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1まとめまとめ百数十年前の上田の地図をキュレーションしてみて、現在の地図とそこまで違いがないことに驚いた。当時の測量師の技術力の高さが垣間見える調査になった。また、地図を探すために上田という地域について調べ、それによって得られた知見というのがこの取り組みの一番の成果であると思う。2023-01-28
2真田村③ 長村真田村③ 長村明治前期。 小名真田といった小名というものがよく見られる。 https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/museum_history/03MP0301080180 (信州デジタルコモンズ)2023-01-27
3真田村② 傍陽村真田村② 傍陽村ここで「字」と書かれた記号が現れる。おそらくその領土主の苗字だと考える。 https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/museum_history/03MP0301080200 (信州デジタルコモンズ)2023-01-27
4武石村② 下武石村武石村② 下武石村山脈まで細かく有地別に記録されていることが分かる。 https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/museum_history/03MP0301080410 (信州デジタルコモンズ)2023-01-27
5上田町上田町上田町の明治時代前期の姿である。寺や神社が多いことが分かる。現在の上田町と比べても全く同じ名前の寺や神社が残っておりその中には江戸時代から姿を変えず残っているものもある。 https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/museum_history/03MP0301080250 (信州デジタルコモンズ)2023-01-27
6お菓子の歴史(南蛮菓子時代)お菓子の歴史(南蛮菓子時代)室町時代末期、ポルトガル人やスペイン人によって南蛮菓子が渡来した。南蛮菓子は、カステイラ(カステラ)、ボーロ、パン、金平糖、カルメラ、ビスカウト(ビスケット)などがあり、これらの菓子が後世の菓子に非常に大きい影響を与えています。 南蛮菓子は、砂糖の大量輸入と、砂糖菓子の製法を伝えて、無糖時代と有糖時代の間に明確な一線を引いただろう。 守安正 著『お菓子の歴史』,白水社,1965. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2507981 (参照 2023-01-27)2023-01-27
7はじめにはじめに上田市によると、『平成18年3月6日に、旧上田市、旧丸子町、旧真田町、旧武石村の1市2町1村が合併し、新しい「上田市」が発足しました。』とある。そのため上田の過去の資料を調査するにあたって上の4地域に分割して比較していく。 参考 ”合併(平成18年3月6日)に関すること”,上田市,2019-12-12https://www.city.ueda.nagano.jp/soshiki/gyokan/6028.html(2023年1月27日閲覧)2023-01-27
8お菓子の歴史(点心時代)お菓子の歴史(点心時代)菓子は一日二回の食事の間に食べる間食用として長く続いていたが、鎌倉時代になると都会では三食制となったため、菓子は嗜好品になり、一般庶民からは縁のないものになった。 そのころ、茶が日本に渡来して、喫茶が流行した。その際に使用する菓子を「点心」と呼ぶ。もともと、点心とは定食と定食との間の小食であり、間食やおやつを意味する。点心には主に羹(あつもの)という汁と、まんじゅう類があり、それぞれ多くの種類がある。これらが和菓子の発展に繋がっていった。 守安正 著『お菓子の歴史』,白水社,1965. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2507981 (参照 2023-01-27)2023-01-27
9尺貫法からメートル法へ(1933)尺貫法からメートル法へ(1933) メートル法に関するプリントを、生徒の各家庭に配布したという記事である。この記事の翌年の1934年に、日本従来の尺貫法が廃止され、メートル法が取り入れられた。これまで使ってきた単位を、使わないようにしなければならないと考えると、当時の学生はとても苦労しただろう。教育において、使用する単位を変えるということはとても大変なことだ。 #507 「西塩田時報」第114号(1933年5月1日)3頁 https://mmdb.net/mlab/uedagaku/pdf/nishishioda/ns07_101to120.pdf2023-01-27
10皆勤賞(1928)皆勤賞(1928)1928年の西塩田村の学校における、皆勤賞に関する記事である。この記事を見て、当時から学校を休まないことを表彰する文化があることが分かった。また、25%もの生徒が1年間皆勤賞というところを見て、現在よりもはるかに高い数値に驚いた。おそらく当時は、今よりも学校を休んではならないという風潮が強かったのであろう。もしくは、外で遊ぶことが多かったから体が強かったのだろうか。 #234 「西塩田時報」第54号(1928年5月1日)2頁 https://mmdb.net/mlab/uedagaku/pdf/nishishioda/ns04_041to060.pdf2023-01-27
11蚕種業における歴史的建築物について蚕種業における歴史的建築物について かつて蚕種業で栄えた上田を参考に地域を活性化していく方法を模索した。  建築物の特徴としては、作業を行いやすいよう、屋敷をつなぐ渡り廊下跡があり、温度調節のための木造の暖房施設があった。発展を示す跡として、屋敷が多く建ててあり、家紋付きの瓦や蔵など当時の発展の象徴が多くあった。  今回の建築物は上田市上塩尻の建築を参考にさせていただいたが、養蚕に関わる設備跡はもちろん、目地時代当時の発展の様子や当時の文化を表すもの(家紋・猫瓦)が実在する資料として現存していた。これらの建築物は国登録有形文化財にもなっており、価値が高いものになっている。  今回のイベントを介して、建築物を見学することができたがそれらを通して、別の気づきがあった。地域の方が蚕種業の歴史を詳しく知らない方がほと2023-01-27
12くるみ生産量一位の長野が作る信州の銘菓 くるみのハーモニーくるみ生産量一位の長野が作る信州の銘菓 くるみのハーモニー引用元:https://www.usagiya-ueda.com/blog 香ばしいビスケットの中に、ミルクキャラメルを絡めたくるみがたっぷりと詰められた人気のお菓子「くるみのハーモニー」。くるみの生産量全国一位の長野県が生んだこのお菓子は、おいしさが人気の理由なのはもちろんのこと、焼き色よく、サイズ感もかわいらしく、見た目も愛されるひとつの理由になっています。 そのパッケージデザインはいたってシンプルに仕上げられています。 お菓子の第一の特徴であるくるみのイラストが表面に印刷されており、あとは商品名が記載されているのみ。 歴史にゆかりある上田の地らしさがにじみ出たデザインだと感じました。商品の包みが和紙のような質感になっていることもこれを助長しているように見えます。2023-01-27
