| 写真 | タイトル | 説明 | 登録日 |
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1 | | 上田市で農地を所有しながら暮らすには | 上田市は自然が豊かで農地が沢山あるのになぜか農業が盛んではないのだろうか。
我が家にも農地があるが半分以上がの農業放棄地となっている。農業放棄地が発生してしまっていることが農業が盛んになっていくうえで邪魔になっているのではないだろうか。
農業放棄地が増えていく原因の一つに農地に関する法律があると考えた。そこで農地法を調べたところいくつかの問題点が見つかった。
・農地の売買や貸借に農地の所在する市町村の農業委員会の許可が必要な点。
・農地売買の許可を得るのに農地の権利取得後の経営面積に原則として都府県50a、北海道は2ha以上になること(例外あり)
・農地を取得する個人またはその家族等が取得後に行う農業事業に必要な農作業に常時従事しないと農地を買えないこと
これら3つが大きな問題と | 2023-01-30 |
2 | | 「海外視聴者向けの日本人youtuberと旅行動画」その活用方法の調査 最終版 | 2022年度研究である
『「海外視聴者向けの日本人youtuberと旅行動画」その活用方法の調査』
の最終完成版になります。
私自身海外に向けた動画をいくつか制作してみた結果、
主に言語の面でかなり高度な技術が必要であることが分かりました。
それは同時に、新たに海外へ向けてYouTubeによる情報発信を企業や自治体が行うことは非常に難しいということにもなります。
外国語字幕を付けた動画で発信している企業はもちろん存在しますが、そのほとんどが日本人以外の社員も多く在籍している大企業であるため、それと同様のレベルを地方自治体などがこなすことはほぼ不可能です。
そこで、すでに個人や少人数であっても海外に向けて活動し、好調な成績を出している日本人youtuberに協力を仰ぐことで、世界中へ向けての効率的かつ効果的な情 | 2023-01-30 |
3 | | プロジェクト研究(長野大学前川ゼミ)2022アウトカム | 長野大学企業情報学部前川ゼミ/プロジェクト研究2022成果報告
▼前川ゼミ2022成果報告 47分
ゼミメンバーの各自が成果を報告しています。(発表順は以下の順と同じ)
▼前川ゼミ・ポートフォリオ(マイサイト)
【1】川口将太(4年) 企業のソーシャルメディアを用いたメディア戦略
【2】高山大和(4年) 持続的な地域活性化策~大洗モデル~
【3】林 亮太(4年) 「海外視聴者向けの日本国内旅行動画」その特徴と活用方法の調査
【4】中澤愛華(4年) 神川小学校における地域学習支援
【5】春原百々羽(2年) 蚕について地元の人が学ぶ理 | 2023-01-30 |
4 | | 開善寺宛武田信玄定書 | この文書は現在上田市新田にある海禅寺が、戦国時代に小県郡東部町海善寺地区にあった当時、武田信玄が永禄5年(1562)11月7日、この寺に祈念を頼み、願がかなったときには、開善寺(海善寺・海禅寺)に、以前の通り土地を寄付することを約束した定書であるそうです。
https://museum.umic.jp/hakubutsukan/collection/item/0028.html | 2023-01-30 |
5 | | 武田信玄願文(県宝) | 武田信玄は、上杉謙信との戦いに備えて、東信濃の名社生島足島神社に、願文を献げ、今後の戦について深く祈願するところがあったそうな。
これがその願文で、おわりに永禄2年(1559)と記され、信玄自筆のものといわれています。
「謹んで、下之郷諏訪大明神に申し上げます。私(信玄)は、越後の軍勢(謙信をさす)が攻めてくるので、戦うがよいかどうかト(うらな)ったところ”吉”という卦が出ました。そこでこの天の教えに従って出陣いたします。何卒私の軍に勝利を与えられ、長尾景虎(謙信)が逃亡するようお助けをお願いいたします。もし私が凱歌をあげて帰国しましたなら、今年から10カ年間、毎年青銅貨10緡ずつお社のために上納いたします。」
調べて知ったことですが、信玄は戦国大名の中でも占いマニアだ | 2023-01-30 |
6 | | 別所温泉森林総合センター | 森林公園(別所温泉森林公園)天神岳のふもと、別所温泉から車で10分、赤松と杉の林に囲まれた公園。森林総合センター、山菜料理、バンガロー、キャンプ、林間広場にはテニス場、フィールドアスレチック等ある。
別所温泉森林総合センター http://db.umic.ueda.nagano.jp/johogura/datadisp.php?arg_sano=2691026 | 2023-01-29 |
7 | | 愛染桂 | 当地方では稀にみる大木のカツラ(雄木)で樹高22m、目通り5.5m、枝張り14m。北向厄除観音の霊木とされている。近年境内にある愛染堂とこのカツラの木を結んで愛染桂といい、若者たちから縁結びの霊木として親しまれている。
川口松太郎の名作「愛染桂」はこの木からヒントを得たという説もある。
引用元
解説愛染桂(市指定天然記念物) http://db.umic.ueda.nagano.jp/johogura/datadisp.php3?arg_sano=668015 | 2023-01-29 |
8 | | 温泉薬師瑠璃殿 | 本尊薬師如来。北向観音堂の西方の崖の上に建てられた一風変わった建物で「医王尊瑠璃殿」と呼ぶ。建立年代は明らかでないが、資料によれば焼失した後文化6年(1809)に地元湯本薬師講中によって再建されたという。温泉の効能に併せて病気を除き解脱するという深い温泉薬師信仰に由来するものである。「瑠璃殿」という名は、薬師如来を瑠璃光如来とも呼ぶところからとった名である。
引用元
http://db.umic.ueda.nagano.jp/johogura/datadisp.php?arg_sano=668014 | 2023-01-29 |
9 | | 別所温泉石湯 | 別所温泉石湯石湯の表には、真田太平記の池波正太郎書「真田幸村公隠しの湯」の碑がたつ。
引用元
http://db.umic.ueda.nagano.jp/data/johogura/datadisp.php?arg_sano=2581061 | 2023-01-29 |
10 | | 別所温泉駅の歴史 | 別所せんはは大成10年に「川西線」として開業した。
当時「信濃別所駅」という名前で開かれ、昭和5年に、駅名が「別所温泉駅」となり、同25年に現在の駅舎が完成した。
この駅舎が一年で最も混雑するのは、大みそかから正月三が日まで。二年参りのときには終夜運転も行われ、北向観音に訪れる人たちでいっぱいになる。
引用元
Ueda City Database ( 3033024) https://museum.umic.jp/johogura/bessho/2691012/2691012.html | 2023-01-29 |
11 | | お菓子の歴史(洋菓子輸入時代) | 明治頃に、文明開化が始まり、外国の文化が日本に取り入れられ生活が変化していったが、それは菓子も含まれる。明治10年に洋菓子の輸入が5千円であったが、20年には1万円、30年には2万5千円で、38年には一躍して23万5千円とまで上昇し、短期間で需要がかなり増えた。洋菓子製法技術や洋風食材が導入され、相手先もオランダ、ポルトガルから、イギリス、フランス、アメリカに変化した。
ビスケット、キャンディ、チョコレート、キャラメル、クッキーなどが輸入され、日本での消費が増えると国内生産の方が儲かると考える人が出てきて、製造が始まった。日本で最初に作られた洋菓子は明治8年のビスケットで、東京京橋の風月堂が始めた。明治中期になると森永太一郎が森永製菓会社を作り、ビスケットやドロップス、キャラメルなどの洋菓子生産 | 2023-01-29 |
