登録リスト(該当:13件)

写真タイトル説明登録日
1すべての和牛は但馬に通ずすべての和牛は但馬に通ず但馬牛とは、但馬が誇る名産品の一つです。 但馬牛は日本三大和牛の素牛とされています。 明治初期から、和牛の品種改良が行われましたが失敗し、終戦後には、純血の和牛は絶滅したと思われていました。 しかし、奇跡的に但馬地域の香美町小代区の山深い里で、純血の但馬牛が残っていることが分かり、和牛を復活させることができました。 現在では、全国の黒毛和牛の99.9%が、但馬牛の血を引いていると言われています。2022-05-05
2上田紬について③上田紬について③上田紬が高級品になった背景 終戦後、まだ衣類が欠乏していた頃、商工省は京都のコブラン機とともに上田紬など数種を、技術保存織物として自由商品に指定した。 などの数種を、技術保存織物として自由商品に指定した。農家の家内生産によって、ほそぼそ自家用を織りだす程度であって、絹紬が機業として再開していく機会が、なかなか熟さないでいた。このとき昭和24~5年頃から、神科出身で元蒙古自治政府最高顧問をされた故金井章次氏は、軍放出の真綿を利用して糸を紡ぐことを提唱、農村副業による手織りのなかから紬織りの再興を考えた。草木染の紬織りを現代に生かそうと苦心をされる一方、草木染料や媒染材の化学研究をされて、生産量の増大や、新販路の開拓のことに努力をはらわれた。江戸時代からの上田縞・上田紬の名声は、特2022-02-09
3第二次世界大戦以後の上田紬第二次世界大戦以後の上田紬第二次世界大戦以後の上田紬 終戦後、まだ衣類が欠乏していた頃、商工省は京都のコブラン機とともに上田紬など数種を、技術保存織物として自由商品に指定した。 などの数種を、技術保存織物として自由商品に指定した。農家の家内生産によって、ほそぼそ自家用を織りだす程度であって、絹紬が機業として再開していく機会が、なかなか熟さないでいた。このとき昭和24~5年頃から、神科出身で元蒙古自治政府最高顧問をされた故金井章次氏は、軍放出の真綿を利用して糸を紡ぐことを提唱、農村副業による手織りのなかから紬織りの再興を考えた。草木染の紬織りを現代に生かそうと苦心をされる一方、草木染料や媒染材の化学研究をされて、生産量の増大や、新販路の開拓のことに努力をはらわれた。江戸時代からの上田縞・上田紬の名声は、特有2022-02-08
4第二次世界大戦以後の上田紬第二次世界大戦以後の上田紬終戦後、まだ衣類が欠乏していた頃、商工省は京都のコブラン機とともに上田紬など数種を、技術保存織物として自由商品に指定した。 などの数種を、技術保存織物として自由商品に指定した。農家の家内生産によって、ほそぼそ自家用を織りだす程度であって、絹紬が機業として再開していく機会が、なかなか熟さないでいた。このとき昭和24~5年頃から、神科出身で元蒙古自治政府最高顧問をされた故金井章次氏は、軍放出の真綿を利用して糸を紡ぐことを提唱、農村副業による手織りのなかから紬織りの再興を考えた。草木染の紬織りを現代に生かそうと苦心をされる一方、草木染料や媒染材の化学研究をされて、生産量の増大や、新販路の開拓のことに努力をはらわれた。江戸時代からの上田縞・上田紬の名声は、特有の風合や柄模様にもあったが2022-02-08
5上田紬が庶民的なものから高級品になるまで~戦後以降~上田紬が庶民的なものから高級品になるまで~戦後以降~第二次世界大戦以後の上田紬 終戦後、まだ衣類が欠乏していた頃、商工省は京都のコブラン機とともに上田紬など数種を、技術保存織物として自由商品に指定した。 などの数種を、技術保存織物として自由商品に指定した。農家の家内生産によって、ほそぼそ自家用を織りだす程度であって、絹紬が機業として再開していく機会が、なかなか熟さないでいた。このとき昭和24~5年頃から、神科出身で元蒙古自治政府最高顧問をされた故金井章次氏は、軍放出の真綿を利用して糸を紡ぐことを提唱、農村副業による手織りのなかから紬織りの再興を考えた。草木染の紬織りを現代に生かそうと苦心をされる一方、草木染料や媒染材の化学研究をされて、生産量の増大や、新販路の開拓のことに努力をはらわれた。江戸時代からの上田縞・上田紬の名声は、特有2022-02-08
6キュレーションのまとめキュレーションのまとめ 電線の無電柱化は、景観の向上・災害時の被害の軽減・防災時に自治体が緊急輸送路に指定している道路のためなど、自然災害が多く観光や地域文化や歴史を大切にしている日本にとって、これからの日本の未来を担う大切な取り組みだと感じた。  電線と電柱は太平洋戦争終戦後、戦後の日本の経済復興として、急増する電力や通信需要を支えるためにたくさん建てられてきたものです。そのため、経済のために活躍してきてくれた電線と電柱に感謝しながら、次世代の無電柱化の日本をこの上田市も積極的に目指していければと思う。2022-02-02