13かわいい見た目に全世代から人気のお菓子 餅屋伝助のウサギ餅かわいい見た目に全世代から人気のお菓子 餅屋伝助のウサギ餅引用元:https://ueda-tabi.com/mochiyadensuke/ ウサギの形に丸めた可愛いお餅の中に、餡が入ったお菓子です。ウサギ餅はカスタードクリーム、カマンベールチーズ、チョコレートの3種類。上品な甘さがあり、ふんわりもちもちな食感、口溶けの良い柔らかなお餅に餡がマッチしていて、どの世代の人からも人気のお土産として愛され続けています。 この商品でのデザイン面を考えるにあたって着目すべきは本体のかわいらしいウサギの形でしょう。 ウサギの顔をデフォルメ化し表現したものや、簡単に耳のみを焼き目としてつけているものなど、昔から変わることなく愛されているこのデザイン。変にモダンチックな凝った仕上がりでなく、このような親しみやすい見た目だからこその愛され度合だと感じました。2023-01-27
14上田人気のご当地グルメ「美味だれ」上田人気のご当地グルメ「美味だれ」引用元:https://oidareyakitori.jp/ 上田市のご当地グルメとして有名な美味だれ焼き鳥。そこに使用されるニンニクが入った醤油ベースのたれはお土産としても人気です。 この製品のパッケージデザインには一目で上田らしさを感じられる六文銭が採用されています。また製品名のタイポグラフィーもシンプルながら伝統を売りにしていることが伝わる字体で、赤基調に黒文字といった色彩も真田を想起させてくれて、よく考えられたデザインだと感じました。2023-01-27
15防空講習(1937)防空講習(1937)1937年7月7日に当時の上田中学校で、防空に関する講演があったと書いてある。防空とは敵の空中からの攻撃から身を守ることである。1937年7月7日は日中戦争が開戦した日であり、当時の学校にも戦争に対する緊迫感が漂っていたことが予測される。 #738 「西塩田時報」第165号(1937年8月1日)2頁 https://mmdb.net/mlab/uedagaku/pdf/nishishioda/ns10_161to180.pdf2023-01-27
16お土産の定番! 信濃路うさぎやのくるみそばお土産の定番! 信濃路うさぎやのくるみそば引用元:https://www.usagiya-ueda.com/ 上田お土産の代表格ともいえる、蕎麦粉の皮で餡を包んだ、素朴で美味なお菓子「くるみそば」。 サクッ ホロッとした風味漂う皮部分に上に乗ったたっぷりのくるみ、中に詰められたネットリ食感の飴・餡、上田市民含め多くの人たちに愛され続けています。 この製品のデザインを見ていったとき一に目につくのは、パッケージの背景として描かれた水彩画調の植物の数々でしょう。原料に自然豊かな地だからこそのそばやくるみを使用しているこの製品らしさが表れているように思います。またタイポグラフィーも習字調で歴史ある製品なのだなということを強く感じさせてくれます。2023-01-27
17はじめにはじめに私は、大正・昭和初期における教育の特色について調べていきたいと思う。西塩田時報の学校行事などについて書かれた記事を参照して、当時どのような教育が行われていたのかを解き明かしていく。また、当時、軍国主義となっていった日本だが、教育にはどのような影響が及ぼされたのかなども詳しく見ていきたい。2023-01-27
18長野伝統のお菓子 みすゞ飴長野伝統のお菓子 みすゞ飴引用元:https://misuzuame.com/sp/ame/ みすゞ飴は、国産果実を寒天・グラニュー糖・水飴で固めた、長野県の伝統的な乾燥ゼリー菓子です。 その歴史は長く、100年も前から信州上田のちでも愛され続けています。 上田土産の代表格のような存在であるこの製品のデザインは、製品同様オレンジを基調とした色彩豊かなデザインで、また習字調のような少々独特な字体で印刷された商品名は、伝統を重んじ、歴史ある信州地域の名産らしさをある意味表しているようでなんともしっくりくるように感じます。パッケージデザインには製品に使用されている果実も印刷されており、一目見て商品の要素が伝わることも良さの一つでしょう。2023-01-27
19唐菓子について唐菓子について奈良時代から平安時代にかけて遣唐使によって唐から伝来した唐菓子は,米粉や小麦粉を捏ねていろいろな形に作り,油で揚げたり,焼いたものである。 日本や仏教の世界でお供え物とされるほどであり、当時はとても高価でめったに食べられないものであったが、現在では限られた和菓子店だけではあるが、手軽に食べることができる。 写真は岡田哲「食文化入門-百問百答-」から抜粋2023-01-27
20お菓子の歴史(上古時代~唐菓子時代)お菓子の歴史(上古時代~唐菓子時代)日本のお菓子の歴史はとても古く、約2000年前の上古時代といわれている。菓子の名称については色々な説があるが、初めは「古能美(このみ、木の実)」、「久多毛能(くたもの、果物)」であり、現在でいう菓子とは違っている。 現在の菓子は唐菓子時代(奈良朝平安朝初期)に輸入された唐菓子が始まりとされている。 守安正 著『お菓子の歴史』,白水社,1965. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2507981 (参照 2023-01-27)2023-01-27
21別所温泉駅別所温泉駅別所温泉には上田駅から上田電鉄別所線にのり別所温泉駅で下車することで行くことができる。 乗車時間は30分である 引用元:信州上田景観100選 | 別所温泉駅 https://museum.umic.jp/keikan100sen/detail.php?photo=31-1_31-2&dir=1031&area=%E4%B8%8A%E7%94%B0&cattext=%E3%81%BE%E3%81%A1%E3%81%AA%E3%81%BF%E3%83%BB%E9%83%BD%E5%B8%82%E6%99%AF%E8%A6%B3&imgtitle=%E5%88%A5%E6%89%80%E6%B8%A9%E6%B3%89%E9%A7%85&imgtext=%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E3%81%8B%E3%82%89%E6%AE%8B%E3%82%8B%E3%80%81%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%81%82%E3%82%8B%E7%B5%82%E7%9D%80%E9%A7%85%E3%81%AF%E6%97%85%E3%81%AE%E5%A7%8B%E3%81%BE%E3%82%8A&glat=36.353&glng=138.162&access=%E4%B8%8A%E7%94%B0%E9%A7%85%E3%81%8B%E3%82%89%E4%B8%8A%E7%94%B0%E9%9B%BB%E9%89%84%E5%88%A5%E6%89%80%E7%B7%9A30%E5%88%86%E3%80%8C%E5%88%A5%E6%89%80%E6%B8%A9%E6%B3%89%E9%A7%85%E3%80%8D%E4%B8%8B%E8%BB%8A%0D%0A2023-01-26
22別所温泉の歴史別所温泉の歴史 塩田平を囲む山なみの西方にそびえる夫神(おがみ)岳のふもとに、この地方の古い歴史とともに、絶えまなく湧き続けて来たのが別所の温泉である。この自然の出湯と人とのかかわりは、夫神岳の麓から古代の布目瓦が多数発掘されたことによっても、その古さが想像される。  国造や国府の所在していた古代から、庶民の安息療養の場所であり、また温泉の効能と医薬信仰が、やがて仏教の霊場としての北向観音堂となったであろう。  別所の温泉は昔から”七久里(ななくり)の湯”と呼ばれたといわれ、平安時代の有名な和歌集にもその名をとどめている。  鎌倉時代には北条氏の居館塩田城にも近いので北条一族の好んで来湯することも多かったと想像される。国宝八角三重塔のある名刹安楽禅寺は北条氏の開基によるところから、別所とい2023-01-26
