| 写真 | タイトル | 説明 | 登録日 |
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1 |  | 3.11東日本大震災から2か月後の石巻 | 東日本大震災が起きた2011/03/11から早くも12年が経過しました。当時の記憶はまだ生々しく残っています。12年経っても記憶が失せるものではありませんが、世間では次第に遠い過去のことのように語られがちになることが気になります。
私が被災地を訪れたのはその年の5/21のこと。仙台から石巻方面に向かいました。3.11から2ヶ月経過としたとは言え現地の状況は復旧にはほど遠い状態でした。いくら言葉を積んでも当時の状況、様子は伝えられるものではありません。未来に向けて被災地の様子は現地を訪れて脳裏に刻んでおくべき、また記録に残しておきべき、とその時に強く思いました。映像などの記録によって視認ができます。当日はビデオカメラで撮影をしました。数枚の画像を添付しておきます。 | 2023-03-11 |
2 |  | 電柱と電線のある風景:つくば市→土浦市 | 電柱と電線のない日本の風景を全国どこでも見たいものです。筑波研究学園都市の中心部を出ると同じつくば市内でもいきなり電柱と電線の風景を見続けることになります。ここでは土浦市までの風景をピックアップしましたが、同じような風景は全国に当たり前のように広がっています。
日本国民に景観意識が高まることを望むばかりです。 | 2023-03-08 |
3 |  | 電柱のない都市景観:筑波研究学園都市 | 電柱と電線は日本のどの都市にも例外ないぐらいに存在しています。日本の景観的な美しさを損ねているのみならず、日々、「なんて見劣りのする社会」なのだろうかと感じます。電柱・電線のない都市に暮らしたいという思いは常に抱いています。
筑波研究学園都市の中心部は概ね電線は地中化され電柱はありません。これがノーマルな日本の都市景観であってほしいと願います。
ところで、つくば市は全国に先駆けて「無電柱化条例」を制定した都市であることを知りました。いくつも関連した記事をリストアップしておきます。
《関連記事》
★つくば市/つくば市無電柱化条例 2023年03月01日
★週プレNEWS/茨城県つくば市で、地中に埋めて「 | 2023-03-07 |
4 |  | 実践講座2:地域資料のデジタルアーカイブ化講座 | 実践講座2:地域資料のデジタルアーカイブ化講座
【日程】2023年
2月4日(土) 10:00~16:00 藤本蚕業歴史館に学ぶ地域アーカイブの課題[LINK]
2月5日(日) 10:00~16:00 地域資料デジタルアーカイブの構築に向けて[LINK]
2月18日(土) 13:00~16:00 皆さんのデジタルアーカイブ/地域学習企画披露会[LINK]
アンケート結果を掲載しました。
披露会の動画記録は追って公開予定です。
▼実施体制等
主催:藤本蚕業プロジェクト(代表:前川道博 長野大学企業情報学部教授)
共催:デジタルアーカイブ学会地域アーカイブ部会、岐阜女子大学
協力:藤 | 2023-02-26 |
5 |  | 実践講座1:地域資料活用によるキュレーション講座 | 実践講座1:地域資料活用によるキュレーション講座
【日程】2022~23年
12/10(土)10:00~16:00 藤本蚕業歴史館に学ぶ地域アーカイブの活用[LINK]
12/17(土)10:00~16:00 藤本蚕業所蔵資料で近現代のキュレーション[LINK]
01/14(土)13:00~16:00 皆さんのキュレーション披露会[LINK]
▼実施体制等
主催:藤本蚕業プロジェクト(代表:前川道博 長野大学企業情報学部教授)
共催:デジタルアーカイブ学会地域アーカイブ部会、岐阜女子大学
協力:藤本蚕業歴史館、上田小県近現代史研究会、長野大学
後援:日本教育情報学会デジタルアーカイブ研究会、日本デジ | 2023-02-26 |
6 |  | 筑波研究学園都市の景観 | 筑波研究学園都市の建設が始まったのが1970年代。初期に建設されたペデストリアンデッキの橋の銘板を見ると1978年が竣功年です。概ねその頃から学園都市の建設が本格化したとみてよいでしょう。その頃からは既に45年が経過しました。日本で本格的に都市計画された都市の先駆けと捉えてみると筑波研究学園都市の都市特性がよく見えてきます。
ここ10年ほどの筑波研究学園都市で著しい変化は「研究学園」地区の開発により中心部から研究学園への大規模な人口移動が起きてきたことでしょう。都市計画された新しい都市であったこの中心部が「旧市街地」化し、通常であれば中心市街地の衰退化を招きかねないところ、中心部には高層マンションが増え、公舎型の住まいから分譲型の住まいに移行しつつあります。人口は減らず、逆に増加しつつあり | 2023-02-26 |
7 |  | 22世紀に残したい上田の風景:わらボッチと稲わら焼き | 上田に暮らして以来、かけがえのないこの地域の風景として心に刻まれたのが塩田平のわらボッチと稲わら焼きの風景です。2007/11/03、塩田平で撮った風景を載せておきます。
茨城や山形でもこのような原初的なわらぼっちと稲わら焼きの風景は見たことがありません。機械化による大規模な営農でなく、手作業による昔からの営農の姿がこの風景に顕れています。ちなみにわらボッチはこの地域では「にょっ」と呼ぶらしい。円錐形をなしたわらボッチが整然と立ち並ぶこの地域の無形的な文化形態は美しく、絵になります。
稲わら焼きは条例によって禁止されている県もあります。秋になるとそこかしこで稲わら焼きの煙が立ち上ります。いつまでこのような風景を見続けることができるのか。わらぼっちと言い、稲わら焼きの煙と言い、心の中に眠 | 2023-02-25 |
8 | ![実践講座2:地域資料のデジタルアーカイブ化講座[第3回] 実践講座2:地域資料のデジタルアーカイブ化講座[第3回]](https://d-commons.net/upload/4/616/thumbnails/054612.jpg) | 実践講座2:地域資料のデジタルアーカイブ化講座[第3回] | 【オンデマンド講座】
★DA講座2-3皆さんのデジタルアーカイブ/地域学習企画披露会 182分
【講座タイムテーブル】
講師:前川道博(長野大学企業情報学部教授)
ゲスト講師:桂木惠さん(上田小県近現代史研究会事務局長)、朝倉久美さん(デジタルアーキビスト)
第3回 2月18日(土) 13:00~16:30 皆さんのデジタルアーカイブ(DA)/地域学習企画披露会
13:00 はじめに、ゲスト講師紹介
13:10 DA/地域学習企画披露会 Part1
(14:20 休憩)
14:30 DA/地域学習企画披露会 Part2
16:20 講評・まとめ
16:30 終了
《披露会の発表者と発表テーマ》敬称略。発表資料は以下に掲載してあります。
①島津千登世/下河辺淳+戦後国土計画関連資料アーカイヴス
→下河辺淳アーカイヴス
→ | 2023-02-19 |
9 |  | 根津美術館 | 表参道にある美術館で、東洋美術(特に青銅器や仏像)や日本美術の作品を多く所蔵しております。また、建物がとてもスタイリッシュで解放感のあるエントランスには驚きました。
初めて行った時は5月の中頃で尾形光琳の《燕子花図屏風》を鑑賞したのち、隣接している庭を散歩しました。庭の植物もとても青々としていて素敵だったのですが所々に石碑などがありこれも展示物みたいだなと思いました。
11月末に行った時には紅葉がとても綺麗でした。
作品だけでなく、庭も楽しみながら非日常感に満たされる美術館だと思います。 | 2023-02-18 |
10 |  | 四谷は요츠야? 四ツ谷は요쯔야? | 街中などのサインが多国語表示になったのは大変望ましい社会環境の変化です。それと共にいつも私には気になってしまうのがハングル表記です。
日本語にあって韓国語にない音「ツ」は、JRでは「츠」(チュ、激音)で統一されているように見えます。たまたま四谷駅校内で「쯔」(チュ、濃音)と書かれているめずらしいサインを発見。おやおや、です。
なぜ違うのか。ここでその違いが意識して表記分けされている信じられないほどのトリックを発見しました。
駅名は「四谷」ですが、地名表記は「四ツ谷」です。後者は「四ツ谷口」と記されています。統一されていない、というよりも、駅名と地名が使い分けられているとみるのが至当です。余談ながらその下にある「四谷出口」は中国語表記です。日本語ではありません。
その使い分けに | 2023-02-17 |
11 |  | 初代国立劇場さよなら公演 | 2/15、国立劇場小劇場で文楽『女殺油地獄』を観てきました。さよなら公演と銘打っていますが、9月までさよなら公演が続くようです。建設当時は立派な劇場を作ったつもりでも、建物の陳腐化は避けられず。緞帳の美しさに慰められます。劇場はハレの空間であってほしいところですが、正直、毎回国立劇場の建物には失望を感じ続けています。ハレがましくなくチープなことに大きな原因があります。日本がまだ豊かとはいえなかった高度経済成長期の一時期にその頃の価値基準で作られた建物です。欧米の劇場のように100年経って風格も高まる質の高い文化とは異なり、日本の建築文化はどうしてこれほどまでに持続性がなく、チープ化するのか、この劇場で我慢し続けなければならないのかと国立劇場を訪れるたびに思っています。 | 2023-02-17 |
