 年表からひもとく4 年表からひもとく坂井村誌内の年表を一部引用し、特に重要な部分をまとめた。

昭和12年(1937年)

盧溝橋事件が勃発。村内の予備兵に召集下令があり、村内に一気に緊張感が流れた。 ・銃後後援会(後に奉公会)結成、村防護団結成・応召家庭の農作業奉仕。 ・軍の指示により、初めて防空演習が行われる。 ・国防婦人会結成(全村)、国民精神総動員長野県実行委員会(会長・県知事)坂井村支部(支部長・村長)結成。 ⇒日中全面戦争の開始に伴って始められた、国民の戦争協力を促す官製国民運動。「精動」と略されることもある。1937年(昭和12)8月第一次近衛文麿(このえふみまろ)内閣は「国民精神総動員実施要綱」を閣議決定し、同年10月「挙国一致、尽忠(じんちゅう)報国、堅忍(けんにん)持久」のスローガンのもとに国民精神総動員
2022-01-29
392 探求にあたり2 探求にあたり・今回の探求では日中戦争から太平洋戦争にかけて(昭和12年ころ~昭和20年)を対象として調査する ・主な資料として「坂井村誌」を参考文献とする ・はじめに年表から紐解いていき、特に気になった点について深堀していきたい2022-01-29
40満州移民②満州移民②こちらの記事は先ほど紹介した小林信悟さんの満州での生活を記したものである。 これを見る限り、渡った先では農耕班として農業をしており、食事に関しても毎日白いお米を食べることができたり、週一でカレーを食べていたりと充実しているように見えた。休日に関しては、月に2~3回と現代と比べればとても少なく感じた。こちらの資料も実際の生活状況が伺える貴重な資料であると感じた。2022-01-27
41満州移民①満州移民①こちらの記事は満州移民として満州へ行った小林信悟さんの話についてである。 当時長野県から満州移民として満州と渡った人数が約31000人で一位だという。第二位の山形県が15000人弱であるからダントツのトップである。 この記事ではここ上田から満州とへの経路で起きた出来事が詳細に語られている。このような詳細な資料は現在体験された方が減少していっているため非常に貴重な資料であると感じるとともに、その生々しさがひしひしと伝わってきた。2022-01-27
421 地域探求のテーマと目的1 地域探求のテーマと目的テーマ:旧坂井村と戦争 第二次世界大戦の終戦から76年が経ち、戦争の記憶が若い世代にとって遠いものに感じ始めている。知識としては知っていても、感覚的にどこか遠く感じてしまう。 その理由として「70年以上前のこと」という時間的要因の他に、「自分の身近に感じにくいスケールの大きさ」が要因として考えられる。 小中高それぞれの学校では、日本全体や世界全体の戦時中の出来事を学ぶ機会が多く得られるため、ある程度多くの人が知識として戦争について知っている。しかし、スケールが大きすぎてしまい、どこか他人事の様に感じられてしまうこともある。 そこで、都道府県単位や市町村単位における戦時中の出来事から、戦争をみていきたいと思う。都道府県や市町村ごとであれば、現代を生きるそれぞれの人にと2022-01-27
43犬もヒトと同じ扱い!?犬もヒトと同じ扱い!? ヒトだけが戦争に動因されるのではなく犬も戦争に協力させられてた!? 今でこそペットというイメージが強いが当時は軍犬になっていた… ヒトだけでなく犬も戦争には散々… 参考文献:https://www.city.sapporo.jp/kobunshokan/kankobutsu/documents/ronkou3-2.pdf 写真4-2 勝つために犬の特別攻撃隊を!と呼びかける隣組回報 昭和19年11月 八王子市郷土資料館提供2022-01-26
44壮行會壮行會こちらの記事は小學校での行事を示した記事である。 今と少し異なるところが5月27日と3月10日に行われた行事だ。 5月27日には海軍記念日として登山を、3月10日には陸軍記念日として記念講話を行っている。これらはどちらも軍を重んじた行事であり、小學校からこのようなことが行われていたと言うことを生の資料から受け取ることができた。 記事はこちらから https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p0078.jpg2022-01-25
