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1友人からのプレゼント友人からのプレゼント2022.07.11 中学高校の友人からプレゼントが届いた。ニューバランスのシューズ。 この友人とはもうかれこれ2年近くあっていない。 が、お互いの誕生日や年末年始・なにかイベントやおかしな話があったときなどに連絡をしたり連絡が来たりする仲。 私は一般的にみて友人が多い方ではない。しかし、不思議と学校が変わったり住む地域が離れても定期的に連絡を取ったりするし会ったリする事が多い。 何かの縁かなぁと思ったりもするのだが、そうでもないらしい。 きっと「人との繋がりがなくなる」ということを極端に恐れているのではないか、と思う。 バイトが急になくなったときも大学1年時お金が全くなかったときも試験前等の時も私は全く平気である。 10歳の時、言語が通じない韓国で迷子になった際も全く焦った記憶がない。 2022-09-15
2ななの湯 【鳴神温泉】ななの湯 【鳴神温泉】2022/09/14 鳴神温泉ななの湯へ。 私の家族がよく行く温泉の1つ。 場所は佐賀県唐津市と少し遠いが、 温泉・露天風呂・サウナ・水風呂・寝湯・外気浴・外の洗い場 と 休憩室(畳)と全てがそろっている。 今日の佐賀県の最高気温は32度と熱く、ぬるい露天風呂との相性が良かった。 サウナ後の水風呂の温度は20~22度。 キンキンに冷えた水風呂が好きな私は少し物足りなさも感じた。 普段はスマートフォンとパソコン。本を読む際も電子書籍がほとんど。 電子機器に囲まれた生活をしている私は温泉に浸かっているときが唯一電子機器と距離を置いている時間かもしれない。 ぼんやりと「後期は何をしよう」とか「次は青森に行きたいな」とか考えたりする。 サウナで整い疲れて 今日も早めに寝る。2022-09-14
3またいちの塩またいちの塩2022/07/12 糸島市にあるまたいちの塩へ。 福岡県に面している海は玄界灘。 福岡県を本拠地とするソフトバンクホークスの応援歌にも「玄界灘の潮風に 鍛えし翼たくましく」と出てくるほどなじみがある。 糸島市は玄界灘の中でも潮目が荒い として有名でその海水からとれる塩は非常においしい。 私の実家のお塩は昔からまたいちの塩。 ここの名物は塩をかけて食べる『塩プリン』 塩のしょっぱさがプリンの甘さをより引き立ててくれて非常においしい。 ここ、またいちの塩では海水を干し沸騰させ塩を浮かせるという昔ながらの方法で塩を作っている。 その塩は結晶がはっきり見えるほど綺麗。 ぜひ、福岡に行った際は立ち寄ってみては。2022-09-12
4風鈴寺 ~山王寺~風鈴寺 ~山王寺~2022/09/04 家族でお買い物ついでに山王寺へ。 免許を取得して以来車の運転手はほぼ自分。 私の通っていた自動車学校に「もう、助手席は卒業だ!」 という、ポスターが貼られていたが、 なんだかんだ助手席が一番最高だなと思う。ちなみに私は助手席ですぐに寝る。 福岡県にある、山王寺ではこの夏の時期限定で風鈴とシャボン玉を楽しむことができる。 このお寺は私は知らなかったのだが、母が教えてくれた。 風鈴の音を聞くと何だか涼しく感じるというのはどうやら本当らしい。2022-09-09
5草津アカデミー2022コンサートを聴く#1草津アカデミー2022コンサートを聴く#1「草津夏期国際音楽アカデミー&フェスティヴァル」を今年も聴きに行きました。今回は第42回、テーマは「ロッシーニ生誕230年~その時代のヨーロッパ」。 はあ、そうですか。 →草津夏期国際音楽アカデミー&フェスティヴァル 聴きに行ったのは8/26(金)のプログラム「カリーン・アダム ヴァイオリン ・リサイタル フランク&コルンゴルトのソナタ」です。 草津でアルプホルンの演奏。まるでスイスのごとく。ホテルの送迎もあり。リゾート気分で温泉ばかりでなくコンサートまで堪能できるプチ贅沢の催しにもなっています。 <曲目と演奏者> 曲目 (1)コルンゴルト:ヴァイオリン・ソナタ ト長調 作品6  K.アダム(Vn)、岡田博美(Pf) (2)ベートーヴェン:セレナード 二長調 作品25  K-H.シュッツ(Fl)、K.アダム(Vn)、般若佳子(Va) 2022-08-27
