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1片倉館片倉館2022/09/23 上諏訪市にある温泉施設「片倉館」へ。 この施設は昭和3年創業で映画テルマエロマエⅡのロケ地にもなっている。 浴槽は真ん中に1つしかなく、温度もちょうどいい。 が、5分ほど入っていると体が真っ赤になってくる。体の内部深くに温かさが残るような感覚があった。2022-09-25
2JR神立駅前の再開発JR神立駅前の再開発私の実家があるかすみがうら市安食からみると最寄りのJR駅である神立駅がリニューアルされ、同時に駅前環境が大きく変わりつつあります。駅前広場はまだ造成されていません。一足先に駅前通りが貫通しました。駅前通りを通ったのは今回が初めてです。神立駅から国道6号線の区間がつながりました。 神立駅前は昭和期からのモータリゼーションに対応できず、無策のまま数十年が放置されてきました。神立には日立建機をはじめ多くの工場が集積する工業都市となりましたが、都市人口、通勤者数が増える一方で幹線道路のない狭い道を多くの車が行き交う不自由がここ数十年続いてきました。積年の課題がやっと解決につながる思いがします。2022-08-17
3現代に繋がる主導的産業の偏移について現代に繋がる主導的産業の偏移について 幕末の開港によって長野県は地域経済を世界につなげることになった。そこで長野県を国外まで広げる一翼を担ったのは生糸でした。  長野県は外国との交流が始まると、器械製糸を取り入れ、養蚕や蚕種業の技術開発や改良に力を入れました。それで、蚕糸王国と呼ばれることになったわけです。長野県の近代のあゆみは養蚕や製糸業の盛衰に左右され長野県の命綱は、蚕糸業であったと断言して過言ではありません。 長野県の製糸業は県外や外国にまで進出し、日本の製糸の中心となります。なので、長野県内のいたるところの農家では養蚕が営まれました。  蚕糸業は大正時代から昭和初年にかけて全盛期を迎えますが、1929年(昭和4)からの世界大恐慌の影響をうけ、製糸業を営む会社の倒産が相次ぎ、繭価の価値の大暴落のため生活を養蚕に2022-08-10
4長野飛行場跡地長野飛行場跡地長野県長野市大豆島には長野飛行場の跡地があります。長野飛行場は昭和14年に開場され、東京や大阪などに定期便が運行し、その2年後の昭和16年に軍用飛行場として利用されるようになりました。しかし昭和20年、太平洋戦争によって長野市は空襲に遭い、飛行場とその周辺の民家にまで被害が及びました。 戦後は民間飛行場としてセスナ機や鉄道機関、長野県警のヘリポートとして利用されていましたが、平成2年に閉鎖されました。現在は中学校や住宅が立ち並んでおり、一目見ただけでは跡地だとは分からないのですが、当時の滑走路は現在も道路として残っています。 現在の日本は戦争とは無縁のような社会ですが、この飛行場の歴史を知って、戦争というものを少し身近に感じました。2022-08-09
5海野町商店街マップ(昭和41年版)海野町商店街マップ(昭和41年版)海野町商店街が所蔵する写真を基に、昭和41年の海野町商店街マップを作成しました。2022-07-25
6古い本が並ぶ風景、つい手にしてみたくなる本は?古い本が並ぶ風景、つい手にしてみたくなる本は?藤本蚕業歴史館は1908年に創業した藤本蚕業の文書・書籍を収蔵する文書館です。ロッカー33基に膨大な社内文書が分類整理されています。そのロッカーの上に並べられた本の横並び感がいい。年代が総じて古い。大正期から昭和期にかけてのものが多い。蚕種製造企業でありながら、本の雑多さにまず目が行きます。 私たちが知らない大正期、昭和戦前期などの本はまさにタイムカプセル。ここにその時代を引き出す情報が詰まっているのかと思うと興味をそそられます。 これらの本の背表紙を眺めてみて、あなたがついつい手にしてみたくなる本、ありますか?2022-07-06
7霊泉寺温泉霊泉寺温泉上田と松本を結ぶ国道254号線から2kmほど入ったところに霊泉寺温泉があります。その道筋はかろうじて車がすれ違える程度に狭く、その先に温泉があるのだろうかと思うぐらい。途中何台かの車とすれ違いました。 温泉街についたとたん、まるで大正か昭和の時代にタイムワープしたかのような感覚にとらわれました。隠れ家的な温泉街、秘湯という形容がぴったりの温泉街です。2022-06-20
8山中温泉山中温泉6月17日 石川県加賀、山中温泉へ。 温泉自体は知っていたものの、県庁所在地金沢から少し距離があるため今まで行った事がなかった。 車で訪れた今回こそ! と行ってみた。 山中温泉は松尾芭蕉も滞在したと有名な地域。 「山中や菊は手折らじ湯の匂い」 という句を詠んだ山中温泉「菊の湯」へ入浴。 真ん中に大きな湯船、周りに洗い場という昔ながらの温泉。昭和から建物も変わっていない。 町の人の生活の一部として昔から使用されているんだなーという感じがした。 入浴中、”昔の人も同じ湯船でこ天井を見ていたのかな”等と思うとうれしい気持ちになる。2022-06-18
9【2022/7/2~7/3開催】民間で始まる蚕糸業ものがたり【2022/7/2~7/3開催】民間で始まる蚕糸業ものがたり 小諸市で2日間にわたり、小諸の蚕糸業について学ぶ「民間で始まる蚕糸業ものがたり」を開催します。 【民間で始まる蚕糸業ものがたり】 主催:特定非営利活動法人 糸のまち・こもろプロジェクト 【講演】 日時:2022年7月2日(土曜日) 10時~16時  会場:ステラホール(小諸市交流館内) 参加料:500円 講演1:午前10時「シルクの里 純水館ものがたり」~制作秘話~ CTK報道制作部長 後藤 理恵氏 講演2:午後13時30分「小諸の交通と蚕糸業」元長野県立歴史館総合情報課長 宮下 健司氏 【糸のまち・ツアー(着物参加大歓迎)】 日時:2022年7月3日(日曜日) 参加募集:20名(地元会員ガイドがご案内いたします) 集合時間:午後13時30分(ツアー所要時間2時間) 集合場所:荒町 酢久商店駐車場(純水館資料館)前より 荒町商人記録を巡る 渋沢栄一宿泊の家(小山久2022-06-10
10企画展「ご近所さんの近代遺産 原町通り編」企画展「ご近所さんの近代遺産 原町通り編」池波正太郎 真田太平記館 同館で3/26~6/19の期間、企画展「ご近所さんの近代遺産~原町通りの商店編~」が開催されています。 →企画展 原町の古い写真を柱に、原町の商店とも関連する事物を展示する企画です。森田屋石森呉服店の道具、西澤書店の大正・昭和期の帳簿の束、河合薬局の衝立、「本草綱目」、各商店の色刷り広告などが展示されていました。太平記館の展示は展示会場が狭いということもあり、関連の企画展示を具体的にどのようにキュレートすればよいかのよきお手本でもあります。無理せず、原町商店街の「昔」を手際よく展示構成していました。2022-06-05