45勤儉週間勤儉週間こちらの記事は勤儉週間についての記事である。 勤儉とはよく働き、倹約することの意である。戦地にいる兵隊が苦労しているから私たちもきちんと働き倹約しようという意味を込めてのものだと考察した。 標語である「今日の勤儉 明日の極楽」や「家を興して国を富ませ」等は当時の考えを体現したものだと感じた。 また「一銭を笑ふものは一銭に泣く」という標語が個人的に気に入った。今も昔もお金は大事。 記事はこちらから 1枚目:https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p0058.jpg 2枚目:https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p0153.jpg2022-01-25
46徴兵徴兵こちらの記事は徴兵検査の結果についての記事である。やはり戦争ということで徴兵についての記事は多く見受けられた。徴兵検査の結果や徴兵適齢届の存在、また、小学校で兵士の壮行会が行われていたり徴兵検査の心得等々多様なものを発見することができた。 一つ疑問に思ったは、1枚目と2枚目からわかる通り、徴兵令が出されており届出をしないと罰せられるのにも関わらず、結果として31名中10名(6名が無名とあるため16人までの可能性あり)という少し低めな合格率であることだ。徴兵として集められても合格できなかった人は一体何をして過ごすこととなるのだろうか。 記事はこちらから 1枚目:https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p0006.jpg 2枚目:https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p0016.jpg 3枚目:https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p0060.jpg 4枚2022-01-25
47現役兵現役兵この記事は塩田の村における現役兵を示したものである。 大勢の方の名前が記されているが、私が疑問に思ったのは左側に書かれている「海軍」についてだ。筆者は横須賀という文字から神奈川に配属された兵だと考察をした。なんとなく海がある県の方が適していると感じているが、長野県は海無し県であるのにも関わらず海軍に任命されるのが少し疑問に思った。 記事はこちらから https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p0003.jpg2022-01-25
48平和観音(世界平和聖観世音菩薩)平和観音(世界平和聖観世音菩薩)112段の石段の先に平和観音と呼ばれる重さ約22t、全長約25mにも及ぶ銅像がある。雪のなかということもあり、石段が滑り大変だった。昭和39年に完成し、金属製の観音像としては東洋最高らしい。実はこの像は2代目で、昭和初期に33mの「聖観音菩薩」が建立されたが、戦争のため台座を残して解体されてしまったという。下から見上げる平和観音は写真では伝わりきらない迫力なので、是非実際に訪れ体感していただきたい。 また、境内から上につながる階段を上ると、地震除け、金運をもたらす石仏として信仰されている「弥勒石仏」(みろくせきぶつ)があった。こちらも雪がたくさん積もっており大変で、石仏は猿がいたずらをすることから扉が閉ざされていた。2022-01-23
49旧坂井村と戦争旧坂井村と戦争地域探求テーマ:旧坂井村と戦争 西上田事報などをこれまで調べてきた際に、戦時中に地方の地域ではどのようなことが起こっていたのか、地域ごとにどれほど戦争によって被害を受けてきたのかを知ることができた。 第二次世界大戦の終戦から76年が経ち、戦争の記憶が若い世代にとって遠いものに感じ始めている。戦争と地元地域を絡めて探求していくことで、より身近に、自分ごとに戦争や自分の出身地域について考えることができると感じた。 また今回は旧坂井村(現・筑北村坂井)の地域を対象としていきたい。 アウトプットの時点では、戦時中の状況を現在に置き換えるなどして、読者がより自分ごとに分かりやすく感じることができるものを目指す。 参考文献:坂井村史 但し著作権等について確認がまだ取れていないため、変更す2021-12-23
50戦後の上田戦後の上田西塩田時報を読んで戦後の上田について興味を持った。戦後に刊行された西塩田時報から資料を収集したいと考えている2021-12-22
51西塩田時報から見る戦争西塩田時報から見る戦争情報通信文化論の講義で西塩田時報の存在を知り、斜め読みをしてみてやはり戦争のことが多く取り上げられていたためそこからこの地域における戦争についてのことが少しわかるのではないかと思ったため。範囲は戦前までとし、莫大な量があるため適宜ピックアップしていく。2021-12-21