12 |  | 新たな転換方法 | 参考までに、鉄道路線を活用したバス転換方法を紹介します。「BRT(バス高速輸送システム)」と呼ばれるこの方法は、線路の部分をアスファルトにし、バス専用道路として再利用するという方式です。東日本大震災で広範囲に被災した路線が同じことを行っており、こうすることで早期の復旧開業が実現したと言われています。バスで考えられた定時運行や交通障害といったデメリットは解消されます。 | 2023-02-15 |
13 |  | まとめ |
https://jpsearch.go.jp/item/dignl-848938
明治時代と現代の美容について比較してわかったことは、いまも昔も変わらず日本人女性の美意識は高いことである。
年相応で、素材を活かす化粧が愛されるのは昔から変わっておらず、日本人女性の繊細な美意識からくるものであることがわかった。
意外だった点は、化粧水、パーソナルカラー、色の組み合わせの概念が明治時代からあった点である。
この分析を通して、一人の日本人女性として「日本人の美しさ」を大切にしていきたいと思った。 | 2023-02-08 |
14 |  | 明治時代から女性の化粧はマナーだった |
https://jpsearch.go.jp/item/dignl-848938
明治時代の書籍「化粧と服装」によると、「婦人は世のため装飾する義務を持つ」とある。
女性がメイクをするのはマナーであることは、明治以前から言われていた。
「婦人が身を装う事必ずしも惹こうとの目的のみではない」
「装飾に身分と年齢との相応の程度のあるべき事」
年相応のメイクが求められているのは現代と変わらないことがわかった。
「身だしなみの心得は、第一が色の配合、第二が形の配合」とされている。
「自然の理に適っているのが装飾の最上となるのである」と書かれていることから、現代でも日本でナチュラルメイクが好まれている所以がわかった。 | 2023-02-08 |
15 |  | 上田蚕糸専門学校 | また、明治43年には上田蚕糸専門学校(現・信州大学)が設立された。中等教育期間である小県産業高校と、高等教育機関である上田蚕糸専門学校が上田に作られたことは、上田の養蚕業・蚕糸業の繁栄ぶりが窺える。
現在の信州大学繊維学部は、日本で唯一の繊維学部である。
参考サイト:みんなでつくる信州上田デジタルマップ
▼この資料は以下から参照できます
ぶ「信州大学繊維学部」
https://d-commons.net/uedagaku?c=&p=11526
(2023/02/06) | 2023-02-08 |
16 |  | 和綿の花 | 和綿は799年に渡来後、日本の風土に定着し栽培されてきました。 | 2023-02-07 |
17 |  | 信州大学繊維医学部 | 校舎の中までは、入っていないが、信州大学も見てきた。
ここは、理・工・農・医+α、幅広い分野を横断した学びを展開している。新たな地平を拓くため、日本を超えて世界最前線と連携している。基礎研究にとどまらず、企業と連携した学びの環境を提供している。学科は、「先進繊維・感性工学科」「機械・ロボット学科」「科学・機械学科」「応用生物科学科」に分かれている。
参考文献
「信州大学繊維学部HP」より
https://www.shinshu-u.ac.jp/faculty/textiles/ | 2023-02-06 |
18 |  | 「藤本蚕業アーカイブ構築」を振り返って | 私はこの一年間地域資料のデジタルアーカイブ活動を行い、活用機会が無い地域資料の撮影とネット上の公開をしました。その中で藤本蚕業アーカイブについて紹介します。
藤本蚕業アーカイブは藤本蚕業歴史館史料をネット上に公開するアーカイブであり、かつて蚕の卵である蚕種の日本最大製造地であった上塩尻の中心であった佐藤家(藤本蚕業)所蔵の史料を扱っています。歴史館では蚕種にとどまらず歴史、文化、地理に関わる文書・書籍も多く有しており、アーカイブでも見ることが出来ます。私は当アーカイブにおいて主に史料の撮影、記事の投稿を担当しました。
実際の資料を紹介します。
1925年11月に発行された上田市図書館報第三号では、最も興味深い点として新刊の発表に法学系冊子を真っ先に乗せている点で、大正デモクラシ | 2023-02-03 |
19 |  | 桔梗ヶ原〔信州の浮世絵〕 | 江戸時代の浮世絵師、二代歌川広重による錦絵の揃物「諸国名所百景」の一つ。
初代広重の門人で、師の亡き後その画風を継承した二代広重が、安政6年(1859)から文久元年(1861)にかけて制作した。版元は、初代広重晩年の作「名所江戸百景」を出版した魚屋栄吉。「桔梗の原」は天文年間(1532~55)に武田信玄と小笠原長時が相対した合戦場で、左にある「勘助子そだての松」は、合戦の最中に山本勘助が乳児を救い、その根元に置いて戦の後に戻ったところ、松の葉から落ちる雫を母親の乳房から出る乳のように口に含んでいたという伝説がある。その後、中山道の一里塚が築かれた。江戸日本橋の基点から59番目、江戸へ55里、京へ85里の道標で、塩尻市宗賀平出には、道を挟んだもう一方の塚が松の木とともに残されており、現存する数少ない一対 | 2023-02-01 |
20 |  | 昆虫体験学習館 | 佐久平パーキングエリア周辺にある昆虫体験学習館は、私が小学校時代に、社会見学の一環として訪れた場所でもあるのですが、この場所に行くだけで日本の昆虫だけでなく世界の昆虫について、知る事ができ実際に観賞する事が出来ます。そして、見るだけでなく触ることやクラフト体験も出来るため、訪れた後も頭の中に記憶として残りやすく、昔から現代までの多様な昆虫を知れる場所です。
参考文献
http://saku-konchuukan.jp/ | 2023-02-01 |
21 |  | 蚕業膝栗毛 第1編① | これは、明治29年2月に発行された、蚕業をテーマにした小説である。蚕業の質を高める為の講演会などの際に一緒に戯演されたものの書籍版、もしくは講演会で販売されたものだと考えられている。東海道中膝栗毛を捩っており、登場人物は主人公とその幼馴染。物語は、蚕業で成功した主人公が大失敗して財産がなくなったところから始まる。主人公は幼馴染を誘って、蚕業の知識を生かした蚕業大演説会を開催した。これがある程度うまくいったことが発端となり、蚕業改革の一端として日本蚕業倶楽部の設立を考える。その設立資金を蚕業演劇で稼ぎ、蚕業視察のために全国漫遊に出るという内容だ。
参考サイト:信州デジタルコモンズ
▼この資料は以下から参照できます
「蚕業膝栗毛 第1編」
https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/library/02BK0102151032
| 2023-01-27 |
22 |  | 上田紬の歴史<繁栄> | 今回は上田紬がいつどうやって繁栄していったのかをまとめました。
上田紬は400年ほど前に戦国武将の1人して名高い真田昌幸が上田城が築いた時に、地場産業として奨励された真田家が麻つくった「真田織」が元になっています。
その後、上田地域の気候や風土が向いていたということもあり、蚕種業や養蚕業が盛んに行われ、現在の上田紬が形成され、江戸中期には京都や江戸の多くの人々に愛用され、日本三大紬の1つとなりました。 | 2023-02-01 |
23 |  | 笹沢檪亭 (ささざわれきてい) | 檪亭は、安政2年(1855)、小県郡坂井村(現上田市塩川)に生まれ、本名を清十といい、幼い頃より画才に富み、花鳥画を描いては村人を感嘆させたといいます。早くに父を亡くし苦労して育ちますが、母の理解もあって、明治6年(1873)、18歳の折に島田桃渓とうけいに師事して絵の指導を受けたのを手始めに、明治18年(1885)、29歳の時には、水戸の木下華圃かほに師事。この頃から専業画家としての道を歩むことを真剣に考え始めたものと思われます。
明治19年(1866)、31歳の折には終生の師となる児玉果亭に入門を許され、果亭より檪亭の雅号を受けました。この檪亭が入門した明治19年は、第2回内国絵画共進会に出品した果亭の即品が天覧に供され、出品2点のうち1点が宮内省買上げ、1点が銀杯(こ | 2023-02-01 |
24 |  | 林倭衛 (はやししずえ) | 父は、倭衛が小学校在学中に製糸工場経営に失敗し、明治40年の春、倭衛と弟を実家の小林家にに預けたまま夜逃げ同様に東京へと出てしまいました。実家は上田駅に近い北天神町通りで蚕種用の和紙などを商っていましたが、倭衛は友人たちから離れ孤独にさいなまれましたが、同じ頃に同じ北天神町に移り住んだ馬場衛まさるが、生涯の友となりました。約1年の後にようやく父母の下に引き取られはしたものの、何かにつけて旧士族出身にこだわって失敗を繰り返す父に対して、倭衛は激しく不信を覚え続け、やがて少年の孤独感は次第に不屈な自立心へと成長していくのでした。
明治43年には印刷会社の給仕となり月給を得るようになると、近くの水彩画研究所の夜間部に入り、明るく旺盛な好奇心のままに、生涯にわたる美術関係の友人を | 2023-02-01 |
