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1蚕業膝栗毛 第1編②蚕業膝栗毛 第1編②本文は、このように全部の漢字にフリガナがふってあるため読みやすいものになっている。 蚕業膝栗毛第壱編・第弐編は、藤本蚕業資料目録には掲載されていたので、今後藤本蚕業アーカイブにも掲載されたら詳しく見てみたい。 参考サイト:信州デジタルコモンズ ▼この資料は以下から参照できます 「蚕業膝栗毛 第1編」 https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/library/02BK0102151032 (2023/1/27閲覧)2023-01-27
2蚕業膝栗毛 第1編①蚕業膝栗毛 第1編①これは、明治29年2月に発行された、蚕業をテーマにした小説である。蚕業の質を高める為の講演会などの際に一緒に戯演されたものの書籍版、もしくは講演会で販売されたものだと考えられている。東海道中膝栗毛を捩っており、登場人物は主人公とその幼馴染。物語は、蚕業で成功した主人公が大失敗して財産がなくなったところから始まる。主人公は幼馴染を誘って、蚕業の知識を生かした蚕業大演説会を開催した。これがある程度うまくいったことが発端となり、蚕業改革の一端として日本蚕業倶楽部の設立を考える。その設立資金を蚕業演劇で稼ぎ、蚕業視察のために全国漫遊に出るという内容だ。 参考サイト:信州デジタルコモンズ ▼この資料は以下から参照できます 「蚕業膝栗毛 第1編」 https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/library/02BK0102151032 2023-01-27
3鮭の粕煮鮭の粕煮魚は神事や祭りの供え物として欠かせないもので、「サケ」は祝い料理として食べられている。サケが歳取り魚として用いられ、塩サケを使った「鮭の粕煮」は、東信地域(佐久市も含む)の主にお正月には欠かせない料理となっている。私の実家でも、おせち料理に加えて必ず出てくるのが「鮭の粕煮」である。地域によって、ブリの場所もあるそうでそのことについても調べる中で初めて知る事が出来ました。 参考文献 https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/type/soup.html2023-02-01
4西塩田時報から学ぶライフハック②西塩田時報から学ぶライフハック② 西塩田公報には『家庭メモ』というコラムがあり、生活に役立つコツやレシピなどを紹介している。  ここでは私が気になった記事を紹介していく。 ~この記事で知ることができるライフハック一覧~ ・壁についたインクや墨汚れを落とすには白布に食酢を二倍に薄めたものをぬらして拭く ・手についた魚臭さはミカンの皮を茹で、その煙を手に当てると匂いは消える ・鼻が詰まるとき、洗ったドクダミの葉を塩でもみ、細かく刻んだものを鼻の中に入れる。30分から1時間ほど待機×3回ほど行うと鼻詰まりが解消される。  薬が簡単に手に入らない時代だと思うので、こういった身近な植物を使った治療法が良く記載されています。  現代でもこの知識は活用され、薬という風に形を変えて存在しているものも数多くあります。昔の人の知識2023-02-01
5西塩田公報から学ぶライフハック①西塩田公報から学ぶライフハック① 西塩田公報には『家庭メモ』というコラムがあり、生活に役立つコツやレシピなどを紹介している。  ここでは私が気になった記事を紹介していく。 ~この記事で知ることができるライフハック一覧~ ・サビた包丁には大根の切り口に歯磨き粉をつけて磨く ・おでき(ニキビ?)には患部に直接ゴボウの葉を当てて縛っておくと膿が抜ける ・新品の歯ブラシを使う前に熱い塩水に水が冷めるまでつけておき、しっかりと乾かしてから使うと二倍長持ち ・味付けをする際、塩は砂糖よりも材料にしみこむ速度が速いため、砂糖は先に使うこと  現代では用途によってさまざまな洗剤や掃除用具が存在 していますが、この記事掲載時(昭和28年4月5日)にはまだそういったものはなく、知恵を用いて生活をしていたことがうかがえます。  また、2023-02-01
6笹沢檪亭 (ささざわれきてい)笹沢檪亭 (ささざわれきてい)檪亭は、安政2年(1855)、小県郡坂井村(現上田市塩川)に生まれ、本名を清十といい、幼い頃より画才に富み、花鳥画を描いては村人を感嘆させたといいます。早くに父を亡くし苦労して育ちますが、母の理解もあって、明治6年(1873)、18歳の折に島田桃渓とうけいに師事して絵の指導を受けたのを手始めに、明治18年(1885)、29歳の時には、水戸の木下華圃かほに師事。この頃から専業画家としての道を歩むことを真剣に考え始めたものと思われます。  明治19年(1866)、31歳の折には終生の師となる児玉果亭に入門を許され、果亭より檪亭の雅号を受けました。この檪亭が入門した明治19年は、第2回内国絵画共進会に出品した果亭の即品が天覧に供され、出品2点のうち1点が宮内省買上げ、1点が銀杯(こ2023-02-01
7林倭衛 (はやししずえ)林倭衛 (はやししずえ)父は、倭衛が小学校在学中に製糸工場経営に失敗し、明治40年の春、倭衛と弟を実家の小林家にに預けたまま夜逃げ同様に東京へと出てしまいました。実家は上田駅に近い北天神町通りで蚕種用の和紙などを商っていましたが、倭衛は友人たちから離れ孤独にさいなまれましたが、同じ頃に同じ北天神町に移り住んだ馬場衛まさるが、生涯の友となりました。約1年の後にようやく父母の下に引き取られはしたものの、何かにつけて旧士族出身にこだわって失敗を繰り返す父に対して、倭衛は激しく不信を覚え続け、やがて少年の孤独感は次第に不屈な自立心へと成長していくのでした。  明治43年には印刷会社の給仕となり月給を得るようになると、近くの水彩画研究所の夜間部に入り、明るく旺盛な好奇心のままに、生涯にわたる美術関係の友人を2023-02-01
8久米正雄(くめまさお)久米正雄(くめまさお)久米は、明治24年上田片平町(大手町)で生まれました。父由太郎は明治28年小県郡立高等小学校兼上田尋常小学校校長として勤務していましたが、明治31年、父が校長を務めていた上田尋常高等小学校上田分教場が焼失。その責めを負って父が自刃してしまったため、一家は母の実家福島県安積あさか郡桑野村へ転居し、ここで久米は中学時代を過ごしました。  この時代に、安積中学校の教頭と国語教師に指導を受け、俳人としての才能を見込まれ、将来を嘱望されるまでになりました。中学校在学中に「笹鳴吟社」を結成、また、学校教員の集まりである「群峰社」にも参加。桑野村を訪れた正岡子規や河東碧梧桐かわひがしへきごとうの影響を受け、新俳句会への道を進み、一高時代には碧門下の日本派俳人として知られるようになりました2023-02-01
9上田のスポーツ上田のスポーツ塩田地域では青年たちによるスポーツの大会が開かれており、競技は野球とバレーでした。記事の内容には競技のなかでのスポーツマンシップについてやどんなプレーがでたのかが書かれていました。 それとは別にも村の体育祭も開催されていました。多様な種目にわたるものになっており、おもしろい名前の競技もありました。「まずいっぷく」や「2百才リレー」などがとても興味をもちました。 また、現在でも上田オール西部というソフトボールチームが存在しています。大会に優勝し北海道での全国大会に行くことも書かれています。同様にバレーもママさんバレーとしてチームがあり、こちらも優勝を経て全国大会に行っています。これらも過去の歴史として地域で盛んだったスポーツの熱が残っていることが一つの地域の伝統なのではないでし2023-02-01
10地方選挙への期待地方選挙への期待投票への積極的参加を促す一文である。 さらには参加者の良し悪しまでもが書かれてる。 自分が関係する政治だけでも良いものにしていこうという志の高さを感じた。2023-01-31
11小学校だより 運動部小学校だより 運動部学校だよりの内容はいまの小学生がもらってくるものと同じで保護者向けのものでした。しかし今よりも謙っておりとても丁寧に固い表現な印象をうけました。 運動部の欄では野球部の部分のみを投稿しているがそれぞれの部活動のメンバーがフルネームで掲載されていました。プライバシー面で今は論争が巻き起こりそうですね。 ▼この記事は以下から参照できます。 #1260 『西塩田公報』第83号(1954年8月5日)4頁 リンクする場合は以下のようにHTMLで記述する “”は付けないこと https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p1261.jpg2023-01-31
12中村利貞の名刺十五枚②中村利貞の名刺十五枚②名刺の書かれ方がバラバラで、恐らく今のような大量印刷ではなく一枚一枚作っていただろうことから、紙が貴重な時代だったことが伺える。 名刺は必要になったら少し作って足す、という習慣があったのだろうか? 内容はシンプルで、名前のみ印刷されているもの、それに加えて手書きか赤黒印で肩書が記されているものがある。 『名刺十五枚(中村利貞)』| 信州デジタルコモンズ| https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/library/02OD51701000002023-01-31