11上田市塩田平 舌喰池上田市塩田平 舌喰池上田市塩田平に存在するため池群のひとつである。西暦700年頃の奈良時代に築造されたと伝わる。雨乞い行事の「百八手」の舞台でもある。 江戸時代に2度の改修工事が行われ、現代に至る。昭和には養鯉産業で栄える。 平成では植生調査の実施から多様な植物が確認され、「舌喰池 憩いの広場」という緑地公園も造成された。東屋もあり、自然環境も豊かであることから、安らげる場所である。 舌喰池は大池とも呼ばれる。舌喰池という名称は、造築の際に水が溜まらず、人柱に選ばれた娘が悲しみから自らの舌を喰い切って池に身を投げた民話に由来する。2022-05-09
12飯山のマンホール、一本杖スキー飯山のマンホール、一本杖スキーいつ頃からかマンホールカードが大ブレークし、全国でコレクターが急増しました。私もその恩恵を受けて飯山駅の観光案内所でマンホールカードをゲットしました。さらにこのキーホルダーを購入しました。 飯山のマンホール蓋「一本杖スキー」はこれまでにも見ましたが、このようなカラーバージョンに出会ったことはありません。絵柄もかわいらしく、色合いもいい。マンホールよりもむしろキーホルダー向きです。 カードの裏側には一本杖スキーの歴史についての解説があります。最初にこの地に伝わったスキーが一本杖スキーで大正初期まで盛んであったとのこと。子供が被っているのが「みのぼうし」で、これは昭和30年代まで利用されていたとのこと。なるほど、です。2022-05-05
13高橋まゆみ人形館高橋まゆみ人形館飯山に「高橋まゆみ人形館」ができたのは2010年のこと。訪れたいと思いながら10年以上経ってやっと訪れることができました。この日はゴールデンウィーク真っ只中の5/3、多くの人が訪れていました。 高橋まゆみさんの創作による人形はおじいさんやおばあさんなど昔の人々が生活している姿が生き生きと、またユーモラスに表現されています。その時代、どんな生活をしていたのだろうと今は失われた昭和の時代の生きた生活を彷彿とさせてくれます。2022-05-05
14SL C56-144SL C56-144佐久鉄道が国有化され、昭和13年に小海線の輸送の主役として活躍した。引退してあと、昭和48年に小諸市に貸与されました。C56は日本には20台しか残っておらずとても貴重な文化財であると言える。機関車の重厚な車体は迫力があります。2022-05-05
15京城日報での13回忌の記事京城日報での13回忌の記事こちらは昭和5年12月5日の京城日報です。11/12の冒頭に、志津衛13回忌の法要が行われた記事が掲載されています。出火当時の様子や、その人柄、その後の家族の様子まで詳しく書かれています。外地であるはずの京城でも日本と同じように新聞が発刊されていること、当時の事件や広告記事など、現在とあまり変わりがないことに驚きます。 祖父俊三が京城大学在学中で、野球をしていると記載されています。上の兄たちとともに鈴木三兄弟と野球で有名だったそうです。2022-02-24
16外地との行き来外地との行き来志津衛の三男、祖父の俊三は大柄で、運動神経抜群。 京城中学校が甲子園に出場した時、ホームランも打っています。 外地の学校も、船で日本に遠征していた時の写真です。 甲子園での第12〜14回に出場し、成績も残っています。 12回大会は大正15年(1926年)なので、志津衛殉職の後7年後のこと。写真には手書きで、1927年とありますので、13回大会の時のものと思われます。 大正天皇は12月25日崩御なので、この年はすでに昭和2年の和暦となっています。 日本と京城間は、頻繁だったことに驚きます。2022-02-24
17じまん焼きの歴史と比較じまん焼きの歴史と比較引用 「富士アイス下諏訪店」で自慢焼き・上田店と食べ比べ https://simple-yuumin.com/wp-content/uploads/2018/04/IMG_3920-2-e1522716309126.jpg 上田のソウルフードの一つであるじまん焼きを作っているのが富士アイスという店だ。富士アイスは上田以外に長野県にいくつかある。岡谷店と下諏訪店だ。富士アイス上田店は昭和10年にオープンに対して岡谷店は昭和48年創業、そして下諏訪店は昭和58年に始まっており、割と最近になってから開業した。下諏訪店はあんこの水分が上田店より少ないなど、店によって皮とあんこの固さに違いがあり、それがまた個性となっている。 参考文献 「富士アイス下諏訪店」で自慢焼き・上田店と食べ比べ https://simple-yuumin.com/fujiaisu-30442022-02-14
18善光堂善光堂この写真は、海野町商店街にある海野町会館が所蔵する一枚である。 一枚目が平成11年のアーケード取壊し前、二枚目が昭和41年の海野町拡幅工事前に撮影された写真である。2022-02-13
19マジックミシンマジックミシンこの写真は、海野町商店街にある海野町会館が所蔵する一枚である。 一枚目が平成16年の新アーケード建設後、二枚目が平成11年のアーケード取壊し前、三枚目が昭和41年の海野町拡幅工事前に撮影された写真である。2022-02-13
20ポケットパークポケットパークこの写真は、海野町商店街にある海野町会館が所蔵する一枚である。 一枚目が平成11年のアーケード取壊し前、二枚目が昭和41年の海野町拡幅工事前に撮影された写真である。2022-02-13
21ムラタ靴屋ムラタ靴屋この写真は、海野町商店街にある海野町会館が所蔵する一枚である。 一枚目が平成11年のアーケード取壊し前、二枚目が昭和41年の海野町拡幅工事前に撮影された写真である。2022-02-13
22梅花堂 寺島理容館梅花堂 寺島理容館この写真は、海野町商店街にある海野町会館が所蔵する一枚である。 一枚目が平成11年のアーケード取壊し前、二.三枚目が昭和41年の海野町拡幅工事前に撮影された写真である。2022-02-13
23白木屋 魚民白木屋 魚民この写真は、海野町商店街にある海野町会館が所蔵する一枚である。 一枚目が平成11年のアーケード取壊し前、二.三枚目が昭和41年の海野町拡幅工事前に撮影された写真である。2022-02-13
24ルイ,サンクルイ,サンクこの写真は、海野町商店街にある海野町会館が所蔵する一枚である。 一枚目が平成11年のアーケード取壊し前、二枚目が昭和41年の海野町拡幅工事前に撮影された写真である。2022-02-13
25MARUGEN はなおかストアMARUGEN はなおかストアこの写真は、海野町商店街にある海野町会館が所蔵する一枚である。 一枚目が平成11年のアーケード取壊し前、二枚目が昭和41年の海野町拡幅工事前に撮影された写真である。2022-02-13
26上田デパート上田デパートこの写真は、海野町商店街にある海野町会館が所蔵する一枚である。 一枚目が平成11年のアーケード取壊し前、二枚目が昭和41年の海野町拡幅工事前に撮影された写真である。2022-02-13
27やおふく 小波やおふく 小波この写真は、海野町商店街にある海野町会館が所蔵する一枚である。 一枚目が平成11年のアーケード取壊し前、二枚目が昭和41年の海野町拡幅工事前に撮影された写真である。2022-02-13