25 |  | 西川小扇八 (にしかわこせんぱち) | 上田地方だけでなく、広く東信地方から県内にかけて日本舞踊の普及に尽力した小扇八は、明治38年東京浅草瓦かわら町に生まれました。小扇八(本名金子光みつ)の育った浅草界隈は、古くから歌舞音曲かぶおんぎょくの盛んな土地柄でした。生まれつき体の弱かった光を心配した両親は、健康のために芸事を身につけさようと、長唄や日本舞踊、華道、茶道など日本古来の伝統芸能を一通り習得させました。
とりわけ光は日本舞踊に強く興味を示し、自ら進んで西川流に入門し、稽古に励みました。縁あって18歳で結婚しますが、婚家になじまず実家に戻ります。浅草に戻った光は生涯進むべき道を日本舞踊と決め、西川扇五郎に師事します。再び踊りの世界に没頭し、厳しい稽古に耐え、艱難かんなんを克服して次第に頭角とうかくを現あらわ | 2023-02-01 |
26 |  | 中村直人 (なかむらなおんど) | 大正期中ごろ山本鼎が提唱した「農民美術」と「児童自由画教育」の二つの運動の、発祥の地、神川で少年期を過ごした直人は、リアルタイムに農民美術、児童自由画教育の誕生を直視し、その渦中で小学校時代を過ごしました。
15歳の時、山本鼎の世話で上京し、木彫家吉田白嶺の木心社に入門。兄弟子松村外次郎より木彫の手ほどきを受け、小杉法庵にデッサンを習い、自己の彫刻表現の模索が始まりました。大正14年、直人21歳で院展初入選、以後連続入選し大正15年に日本美術院賞を受賞。昭和10年には院展同人(会員)に推挙され日本の彫刻界の新風として頭角を現し始めました。
終戦後は、新日本美術会創設に参加し、各種展覧会に出品しました。その後、以前から親交を深めていた画家で彫刻家の藤田嗣治がフランスに渡り、 | 2023-02-01 |
27 |  | 久米正雄(くめまさお) | 久米は、明治24年上田片平町(大手町)で生まれました。父由太郎は明治28年小県郡立高等小学校兼上田尋常小学校校長として勤務していましたが、明治31年、父が校長を務めていた上田尋常高等小学校上田分教場が焼失。その責めを負って父が自刃してしまったため、一家は母の実家福島県安積あさか郡桑野村へ転居し、ここで久米は中学時代を過ごしました。
この時代に、安積中学校の教頭と国語教師に指導を受け、俳人としての才能を見込まれ、将来を嘱望されるまでになりました。中学校在学中に「笹鳴吟社」を結成、また、学校教員の集まりである「群峰社」にも参加。桑野村を訪れた正岡子規や河東碧梧桐かわひがしへきごとうの影響を受け、新俳句会への道を進み、一高時代には碧門下の日本派俳人として知られるようになりました | 2023-02-01 |
28 |  | 擬洋風建築を残し続けるために | 擬洋風建築は幕末から明治頃にかけて日本の各地で建築された、日本の大工らが西洋風の建物を見様見真似で建てた西洋風の建築物であり、和洋折衷、様々な意匠や工法が混じった建築物は、文明開化、近代化の象徴的な存在です。しかし、現在その多くは取り壊しや火災などで失ってしまっています。この数少ない重要な建物を残すため、多くの人に魅力を知ってもらうことが重要だと思いました。
その魅力の一つは石の再現です。壁面の出隅は「隅石積」を、壁に漆喰を塗ることで模しています。木造建築でありながら、石造の建築に見せかけるという面白さと知恵を感じます。
もう一つの魅力は独自性です。玄関に唐破風屋根を設けられていたり、天井の飾りに、波に千鳥、松竹梅、菊などが描かれていたりして、洋風に見せながら和の要素を含む和 | 2023-01-31 |
29 |  | 中村直人 | 大正期中ごろ山本鼎が提唱した「農民美術」と「児童自由画教育」の二つの運動の、発祥の地、神川で少年期を過ごした直人は、リアルタイムに農民美術、児童自由画教育の誕生を直視し、その中で小学校時代を過ごしました。
15歳の時、山本鼎の世話で上京し、木彫家吉田白嶺の木心社に入門。昭和10年には院展同人(会員)に推挙され日本の彫刻界の新風として頭角を現し始めました。
その後日本で活躍し、47歳でパリに渡りました。昭和28年のパリ展で大成功し、その後何度か個展を開き話題となり、滞欧12年の間に彫刻家から国際的な画家に見事な変身を遂げました。
昭和39年日本へ帰国。同年滞欧作展でパリ生活12年の成果を証明しました。その後二科会に招かれ、昭和55年には内閣総理大臣賞を受賞しました。帰国後は、様々な分 | 2023-01-31 |
30 |  | 兎束武雄 | 上田町大手の銀行家兎束鐘一郎の長男として生まれた武雄は、幼い頃から音楽に特別な興味を示す子どもでした。母親の影響で琴を習っていたそうです。音楽に興味を示していた幼少期ですが、父親からは反対されていたそうです。
上田中学校(現上田高校)を卒業し、東洋音楽学校に入り勉強に励みましたが、東洋音楽大学だけの勉強では満足できず、他の大学でも聴講し、作曲やピアノ、チェロなどを勉強しました。大学を卒業した武雄は、高等学校の教師になることを決意して上田に帰ってきました。武雄は、音楽の楽しさや喜びを多くの人々と分かち合いたいと考え、地域の音楽活動に力を注ぎました。昭和8年、28歳のとき、梅花幼稚園の同窓生に声をかけ、「からたち合唱団」を創りました。当時、県下で混声合唱団と呼ばれるものはなく、上田 | 2023-01-31 |
31 |  | 戦時版の新聞③「プロパガンダ映画」とまとめ | 映画までもプロパガンダとして利用されていたことが分かる記事である。
イギリス領インドの青年を日本人(岡倉天心等)が助けるといった内容であると書かれている。
実際の人物までもプロパガンダ映画で使われていたことに驚いた。
岡倉天心の「東洋は一つ」という言葉を都合よく解釈し、戦争に利用したように感じる。
参考サイト
【戦後75年】戦時中の中部日本新聞をPDFで読んでみよう
2023年1月31日閲覧
▼この資料は以下から参照できます。
『中部日本戦時版』「 | 2023-01-31 |
32 |  | 戦時版の新聞② | バチカン市国について書かれた記事である。しかし、内容は敵国(アメリカ、イギリス)に対する批判である。
現代の世界史とは違った視点から歴史を見ることができ、興味深く感じた。
参考サイト
【戦後75年】戦時中の中部日本新聞をPDFで読んでみよう
2023年1月31日閲覧
▼この資料は以下から参照できます。
『中部日本戦時版』「戦争と闘ふヴアチカン 非道へ法王の睨み」(昭和19年3月16日) | 2023-01-31 |
33 |  | 戦時版の新聞① | 選民思想をかき立たせるような書き方をしている記事であるように感じる。
情報媒体が限られていた時代であるため、このような偏った情報でも疑いようもなく受け入れられていたのだろうか。
参考サイト
【戦後75年】戦時中の中部日本新聞をPDFで読んでみよう
2023年1月31日閲覧
▼この資料は以下から参照できます。
『中部日本戦時版』「我等の身体 これぞ日本人の優秀性」(昭和19年3月2日) | 2023-01-31 |
34 |  | 「海外視聴者向けの日本人youtuberと旅行動画」その活用方法の調査 最終版 | 2022年度研究である
『「海外視聴者向けの日本人youtuberと旅行動画」その活用方法の調査』
の最終完成版になります。
私自身海外に向けた動画をいくつか制作してみた結果、
主に言語の面でかなり高度な技術が必要であることが分かりました。
それは同時に、新たに海外へ向けてYouTubeによる情報発信を企業や自治体が行うことは非常に難しいということにもなります。
外国語字幕を付けた動画で発信している企業はもちろん存在しますが、そのほとんどが日本人以外の社員も多く在籍している大企業であるため、それと同様のレベルを地方自治体などがこなすことはほぼ不可能です。
そこで、すでに個人や少人数であっても海外に向けて活動し、好調な成績を出している日本人youtuberに協力を仰ぐことで、世界中へ向けての効率的かつ効果的な情 | 2023-01-30 |
35 |  | プロジェクト研究(長野大学前川ゼミ)2022アウトカム | 長野大学企業情報学部前川ゼミ/プロジェクト研究2022成果報告
▼前川ゼミ2022成果報告 47分
ゼミメンバーの各自が成果を報告しています。(発表順は以下の順と同じ)
▼前川ゼミ・ポートフォリオ(マイサイト)
【1】川口将太(4年) 企業のソーシャルメディアを用いたメディア戦略
【2】高山大和(4年) 持続的な地域活性化策~大洗モデル~
【3】林 亮太(4年) 「海外視聴者向けの日本国内旅行動画」その特徴と活用方法の調査
【4】中澤愛華(4年) 神川小学校における地域学習支援
【5】春原百々羽(2年) 蚕について地元の人が学ぶ理 | 2023-01-30 |
36 |  | 土偶型容器について | 出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/collection_item_images/tnm/J-7532?locale=ja)
土偶型容器(どぐうがたようき)
頭部が開いていて足の表現がない人型(ひとがた)の容器で、容器型土偶とも喚ばれる。中から焼けた小児骨が出土した例もあることから、再葬墓という当時の東日本で流行した墓制に関わるものと考えられている。
画像の土偶型容器の出土地は長野県上田市腰越。弥生時代(前期)・前4~前3世紀頃のものとされる。現在は東京国立博物館が所蔵している。