13中村利貞の名刺十五枚①中村利貞の名刺十五枚①明治19年に古間・大井・平岡・穂波・富濃・荒瀬原・柏原の七つの村の連合戸長を務めた、中村利貞の名刺である。 名刺15枚が反故紙に包まれている。反故紙は女性からの手紙を再利用したもののようだ。 七つの村を治める偉い人物でも、紙を無駄にできないぐらい、紙が貴重だったのだろうか。 『名刺十五枚(中村利貞)』| 信州デジタルコモンズ| https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/library/02OD51701000002023-01-31
14兎束武雄兎束武雄上田町大手の銀行家兎束鐘一郎の長男として生まれた武雄は、幼い頃から音楽に特別な興味を示す子どもでした。母親の影響で琴を習っていたそうです。音楽に興味を示していた幼少期ですが、父親からは反対されていたそうです。 上田中学校(現上田高校)を卒業し、東洋音楽学校に入り勉強に励みましたが、東洋音楽大学だけの勉強では満足できず、他の大学でも聴講し、作曲やピアノ、チェロなどを勉強しました。大学を卒業した武雄は、高等学校の教師になることを決意して上田に帰ってきました。武雄は、音楽の楽しさや喜びを多くの人々と分かち合いたいと考え、地域の音楽活動に力を注ぎました。昭和8年、28歳のとき、梅花幼稚園の同窓生に声をかけ、「からたち合唱団」を創りました。当時、県下で混声合唱団と呼ばれるものはなく、上田2023-01-31
15小林一茶 一茶一代小林一茶 一茶一代小林一茶の詩や俳句がまとめられている資料である。 収録数は前編の発句が春、夏、秋の部がそれぞれ約1000、冬の部は約800、雑の部は22。俳諧歌は春の部62、夏の部30、秋の部54、冬の部28、雑の部59。文章は60。尺牘(手紙の類)は16。茶話は6。連句は春の部18、夏の部13、秋の部39、冬の部40、雑の部3。後編は発句が春の部120、夏の部95、秋の部101、冬の部49。連句は春の部3、秋の部5、冬の部2となっている。(信州デジタルコモンズより引用) それぞれの編を春夏秋冬と編纂しているのがいかにもは俳諧師という感じがする。この集は一茶本人が出版したものではなく、一茶の息子である直樹が出版したもの。 読み物としてはほとんど古語で書かれているため、かなり難読で、アマゾンなどで現代語訳されたものが販売されているため、読んでみたいと2023-01-31
16記事1記事1昭和六年一月号  この記事は徴兵制度を示したものである、全面戦争前の1931年に戦争の準備をはじめと見える様子。 参考資料:西塩田時報(1930~)第81号~第100号 昭和六年一月号2023-01-30
17野沢菜野沢菜野沢菜は、県の北東にある野沢温泉村の住職が宝暦6年に京都から天王寺かぶを持ち帰り植えたのが始まりといわれている。温暖な地域の天王寺かぶは、標高600メートル近くもある高冷地の野沢温泉村の気候風土により突然変異を起こし、根が育たず葉と茎だけが大きくなり地域独特のものとなった。味は美味しいと好評で、地名の付いた「野沢菜」として広まっていった。 野沢菜食べたことがあったが画像のツルヤの野沢菜油炒めが特別美味しかった。漬物に香ばしさが追加されるだけでこんなにうまいかという感じだった。 参考文献 https://nozawakanko.jp/about/nozawana/ https://d-commons.net/uedagaku?c=28&p=40782023-01-30
18やたら漬けやたら漬けやたら漬けの名前は、なすやきゅうり、しその実やみょうがなど、「やたら野菜を使って、やたらおいしい」ことが由来だという。半年かけて漬ける冬の保存食で、何種類もの野菜を使う。通常、漬け物の野菜は全部同時に漬け込むが、やたら漬けはそれぞれの野菜の収穫時期が異なるので、季節別に漬け物桶に塩漬けにしておく。その後11月頃に、塩抜きした野菜を粗く刻み、唐辛子や調味液に数日ほど漬け込んで完成する。 由来にもある通り、様々な野菜を使われていて食感が非常に楽しい漬物だと感じた。山形県のだしに通ずるものがあるような食べ物だという印象を受けた。ご飯が進む味付けでくどさがなくたくさん食べれるものだと感じた。 参考文献 https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/40_30_hyogo.html https://d-commons.net/uedagaku/j222023-01-30
19鯉こく鯉こく佐久市に伝わる「鯉こく」は、大胆に筒切りにして味噌で煮た汁もので、佐久地域の正月には欠かせないものとなっている。佐久ホテルの篠澤社長の八代前の先祖の篠澤佐五右衛門滋野包道が延享3年(1746)の正月6日に伊勢神宮の福島鳥羽大夫神官を邸宅に招き、「鯉こく」を食べさせたことがきっかけで正月に「鯉こく」を食べるようになった。 実際に鯉の切り身を買ってきて作ってみた。汁気をかなり飛ばす料理で非常に時間と手間がかかる料理という印象を受けた。凝縮された味付けで鯖味噌が一番近い味付けだと感じた。 https://d-commons.net/uedagaku?c=28&p=7106 https://life.ja-group.jp/recipe/detail?id=82792023-01-30
20別所温泉の活性化 まとめ別所温泉の活性化 まとめ「別所温泉を活性化」をテーマで探求をした。 私が別所温泉に行って感じたことは「物足りない」と感じた。ただ温泉があり、ただ旅館がある。それぞれはいいものなのだが、温泉地として何か足りない感じがした。そこで、別所温泉のような小さな温泉地で何ができるのかを調べた。 1黒川温泉 黒川温泉は熊本の温泉で、かなり山奥にあるにもかかわらず人気の温泉だ。入浴手形で有名だ。入浴手形とは、温泉のマークが書いてある木の板で、それを買うと3か所の温泉に入ることができます。手形は、思い出としても残るのでいいのではないかと思う。 2四万温泉 四万温泉は群馬県の温泉で、ここも小規模で山奥の温泉だが、ヘルシーな料理で有名なタニタとのコラボで有名になった。旅館でタニタの料理を出すというシンプルなものだが、珍しさ2023-01-30
21前川ゼミレポート前川ゼミレポート私の探求テーマは、「別所=上田を広める」だ。 私がこのテーマにした理由は、別所という地名は聞いたことがあっても、長野県上田市にあると知っている人は少ないのではないかと考えたからだ。また、別所の魅力を伝えることは、上田に来る観光客を増やすことに繋がると考えた。 別所へフィールドワークに行ったときに、年配の方が多いように感じた。そこで私は、今回のターゲットは若者にしようと考えた。若者に別所の魅力を伝えるときになにが一番有効で、興味を持ってもらえるかを考えた時に、私はカフェだと思った。別所には魅力的なカフェがある。それを、SNSを活用し、伝えていこうと思った。 SNSに投稿する画像を制作するときに私が気を付けたことは、二つある。一つ目は写真の撮り方だ。ケーキや飲み物がどう撮影したら魅力的2023-01-30
22下塩尻にも猫瓦下塩尻にも猫瓦下塩尻にも猫瓦を見つけることができました。 この猫瓦は耳の部分がとがっていないこと、文様などが彫られていないのが特徴です。他の猫瓦と比べても文様や文字が彫られていないので瓦が平です。 色も少し青っぽいので瓦自体が普通のものとは違うのではないかと思います。もしかしたら年代的には新しいのかもしれませんね。2023-01-30
23猫瓦猫瓦12月6日に上塩尻の街歩きをしてきました。 街歩きの目的は猫瓦探索でした。 北国街道沿いには猫瓦がよくありますが、上塩尻には他にも猫瓦があることがわかりました。 特に印象的だった猫瓦は鶴が掘られたものです。 猫瓦に掘られている絵には意味があります。 鶴は初めての発見だったのでどのような意味があるのか気になりました。 猫瓦に興味のある人は上塩尻を歩いてみてください。面白い瓦を見られるかもしてません!2023-01-30
24これなんだろう?これなんだろう?皆さんはこんな瓦を見たことがありますか? これは猫瓦といいます。 猫瓦とは、養蚕をする上で蚕がネズミに食べられてしまうことがあり、そのネズミ除けの願いを込められた瓦のこと。そのためネズミの天敵である猫がモチーフになっている。 上田市上塩尻では蚕種製造が盛んであったり、養蚕をする家が多くあった地域であるため、今でも越屋根といった養蚕特有のものが残っている。もちろん猫瓦が残る家も多くある。猫瓦はただ猫の形をしているだけではなく、文字や絵が掘られている。これらには様々な思いが込められているそうだ。2023-01-30
252022年度 プロジェクト研究発表会資料「d-commons.net UI磨き上げ」2022年度 プロジェクト研究発表会資料「d-commons.net UI磨き上げ」本記事に登録されている画像は、2023年1月28日「プロジェクト研究発表会」で使用した資料(画像版)です。 画像表示されているものと、クリップファイルに登録されているものは同一のスライドです。お好きな方法で閲覧してください。 また、こちらはPDF版の資料です→PDF版2023-01-30