28宮尾眼鏡店宮尾眼鏡店この写真は、海野町商店街にある海野町会館が所蔵する一枚である。 一枚目が平成11年のアーケード取壊し前、二枚目が昭和41年の海野町拡幅工事前に撮影された写真である。2022-02-13
29富士アイス 松田時計店富士アイス 松田時計店この写真は、海野町商店街にある海野町会館が所蔵する一枚である。 一、二枚目が平成11年のアーケード取壊し前、三枚目が昭和41年の海野町拡幅工事前に撮影された写真である。2022-02-13
30海野町会館海野町会館この写真は、海野町商店街にある海野町会館が所蔵する一枚である。 一枚目が平成11年のアーケード取壊し前、二枚目が昭和41年の海野町拡幅工事前に撮影された写真である。2022-02-13
31カメラ東京カメラ東京この写真は、海野町商店街にある海野町会館が所蔵する一枚である。 一枚目が平成11年のアーケード取壊し前、二枚目が昭和41年の海野町拡幅工事前に撮影された写真である。2022-02-13
32キムラ自動車商会キムラ自動車商会この写真は、海野町商店街にある海野町会館が所蔵する一枚である。 一枚目が平成11年のアーケード取壊し前、二枚目が昭和41年の海野町拡幅工事前に撮影された写真である。2022-02-13
33セシモ洋服店セシモ洋服店この写真は、海野町商店街にある海野町会館が所蔵する一枚である。 一枚目が平成16年の新アーケード建設後、二枚目が平成11年のアーケード取壊し前、三枚目が昭和41年の海野町拡幅工事前に撮影された写真である。2022-02-13
34つかだ電機つかだ電機この写真は、海野町商店街にある海野町会館が所蔵する一枚である。 一枚目が平成11年のアーケード取壊し前、二枚目が昭和41年の海野町拡幅工事前に撮影された写真である。2022-02-13
35海野町ふれあいホールちょこっと海野町ふれあいホールちょこっとこの写真は、海野町商店街にある海野町会館が所蔵する一枚である。 一枚目が平成16年の新アーケード開設後、二枚目が平成11年のアーケード取壊し前、三枚目が昭和41年の海野町拡幅工事前に撮影された写真である。2022-02-13
36うえしん海野町支店うえしん海野町支店この写真は、海野町商店街にある海野町会館が所蔵する一枚である。 一枚目が平成11年のアーケード取壊し前、二枚目が昭和41年の海野町拡幅工事前に撮影された写真である。2022-02-13
37上田蚕種協業組合事務棟上田蚕種協業組合事務棟上田市にある蚕種の象徴的な木造二階建て建築。 登録有形文化財(建造物) 上田蚕種協業組合は、1916年上田蚕種株式会社として設立したのが始まり。主要な建物が翌6年に完成。その後、昭和45年から現在の社名となっている。最盛期には22万箱の蚕種をこの組合から出荷していた。 このような建物からのみで22万箱もの量の蚕種が製造されていたことから、その技術高さが感じられる。2022-02-09
38おいだれ焼き鳥の歴史おいだれ焼き鳥の歴史画像:焼き鳥 鳥正 さん 以下より拝借  https://tabelog.com/nagano/A2004/A200401/20000407/ 昭和30年代の高度経済成長期 上田市も活気に溢れるなか、多くの人々が家路につく前の時間を焼き鳥店で過ごしていた。 需要に合わせて焼き鳥店が増える中、上田市の焼き鳥店「鳥正」の初代店主である宮下正三氏が、焼き鳥の新しい食べ方を考案した。焼き鳥にニンニク醤油だれをかけて食べるという方法を、仲間と相談しながら作り上げたといわれてる。 瞬く間にこの食べ方が広まり、今のおいだれ焼き鳥となった。 引用元:https://oidareyakitori.jp/2022-02-09
39上田紬について③上田紬について③上田紬が高級品になった背景 終戦後、まだ衣類が欠乏していた頃、商工省は京都のコブラン機とともに上田紬など数種を、技術保存織物として自由商品に指定した。 などの数種を、技術保存織物として自由商品に指定した。農家の家内生産によって、ほそぼそ自家用を織りだす程度であって、絹紬が機業として再開していく機会が、なかなか熟さないでいた。このとき昭和24~5年頃から、神科出身で元蒙古自治政府最高顧問をされた故金井章次氏は、軍放出の真綿を利用して糸を紡ぐことを提唱、農村副業による手織りのなかから紬織りの再興を考えた。草木染の紬織りを現代に生かそうと苦心をされる一方、草木染料や媒染材の化学研究をされて、生産量の増大や、新販路の開拓のことに努力をはらわれた。江戸時代からの上田縞・上田紬の名声は、特2022-02-09
40第二次世界大戦以後の上田紬第二次世界大戦以後の上田紬第二次世界大戦以後の上田紬 終戦後、まだ衣類が欠乏していた頃、商工省は京都のコブラン機とともに上田紬など数種を、技術保存織物として自由商品に指定した。 などの数種を、技術保存織物として自由商品に指定した。農家の家内生産によって、ほそぼそ自家用を織りだす程度であって、絹紬が機業として再開していく機会が、なかなか熟さないでいた。このとき昭和24~5年頃から、神科出身で元蒙古自治政府最高顧問をされた故金井章次氏は、軍放出の真綿を利用して糸を紡ぐことを提唱、農村副業による手織りのなかから紬織りの再興を考えた。草木染の紬織りを現代に生かそうと苦心をされる一方、草木染料や媒染材の化学研究をされて、生産量の増大や、新販路の開拓のことに努力をはらわれた。江戸時代からの上田縞・上田紬の名声は、特有2022-02-08
41第二次世界大戦以後の上田紬第二次世界大戦以後の上田紬終戦後、まだ衣類が欠乏していた頃、商工省は京都のコブラン機とともに上田紬など数種を、技術保存織物として自由商品に指定した。 などの数種を、技術保存織物として自由商品に指定した。農家の家内生産によって、ほそぼそ自家用を織りだす程度であって、絹紬が機業として再開していく機会が、なかなか熟さないでいた。このとき昭和24~5年頃から、神科出身で元蒙古自治政府最高顧問をされた故金井章次氏は、軍放出の真綿を利用して糸を紡ぐことを提唱、農村副業による手織りのなかから紬織りの再興を考えた。草木染の紬織りを現代に生かそうと苦心をされる一方、草木染料や媒染材の化学研究をされて、生産量の増大や、新販路の開拓のことに努力をはらわれた。江戸時代からの上田縞・上田紬の名声は、特有の風合や柄模様にもあったが2022-02-08
42上田蚕種協業組合事務棟上田蚕種協業組合事務棟大正5年地元の蚕糸業の関係者たちによって設立したのが上田蚕種株式会社だった。現在の事務棟・採卵室など主要な建物が翌6年に完成した。その後、昭和45年から現在の社名となった。最盛期には22万箱の蚕種をこの組合から出荷していた。この場所は養蚕業を支えた歴史ある建物。 「参考文献」 https://museum.umic.jp/bunkazai/document/dot25.html2022-02-08