23上田市の自然文化について上田市の自然文化について別所温泉は、信州最古の歴史を持つ七久里の湯と呼ばれる温泉を持ち、平安時代の有名な和歌集にも記されている。安息の場として栄えた別所温泉は、かつて真田幸村の隠し湯があったとも言われていて、1500年以上の歴史を持っているとされている。 また別所を含む塩田平は、信州の鎌倉とも呼ばれ、温泉に限らず多くの文化財が残されている。 「幕宮池」と呼ばれる池は、日本で最も降雨量が少ないとされる位置にあり、多くのため池が作られた場所である。 〈参考資料〉 https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/others/01DD001H230003 https://adeac.jp/shinshu-chiiki/catalog/mh0555002023-01-26
24持続的な地域活性化~大洗モデル~3 発表(最終)版持続的な地域活性化~大洗モデル~3 発表(最終)版プロジェクト研究の足跡をまとめた発表資料になります。 それぞれの実施内容はこのマイテーマ(プロジェクト研究・卒業研究)をご覧ください。 持続的な地域活性化策~大洗モデル~とは、大洗町において持続的な地域活性化策というテーマを研究する者であり、卒業研究、地域活動という視点から3つの取り組みを行い、そこで得た知見を大洗町にフィードバックするものです。 茨城県大洗町とは茨城県東部に位置する小さな観光都市で、海が観光資源となっています。また、アニメ『ガールズ&パンツァー』を利用したコンテンツツーリズムを10年間推進しています。 その一方で、人口減少、海水浴客の減少、町の活気のなさといった社会課題を抱えています。 そこでまず実施内容1として、「create owarai」に参加しました。この「create owarai2023-01-26
25みすず飴のデザインみすず飴のデザイン画像引用元:https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwiWoaP98-T8AhV1plYBHZdnCXAQjBB6BAgNEAE&url=https%3A%2F%2Fmisuzuame.com%2Fsp%2Fame%2F&usg=AOvVaw1an-aePxECBjNJ0dsY_4LF 上田のお土産というと思い浮かぶものの一つとして、みすず飴が挙げられる。みすず飴のデザインで特徴的なのは文字のフォントである。おなじみのフォントになっているので、誰もが手に取りやすくなっていると思う。今後も、このデザインは継承していくべきだ。また、透明なパッケージにすることで、みすず飴のカラフルさが際立っている。2023-01-26
26上田紬のデザイン上田紬のデザイン日本らしさが残るデザインになっているため、観光客の目にとまりやすいと感じた。また、近年では若者向けにデザインされるお土産が多い中、伝統的な要素が前面に出されている。 画像・資料参考元:みんなで作ろう信州上田デジタルマップ 投稿者名:あやか様2023-01-26
27前川ゼミレポート前川ゼミレポート私は、なぜ上田氏は真田氏のPRに固執するかについて疑問を持ったため調べることにした。というのも、上田市には別所温泉近辺にたくさんの歴史的建造物があり、「信州の鎌倉」という別名まで付けられるほどのだからだ。そして「別所温泉」という名前自体は全国的にもある程度知られている。まったくの無名の観光地をアピールするわけではないのになぜここを差し置いて真田氏に固執するのだろうか。 真田氏に固執する理由として思いついたのが歴史好きに対するアピールの強さだ。二度にわたる上田の戦い・大阪の陣で有名な真田幸村にゆかりのある地(真田村)であることから、上田城や真田氏についてアピールできる。だが、この真田氏についてもやや疑問がある。一般人に「武将の真田」と言って思い浮かべるのは真田幸村だろう。この真田2023-01-26
28戦後80年で人々の価値観はどう動いたのか戦後80年で人々の価値観はどう動いたのか 戦後日本において、新幹線が開通し、オリンピックが開催され、インターネットが普及する間に、日本人の価値観・人生観はその生活の様相とともに大きく動いてきたように思われる。そこで、戦前の人々の価値観は、現在を生きる我々から見ていかに違うのかを研究する。  本記事では西塩田時報第百八十二號第五頁を取り上げて述べる。 「幹部修養講習會に出席して」という項目は、「原田晴章」なる人物が、「三好武治」なる人物の講演の一端を書くというもの。講演の内容は、主に支那事変(日中戦争の、当時の日本での呼び名の一つ)についてのものである。 「日本で今度の事變での勝利は精神力である」 「支那事變は世界に類の無立派なる所の正しき戰争である」  このような記述がある。やはり根拠のない精神論や戦争を美化する意2023-01-26
29ゼミ発表資料ゼミ発表資料参照 Vol113■とく☆とく信州 塩田平のため池群 | 楽園信州 https://blog.nagano-ken.jp/magazine/various/622.html2023-01-27
30上田蚕種協業組合上田蚕種協業組合上田蚕種協業組合は、大正5年に地元の蚕種家が出資して上田蚕種株式会社として設立したのが始まりである。現在の事務棟・採卵室など主要な建物が翌6年に完成した。その後、昭和45年から現在の社名となっている。最盛期には22万箱の蚕種をこの組合から出荷していた。 「上田蚕種協業組合」より https://museum.umic.jp/bunkazai/document/dot252023-01-26
31常田製糸場常田製糸場【概要】 常田館製糸場は明治33年(1900年)創業の製糸工場である。笠原工業株式会社構内に常田館製糸場に関連する施設15棟が現存しており、そのうち明治から大正時代にかけて建てられた7棟が平成24年に国の重要文化財に指定されている。国内最高層の木造5階建繭倉庫、大正時代末の鉄筋コンクリート5階建倉庫群などは、製糸技術が発達した時代の先人達の工夫と知恵の足跡が歴然と残る貴重な文化遺産である。 【歴史】 嘉永5年(1852)諏訪郡平野村に生まれた笠原房吉(かさはらふさきち)が、明治33年「常田館製糸場」を創業した。以来110年余、製糸業の隆盛と衰退のなかで、製糸工場建物は増築・取り壊し・焼失・改築・移転・用途変更等の紆余曲折を経ながら今日に至っている。 【現在】 笠原工業(株)では施設の一部を一般公開している。 公開2023-01-26
32上田の食文化⑥ 〜フルーツ編〜上田の食文化⑥ 〜フルーツ編〜長野県はぶどうやりんごがとても有名なのは知っていましたが、普通に道沿いにある木にりんごがよく生えていたり、道にりんごがころあっているのをよく見かけるので、それぐらいよく採れるものかとびっくりしました。 1番驚いたのは、写真のようにりんご畑に大きな穴が掘ってあって、そこに大量のりんごが入れられてたことです。 直売所にいけばとても安く売っているので、フルーツ自体も好きですし堪能してます。巨峰大好きなので、安くおいしいものが気軽に買えるのでとても嬉しいです。2023-01-26
33別所温泉の魅力を塩田平活性化に活かす別所温泉の魅力を塩田平活性化に活かす別所温泉には落ち着くカフェ、きれいな景色など様々な魅力があります。 ただ道が狭く、坂も多いため、観光が大変という面もあります。 そこで超小型車の活用やガイドの方を募り、車で移動しながら、そしてガイドの方の説明を聞きながら、別所温泉を観光するというのも良いのではないでしょうか?2023-01-26