26まとめ~武田信玄武将の起請文〔八三通〕~まとめ~武田信玄武将の起請文〔八三通〕~写真の起請文は、武田信玄が配下の武将を、下郷(下之郷のこと。以下同じ)諏訪大明神(生島足島神社)へ集めて、信玄に絶対背かぬことを、神前で誓わせたものです。誓いの言葉を牛王紙の裏に書き、血判を押して、差し出させたもので、全国的に有名なものです。 この貴重な文書が生島足島神社に残っていることに歴史的な価値があると感じました。 https://museum.umic.jp/bunkazai/document2/089-1.html 武田信玄と信州は深い関わりがあり、その中でも生島足島神社に信玄がこだわったというのも面白く感じました。そして、信玄についてだけではなく当時の人びとがどのような宗教観や価値観を抱いていたのかを副産物として知ることができ、特定の人物だけでなく、社会がどのように動いていったのか文書から読み解けることにもつながることがわかりました2023-01-30
27壱叶・三かわ連署願文壱叶・三かわ連署願文この文書は戦国時代の武将室賀信俊の妻壱叶と、信俊の弟経秀〔の妻三かわが、武田信玄に従って出陣した夫〔の無事を、下之郷大明神(生島足島神社)にお祈りして差し上げた、お願いの文書で、願文といいます。戦国時代の女性の願文や女性の花押〔かおう〕(書〔か〕き判〔はん〕)を記した文書は、例が少なく大変珍らしいものであるそうです。 この時代の女性の苦悩がうかがい知れます。 https://museum.umic.jp/bunkazai/document2/089-5.html2023-01-30
28真田氏最古の文書は信玄からの書状真田氏最古の文書は信玄からの書状「其の方年来の忠信、祝着に候。然らば本意の上に於て、諏方(訪)方(形)参百貫并ならびに横田遺跡上条、都合千貫の所これを進じ候。恐々謹言。 天文十九庚戌  七月二日 晴信(花押)   真田弾正忠(幸隆)殿」 この文書が効力を持つことになったため、上田の地にかなりの土地を得ることができたわけでありに幸隆の子昌幸が上田城を築くもととなったともみられる文書であり、その意味でも貴重なものであるとされています。 武田信玄は真田一族と深い関わりをもっていることがわかります。 https://museum.umic.jp/sanada/siryo/sandai/020202.html2023-01-30
29向源寺宛武田信玄朱印状向源寺宛武田信玄朱印状この文書は戦国時代の永禄九年(一五六六)武田信玄が、重臣の三枝〔さいぐさ〕宗四郎昌貞に命じて「武田方の軍勢が向源寺(当時上田原にあった)境内で陣をとることを禁じ、もし命令に背〔そむ〕く者がいたら、子細〔しさい〕(くわしい事情)を申し出るように。」と、向源寺に伝えた朱印状だそうです(資料参照)。 信玄は信濃国へ、幾度か軍勢を出して合戦を繰りかえしています。このようなとき勢力下におさめた地域の主な寺や社を大事に扱うことが、民の心を安定させるために、大切であることを心得ていて、特に寺社に迷惑がかからぬよう、心配りをしていたことを物語る文書として貴重なものです。」 神仏への信仰心がもたらす力は信玄自身が一番実感していたがための行動だったのではないかと考えさせられます。 https://museum.umic.jp/bunkaza2023-01-30
30武田信玄願文(県宝)武田信玄願文(県宝) 武田信玄は、上杉謙信との戦いに備えて、東信濃の名社生島足島神社に、願文を献げ、今後の戦について深く祈願するところがあったそうな。  これがその願文で、おわりに永禄2年(1559)と記され、信玄自筆のものといわれています。 「謹んで、下之郷諏訪大明神に申し上げます。私(信玄)は、越後の軍勢(謙信をさす)が攻めてくるので、戦うがよいかどうかト(うらな)ったところ”吉”という卦が出ました。そこでこの天の教えに従って出陣いたします。何卒私の軍に勝利を与えられ、長尾景虎(謙信)が逃亡するようお助けをお願いいたします。もし私が凱歌をあげて帰国しましたなら、今年から10カ年間、毎年青銅貨10緡ずつお社のために上納いたします。」 調べて知ったことですが、信玄は戦国大名の中でも占いマニアだ2023-01-30
31はじめに~武田信玄と上田のつながり~はじめに~武田信玄と上田のつながり~武田信玄は戦国時代に甲斐国(山梨県)の守護を独占してきましたが、一見関わりのなさそうな上田とはいったいどのようなつながりがあるのでしょうか?。 信玄は領地拡大のために信濃に侵攻した歴史が残っています。現在の上田地域を支配していた村上氏との上田原の合戦、砥石城の戦いで負け戦さとなったものの最終的には、村上氏をも越後へ敗走させ、川中島の戦いを経て北信濃までその支配下に治めたのがおおまかな史実です。 上田との関わりは、玄配下の武将たちが起請文を奉じた場所が生島足島神社であり、数多くの古文書が残されているという点です。   https://museum.umic.jp/ikushima/komonjyo/index.html2023-01-30
32土偶型容器について(2)土偶型容器について(2)出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/J-7533?locale=ja) 画像の土偶型容器の出土地は長野県上田市腰越。弥生時代(前期)・前4~前3世紀頃のものとされる。現在は東京国立博物館が所蔵している。 おそらく出土の際に頭部がなくなっていたのだろう。 土偶型容器は頭部が開いているものであるが、首がなくなっていることで体全体が空洞になっていることがわかる。乳房のような表現があることから女性をイメージしていると思われる。2023-01-29
33土偶型容器について土偶型容器について出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/collection_item_images/tnm/J-7532?locale=ja) 土偶型容器(どぐうがたようき) 頭部が開いていて足の表現がない人型(ひとがた)の容器で、容器型土偶とも喚ばれる。中から焼けた小児骨が出土した例もあることから、再葬墓という当時の東日本で流行した墓制に関わるものと考えられている。 画像の土偶型容器の出土地は長野県上田市腰越。弥生時代(前期)・前4~前3世紀頃のものとされる。現在は東京国立博物館が所蔵している。 国宝の縄文のビーナス、仮面の女神と比べると険しい顔をしている。首や胴が長く頭が大きい、腕が体全体に対し短いというようにバランスはあまり良くないように見えるが、小児を表しているのではないかと考える。2023-01-29
34長野県の土器について長野県の土器について長野県では縄文遺跡が数多く発見されている。 現在、八ヶ岳西麓の茅野市尖石縄文考古館に展示されている国宝「縄文のビーナス」、国宝「仮面の女神」が有名だ。この2つの土器は、左右対称で美しい造形、ほぼ完全な姿での出土というような理由により国宝となった。 長野県内で出土された土器はどのようなものか探求する。2023-01-29
35温泉薬師瑠璃殿温泉薬師瑠璃殿本尊薬師如来。北向観音堂の西方の崖の上に建てられた一風変わった建物で「医王尊瑠璃殿」と呼ぶ。建立年代は明らかでないが、資料によれば焼失した後文化6年(1809)に地元湯本薬師講中によって再建されたという。温泉の効能に併せて病気を除き解脱するという深い温泉薬師信仰に由来するものである。「瑠璃殿」という名は、薬師如来を瑠璃光如来とも呼ぶところからとった名である。 引用元 http://db.umic.ueda.nagano.jp/johogura/datadisp.php?arg_sano=6680142023-01-29
36いなごの佃煮いなごの佃煮県内全域の郷土料理。南信地域の伊那谷には、古くから昆虫食文化が根付いており、いなご、蜂の子、かいこ、ざざむしなどを食べる習慣がある。戦時中や戦後の食糧難では、少ない動物性たんぱくをとるための栄養補給源として食べられていた。いなごを捕って袋や容器に入れて一晩おき、お湯に通して洗う。洗ったいなごは、甘露煮や佃煮にすることが多い。昔に比べいなごの数も減少しており、生活や食文化の変化により各家庭で調理されることは少なくなってきたものの、今もなお伊那谷では昆虫食文化が残っている。 [いなごの佃煮 長野県 | うちの郷土料理:農林水産省](https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/inagono_tsuku_dani_nagano.html)より引用2023-01-28
37やたらやたら北信地域の郷土料理。野菜や漬物を細かく刻んで混ぜ合わせたもので、夏野菜のふりかけのようなもの。みょうがやなすなどの夏野菜、ぼたんこしょう、大根の味噌漬けを刻んで混ぜ合わせ、あたたかいご飯にかけて食べる。「ぼたんこしょう」は、古くから地域で栽培されてきた青唐辛子のこと。やたらとなんでも入れたり、やたらと刻んだりすることから「やたら」といわれるようになったといわれている。そのため、家にある野菜を使って自由にアレンジできる。 [やたら 長野県 | うちの郷土料理:農林水産省](https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/yatara_nagano.html)より引用2023-01-28
38野沢菜漬野沢菜漬県内全域の郷土料理。寒さが厳しい長野県は、冬になると田畑から青ものはひとつもとれなくなるため、晩秋になると大量に保存用の漬物を仕込んだ。一石桶といわれる大きな桶で大量の野沢菜をつける。各地域や家庭によって漬け方は様々。そのまま食べたり、おにぎりやおやきの具材にも使われる。野沢菜には浅漬けと古漬けがあり、春先、発酵が進んで黄色く変色した古漬けは、酸味が強いが味わいがあり、油との相性がよく、炒めて食べたりもする。 [野沢菜漬 長野県 | うちの郷土料理:農林水産省](https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/nozawana_zuke_nagano.html)より引用2023-01-28