43アルファアルファこの写真は、海野町商店街にある海野町会館が所蔵する一枚である。 一枚目が平成11年のアーケード取壊し前、二枚目が昭和41年の海野町拡幅工事前に撮影された写真である。2022-02-08
44いも平いも平この写真は、海野町商店街にある海野町会館が所蔵する一枚である。 一枚目が平成11年のアーケード取壊し前、二枚目が昭和41年の海野町拡幅工事前に撮影された写真である。2022-02-08
45キクチ洋装店キクチ洋装店この写真は、海野町商店街にある海野町会館が所蔵する一枚である。 一枚目が平成11年のアーケード取壊し前、二枚目が昭和41年の海野町拡幅工事前に撮影された写真である。2022-02-08
46銀座食堂銀座食堂この写真は、海野町商店街にある海野町会館が所蔵する一枚である。 一枚目が平成11年のアーケード取壊し前、二枚目が昭和41年の海野町拡幅工事前に撮影された写真である。2022-02-08
47上田紬が庶民的なものから高級品になるまで~戦後以降~上田紬が庶民的なものから高級品になるまで~戦後以降~第二次世界大戦以後の上田紬 終戦後、まだ衣類が欠乏していた頃、商工省は京都のコブラン機とともに上田紬など数種を、技術保存織物として自由商品に指定した。 などの数種を、技術保存織物として自由商品に指定した。農家の家内生産によって、ほそぼそ自家用を織りだす程度であって、絹紬が機業として再開していく機会が、なかなか熟さないでいた。このとき昭和24~5年頃から、神科出身で元蒙古自治政府最高顧問をされた故金井章次氏は、軍放出の真綿を利用して糸を紡ぐことを提唱、農村副業による手織りのなかから紬織りの再興を考えた。草木染の紬織りを現代に生かそうと苦心をされる一方、草木染料や媒染材の化学研究をされて、生産量の増大や、新販路の開拓のことに努力をはらわれた。江戸時代からの上田縞・上田紬の名声は、特有2022-02-08
48海野町ふれあいサロン海野町ふれあいサロンこの写真は、海野町商店街にある海野町会館が所蔵する一枚である。 一枚目は平成16年の新アーケード開設後、二枚目は平成11年のアーケード取壊し前、三枚目が昭和41年の海野町拡幅工事前に撮影された写真である。2022-02-08
49堀内紙店堀内紙店この写真は、海野町商店街にある海野町会館が所蔵する一枚である。 一枚目が平成11年のアーケード取壊し前、二枚目が昭和41年の海野町拡幅工事前に撮影された写真である。2022-02-07
50仲よし衣裳店仲よし衣裳店この写真は、海野町商店街にある海野町会館が所蔵する一枚である。 一枚目が平成11年のアーケード取壊し前、二枚目が昭和41年の海野町拡幅工事前に撮影された写真である。2022-02-07
51電化~国営化電化~国営化昭和2年に富士―身延間、昭和3年には身延―甲府間の全面開通と同時に電化が完了した。この電化により、汽車運行時より約半分の時間で運行できるようになり、2年の間に旅客人数、旅客収入がともに2倍以上になり利用者が電化をどれだけ待ちわびていたかが分かる。 しかし、その後の会社経営は良好でなかった。その主な理由として、沿線の集落人口が多くなかったこと、身延参詣の乗客が予想以上に増加しなかったこと、工事など建設、設備費への投資によって運賃を上げてしまったことが上げられる。それだけでなく東海道線と中央線の接続線としての利用客が予想以上に多くなかったこと、山間部の土砂崩れや暴風雨による線路の補修工事による出費が重なったこと、そして世界恐慌により貨物輸送が伸び悩んだこと、これらの状況が重なっ2022-02-06
521路線だけ生き残った鉄路1路線だけ生き残った鉄路長野県上田盆地には始め五つの路線が張り巡らされていた。車社会の進展にともない昭和40年代までに次々と廃止となったが、唯一残ったのが別所線であったという。 しかし、昭和48年、輸送人員の減少を理由に上田交通が廃線を表明した時があった。沿線住民による存続運動が起こり、翌49年、国と県による鉄道軌道欠損補助の公的支援とともに、上田市が3年間の補助金を交付することで、別所線存続が決まった。3年後の昭和52年にも、沿線住民により存続運動が行われたが、この時点では上田交通の営業努力で赤字幅が減少していたため、廃線を免れている。 [参考文献] https://www.mintetsu.or.jp/association/mintetsu/pdf/63_p26_27.pdf [写真] https://www.city.ueda.nagano.jp/site/besshosen/5563.html2022-02-06
53サントミューゼができる前サントミューゼができる前サントミューゼは、昭和24~56に操業していたたばこ産業(株)の上田工場(JT)跡地だそうだ。JTから工場跡地の活用を上田市に打診し、再開発が行われ公共ゾーンとして建てられたのがサントミューゼだ。また、JT以前、上田が蚕都として栄えていた頃は金紡の上田工場だったらしい。上田市マルチメディア情報センターのYouTubeでは、当時の様子を見ることができる。工場で働く女性の姿、彼女らが広場でダンスする様子、少し映り込んだ上田城などが映像で記録してあった。2022-02-02
546 松根油の生産について6 松根油の生産について画像は「長崎ディープブログ「長崎街道11~松並木と松根油と」」から転載 http://blog.nadeg.jp/?eid=43&imageviewer&image=20171028_726412.jpg 年表・数字からひもといた中で、特に「航空燃料用の松根油」の生産に関して注目したいと感じた。 興味を感じた理由は下記の二つである。 ①自分の生まれ育った地域、しかも長野県の山の中で航空機の燃料を作っていたことを全く知らなかった。日本の山奥で航空燃料を生産するに至るまでに、どのような経緯があったのか調べたい。 ②のちに記すが、坂井村誌内の記述によると、私の実家の近く、小学校の通学路の橋の袂で生産を行っていたらしい。そのためより身近に感じた。

村誌内の記述

下記は坂井村誌内に記述されている、松根油に関する記述である。 -------------------- 松根油 昭和20年に入ると、松根
2022-01-29
555 数字からひもとく5 数字からひもとく昭和16年 関東軍特別大演習 →兵力約70万が動員(wikipediaより) →坂井村からは予備役・後備役補充兵役の16名が召集。軍服ではなく作業衣や浴衣を着て部隊に集合せよという状態であった。(村誌より) 日支事変以来の大戦での坂井村の戦没犠牲者 108名(村誌より) →昭和22年の臨時国勢調査による統計によると、昭和21年の坂井村総人口は2,998人 →正確な数字ではないが、人口のおよそ3%が戦争によって命を落とした2022-01-29