34蚕都上田の歴史と未来蚕都上田の歴史と未来私は「蚕都上田の歴史と未来」というテーマで蚕都について探求しました。より考えを深めるために計四か所の施設に見学に行きました。 一枚目の写真は上田駅の構内に設置されている繭の女神様です。蚕糸業の全盛期時代である大正時代から蚕は上田の地を支える存在であったことが分かりました。 二枚目、三枚目の写真は常田館製糸場と上田蚕種協同組合事務棟です。製糸場は繭の乾燥や保管のために多窓式になっているなど建物ごとに様々な工夫が見られました。製糸場の建物15棟中7棟は国の重要文化財に、事務棟は文化庁の登録有形文化財にそれぞれ指定されています。四枚目の写真はホール、美術館などの複合施設であるサントミューゼです。名前の由来は蚕都からきており、人々の交流の場として上田市には欠かせない存在になっています2023-01-26
35市街地方面の神社・寺院と真田氏市街地方面の神社・寺院と真田氏上田城周辺には、神社・寺院が多数存在する。しかも、同じような場所に集まっている場合が多い。これは、地域のシンボルである上田城に深く関わってくる。1583(天正11)年、上田城を築城した真田昌幸は、城下町として海野町を作った。これは、先祖の地である海野郷(現在の東御市本海野)より、新たな本拠地近くに住民を移住させたことに由来する。それに伴い、海野郷近辺にあった寺院を城の近くに移した。例えば願行寺や日輪寺といった寺院がこれに該当し、真田氏の先祖である海野氏が開いたとされる場合が多い。特に願行寺は、江戸時代に上田藩の菩提寺になったほど、この地域や人々に深く根付いていたと考えられる。また海野町には、商売繁盛を利益とする高市神社がある。これは昌幸がつくったものだ。 このように、上田城を築城す2023-01-26
36”温泉”という身近なお風呂”温泉”という身近なお風呂住んでいる中で一番、観光する目的が明確にある場所といったら別所温泉であるといえる。 なぜ目的が明確にあるのか。 それは、上田市に住んでいる学生は実家を離れてアパートなどで一人暮らしをしている人が多い。 そのため、お湯を沸かしてくれるリモコンなどの設備が無いため、シャワーだけで済ます人がほとんどである。そのため、温泉という「湯船」に気軽に浸かれる場所というものはとても貴重である。さらに、今の時期(これを書いている日付は2023/01/27)は寒さが厳しく給湯器が凍ってしまいお湯が出にくいという人も大勢いるのではないだろうか? そのため、風呂に行くという目的の下、温泉に観光に行けるのではないだろうか。 別所温泉付近だけでも約7箇所あるため、1週間ごとのシフトを組んでみて赴いてみるというのも面白いかも2023-01-26
37平成の食平成の食味噌や醤油は、以前では村で共同の場を設けて作っていたが、それがほとんどなくなった。原材料の生産減少や、労働の変化によって、かかる時間自体が少なくなったことも、関係しているようだ。漬物については、野沢菜漬けやタクアン漬けなどは昔からつくり続けている家庭が比較的多いようだ。また、酢漬け、粕漬けなどは新たに作られるようになり、ラッキョウ漬けや福神漬けは作ることをやめる家庭が多い。しかし、若者を中心に漬物を食べる量が減り、今後にも変化が大きい食であるようだ。2023-01-26
38平成の食平成の食山菜や雑キノコは、傾向としては採らなくなった人が多いようだ。しかし、趣味的な面も伴って、わざわざ上田地域外に出向き、採っている人もいる。タンパク源としてのイナゴ、ドジョウ、タニシなどは数も減り、食べられなくなった。その背景には水田への農薬散布が関係しているとのこと。肉や主に海の魚は店で買えるようになったため、その種類が増えたり、以前よりも多く食べられるようになった。。2023-01-26
39平成の食平成の食副食物に関して、食べられる野菜の種類は大きくは変わらないが増えた。しかし、以前はほぼ自給自足であったのに対し、大規模な店で買うことが増えた。その背景には、野菜の消費量が減った一方で、店で常時安く野菜が買える環境が整ったことが挙げられる。また、高原野菜や果樹の販売目的での栽培が増えた事で、以前より多くの種類の野菜は作られなかったことも考えられる。増えた野菜の種類としては、タマネギや中国野菜、西洋野菜がある。2023-01-26
40平成の食平成の食主食の中心は白米であり、夕飯でも食べるが、以前よりも労働力が減っていることなどから、若い世代において米の消費量が少なくなっている状況が推察された。パンについては、給食の影響で食べる機会が増えたようだ。ウドンやホウトウなどの麺類は、以前よりは頻度が少ないものの、好まれて食されている。2023-01-26
41昭和の食昭和の食タンパク源としては、魚介類と動物類がある。魚介類では、日常的に食べられていたのは煮干し、鰹節、イワシなど。ウグイなどの川魚も貰って食べられていた。肉類はほとんど食べず、食べたとしてもご馳走として数少ない機会だった。イナゴやドジョウ、タニシなどの生物を食べていたようだ。2023-01-26
42昭和の食昭和の食副菜として、山菜や雑キノコなど、栽培される野菜以外に自生している恵みを利用していたことがわかっている。山菜やキノコについて詳しい人が大量に採ったと言う記述も残っている。ある季節にしか無いものを十分に食生活に生かしていたようだ。2023-01-26
43昭和の食昭和の食一般的に米を節約するため、夕飯には小麦を使った料理を主食として食べていた。小麦は粉にしてオザンザ(小麦粉を打って平らにして幅1センチくらい、長さ20センチくらいにして、野菜と味噌で煮たもの)として食べられていた。同様の料理として、ツミイレや、ブチコミ、スイトン、ホウトウと呼ばれていたものもある。このような麺類が夕飯の中心だったようだ。2023-01-26
44昭和の食昭和の食大多数の人が白米ではなく麦を混ぜた麦飯を食べていた。夕飯以外で主に主食として食べられていた。季節によっては、大根の葉や芋、栗、カブなどの食材を混ぜており、醤油や味噌、またはそのような調味料で味付けされた野菜、山菜料理を混ぜて五目ご飯のようにして食べていたようだ。2023-01-26
45名工の社殿と養蚕農家 ~上田市下堀地区~名工の社殿と養蚕農家 ~上田市下堀地区~信濃国分寺駅の南側に位置する下堀地区です。 ここには堀川神社があり、今でも地区住民によって守られています。 拝殿は一見シンプルですが、本殿を見ると見事な装飾があります。これは1886年(明治19年)に上田の名工竹内八十吉によって掘られたものです。八十吉は1815年(文化12年)から1898年(明治31年)まで活躍した諏訪立川流の大工で、堀川神社以外にも信濃国分寺の本殿の彫刻も掘っている。 次に下堀地区は養蚕業で栄えていた地区である。その証拠がこの石垣である。 これは、ぼたもち積みと呼ばれる積み方でお金持ちの家しか作ることができない石垣である。https://d-commons.net/upload/4/575/054168_0023_006.jpg養蚕業で儲けていたからこそできる石垣で、当時は養蚕農家それぞれが競い合って家を建てていたそうだ。それほどまでにこの地区の養2023-01-19
46塩田から見る塩田から見る私は信州上田学の授業を通じて、塩田の地域の発展に必要なことを自分なりに考えました。2023-01-26
47眞田神社眞田神社眞田神社は「上田合戦」に勝利した真田昌幸・幸村親子をはじめ代々の上田城主を祀った神社なので、「勝負運」や「勝運」、落ちない城ということで「学業成就」のご利益があるとされています。2023-01-26
48戦前長野の農業形態①戦前長野の農業形態①信州デジタルコモンズにて見つけた「信農産業誌 完」には戦前、およそ明治20年~40年辺りの長野の農業に関しての特徴や収穫高のようなデータが記載されている。現在の農業形態と比べると違った面が見られる。興味深いものがいくつかあったのでピックアップしていきたい。2023-01-26
49信州上田学まとめ信州上田学まとめ私は蚕都上田の歴史について探求しました。重要文化財である常田館製糸場や上田蚕種協業組合などに見学に行き、実際に使われていた建物をこの目で確かめることができ、改めて上田が蚕都の盛んな地域だったということを実感しました。特に印象的だったのが常田館製糸場の建物内で見つけた「猫は蚕の神様です」という言葉です。蚕が無事育ち、良い繭を作ってくれるようネズミ避けのために猫にまつわる様々な祈願がされていたと分かりました。常田館製糸場は綺麗に保管されており、中には繭で作った作品などもあったので、行ったことが無い方はぜひ足を運んでいただきたいと思いました。2023-01-25