39おやきおやき北信地域、中信地域の郷土料理。寒冷な気候のため、小麦や蕎麦が多く栽培され、小川村の縄文遺跡からは雑穀の粉を練って焼いた跡が発見されているほど歴史は古い。小麦粉と蕎麦粉を水または湯で溶いて練り、薄くのばした皮に具材を包み焼いたもの。包む具材は、なす、きのこ、かぼちゃ、切干大根などを味噌や醤油で味付けし、それを単体もしくは複数混ぜたものやあんなど様々な種類がある。 [おやき 長野県 | うちの郷土料理:農林水産省](https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/oyaki_nagano.html)より引用2023-01-28
40お菓子の歴史(京菓子・上菓子時代)お菓子の歴史(京菓子・上菓子時代)京菓子とは、一般的に京都で作られたお菓子のことをいい、江戸が中心だった江戸時代において、都である京の菓子を地方のものと区別して呼び始めた。 また、京都では宮中や公家、茶寺や茶家に献上する菓子のことを上菓子と呼んでいるが、江戸では駄菓子(雑菓子)の対抗する意味として使われた。当時の菓子司が作るものは、蒸菓子、干菓子、駄菓子(雑菓子)であり、上菓子司の作る雑菓子には、白砂糖が用いられ、品質こそ上菓子であった。安永・天明期になると、和菓子の技巧は江戸独特の個性も加わり、かなり発展している。 守安正 著『お菓子の歴史』,白水社,1965. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2507981 (参照 2023-01-28)2023-01-28
41手打ちそば手打ちそば県内全域の郷土料理。冷涼な気候で、米や小麦が栽培しづらい高冷地の農産物として育てられてきた。そばは、そばつゆにねぎとわさびを入れて食べるのが一般的だが、伊那の「高遠そば」は、そばつゆに大根のしぼり汁と焼き味噌を加え、奈川の「とうじそば」は鍋つゆに野菜や鶏肉などを入れて火にかけたものに、竹籠に入れたそばをしゃぶしゃぶのようにして食べたりなど、地域や産地によって様々な食べ方がある。 [おやき 長野県 | うちの郷土料理:農林水産省](https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/oyaki_nagano.html)より引用2023-01-28
42ペグーの大臥像に見入る皇軍勇士(『ビルマ作戰 : 大東亜戰史』)ペグーの大臥像に見入る皇軍勇士(『ビルマ作戰 : 大東亜戰史』)ビルマ(ミャンマー)に侵攻した日本軍が、ペグー(バゴー)の寝仏を見ている写真。 この写真が載っている本には、進軍している様子や戦っている様子、町の状況等の写真が多い。そのため、この写真のように戦いに関係のないものが載っていることに違和感を覚えた。 観光できるほど、英軍に圧勝であると伝えるためだろうか。それとも、ただ単純に近況報告をしているだけなのだろうか。様々な考察ができる。 ▼この写真が掲載されている書籍は以下から参照できます。 国立国会図書館デジタルコレクション 『ビルマ作戰 : 大東亜戰史』,同盟通信社,1942年2023-01-28
43真田村③ 長村真田村③ 長村明治前期。 小名真田といった小名というものがよく見られる。 https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/museum_history/03MP0301080180 (信州デジタルコモンズ)2023-01-27
44上田町上田町上田町の明治時代前期の姿である。寺や神社が多いことが分かる。現在の上田町と比べても全く同じ名前の寺や神社が残っておりその中には江戸時代から姿を変えず残っているものもある。 https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/museum_history/03MP0301080250 (信州デジタルコモンズ)2023-01-27
45お菓子の歴史(点心時代)お菓子の歴史(点心時代)菓子は一日二回の食事の間に食べる間食用として長く続いていたが、鎌倉時代になると都会では三食制となったため、菓子は嗜好品になり、一般庶民からは縁のないものになった。 そのころ、茶が日本に渡来して、喫茶が流行した。その際に使用する菓子を「点心」と呼ぶ。もともと、点心とは定食と定食との間の小食であり、間食やおやつを意味する。点心には主に羹(あつもの)という汁と、まんじゅう類があり、それぞれ多くの種類がある。これらが和菓子の発展に繋がっていった。 守安正 著『お菓子の歴史』,白水社,1965. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2507981 (参照 2023-01-27)2023-01-27
46皆勤賞(1928)皆勤賞(1928)1928年の西塩田村の学校における、皆勤賞に関する記事である。この記事を見て、当時から学校を休まないことを表彰する文化があることが分かった。また、25%もの生徒が1年間皆勤賞というところを見て、現在よりもはるかに高い数値に驚いた。おそらく当時は、今よりも学校を休んではならないという風潮が強かったのであろう。もしくは、外で遊ぶことが多かったから体が強かったのだろうか。 #234 「西塩田時報」第54号(1928年5月1日)2頁 https://mmdb.net/mlab/uedagaku/pdf/nishishioda/ns04_041to060.pdf2023-01-27
47蚕種業における歴史的建築物について蚕種業における歴史的建築物について かつて蚕種業で栄えた上田を参考に地域を活性化していく方法を模索した。  建築物の特徴としては、作業を行いやすいよう、屋敷をつなぐ渡り廊下跡があり、温度調節のための木造の暖房施設があった。発展を示す跡として、屋敷が多く建ててあり、家紋付きの瓦や蔵など当時の発展の象徴が多くあった。  今回の建築物は上田市上塩尻の建築を参考にさせていただいたが、養蚕に関わる設備跡はもちろん、目地時代当時の発展の様子や当時の文化を表すもの(家紋・猫瓦)が実在する資料として現存していた。これらの建築物は国登録有形文化財にもなっており、価値が高いものになっている。  今回のイベントを介して、建築物を見学することができたがそれらを通して、別の気づきがあった。地域の方が蚕種業の歴史を詳しく知らない方がほと2023-01-27
48かわいい見た目に全世代から人気のお菓子 餅屋伝助のウサギ餅かわいい見た目に全世代から人気のお菓子 餅屋伝助のウサギ餅引用元:https://ueda-tabi.com/mochiyadensuke/ ウサギの形に丸めた可愛いお餅の中に、餡が入ったお菓子です。ウサギ餅はカスタードクリーム、カマンベールチーズ、チョコレートの3種類。上品な甘さがあり、ふんわりもちもちな食感、口溶けの良い柔らかなお餅に餡がマッチしていて、どの世代の人からも人気のお土産として愛され続けています。 この商品でのデザイン面を考えるにあたって着目すべきは本体のかわいらしいウサギの形でしょう。 ウサギの顔をデフォルメ化し表現したものや、簡単に耳のみを焼き目としてつけているものなど、昔から変わることなく愛されているこのデザイン。変にモダンチックな凝った仕上がりでなく、このような親しみやすい見た目だからこその愛され度合だと感じました。2023-01-27
49唐菓子について唐菓子について奈良時代から平安時代にかけて遣唐使によって唐から伝来した唐菓子は,米粉や小麦粉を捏ねていろいろな形に作り,油で揚げたり,焼いたものである。 日本や仏教の世界でお供え物とされるほどであり、当時はとても高価でめったに食べられないものであったが、現在では限られた和菓子店だけではあるが、手軽に食べることができる。 写真は岡田哲「食文化入門-百問百答-」から抜粋2023-01-27
50お菓子の歴史(上古時代~唐菓子時代)お菓子の歴史(上古時代~唐菓子時代)日本のお菓子の歴史はとても古く、約2000年前の上古時代といわれている。菓子の名称については色々な説があるが、初めは「古能美(このみ、木の実)」、「久多毛能(くたもの、果物)」であり、現在でいう菓子とは違っている。 現在の菓子は唐菓子時代(奈良朝平安朝初期)に輸入された唐菓子が始まりとされている。 守安正 著『お菓子の歴史』,白水社,1965. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2507981 (参照 2023-01-27)2023-01-27
51持続的な地域活性化~大洗モデル~3 発表(最終)版持続的な地域活性化~大洗モデル~3 発表(最終)版プロジェクト研究の足跡をまとめた発表資料になります。 それぞれの実施内容はこのマイテーマ(プロジェクト研究・卒業研究)をご覧ください。 持続的な地域活性化策~大洗モデル~とは、大洗町において持続的な地域活性化策というテーマを研究する者であり、卒業研究、地域活動という視点から3つの取り組みを行い、そこで得た知見を大洗町にフィードバックするものです。 茨城県大洗町とは茨城県東部に位置する小さな観光都市で、海が観光資源となっています。また、アニメ『ガールズ&パンツァー』を利用したコンテンツツーリズムを10年間推進しています。 その一方で、人口減少、海水浴客の減少、町の活気のなさといった社会課題を抱えています。 そこでまず実施内容1として、「create owarai」に参加しました。この「create owarai2023-01-26