7まとめまとめ戦後の生活を見る事例の一つとして今回調査を行ったが、歴史の教科書には載っていないような、終戦後立ち直っていく住民の姿がありありとみることができた。 具体的には、GHQが取り組んだ民主化が地方にも広がっていたことや、政治参加への意欲が現代よりかなり高かったことがわかり、良い学びになったと思う。 [参考資料] 『西塩田時報』Vol.2(戦後編1946~1956)ページごとの画像(https://d-commons.net/uedagaku/detail.php?id=3622) みんなでつくる信州上田デジタルマップ 信州上田学アーカイブ2022-02-02
8呉市の歴史呉市の歴史広島県呉市は、面積35,318平方キロメートル、人口213,640人と広島県三番目の都市。 平安時代に遣唐使の往来があったことや、平清盛が関係した「音頭の瀬戸」からも分かるように、古くから海と船にゆかりのある地域である。 明治時代には、海軍の拠点の一つとして海軍の鎮守府を置き、軍港と共に発展を遂げる。 海軍開庁時に、人口も増加に転じ、ピーク時には400,000人にも上り、職人だけで30,000人もいたが現在は半減し、尚も減少傾向にある。 終戦後、「旧軍港転換法」の成立により、現在の産業の発展の糧となる。 海軍の施設は、観光資源としても再利用され、毎年多くの観光客が訪れる。 2016年には、映画「この世界の片隅に」がヒットし、再び注目を浴びる。 出典:「富国強兵とひろしま~軍港呉~」 https://www.pref.hiroshima.lg.jp/uploade2022-01-29
9家庭生活の民主化から家庭生活の民主化からこの記事では終戦後の民主化政策に困惑する女性の意見を知ることができる。男性よりも女性が教育を受ける機会が少なかった当時の状況で「男女同権」を主張する民主主義に対して女性にはあまり受け入れられなかったようだ。 『西塩田青年男報』第5号(1946年12月25日)第一頁より2022-01-27
10上田工業の歴史上田工業の歴史①蚕のまち上田 江戸時代の末期から昭和にかけて、長野県経済は蚕糸業に支えられていた。上田はそんな長野県中でもいわゆる「蚕都」として名をはせていた。その要因としては、扇状地や河岸段丘の発達により桑の栽培適地であったこと。また、雨が少なく乾燥した気候が蚕の飼育に適していたこと。そして全国にさきがけて開校された、小県蚕業学校(現在の上田東高校)や上田蚕糸専門学校(現在の信大繊維学部)などによる蚕業教育が充実していたことが挙げられる。 ②精密機械工業へのシフト 長野県が戦前から養蚕・製糸業に代えて精密機械工業へと産業育成の重点をうつし、かつ終戦後の1960年代には高度経済成長で商工業が発展したこともあり、上田の蚕糸業(養蚕、蚕種、製糸)も例外なく衰退を迎えた。しかし蚕糸業で培われた技術的2022-01-25
11猫山遊佐准尉自決地猫山遊佐准尉自決地第二次世界大戦中、教官を務めていた遊佐卯之助准尉の自決現場。終戦後妻子と共に自決したらしい。戦時中多くの教え子が特攻でなくなってしまったり責任を感じていたのかもしれない。戦争から生き延びた命を自ら捨てるほどの信念が彼らには会ったのだと思うと、すこし悲しくなった。2021-05-05
12事業部の構想(『西塩田青年団報』第1号(1946年8月25日)2頁)事業部の構想(『西塩田青年団報』第1号(1946年8月25日)2頁)戦後、西塩田青年団報となった。 「事業部の構想」の記事。 終戦後の復興に向けた心構えや意気込みが見て取れる。 食糧不足も続いており、遊休土地の利用や未利用資源の活用などぎりぎりの状況である。 ▼この記事は以下から参照できます。 #952 『西塩田青年団報』第1号(1946年8月25日)2頁2021-02-10
13民主々義と現代青年の任務(『西塩田時報』第1号(1946年8月25日)3頁)民主々義と現代青年の任務(『西塩田時報』第1号(1946年8月25日)3頁)戦後日本が民主主義を採用することは必然であり、日本独自のデモクラシーを建設して日本の存在意義や世界への貢献としようという記事。 終戦後日本は民主主義国家へとなっていくがアメリカやイギリスの真似ではなく日本独自の天皇を戴く民主主義を建設しなければならないといったような内容が書かれており、国家のアイデンティティというものを考える面白い記事である。 ▼この記事は以下から参照できます。 #953 『西塩田青年団報』第1号(1946年8月25日)3頁2020-12-14
地図で見る


ログイン トップページへ