568 参考文献等8 参考文献等・坂井村誌(坂井村・平成四年三月三十日) ・Wikipedia「坂井村(長野県)」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E4%BA%95%E6%9D%91_(%E9%95%B7%E9%87%8E%E7%9C%8C) (2022年1月29日最終閲覧) ・パラパラ地図長野県(2005年10月1日)http://mujina.sakura.ne.jp/history/20/index2.html (2022年1月29日最終閲覧) ・まんが日本昔ばなしデータベース「うばすて山」 http://nihon.syoukoukai.com/modules/stories/index.php?lid=28 (2022年1月29日最終閲覧) ・コトバンク「国民精神総動員運動」 https://kotobank.jp/word/%E5%9B%BD%E6%B0%91%E7%B2%BE%E7%A5%9E%E7%B7%8F%E5%8B%95%E5%93%A1%E9%81%8B%E5%8B%95-64263 (2022年1月29日最終閲覧) ・e-Stat「国勢調査 / 昭和22年臨時国勢調査 / 全国都道府県郡市区町村別人口(確定数)」 https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?page=1&layout=datalist&toukei=00200521&tstat=000001036870&cycle=0&tclass1=000001037104&stat_infid=00000791452022-01-29
574 年表からひもとく4 年表からひもとく坂井村誌内の年表を一部引用し、特に重要な部分をまとめた。

昭和12年(1937年)

盧溝橋事件が勃発。村内の予備兵に召集下令があり、村内に一気に緊張感が流れた。 ・銃後後援会(後に奉公会)結成、村防護団結成・応召家庭の農作業奉仕。 ・軍の指示により、初めて防空演習が行われる。 ・国防婦人会結成(全村)、国民精神総動員長野県実行委員会(会長・県知事)坂井村支部(支部長・村長)結成。 ⇒日中全面戦争の開始に伴って始められた、国民の戦争協力を促す官製国民運動。「精動」と略されることもある。1937年(昭和12)8月第一次近衛文麿(このえふみまろ)内閣は「国民精神総動員実施要綱」を閣議決定し、同年10月「挙国一致、尽忠(じんちゅう)報国、堅忍(けんにん)持久」のスローガンのもとに国民精神総動員
2022-01-29
582 探求にあたり2 探求にあたり・今回の探求では日中戦争から太平洋戦争にかけて(昭和12年ころ~昭和20年)を対象として調査する ・主な資料として「坂井村誌」を参考文献とする ・はじめに年表から紐解いていき、特に気になった点について深堀していきたい2022-01-29
59美味だれ焼き鳥の歴史美味だれ焼き鳥の歴史日本が高度経済成長期だった昭和30年代、上田市の産業も大きく発展していました。まちは働く人たちで活気にあふれ、その活気は仕事終わりの時間も収まることはありませんでした。そんな活気ある時代、上田では多くの人が家路に着く前の時間を焼き鳥店で過ごしていました。そして、家で待つ家族のためにその焼き鳥をお土産に持ち帰るというのも日常的な風景のひとつでした。 需要とあわせて焼鳥店の数も次第に増えるなか、鳥正の初代店主である宮下正三氏が、焼き鳥の新しい食べ方を考案。焼き鳥にニンニク醤油だれをかけて食べるという方法を、仲間と相談しながら作り上げたといわれています。その食べ方は見る見るうちに上田中に広がり、新しく店を出す人々も、タレの味を覚えるために修行に入ったり、味を盗むために通い詰めたり2022-01-28
60じまんやきの歴史と比較じまんやきの歴史と比較引用 「あんこ」と「カスタードクリーム」どちらがお好き?「じまんやき」の「富士アイス」 ~上田市海野町商店街6~ https://blog.nagano-ken.jp/wp/josho/wp-content/uploads/2015/09/20fuji2.jpg じまんやきは上田市のソウルフードの1つになっている。 じまんやきは海野町商店街の一角の富士アイスで売られている。じまんやきを作っている富士アイスの本店は山梨県甲府市に本店を置いている。富士アイス上田店は昭和10年に開業し、長野県で一番古参の店になっている。富士アイスは創業当初は富士屋という店名だった。富士アイスの富士は日本一の山を自慢している富士山に由来する。 次にじまんやきについて解説します。じまんやきは「自慢の味。自慢したくなる味。」から由来しています。 じまんやきは1個80円とリーズナブルな価格であり、太鼓上に2022-01-27
61上田電鉄株式会社の沿革上田電鉄株式会社の沿革・大正5年9月17日 丸子鉄道株式会社 設立 ・大正9年1月5日 上田温泉軌道株式会社 設立 ・昭和14年8月30日 商号変更 上田電鉄株式会社 ・昭和18年10月21日 丸子鉄道株式会社と上田電鉄株式会社合併(商号 上田丸子電鉄株式会社) ・昭和44年5月31日 上田丸子電鉄株式会社を上田交通株式会社に商号変更 ・昭和47年6年30日 城下駅を無人化 ・昭和47年7月7日 中塩田駅を無人化 ・昭和61年9月30日 上田原駅無人化 ・平成17年10月3日 上田交通株式会社より分社 上田電鉄株式会社 設立 このように、上田電鉄株式会社は路線の縮小などにより会社規模を小さくしたり、子会社を合併したりと時代によって進化してきた。現在は東急グループの傘下に入っている。 [参考文献・写真] 上田電鉄株式会社ホームページ https://www.uedadentetsu.com/2022-01-27
62犬もヒトと同じ扱い!?犬もヒトと同じ扱い!? ヒトだけが戦争に動因されるのではなく犬も戦争に協力させられてた!? 今でこそペットというイメージが強いが当時は軍犬になっていた… ヒトだけでなく犬も戦争には散々… 参考文献:https://www.city.sapporo.jp/kobunshokan/kankobutsu/documents/ronkou3-2.pdf 写真4-2 勝つために犬の特別攻撃隊を!と呼びかける隣組回報 昭和19年11月 八王子市郷土資料館提供2022-01-26
63温泉の歴史温泉の歴史別所温泉は1400年続く信州最古の温泉と言われており、歴史で確認できるのは825年(天長2)からで、人々の旅の疲れを癒やす憩いの場として各地に知られるようになったと考えられています。 1547(天文17) 大湯普請 1622(元和8) 大湯・玄斎湯・お茶屋が藩主湯治利用施設となる。         (湯治とは温泉宿に長期滞在して病気治療を行うこと) 1881(明治1) 年間宿泊・入浴客が2万2千2百人 1902(明治35) 別所温泉事務所開設。 1933(昭和8) 別所温泉協会創立。 1960(昭和32) 大湯改装工事 2008(平成20) 旧あいそめの湯が3月30日で撤退。         新あいそめの湯5月2日より開館営業。 2012(平成24) 足湯大湯薬師の湯完成。   そして別所温泉とその周辺には多くの「国宝」「重要文化財」級の文化遺産が残され、文化財の宝庫として全国2022-01-26