12 | | 初代上田藩主 真田信之 | 真田信之は初代上田藩主を務めた人物であり、上田城を築城した真田昌幸の息子である。信之は徳川家に仕える猛将本田忠勝の娘、小松姫と結婚し、関ヶ原の戦いでは父昌幸、弟幸村とは対立することとなる。その後は上田領を任され、農村の復興と上田城下町の整備に尽力したが、1622年に松代へと移封されることとなる。
参考サイト
上田市デジタルアーカイブポータルサイト
https://museum.umic.jp/sakuhin/web.html
上田市博物館
https://museum.umic.jp/hakubutsukan/ueda-castle-history/03/ | 2023-01-28 |
13 | | 戦前長野の農業形態⑥ | 当時に比べると長野でのイチゴは果物の中だとあまりメジャーではないように思われるが、輸送手段や保存方法が当時に比べると発達したため、他地域での生産もさかんになったからではないかと考える。
戦前の長野での農業について共通点も多く見られたが、現在と違う点も多くとても興味深いと感じた。農業に関して調べるうちにジャムのルーツにも触れることができ有意義な学習であった。 | 2023-01-28 |
14 | | 戦前長野の農業形態⑤ | 栽培されたイチゴは鮮度の問題から近郊には青果として、遠方には貯蔵できる形としてジャムにすることで販売していたようである。
この資料に加え、長野のジャムに関して調べてみたとこ
ろ、明治10年新宿で初めて日本でジャムが作られ、その四年後に企業として初めてジャムが作られた地が長野であり、長野は日本のジャム生産の先駆的な地のようだ。
信濃産業誌 完」
https://api.ro-da.jp/v1/shinshu-dcommons/library/02BK0102152899/images/629fa7724c1f448586380935d789259b.jp2/651,655,2070,3016/333,485/0/default.jpg
「日本におけるジャムの歴史」
http://www.sudo-jam.co.jp/tokusyu/20140210 | 2023-01-28 |
15 | | 戦前長野の農業形態③ | こちらは大麻に関する記載である。大麻といっても工芸作物の麻のことであり、麻袋や畳に使うようである。栽培方法や適する条件等も記載されている。栽培に関する条件は比較的緩いようだ。
「信濃産業誌 完」
https://api.ro-da.jp/v1/shinshu-dcommons/library/02BK0102152899/images/f65cc121f9b64b6cbf76b0a27d25cebd.jp2/493,541,4771,3136/852,560/0/default.jpg | 2023-01-28 |
16 | | 野沢菜漬 | 県内全域の郷土料理。寒さが厳しい長野県は、冬になると田畑から青ものはひとつもとれなくなるため、晩秋になると大量に保存用の漬物を仕込んだ。一石桶といわれる大きな桶で大量の野沢菜をつける。各地域や家庭によって漬け方は様々。そのまま食べたり、おにぎりやおやきの具材にも使われる。野沢菜には浅漬けと古漬けがあり、春先、発酵が進んで黄色く変色した古漬けは、酸味が強いが味わいがあり、油との相性がよく、炒めて食べたりもする。
[野沢菜漬 長野県 | うちの郷土料理:農林水産省](https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/nozawana_zuke_nagano.html)より引用 | 2023-01-28 |
17 | | 戦前長野の農業形態② | まず始めに触れたいのが稲作である。資料に記載されているように川による豊富な水源、肥沃な土、夏期に暖かく、基本的に冷涼な気候であることから稲作が行われていたことがわかる。稲作に適する条件が現代と同じであり、当時から盛んに行われていたことがわかる。左のデータには作付量、反別、収穫高などが記載されている。
「信濃産業誌 完」
https://api.ro-da.jp/v1/shinshu-dcommons/library/02BK0102152899/images/75b5398006c44bf0b725eedac59bc2f7.jp2/620,642,1725,3035/308,542/0/default.jpg | 2023-01-28 |
18 | | お菓子の歴史(京菓子・上菓子時代) | 京菓子とは、一般的に京都で作られたお菓子のことをいい、江戸が中心だった江戸時代において、都である京の菓子を地方のものと区別して呼び始めた。
また、京都では宮中や公家、茶寺や茶家に献上する菓子のことを上菓子と呼んでいるが、江戸では駄菓子(雑菓子)の対抗する意味として使われた。当時の菓子司が作るものは、蒸菓子、干菓子、駄菓子(雑菓子)であり、上菓子司の作る雑菓子には、白砂糖が用いられ、品質こそ上菓子であった。安永・天明期になると、和菓子の技巧は江戸独特の個性も加わり、かなり発展している。
守安正 著『お菓子の歴史』,白水社,1965. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2507981 (参照 2023-01-28) | 2023-01-28 |
19 | | 海野町レトロ写真館 活動報告 | 2019年度から2022年度にかけて、信州上田デジタルマップを活用のもと、上田市の海野町商店街に焦点を当てて、研究を行ってきました。 | 2023-01-28 |
20 | | 丸子町① 下丸子町 | 明治前期の下丸子町。現代の下丸子の姿に近い。
https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/museum_history/03MP0301080400 (信州デジタルコモンズ) | 2023-01-27 |
21 | | お菓子の歴史(南蛮菓子時代) | 室町時代末期、ポルトガル人やスペイン人によって南蛮菓子が渡来した。南蛮菓子は、カステイラ(カステラ)、ボーロ、パン、金平糖、カルメラ、ビスカウト(ビスケット)などがあり、これらの菓子が後世の菓子に非常に大きい影響を与えています。
南蛮菓子は、砂糖の大量輸入と、砂糖菓子の製法を伝えて、無糖時代と有糖時代の間に明確な一線を引いただろう。
守安正 著『お菓子の歴史』,白水社,1965. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2507981 (参照 2023-01-27) | 2023-01-27 |
22 | | はじめに | 上田市によると、『平成18年3月6日に、旧上田市、旧丸子町、旧真田町、旧武石村の1市2町1村が合併し、新しい「上田市」が発足しました。』とある。そのため上田の過去の資料を調査するにあたって上の4地域に分割して比較していく。
参考
”合併(平成18年3月6日)に関すること”,上田市,2019-12-12https://www.city.ueda.nagano.jp/soshiki/gyokan/6028.html(2023年1月27日閲覧) | 2023-01-27 |
23 | | お菓子の歴史(点心時代) | 菓子は一日二回の食事の間に食べる間食用として長く続いていたが、鎌倉時代になると都会では三食制となったため、菓子は嗜好品になり、一般庶民からは縁のないものになった。
そのころ、茶が日本に渡来して、喫茶が流行した。その際に使用する菓子を「点心」と呼ぶ。もともと、点心とは定食と定食との間の小食であり、間食やおやつを意味する。点心には主に羹(あつもの)という汁と、まんじゅう類があり、それぞれ多くの種類がある。これらが和菓子の発展に繋がっていった。
守安正 著『お菓子の歴史』,白水社,1965. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2507981 (参照 2023-01-27) | 2023-01-27 |