国宝の縄文のビーナス、仮面の女神と比べると険しい顔をしている。首や胴が長く頭が大きい、腕が体全体に対し短いというようにバランスはあまり良くないように見えるが、小児を表しているのではないかと考える。 | 2023-01-29 |
37 |  | お菓子の歴史(洋菓子輸入時代) | 明治頃に、文明開化が始まり、外国の文化が日本に取り入れられ生活が変化していったが、それは菓子も含まれる。明治10年に洋菓子の輸入が5千円であったが、20年には1万円、30年には2万5千円で、38年には一躍して23万5千円とまで上昇し、短期間で需要がかなり増えた。洋菓子製法技術や洋風食材が導入され、相手先もオランダ、ポルトガルから、イギリス、フランス、アメリカに変化した。
ビスケット、キャンディ、チョコレート、キャラメル、クッキーなどが輸入され、日本での消費が増えると国内生産の方が儲かると考える人が出てきて、製造が始まった。日本で最初に作られた洋菓子は明治8年のビスケットで、東京京橋の風月堂が始めた。明治中期になると森永太一郎が森永製菓会社を作り、ビスケットやドロップス、キャラメルなどの洋菓子生産 | 2023-01-29 |
38 |  | 戦前長野の農業形態⑤ | 栽培されたイチゴは鮮度の問題から近郊には青果として、遠方には貯蔵できる形としてジャムにすることで販売していたようである。
この資料に加え、長野のジャムに関して調べてみたとこ
ろ、明治10年新宿で初めて日本でジャムが作られ、その四年後に企業として初めてジャムが作られた地が長野であり、長野は日本のジャム生産の先駆的な地のようだ。
信濃産業誌 完」
https://api.ro-da.jp/v1/shinshu-dcommons/library/02BK0102152899/images/629fa7724c1f448586380935d789259b.jp2/651,655,2070,3016/333,485/0/default.jpg
「日本におけるジャムの歴史」
http://www.sudo-jam.co.jp/tokusyu/20140210 | 2023-01-28 |
39 |  | 山賊焼き | 中信地域の郷土料理。鶏の一枚肉をタレに漬け込み、片栗粉をまぶして揚げた料理。タレのベースの味は、醤油、味噌、塩など、地域によって様々である。名前の由来は諸説あるが、山賊は物を“とりあげる”から、“鶏を揚げる”料理を「山賊焼」と呼ぶようになったそうだ。
[タレのベースの味は、醤油、味噌、塩等店舗によって様々](https://www.nisshin-oillio.com/report/kikou/vol35.html)より引用
紹介したのはほんの一部だが、寒さの厳しい気候を生かした郷土料理や野菜が多いと感じた。日本はたくさんの自然に恵まれ、四季がある。近年、日本の文化の継承が危惧されているが、「郷土料理」という地域の個性あふれる文化を大切にし、郷土料理を通して地元の良さを改めて考えるべきだ。 | 2023-01-28 |
40 |  | ペグーの大臥像に見入る皇軍勇士(『ビルマ作戰 : 大東亜戰史』) | ビルマ(ミャンマー)に侵攻した日本軍が、ペグー(バゴー)の寝仏を見ている写真。
この写真が載っている本には、進軍している様子や戦っている様子、町の状況等の写真が多い。そのため、この写真のように戦いに関係のないものが載っていることに違和感を覚えた。
観光できるほど、英軍に圧勝であると伝えるためだろうか。それとも、ただ単純に近況報告をしているだけなのだろうか。様々な考察ができる。
▼この写真が掲載されている書籍は以下から参照できます。
国立国会図書館デジタルコレクション 『ビルマ作戰 : 大東亜戰史』,同盟通信社,1942年 | 2023-01-28 |
41 |  | お菓子の歴史(点心時代) | 菓子は一日二回の食事の間に食べる間食用として長く続いていたが、鎌倉時代になると都会では三食制となったため、菓子は嗜好品になり、一般庶民からは縁のないものになった。
そのころ、茶が日本に渡来して、喫茶が流行した。その際に使用する菓子を「点心」と呼ぶ。もともと、点心とは定食と定食との間の小食であり、間食やおやつを意味する。点心には主に羹(あつもの)という汁と、まんじゅう類があり、それぞれ多くの種類がある。これらが和菓子の発展に繋がっていった。
守安正 著『お菓子の歴史』,白水社,1965. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2507981 (参照 2023-01-27) | 2023-01-27 |
42 |  | 尺貫法からメートル法へ(1933) | メートル法に関するプリントを、生徒の各家庭に配布したという記事である。この記事の翌年の1934年に、日本従来の尺貫法が廃止され、メートル法が取り入れられた。これまで使ってきた単位を、使わないようにしなければならないと考えると、当時の学生はとても苦労しただろう。教育において、使用する単位を変えるということはとても大変なことだ。
#507 「西塩田時報」第114号(1933年5月1日)3頁
https://mmdb.net/mlab/uedagaku/pdf/nishishioda/ns07_101to120.pdf | 2023-01-27 |
43 |  | はじめに | 私は、大正・昭和初期における教育の特色について調べていきたいと思う。西塩田時報の学校行事などについて書かれた記事を参照して、当時どのような教育が行われていたのかを解き明かしていく。また、当時、軍国主義となっていった日本だが、教育にはどのような影響が及ぼされたのかなども詳しく見ていきたい。 | 2023-01-27 |
44 |  | 唐菓子について | 奈良時代から平安時代にかけて遣唐使によって唐から伝来した唐菓子は,米粉や小麦粉を捏ねていろいろな形に作り,油で揚げたり,焼いたものである。
日本や仏教の世界でお供え物とされるほどであり、当時はとても高価でめったに食べられないものであったが、現在では限られた和菓子店だけではあるが、手軽に食べることができる。
写真は岡田哲「食文化入門-百問百答-」から抜粋 | 2023-01-27 |
45 |  | お菓子の歴史(上古時代~唐菓子時代) | 日本のお菓子の歴史はとても古く、約2000年前の上古時代といわれている。菓子の名称については色々な説があるが、初めは「古能美(このみ、木の実)」、「久多毛能(くたもの、果物)」であり、現在でいう菓子とは違っている。
現在の菓子は唐菓子時代(奈良朝平安朝初期)に輸入された唐菓子が始まりとされている。
守安正 著『お菓子の歴史』,白水社,1965. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2507981 (参照 2023-01-27) | 2023-01-27 |
46 |  | 上田市の自然文化について | 別所温泉は、信州最古の歴史を持つ七久里の湯と呼ばれる温泉を持ち、平安時代の有名な和歌集にも記されている。安息の場として栄えた別所温泉は、かつて真田幸村の隠し湯があったとも言われていて、1500年以上の歴史を持っているとされている。
また別所を含む塩田平は、信州の鎌倉とも呼ばれ、温泉に限らず多くの文化財が残されている。
「幕宮池」と呼ばれる池は、日本で最も降雨量が少ないとされる位置にあり、多くのため池が作られた場所である。
〈参考資料〉
https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/others/01DD001H230003
https://adeac.jp/shinshu-chiiki/catalog/mh055500 | 2023-01-26 |
47 |  | 上田紬のデザイン | 日本らしさが残るデザインになっているため、観光客の目にとまりやすいと感じた。また、近年では若者向けにデザインされるお土産が多い中、伝統的な要素が前面に出されている。
画像・資料参考元:みんなで作ろう信州上田デジタルマップ
投稿者名:あやか様 | 2023-01-26 |
48 |  | 戦後80年で人々の価値観はどう動いたのか | 戦後日本において、新幹線が開通し、オリンピックが開催され、インターネットが普及する間に、日本人の価値観・人生観はその生活の様相とともに大きく動いてきたように思われる。そこで、戦前の人々の価値観は、現在を生きる我々から見ていかに違うのかを研究する。
本記事では西塩田時報第百八十二號第五頁を取り上げて述べる。
「幹部修養講習會に出席して」という項目は、「原田晴章」なる人物が、「三好武治」なる人物の講演の一端を書くというもの。講演の内容は、主に支那事変(日中戦争の、当時の日本での呼び名の一つ)についてのものである。
「日本で今度の事變での勝利は精神力である」
「支那事變は世界に類の無立派なる所の正しき戰争である」
このような記述がある。やはり根拠のない精神論や戦争を美化する意 | 2023-01-26 |