50上田のelaboration 上田の「観光産業」を知ってほしい!!上田のelaboration 上田の「観光産業」を知ってほしい!! キュレーションとは、インターネット上の情報を、特定の視点を持って収集、選別、編集することで新しい価値を持たせ、それを共有することを意味する語である。https://www.hrpro.co.jp/glossary_detail.php?id=99より引用 そこから私は上田のキュレーションとは上田の情報を我々の視点から収集、選別、編集することで価値を持たせ、上田の良さの再発見するということだと定義した。 私の上田のキュレーションは上田の「魅力」「良さ」の再発見であり、私は、それは「観光産業」にあると考えた。私が第一に上田で目を付けた観光産業は「十福の湯」だ。上田にお住まいの人ならば知っている人は知っている上田の名温泉だ。この温泉は信州最大級の大露天風呂を有しており、屋外独立の檜サウナもある。さらに自然豊かなため、温泉浴だけではなく、森林浴2023-01-25
51吉田東伍について吉田東伍について越後の農民として生まれた吉田東伍は、郷土の大地こそが日本の風土の一部であり、日本を正しく理解するためには、風土を組み立てている郷土についてしっかり見なければならないと考えていた。13年という長い時間をかけて編纂した、大日本地名辞書は人間の活動地帯である「土地」と刻まれた歴史の語り部としての「地名」を大切にすることを教えた。我が国全土の「郷土の未来」を見据えるための学問であると言える。 彼は教育をほとんど独学で行い、図書館に保管されている書籍や学術論文を主な教材としていた。その知識を活かして小学校教諭になった経歴がある。 彼の地理学の研究から、彼は小さな町の目立たない郷土や風土は決して意味のない産物ではなく、日本という国を作る一つの要素として働きかけているのだと伝えているのだと2023-01-25
52安楽寺安楽寺信州最古の禅寺で、座禅体験ができる。境内にある木造八角三重塔は、木造の八角塔としては全国で一つしかない貴重な建築で、長野県では一番早く国宝に指定された。全体的に奇麗に整備されており、緑の木が多いためサルスベリの花のピンク色がとても映えていた。蓮池には、白い蓮の花が咲いていて奇麗だった。また、背が高く一枚一枚の葉が大きかった。 別所温泉旅館組合「別所温泉のオススメ観光情報[公式]」 https://www.bessho-onsen.com/ (最終閲覧2023/1/26)2023-01-25
53常楽寺常楽寺北向観音の本坊で、鎌倉時代には天台数学の道場として栄えていた。境内には国の重要文化財に指定されている石造多宝塔があり、苔が生えていて趣を感じることができた。樹齢350年の「御船の松」は、とても立派な松だった。 別所温泉旅館組合「別所温泉のオススメ観光情報[公式]」 https://www.bessho-onsen.com/ (最終閲覧2023/1/26)2023-01-25
54北向観音北向観音『現世利益を願う厄除観音として知られる「北向観音堂」。本堂が北を向いて建てられることはほとんど例がなく、長野市にある未来往生を願う善光寺(南向き)と向き合っていることから「北向」と名付けられて』(別所温泉旅館組合)いる。境内からは、町の景色を見ることができた。また、通りには、お土産屋さんやジェラート屋さんなどがあった。 別所温泉旅館組合「別所温泉のオススメ観光情報[公式]」 https://www.bessho-onsen.com/ (最終閲覧2023/1/26)2023-01-25
55兎束武雄(うづかたけお)兎束武雄(うづかたけお)上田町大手の銀行家兎束鐘一郎の長男として生まれた武雄は、幼い頃から音楽に特別な興味を示す子どもでした。しかし、父親は音楽は男のするものではないと考え、武雄の音楽に対する熱意を快く思っては居ませんでした。母親は、音楽を好み自ら琴を弾いたり、4人の姉妹たちにも琴を習わせていました。  上田中学校(現上田高校)を卒業した武雄が、音楽の道に進みたいと父親に相談しましたが猛反対を受けましたが、母親の協力と武雄の熱意に最後には承諾しました。  武雄は上京し、東洋音楽学校に入り勉強に励みましたが、東洋音楽大学だけの勉強では満足できず、他の大学でも聴講し、作曲やピアノ、チェロなどを勉強しました。大学を卒業した武雄は、高等学校の教師になることを決意して上田に帰ってきました。  上田に戻った武雄2023-01-25
56プロジェクト研究 パワーポイントプロジェクト研究 パワーポイント2023-01-25
57蚕業方法蚕業方法自然の通風を重視した養蚕法である「清涼育」、温度と湿度を管理する養蚕法である「清温育」がある。2023-01-25
581910年の上田の気候1910年の上田の気候長野地方測候所の記録によると、1910年の上田(小県郡上田町)の最高気温は7月21日の34.7度、最低気温は2月3日のマイナス12.1度だったことが分かる。 2022年の上田市の最高気温は38.8度、最低気温はマイナス10度であり、これは現代の上田市の気候より冬はやや寒く夏はやや暑いくらいである。今と変わらず上田は夏は暑く冬はとても寒い気候であったことが分かった。 また最大積雪量を記録したのは3月23日の一尺一寸(約33センチ)であり、この年は現代の上田市の平均的な積雪量よりかなり多かったことが分かった。2023-01-25
59蚕業の背景蚕業の背景江戸末期、鎖国政策を終え古くから生産されてきた生糸を中心に貿易を開始した。しかし、増える需要に対して品質基準を満たす生糸の生産が追い付かない状況であった。 明治維新を経た日本は、「殖産興業」による「富国強兵」を掲げた。それに伴い、生糸を主要な輸出品とし、品質向上、生産力向上に努めた。 新たな生産工場の建築を行うために、フランスなどから技師が招聘されるなど、積極的な動きがあった。2023-01-25
60蚕業と気候蚕業と気候上田市は年間降水量が1000mm未満であり、日本一晴れの日が多い街である。この気候は蚕の飼育に適しており、上田市は日本でも屈指の蚕の産地になった。2023-01-25
61サントミューゼサントミューゼサントミューゼのサントは、かつて蚕都として栄えた上田市の歴史と、日本一の晴天率を誇るため、太陽が燦々と、さらには文化・まち・人を育てるという3つの目標が込められている。 ミューゼはミュージアムからの造語である2023-01-25
62蚕業の施設蚕業の施設長野県上田市では、かつては蚕業が盛んな地域であった。それを象徴するのが常田館製糸場である。この製糸場は明治33年創業の歴史ある建造物である。当時の養蚕業は日本の近代化の原動力であり、様々な箇所で利用されていた。この施設では、室温度、通風、乾燥などを整えることで、一年を通して平均的に生糸を生産することが可能となっていた。 木造5階建繭倉庫、鉄筋コンクリート5階建倉庫群などは、国指定重要文化財に指定されている。2023-01-25
63桑皮生産増強に就て(『西塩田村公報』第5号2項)桑皮生産増強に就て(『西塩田村公報』第5号2項)桑皮生産の増強についての記事である。上田は桑栽培の適作地であったことから桑が多く栽培されていた。 蚕の餌として生産していたと考えていたが、戦時中は繊維資源としても生産していたようである。 また、「東亜共栄圏」という言葉が多く使われている。 日本政府がスローガンとして使っていただけでなく、日常でも「東亜共栄圏」という言葉が使われていたことが分かる。 ▼この記事は以下から参照できます。 #928 『西塩田村公報』第5号(1942年5月22日)2頁2023-01-25