6上田自由大学を彷彿させる旧山越脩蔵宅上田自由大学を彷彿させる旧山越脩蔵宅1921年、上田で「信濃自由大学」(後に上田自由大学)が始まってから約100年が経過しました。当時の神川村の青年だった山越脩蔵、金井正らが始めた上田自由大学は「学ぶとは何か」「自由とは何か」といった時代を超えた根源的な問いかけを現代に対しても投げかけています。 今日8/23、たまたま信濃国分寺の周辺を訪れました。上田自由大学の主要メンバーの一人、山越脩蔵(1894-1990)の生家が現在も残っています。その屋敷の広大さは外塀の大きさからもうかがい知れます。しっかりと綺麗に保全されていることに感心をしました。道路側から見える手前は増築された建物。山越脩蔵が暮らしていた時代の母屋はその奥にあります。 現在はバックパッカーが宿泊できる宿として運営されていることを知りました。歴史的な建造物をこのような形で保全・2022-08-23
7JR神立駅前の再開発JR神立駅前の再開発私の実家があるかすみがうら市安食からみると最寄りのJR駅である神立駅がリニューアルされ、同時に駅前環境が大きく変わりつつあります。駅前広場はまだ造成されていません。一足先に駅前通りが貫通しました。駅前通りを通ったのは今回が初めてです。神立駅から国道6号線の区間がつながりました。 神立駅前は昭和期からのモータリゼーションに対応できず、無策のまま数十年にわたり放置されてきました。神立には日立建機をはじめ多くの工場が集積する工業都市となりましたが、都市人口、通勤者数が増える一方で幹線道路のない狭い道を多くの車が行き交う不自由がここ数十年続いてきました。積年の課題がやっと解決につながる思いがします。2022-08-17
8スマートシティにおける上田市と千曲市の観光型MaaS・温泉MaaSの可能性スマートシティにおける上田市と千曲市の観光型MaaS・温泉MaaSの可能性1. はじめに  この記事は、千曲市戸倉上山田温泉での温泉MaaSの取り組みの調査を行い、その調査をもとに上田市の別所温泉での温泉MaaSの課題と展望を考察していく。そして以上の考察を基に、観光型MaaSや温泉MaaSでの共通した重要となる要因を明らかにする。 2. スマートシティの定義 そもそもスマートシティとは何かである。まずは、スマートシティの定義を整理することからはじめる。スマートシティとは、IoTやAIなどの最先端技術を活用し、エネルギーや交通網などのインフラを効率化することで生活やサービスの質を向上させた、人が住みやすい都市のことである。スマートシティという言葉の定義は、これまでも様々な機関で定義されている が、国土交通省によると「都市の抱える諸課題に対して、ICT 等の新技術を活用しつつ、マネジ メント2022-08-11
9現代に繋がる主導的産業の偏移について現代に繋がる主導的産業の偏移について 幕末の開港によって長野県は地域経済を世界につなげることになった。そこで長野県を国外まで広げる一翼を担ったのは生糸でした。  長野県は外国との交流が始まると、器械製糸を取り入れ、養蚕や蚕種業の技術開発や改良に力を入れました。それで、蚕糸王国と呼ばれることになったわけです。長野県の近代のあゆみは養蚕や製糸業の盛衰に左右され長野県の命綱は、蚕糸業であったと断言して過言ではありません。 長野県の製糸業は県外や外国にまで進出し、日本の製糸の中心となります。なので、長野県内のいたるところの農家では養蚕が営まれました。  蚕糸業は大正時代から昭和初年にかけて全盛期を迎えますが、1929年(昭和4)からの世界大恐慌の影響をうけ、製糸業を営む会社の倒産が相次ぎ、繭価の価値の大暴落のため生活を養蚕に2022-08-10
10長野飛行場跡地長野飛行場跡地長野県長野市大豆島には長野飛行場の跡地があります。長野飛行場は昭和14年に開場され、東京や大阪などに定期便が運行し、その2年後の昭和16年に軍用飛行場として利用されるようになりました。しかし昭和20年、太平洋戦争によって長野市は空襲に遭い、飛行場とその周辺の民家にまで被害が及びました。 戦後は民間飛行場としてセスナ機や鉄道機関、長野県警のヘリポートとして利用されていましたが、平成2年に閉鎖されました。現在は中学校や住宅が立ち並んでおり、一目見ただけでは跡地だとは分からないのですが、当時の滑走路は現在も道路として残っています。 現在の日本は戦争とは無縁のような社会ですが、この飛行場の歴史を知って、戦争というものを少し身近に感じました。2022-08-09