49 |  | 吉田東伍について | 越後の農民として生まれた吉田東伍は、郷土の大地こそが日本の風土の一部であり、日本を正しく理解するためには、風土を組み立てている郷土についてしっかり見なければならないと考えていた。13年という長い時間をかけて編纂した、大日本地名辞書は人間の活動地帯である「土地」と刻まれた歴史の語り部としての「地名」を大切にすることを教えた。我が国全土の「郷土の未来」を見据えるための学問であると言える。
彼は教育をほとんど独学で行い、図書館に保管されている書籍や学術論文を主な教材としていた。その知識を活かして小学校教諭になった経歴がある。
彼の地理学の研究から、彼は小さな町の目立たない郷土や風土は決して意味のない産物ではなく、日本という国を作る一つの要素として働きかけているのだと伝えているのだと | 2023-01-25 |
50 |  | 兎束武雄(うづかたけお) | 上田町大手の銀行家兎束鐘一郎の長男として生まれた武雄は、幼い頃から音楽に特別な興味を示す子どもでした。しかし、父親は音楽は男のするものではないと考え、武雄の音楽に対する熱意を快く思っては居ませんでした。母親は、音楽を好み自ら琴を弾いたり、4人の姉妹たちにも琴を習わせていました。
上田中学校(現上田高校)を卒業した武雄が、音楽の道に進みたいと父親に相談しましたが猛反対を受けましたが、母親の協力と武雄の熱意に最後には承諾しました。
武雄は上京し、東洋音楽学校に入り勉強に励みましたが、東洋音楽大学だけの勉強では満足できず、他の大学でも聴講し、作曲やピアノ、チェロなどを勉強しました。大学を卒業した武雄は、高等学校の教師になることを決意して上田に帰ってきました。
上田に戻った武雄 | 2023-01-25 |
51 |  | 蚕業の背景 | 江戸末期、鎖国政策を終え古くから生産されてきた生糸を中心に貿易を開始した。しかし、増える需要に対して品質基準を満たす生糸の生産が追い付かない状況であった。
明治維新を経た日本は、「殖産興業」による「富国強兵」を掲げた。それに伴い、生糸を主要な輸出品とし、品質向上、生産力向上に努めた。
新たな生産工場の建築を行うために、フランスなどから技師が招聘されるなど、積極的な動きがあった。 | 2023-01-25 |
52 |  | 蚕業と気候 | 上田市は年間降水量が1000mm未満であり、日本一晴れの日が多い街である。この気候は蚕の飼育に適しており、上田市は日本でも屈指の蚕の産地になった。 | 2023-01-25 |
53 |  | サントミューゼ | サントミューゼのサントは、かつて蚕都として栄えた上田市の歴史と、日本一の晴天率を誇るため、太陽が燦々と、さらには文化・まち・人を育てるという3つの目標が込められている。
ミューゼはミュージアムからの造語である | 2023-01-25 |
54 |  | 蚕業の施設 | 長野県上田市では、かつては蚕業が盛んな地域であった。それを象徴するのが常田館製糸場である。この製糸場は明治33年創業の歴史ある建造物である。当時の養蚕業は日本の近代化の原動力であり、様々な箇所で利用されていた。この施設では、室温度、通風、乾燥などを整えることで、一年を通して平均的に生糸を生産することが可能となっていた。
木造5階建繭倉庫、鉄筋コンクリート5階建倉庫群などは、国指定重要文化財に指定されている。 | 2023-01-25 |
55 |  | 桑皮生産増強に就て(『西塩田村公報』第5号2項) | 桑皮生産の増強についての記事である。上田は桑栽培の適作地であったことから桑が多く栽培されていた。
蚕の餌として生産していたと考えていたが、戦時中は繊維資源としても生産していたようである。
また、「東亜共栄圏」という言葉が多く使われている。
日本政府がスローガンとして使っていただけでなく、日常でも「東亜共栄圏」という言葉が使われていたことが分かる。
▼この記事は以下から参照できます。
#928 『西塩田村公報』第5号(1942年5月22日)2頁 | 2023-01-25 |
56 |  | 安楽寺八角三重塔 | 日本で最も古い臨済禅宗寺院の一つである安楽寺。そこにある木造八角三重塔は、木造の八角塔としては全国で一つしかないという貴重な建築で、長野県では一番早く「国宝」に指定された。
https://museum.umic.jp/bunkazai/document/dot1.html | 2023-01-25 |
57 |  | 大湯 | 大湯別所温泉外湯のひとつ。景行天皇の御代、日本武尊の東征の折発見されたと伝えられ、古名七久里の湯、枕草子にも記された信州最古の温泉。大湯は木曽義仲が愛妾葵御前をつれて逗留したと「新・平家物語」に書かれている。
http://db.umic.ueda.nagano.jp/johogura/datadisp.php?arg_sano=3032090より引用 | 2023-01-25 |
58 |  | 大東亜戦争完遂映画会(『西塩田村公報』第5号4項) | 農村でも映画会を開き、戦果を伝え、国民の団結力と忠誠心を強めていたと考えると、いかにマスメディアが戦争に利用されていたかが分かる。
上映されていたものはおそらく大本営の戦果発表だと思われる。そのアーカイブはNHKの戦争証言アーカイブス、戦時録音資料で参照できる。
この記事が書かれた当時(1942年5月22日)は、日本軍が優勢であったとされる。アジア・太平洋戦争の転換期であるミッドウェー海戦はこの新聞が発行されて約2週間後に起こる。
NHK「戦争証言アーカイブ 戦時記録資料 勝利の記録」
https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/sp/list.cgi?cat=kiroku
2023年1月25日閲覧
▼この記事は以下から参照できます。
#930 『西塩田村公 | 2023-01-25 |
59 |  | 金井正について | 金井正は、明治19年神川村国分に、金井家の三男として生まれました。県立長野中学校(現上田高等学校)に入学。家庭の事情から家督を継ぎ、父が局長を務める国分郵便局の事務員として勤務しました。その一方で哲学者西田幾多郎の存在を知り、哲学に関心を高め、神川読書会を企画したり同人雑誌の創刊し、社会主義による啓蒙を図りました。山本鼎がヨーロッパ留学から戻り、訪ね、児童自由画教育と農民美術運動に感銘を受け、協力を約束し、鼎による講演会「児童自由画の奨励について」を企画。続いて「第1回児童自由画展」を開催し、予想以上の成功を収めました。
農民美術運動については、鼎と連名で日本農民美術建業の趣意書を作成して、神川村の人々に働きかけました。大正8年に第1回農民美術練習所を神川小学校で開設し、 | 2023-01-25 |
60 |  | 鉄道施設としての別所線 | 写真の通りに別所温泉駅では、日本遺産の別所線の鉄道施設としての説明看板が立てられています。
上田から別所温泉までの路線は大正10年(1921年)に開通したと書かれています。
また、真っ赤な鉄橋である千曲川橋梁(きょうりょう)は224メートルの長さであったそうです。
中塩田駅や別所温泉駅など駅舎に近代の趣が残っている様子が見る事が出来ます。 | 2023-01-22 |
61 |  | 信州上田レイライン線について | 日本遺産のレイラインを見に行くことが出来るようにレイライン線の時刻表が出されています。
電車から下之郷駅でバスに乗り換えることでレイラインを楽しめるようになっていて、上田駅からどの時間で出発して到着するのかわかりやすく書かれています。
また、切符についても窓口に相談することが出来るようになっています。 | 2023-01-22 |
62 |  | 1年後期 前川課題発見ゼミ最終まとめ | 調査テーマ「地域の特色・歴史」まとめ
上田の歴史的な出来事・人物と聞かれれば多くの人々が「真田氏」に関する事柄を思い浮かべるだろう。しかし、今回の調査を行う中で、真田氏以外にも日本の歴史・文化に多大な影響を与えたと言える人物も存在することを知った。
例えば、上田藩主を務めただけでなく、江戸幕府老中として条約の締結にも尽力した「松平忠固」、日本の児童画に大きな転換・影響を与えた「山本鼎」は良い例だろう。功績としては素晴らしい物であると断言できるものばかりだ。
特に山本の考えは当時としては(今の価値観で考えても)先進的な物だった。山本は真の意味での「自由」を求めた人物であり、今日の教育活動に一石を投じるものであると感じた。現代ですら「型にはまった教育」が基本的である中、山本は | 2023-01-19 |
63 |  | 上田電鉄の重要性を露わにしよう | Elaboration課題の提起
2019年9月の「台風19号」により千曲川橋梁が崩落した上田電鉄別所線には、日本中から早期復旧を求める声が届いた。このように、利用者は存続の危機に際して重要性を訴求している。しかし、現状の上田電鉄は補助金に依存した経営を余儀なくされ、観光資源としては物足りないものがある。上田電鉄沿線は貴重な遺構や見どころであふれているのは間違いないが、こういった観光資源を有効活用するには、どうすればよいだろうか。
なぜそうなのか(=仮説、問題の構造を描いてみる)
一番の問題は、会社や地元民が上田電鉄の重要性に気づいていないという点である。また、上田電鉄は利益率が低く、改革を起こしづらいというのも足枷となっている。改革を起こすにも資金がなく、そもそも会社自体にそういった発想がないの | 2023-01-19 |