64安楽寺八角三重塔安楽寺八角三重塔日本で最も古い臨済禅宗寺院の一つである安楽寺。そこにある木造八角三重塔は、木造の八角塔としては全国で一つしかないという貴重な建築で、長野県では一番早く「国宝」に指定された。 https://museum.umic.jp/bunkazai/document/dot1.html2023-01-25
65上田紬とは上田紬とは今からおよそ400年前に生まれ、歴史のある絹織物の上田紬。 特徴は草木染めという果実や植物などの天然染料を使って毛糸を染め、目を細かくしっかりと打ち込むことで生まれる丈夫でしなやかな生地。 また、柄は縞・格子柄で、シンプルで飽きのこないデザインは江戸時代より、万人から愛されてきました。2023-01-25
66仙石氏中興の祖 仙石秀久仙石氏中興の祖 仙石秀久上田藩主を務めてはいないが、仙石氏について調べる上で欠かせない人物が秀久である。秀久は織田、豊臣に仕えた後、関ヶ原の戦いでは徳川方に参戦していた。豊臣時代に小諸城主と小諸藩主を務めたが、仙石氏は小諸藩から上田藩に移封されることとなった。秀久は小諸藩時代に死去していたため息子忠政が信之の跡を継ぎ、仙石氏3代による上田統治の時代が始まった。 参考サイト 上田市デジタルアーカイブポータルサイト https://museum.umic.jp/sakuhin/web.html 上田市立博物館 https://museum.umic.jp/hakubutsukan/ueda-castle-history/03/2023-01-25
67岳の幟岳の幟塩田平の西辺に位置する別所温泉地区には、「岳の幟」と呼ぶ雨乞〔あまご〕いの祭りが伝わっています。この塩田地方は昔から水不足で大変悩まされてきた所で、灌漑〔かんがい〕用の溜〔ため〕池も多く造られ、雨乞い行事もいろいろ行われてきました。 ー中略ー 祭日は例年七月十五日(近年その日に近い日曜に変更)として、別所の上手〔わで〕・院内〔いんない〕・大湯〔おおゆ〕それに昭和四十九年大湯から独立した分去の四地区で、輪番〔りんばん〕に幟の役に当ります。夜明前に、上部に笹のついた竹竿と巻いた布を担いで夫神岳に登り、日の出と共に九頭竜神の石祠に布と神酒を供え、郷中の安全と五穀豊饒〔ごこくほうじょう〕を祈ります。 ー中略ー 支度を整えて日影公民館に待機をしていた三頭獅子とささら踊りの一行がそれに加わり2023-01-25
68真田氏~仙石氏 藩主の移り変わり真田氏~仙石氏 藩主の移り変わり仙石氏が上田藩主を務めることになった理由は、1622年に当時の上田藩主を務めていた、真田信之(幸村の兄)が松代へ移封されたことが原因である。 「上田城は真田の城」というイメージが強いが、実は真田氏が城主を務めたのは信之とその父昌幸の2代だけである。 参考サイト 上田市立博物館 https://museum.umic.jp/hakubutsukan/ueda-castle-history/03/2023-01-25
69温泉薬師瑠璃殿 解説温泉薬師瑠璃殿 解説本尊薬師如来。北向観音堂の西方の崖の上に建てられた一風変わった建物で「医王尊瑠璃殿」と呼ぶ。建立年代は明らかでないが、資料によれば焼失した後文化6年(1809)に地元湯本薬師講中によって再建されたという。温泉の効能に併せて病気を除き解脱するという深い温泉薬師信仰に由来するものである。「瑠璃殿」という名は、薬師如来を瑠璃光如来とも呼ぶところからとった名である。 http://db.umic.ueda.nagano.jp/johogura/datadisp.php?arg_sano=668014より引用2023-01-25
70別所温泉 解説別所温泉 解説塩田平を囲む山なみの西方にそびえる夫神(おがみ)岳のふもとに、この地方の古い歴史とともに、絶えまなく湧き続けて来たのが別所の温泉である。この自然の出湯と人とのかかわりは、夫神岳の麓から古代の布目瓦が多数発掘されたことによっても、その古さが想像される。 国造や国府の所在していた古代から、庶民の安息療養の場所であり、また温泉の効能と医薬信仰が、やがて仏教の霊場としての北向観音堂となったであろう。 別所の温泉は昔から”七久里(ななくり)の湯”と呼ばれたといわれ、平安時代の有名な和歌集にもその名をとどめている。 鎌倉時代には北条氏の居館塩田城にも近いので北条一族の好んで来湯することも多かったと想像される。国宝八角三重塔のある名刹安楽禅寺は北条氏の開基によるところから、別所という地名は2023-01-25
71大湯大湯大湯別所温泉外湯のひとつ。景行天皇の御代、日本武尊の東征の折発見されたと伝えられ、古名七久里の湯、枕草子にも記された信州最古の温泉。大湯は木曽義仲が愛妾葵御前をつれて逗留したと「新・平家物語」に書かれている。 http://db.umic.ueda.nagano.jp/johogura/datadisp.php?arg_sano=3032090より引用2023-01-25
72別所温泉別所温泉別所温泉JR上田駅から電車で25分、バス30分、海抜650メートル静かな高原の湯の里。温泉は54度C単純硫化水素泉で無色透明。宿は20軒、平安貴族の別荘があったところから別所という。 http://db.umic.ueda.nagano.jp/johogura/datadisp.php?arg_sano=2691013より引用2023-01-25
73大東亜戦争完遂映画会(『西塩田村公報』第5号4項)大東亜戦争完遂映画会(『西塩田村公報』第5号4項)農村でも映画会を開き、戦果を伝え、国民の団結力と忠誠心を強めていたと考えると、いかにマスメディアが戦争に利用されていたかが分かる。 上映されていたものはおそらく大本営の戦果発表だと思われる。そのアーカイブはNHKの戦争証言アーカイブス、戦時録音資料で参照できる。 この記事が書かれた当時(1942年5月22日)は、日本軍が優勢であったとされる。アジア・太平洋戦争の転換期であるミッドウェー海戦はこの新聞が発行されて約2週間後に起こる。 NHK「戦争証言アーカイブ 戦時記録資料 勝利の記録」 https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/sp/list.cgi?cat=kiroku 2023年1月25日閲覧 ▼この記事は以下から参照できます。 #930 『西塩田村公2023-01-25
74金井正について金井正について金井正は、明治19年神川村国分に、金井家の三男として生まれました。県立長野中学校(現上田高等学校)に入学。家庭の事情から家督を継ぎ、父が局長を務める国分郵便局の事務員として勤務しました。その一方で哲学者西田幾多郎の存在を知り、哲学に関心を高め、神川読書会を企画したり同人雑誌の創刊し、社会主義による啓蒙を図りました。山本鼎がヨーロッパ留学から戻り、訪ね、児童自由画教育と農民美術運動に感銘を受け、協力を約束し、鼎による講演会「児童自由画の奨励について」を企画。続いて「第1回児童自由画展」を開催し、予想以上の成功を収めました。  農民美術運動については、鼎と連名で日本農民美術建業の趣意書を作成して、神川村の人々に働きかけました。大正8年に第1回農民美術練習所を神川小学校で開設し、2023-01-25
75最終発表~神川小学校の地域学習支援~最終発表~神川小学校の地域学習支援~今年度「神川小学校の地域学習支援」というテーマで活動を進めてきました。前期から夏休みにかけて何度も校長先生や担任の先生方とミーティングを重ね、地域学習の授業案を考えるところから学校に提案、そして後期には実際に授業を行う機会をいただき全3回の授業をやらせていただきました。タブレット端末を活用した授業、そして児童自由画教育を取り入れた授業を行ったことで、地域をフィールドにした児童の主体的な学びの支援ができたので良かったと思います。2023-01-25