52みすず飴のデザインみすず飴のデザイン画像引用元:https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwiWoaP98-T8AhV1plYBHZdnCXAQjBB6BAgNEAE&url=https%3A%2F%2Fmisuzuame.com%2Fsp%2Fame%2F&usg=AOvVaw1an-aePxECBjNJ0dsY_4LF 上田のお土産というと思い浮かぶものの一つとして、みすず飴が挙げられる。みすず飴のデザインで特徴的なのは文字のフォントである。おなじみのフォントになっているので、誰もが手に取りやすくなっていると思う。今後も、このデザインは継承していくべきだ。また、透明なパッケージにすることで、みすず飴のカラフルさが際立っている。2023-01-26
53前川ゼミレポート前川ゼミレポート私は、なぜ上田氏は真田氏のPRに固執するかについて疑問を持ったため調べることにした。というのも、上田市には別所温泉近辺にたくさんの歴史的建造物があり、「信州の鎌倉」という別名まで付けられるほどのだからだ。そして「別所温泉」という名前自体は全国的にもある程度知られている。まったくの無名の観光地をアピールするわけではないのになぜここを差し置いて真田氏に固執するのだろうか。 真田氏に固執する理由として思いついたのが歴史好きに対するアピールの強さだ。二度にわたる上田の戦い・大阪の陣で有名な真田幸村にゆかりのある地(真田村)であることから、上田城や真田氏についてアピールできる。だが、この真田氏についてもやや疑問がある。一般人に「武将の真田」と言って思い浮かべるのは真田幸村だろう。この真田2023-01-26
54戦後80年で人々の価値観はどう動いたのか戦後80年で人々の価値観はどう動いたのか 戦後日本において、新幹線が開通し、オリンピックが開催され、インターネットが普及する間に、日本人の価値観・人生観はその生活の様相とともに大きく動いてきたように思われる。そこで、戦前の人々の価値観は、現在を生きる我々から見ていかに違うのかを研究する。  本記事では西塩田時報第百八十二號第五頁を取り上げて述べる。 「幹部修養講習會に出席して」という項目は、「原田晴章」なる人物が、「三好武治」なる人物の講演の一端を書くというもの。講演の内容は、主に支那事変(日中戦争の、当時の日本での呼び名の一つ)についてのものである。 「日本で今度の事變での勝利は精神力である」 「支那事變は世界に類の無立派なる所の正しき戰争である」  このような記述がある。やはり根拠のない精神論や戦争を美化する意2023-01-26
55上田の食文化⑥ 〜フルーツ編〜上田の食文化⑥ 〜フルーツ編〜長野県はぶどうやりんごがとても有名なのは知っていましたが、普通に道沿いにある木にりんごがよく生えていたり、道にりんごがころあっているのをよく見かけるので、それぐらいよく採れるものかとびっくりしました。 1番驚いたのは、写真のようにりんご畑に大きな穴が掘ってあって、そこに大量のりんごが入れられてたことです。 直売所にいけばとても安く売っているので、フルーツ自体も好きですし堪能してます。巨峰大好きなので、安くおいしいものが気軽に買えるのでとても嬉しいです。2023-01-26
56蚕都上田の歴史と未来蚕都上田の歴史と未来私は「蚕都上田の歴史と未来」というテーマで蚕都について探求しました。より考えを深めるために計四か所の施設に見学に行きました。 一枚目の写真は上田駅の構内に設置されている繭の女神様です。蚕糸業の全盛期時代である大正時代から蚕は上田の地を支える存在であったことが分かりました。 二枚目、三枚目の写真は常田館製糸場と上田蚕種協同組合事務棟です。製糸場は繭の乾燥や保管のために多窓式になっているなど建物ごとに様々な工夫が見られました。製糸場の建物15棟中7棟は国の重要文化財に、事務棟は文化庁の登録有形文化財にそれぞれ指定されています。四枚目の写真はホール、美術館などの複合施設であるサントミューゼです。名前の由来は蚕都からきており、人々の交流の場として上田市には欠かせない存在になっています2023-01-26
57市街地方面の神社・寺院と真田氏市街地方面の神社・寺院と真田氏上田城周辺には、神社・寺院が多数存在する。しかも、同じような場所に集まっている場合が多い。これは、地域のシンボルである上田城に深く関わってくる。1583(天正11)年、上田城を築城した真田昌幸は、城下町として海野町を作った。これは、先祖の地である海野郷(現在の東御市本海野)より、新たな本拠地近くに住民を移住させたことに由来する。それに伴い、海野郷近辺にあった寺院を城の近くに移した。例えば願行寺や日輪寺といった寺院がこれに該当し、真田氏の先祖である海野氏が開いたとされる場合が多い。特に願行寺は、江戸時代に上田藩の菩提寺になったほど、この地域や人々に深く根付いていたと考えられる。また海野町には、商売繁盛を利益とする高市神社がある。これは昌幸がつくったものだ。 このように、上田城を築城す2023-01-26
58”温泉”という身近なお風呂”温泉”という身近なお風呂住んでいる中で一番、観光する目的が明確にある場所といったら別所温泉であるといえる。 なぜ目的が明確にあるのか。 それは、上田市に住んでいる学生は実家を離れてアパートなどで一人暮らしをしている人が多い。 そのため、お湯を沸かしてくれるリモコンなどの設備が無いため、シャワーだけで済ます人がほとんどである。そのため、温泉という「湯船」に気軽に浸かれる場所というものはとても貴重である。さらに、今の時期(これを書いている日付は2023/01/27)は寒さが厳しく給湯器が凍ってしまいお湯が出にくいという人も大勢いるのではないだろうか? そのため、風呂に行くという目的の下、温泉に観光に行けるのではないだろうか。 別所温泉付近だけでも約7箇所あるため、1週間ごとのシフトを組んでみて赴いてみるというのも面白いかも2023-01-26
59平成の食平成の食主食の中心は白米であり、夕飯でも食べるが、以前よりも労働力が減っていることなどから、若い世代において米の消費量が少なくなっている状況が推察された。パンについては、給食の影響で食べる機会が増えたようだ。ウドンやホウトウなどの麺類は、以前よりは頻度が少ないものの、好まれて食されている。2023-01-26
60昭和の食昭和の食副菜として、山菜や雑キノコなど、栽培される野菜以外に自生している恵みを利用していたことがわかっている。山菜やキノコについて詳しい人が大量に採ったと言う記述も残っている。ある季節にしか無いものを十分に食生活に生かしていたようだ。2023-01-26
61昭和の食昭和の食一般的に米を節約するため、夕飯には小麦を使った料理を主食として食べていた。小麦は粉にしてオザンザ(小麦粉を打って平らにして幅1センチくらい、長さ20センチくらいにして、野菜と味噌で煮たもの)として食べられていた。同様の料理として、ツミイレや、ブチコミ、スイトン、ホウトウと呼ばれていたものもある。このような麺類が夕飯の中心だったようだ。2023-01-26
62名工の社殿と養蚕農家 ~上田市下堀地区~名工の社殿と養蚕農家 ~上田市下堀地区~信濃国分寺駅の南側に位置する下堀地区です。 ここには堀川神社があり、今でも地区住民によって守られています。 拝殿は一見シンプルですが、本殿を見ると見事な装飾があります。これは1886年(明治19年)に上田の名工竹内八十吉によって掘られたものです。八十吉は1815年(文化12年)から1898年(明治31年)まで活躍した諏訪立川流の大工で、堀川神社以外にも信濃国分寺の本殿の彫刻も掘っている。 次に下堀地区は養蚕業で栄えていた地区である。その証拠がこの石垣である。 これは、ぼたもち積みと呼ばれる積み方でお金持ちの家しか作ることができない石垣である。https://d-commons.net/upload/4/575/054168_0023_006.jpg養蚕業で儲けていたからこそできる石垣で、当時は養蚕農家それぞれが競い合って家を建てていたそうだ。それほどまでにこの地区の養2023-01-19
63戦前長野の農業形態①戦前長野の農業形態①信州デジタルコモンズにて見つけた「信農産業誌 完」には戦前、およそ明治20年~40年辺りの長野の農業に関しての特徴や収穫高のようなデータが記載されている。現在の農業形態と比べると違った面が見られる。興味深いものがいくつかあったのでピックアップしていきたい。2023-01-26
64上田のelaboration 上田の「観光産業」を知ってほしい!!上田のelaboration 上田の「観光産業」を知ってほしい!! キュレーションとは、インターネット上の情報を、特定の視点を持って収集、選別、編集することで新しい価値を持たせ、それを共有することを意味する語である。https://www.hrpro.co.jp/glossary_detail.php?id=99より引用 そこから私は上田のキュレーションとは上田の情報を我々の視点から収集、選別、編集することで価値を持たせ、上田の良さの再発見するということだと定義した。 私の上田のキュレーションは上田の「魅力」「良さ」の再発見であり、私は、それは「観光産業」にあると考えた。私が第一に上田で目を付けた観光産業は「十福の湯」だ。上田にお住まいの人ならば知っている人は知っている上田の名温泉だ。この温泉は信州最大級の大露天風呂を有しており、屋外独立の檜サウナもある。さらに自然豊かなため、温泉浴だけではなく、森林浴2023-01-25