24 | | 皆勤賞(1928) | 1928年の西塩田村の学校における、皆勤賞に関する記事である。この記事を見て、当時から学校を休まないことを表彰する文化があることが分かった。また、25%もの生徒が1年間皆勤賞というところを見て、現在よりもはるかに高い数値に驚いた。おそらく当時は、今よりも学校を休んではならないという風潮が強かったのであろう。もしくは、外で遊ぶことが多かったから体が強かったのだろうか。
#234 「西塩田時報」第54号(1928年5月1日)2頁
https://mmdb.net/mlab/uedagaku/pdf/nishishioda/ns04_041to060.pdf | 2023-01-27 |
25 | | 蚕種業における歴史的建築物について | かつて蚕種業で栄えた上田を参考に地域を活性化していく方法を模索した。
建築物の特徴としては、作業を行いやすいよう、屋敷をつなぐ渡り廊下跡があり、温度調節のための木造の暖房施設があった。発展を示す跡として、屋敷が多く建ててあり、家紋付きの瓦や蔵など当時の発展の象徴が多くあった。
今回の建築物は上田市上塩尻の建築を参考にさせていただいたが、養蚕に関わる設備跡はもちろん、目地時代当時の発展の様子や当時の文化を表すもの(家紋・猫瓦)が実在する資料として現存していた。これらの建築物は国登録有形文化財にもなっており、価値が高いものになっている。
今回のイベントを介して、建築物を見学することができたがそれらを通して、別の気づきがあった。地域の方が蚕種業の歴史を詳しく知らない方がほと | 2023-01-27 |
26 | | かわいい見た目に全世代から人気のお菓子 餅屋伝助のウサギ餅 | 引用元:https://ueda-tabi.com/mochiyadensuke/
ウサギの形に丸めた可愛いお餅の中に、餡が入ったお菓子です。ウサギ餅はカスタードクリーム、カマンベールチーズ、チョコレートの3種類。上品な甘さがあり、ふんわりもちもちな食感、口溶けの良い柔らかなお餅に餡がマッチしていて、どの世代の人からも人気のお土産として愛され続けています。
この商品でのデザイン面を考えるにあたって着目すべきは本体のかわいらしいウサギの形でしょう。
ウサギの顔をデフォルメ化し表現したものや、簡単に耳のみを焼き目としてつけているものなど、昔から変わることなく愛されているこのデザイン。変にモダンチックな凝った仕上がりでなく、このような親しみやすい見た目だからこその愛され度合だと感じました。 | 2023-01-27 |
27 | | 防空講習(1937) | 1937年7月7日に当時の上田中学校で、防空に関する講演があったと書いてある。防空とは敵の空中からの攻撃から身を守ることである。1937年7月7日は日中戦争が開戦した日であり、当時の学校にも戦争に対する緊迫感が漂っていたことが予測される。
#738 「西塩田時報」第165号(1937年8月1日)2頁
https://mmdb.net/mlab/uedagaku/pdf/nishishioda/ns10_161to180.pdf | 2023-01-27 |
28 | | はじめに | 私は、大正・昭和初期における教育の特色について調べていきたいと思う。西塩田時報の学校行事などについて書かれた記事を参照して、当時どのような教育が行われていたのかを解き明かしていく。また、当時、軍国主義となっていった日本だが、教育にはどのような影響が及ぼされたのかなども詳しく見ていきたい。 | 2023-01-27 |
29 | | お菓子の歴史(上古時代~唐菓子時代) | 日本のお菓子の歴史はとても古く、約2000年前の上古時代といわれている。菓子の名称については色々な説があるが、初めは「古能美(このみ、木の実)」、「久多毛能(くたもの、果物)」であり、現在でいう菓子とは違っている。
現在の菓子は唐菓子時代(奈良朝平安朝初期)に輸入された唐菓子が始まりとされている。
守安正 著『お菓子の歴史』,白水社,1965. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2507981 (参照 2023-01-27) | 2023-01-27 |
30 | | 別所温泉駅 | 別所温泉には上田駅から上田電鉄別所線にのり別所温泉駅で下車することで行くことができる。
乗車時間は30分である
引用元:信州上田景観100選 | 別所温泉駅 https://museum.umic.jp/keikan100sen/detail.php?photo=31-1_31-2&dir=1031&area=%E4%B8%8A%E7%94%B0&cattext=%E3%81%BE%E3%81%A1%E3%81%AA%E3%81%BF%E3%83%BB%E9%83%BD%E5%B8%82%E6%99%AF%E8%A6%B3&imgtitle=%E5%88%A5%E6%89%80%E6%B8%A9%E6%B3%89%E9%A7%85&imgtext=%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E3%81%8B%E3%82%89%E6%AE%8B%E3%82%8B%E3%80%81%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%81%82%E3%82%8B%E7%B5%82%E7%9D%80%E9%A7%85%E3%81%AF%E6%97%85%E3%81%AE%E5%A7%8B%E3%81%BE%E3%82%8A&glat=36.353&glng=138.162&access=%E4%B8%8A%E7%94%B0%E9%A7%85%E3%81%8B%E3%82%89%E4%B8%8A%E7%94%B0%E9%9B%BB%E9%89%84%E5%88%A5%E6%89%80%E7%B7%9A30%E5%88%86%E3%80%8C%E5%88%A5%E6%89%80%E6%B8%A9%E6%B3%89%E9%A7%85%E3%80%8D%E4%B8%8B%E8%BB%8A%0D%0A | 2023-01-26 |
31 | | 別所温泉の歴史 | 塩田平を囲む山なみの西方にそびえる夫神(おがみ)岳のふもとに、この地方の古い歴史とともに、絶えまなく湧き続けて来たのが別所の温泉である。この自然の出湯と人とのかかわりは、夫神岳の麓から古代の布目瓦が多数発掘されたことによっても、その古さが想像される。
国造や国府の所在していた古代から、庶民の安息療養の場所であり、また温泉の効能と医薬信仰が、やがて仏教の霊場としての北向観音堂となったであろう。
別所の温泉は昔から”七久里(ななくり)の湯”と呼ばれたといわれ、平安時代の有名な和歌集にもその名をとどめている。
鎌倉時代には北条氏の居館塩田城にも近いので北条一族の好んで来湯することも多かったと想像される。国宝八角三重塔のある名刹安楽禅寺は北条氏の開基によるところから、別所とい | 2023-01-26 |
32 | | みすず飴のデザイン | 画像引用元:https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwiWoaP98-T8AhV1plYBHZdnCXAQjBB6BAgNEAE&url=https%3A%2F%2Fmisuzuame.com%2Fsp%2Fame%2F&usg=AOvVaw1an-aePxECBjNJ0dsY_4LF
上田のお土産というと思い浮かぶものの一つとして、みすず飴が挙げられる。みすず飴のデザインで特徴的なのは文字のフォントである。おなじみのフォントになっているので、誰もが手に取りやすくなっていると思う。今後も、このデザインは継承していくべきだ。また、透明なパッケージにすることで、みすず飴のカラフルさが際立っている。 | 2023-01-26 |