76別所温泉の歴史別所温泉の歴史別所温泉は825年から存在する信州最古の温泉と言われている。別所温泉は東山道によって知名度が上がったと言われている。 https://miryoku-sosei.rgr.jp/sight/spa-his.html より引用2023-01-25
77農民美術運動を促進した人物農民美術運動を促進した人物版画家・山本鼎は、明治15年愛知県岡崎市で生まれましたが、父親が小県郡神川村大屋(現在の上田市大屋)に大屋医院を開業したため、鼎は上田との由縁がありました。 鼎は版画家としてだけでなく、画家としてもその名を残しました。明治35年、20歳で東京美術学校へ入学し、「湖畔」で有名な黒田清輝に油絵を学びました。大正元年にはフランスに渡り、その間に描いた作品はどれも好評を博しました。 帰国後、児童画とその指導方法の改革を目指した運動を起こします。鼎は絵を描く技術、方法が重要ではなく、自分の目で見て、感じたとったものを描くことが、児童の発達に大切などだと説きました。その後大正8年4月には神川小学校で第一回児童自由画展覧会を開催し、自由画教育は全国各地に広がりました。 一方、大正8年11月には神川村2023-01-25
78農民美術の魅力農民美術の魅力農民美術の特徴としてまず、具体的なモチーフがあるという点がある。モチーフが明確なため表している物が理解しやすく、楽しみやすい。また、どれも作風が独特であり見ていて飽きることなく楽しめる。中でも木を掘ったものでできているこっぱ人形と呼ばれる物は形は歪ではあるが手彫り特有の温かみがあり楽しげな雰囲気を感じられる。どれもとても可愛らしく、長時間眺めてられるほど魅力がある。 二つ目の特徴としては構成が明瞭であるということだ。どの作品も構成は左右対称であったりと簡易的な構成になっている。これは作者が農民であるため寄り簡単に制作できるよう工夫した結果だろう。 農民美術はその名の通り農民が行っていた美術であるため身近に感じることの出来る作品が多く、手作りの温かみがあるのが魅力だと私は感じた2023-01-24
79プロジェクト研究実践報告(修正版):持続的な地域活性化策~大洗モデル~2(ゼミ時発表資料補足)プロジェクト研究実践報告(修正版):持続的な地域活性化策~大洗モデル~2(ゼミ時発表資料補足)プロジェクト研究の実践報告の発表用資料になります。 詳細が知りたい場合は、もう一つの詳細版のスライドや、マイテーマ(卒業研究・プロジェクト研究)をご覧ください。 ゼミ内で行った発表の資料の補足(図式化した部分を多く)したものです。 「私たち(地域住民×よそ者のつながり)が熱意を持つ地域住民とよそ者を結びつける役割を継続的に行っていくことが必要である。」 これが私の行ってきた活動のまとめともいえる部分になります。 この知見を町に活かしていくことが今後の目標です。2023-01-24
80農民美術の魅力農民美術の魅力農民美術の特徴としては、一つに具体的なモチーフがあることだ。特に自然のものである植物や魚、虫などが多く感じる。そしてそのモチーフから形を少し崩しアレンジして描かれている。 二つ目にシンメトリーであったり、図案の構成が明瞭なこと。農民美術の構成のほとんどがシンメトリーであったり、簡易的なものが多く感じる。規則的に描いたりととてもシンプルな構成なため、分かりやすいのだ。 魅力としては、やはり農民美術の特徴でもある構成が明瞭な点だと思う。誰が見ても分かりやすく、目に止まるデザインだと私は思う。またデザインに可愛らしさがある。全体的に丸みを帯びていることからそのような印象をもたせるのだと思う。そしてこの農民美術は芸術家が主に作っているのではなく、農民が制作している点も魅力だと思う。一2023-01-24
81別所でひと息「風乃坂道」別所でひと息「風乃坂道」常楽寺への道中にある「風乃坂道」 落ち着いた雰囲気のこのカフェでは、心が温まるケーキがいただけます 飲み物の種類も豊富で、ケーキと相性抜群! 別所に訪れた際に立ち寄ってみては?2023-01-24
82西部地域デジタルマップ出前講座と塩尻小学校学習支援の振り返り西部地域デジタルマップ出前講座と塩尻小学校学習支援の振り返り西部地域デジタルマップ出前講座と塩尻小学校学習学習支援を実施してみての結果や課題などをまとめてあります。2023-01-24
83西部地域デジタルマップ 出前講座西部地域デジタルマップ 出前講座9月28日(水)に、塩尻地区で地域活動をする桜づつみホタルの会の皆さんに、西部地域デジタルマップの使い方講座を実施しました。 実施してみて分かったこととして、団体の皆さんのほとんどは高齢者の方ですが、思っていたよりもデジタルマップに興味を持ってくださり、使い方などを理解し身に付けることができると、たくさん活用してくれるのではないかと感じました。活動写真もたくさん持っていたので、これからどんどんデジタルマップを活用してもらえるように、今回のような出前講座をもっと実施し積み重ねていき、デジタルマップを定着させていきたいと思います。2023-01-24
84塩田平の魅力の発信塩田平の魅力の発信塩田平のちにはため池が点在しており、塩田平の駅を降りるとため池が広がっています。もともとこの土地は塩田3万石といわれる上田藩の穀倉地帯だったのにも関わらず、恵みの雨が少ない地域でした。そのため、古くから人々にとってため池は、支えになっていたのです。そして、この塩田平には長い歴史があります。歴史があるということは、人が生きた物語があるということです。私は、こういったものを上田の地元の人はもちろん、観光客の方にも伝え発信していきたいと考えました。 こういった、地方の魅力を磨き上げ発信していくためには、まず若者の力は必要です。しかし、現在、地方の若者の人口は年々減少し、若者はみんな都心に流出していしまっています。その原因には、地方の地元の魅力をあまり理解できてなく、利便性だけが追2023-01-23
85農民美術を再び普及させるには農民美術を再び普及させるには私は課題探求ゼミナールで森林資源の活用方法として農民美術のこっぱ人形に利用できないかと考えていたため農民美術を再び普及させるためにはどうすればよいかを探求テーマとした。 農民美術は今からおよそ100年前に山本鼎によって提唱された。農村部の若者たちに手工芸品の技術を教え農閑期の副業としまた、それまで無縁であった美術活動への参加を促すものであった。上田市を拠点とし全国へと波及したが戦後は徐々に衰退した。 木っ端人形をふたたび普及させるためにまずは尾澤木彫美術館にて実際に木っ端人形の製作を体験した。実際に体験してみると道具の使い方が想像以上に難しいと感じた。また使用する道具も多く個人で気軽にできるものではないと感じた。 体験を踏まえて、講師による指導のもとで気軽に製作体験ができる体験会2023-01-23
86三枝昌貞起請文三枝昌貞起請文生島足島神社には、甲斐から信濃へ版図を広げた戦国大名の武田信玄とその家臣達の起請文が数多く残されている。 起請文とは、主君に対して家臣が忠節を神仏に誓って尽くすことを決意表明した文書である。 基本的に、主君を裏切らないことや他国と勝手に文通をしないこと、賄賂を受け取らないこと等を誓うのだが、三枝昌貞の起請文は普通の起請文とは違う内容が書かれている。 内容は「信玄様に対して、如何なることにおいても愚痴を言わないこと」。このような起請文は珍しく研究の価値があるのではないだろうか。2023-01-23
87上田の魅力と活性化上田の魅力と活性化 単元3を通して、塩田平地域は「信州の鎌倉」と呼ばれ、多くの寺院や文化財、ため池など様々な魅力があることが分かった。しかし、活性化を考えたときに、オシャレや写真映えなどに興味がある若者からすると、現在の塩田平にあまり興味が湧かないと感じた。  そこで、ため池を活用した花火を打ち上げやイルミネーション、夜桜や紅葉をライトアップすることで若者を呼び込めると考えた。広いため池では、スワンボートのような足漕ぎボートを設置することで、若者だけでなく親子も楽しめると考える。  また、生島足島神社で祭りを開催したり、マルシェのようなものを開いたりすることで、老若男女問わず楽しめる場所になると考えた。マルシェでは地域の特産品などの宣伝を行うことも可能である。  以前、「信州上田レイライン線」2023-01-23