65吉田東伍について吉田東伍について越後の農民として生まれた吉田東伍は、郷土の大地こそが日本の風土の一部であり、日本を正しく理解するためには、風土を組み立てている郷土についてしっかり見なければならないと考えていた。13年という長い時間をかけて編纂した、大日本地名辞書は人間の活動地帯である「土地」と刻まれた歴史の語り部としての「地名」を大切にすることを教えた。我が国全土の「郷土の未来」を見据えるための学問であると言える。 彼は教育をほとんど独学で行い、図書館に保管されている書籍や学術論文を主な教材としていた。その知識を活かして小学校教諭になった経歴がある。 彼の地理学の研究から、彼は小さな町の目立たない郷土や風土は決して意味のない産物ではなく、日本という国を作る一つの要素として働きかけているのだと伝えているのだと2023-01-25
66兎束武雄(うづかたけお)兎束武雄(うづかたけお)上田町大手の銀行家兎束鐘一郎の長男として生まれた武雄は、幼い頃から音楽に特別な興味を示す子どもでした。しかし、父親は音楽は男のするものではないと考え、武雄の音楽に対する熱意を快く思っては居ませんでした。母親は、音楽を好み自ら琴を弾いたり、4人の姉妹たちにも琴を習わせていました。  上田中学校(現上田高校)を卒業した武雄が、音楽の道に進みたいと父親に相談しましたが猛反対を受けましたが、母親の協力と武雄の熱意に最後には承諾しました。  武雄は上京し、東洋音楽学校に入り勉強に励みましたが、東洋音楽大学だけの勉強では満足できず、他の大学でも聴講し、作曲やピアノ、チェロなどを勉強しました。大学を卒業した武雄は、高等学校の教師になることを決意して上田に帰ってきました。  上田に戻った武雄2023-01-25
67温泉薬師瑠璃殿 解説温泉薬師瑠璃殿 解説本尊薬師如来。北向観音堂の西方の崖の上に建てられた一風変わった建物で「医王尊瑠璃殿」と呼ぶ。建立年代は明らかでないが、資料によれば焼失した後文化6年(1809)に地元湯本薬師講中によって再建されたという。温泉の効能に併せて病気を除き解脱するという深い温泉薬師信仰に由来するものである。「瑠璃殿」という名は、薬師如来を瑠璃光如来とも呼ぶところからとった名である。 http://db.umic.ueda.nagano.jp/johogura/datadisp.php?arg_sano=668014より引用2023-01-25
68大東亜戦争完遂映画会(『西塩田村公報』第5号4項)大東亜戦争完遂映画会(『西塩田村公報』第5号4項)農村でも映画会を開き、戦果を伝え、国民の団結力と忠誠心を強めていたと考えると、いかにマスメディアが戦争に利用されていたかが分かる。 上映されていたものはおそらく大本営の戦果発表だと思われる。そのアーカイブはNHKの戦争証言アーカイブス、戦時録音資料で参照できる。 この記事が書かれた当時(1942年5月22日)は、日本軍が優勢であったとされる。アジア・太平洋戦争の転換期であるミッドウェー海戦はこの新聞が発行されて約2週間後に起こる。 NHK「戦争証言アーカイブ 戦時記録資料 勝利の記録」 https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/sp/list.cgi?cat=kiroku 2023年1月25日閲覧 ▼この記事は以下から参照できます。 #930 『西塩田村公2023-01-25
69農民美術運動を促進した人物農民美術運動を促進した人物版画家・山本鼎は、明治15年愛知県岡崎市で生まれましたが、父親が小県郡神川村大屋(現在の上田市大屋)に大屋医院を開業したため、鼎は上田との由縁がありました。 鼎は版画家としてだけでなく、画家としてもその名を残しました。明治35年、20歳で東京美術学校へ入学し、「湖畔」で有名な黒田清輝に油絵を学びました。大正元年にはフランスに渡り、その間に描いた作品はどれも好評を博しました。 帰国後、児童画とその指導方法の改革を目指した運動を起こします。鼎は絵を描く技術、方法が重要ではなく、自分の目で見て、感じたとったものを描くことが、児童の発達に大切などだと説きました。その後大正8年4月には神川小学校で第一回児童自由画展覧会を開催し、自由画教育は全国各地に広がりました。 一方、大正8年11月には神川村2023-01-25
70農民美術の魅力農民美術の魅力農民美術の特徴としてまず、具体的なモチーフがあるという点がある。モチーフが明確なため表している物が理解しやすく、楽しみやすい。また、どれも作風が独特であり見ていて飽きることなく楽しめる。中でも木を掘ったものでできているこっぱ人形と呼ばれる物は形は歪ではあるが手彫り特有の温かみがあり楽しげな雰囲気を感じられる。どれもとても可愛らしく、長時間眺めてられるほど魅力がある。 二つ目の特徴としては構成が明瞭であるということだ。どの作品も構成は左右対称であったりと簡易的な構成になっている。これは作者が農民であるため寄り簡単に制作できるよう工夫した結果だろう。 農民美術はその名の通り農民が行っていた美術であるため身近に感じることの出来る作品が多く、手作りの温かみがあるのが魅力だと私は感じた2023-01-24
71プロジェクト研究実践報告(修正版):持続的な地域活性化策~大洗モデル~2(ゼミ時発表資料補足)プロジェクト研究実践報告(修正版):持続的な地域活性化策~大洗モデル~2(ゼミ時発表資料補足)プロジェクト研究の実践報告の発表用資料になります。 詳細が知りたい場合は、もう一つの詳細版のスライドや、マイテーマ(卒業研究・プロジェクト研究)をご覧ください。 ゼミ内で行った発表の資料の補足(図式化した部分を多く)したものです。 「私たち(地域住民×よそ者のつながり)が熱意を持つ地域住民とよそ者を結びつける役割を継続的に行っていくことが必要である。」 これが私の行ってきた活動のまとめともいえる部分になります。 この知見を町に活かしていくことが今後の目標です。2023-01-24
72農民美術の魅力農民美術の魅力農民美術の特徴としては、一つに具体的なモチーフがあることだ。特に自然のものである植物や魚、虫などが多く感じる。そしてそのモチーフから形を少し崩しアレンジして描かれている。 二つ目にシンメトリーであったり、図案の構成が明瞭なこと。農民美術の構成のほとんどがシンメトリーであったり、簡易的なものが多く感じる。規則的に描いたりととてもシンプルな構成なため、分かりやすいのだ。 魅力としては、やはり農民美術の特徴でもある構成が明瞭な点だと思う。誰が見ても分かりやすく、目に止まるデザインだと私は思う。またデザインに可愛らしさがある。全体的に丸みを帯びていることからそのような印象をもたせるのだと思う。そしてこの農民美術は芸術家が主に作っているのではなく、農民が制作している点も魅力だと思う。一2023-01-24
73塩田平の魅力の発信塩田平の魅力の発信塩田平のちにはため池が点在しており、塩田平の駅を降りるとため池が広がっています。もともとこの土地は塩田3万石といわれる上田藩の穀倉地帯だったのにも関わらず、恵みの雨が少ない地域でした。そのため、古くから人々にとってため池は、支えになっていたのです。そして、この塩田平には長い歴史があります。歴史があるということは、人が生きた物語があるということです。私は、こういったものを上田の地元の人はもちろん、観光客の方にも伝え発信していきたいと考えました。 こういった、地方の魅力を磨き上げ発信していくためには、まず若者の力は必要です。しかし、現在、地方の若者の人口は年々減少し、若者はみんな都心に流出していしまっています。その原因には、地方の地元の魅力をあまり理解できてなく、利便性だけが追2023-01-23
74農民美術を再び普及させるには農民美術を再び普及させるには私は課題探求ゼミナールで森林資源の活用方法として農民美術のこっぱ人形に利用できないかと考えていたため農民美術を再び普及させるためにはどうすればよいかを探求テーマとした。 農民美術は今からおよそ100年前に山本鼎によって提唱された。農村部の若者たちに手工芸品の技術を教え農閑期の副業としまた、それまで無縁であった美術活動への参加を促すものであった。上田市を拠点とし全国へと波及したが戦後は徐々に衰退した。 木っ端人形をふたたび普及させるためにまずは尾澤木彫美術館にて実際に木っ端人形の製作を体験した。実際に体験してみると道具の使い方が想像以上に難しいと感じた。また使用する道具も多く個人で気軽にできるものではないと感じた。 体験を踏まえて、講師による指導のもとで気軽に製作体験ができる体験会2023-01-23
75上田の魅力と活性化上田の魅力と活性化 単元3を通して、塩田平地域は「信州の鎌倉」と呼ばれ、多くの寺院や文化財、ため池など様々な魅力があることが分かった。しかし、活性化を考えたときに、オシャレや写真映えなどに興味がある若者からすると、現在の塩田平にあまり興味が湧かないと感じた。  そこで、ため池を活用した花火を打ち上げやイルミネーション、夜桜や紅葉をライトアップすることで若者を呼び込めると考えた。広いため池では、スワンボートのような足漕ぎボートを設置することで、若者だけでなく親子も楽しめると考える。  また、生島足島神社で祭りを開催したり、マルシェのようなものを開いたりすることで、老若男女問わず楽しめる場所になると考えた。マルシェでは地域の特産品などの宣伝を行うことも可能である。  以前、「信州上田レイライン線」2023-01-23