64ため池の数ため池の数塩田平のため池数は、個人利用の小池まで含めると200余りあり、これらが拡大または新たに構築されたことで、しだいに大規模な池に統合された。 昭和50年代の「溜池施設台帳」には、東塩田112、富士山5、中塩田10、西塩田10、別所1の141池が登録されている。 塩田は地元よりもため池が多い印象だったが、141ものため池があるのは予想外だった。雨量の少ない地域であるため、多くのため池が塩田の農業には必要なのだろう。 〈参考文献〉 信州上田 塩田の里 http://www.shiodanosato.jp/tameike/mukashi.php2022-01-26
65上田映劇の歴史 昭和まで上田映劇の歴史 昭和まで1917年に末広座跡に上田劇場が開館した。  当時は芝居、落語、講談、浪曲、歌謡などが催された。  上田劇場の前身となるのは末広座だが、末広座の開館日は不明である。  しかし、1912年の上田町地図に末広座、中村座が載っているとのことから 1912年以前に開館されていたと思われる。 1922年に発行された「上田市街明細図」に上田劇場、上田電機館、中村座が載っている。  1919年に「上田演芸館」というのも開館されたとされているが  詳しい場所の情報が無いため、上田市街明細図から探し出すことが困難だった。 昭和初期(1926~1932?)頃に上映するものを映画中心とし、 上田映画劇場と名称を変更。 1960年代後半 映画の人気がピークに至る。 1964年 桟敷(さじき)席から現在の椅子席(270席)に改築された。 映画館の話題から少2022-01-26
66信州大学繊維学部資料館(旧貯文繭庫)信州大学繊維学部資料館(旧貯文繭庫)信州大学繊維学部の母体である官立上田蚕糸専門学校は、日本が工業立国として台頭しようとした明治43年(1910年)に、蚕糸に関する初の口頭教育機関、また、長野県初の国立学校として設立された。そのあと、繊維科学技術全般にわたる高等教育機関に発展し、昭和24年」(1949年)の学制改革により信州大学繊維学部として現在に至っている。2022-01-26
67美味だれを深く掘り下げる。美味だれを深く掘り下げる。すりおろしたニンニクが入った醤油ベースのたれに焼き鳥をつけたり、焼き鳥にたれをかけたりして食べるものである。昭和30年代に、上田市内の焼き鳥店で考案され、市内の家庭や店舗に広まったとされる。さらに、たれにすりおろしたリンゴが加えられるなど、店舗ごとに個性的な味が生まれていった。2022-01-25
68上田工業の歴史上田工業の歴史①蚕のまち上田 江戸時代の末期から昭和にかけて、長野県経済は蚕糸業に支えられていた。上田はそんな長野県中でもいわゆる「蚕都」として名をはせていた。その要因としては、扇状地や河岸段丘の発達により桑の栽培適地であったこと。また、雨が少なく乾燥した気候が蚕の飼育に適していたこと。そして全国にさきがけて開校された、小県蚕業学校(現在の上田東高校)や上田蚕糸専門学校(現在の信大繊維学部)などによる蚕業教育が充実していたことが挙げられる。 ②精密機械工業へのシフト 長野県が戦前から養蚕・製糸業に代えて精密機械工業へと産業育成の重点をうつし、かつ終戦後の1960年代には高度経済成長で商工業が発展したこともあり、上田の蚕糸業(養蚕、蚕種、製糸)も例外なく衰退を迎えた。しかし蚕糸業で培われた技術的2022-01-25
69戌の満水とは戌の満水とは長野県千曲川流域の歴史的な洪水として、仁和4(888)年の洪水、弘化4(1874)年の善行寺地震の後の洪水がよく知られている。ところが、寛保2(1742)年の洪水「戌の満水」は、全国的にも近世以降最大の水害と呼ばれているのに知らない方が多い。 その理由の一つとして、昭和16(1941)年に連続堤防が完成、大きな水害が激減し流域住民の洪水への恐れ、関心が急激に薄れてきていることが挙げられる。しかし、寛保の洪水が「未曽有の水害」「前代未聞の水害」といった表現のまま、流死者など具体的な被害実態が集計されてこなかったため、訴える力が弱かったこともある。 流死者は2800人前後に達することが明らかになり、長野県内で被害が大きかった「三六災害」の死者は107人、不明が29人である。現在の2022-01-24
70金具屋金具屋こちらの宿はあの千と千尋の神隠しのモデルともなったとされている温泉旅館である。前身が鍛冶屋であったことから「金具屋」と名付けられた。なかでも有名なのが登録有形文化財に指定されている「斉月楼」。昭和11年に完成した木造4階建ての建物で、釘をほとんど使用せずに気の組み合わせによりつくられて、現在も客間として利用されている。また、そこにある大広間も登録有形文化財に指定されており、館内はとても歴史を感じるような重厚感ある造りとなっており、一度は泊まってみたい宿といえるだろう。2022-01-23
71平和観音(世界平和聖観世音菩薩)平和観音(世界平和聖観世音菩薩)112段の石段の先に平和観音と呼ばれる重さ約22t、全長約25mにも及ぶ銅像がある。雪のなかということもあり、石段が滑り大変だった。昭和39年に完成し、金属製の観音像としては東洋最高らしい。実はこの像は2代目で、昭和初期に33mの「聖観音菩薩」が建立されたが、戦争のため台座を残して解体されてしまったという。下から見上げる平和観音は写真では伝わりきらない迫力なので、是非実際に訪れ体感していただきたい。 また、境内から上につながる階段を上ると、地震除け、金運をもたらす石仏として信仰されている「弥勒石仏」(みろくせきぶつ)があった。こちらも雪がたくさん積もっており大変で、石仏は猿がいたずらをすることから扉が閉ざされていた。2022-01-23
72湯田中駅周辺~楓の館・楓の湯~湯田中駅周辺~楓の館・楓の湯~楓の館は昭和2年4月28日に開業した旧湯田中駅舎をリニューアルしたものである。 旧湯田中駅舎は志賀高原につなんだ山小屋風で、当時としてはとてもモダンで大変人気であった。 現在は駅舎としては利用されておらず、交流室や展示室として利用されている。 国土の歴史的景観に寄与しているとして、昭和2年に有形文化財に登録された。 この旧駅舎に楓の湯と呼ばれる温泉が隣接している。大人は300円で入湯できる。 またその旧駅舎前には無料で解放されている足湯がある。筆者は保育園の頃遠足で訪れ入った記憶がある。2022-01-23
73忠魂碑(御影)忠魂碑(御影)御影区内の成田山境内に建立されている。 昭和27年10月10日再建と刻まれている。 大正4年の『北佐久郡志』の第四編町村篇の南大井村の記述(152ページ)によるとここに再建される以前は和田にあったようである。 「九、兵事  〇忠魂碑 大字和田字北原甲州街道の北側にあり、砲弾形の石碑にして表面明治三十七八年戦役忠魂碑の題字は乃木大将の筆にして、明治四十一年四月の建設。」2021-12-28