64 |  | 前川ゼミ まとめ | 課題の提起 大学に進学するにあたり塩田平のアパートを借りた。半年ほど生活してみて上田市の中心地や海野町商店街と比べてあまり生活しやすいとは言えなかったため。
なぜそうなのか 田んぼやため池が多いため土地が確保できないので生活に必要な施設などの距離が遠い。
探求の目標 どのようにすればもっと住みやすい街にできるのかを見つける
「塩田平を住みやすい街に」
塩田平は上田駅周辺と比べて非常に住みにくく感じた。スーパーなども遠く24時間営業ではないし、スポーツ用品店などもアリオまだ行かないとない。それなのに電車の本数も少なくバスもないためどこに行くにしても車が必要となってくる。そのためまだ免許や車を持っていない人や免許を返納したお年寄りなどにとっては非常に生活しずらくなっていると思 | 2023-01-19 |
65 |  | プロジェクト研究 週ごとの報告集 | 2022年度の研究における週ごとの報告をまとめました。
可能な限り、同じ週に投稿した動画も添付しておきます。
0510
5月9日は、それ以前の週で行った研究に際しての動画制作とその公開に関する記事をマイサイトに投稿しました。詳しくはそちらに記入してあります。
また私は16日のゼミには参加できないため、研究テーマのまとめ制作を少しずつ進める予定です。
0613
コメント遅れてすいません。
活動報告はマイサイトの方に投稿済みです。具体的には、動画1本投稿、各チャンネルの傾向をメモ等を行いました。現在は動画を投稿しつつタイトル、字幕、チャンネル名、概要などの英語対応化を進めています。
0620
先週は動画を1本投稿し、今日マイサイトに報告を投稿しました。
https://d-commons.ne | 2023-01-18 |
66 |  | プロジェクト研究の足跡 | プロジェクト研究の足跡を綴ってきたものをまとめました。
4月25日
前半はグループメンバーの共通項として、研究への取り組み方や考え方を共有しました。後半は、各自のプロジェクトの説明とそれに対する質問や問題意識の共有を行いました。ゼミ内で横のつながりが出来ることで、各自の持つ問題意識への様々な考え方が示され、非常に有意義なものとなったと感じました。今後は、自身のプロジェクトを進める中で頻繁に意見交換をすることで、より多角的な視点から研究していこうと考えています。
5月11日
大洗町における地域学習に関する記事の閲覧及び調査を行いました。また、大洗にフィールドワークに赴く際の調査事項などをまとめました。今後も活動を報告し合う事で様々な視点から調査を行っていきたいと考えています。
5月17日 | 2023-01-16 |
67 |  | 海外向け旅行youtuberとその模倣投稿者の違い | しばらく投稿が出来ていなかったため、その期間に投稿した動画と、研究最終報告へ向けてのメモ代わりとしてテーマごとの記事を残します。
1 海外向け旅行youtuberとその模倣投稿者の違い
初めに、収益を得ている投稿者を「youtuber」収益を得ていない投稿者を「投稿者」とします。
私の研究で注目している海外視聴者向け旅行youtuberは数名いますが、その先駆けとも言える「Travel Alone Idea」さん(以下Travelさん)を最終的に取り上げることにしました。
Travelさんをご存じない方に向けて凄さを簡単に言うと、14本の動画のみで登録者数100万人を達成しており、再生回数最多の動画は10か月前の投稿にも関わらず8049万回再生という驚異的な数字を記録しています。これらの数字はYouTube全体で見ても極めて稀であり、同様の数字 | 2023-01-13 |
68 |  | 1/12日 調査まとめ | 上田と「山本鼎」
自由画運動
山本鼎(やまもと かなえ)は愛知県岡崎市出身の画家であると共に、上田を拠点に「自由画運動」「農民美術運動」の先駆けとなった人物である。愛知県出身の山本であるが、父親が小県郡神川村大屋(現在の上田市大屋)に病院を開業したことをきっかけに上田と縁を持つこととなる。1912年にフランスに5年間の留学へ向かった山本は、日本に帰国後、児童画の改革を目指した運動を起こした。山本の言葉に「自分が直接感じたものが尊い」というものがあるが、当時の児童画の指導方法は「お手本の模写」が主流であった。山本はこれに対し、絵の技術や方法が重要なのではなく、自分の目で見た物、感じた物を描くことが児童の発達にとって大切であると説き、1919年に神川小学校で第一回児童自由画展覧会が開催され、 | 2023-01-12 |
69 |  | 上田市マルチメディア情報センター | 上田市マルチメディア情報センターは、長野大学の少し上に位置している、情報化を総合的に支援する環境が整っている施設である。
●施設・概要
学生は無料で使用できる学習スペース、3Dプリンターがあり、アニメや映画などを250作品以上見ることができるPCが置かれていた。また子供や大人も活用できる学習空間がある。
他には教育支援や無線LAN有線LANの管理など地域にも貢献している施設である
●上田資料映像鑑賞
上田市の50年前の資料映像を見させていただいた。
そこでの貴重な映像を紹介する。
●「上田つむぎ」信越放送 1964年1月16日放送/上田紬/私たちの周辺
人手を要する養蚕は機械化をする必要はあるが、あまりにも機械化をしてしまうと伝統が欠如してしまう可能性があるとのこと。
手織りのものは個人に合わせて作 | 2023-01-12 |
70 |  | 一次資料としてのminiDV | これまで社会活動はビデオ映像に記録をしてきました。蚕都上田プロジェクトを始めたのは2008年のこと。当時の記録媒体はもっぱらminiDV(小型ビデオカセット)です。それから15年が経過し、当時は現役で活動された方もご高齢になったりお亡くなりになったり、社会の状況・様子も変遷し続けてきています。miniDVは個人的には1997年以来使い続け、記録テープは1000本を超えます(数えたことはありませんが)。
テープ媒体の問題は再生しないことには記録映像にアクセスできないこと。さらにはこれらの媒体がいつまで再生可能かの保証はなく、テープ媒体の経年劣化の問題、再生機器の保全の限界の問題と重なり、ある時期に全てをデジタル化しデジタル保存しておかないと取り返しがつかないことになります。
この年末年始、デスクワークの片隅でパ | 2023-01-10 |
71 |  | 明治7・8年蚕種焼却(横浜)の写真 (1874)から | 横浜に出荷された大量の蚕種(蚕卵紙)が焼却されるという衝撃的な出来事を写した写真に着目し、その背景を調査しました。
1860年代、ヨーロッパでは、蚕の伝染病「微粒子病」が蔓延しました。この代替品として、健全な蚕種を日本に買い求めたため、蚕種の輸出は増加し、高値で取引されました。ところが、ヨーロッパ各国が蚕病を克服すると需要は減退し、生産過剰となっため、政府は、輸出予定だった蚕種(蚕卵紙)を買収し、一部の優良紙を残して、他はすべて焼却処分したそうです。
【出典】藤本蚕業アーカイブ https://d-commons.net/fujimoto-arch/(2023/1/10)
史料ID[tf002] 明治7・8年横浜で蚕種焼却の写真 (1874) | 2023-01-10 |
72 |  | 大正期には「キネマ文字」のフォント集まであった | 矢島周一は大正15年(1926)3月に日本で最初のタイポグラフィー字典といわれる『図案文字大観』を出版。自らの映画広告のレタリング制作の経験から考案した書体を集大成したという。以後の日本映画広告では明らかにこの『図案文字大観』の書体が活用されており、使用事例が幾つも確認できる。
『図案文字大観』 矢島周一・著 1926(大正15)より引用 | 2023-01-09 |
73 |  | 大正期の新聞広告に用いられたタイポグラフィー | 大正期に入ると、日本のタイポグラフィーは欧文書体の影響を受け、毛筆書体から離れた独特な書体が続々と登場した。広告効果としてのタイポグラフィーが重要視されるようになった。
『新聞広告選集』大阪朝日新聞社・編 大阪朝日新聞社(1926)より引用 | 2023-01-09 |
74 |  | 明治中期の読売新聞紙上の広告に見られるタイポグラフィー | 日本のタイポグラフィーは、平安から始まり江戸期までは、篆書(てんしょ)・隷書・楷書・行書・草書など毛筆を基にしたものであった。
明治に入り、欧文書体との融合が始まった。
写真のような明治中期の新聞広告には英語表記も見られるが、タイポグラフィーの多くはまだまだ毛筆書体を元にしている印象だ。
読売新聞 第 5751 号、4 面、明治 26 年 7 月 26 日発行
東京、日就社 | 2023-01-09 |
75 |  | 空海による扁額の文字 | 人物を表した文字、鳥を付託した文字などを見ることができる。
『日本レタリング史』谷峯藏・著/岩崎美術社(1992) より引用 | 2023-01-09 |
76 |  | 空海 | 空海(くうかい、774年〈宝亀5年〉- 835年4月22日〈承和2年3月21日〉)は、平安時代初期の僧。能書家でもあったが、遣唐使として中国に渡った際に寺社から影響を受けたといわれ、帰国後に数多くの扁額(へんがく)を作成している。その力感あふれる筆法が、日本のタイポグラフィーの始まりであるという説がある。