76まとめまとめ上田には歴史が詰まっている。 私は長野大学に入学してから上田市とのかかわりが増え、より感じるようになった。 例えば、上田城。石垣やお城の後はそこに時代を感じさせる。神社やお寺も意外と上田にあったりする。 上田駅を出てすぐの商店街は今も昔もそこに存在している感じがする。少し歩けばいろんなお店があって、昔ながらのものもあれば最近できたおしゃれなお店まで、点在している。 上田市がどうやって歴史をつないで今の姿になっているのかを私たちは肌で感じながら暮らすことができる。 それこそが上田にある魅力の一つではないだろうか。2023-01-23
77海野町レトロ写真館 活動報告海野町レトロ写真館 活動報告1.研究目的 上田市にある海野町商店街には、人情味溢れる店主が集まり、どちらの店主にお話を伺っても優しい対応である。また、祇園祭や七夕祭りなどのイベントをきっかけに、大勢の人々で賑わっている。しかし、大型店舗の出店増加や急速な高齢化と人口流出による客数の減少などにより、新しい取り組みを行う機会が少なくなり、魅力や集客力が低下しつつある。同じ街でも商店街に住む人とマンションの住人とのコミュニケーションが取れていない現状である。そして、商店街の人々が好きだった界隈の空間を忘れ、変わってしまった街の風景に慣れてしまっている。 そこで、海野町商店街の昔の風景の様子を今の景色と合わせてみることができる思い出の写真を地域に共有することで、人情味溢れる町の個性が表現され、地元の人々が魅力の2023-01-23
78家庭欄「夏の料理」ほか家庭欄「夏の料理」ほか夏の料理はつくってみたくなるレシピであるように思う。特に目を引いたのが短歌で、百姓がテーマのものが多いように感じた。 ▼記事はこちらから 「西上田時報」(第16号1948年6月25日2項)2023-01-22
79上田のelaboration上田のelaboration 上田の一番の課題は地元の住民が上田市の歴史についての姿勢が問題あると考えた。交通の不便さ、若者へのアプローチの弱さ、そこから繋がる上田の地の魅力が広く知られていないなどの課題がいろいろある中、地元理解という土台が無ければ上田市が発展するにあたり、観光客の理解が深まらず上田の魅力が伝わらないと考えた。これより、上田の課題を地元理解に絞り、なぜその課題が提起され、その課題をどう解決させていき、どのような結果になることが理想的であるかを探究し提示することを目的とする。  例を挙げると、「真田丸」というドラマが始まり、真田幸村が大いに話題を呼んだ。上田市はその話題に際して、上田城を築城したのは真田昌幸であるという真実を広く公表することなくイベントや観光客を迎えた。さらに現在、上田2023-01-19
80前川ゼミ最終まとめ 上田の課題解決と魅力発信前川ゼミ最終まとめ 上田の課題解決と魅力発信前半のゼミ活動で行った町歩きを通して上田市について魅力と課題の両方を感じることができた。 まず私がゼミ活動やこれまでの日々で感じた上田市の魅力は以下のものがある。 ①分野別で名所が多い 例旅行→別所温泉  歴史→上田城  ウィンタースポーツ→菅平 ②美味しい食 ③学生へのサポートが手厚い  例町キャン ④自然が豊か 一方で感じた課題は以下の通りだ ①別所線の利用者の少なさ  原因→本数少ない、運賃高い  私も悪天候、帰省時以外めったに使わない ②情報が伝わりにくい  店側、イベント主催側からの発信が少ない ③商店街の元気が無い  例海野町商店街で若者を見ることが少ない ここで考えた課題の解決策がイベントの活性化である 例えば別所線をつかってスタンプラリーなどのイベントを行うことで利2023-01-19
811年後期 前川課題発見ゼミ最終まとめ1年後期 前川課題発見ゼミ最終まとめ調査テーマ「地域の特色・歴史」まとめ 上田の歴史的な出来事・人物と聞かれれば多くの人々が「真田氏」に関する事柄を思い浮かべるだろう。しかし、今回の調査を行う中で、真田氏以外にも日本の歴史・文化に多大な影響を与えたと言える人物も存在することを知った。 例えば、上田藩主を務めただけでなく、江戸幕府老中として条約の締結にも尽力した「松平忠固」、日本の児童画に大きな転換・影響を与えた「山本鼎」は良い例だろう。功績としては素晴らしい物であると断言できるものばかりだ。 特に山本の考えは当時としては(今の価値観で考えても)先進的な物だった。山本は真の意味での「自由」を求めた人物であり、今日の教育活動に一石を投じるものであると感じた。現代ですら「型にはまった教育」が基本的である中、山本は2023-01-19
82前川ゼミ活動考察前川ゼミ活動考察 今まで上田市の外で生活をしたことがないので、客観的な視点ではないかもしれないが、自分なりに上田市について感じたこと、考えたことをまとめる。上田市というのは上田城の城下町であったり、北国街道が通っていたこともあり、歴史がある町である。気候も安定していて、自然も多い。スキー場やキャンプ場、温泉も多く、車があれば日帰りでスキーや温泉を楽しむことができる。新幹線も通っており、東京など首都圏へのアクセスも良い。そのせいか、近頃では海野町商店街などに若者向けのバーや、都会志向の洒落た店が増えてきた印象がある。加えて県外からの移住者向けかと思われる高級マンションも増えてきた。一時的ではあるが真田氏の本拠地が上田城ということもあり、NHK大河ドラマ「真田丸」の人気によって上田が賑わっていたこ2023-01-19
83上田市に来てもらうには上田市に来てもらうには課題の提起 上田市には多くの魅力があるが、長野県にあるほかの観光地より観光客は少ない。うまく魅力を伝え多くの人に来てもらうためには。 上田市の現状 ・魅力は多くある。 ・1回限りの人が多く2回目以降訪れる人がほかの市の名所に比べて少ない 何を探求するか ・どうしたら多くの観光客に来てもらえるか。 何をすべきか ①うまく魅力を伝える。 ・SNSによる紹介 ・面白かったりインパクトのあるご当地PRてきなもの ・ここでしか食べられないもの、買えない ・デジタルマップの活用、簡単に移動時間やツアールートを作れるような機能を作ってみる →まず上田市に来てもらうための工夫そして2回目以降も来たいと思ってもらえるような工夫が必要 ②上田市内の交通アクセスをよくする ・路線バスや別所線の値段をもう少しお手2023-01-19
84課題ゼミ まとめ課題ゼミ まとめ地域の魅力を伝えるには魅力を自分たちで理解しなければならない 地域の魅力とは? 魅力は人の主観・価値観による →例:自分 実家が牡蠣の養殖(元から水産業に関わりあり) ・高校で地元の水産業により関わり、地域の良さを知る →自分が水産業に関わっていたから感じた「魅力」 他の人なら?=個人差がある 「だからこそ広くわかりやすく伝える」 「興味を持つ人を見つけることが重要」 「広くわかりやすく伝えるには? どのような価値(歴史的観点・地理的観点など)があるかを明確にする。 ただ上田にこのようなものがある(看板・掲示板など)と伝えるだけでは効果は薄く、印象に残りにくい。 イベントは? 例:上塩尻の街歩き→地域の人が自分の地域の歴史的価値をはっきりと認識できた。 価値の内容を明確にすること2023-01-19
85上田電鉄の重要性を露わにしよう上田電鉄の重要性を露わにしようElaboration課題の提起 2019年9月の「台風19号」により千曲川橋梁が崩落した上田電鉄別所線には、日本中から早期復旧を求める声が届いた。このように、利用者は存続の危機に際して重要性を訴求している。しかし、現状の上田電鉄は補助金に依存した経営を余儀なくされ、観光資源としては物足りないものがある。上田電鉄沿線は貴重な遺構や見どころであふれているのは間違いないが、こういった観光資源を有効活用するには、どうすればよいだろうか。 なぜそうなのか(=仮説、問題の構造を描いてみる) 一番の問題は、会社や地元民が上田電鉄の重要性に気づいていないという点である。また、上田電鉄は利益率が低く、改革を起こしづらいというのも足枷となっている。改革を起こすにも資金がなく、そもそも会社自体にそういった発想がないの2023-01-19
86前川ゼミ まとめ前川ゼミ まとめ課題の提起 大学に進学するにあたり塩田平のアパートを借りた。半年ほど生活してみて上田市の中心地や海野町商店街と比べてあまり生活しやすいとは言えなかったため。 なぜそうなのか 田んぼやため池が多いため土地が確保できないので生活に必要な施設などの距離が遠い。 探求の目標 どのようにすればもっと住みやすい街にできるのかを見つける 「塩田平を住みやすい街に」 塩田平は上田駅周辺と比べて非常に住みにくく感じた。スーパーなども遠く24時間営業ではないし、スポーツ用品店などもアリオまだ行かないとない。それなのに電車の本数も少なくバスもないためどこに行くにしても車が必要となってくる。そのためまだ免許や車を持っていない人や免許を返納したお年寄りなどにとっては非常に生活しずらくなっていると思2023-01-19
87プロジェクト研究 週ごとの報告集プロジェクト研究 週ごとの報告集2022年度の研究における週ごとの報告をまとめました。 可能な限り、同じ週に投稿した動画も添付しておきます。 0510 5月9日は、それ以前の週で行った研究に際しての動画制作とその公開に関する記事をマイサイトに投稿しました。詳しくはそちらに記入してあります。 また私は16日のゼミには参加できないため、研究テーマのまとめ制作を少しずつ進める予定です。 0613 コメント遅れてすいません。 活動報告はマイサイトの方に投稿済みです。具体的には、動画1本投稿、各チャンネルの傾向をメモ等を行いました。現在は動画を投稿しつつタイトル、字幕、チャンネル名、概要などの英語対応化を進めています。 0620 先週は動画を1本投稿し、今日マイサイトに報告を投稿しました。 https://d-commons.ne2023-01-18