74狛犬(鹿嶋神社)狛犬(鹿嶋神社)鹿嶋神社の狛犬は東京市京橋區月の長谷川昌蔵氏が寄進し、昭和十八年五月に竣工したもの。2021-12-23
75上田の蚕種業上田の蚕種業【上田の養蚕業】 江戸の末期から昭和にかけ、全国一の養蚕地帯でった長野県。特に上田地方は千曲川から広がる桑の栽培に適した地形と降水量の少ない養蚕に適した気候、そして蚕種の改良から日本一の蚕種製造地帯であった。中でも上田盆地は春蚕の生産地であり、松本盆地の夏秋蚕と対比されていた歴史がある。 【上田の蚕種の歴史】 -蚕種の始まり- 長野県では上田地方がいち早く、藤本善右衛門家によって1661年~1673年に蚕種製造がはじめらた。 上田地方の蚕種製造は ①奥州産蚕種を仕入れ販売(仕入種) ②奥州へ出向き蚕種製造(手作種) ③自家製造(地種) と順を追って成長し全国に販路を広げていく。 -蚕種製造が盛んになった背景- ① 江戸時代、経済が発達による養蚕業や織物業の奨励 ② 蚕種・養蚕・製糸の分業化 この2021-12-22
76上田城散策② 本丸東虎口上田城散策② 本丸東虎口上田城後のシンボルとされ、昭和34年に長野県宝に指定されているという本丸東虎口。そう言われているだけあって迫力がすごかった。2021-12-21
77「青少年学徒に賜りたる勅語」(『西塩田時報』第190号(1939年9月1日)1頁)「青少年学徒に賜りたる勅語」(『西塩田時報』第190号(1939年9月1日)1頁)昭和天皇の勅語を掲載した記事。この前年に国家総動員法が発令されたことがあり、これを含めて戦争一色となっていることがわかる。また、この日はドイツのポーランド侵攻により第二次世界大戦が勃発した日であり、欧州においても戦乱が広がり始めることになるが、それ以前よりこのようにあらゆる分野の記事で挙国一致、戦時体制の確立を訴えていることは、日中戦争がいかに長期化していったことを示すものだと考えられる。2021-12-14
78ああ、感激の優勝旗(『西塩田時報』第204号(1940年10月31日)6頁)ああ、感激の優勝旗(『西塩田時報』第204号(1940年10月31日)6頁)この資料は、上田市営運動場という場所で行われた体育大会の様子を記している。上田市営運動場という場所を調べて見たがどの施設のことを指しているのかがハッキリしなかった。というのも、この運動会が開催された昭和15年(1940年)には上田城跡公園陸上競技場はあったが、当時から陸上競技場という名で呼ばれていたと思われるため(勝俣英吉郎の銅像に記されている碑文に陸上競技場と記されていることから)、運動場という名前で新聞に載せるかどうかが怪しいと判断したためである。この体育大会では現在も競技として残っている100M走や800Mリレーの他に、バトンの代わりに俵を用いたリレーや手榴弾投という現在にはあまり聞かない競技が記されている。 現在の新聞では大会が開催されたことを掲載する際は、結果しか載せないことが多い2021-12-13
79菅平ダム菅平ダム上田の降水量が少ないために、昭和41年から昭和43年にかけて建設されたダム。 菅平発電所もともに建設された。 あまり水が貯まっているようには見えなかったが、降水量が少ないからなのだろうか。 長野県公式HPによると、5月初旬ごろに満水になり、放流も運用開始から10数回程度しかしていないそう。 全国でもまれな利水ダムということで、発電や灌漑に使われている。2021-12-01
80博物館訪問 蚕糸博物館訪問 蚕糸撮影が不可だったため見せることは出来ないが、昭和43年4月に上田蚕糸専門学校が開校された際に記念として残された袱紗(ふくさ)が展示されていた。 また、明治から昭和戦前にかけて上田で発行されていた蚕業雑誌類が8点ほど展示されていた。色つきで可愛かったし、この頃に蚕糸が盛んだったことがよくわかった。2021-11-15
81北向観音北向観音別所温泉駅に到着し、まず初めに訪れたのは北向観音。境内には樹齢1200年の「愛染桂」が立っており若者たちからは縁結びの霊木として親しまれている。また、こちらは昭和14年に長野県の天然記念物に指定された。 お堂はとても厳かな雰囲気に包まれていた。本堂が北を向いたものはほとんど例がなく、「北向観音」という名称はこれに由来するという。長野県で有名な善光寺が来世住生を願うのに対し、北向観音は現世利益を願うとされており、向き合っている両方をお詣りした方がいいと言われている。 またこのお堂の対角には、額堂と呼ばれる絵馬堂が建っており、現在は仁王像が建っていた。2021-11-14
82上田橋上田橋上田橋…?どこかで聞いたような。 そう、この橋、上田大橋と一文字違いの名前をしています。「大」があるかないかの差ですね。 上田大橋に名前負けしているようにも思えてしまいますが、上田橋は竣工昭和45年という上田市最古の橋という歴史が特徴!長寿橋としてこれからも頑張っていただきたいですね。 また、アリオや上田城に最も近いのもこの橋です。2021-11-13
83渋沢栄一小諸特別公演(大正6)全文、及び読み取り文渋沢栄一小諸特別公演(大正6)全文、及び読み取り文明治期から昭和初期にかけて日本の最も有名かつ重要な実業家の一人である渋沢栄一(1840-1931)が大正6(1917)年に小諸を訪れ、特別講演をした時の速記記録です。なお、当記事におけるPDF資料は渋沢栄一記念財団様より、著作権の保護期間がすでに満了している他、渋沢栄一関連情報の収集と保存・活用を目的とした使用に対するご了承を頂いた上公開しています。左に読み取り文、右に全文(原文ママ)が掲載されています。2021-10-25
84大里時報大里時報北佐久郡大里村青年団の発行物 昭和24年3月10日第1号発行2021-09-28
85上田染谷丘高等学校上田染谷丘高等学校この写真は、海野町商店街にあるすや呉服店が所蔵する一枚である。 明治34年「小県郡立上田高等女学校」として設立された。写真の建物が建てられたのは、現在の上田城跡公園の東側、清明小学校がある場所である。 明治42年には女子中等教育の充実を図るため、郡立から県立へ移管され、「長野県立上田高等女学校」と変更された。 大正 5年に校舎は、上田城近くの丸堀校舎から、上田町鍛冶町裏の新校舎へ移転となった。 現在の「上田染谷丘高等学校」になったのは、昭和 23年4月である。2021-07-24
86生島足島神社生島足島神社生きとし生けるもの万物に生命力を与える「生島大神」と、生きとし生けるもの万物に満足を与える「足島大神」の二神が祀られ、摂社(下社・下宮)には諏訪大神が祀られる信濃屈指の古社です。 御本殿は神池に囲まれた神島の中にまわりを老樹に囲まれて建っています。御扉の奥には御室と呼ばれる内殿(室町期建立)があり、内殿には床板がなく大地そのものが御神体(御霊代)として祀られています。この池を巡らせて神域とされる島をつくる様子は「池心の宮園池(いけこころのみやえんち)」と称され、出雲式園池の面影を残す、日本でも最古の形式の一つとされるものです。現在の社殿は昭和15年に国費をもって竣工したものです。内殿は平成10年9月「県宝」に指定されました。 また、ドラマや撮影に使われることもあり秋になると周りの山々2021-07-24