『弘法大師(空海)像』(慶應義塾ミュージアム・コモンズ 所蔵) 「慶應オブジェクトハブ 収録」
(https://cultural.jp/item/keioobjecthub-1630) | 2023-01-09 |
77 |  | 手塚治虫 | 手塚治虫は昭和3年(1928)生まれで、漫画家デビューは昭和21年(1946)であるため、昭和14年ごろに書かれたと思われる「藤本蚕業報告書書体」は手塚の影響を受けたわけではなく、手塚もまた当時のタイポグラフィーに影響を受けた一人と考えられる。
髙木康允『手塚治虫(1928-1989) 漫画家 [撮影 昭和62年(1987)]』(日本写真保存センター所蔵)
「写真原板データベース」収録
(https://jpsearch.go.jp/item/photo-00088_00076_0001) | 2023-01-09 |
78 |  | 2023元日の上田 | 2023年の元日は晴天に恵まれ、塩田平にある生島足島神社へ初詣に出かけました。いつも見慣れている風景ながら、「上田とはどんなところか?」、改めて眺め直してみました。
上田からは烏帽子岳が最もよく見えます。何よりも烏帽子状の山容が美しい。
次に美ヶ原、深田久弥が「日本百名山」に選んだ山の一つ。山の頂は起伏が極めて少なく平坦に長く続き、これが一つの山とは認知しがたいぐらいに「控えめ」な佇まいをしています。地元の人は美ヶ原とは呼ばず「うつくし」と呼びます。山頂はほぼ平坦ながらわずかばかり高く見える山頂にテレビ塔がいくつも立ち並んでいます。美ヶ原はこのテレビ塔の存在がアクセントとなり不思議に美しい。
小牧山は地元の人々もそれが何山かを意識することなく存在している超低山です。この地点は地 | 2023-01-03 |
79 |  | 昭和27年(1952)の殺人事件(『西塩田時報』第73号) | 西塩田広報第73号より
加害者の住所が朝鮮でしたので、てっきり異邦人の犯罪かと思いましたら、当時の朝鮮のこの地区は日本領土でした。強盗内容も千円とありますが、当時の相場としては約5倍ほどだそうです。(間違っていたらすみません)時代背景がわかる記事ですので取り上げさせていただきました。
▼この記事は以下から参照できます。
#364 #364 『西塩田時報』第73号(1952年7月3日)2頁
https://mmdb.net/mlab/uedagaku/pdf/nishishioda/ns17_post061to080.pdf | 2022-12-26 |
80 |  | なぜ金を政府へ(『西塩田時報』第188号 1939年7月1日) | 金を納めさせる理由として日本で使われている「お札」では海外との取引が出来ないということが書かれている。
当時はそれを理解していなかった人も多かったのかもしれない。
▼この記事は以下から参照できます。
#843 『西塩田時報』第189号(1939年8月1日)1頁
(恐らく表記ミスで189号になっているが正しくは188号)
https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p0843.jpg | 2022-12-26 |
81 |  | 日本国憲法 第二章 | 今も変わらず残っている大日本国憲法の第九条の制定についての記事を見つけた。
この憲法が今も残っているおかげで他の国との武力的な大きな衝突なく平和に過ごせているのだと思うと感慨深い。
面白記事とは少しずれてしまっているかもしれないが一番興味深いと感じたのでこの記事をピックアップした。
▼この記事は以下から参照できます
https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p0967.jpg | 2022-12-25 |
82 | ![青年の聲 【『西塩田時報[戦後]』第4号(1947年4月20日)1頁】 青年の聲 【『西塩田時報[戦後]』第4号(1947年4月20日)1頁】](https://d-commons.net/upload/4/253/thumbnails/042383.jpg) | 青年の聲 【『西塩田時報[戦後]』第4号(1947年4月20日)1頁】 | 太平洋戦争が終結した際の日本国内の様子が書かれている。自分にとっては教科書的な内容であった国民主権や思想良心の自由への移行への国内の動向を知ることが出来た。今では当たり前にあるような考え方も当時は反発もあったようだ。現代とギャップが非常に興味深いものだった。 | 2022-12-25 |
83 |  | 女性の心理(『西塩田時報』第3号(1946年10月20日)3頁) | 女性は感情性が強く、その感情が女性の心情を支配するものだと記されている。
同年4月に、女性に参政権が与えられた。「女性として、最も大切なことは慈愛心であり、柔順にして判断力が強く、徒に感情に走らず、事に嘗つては堪え忍ぶ底力の強いのが日本女性の美点とする處である。」という文章が、男女平等、女性を下に見ないために書かれた記事なのかと推測できる。
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#961「西塩田時報」第3号(1946年10月20日)3頁 | 2022-12-23 |
84 |  | 米の節約!勝利の一歩(『西塩田時報』第198号1項) | 日中戦争時、東京などの都市だけでなく、地方でも節米運動が行なわれていたことが分かる記事である。白米ではなく、麺類や七分づき米、雑穀米を代用として食べるように書かれている。戦時中、栄養不足にならないために栄養豊富である雑穀米などを食べていたのだと考えていたが、日本の物資不足も要因の一つであったことが分かった。
また、「勝利への第一歩」という言葉から、国民の戦争意欲を高めようとしていることがうかがえる。戦時中という時代背景を強く実感できる記事のタイトルだと感じた。
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#879 『西塩田時報』第198号(1940年5月1日)1頁 | 2022-12-23 |
85 |  | 12月22日分 調査まとめ | 上田城の築城・歴史
「日本一の兵」真田幸村を輩出した真田氏は、現在の上田市真田町の周辺を拠点として活動していた。上田城の築城が開始されたのは1583年のことで、真田幸村の父である真田昌幸によって築城が開始された。当時徳川家康に仕えていた昌幸は、その援助を受けながら築城をしていた。しかし、北条と手を組もうとする徳川から土地の受領を要請された際にこれを拒否。徳川と断絶した昌幸は、上杉家に助力を求め次男の幸村を人質に差し出す。これにより、上杉方から戦力と築城の支援を受けた。上田城が一旦の完成を迎えた1585年、家康は鳥居元忠らを真田領に進軍させ「第一次上田合戦」が始まった。およそ1万の軍勢で進軍してきた徳川軍を昌幸は謀略を用いて少数の軍勢で撃退した。時は流れて関ヶ原の戦い最中の1600年、家康の息 | 2022-12-22 |
86 |  | 引揚者を暖かい気持ちをもって迎えましょう | 過酷な環境から帰ってくる引揚者の人々に冷たい態度をとらず暖かく迎えましょうと呼びかける内容です。
第二次世界大戦が終わった後の記事で海外にとどまることを強いられた人々への思いやりや終戦後の日本の一体感が読み取れる記事です。
#965 『西塩田青年団報』第4号(1946年11月25日)3頁
https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p0965.jpg | 2022-12-21 |
87 | ![青年の聲 【『西塩田時報[戦後]』第4号(1947年4月20日)1頁】 青年の聲 【『西塩田時報[戦後]』第4号(1947年4月20日)1頁】](https://d-commons.net/upload/4/622/thumbnails/030970.jpg) | 青年の聲 【『西塩田時報[戦後]』第4号(1947年4月20日)1頁】 | これは当時の太平洋戦争が終わりポツダム宣言を受諾した日本の意見が良く分かる記事です。おそらくこの記事のようにポツダム宣言に賛成した派と否定派で激しく争ったように感じ取れます。そのような昔の雰囲気を感じ取れる記事として面白く思えました。
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#985 『西塩田時報[戦後]』第4号(1947年4月20日)1頁
https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p1261.jpg | 2022-12-21 |
88 |  | test蚕糸試験場 蚕糸の森公園 | 蚕糸試験場 蚕糸の森公園
子供時代に蚕糸試験場(東京杉並区)が近所にあり、
すでに廃墟となっていて不思議なところだと思っていました。
春蚕繭繰糸試験成績一覧表
藤本蚕業デジタル資料館
https://d-commons.net/fujimoto-index/?c=&p=11876
近代化と国際規格と日本の関係性、
国際規格の導入と変遷は絹糸が最初ではないか?