52 戦時中の暮らしについて 戦時中の暮らしについて 自分は歴史が好きで、最近ではよく近代史を調べている。そんななかで現在では起こらない(起こらないでほしい)戦争中の暮らしについて、この機会に細かく調べてみようと思ったためである。  調べる資料としては戦時中の食生活や、当時の雑誌に ついて調べる予定である。  当時の生活から生きる上で学べることを見つけていければと思う。  2021-12-20
53「西塩田時報」から見る戦時期の上田「西塩田時報」から見る戦時期の上田探求テーマ選択理由:個人的に歴史関連の授業で戦争について学んでいる事もあり、戦争下で生きていた人々の足跡に興味を引かれている。そして先日「西塩田時報」を読んだとき、戦争に関わる内容が多いと感じた。当文献を用いたこの探求テーマなら、自らの興味を満たす調査が行えるのではないかと思ったため。 探求内容:戦前・戦後の人々の生活を表す記事をいくつかピックアップし、自らの所感を述べていく。 調査に用いる資料:「西塩田時報」2021-12-19
54「銃後の完璧 体位向上の秋!本団体育大会 見よ堂々の戦華を」(『西塩田時報』第190号(1939年10月1日)1頁)「銃後の完璧 体位向上の秋!本団体育大会 見よ堂々の戦華を」(『西塩田時報』第190号(1939年10月1日)1頁)当時行われた体育大会の結果の様子を掲載した記事。全体的な種目は現代とほぼ変わらないが、中には「手りゅう弾投げ」のような非常に軍事色のある種目も行われ、競い合っていたことが分かる。このようにスポーツにおいても戦争の色が濃くなっていることが示されている記事を地域ニュースとして保存されているのは歴史的に非常に価値があり、次世代への教訓にもなると感じた。2021-12-14
55「青少年学徒に賜りたる勅語」(『西塩田時報』第190号(1939年9月1日)1頁)「青少年学徒に賜りたる勅語」(『西塩田時報』第190号(1939年9月1日)1頁)昭和天皇の勅語を掲載した記事。この前年に国家総動員法が発令されたことがあり、これを含めて戦争一色となっていることがわかる。また、この日はドイツのポーランド侵攻により第二次世界大戦が勃発した日であり、欧州においても戦乱が広がり始めることになるが、それ以前よりこのようにあらゆる分野の記事で挙国一致、戦時体制の確立を訴えていることは、日中戦争がいかに長期化していったことを示すものだと考えられる。2021-12-14
56さよなら「西塩田公報」過去の苦楽もまたなつかしい(『西塩田公報』第104号(1956年5月5日)4頁)さよなら「西塩田公報」過去の苦楽もまたなつかしい(『西塩田公報』第104号(1956年5月5日)4頁)この記事は西塩田時報の最終刊の投稿である。 西塩田時報が地域で長く親しまれ人々に影響をどれだけ与えてきたのかが分かる内容だった。 西塩田時報がどれだけ優れた公報だったのか、どのような苦労や地域との関わりがあったのか読んでいてとても面白かった。 最終刊にあたり長く親しまれてきた公報が戦争を受けた言論統制以外での理由で廃刊を受けた人々の惜しい気持ちが当時の西塩田時報の立ち位置を示しているようで興味深かった。 ▼この記事は以下から参照できます。 #1346 『西塩田公報』第104号(1956年5月5日)4頁2021-12-14
57火鉢を囲んで (『西塩田時報』第4号(1924年1月1日)4頁)火鉢を囲んで (『西塩田時報』第4号(1924年1月1日)4頁)この記事は人間にとって幸福とは何かについて文化生活論的な内容が小説のように書かれていた。 少々哲学的な内容に感じたが戦争が現在よりかは身近な時代に人々の争いについてどのように考えるのか記述があり、とても興味の引かれる内容だった。 人間にとっての幸せとは何なのか、どのような自覚を持つべきなのか考えさせられる文だった。 ▼この記事は以下から参照できます。 #24 『西塩田時報』第4号(1924年4月1日)4頁2021-12-14
58かつての成人の願い(『西塩田時報』第78号(1930年5月1日)3頁)かつての成人の願い(『西塩田時報』第78号(1930年5月1日)3頁)コラムを書いた筆者が、戦争の傷が残る子ども時代に見た大人の世界は、 生きるために血眼で戦う醜い世界。 そんな時代の先で彼が望んだのは、何か世の中の役に立つ人間になることだった。 生きるために戦うことの醜さを知らない現代の日本の大人たちは、 戦いの時代になったら、彼にとっての醜い大人になってしまうのだろうか。 私は世の中の役に立つ大人になりたいとは思うものの、そういう人にならない確証は無い。 なるべく避けたいものだなと思った。 現代では多分考えないだろうこの価値観が面白いと思った。 ▼この記事は以下より参照できます #337 『西塩田時報』第78号(1930年5月1日)3頁2021-12-14