87真田神社真田神社城門を通るとすぐにある真田神社は、松平氏を祀ってあった松平神社だったが、太平洋戦争後に歴代城主である真田氏と仙石氏も合祀されて上田神社となり、昭和38年に真田神社と改称されました。真田の知謀にちなんで、学業成就にご利益がある神社と言われています。その影響もあってか、神社を入って左側にある絵馬には学業成就に関した内容のものが吊り下げられていて、またその場所を写真スポットとしてもお客さんに提供している。記念写真をとる場所としても人気であります。2021-07-23
88愛染カツラ愛染カツラ樹齢1200年の老木で若い人からは縁結びの木と呼ばれています。天長の昔、常楽寺の火坑出現の観世音菩薩が影向した霊木といわれています。昭和14年6月5日、長野県の天然記念物に指定されました。見た目から長い月日が思い浮かぶほど貫禄があり、見るだけで自然と力をもらえます。2021-07-23
89別所温泉駅別所温泉駅別所温泉駅は1921年(大正10年)に上田温泉電軌川西線の「別所駅」として開業したのが始まりで、1924年(大正13年)には「信濃別所駅」に改称、さらに1930年(昭和5年)になって「別所温泉駅」と改称された。レトロな見た目でかわいいので、写真映えします。2021-07-23
90上田の人物伝一覧(『上田市史』1940から)上田の人物伝一覧(『上田市史』1940から)上田市史・下巻(1940)』の「社寺古墳及人物誌/人物篇」をハイパーメディア化。(長野大学「マルチメディア論」2020/2021実習で分担作成) 人物01 真田昌幸
 真田一徳斎幸隆の第三子、天文十六年生る。 人物02 真田信之
  真田昌幸の嫡男、永禄九年生る。母は寒松院三修氏、幼名を源三郎と言ふ。 人物04 真田幸村
 幸村は正幸の代二子、永禄十一年生ると云う。 人物05 仙石政俊
 先の小諸城主後上田城主たりし仙石忠政の
2021-07-21
91人物88 くさ女人物88 くさ女房山村博助の女なり。 昭和四年四歳にして野武村の四郎兵衛の養女となる。 明年四郎兵衛死し養母の手に育てられる。 『上田市史・下巻(1940)』1301頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌  人物篇2021-07-17
92人物68 飯島保作人物68 飯島保作文久三年九月二十一日市内横町佐兵衛氏の長男として生る。(略) 昭和六年六十三銀行と合併し八十二銀行(資本金壱千五百萬)圓を創立して、其頭取となり、前途尚氏の手腕と要する多々ある際に於て、病に冒され昭和六年七月廿六日、遂に逝去せしは惜むべき事なりき。(略) 『上田市史・下巻(1940)』1286、1287、1288貢を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌  人物誌2021-07-14
93小県蚕業学校-1小県蚕業学校-1小県蚕糸学校は日本初の中等教育機関としての蚕糸学校として1892(明治25)年に設立されたが、その初代校長となった三吉米熊は、坂本龍馬と行動を共にした活動家として知られる三好慎蔵の子として生まれ、1881(明治14)年に長野県に出仕した。農芸化学専攻で当初は蚕糸業の知識が全くなかった米熊であったが、上塩尻村の藤本家で実習を重ね、微粒子病における顕微鏡使用法の提唱及び指導など実績を残した。またこうした実績を基に1888(明治21)年にはイタリア・フランス蚕糸使節団の一員としてヨーロッパに赴き、現地の試験場や製糸場などを徹底的に視察してその実情を知る。こうした中、小県郡では郡長の中島精一を中心に蚕業界で蚕業学校設立の機運が高まり、その初代校長に米熊を推薦する声が蚕種業者らの間で広がった。これにより前述の2021-06-06
94公文書館展示 上田町から上田市へ公文書館展示 上田町から上田市へ上田市公文書館を訪れた際に、公文書館展示ということで、「上田町から上田市へ~明治22年の上田町誕生から大正・昭和(戦前)までの歩み~」というタイトルで、写真パネルや原本資料、上田町が誕生した時の文書などが展示されていました。これらを見て、私はまず上田市が誕生する前は上田町であったことを初めて知りました。地元民であるにもかかわらず、やはりまだ知らないことがたくさんあったと思うと、とてもいい機会になりました。そして、その当時に書かれた文書なども置いてあり、今となってはとても貴重なものであると改めて感じました。そして、このような貴重な資料があることをまずはもっと地元の人に知ってもらいたいとも感じました。2021-05-25
95樋之詰(とよのつめ)樋之詰(とよのつめ)別所温泉石湯から森林公園へ至る道の最中に突如として現れる野湯(?)。 これは正式名称を樋之詰(とよのつめ)と言い、湯川をボーリングした源泉をポンプによって揚湯し、近隣住民の生活用水として供しているもののようです。 水温はおよそ20.4℃、pHは8.95。泉質はほかの別所温泉群と同じく、単純硫黄泉と思われます。 民家の真横という立地も相まって浴びたり入ったりはまず不可能。 開湯時期は不明。 別所温泉の歴史は古く、その多くの期間を源泉の自然湧出のみで乗り越えてきました。 しかし、別所温泉源泉の湧出量は年々減少し、それに対する策として昭和30年頃からボーリングによる掘削が行われました。樋之詰もその開発の一環で開発されたものだと思われます。2021-05-06
96金次郎金次郎岩国市にある、生肉専門店の焼き肉屋さんです。 めちゃくちゃお値段が張りますが、行く価値あります。 店内はレトロで、平成生まれですが昭和のなつかしさを感じます。2021-05-05
97やまざきややまざきや昭和31年創業の和菓子屋。代表的な商品はおやき。でも私のおすすめは店頭販売限定のお団子。とにかくおいしい。小さいお店だが、お店の前を通るといちも人が並んでいる。子どもの日やひな祭りの時期になると特に混んでいる。2021-05-05
98ニコニコ亭ニコニコ亭大学前駅から徒歩約5分の場所にあるレストラン。昭和レトロで落ち着く雰囲気。メニューも豊富。平日日替わりランチもある。2021-05-05
99木の電柱木の電柱木の電柱を見つけた。 昭和30年代までの電柱は、木製丸太だったそうだ。 一瞬、目を疑った。けれど、歩いていくと結構な数の木の電柱があった。普段全然、地域を見ていないんだな~と感じた。2021-05-05
100ローメン専門店 シャントンローメン専門店 シャントン昭和30年代に創業したローメン一筋の専門店です。 地元の人からも定評があり、マトンのお肉が癖になります。 ローメンは自分で味を加えるため薄味で出てきます。 量は中盛りでも多く感じますが、あっさりしているため食べやすいです。2021-05-05
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