11眞田神社眞田神社上田城内でも賑わいを見せていたの眞田神社です。 写真スポットとして、神社の中には、直径2メートル、高さ2.7メートル、あの真田幸村が使っていたかぶとと同様に鹿角をつけた朱色の巨大なかぶとがあります。また涼しげな厄祓い風鈴が連なるきれいな場所もあり、いかにもインスタ映えしそうだなと思えるところです。    私が独特だなと感じたのはおみくじ通りです。あまり他の神社では見られない、いろんな種類の趣向を凝らしたおみくじが所狭しと並んでいました。家族や友人と運試しをしてわいわい盛り上がれる良い思い出づくりになるのではないでしょうか。サマーウォーズの大ヒット祈願を行った場所でもありますし(ほんとに大ヒットになった)、ご利益も期待できそうですね。  2022-08-09
12上田城上田城大きな門がお出迎えする上田城。ここで思い浮かべるとしたら真田一族をおいて他にないでしょう。真田の父、真田昌幸によって築城された上田城は第一次・第二次上田合戦で徳川軍を二度にわたり撃退した難攻不落の城として知られています。NHKの大河ドラマ「真田丸」でも注目を集めました。また、上田城の東虎口櫓門(ひがしこぐち・やぐらもん)はサマーウォーズの陣内家の門のモデルになっています。  観光客の姿は、門付近と真田神社で多くみられましたが、上田城跡公園内は忍者修練場などはあるものの、閑散としていている印象をもちました。  途中に博物館もありましたが、人はあまり入っていないようでした。個人的な感想ですが、資料館には堅い雰囲気があり、気軽に入りずらいということと興味のない人は楽しみ方がわからないと2022-08-09
13長野県の蚕の歴史長野県の蚕の歴史今回、私は、上田市と岡谷市の養蚕と製糸産業の歴史について調査をした。このテーマにしようと考えた理由は、上田市と岡谷市で蚕にまつわる歴史があったからだ。私の地元の岡谷市は、かつて製糸産業が盛んだった。そして、上田市は、「蚕都」と呼ばれるように、養蚕の地であった背景がある。養蚕と製糸という、蚕によって結びつけられたテーマを元に、今回は、調査結果を述べていく。 はじめに、上田市の養蚕についてだ。蚕種製造・養蚕は、寛文の時代 (1661~1673) に始まった。蚕の飼育をする上で、気候が適していたため、春に育成していたようだ。一方、岡谷市の製糸は、幕末から明治にかけて盛んになっていった。「近代国家」への転換のための、外貨の獲得に、岡谷市の製糸産業は大きな貢献をしたようだ。 上田市で、養蚕が盛んになっ2022-08-05
14create owaraiの成果create owaraiの成果私は今年度の初めに、大洗町における地方創生プロジェクトである「create owarai」に参加しました。 私は「通年楽しめるビーチ」というテーマで対外的なイベントを開催するべく、参加者4人とサポーター5人の9人のチームで活動しました。 この活動は大洗町内外で注目を集め、県庁の運営するサイトにニュースが掲載されました。 実際イベント当日には多くの参加者が訪れ、約60人の方がイベントに参加しました。 このイベントでは、観光協会の方や役場の方もサポーターとして参加しており、イベントを開催する上で様々なお話を聞くことが出来ました。 海水浴客の減少や、観光客の分断、大洗で活動している外部のからきた移住者の方、空き家問題、夜の観光地の無さなど、大洗町の地域活性化について研究するにおいて非常に有益な情報と2022-07-25
