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1鯉こく鯉こく佐久市の郷土料理。二毛作の難しい佐久平では、水田を利用した鯉の養殖が行われている。「鯉こく」は大胆に筒切りにして味噌で煮た汁物で、砂糖や山椒を入れたり、鱗を取らないなど、調理方法は地域や家庭によって様々である。お正月によく食べられており、「病気をせず1年健康に過ごせるように」という思いが込められている。 [鯉こく 長野県 | うちの郷土料理:農林水産省](https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/koikoku_nagano.html)より引用2023-01-28
2平成の食平成の食山菜や雑キノコは、傾向としては採らなくなった人が多いようだ。しかし、趣味的な面も伴って、わざわざ上田地域外に出向き、採っている人もいる。タンパク源としてのイナゴ、ドジョウ、タニシなどは数も減り、食べられなくなった。その背景には水田への農薬散布が関係しているとのこと。肉や主に海の魚は店で買えるようになったため、その種類が増えたり、以前よりも多く食べられるようになった。。2023-01-26
3手洗池(てあらいけ)手洗池(てあらいけ)手洗池には二つの名前の由来がある。こららを紹介したいと思う。 昔、柳沢村(現上田市古安曽)に幹が6メートルもある大きなけやきの木がありました。ある秋、このけやきの木の枝が折れてしまい、村人は何か変わったことが起きるのではないかと心配していました。すると翌年の夏、すさまじい嵐が起こりました。このため山のほとんどの木が風や落雷のために倒れてしまい、村人は途方に暮れました。さらにこの年も大きなけやきの木の枝が折れてしまい、その翌年もまた大荒れに見舞われました。村人たちは、大きなけやきのせいではないかと考えるようになり、どのようにしたらよいか考えていました。 ちょうどその時、木曽義仲に仕えていた手塚太郎金刺光盛という人が、丸子のお城から手塚へ帰る途中、柳沢を通られましたので、相談した2022-01-26
4ため池の歴史①ため池の歴史①塩田には多くのため池がみられる。その理由は降水量と土地が関係している。上田市は年間降水量が全国で最も少なく、その中でも塩田平は最少の地域であった。しかし、気温も低すぎず肥沃な土地で、水田農業に最適の地域だった。そこで農民は農業用水を確保するためにため池を作ることにしたのだ。この地域の土壌が粘土質で、ため池の土地を作るのに好都合だったことも影響していたのだろう。 〈参考文献〉 信州上田の里 塩田の里 http://www.shiodanosato.jp/tameike/rekishi.php2022-01-26
5地元の食文化地元の食文化 私が今回焦点を当てたテーマは、佐久市で食されている、鯉や鮒といった県外では食用として馴染みが少ない食材に焦点を当てました。  佐久鯉の歴史は古く、江戸時代、天明元年に佐久桜井村の臼田丹右衛門が、「大阪淀川産」から親鯉数尾を佐久に持ち帰り飼育したことが始まりとされています。交通網が発達していない時代、内陸県の佐久市において、鯉は貴重なたんぱく源であり、当時から人々が集まるような大きな席では必ずと言っていいほど並んでいたほどなので、当時の時点でかなり浸透していたと考えられます。  鯉自体、他の魚の中でも群を抜くほど栄養素が高くも中国では古来から「薬用魚」と言われており、重宝されていたそうです。  そして鯉や鮒が佐久市に根付いた他の理由として佐久市は当時主流であった二毛作が難し2022-02-08
6[上田市に本社を持つ企業⑥]松山株式会社[上田市に本社を持つ企業⑥]松山株式会社関連会社など(国内):県内三つ・北海道・宮城・栃木・岡山・熊本・宮崎 主力製品:水田や畑の改良整備や耕起などの用途の作業機 参考資料 ニプロ 松山株式会社(https://www.niplo.co.jp/) 松山株式会社 取締役社長 松山 信久  2021/12/13参照2021-12-20
7大正二年上田町市街図大正二年上田町市街図測量による地図が作成されるようになったため、方位・縮尺が地図に記入されるようになり、凡例にある地図記号も用いられるようになった。しかし、かなり簡略化された地図だ。地図からは、市街地の周囲は水田や畑が広がっていたことがわかる。 大正期の上田は、養蚕業とその関連産業が隆盛を極めており、市街地北方に「大星川原種桑園」、南方に「鴨池種桑田」などの広大な桑園が見られる。 また、「上田蚕糸専門学校」(現信州大学繊維学部明治44年開校)、「小県蚕業学校」(明治25年開校、大正12年現在の上田東高校の地への移動)も見える。2021-11-17