33 | | ゼミ発表資料 | 参照
Vol113■とく☆とく信州 塩田平のため池群 | 楽園信州 https://blog.nagano-ken.jp/magazine/various/622.html | 2023-01-27 |
34 | | 上田蚕種協業組合 | 上田蚕種協業組合は、大正5年に地元の蚕種家が出資して上田蚕種株式会社として設立したのが始まりである。現在の事務棟・採卵室など主要な建物が翌6年に完成した。その後、昭和45年から現在の社名となっている。最盛期には22万箱の蚕種をこの組合から出荷していた。
「上田蚕種協業組合」より
https://museum.umic.jp/bunkazai/document/dot25 | 2023-01-26 |
35 | | 常田製糸場 | 【概要】
常田館製糸場は明治33年(1900年)創業の製糸工場である。笠原工業株式会社構内に常田館製糸場に関連する施設15棟が現存しており、そのうち明治から大正時代にかけて建てられた7棟が平成24年に国の重要文化財に指定されている。国内最高層の木造5階建繭倉庫、大正時代末の鉄筋コンクリート5階建倉庫群などは、製糸技術が発達した時代の先人達の工夫と知恵の足跡が歴然と残る貴重な文化遺産である。
【歴史】
嘉永5年(1852)諏訪郡平野村に生まれた笠原房吉(かさはらふさきち)が、明治33年「常田館製糸場」を創業した。以来110年余、製糸業の隆盛と衰退のなかで、製糸工場建物は増築・取り壊し・焼失・改築・移転・用途変更等の紆余曲折を経ながら今日に至っている。
【現在】
笠原工業(株)では施設の一部を一般公開している。
公開 | 2023-01-26 |
36 | | 上田の食文化⑥ 〜フルーツ編〜 | 長野県はぶどうやりんごがとても有名なのは知っていましたが、普通に道沿いにある木にりんごがよく生えていたり、道にりんごがころあっているのをよく見かけるので、それぐらいよく採れるものかとびっくりしました。
1番驚いたのは、写真のようにりんご畑に大きな穴が掘ってあって、そこに大量のりんごが入れられてたことです。
直売所にいけばとても安く売っているので、フルーツ自体も好きですし堪能してます。巨峰大好きなので、安くおいしいものが気軽に買えるのでとても嬉しいです。 | 2023-01-26 |
37 | | 名工の社殿と養蚕農家 ~上田市下堀地区~ | 信濃国分寺駅の南側に位置する下堀地区です。
ここには堀川神社があり、今でも地区住民によって守られています。
拝殿は一見シンプルですが、本殿を見ると見事な装飾があります。これは1886年(明治19年)に上田の名工竹内八十吉によって掘られたものです。八十吉は1815年(文化12年)から1898年(明治31年)まで活躍した諏訪立川流の大工で、堀川神社以外にも信濃国分寺の本殿の彫刻も掘っている。
次に下堀地区は養蚕業で栄えていた地区である。その証拠がこの石垣である。
これは、ぼたもち積みと呼ばれる積み方でお金持ちの家しか作ることができない石垣である。https://d-commons.net/upload/4/575/054168_0023_006.jpg養蚕業で儲けていたからこそできる石垣で、当時は養蚕農家それぞれが競い合って家を建てていたそうだ。それほどまでにこの地区の養 | 2023-01-19 |
38 | | 2022年 ゼミ発表(修正後) | | 2023-01-26 |
39 | | 上田のelaboration 上田の「観光産業」を知ってほしい!! | キュレーションとは、インターネット上の情報を、特定の視点を持って収集、選別、編集することで新しい価値を持たせ、それを共有することを意味する語である。https://www.hrpro.co.jp/glossary_detail.php?id=99より引用
そこから私は上田のキュレーションとは上田の情報を我々の視点から収集、選別、編集することで価値を持たせ、上田の良さの再発見するということだと定義した。
私の上田のキュレーションは上田の「魅力」「良さ」の再発見であり、私は、それは「観光産業」にあると考えた。私が第一に上田で目を付けた観光産業は「十福の湯」だ。上田にお住まいの人ならば知っている人は知っている上田の名温泉だ。この温泉は信州最大級の大露天風呂を有しており、屋外独立の檜サウナもある。さらに自然豊かなため、温泉浴だけではなく、森林浴 | 2023-01-25 |
40 | | 安楽寺 | 信州最古の禅寺で、座禅体験ができる。境内にある木造八角三重塔は、木造の八角塔としては全国で一つしかない貴重な建築で、長野県では一番早く国宝に指定された。全体的に奇麗に整備されており、緑の木が多いためサルスベリの花のピンク色がとても映えていた。蓮池には、白い蓮の花が咲いていて奇麗だった。また、背が高く一枚一枚の葉が大きかった。
別所温泉旅館組合「別所温泉のオススメ観光情報[公式]」
https://www.bessho-onsen.com/ (最終閲覧2023/1/26) | 2023-01-25 |
41 | | 常楽寺 | 北向観音の本坊で、鎌倉時代には天台数学の道場として栄えていた。境内には国の重要文化財に指定されている石造多宝塔があり、苔が生えていて趣を感じることができた。樹齢350年の「御船の松」は、とても立派な松だった。
別所温泉旅館組合「別所温泉のオススメ観光情報[公式]」
https://www.bessho-onsen.com/ (最終閲覧2023/1/26) | 2023-01-25 |
42 | | 北向観音 | 『現世利益を願う厄除観音として知られる「北向観音堂」。本堂が北を向いて建てられることはほとんど例がなく、長野市にある未来往生を願う善光寺(南向き)と向き合っていることから「北向」と名付けられて』(別所温泉旅館組合)いる。境内からは、町の景色を見ることができた。また、通りには、お土産屋さんやジェラート屋さんなどがあった。
別所温泉旅館組合「別所温泉のオススメ観光情報[公式]」
https://www.bessho-onsen.com/ (最終閲覧2023/1/26) | 2023-01-25 |
43 | | プロジェクト研究 パワーポイント | | 2023-01-25 |
44 | | 石湯 | 石湯の表には、真田太平記の池波正太郎書「真田幸村公隠しの湯」の碑がたつ。
https://museum.umic.jp/johogura/bessho/2581061/2581061.htmlより引用 | 2023-01-25 |
45 | | 真田氏~仙石氏 藩主の移り変わり | 仙石氏が上田藩主を務めることになった理由は、1622年に当時の上田藩主を務めていた、真田信之(幸村の兄)が松代へ移封されたことが原因である。
「上田城は真田の城」というイメージが強いが、実は真田氏が城主を務めたのは信之とその父昌幸の2代だけである。
参考サイト
上田市立博物館
https://museum.umic.jp/hakubutsukan/ueda-castle-history/03/ | 2023-01-25 |
46 | | 温泉薬師瑠璃殿 解説 | 本尊薬師如来。北向観音堂の西方の崖の上に建てられた一風変わった建物で「医王尊瑠璃殿」と呼ぶ。建立年代は明らかでないが、資料によれば焼失した後文化6年(1809)に地元湯本薬師講中によって再建されたという。温泉の効能に併せて病気を除き解脱するという深い温泉薬師信仰に由来するものである。「瑠璃殿」という名は、薬師如来を瑠璃光如来とも呼ぶところからとった名である。
http://db.umic.ueda.nagano.jp/johogura/datadisp.php?arg_sano=668014より引用 | 2023-01-25 |