88蚕都から学ぶ発展のコツ蚕都から学ぶ発展のコツ かつて蚕種業で栄えた上田を参考に地域を活性化していく方法を模索した。  今回僕が行ったこととして、上田上塩尻にある養蚕に関わる建築物を見学し、地域が発展するために必要なことを探求した。  建築物の特徴としては、作業を行いやすいよう、屋敷をつなぐ渡り廊下跡があり、温度調節のための木造の暖房施設があった。発展を示す跡として、屋敷が多く建ててあり、家紋付きの瓦や蔵など当時の発展の象徴が多くあった。  僕はイベントを介して、建築物を見学することができたがそれらを通して、別の気づきがあった。地域の方が養蚕の歴史を詳しく知らない方がほとんどだった。今回のイベントに参加して重要性に気付いた方がほとんどだった。地域を活かすにはまず地域の人が地域について理解することで地域が活性化するのではな2023-01-23
89釜めし釜めし大学前駅から別所温泉方面に2駅進んだ中塩田駅のすぐ近くにある、小料理屋 禅美庵で食べた釜めし。1000円代前半と学生にも優しい値段でとてもおいしいのでおすすめしたい。2023-01-23
90無言館無言館日中戦争、太平洋戦争で亡くなった役130名の画学生の作品が展示してあります。画学生の魂が込められた作品は作者を思うと大変心が痛みましたが、同時に目が離せませんでした。第2展示館入口にある絵筆のベンチ(3枚目の写真)は最初見たとき、なんなのか分かりませんでしたが、彼らの筆なのだろうかと思うとなんとも言えない気持ちに襲われました。2022-12-05
91上田市立博物館上田市立博物館上田市立博物館に行き真田幸村(信繋)について学んできました。 真田家は織田、武田、豊臣家など仕える先を転々としており、豊臣家に仕えた時期が一番長かったそうです。 徳川家と豊臣家の関係が悪化してきた頃、幸村は豊臣家に誘われ、大阪城入りをします。 そこで真田丸という砦を城南に作ります。 その後に勃発した大阪冬の陣で徳川を破り、幸村は武名をあげました。 しかし、その後に起こった大坂夏の陣で徳川、真田両軍とも力尽き、幸村は命を落としました。 幸村がどんなことを行った人なのかよく理解していなかったので知ることができてよかった。 このほかにも上田の歴史を様々な面から見ることができて勉強になった。 また、十勇士の中で穴山小助、海野六郎などは実際に絵があったため 存在する人物であったと考え2023-01-23
922022年 ゼミ発表(修正前)2022年 ゼミ発表(修正前)2023/01/26 タイトル変更2023-01-23
932022前川ゼミ_J20052竹中丈二ポートフォリオ2022前川ゼミ_J20052竹中丈二ポートフォリオ1年間自分がどのような考えを持って活動を行ってきたのかをまとめたポートフォリオです。2023-01-23
94デジタルアーカイブ活動まとめ(プロジェクト研究Ⅱ発表)デジタルアーカイブ活動まとめ(プロジェクト研究Ⅱ発表)1年間のデジタルアーカイブ活動についてまとめました。今後はここで述べた事を中心に活動を継続していきます。2023-01-23
95まとめまとめ上田には歴史が詰まっている。 私は長野大学に入学してから上田市とのかかわりが増え、より感じるようになった。 例えば、上田城。石垣やお城の後はそこに時代を感じさせる。神社やお寺も意外と上田にあったりする。 上田駅を出てすぐの商店街は今も昔もそこに存在している感じがする。少し歩けばいろんなお店があって、昔ながらのものもあれば最近できたおしゃれなお店まで、点在している。 上田市がどうやって歴史をつないで今の姿になっているのかを私たちは肌で感じながら暮らすことができる。 それこそが上田にある魅力の一つではないだろうか。2023-01-23
96海野町レトロ写真館 活動報告海野町レトロ写真館 活動報告1.研究目的 上田市にある海野町商店街には、人情味溢れる店主が集まり、どちらの店主にお話を伺っても優しい対応である。また、祇園祭や七夕祭りなどのイベントをきっかけに、大勢の人々で賑わっている。しかし、大型店舗の出店増加や急速な高齢化と人口流出による客数の減少などにより、新しい取り組みを行う機会が少なくなり、魅力や集客力が低下しつつある。同じ街でも商店街に住む人とマンションの住人とのコミュニケーションが取れていない現状である。そして、商店街の人々が好きだった界隈の空間を忘れ、変わってしまった街の風景に慣れてしまっている。 そこで、海野町商店街の昔の風景の様子を今の景色と合わせてみることができる思い出の写真を地域に共有することで、人情味溢れる町の個性が表現され、地元の人々が魅力の2023-01-23
97上田の都市開発について(前川課題発見ゼミ)上田の都市開発について(前川課題発見ゼミ) 私は、上田の探検を通して、上田は細い道が多いことや、郊外に市街地が拡散していることが課題であると感じた。これらの問題の解決方法の一つとして、道路交通網の整備や区画の見直しといった大規模な都市開発が不可欠だと考えた。  そこで、近年急速に都市開発がなされ、区画が整理された佐久平と交えて、上田の行っていくべき都市開発の在り方について考えた。  佐久平はかつて田園風景の広がる盆地であったが、新幹線の開通により急速な発展を遂げたことは周知の事実である。一般的に、新幹線の開通に伴う佐久平の都市開発は、成功例の一つだといわれている。  だが、この急激な発展によって生まれた弊害もある。その弊害は、佐久市の岩村田地区に顕著に表れている。岩村田はかつて佐久市の中心市街地であった。しかし、新2023-01-23
98プロジェクト研究実践報告:持続的な地域活性化策~大洗モデル~1(ゼミ時発表資料)プロジェクト研究実践報告:持続的な地域活性化策~大洗モデル~1(ゼミ時発表資料)プロジェクト研究として取り組んだことを、実践報告書としてまとめました。 こちらはゼミ内で発表した資料になりますが、文章量が多く読みにくい部分が多いと思います。 内容といたしましては、より分かり易くまとめなおした資料を作成いたしましたのでそちらをご覧ください。 ゼミ発表資料として残しておきます。2023-01-22
99create owaraiの開催で得た知見create owaraiの開催で得た知見第二回の「create owarai」の運営にあたり、参加者の方々の年齢に着目した。 参加者の方々は40代前後の方が多く、人生の折り返し地点に来て自分の持つスキルを地域活動に活かしたいという熱意のある方が多かった。 このことに関して、情報発信を通してこの熱意を持つ人々を結びつけることで、この熱意を自主的な地域活動に繋げられないかと考えた。 つまり、この橋渡しが継続的に行われれば、持続的な地域活性化への一助となるのではないかと思う。2023-01-22
100インターネット上での交流が人々をつなげるインターネット上での交流が人々をつなげる大洗町の事例研究を考察したところ、インターネット上での交流が、町とよそ者を結びつける手段として大きな役割を持っていると考察しました。 情報発信を始めとするインターネットを活用した取り組みを行うことで、他の地域に点在する町づくりや大洗町に興味、熱意を持つ人々を結びつけることが出来る。 そして同じ志を持つ者同士が繋がりを得ることで、自覚的な活動が促進される。 このように、DX化の進む現代におけるインターネット上での交流の必要性は非常に大きいと言える。2023-01-22
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