8SUIDEN TERRASSESUIDEN TERRASSE庄内地方ならではの水田から着想を得て生まれたホテル。 館内のどこにいても田んぼの気配を感じることのできるようなデザインになっている。2018年9月19日にオープンされた。 食事にも地元の特産物がふんだんに使用されている。温泉や図書スペース、バーなども完備されているホテル。2021-05-05
9塩尻村大字上塩尻字信福寺/宮田全図(地籍図[旧公図])塩尻村大字上塩尻字信福寺/宮田全図(地籍図[旧公図])小県郡上塩尻村大字上塩尻之内 第六番字真福寺 第七番字宮田 全図 (上田市税務課所蔵) 塩尻村大字上塩尻(かみしおじり)字信福寺(しんぷくじ)/宮田(みやた)の地籍図である(現在は上田市上塩尻)。 字信福寺、字宮田は区画が小さいことから合体した全図となっている。藤本蚕業歴史館から南に150mほど下った辺りの区画である。かつては水田であったが、現在は宅地化している。 なお、「上田市文化財マップ」に字信福寺にあった「上塩尻板碑」の解説がある。 地籍図は1889年(明治22年)の市制町村制施行に伴い、上田町大字常磐城(旧常磐城村)の地籍図として1890年作成したものと思われるが、年代の記載がないため確認できない。2021-03-22
10ため池とは?何故塩田にため池が作られたのか?ため池とは?何故塩田にため池が作られたのか?画像は上田市の「舌喰池」 ため池とは、雨量が少なく河川がない地域などで、灌漑用水を確保するために人の手によって作られた池である。また、ため池の多くは江戸時代以前に築造されたものである。 塩田に数多のため池が作られた理由も、降水量の少なさが原因である。しかし、降水量が少ないという事は、晴天の日が多いという事でもある。塩田は気温や肥沃が良好で、用水さえ確保できれば水田農業に適している土地であった。従って、農民達は塩田にため池を造成したのである。 参考文献 ため池のれきし - 信州上田|塩田の里|とっこ ため池:農林水産省2021-01-25
11菱野温泉郷不動滝菱野温泉郷不動滝「小諸眺望百選12 菱野温泉郷不動の滝 秋の紅葉と冬の氷柱」として小諸市観光協会(当時、現小諸市観光局)認定された。 菱野温泉薬師館の手前を左側に入っていった道の奥の方にある。夏は滝行が行われ、冬は凍って氷柱が出現する。 大里地区の水田を潤す用水は女堰、荒堰そして深沢水系の3つある。荒堰の上流の水源は水出(小姓水源)と観音沢水源の2つあり、この不動滝は観音沢水源からの水路の途中にある。  令和2年度第2期分として小諸ふるさと遺産に認定された。2020-12-25
12信濃国分寺 ハス田 信濃国分寺 ハス田 このハス田は、地域の農家のご好意により、平成16年に本堂裏の約200坪の水田を借り受け、住職の方が鉢で育てていたハスの苗を植えたことが始まりだったようです。平成17年には、約300坪、27年に約200坪、そして28年には約100坪の池がつくられました。平成17年から「はすの花を育てる会」が結成され、整備や管理が行われてきたようです。私は蓮の花を間近で、実際に見たことは初めてでした。一面にピンクや白の蓮の花が咲いている光景を目にしたときは、思わず声が出てしまいました。ハス田越しに見る本堂も立派でした。ただ、蓮の花が早朝に咲き、昼過ぎには窄んでしまうことを知らなかったので、もう少し早い時間帯だったら、大きく開く蓮の花を楽しむことができたのかなあと思います。気になったので蓮の花言葉を調べてみると、「清らかな心2020-08-09
13男池(ため池)男池(ため池)男池というため池。この地域は晴天の日が多い、気温が低すぎない、土地が肥沃という理由から水田農業に最適であり、最後の要素である水を確保するために「ため池」が多い。この池もその一つ。2020-08-07
14登呂遺跡登呂遺跡日本で初めて発見された弥生時代の水田跡の遺構です。 火起こしなどを体験することができ、弥生時代の人の生活を感じることが出来ます。 第二次世界大戦中の軍需工場建設の際に発見されたということに驚きました。2020-05-25
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