59農村の若人に(一)(『西塩田時報』第121号(1933年12月1日)4頁)農村の若人に(一)(『西塩田時報』第121号(1933年12月1日)4頁)この文章は、匿名のYさんから農村の若者に向けた物である。 世界は戦争や疫病により、落ちぶれてしまっている。世界では資本主義や社会主義、科学を主体とする思想も広がっている。日本もそれを色々と真似ようとしているが、執筆者から見たら、立派な青年(日本)が不良な青年(外国)と遊んでいて悪い癖を覚えさせられているように感じられているそうだ。現に世界恐慌の際、労働者と資本家も苦しんでいる中で、大資本家や国際的な資本家は卑しく笑っていた。また、人間は自ら見つけた科学を全力で成長させてきた。その科学は完全に人間の上に立ち、一切の指令権を持つようになり、人間は科学に職を追われ科学の犠牲になりつつある。歴史ある美しき日本を守れ。そして、大和魂を持って世界を再生することが使命である。 ある程度理解2021-12-12
60第三農村の疲弊(『西塩田時報』第124号(1934年3月1日)1頁)第三農村の疲弊(『西塩田時報』第124号(1934年3月1日)1頁)私が興味を引かれたのは、「第三農村の疲弊」という記事。 インフレ景気において利潤を得る都市部の市場と比較し、経済状況に苦しむ地方農村の状況を述べている記事だった。 私が面白いと思ったのは、地元紙であるからこうした苦境に立たされている農村の人々に寄り添い、政治に批判的な内容を書くのかと思いきや、逆に自分たちの批判的な心を改めるべきだと述べている事だ。戦争が近づく中で、国に対する忠誠心なども高められてきたことも関係しているのだろうか、と推測でき、興味深かった。 この記事は以下から参照できます。 https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p0549.jpg2021-12-11
61真田神社真田神社城門を通るとすぐにある真田神社は、松平氏を祀ってあった松平神社だったが、太平洋戦争後に歴代城主である真田氏と仙石氏も合祀されて上田神社となり、昭和38年に真田神社と改称されました。真田の知謀にちなんで、学業成就にご利益がある神社と言われています。その影響もあってか、神社を入って左側にある絵馬には学業成就に関した内容のものが吊り下げられていて、またその場所を写真スポットとしてもお客さんに提供している。記念写真をとる場所としても人気であります。2021-07-23
62岡谷探索-4岡谷探索-4岡谷駅の駅名標。岡谷駅は1905(明治38)年に鉄道院中央本線の終着駅として整備された。製糸業の中心地として、繭を県内・県外に輸送したり、石炭を天竜川の船に輸送する役割を果たした。1905年は日露戦争の年であり、またその4年後に日本は生糸輸出量で世界一位となっている。日本の産業、また国力上重要な期間に岡谷駅は整備されたのである。2021-07-19
63信州が蚕糸王国ってホント? ポスト蚕糸業(産業)の視点から信州が蚕糸王国ってホント? ポスト蚕糸業(産業)の視点から信州が蚕糸王国ってホント? ポスト蚕糸業(産業)の視点から(講演採録全文) 講師:前川道博(長野大学企業情報学部教授) ▼元の講演はコチラ https://youtu.be/yS-xdWDMTwE?t=2779 信州学「信州の蚕糸業とシルクロード」講座 第2回  2016年10月6日/まちなかキャンパスうえだ

【1】蚕糸業って何? 蚕種製造、養蚕、製糸

■そもそも蚕糸業とは?

 今回、この講座は、多くの方に、後からも学習していただけるように、ということで、オンデマンド配信することを想定していますので、全く初めての方がこれを見ると「えっ? 蚕糸業って何?」、そういう基本的な疑問ですね。これを最初の方は誰もわからないわけです。その辺のところも含めてお話をさせていただきたいと思います。
2021-07-15
64猫山遊佐准尉自決地猫山遊佐准尉自決地第二次世界大戦中、教官を務めていた遊佐卯之助准尉の自決現場。終戦後妻子と共に自決したらしい。戦時中多くの教え子が特攻でなくなってしまったり責任を感じていたのかもしれない。戦争から生き延びた命を自ら捨てるほどの信念が彼らには会ったのだと思うと、すこし悲しくなった。2021-05-05
65戦争を伝える松(東山)戦争を伝える松(東山)第二次世界大戦末期に、枯渇している航空機の燃料を松脂から作ろうとして傷つけられた松。大戦末期の日本はここまで追い詰められていたのかと実感させられた。自身が見たモノは大分傷が見えなくなってきており、写真や映像などでしっかり記録し伝える必要があると感じた。2021-05-05