88火の用心の徹底火の用心の徹底災害に関するものとして火災というものもある。これは人のミスによることが原因で起きるものであり、人々の意識が対策として重要になってくる。ここでは1780年にしていた夜警による火の用心の厳重の徹底についての記録を紹介する。 (夜警達)(信州デジタルコモンズ) https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/library/02OD50205000002023-01-18
89幕府からの復興指示幕府からの復興指示これは1861年に幕府から指示された命令についての記録書である。その中に江戸大火や江戸城の火災の復興指示に関するものもあったのでここで紹介します。 秘鑑松用備忘録 全(信州デジタルコモンズ) https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/library/02BK01041319582023-01-18
90洪水量水計測洪水量水計測明治27年になると洪水が起きた際、どれくらいの水が上昇してくるのかを実際の上り幅を計測してまで具合的に計測しました。その記録個所の目印がこの写真のものです。 千曲川筋下高井郡立ケ花村洪水量水表建設箇所実測図(信州デジタルコモンズ) https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/museum_history/03PLNS000690002023-01-18
91洪水の記録洪水の記録災害といえば、洪水も置いておけないものである。洪水は、地震の土砂崩れの影響でも起きるが、本来台風や大雨など比較的起こりやすい自然状況で発生するので災害頻度的にはかなり危険な部類の災害となる。写真の歴史書ではその被害についての苦しさについて書かれている。 松代町地誌略(信州デジタルコモンズ) https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/library/02BK01041319332023-01-18
92地震を元にした民謡本地震を元にした民謡本これは逆に地震の被害を文字で伝えるのではなく、歌や音楽にして伝えようと作られ、編纂された少し変わった民謡本です。このようなものが作られていることから当時の民衆にとっても忘れるに忘れることができない地震であったことが推察できます。 志ん板地震くどきぶし 上・下(信州デジタルコモンズ) https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/library/02BK01041679942023-01-18
93山崩れが引き起こす洪水山崩れが引き起こす洪水これは、山崩れが起きたことで川が塞き止められ洪水を引き起こし、村などを飲み込んだ時の絵です。おおよその死者は270人にものぼると記録にあります。 信濃国大地震犀川出水絵図(信州デジタルコモンズ) https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/library/02MP01041725642023-01-18
94善光寺大地震災害(地方図)善光寺大地震災害(地方図)過去には善光寺に大地震が到来したことがあります。この写真はその時の善光寺大地震のことを地図に表したものです。 善光寺大地震災害地方図 写(信州デジタルコモンズ) https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/museum_history/03OD06210007002023-01-18
95プロジェクト研究の足跡プロジェクト研究の足跡プロジェクト研究の足跡を綴ってきたものをまとめました。 4月25日 前半はグループメンバーの共通項として、研究への取り組み方や考え方を共有しました。後半は、各自のプロジェクトの説明とそれに対する質問や問題意識の共有を行いました。ゼミ内で横のつながりが出来ることで、各自の持つ問題意識への様々な考え方が示され、非常に有意義なものとなったと感じました。今後は、自身のプロジェクトを進める中で頻繁に意見交換をすることで、より多角的な視点から研究していこうと考えています。 5月11日 大洗町における地域学習に関する記事の閲覧及び調査を行いました。また、大洗にフィールドワークに赴く際の調査事項などをまとめました。今後も活動を報告し合う事で様々な視点から調査を行っていきたいと考えています。 5月17日2023-01-16
96大洗町のキャラクターパネル大洗町のキャラクターパネル大洗町の商店街にはガルパンキャラクターの等身大パネルが店舗ごとに設置されています。 このパネルは2013年3月の海楽フェスタの際に行われた取り組みです。 この前年の11月に行われたあんこう祭りで多くガルパンファンが大洗町に訪れたことに引き続き、この取り組みはガルパンファンを商店街に呼び込む原動力となりました。 その結果が10年間ものコンテンツツーリズムに行き着いたと考えると、きっかけとなったこのキャラクターパネルが商店街とガルパンファンを結びつけたといえるのではないかと考えました。2023-01-16
97第二回create owaraiの開催にあたり第二回create owaraiの開催にあたり2023年1月15日に、去年に引き続き二度目の開催となる、茨城県外から参加者を募り、大洗町の事業者様の抱える課題を解決に導く地方創生プログラム「create owarai」のDay1が行われました。 私は今回事務局として、このプログラムの運営と、プログラム風景の発信、そしてこのプログラムを通しての意義、効果の考察を主な役割として参加しています。 Day1では各参加者やチームの参加風景を撮影すると共に、雨天ということもあり、一つのチームの町巡りを運転兼説明役としてサポートしました。 参加者の皆様は既に多くの活動に参加経験のあるスキルフルな方々が多く、初日から地元の課題解決に向け多くの議論が飛び交っていました。 今後も三か月間、このプログラムを少しでも意義あるものにしていけるよう取り組んでいこうと思います。 ま2023-01-16
98私のチャンネルはなぜ成功していないのか私のチャンネルはなぜ成功していないのかしばらく投稿が出来ていなかったため、その期間に投稿した動画と、研究最終報告へ向けてのメモ代わりとしてテーマごとの記事を残します。 2 私のチャンネルはなぜ成功していないのか  私はYouTubeに関係した研究をする過程の1つで「成功しているチャンネルの特徴を分析しそれを自身の動画に取り入れて変化を見る」ということをしてきました。 しかしこの記事を書いている時点でやっと登録者が300人を超えたくらいであり、世間的に見ればYouTubeで成功したとは到底言えません。    この記事では、成功したチャンネルの要素を取り入れたのになぜ私のチャンネルは成功していないのかをまとめます。    初めに結論から言うと、その理由は「成功したチャンネルの要素を取り入れたから」です。 これだけだと何を2023-01-13
99海外向け旅行youtuberとその模倣投稿者の違い海外向け旅行youtuberとその模倣投稿者の違いしばらく投稿が出来ていなかったため、その期間に投稿した動画と、研究最終報告へ向けてのメモ代わりとしてテーマごとの記事を残します。 1 海外向け旅行youtuberとその模倣投稿者の違い  初めに、収益を得ている投稿者を「youtuber」収益を得ていない投稿者を「投稿者」とします。  私の研究で注目している海外視聴者向け旅行youtuberは数名いますが、その先駆けとも言える「Travel Alone Idea」さん(以下Travelさん)を最終的に取り上げることにしました。  Travelさんをご存じない方に向けて凄さを簡単に言うと、14本の動画のみで登録者数100万人を達成しており、再生回数最多の動画は10か月前の投稿にも関わらず8049万回再生という驚異的な数字を記録しています。これらの数字はYouTube全体で見ても極めて稀であり、同様の数字2023-01-13
100elaboration探求まとめelaboration探求まとめ上田城と地元の松本城を比較し、松本城が地元の人から愛され誇られているのかを探求した。 前提として、天守閣の有無は割愛させてもらいこの探求テーマを考えた。 上田城と松本城の魅力の比較について主に2つ挙げる。 一つはイベントの豊富さである。 まず、松本城は春夏秋冬でイベントが設けられている。2022年に松本城で行われたイベントを調べていくと 春のイベントは「夜桜会」、「桜並木 光の回廊」をはじめとする5つ。 夏のイベントは「太鼓祭り」、「和服来場者入場無料事業」などの計3つ。 秋では「そば祭り」と「お城祭り」の2つ。 冬は、「冬囲い」、「氷彫フェスティバル」をはじめとする6つ。 四季折々のイベントが合計で16件も催されている。 県外の人だけでなく、地元の我々も訪れる機会が多くそのため、自信をも2023-01-12
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