15柳川市 【北原白秋 生家】柳川市 【北原白秋 生家】2022/07/18 福岡県柳川市へ。 柳川市というとウナギと川下りと北原白秋。 柳川市には写真の通り北原白秋生家という建物があるが、北原白秋の生まれた土地は熊本県らしい。 私が北原白秋を知ったのは小学校高学年(だったはず?)。新詩社で与謝野鉄幹・晶子、石川啄木らとなにか書いている人というイメージしかないが名前はよく知っている。 驚いたことは、 一緒に柳川に来た友達二人が北原白秋のことを知らなかったと言うこと。 あ、もしかして意外と有名じゃないのかも。 と思った。2022-07-20
16私の趣味② 【暇が一番つまらない】私の趣味② 【暇が一番つまらない】2022/07/15 今日は珍しく朝から家にこもっている。 今日のマイサイト何にしよーかなーと考えていたが、今日のことは特に何も投稿できない。 過去のことなら投稿できるがなんだか乗り気ではない。 ということで、 自分の考え方でも書いてみようかなと思う。 【暇が一番つまらない】 私は大学生になり、行動力が普通の人よりもある ということを認識した。 行動力だけでは無いが生活の中で気をつけていることを書こうと思う。 私の中で大事にしている考え方は大きく3つ。 1 暇がいちばんつまらない 私は忙しいのが嫌い。 なぜなら、疲れるから。 だから、暇が楽だと思っていた高校時代に母に頼んで一ヶ月間学校を休んだことがある。 しかし、3日目程からやることがなくなり暇が苦痛であることを認識した。でも、1ヶ月間休むと宣言2022-07-15
17糸のまち・こもろツアー糸のまち・こもろツアーこちらの写真は、2022年7月3日に行われた糸のまち・こもろツアーの様子です。 まず、酢久商店(純水館資料館前)へ集合し、そこから地元会員ガイドの清水季志子さん、清水寛美さんを中心にこもろの町を散策しました。 散策した場所は以下の通りです。 ・嶋田屋(明治16年まで萬屋太物呉服店) ・海慶院 ・宗心寺の高橋平四郎のお墓 ・小山家一族のお墓 ・寿町の蚕種蔵 ・工女さんのお墓 ・丸萬製糸場 ・光岳寺 ・宗心寺山門より荒町通り豪商 ・純水館(小山家前)(渋沢栄一宿泊の家) ・玄関前の小山久左衛門銅像2022-07-10
18びんぐしの湯(写真を撮り忘れました)びんぐしの湯(写真を撮り忘れました)今日来たのはびんぐしの湯! 家から車で約15分程でつく温泉♨️ 寝湯が非常に多く、とてもゆっくりすることができる。 この温泉の特徴は常連の地域の人々が沢山来ていること! 温泉に浸かっていると、 「お〜!久しぶり」や「じゃ、お先に」 など、色々な言葉を交わす様子を見ることができる。 よくあっている人に親近感が湧くのは分かるが 温泉は格別。 裸の付き合いという言葉はその通りだなと感じる。 私もよく友達と温泉に行くが、 やはり特別感が少しある(!?) と思う。2022-07-07
19茨城ならでは、イガグリの風景茨城ならでは、イガグリの風景かすみがうら市(出島村→霞ヶ浦町)は、かつては日本一の栗の産地でしたが、その後は生産量が減少し、六次産業に励む笠間市に首位の座を奪われて久しくなります。 かすみがうら市の私の家のすぐ隣にその後植えられた栗の木があり、ちょうどいがぐりがなっていました。いがぐり。茨城の風景です。見た目が美しく、ついつい手に取ってみたくなりますが、触れたら痛いぞ。2022-07-06
20秋山郷 【見倉集落】秋山郷 【見倉集落】2022/07/03 続いては、秋山郷【見倉集落】。 見倉集落は秋山郷でもっとの小さい集落の1つ。 集落内におうちが4軒のみ、と凄く小さな集落だった。 まさに秘境の集落という感じがした。 見倉集落は集落内にお墓がある。 それに加え、田んぼ・畑・ニワトリもいる。 集落内、いや家の周りに生活の全てがそろっている。 生まれてから死ぬまでの全てが集落内にそろっている。 (ここからは自分が思ったこと、感じたことなのだが) 見倉集落を見ていると、私を含む現代の人は 明らかに“生”と“死”を遠ざけ過ぎているのではないかと感じた。 生まれる瞬間は病院で生まれ、死ぬときも病院で死ぬ人が多い。私たちの身近な生活で“生”や“死”を実感する事は極端に少ない。 見倉集落を見ると、良い意味で“生”や“死”を身近に実2022-07-05