66仁古田飛行機製造地下工場跡仁古田飛行機製造地下工場跡第二次世界大戦中、空襲で被害を受けた名古屋の航空機工場を移設するために建設された。内部に入ることはできない。他にもあったようだが老朽化によって崩れてしまったらしい。中は暗く、とても不気味で自分は間際まで近づくことができなかった。2021-05-05
67無言館無言館第二次世界大戦でなくなった画学生の作品が展示してある。展示品についている説明を読むと、1人1人に人生があり思いがあったことをより強く実感させられる。誰1人としてしゃべることなく、無言で作品をみておりとても神秘的な場所だった。2021-05-05
68太郎山から持ってきた石らしい太郎山から持ってきた石らしい石が重なってある灯篭みたいなもの。 昔から、これは何なんだろうと思っていた。 祖母に聞いてみると、ひい爺ちゃんの時代(戦争前or戦争中)に太郎山という山から、石を持ってきたらしい。 詳細は、不明。2021-05-05
69無言館無言館太平洋戦争などで戦死した画学生の遺作、遺品が展示されている美術館である。 作品を見ているとなんとも言えない悲しい気持ちになってくるが、ぜひ一回は見る価値はあると感じた。2021-05-05
70日露戦没忠魂碑日露戦没忠魂碑1904年から1905年にかけて勃発した日本とロシアの戦争による戦死のための慰霊碑です。このような戦争とは関わりのないと思っていたところにもこのような記念碑があることに驚きます。2021-05-04
71上田招魂社上田招魂社この上田招魂社は戊辰戦役従軍の戦死者をはじめ日清日露の戦争を経て今次の大東亜戦争に至る間国家の為尊き命を捧げられた人々の英霊をまつる御社。 真田神社の近くにあるため、向かった際にも足を延ばしてみてはどうでしょう。2021-04-25
72明治28年の海野町を記録した写真明治28年の海野町を記録した写真海野町のすや(酢屋)呉服店が所蔵している古い写真の一枚。写真の裏面には「明治二十八年」との書き込みがある。1895年(明治28年)は、日清戦争が終結、勝利した年に当たる。旭日旗や「送小林」の旗などが見える。出征兵士を送り出す情景の記録ではないだろうか。海野町商店街の沿道に大勢の人々が繰り出し、人々の目線が写真機の方を向いている。向かいの店の看板「酢屋本治郎」が読み取れる。 驚くことにその軒先の屋根上に楽隊が陣取っている。大太鼓、小太鼓、クラリネット、チューバ、ホルン(他にシンバルも?)が確認できる。明治のこの時代にこれだけの楽器を有する音楽隊があったことを物語る貴重な証拠写真である。当時、上田が西洋文明をいち早く吸収した先進的な文化都市であったこと、経済的にも反映していたことを雄弁に物2021-03-26
73南牧村議事録(s10~15)南牧村議事録(s10~15)南牧村満蒙開拓資料として役場で閲覧。 この期間中は、該当する記録なし。戦争に関する議事少ない。 18年に先遣隊として、一家族派遣しているが、議事録は s16以降、見つかっていない。2021-02-27
74第二次農地改革に就て(『西塩田青年団報』第4号(1946年11月25日)1頁)第二次農地改革に就て(『西塩田青年団報』第4号(1946年11月25日)1頁)農地改革に関する記事。 戦後日本で行われた政策のひとつである農地改革の実際の内容を見て取れる。 これにより土地を得た人と取り上げられた人がいることが良くわかる。 農地委員か地方長官の許可がないと取得・取り上げが行えず行政の管理下に置かれている。 ▼この記事は以下から参照できます。 #963 『西塩田青年団報』第4号(1946年11月25日)1頁2021-02-10
75本秋の麥作に就て(『西塩田青年団報』第2号(1946年9月20日)1頁)本秋の麥作に就て(『西塩田青年団報』第2号(1946年9月20日)1頁)麥作に関する記事。 各農家へのお願いが書かれている。 食糧危機ながらも乗り越え、稲作も順調に進んだとあり、食糧不足に光明をもった様子。 肥料不足は続いている模様。 ▼この記事は以下から参照できます。 #955 『西塩田青年団報』第2号(1946年9月20日)1頁2021-02-10
76事業部の構想(『西塩田青年団報』第1号(1946年8月25日)2頁)事業部の構想(『西塩田青年団報』第1号(1946年8月25日)2頁)戦後、西塩田青年団報となった。 「事業部の構想」の記事。 終戦後の復興に向けた心構えや意気込みが見て取れる。 食糧不足も続いており、遊休土地の利用や未利用資源の活用などぎりぎりの状況である。 ▼この記事は以下から参照できます。 #952 『西塩田青年団報』第1号(1946年8月25日)2頁2021-02-10