47 | | 別所温泉 解説 | 塩田平を囲む山なみの西方にそびえる夫神(おがみ)岳のふもとに、この地方の古い歴史とともに、絶えまなく湧き続けて来たのが別所の温泉である。この自然の出湯と人とのかかわりは、夫神岳の麓から古代の布目瓦が多数発掘されたことによっても、その古さが想像される。
国造や国府の所在していた古代から、庶民の安息療養の場所であり、また温泉の効能と医薬信仰が、やがて仏教の霊場としての北向観音堂となったであろう。
別所の温泉は昔から”七久里(ななくり)の湯”と呼ばれたといわれ、平安時代の有名な和歌集にもその名をとどめている。
鎌倉時代には北条氏の居館塩田城にも近いので北条一族の好んで来湯することも多かったと想像される。国宝八角三重塔のある名刹安楽禅寺は北条氏の開基によるところから、別所という地名は | 2023-01-25 |
48 | | 大湯 | 大湯別所温泉外湯のひとつ。景行天皇の御代、日本武尊の東征の折発見されたと伝えられ、古名七久里の湯、枕草子にも記された信州最古の温泉。大湯は木曽義仲が愛妾葵御前をつれて逗留したと「新・平家物語」に書かれている。
http://db.umic.ueda.nagano.jp/johogura/datadisp.php?arg_sano=3032090より引用 | 2023-01-25 |
49 | | 別所温泉 | 別所温泉JR上田駅から電車で25分、バス30分、海抜650メートル静かな高原の湯の里。温泉は54度C単純硫化水素泉で無色透明。宿は20軒、平安貴族の別荘があったところから別所という。
http://db.umic.ueda.nagano.jp/johogura/datadisp.php?arg_sano=2691013より引用 | 2023-01-25 |
50 | | 無言館 | 日中戦争、太平洋戦争で亡くなった役130名の画学生の作品が展示してあります。画学生の魂が込められた作品は作者を思うと大変心が痛みましたが、同時に目が離せませんでした。第2展示館入口にある絵筆のベンチ(3枚目の写真)は最初見たとき、なんなのか分かりませんでしたが、彼らの筆なのだろうかと思うとなんとも言えない気持ちに襲われました。 | 2022-12-05 |
51 | | 2022年 ゼミ発表(修正前) | 2023/01/26 タイトル変更 | 2023-01-23 |
52 | | 海野町レトロ写真館 活動報告 | 1.研究目的
上田市にある海野町商店街には、人情味溢れる店主が集まり、どちらの店主にお話を伺っても優しい対応である。また、祇園祭や七夕祭りなどのイベントをきっかけに、大勢の人々で賑わっている。しかし、大型店舗の出店増加や急速な高齢化と人口流出による客数の減少などにより、新しい取り組みを行う機会が少なくなり、魅力や集客力が低下しつつある。同じ街でも商店街に住む人とマンションの住人とのコミュニケーションが取れていない現状である。そして、商店街の人々が好きだった界隈の空間を忘れ、変わってしまった街の風景に慣れてしまっている。
そこで、海野町商店街の昔の風景の様子を今の景色と合わせてみることができる思い出の写真を地域に共有することで、人情味溢れる町の個性が表現され、地元の人々が魅力の | 2023-01-23 |
53 | | create owaraiの開催で得た知見 | 第二回の「create owarai」の運営にあたり、参加者の方々の年齢に着目した。
参加者の方々は40代前後の方が多く、人生の折り返し地点に来て自分の持つスキルを地域活動に活かしたいという熱意のある方が多かった。
このことに関して、情報発信を通してこの熱意を持つ人々を結びつけることで、この熱意を自主的な地域活動に繋げられないかと考えた。
つまり、この橋渡しが継続的に行われれば、持続的な地域活性化への一助となるのではないかと思う。 | 2023-01-22 |
54 | | 家庭欄「夏の料理」ほか | 夏の料理はつくってみたくなるレシピであるように思う。特に目を引いたのが短歌で、百姓がテーマのものが多いように感じた。
▼記事はこちらから
「西上田時報」(第16号1948年6月25日2項) | 2023-01-22 |
55 | | 御柱祭 | 長野県諏訪地方で七年に一度開催される御柱祭は正式名称を「式年造営御柱大祭」と言います。
平安初期から行われているとされる御柱祭。室町時代の『諏訪大明神画詞』という文献に、最初の記録が残されていますが、起源や由緒は明らかではありません。
https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/museum_history/03OD02M1606000 | 2023-01-19 |
56 | | 祇園祭 | 京都で開かれる有名な祇園祭ですが、平安時代に疫病や厄災の除去を祈ったことが起源とされ、現在は八坂神社の祭礼へと継承されています。
▼この記事は以下から参照できます。
https://jpsearch.go.jp/item/arc_nishikie-arcUP6197 | 2023-01-19 |
57 | | プロジェクト研究 週ごとの報告集 | 2022年度の研究における週ごとの報告をまとめました。
可能な限り、同じ週に投稿した動画も添付しておきます。
0510
5月9日は、それ以前の週で行った研究に際しての動画制作とその公開に関する記事をマイサイトに投稿しました。詳しくはそちらに記入してあります。
また私は16日のゼミには参加できないため、研究テーマのまとめ制作を少しずつ進める予定です。
0613
コメント遅れてすいません。
活動報告はマイサイトの方に投稿済みです。具体的には、動画1本投稿、各チャンネルの傾向をメモ等を行いました。現在は動画を投稿しつつタイトル、字幕、チャンネル名、概要などの英語対応化を進めています。
0620
先週は動画を1本投稿し、今日マイサイトに報告を投稿しました。
https://d-commons.ne | 2023-01-18 |
58 | | まとめ | 今回私は災害というテーマでキュレーションしてみましたが、この長野県だけで一般的な災害はほぼ全て起きていることが分かりました。そして、昔からのこうした経験により今の川の工事や耐震工事などのできるだけ被害を出さない工夫に繋がっていると思うとやはり昔の記録を知るというのは重要な側面があると私は改めて思うことが出来ました。今回の記録は信州デジタルコモンズを使用させていただきましたが、本当に多くの資料があり、災害というテーマだけでまだ今回紹介しきれない記録書がたくさんありました。現代までその記録書を残してくれた人々にここで感謝をしたいと思います。
善光寺大地震災害地方図 写(信州デジタルコモンズ)
https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/museum_history/03OD0621000700 | 2023-01-18 |
59 | | 洪水対策(2) | 明治1911年になると本格的な洪水対策に入っていくことになる。方法として砂防工事が採用され、これで少しでも洪水の発生を抑えようと工夫しました。
利根川信濃川澱川木曽川山地砂防工事歴(信州デジタルコモンズ)
https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/library/02BK0102162823 | 2023-01-18 |
60 | | 幕府からの復興指示 | これは1861年に幕府から指示された命令についての記録書である。その中に江戸大火や江戸城の火災の復興指示に関するものもあったのでここで紹介します。
秘鑑松用備忘録 全(信州デジタルコモンズ)
https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/library/02BK0104131958 | 2023-01-18 |