以前自動車業界にいて国際規格からSDGsに変遷していった過程から、
規格の重要性が正義や善につながっていて基本なるのは美学ではないか?と考えています。
naganuma | 2022-12-17 |
89 |  | 課題発見ゼミ 12月15日 まとめ | 12月15日分 調査まとめ
開国後の日本による生糸輸出と上田の関わりについて
上田藩主・松平忠固と生糸輸出
鎖国を解き、開国を果たした日本が世界に進出する際に大きな武器となった生糸の輸出。それに多大な貢献をした人物が松平忠固である。六代目上田藩主、幕府の老中も務めた松平忠固は、日本開国のきっかけとなった日米和親条約の締結に関わりがあった。この開国をきっかけとして、忠固は上田藩の特産品を諸外国に売ることで利益を上げようとしていた。
その中で注目されたのが上田の「生糸」である。雨が少なく乾燥した地域である上田は江戸時代ごろから蚕種業が始まっており、のちに蚕種業の発展に大きな貢献をした「藤本善右衛門」の家系が先駆けだと言われている。忠固は生糸の輸出を行うことを決め、生糸輸出による利益 | 2022-12-15 |
90 |  | D.W.Griffithと小津安二郎の インターテクスト的連関(2020) | 研究発表「D.W.Griffithと小津安二郎のインターテクスト的連関」
(2020/09/27 日本映像学会第46回大会 研究発表/研究A2)
【研究概要】
D. W. Griffith(1875-1948)の初期作品には、小津安二郎(1903-1963)のそれと極めてよく似たシステムが同定できる。小津がアメリカ映画、とりわけ Ernst Lubitsch の強い影響を受けていたことはよく指摘されている。しかしながら小津に最も類似した特徴を備えているのは Griffith の初期作品である。この点、先行研究では指摘されることがなかった。本研究ではGriffith作品、小津作品における人物の動きに沿った移動空間の分節、動きの分節が極めて共通性が高いことを実証した。
こうした特徴を備えた作品は映画初期において見られるものの、トーキー期においては類例を見出せない。特に小津のトーキー期における《動きの連続=時間 | 2022-12-12 |
91 |  | 地域資料デジタル化の課題と解決に向けた方策(2022) | 研究発表
地域資料デジタル化の課題と解決に向けた方策
「デジタルアーキビスト養成講座」の紹介を兼ねて
(2022/11/23 日本教育情報学会第19回デジタルアーカイブ研究会)
前川道博(長野大学企業情報学部)
【研究の概要】
デジタルアーカイブの大きな課題の一つは地域資料のデジタル化が極度に立ち遅れていることである。DXが進む現代においては資料のデジタル化により誰もが地域の情報源に直に触れ、主体的に地域を学び・理解に踏み出すことのできる社会の実現が望まれる。本研究では、地域資料のデジタル化を提起すると共に、地域資料のデジタル化が担えるデジタルアーキビストの養成を地域人材のリスキル/リカレント教育の観点から具体的にどのように養成講座としてモデル化できるか、諸課題の解決が図れるかを課題提起する。 | 2022-12-12 |
92 |  | インドカレー | 2022/12/05
この日の夕食はインドカレーを食べた。
数ヶ月に一回インドカレーを食べたくなる。
というのも、
私は中学2年生の時インドにホームステイしたことがある。インドのカレーは甘さを選ぶことができず非常に困った。(私は辛いものを食べることができない)
当時、インドという国に衝撃を受けた。
町の人々・文化・風習・活気。どれをとっても日本といい意味でも悪い意味でも異なっていた。
インドの投稿はいつかまた。 | 2022-12-07 |
93 |  | 上田紬 | 上田紬は、日本三大紬の一つで400年の歴史がある。
絹は透湿性に優れており、夏は涼しく冬は暖かいのが特徴である。 | 2022-12-05 |
94 |  | 生糸の輸送方法とルート | 長野県や群馬県で盛んだった生糸ですが、その多くは海外輸出となっていました。より高効率な輸送を実現するべく建設されたのが、画像にある信越線です。江戸時代は東京に至るまで3日かかっていたのが、同線の開通によって4時間程度にまで短縮され、日本の外貨獲得の柱であった生糸・蚕種の大量輸出に一役買っていました。 | 2022-12-05 |
95 |  | 市街地方面の寺院、神社 | やはり城下町らしく、この地を治めた真田氏に縁あるものが多い。欧州ではキリスト教、東洋で仏教、そして日本の神道。古来より信仰というものは人々の生活の隣にあるものだった。信仰のあり方はその地域の生活のあり方ともいえる。歴史を紐解くうえで貴重な材料となり得るものである。(今回キリスト教を取り上げなかったのは、ここいら一帯はキリシタンが現れた時期が遅かったと考えられるためである。) | 2022-12-04 |
96 |  | 小文『プリンス・マツダイラ物語』 | 明治5年からアメリカへ留学した最後の上田藩主・松平忠礼と弟の忠厚。その後忠厚は日本へ帰ることなく土木と建築を学びアメリカ人女性と結婚し、エンジニアとして測量器具を発明、大陸各地の橋や鉄道建設に携わる活躍をしながらも肺結核に倒れ、37才の若さでデンバーで亡くなりました。
今では上田の方々にはよく知られた話ですが、2000年上田市立博物館での松平忠厚展を機にした『プリンス・マツダイラ物語』は、2人の留学に随行した山口慎(山口平太郎毅の息子)の孫の金子香代が2004年「文芸せたがや」に書いたものです。ファミリーヒストリーの延長で当時随筆部門の3席でしかなく、批評の通り、練り直しを考えつつもできないまま没しました。そんな母の小文ですが、最近Wikipediaなどから関心を持って下さる方がいるので、この場をお借 | 2022-12-02 |
97 |  | 養蚕業が衰退した理由 | 日本の繭生産量は、今から約90年前1930年(昭和5年)の40万トンをピークに減少し、昭和40年代に持ち直しの傾向が見られたものの、2016年(平成28年)には約130トンまで落ち込んでしまいました。繭生産量の減少に伴う製糸業の衰退も著しく、昭和34年には1871工場あった国内製糸工場数は、平成26年にはわずか7工場を残すのみとなってしまいました。
日本の絹産業は、生糸の原料となる蚕の繭を作る養蚕農家から、生糸を作る製糸業者へ。そして絹織物業者へという流れから、おもに着物や帯などに加工・縫製されて小売される形になっている。
衰退した理由としては和装から洋装へ変化する「和装離れ」により需要そのものが減少したと考えられている。価格競争で中国などから低価格繭の流入や、後継者不足など社会構造の変化も考えられます。 | 2022-11-30 |
98 |  | 養蚕に適した気候上田 | 上田は古くから養蚕業が栄えていました。かなり古い歴史を持つ上田の養蚕業は、世界に向けても、輸出され蚕の産地として名を轟かせました。上田は降水量が少なく、乾燥しているため、蚕が育てやすく、長野は傾斜地が多いため蚕の餌になる桑などを生育しやすいという有利になる利点がありました。具体的には、上田の年間の平均降水量は約900mmであり、日本の平均降水量は1718mmであり、上田は全国平均の約半分ほどであるということが分かります。また、傾斜か多いため果樹や桑を育てることに有利な条件である水はけが良いということもあり、上田は気候の面でも後押しされて養蚕業が栄えてた要因の一つは気候であると言えるでしょう。 | 2022-11-30 |
99 |  | 上田紬 | 日本三大紬とは主に、大島紬、結城紬、上田紬のこと指すそうです。この日本三大紬の中の一つが上田にあるということで、調べてみました。
上田紬の特徴は、柔らかい肌触りの生地に、丈夫で、夏は涼しく冬は暖かく感じられることである。また、上田紬は、大島紬、結城紬と違って縦糸をまっすぐな糸で、横糸で真綿から引いた糸という少し波がある糸を使っていることも特徴です。
小岩井工房は、現在も上田紬を作っている数少ない工房です。そこでは着物も以前は紺色などの色が主流で一般の人々が日常で着ていた着物でしたが、現在では着物はあまり着られなくなって残念と話していました。また、今はグラデーションや、パステルカラーなどを使った今風の着物も出しているそうで、色のバリエーションを増やすなどすることで今の需要の変 | 2022-11-30 |
100 |  | 木々と水の音が響く神聖な場所 | 今回は「別所温泉森林公園」や「別所氷沢の風穴」の近くにある、「三嶋神社」にきました!
木々に囲まれ、静かに流れる水の音を聞きながらの参拝。
とても身が締まる気持ちになりました。
日が陰っている時間帯でしたので、全体的に薄暗く、少し怖くもありました。
その厳かな雰囲気に圧倒されながらも、これぞ日本という感覚を直に受けることができた、良い経験となりました。 | 2022-11-30 |