77農會欄(『西塩田村公報』第11号(1943年11月10日1頁)農會欄(『西塩田村公報』第11号(1943年11月10日1頁)農會欄の記事。 戦況の激化に伴い、輸送船や国内外の食糧が不足していること。増産のための肥料・資材がなくそれでも増産をしなければならないという苦しさが見て取れる。 ▼この記事は以下から参照できます。 #949 『西塩田村公報』第11号(1943年11月10日)1頁2021-02-10
78私の地域探求テーマ一覧(情報通信文化論2020)私の地域探求テーマ一覧(情報通信文化論2020)長野大学の講義科目「情報通信文化論2020」(講義担当:前川道博)では、情報通信文化の根幹をなす文化伝承・知識伝承を概念的に学ぶだけではなく、受講生たちに自ら文化伝承・知識伝承による「キュレーション型」の学びを実践してもらいました。地域循環型社会にシフトしつつ現代においては、自ら問いを立て、一次資料に当たったり、地域に赴いて自ら得たデータを新たな一次資料とし、主体的に探求していくことが求められます。その学習プロセスが文化伝承・知識伝承に他なりません。 それらの課題探求テーマと成果を以下のマイサイトからカテゴリ「私の地域探求」を選んで御参照ください。 <私の地域探求テーマ一覧> 1 舌喰池の名前の由来(LGTMのサイト) 2 2021-01-28
79翼賛壮年圑・青少年圑(『西塩田村公報』第10号(1943年8月25日)3頁)翼賛壮年圑・青少年圑(『西塩田村公報』第10号(1943年8月25日)3頁)翼賛壮年圑:緊急食糧增産確保並労力対策協議会の記事。食糧増産のために中学校から動員するなどの内容。 青少年圑:食糧增産運動の記事。 緊急と名付けられるほどのひっ迫している状態であると考えられ、荒廃地を改善し生産しているがそれでも不足しているのが伝わる。 ▼この記事は以下から参照できます。 #947 『西塩田村公報』第10号(1943年8月25日)3頁2021-01-27
80九月の增産暦(『西塩田村公報』第10号(1943年8月25日)2頁)九月の增産暦(『西塩田村公報』第10号(1943年8月25日)2頁)農會欄の記事。 以前の記事にも記載されていた気象状況の悪さが影響している。作物の病気が発生しており食糧不足の中でとても厳しい状況になっていると考えられる。 また肥料の不足も起きておりやるべき事が多くなっていると思われる。 ▼この記事は以下から参照できます。 #946 『西塩田村公報』第10号(1943年8月25日)2頁2021-01-27
81增産の暦(『西塩田村公報』第9号(1943年6月15日)2頁)增産の暦(『西塩田村公報』第9号(1943年6月15日)2頁)生産に関する水利や代作などについての記事。 植付不能地があれば代作の作付や潅水せず抑制はなしにするなどひたすら食糧を作ることをしなければないような状況になっていることが見て取れる。 ▼この記事は以下から参照できます。 #942 『西塩田村公報』第9号(1943年6月15日)2頁2021-01-27
82六月の常會(『西塩田村公報』第9号(1943年6月15日)1頁)六月の常會(『西塩田村公報』第9号(1943年6月15日)1頁)食糧增産國民皆働ノ件の記事。 中学校や市街地、工場などからも食糧増産のために人が集められていることが分かる。 ▼この記事は以下から参照できます。 #941 『西塩田村公報』第9号(1943年6月15日)1頁2021-01-27
83農會欄(『西塩田村公報』第8号(1943年5月5日)2頁)農會欄(『西塩田村公報』第8号(1943年5月5日)2頁)食糧増産のための優良種苗の育成などについての記事。 “本年の不順な氣候は全く未曾有のこと…”とあり気候が悪く食糧生産に懸念があることが示唆されている。 ▼この記事は以下から参照できます。 #938 『西塩田村公報』第8号(1943年5月5日)2頁2021-01-27
84五月の常會(『西塩田村公報』第8号(1943年5月5日)1頁)五月の常會(『西塩田村公報』第8号(1943年5月5日)1頁)農繁期の食糧生産についての記事。 麥(むぎ)や甘藷(かんしょ=さつまいも)の生産量を増やし、農家だけでなく皆で協力して食糧戦に勝とうという内容。 ▼この記事は以下から参照できます。 #937 『西塩田村公報』第8号(1943年5月5日)1頁2021-01-27