61 | | 洪水量水計測 | 明治27年になると洪水が起きた際、どれくらいの水が上昇してくるのかを実際の上り幅を計測してまで具合的に計測しました。その記録個所の目印がこの写真のものです。
千曲川筋下高井郡立ケ花村洪水量水表建設箇所実測図(信州デジタルコモンズ)
https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/museum_history/03PLNS00069000 | 2023-01-18 |
62 | | 洪水対策(1) | 明治15年になるとどこで洪水が起きるのか、実際に起きた際の被害について調べられた。こういった取り組みは、洪水被害を食い止める第一歩だといえる。
洪水調(信州デジタルコモンズ)
https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/museum_history/03OD0622101800 | 2023-01-18 |
63 | | 浅間山噴火の被害の歴史 | 浅間山が噴火したのは1909年だけではありません。江戸時代、1783年にも噴火しており、2000人の被害と飢饉を招き、さらに多くの死者を出すこととなりました。
浅間山焼候節書附(信州デジタルコモンズ)
https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/library/02BK0104168133 | 2023-01-18 |
64 | | 地震を元にした民謡本 | これは逆に地震の被害を文字で伝えるのではなく、歌や音楽にして伝えようと作られ、編纂された少し変わった民謡本です。このようなものが作られていることから当時の民衆にとっても忘れるに忘れることができない地震であったことが推察できます。
志ん板地震くどきぶし 上・下(信州デジタルコモンズ)
https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/library/02BK0104167994 | 2023-01-18 |
65 | | 凄惨な記録書(2) | これも当時の被害状況やどういった死因が多かったなどの具体的なことが書かれた記録書になります。
新板地震口説(信州デジタルコモンズ)
https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/library/02BK0104168109 | 2023-01-18 |
66 | | 凄惨な記録書(1) | これは、同じく善光寺大地震の記録ですが、より村人視点、つまり被害者目線に感情移入できるように書かれている記録書になります。
震洪鑑(信州デジタルコモンズ)
https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/library/02BK0104167887 | 2023-01-18 |
67 | | 水害・火災についての地図 | これは、先ほどの洪水被害と同時に起きましたが、別の地域の被害情報です。火災についての被害も書かれています。
善光寺大地震火災水難地方図 木版2枚(信州デジタルコモンズ)
https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/museum_history/03OD0621001000 | 2023-01-18 |
68 | | 山崩れが引き起こす洪水 | これは、山崩れが起きたことで川が塞き止められ洪水を引き起こし、村などを飲み込んだ時の絵です。おおよその死者は270人にものぼると記録にあります。
信濃国大地震犀川出水絵図(信州デジタルコモンズ)
https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/library/02MP0104172564 | 2023-01-18 |
69 | | 地震で引き起こされた二次被害 | これは、善光寺大地震の際地震の影響で山崩れまでもが連続して起きてしまった記録です。
善光寺大地震岩倉山崩れの図 写(信州デジタルコモンズ)
https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/museum_history/03OD0621000900 | 2023-01-18 |
70 | | 講演「蚕種の里『上塩尻』の歴史と文化遺産を未来へ」2023/01/18 | ▲プレゼン資料(PDF)
長野県建築士会上小支部等合同新年会講演
「蚕種の里『上塩尻』の歴史と文化遺産を未来へ」
前川道博(長野大学企業情報学部教授)
2023/01/18 会場:東急REIホテル
★講演:蚕種の里「上塩尻」の歴史と文化遺産を未来へ 60分
★蚕種の里「上塩尻」まちあるきダイジェスト映像 20分
▼講演スライド | 2023-01-18 |
71 | | 1847年代の地震が起きた場所の記録書 | これは1847年に制作された記録書であり、善光寺大地震の記録などの地震についての長野県の被害や情報を確認することができます。
地震場所書上(信州デジタルコモンズ)
https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/library/02BK0104167937 | 2023-01-18 |
72 | | 善光寺大地震災害(地方図) | 過去には善光寺に大地震が到来したことがあります。この写真はその時の善光寺大地震のことを地図に表したものです。
善光寺大地震災害地方図 写(信州デジタルコモンズ)
https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/museum_history/03OD0621000700 | 2023-01-18 |
73 | | 蓼科学終了! | 最後のまとめの授業はまだ残っていますが、一番の目標であった小学生との交流クイズ大会が無事に1月16日に終わりました。
蓼科学全体を振り返ると、最初の頃はゼミ以外の時間を使ってミーティングを行っていました。始まってからは、毎回をこなすことで精一杯でした。私が考えていることと、高校生の実態に大きな差があり、途中で離れようか考えなかったわけではありませんでした。
私自身、「高校生だからできなくてしょうがない」と高校生の時は若さを理由に逃げることを許されても、大学生になった瞬間に「高校でやってこなかった?」と、言われることがあり、環境に自分の成長を任せきってしまっていてはいけなかったと反省しました。
そんな経験から、蓼科学を学ぶ高校生には、押し付けではない学びをしてほしいと考えていま | 2023-01-17 |
74 | | バス時間表(『西塩田公報』第56号(1951年12月5日)4頁) | この記事は、古文書を探るという記事の中になぜかバスの時刻表が載っている記事です。何の脈絡もなく時刻表が出てきているところと、運賃は果たしてかかるのだろうかという疑問も湧き出てきます。バスもイラストではなく写真を利用しているところに編集者のセンスが垣間見えます。
▼この記事は以下から参照できます。
#1160 『西塩田公報』第56号(1951年12月5日)4頁
https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p1160.jpg | 2023-01-16 |
75 | | 上田のキュレーション | 上田のキュレーションとは上田の情報を我々の視点から収集、選別、編集することで価値を持たせ、上田の良さの再発見するということだと定義した。
なので
上田の魅力、良さ、及び「観光産業」について自分なりに感じた良さをまとめ、wordにまとめた。 | 2023-01-16 |
76 | | プロジェクト研究の足跡 | プロジェクト研究の足跡を綴ってきたものをまとめました。
4月25日