85本村供米-九割-(『西塩田村公報』第7号(1943年3月30日)4頁)本村供米-九割-(『西塩田村公報』第7号(1943年3月30日)4頁)公報左下にあった呼びかけ。 3月であるため米の生産はあまりなく切り詰めて供米していると考えられる。 また呼びかけの内容から国のためと戦争協力していたことが窺える。 ▼この記事は以下から参照できます。 #934 『西塩田村公報』第7号(1943年3月30日)4頁2021-01-27
86農會欄(『西塩田村公報』第7号(1943年3月30日)2頁)農會欄(『西塩田村公報』第7号(1943年3月30日)2頁)農會欄の記事。 太平洋戦争の開戦から二年三か月ほど経過し、日中戦争からのワード“増産”は変わらないが“決戦”というワードが出始めてきた。 「全村民國民學校を總動員して…」とい内容もあり人手不足も見られる。 ▼この記事は以下から参照できます。 #932 『西塩田村公報』第7号(1943年3月30日)2頁2021-01-27
87農會欄(『西塩田村公報』第3号(1942年2月15日)2頁)農會欄(『西塩田村公報』第3号(1942年2月15日)2頁)農會欄での“昭和十七年度農業增産に就て”という太平洋戦争の始まりによる食糧確保についての記事。 アメリカとの戦争がはじまり農民には食糧自給から国家食糧の確保という立場に変わり今後の生活が厳しくなっていくことを思わせる記事となっている。 ▼この記事は以下から参照できます。 #924 『西塩田村公報』第3号(1942年2月15日)2頁2021-01-27
88農會欄(『西塩田村公報』第1号(1941年3月30日)2頁)農會欄(『西塩田村公報』第1号(1941年3月30日)2頁)農會欄における食糧增産推進講習會開催などの記事。 中国との戦争による物資不足が見え始めてきたと考えられる。 ▼この記事は以下から参照できます。 #920 『西塩田村公報』第1号(1941年3月30日)2頁2021-01-27
89太平洋戦争における上田地域の状況太平洋戦争における上田地域の状況上田地域は上田合戦や太平洋戦争など数々の戦いに関わっているが、とりわけ日本の総力を挙げて戦った太平洋戦争では様々なモノ・事・人に影響が出ている。そのような状況を上田地域ではどのようであったのか調査したいと思う。どんな生活だったのか、行政は何をしていたのかなど見ていき当時の戦争を考えていきたい。ネット情報や「西塩田時報」のような資料、国会図書館デジタルコレクション、上田市立公文書館などで戦争に関する資料(農業や徴兵、訓示など)を調べる予定。 「西塩田時報」を中心に調べた結果。 農會欄(『西塩田村公報』第1号(1941年3月30日)2頁) 農會欄(『西塩田村公報』第3号(1942年2月15日)2頁) 2020-12-21
90緑化運動に寄せて『西塩田時報[戦後]』第14号(1948年4月25日)1頁緑化運動に寄せて『西塩田時報[戦後]』第14号(1948年4月25日)1頁緑化運動についての意見が書かれた記事。戦争によって失われた信州の情景の美しさ心の豊かさを説き、気持ちを奮い起こさせている。 『戦いは破壊のみに終つた。』 戦後の景色と人々の思いが伝わってくる最初の一文。 戦後まだ間もない人たちの、緑を、信州を愛する思いに触れ、私たちも今一度、森林問題について関心を向けるべきであると思わせられる。 ▼この記事は以下から参照できます。 『西塩田時報[戦後]』第14号(1948年4月25日)1頁2020-12-14
91広告(『西塩田時報』第193号(1939年12月1日)2頁)広告(『西塩田時報』第193号(1939年12月1日)2頁)1941年に太平洋戦争が開戦することを考えると、まだ随分豊かな広告が流れていたと思い、気になった。誰に向けた広告なのだろうか。 地主が居たことを考えると、その富裕層に向けたものであるかもしれない。戦地の兵隊のためにこれを購入し送るものもいたかもしれない。2020-12-14
92麥の増産に就て(『西塩田時報』第11号(1943年11月10日)1頁)麥の増産に就て(『西塩田時報』第11号(1943年11月10日)1頁)農會欄での記事。 戦争の影響による食糧不足となっているため、増産させようという内容。 戦争の影響の他に“大東亜戦を勝ち抜く爲にとどんな苦痛も御互に忍んで行きませう。”といった戦争に対する国民の精神をも見て取れる記事であり、大東亜戦争の歴史の一端を知ることができる。 ▼この記事は以下から参照できます。 #949 『西塩田村公報』第11号(1943年11月10日)1頁2020-12-14
93謹んで諸兄の御冥福を祈る(『西塩田時報』第17号(1948年7月25日)3頁)謹んで諸兄の御冥福を祈る(『西塩田時報』第17号(1948年7月25日)3頁)第二次世界大戦で亡くなった方々の冥福を祈る内容と、国が行った侵略戦争の悔い嘆くと共に平和への道を築くと誓う内容の記事である。また、戦死した上田市に住む人々の名前や死因などが記載されている。 敗北した日本で生き残り、そして戦争の実態を知って悔恨の念を感じながら平和を実現すると心に誓うという凄絶な内容に心を打たれた。 ▼この記事は以下から参照できます。(戦死した方々のリストも以下URLで閲覧可能) #1021 『西塩田時報[戦後]』第17号(1948年7月25日)3頁2020-12-13
94日露戦役忠魂碑日露戦役忠魂碑田市立中塩田小学校の横に日露戦役忠魂碑がありました。 日本のために戦った人達と新しい世代の子供たち。考え深いものがあります。2020-08-07
95こんな所に忠魂碑がこんな所に忠魂碑が中塩田小学校のすぐ隣に鳥居が立っているのが気になって寄ってみました。どうやら日露戦争で亡くなった方々を祀っているようでした。長野県では慰霊碑を見たことがなかったので、こんなに身近にあるのは驚きでした。2020-08-05
96地域の記憶:上塩尻・段々畑の桑園地域の記憶:上塩尻・段々畑の桑園地域のありようは長い間には大きく様変わりします。昔その地域がどうであったのかを確認するにはその当時の資料が欠かせません。人の記憶の中にその様相は残っていても、第三者がそれを確認できるのはデータとして残された何らかの記録です。証言のような言葉(人の記憶)でも補えますが、それを証言してくれる映像なり、道具なり、資料なりがあってその確認ができます。 先日、上塩尻のSさんのお宅を訪問しました。蚕種製造の中心地・上塩尻の古い資料をデジタルアーカイブ化しようというのがメイントピックです。過去に上塩尻の記録がまとめられたものとしては『塩尻地区写真集:20世紀の歩み』(1999年、塩尻地区写真刊行会)があります。 Sさんのお宅にあった一枚の写真に注目。少年たちと大人たちの集合写真です。脱穀作業を共同2020-07-18
97上田と生糸貿易‐2 ~蚕種の大量輸出~上田と生糸貿易‐2 ~蚕種の大量輸出~蚕種は蚕の卵を指す。幕府は民間人の蚕種輸出を禁じていたが、横浜港開港当初より、蚕種の密輸が横行した。そのため、1865年に幕府が民間人の蚕種輸出を認めると、蚕種輸出はますます盛んになり、相場も高騰していった。このような背景としては、当時ヨーロッパに蔓延していた蚕の微粒子病の存在があった。ヨーロッパ諸国はこれにより良質な蚕種を求めていたのだ。長野県では上田が特に蚕種の生産地であり、上田は明治初期には実に日本の3分の1を生産していたという。このような蚕種輸出の高騰状態は、1870年の普仏戦争の勃発により沈静化し、その後暴落の一途をたどってしまうが、上田の蚕糸業がこれをきっかけに発展したことは想像に難くないであろう。 画像は「蚕紙」wikipediaより URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9A%95%E7%B4%99#/media/%E3%83%95%E3%822020-07-08
98『上田市誌』(全31巻 2004年)目次『上田市誌』(全31巻 2004年)目次『上田市誌』全31巻 発行:2002~2004年 編集者:上田市誌編さん委員会 発行者:上田市、上田市誌刊行会 以下から各巻の目次と奥付が参照できます。なお、対象の「上田市」は2006年の合併以前の旧上田市が対象です。 第01巻 自然編(1)上田の地質と土壌 第02巻 自然編(2)上田の気象と川や湖 第03巻 自然編(3)上田の動物と植物 第04巻 歴史編(1)上田盆地のあけぼの 第05巻 歴史編(2)上田の弥生・古墳時代 2020-06-27
99『信濃蚕糸業史・下巻』(1937年)『信濃蚕糸業史・下巻』(1937年) <目次> 製糸篇  第一章 総論  第二章 江戸時代信州各地に於ける製糸業の発達  第三章 開港以後の製糸業  第四章 日清戦争より世界大戦に至る時代  第五章 大正時代  第六章 現代  第七章 製糸技術の変遷  第八章 経営史  第九章 皇室と信州蚕糸業  第十章 本県製糸業者の米国視察と米国絹業者の入信  第十一章 生糸貿易に関する史料 <奥付> 昭和十二年六月一日 昭和十二年六月五日2020-06-24
100信州夢殿 長福寺 なかよし地蔵信州夢殿 長福寺 なかよし地蔵このお地蔵さまは、イラク戦争の開戦の年(西暦1999年)に新しい命が生まれたことをきっかけに、笑顔で争いのない安心して暮らせ、世界中の人々が益々平和になりますようにと願いを込めて建立されました。 私も御真言させていただきました。2020-06-22
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