前半はグループメンバーの共通項として、研究への取り組み方や考え方を共有しました。後半は、各自のプロジェクトの説明とそれに対する質問や問題意識の共有を行いました。ゼミ内で横のつながりが出来ることで、各自の持つ問題意識への様々な考え方が示され、非常に有意義なものとなったと感じました。今後は、自身のプロジェクトを進める中で頻繁に意見交換をすることで、より多角的な視点から研究していこうと考えています。
5月11日
大洗町における地域学習に関する記事の閲覧及び調査を行いました。また、大洗にフィールドワークに赴く際の調査事項などをまとめました。今後も活動を報告し合う事で様々な視点から調査を行っていきたいと考えています。
5月17日 | 2023-01-16 |
77 | | d-commons.net 2022年ブラッシュアップ・課題点リスト | d-commons.net内でバージョンアップされ、扱いやすくなった点と課題点のリストアップ。
・ブラッシュアップした点
1.記事一覧(全部みる)のページが軽くなった(以前は登録されている記事が全て表示したため非常に重かったが、現在は100件のみ表示される)
2.管理画面に作成した記事のリンクが追加された(「詳細ページ」が該当する)
3.トップページの「全部みる」ボタンに登録記事の数が表示されるようになった
4.クリップファイルにより画像の閲覧がしやすくなり、備考も添付できるようになった
・残っている課題点
1.URLのハイパーリンク化に手間がかかる(aタグが必要)
2.書きかけの記事のプレビュー表示や一時保存ができない
3.クリップファイルに登録した写真の順番変更に手間がかかる
4.親サイトと子サイトのデザインが似すぎているため区 | 2023-01-16 |
78 | | 実践講座1:地域資料活用によるキュレーション講座[第3回] | 実践講座1:地域資料活用によるキュレーション講座[第3回]
皆さんのキュレーション披露会
★講座「皆さんのキュレーション披露会」129分
。
講師:前川道博(長野大学企業情報学部教授)
コメンテーター:
小平千文(上田小県近現代史研究会会長)
桂木 惠(上田小県近現代史研究会事務局長)
【講座タイムテーブル】
13:00 講座解説(前川道博)
13:30 皆さんのキュレーション披露会、意見交換、Q&A(途中休憩あり)
16:00 終了
16:30 デジタルアーカイブクリエータ認定(希望者対象)
《キュレーション紹介》公開できる成果をリストアップしました
- 鈴木さん/諏訪湖のスケート[LINK](下記メディアクリップ収録)
- 長沼さん/一代交雑
| 2023-01-14 |
79 | | elaboration探求まとめ | 上田城と地元の松本城を比較し、松本城が地元の人から愛され誇られているのかを探求した。
前提として、天守閣の有無は割愛させてもらいこの探求テーマを考えた。
上田城と松本城の魅力の比較について主に2つ挙げる。
一つはイベントの豊富さである。
まず、松本城は春夏秋冬でイベントが設けられている。2022年に松本城で行われたイベントを調べていくと
春のイベントは「夜桜会」、「桜並木 光の回廊」をはじめとする5つ。
夏のイベントは「太鼓祭り」、「和服来場者入場無料事業」などの計3つ。
秋では「そば祭り」と「お城祭り」の2つ。
冬は、「冬囲い」、「氷彫フェスティバル」をはじめとする6つ。
四季折々のイベントが合計で16件も催されている。
県外の人だけでなく、地元の我々も訪れる機会が多くそのため、自信をも | 2023-01-12 |
80 | | 上田市マルチメディア情報センター | 上田市マルチメディア情報センターは、長野大学の少し上に位置している、情報化を総合的に支援する環境が整っている施設である。
●施設・概要
学生は無料で使用できる学習スペース、3Dプリンターがあり、アニメや映画などを250作品以上見ることができるPCが置かれていた。また子供や大人も活用できる学習空間がある。
他には教育支援や無線LAN有線LANの管理など地域にも貢献している施設である
●上田資料映像鑑賞
上田市の50年前の資料映像を見させていただいた。
そこでの貴重な映像を紹介する。
●「上田つむぎ」信越放送 1964年1月16日放送/上田紬/私たちの周辺
人手を要する養蚕は機械化をする必要はあるが、あまりにも機械化をしてしまうと伝統が欠如してしまう可能性があるとのこと。
手織りのものは個人に合わせて作 | 2023-01-12 |
81 | | 一次資料としてのminiDV | これまで社会活動はビデオ映像に記録をしてきました。蚕都上田プロジェクトを始めたのは2008年のこと。当時の記録媒体はもっぱらminiDV(小型ビデオカセット)です。それから15年が経過し、当時は現役で活動された方もご高齢になったりお亡くなりになったり、社会の状況・様子も変遷し続けてきています。miniDVは個人的には1997年以来使い続け、記録テープは1000本を超えます(数えたことはありませんが)。
テープ媒体の問題は再生しないことには記録映像にアクセスできないこと。さらにはこれらの媒体がいつまで再生可能かの保証はなく、テープ媒体の経年劣化の問題、再生機器の保全の限界の問題と重なり、ある時期に全てをデジタル化しデジタル保存しておかないと取り返しがつかないことになります。
この年末年始、デスクワークの片隅でパ | 2023-01-10 |
82 | | 明治7・8年蚕種焼却(横浜)の写真 (1874)から | 横浜に出荷された大量の蚕種(蚕卵紙)が焼却されるという衝撃的な出来事を写した写真に着目し、その背景を調査しました。
1860年代、ヨーロッパでは、蚕の伝染病「微粒子病」が蔓延しました。この代替品として、健全な蚕種を日本に買い求めたため、蚕種の輸出は増加し、高値で取引されました。ところが、ヨーロッパ各国が蚕病を克服すると需要は減退し、生産過剰となっため、政府は、輸出予定だった蚕種(蚕卵紙)を買収し、一部の優良紙を残して、他はすべて焼却処分したそうです。
【出典】藤本蚕業アーカイブ https://d-commons.net/fujimoto-arch/(2023/1/10)
史料ID[tf002] 明治7・8年横浜で蚕種焼却の写真 (1874) | 2023-01-10 |
83 | | 現代のタイポグラフィーの例① | 映画・TV番組・漫画・アニメなどのタイトルロゴには、タイポグラフィーが活用される。
『鬼滅の刃』2巻 吾峠呼世晴(ごとうげ こよはる)・著/集英社(2016) | 2023-01-09 |
84 | | 大正期には「キネマ文字」のフォント集まであった | 矢島周一は大正15年(1926)3月に日本で最初のタイポグラフィー字典といわれる『図案文字大観』を出版。自らの映画広告のレタリング制作の経験から考案した書体を集大成したという。以後の日本映画広告では明らかにこの『図案文字大観』の書体が活用されており、使用事例が幾つも確認できる。
『図案文字大観』 矢島周一・著 1926(大正15)より引用 | 2023-01-09 |
85 | | 大正期の新聞広告に用いられたタイポグラフィー | 大正期に入ると、日本のタイポグラフィーは欧文書体の影響を受け、毛筆書体から離れた独特な書体が続々と登場した。広告効果としてのタイポグラフィーが重要視されるようになった。
『新聞広告選集』大阪朝日新聞社・編 大阪朝日新聞社(1926)より引用 | 2023-01-09 |
86 | | 明治中期の読売新聞紙上の広告に見られるタイポグラフィー | 日本のタイポグラフィーは、平安から始まり江戸期までは、篆書(てんしょ)・隷書・楷書・行書・草書など毛筆を基にしたものであった。
明治に入り、欧文書体との融合が始まった。
写真のような明治中期の新聞広告には英語表記も見られるが、タイポグラフィーの多くはまだまだ毛筆書体を元にしている印象だ。
読売新聞 第 5751 号、4 面、明治 26 年 7 月 26 日発行
東京、日就社 | 2023-01-09 |
87 | | 江戸火消の力文字 | 火消とは江戸時代の消防組織。
町火消しが、組の印として定着させた書体を力文字、伊達文字、撥鬢(ばちびん)文字、纏(まとい)文字などと呼んでいる。火消し着用の革羽織、印半纏(しるしばんてん)、刺子(さしこ)の長半纏(ながはんてん)など、背の代紋や襟に染め付けた文字は、起筆、終筆とも力を入れて極端に肉太とした書体で、いかにも力文字と呼ぶのに相応しく江戸町火消の心意気と威勢と誇りを示した。
『〔江戸町内火消之組印〕』(東京都立中央図書館 所蔵) 「東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ) 収録」
(https://cultural.jp/item/tokyo-R100000086_I000041580_00) | 2023-01-09 |
88 | | 空海 | 空海(くうかい、774年〈宝亀5年〉- 835年4月22日〈承和2年3月21日〉)は、平安時代初期の僧。能書家でもあったが、遣唐使として中国に渡った際に寺社から影響を受けたといわれ、帰国後に数多くの扁額(へんがく)を作成している。その力感あふれる筆法が、日本のタイポグラフィーの始まりであるという説がある。
『弘法大師(空海)像』(慶應義塾ミュージアム・コモンズ 所蔵) 「慶應オブジェクトハブ 収録」
(https://cultural.jp/item/keioobjecthub-1630) | 2023-01-09 |
89 | | 手塚治虫 | 手塚治虫は昭和3年(1928)生まれで、漫画家デビューは昭和21年(1946)であるため、昭和14年ごろに書かれたと思われる「藤本蚕業報告書書体」は手塚の影響を受けたわけではなく、手塚もまた当時のタイポグラフィーに影響を受けた一人と考えられる。
髙木康允『手塚治虫(1928-1989) 漫画家 [撮影 昭和62年(1987)]』(日本写真保存センター所蔵)
「写真原板データベース」収録
(https://jpsearch.go.jp/item/photo-00088_00076_0001) | 2023-01-09 |
90 | | 手塚治虫・作品タイトルロゴ② | 『手塚治虫表紙絵集』手塚治虫・著/森 晴路(手塚プロダクション資料室室長) ・監修/玄光社 (2016)より引用。
縦線・横線の極端なウェイト、横線が波打つ、重心が高いなど、「藤本蚕業報告書書体」に類似した特徴が見られる。 | 2023-01-09 |
91 | | 報告書文字① | 藤本蚕業の膨大な資料の中に、独特な書体を用いて書かれた書類がある。
写真は折れ線グラフによる昭和6年〜12年(1931~37)の、7年間にわたる販売実績の報告。
藤本蚕業資料 [at24-1-1]表紙なしノート(1931)
(a5文書/戦前/土浦) | 2023-01-09 |
92 | | 2023元日の上田 | 2023年の元日は晴天に恵まれ、塩田平にある生島足島神社へ初詣に出かけました。いつも見慣れている風景ながら、「上田とはどんなところか?」、改めて眺め直してみました。
上田からは烏帽子岳が最もよく見えます。何よりも烏帽子状の山容が美しい。
次に美ヶ原、深田久弥が「日本百名山」に選んだ山の一つ。山の頂は起伏が極めて少なく平坦に長く続き、これが一つの山とは認知しがたいぐらいに「控えめ」な佇まいをしています。地元の人は美ヶ原とは呼ばず「うつくし」と呼びます。山頂はほぼ平坦ながらわずかばかり高く見える山頂にテレビ塔がいくつも立ち並んでいます。美ヶ原はこのテレビ塔の存在がアクセントとなり不思議に美しい。
小牧山は地元の人々もそれが何山かを意識することなく存在している超低山です。この地点は地 | 2023-01-03 |
93 | | 川西野球排球大会 | 今でもこれほどな大差がつくのは野球でも珍しいため面白かった。
▼この記事は以下から参照できます。
#1180 『西塩田公報』第60号(1952年9月5日)2頁
https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p1180.jpg | 2022-12-27 |
94 | | 体力検査成績発表!!(『西塩田時報』第187号(1925年6月1日)1頁) | 学校のカリキュラム上の新体力テストのようなものだと思いましたが、地域の青年団員の成績結果でした。一番上に百米(100m)の結果が広報されているのですが、12秒台の方が先頭にいらっしゃいます。現在においてもかなりの記録です。靴や走り方を学べばもっと良い記録を狙えると思います。
▼この記事は以下から参照できます。
#364 #364 『西塩田時報』第187号(1925年6月1日)1頁
https://mmdb.net/mlab/uedagaku/pdf/nishishioda/ns11_181to204.pdf | 2022-12-26 |
95 | | 健康第一 | いつの時代も健康って大事だよなあと考えさせられたこの記事が好き。
『西塩田時報』第16号(1925年3月1日)4頁
https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p0074.jpg | 2022-12-26 |
96 | | 農事メモ(『西塩田広報』第80号) | 当時の気候変動に農家はどのように対応すればよいかが描かれていた。
#1246『西塩田広報』第80号 2ページ | 2022-12-26 |
97 | | 家庭内での女性の地位向上 | これは家庭内において弱い立場にある女性の立場を上げるためのある女性の訴えです。その時代のリアルな男性の横暴さと女性の立場の弱さが書かれていて、今の時代ではこの記事を読んでも「そりゃそうだよね。」と言われるぐらいにはなってきているが、当時はこの記事を読んではっとさせられた男性や勇気づけられた女性がいたのではないでしょうか。
「人間は男のみではない」この文章にとても惹かれます。 | 2022-12-26 |
98 | | 支部通信「浅間山行」 | 浅間山登るのがしんどいというのが伝わってきて面白いと感じた。そして、今よりは道も整備されてなかったのではないかなどと想像が膨らんで、見ていて面白いと感じた。
『西塩田時報』第9号(1924年9月1日)3頁
https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p0047.jpg | 2022-12-26 |
99 | | 昭和27年(1952)の殺人事件(『西塩田時報』第73号) | 西塩田広報第73号より
加害者の住所が朝鮮でしたので、てっきり異邦人の犯罪かと思いましたら、当時の朝鮮のこの地区は日本領土でした。強盗内容も千円とありますが、当時の相場としては約5倍ほどだそうです。(間違っていたらすみません)時代背景がわかる記事ですので取り上げさせていただきました。
▼この記事は以下から参照できます。
#364 #364 『西塩田時報』第73号(1952年7月3日)2頁
https://mmdb.net/mlab/uedagaku/pdf/nishishioda/ns17_post061to080.pdf | 2022-12-26 |
100 | | 女子の意見の出ない訳(『西塩田時報』第6号(1947年6月20日)4頁) | 男女同権の思想がちょうど広まった時代、女性の意見が少ないことが、当時の男性はどう思っていたのかが分かるお記事です。一理あると思える意見もあれば、それは筋違いだろうと思ってしまう意見もありおもしろいと思いました。
▼この記事は以下から参照できます。
『西塩田時報』第6号(1947年6月20日)4頁
https://mmdb.net/mlab/uedagaku/pdf/nishishioda/ns14_post001to020.pdf | 2022-12-26 |