21私の趣味① 【御朱印集め】私の趣味① 【御朱印集め】私の趣味についてご紹介。 私はいくつか趣味を持っているが、その中の1つ 【御朱印集め】 御朱印集めの趣味歴は約10年ほど。 小学4年生の頃京都・奈良に家族旅行で 出発前におばあちゃんから「行くなら御朱印をあつめてみたら?」と言われたコトがきっかけで始めた。 最初はあまり楽しくなく、 でも御朱印代、御朱印帳代を母が払ってくれるからいいかー、と思いながらやっていた。 が、旅行後半には 「あの~神社行きたい!龍安寺石庭ももらいたい!」と どっぷりはまっていた。笑 そこから約10年 機会があれば御朱印をいただくようになり、 いまでは自分の趣味で1番長くやっている。 私は寺社仏閣や教会に行くのが大好き。 これについてはまた別の機会に書こうと思っているが、 信仰の対象となるモノはとても魅2022-06-30
22別府駅別府駅日本一の温泉県、大分県! 今回、観光ではなく 妹の空手大会の応援に。 しかし、旅行好きの私は少しでも観光しようと思い 別府駅へ。 時間がなかったため、食事以外の観光は行っていないが家族との大切な時間を過ごした。 写真は別府駅前にある「手湯」。 別府らしいなぁと思った。2022-06-30
23東京の銭湯 【小杉湯】東京の銭湯 【小杉湯】2022/06/28(火) 授業のため、長野県に戻る。 福岡県から長野県に行く方法はいくつかあるが、 今回は福岡~東京~長野で帰宅。 東京で友達の家に一泊。 せっかく来たし、銭湯にでも入ろう!と 友達を誘って、【小杉湯】へ。 料金は480円。 長野と比較すると若干高いな……。と思いながら入る。入ってビックり銭湯だがお風呂が4種類も! サウナはないが、水風呂があり43度の熱い湯船と交互に浸かる。 銭湯前にお酒を飲んでいたこともあり、 ぐるぐる血流が回る感覚が非常に気持ちよかった。 お風呂上がりはポカリスエットを飲んで、 至福のひととき。 東京にこんな雰囲気の良い銭湯があるんだー。と 友達と話しながら帰宅。 最高の一日。2022-06-29
24別府 【東洋軒】別府 【東洋軒】2022/06/25 妹の空手の大会観戦に大分県へ。 私の地元福岡県から車で約2時間半ほどで到着。 大分といえば椎茸、かぼす、とり天が有名。 ということで、とり天発祥のお店「東洋軒」へ。 家族で行ったため とり天、回鍋肉、酢豚、炒飯、カシューナッツ炒め と6品を注文。 どれも、家庭的な味でとてもおいしかった。 明日の試合、頑張ってほしい。2022-06-25
25立科町散策② 【芦田宿】立科町散策② 【芦田宿】2022/06/21(火) 町役場近くのスポット【芦田宿】へ。 芦田宿は旧中山道26番目の宿場である。 旧中山道の宿場ということもあり、 非常に古き良き 宿場町である。 芦田宿には「芦田宿移住サポートセンター」がある。 最近、コロナウイルスの影響で移住者が増えていることもあり移住促進を促していた。 サポートセンター内にはリモートワークをしている方が2人。そして、移住の話を係の人としてる人もいた。 宿場を進んでいくと 芦田宿本陣土屋家が現存していた。「宿札」も残され往時を丸剤まで伝える建物は中山道唯一ともいわれている。 そのほかにも現存はしていないが 山浦家、土屋家などもある。 芦田宿は 歴史ある通りで非常に面白いのにも関わらず、なぜ多くの人に知られないのか不思議に感じた。 観光地とは、観光地2022-06-21
26霊泉寺温泉霊泉寺温泉上田と松本を結ぶ国道254号線から2kmほど入ったところに霊泉寺温泉があります。その道筋はかろうじて車がすれ違える程度に狭く、その先に温泉があるのだろうかと思うぐらい。途中何台かの車とすれ違いました。 温泉街についたとたん、まるで大正か昭和の時代にタイムワープしたかのような感覚にとらわれました。隠れ家的な温泉街、秘湯という形容がぴったりの温泉街です。2022-06-20
27【2022/7/2~7/3開催】民間で始まる蚕糸業ものがたり【2022/7/2~7/3開催】民間で始まる蚕糸業ものがたり 小諸市で2日間にわたり、小諸の蚕糸業について学ぶ「民間で始まる蚕糸業ものがたり」を開催します。 【民間で始まる蚕糸業ものがたり】 主催:特定非営利活動法人 糸のまち・こもろプロジェクト 【講演】 日時:2022年7月2日(土曜日) 10時~16時  会場:ステラホール(小諸市交流館内) 参加料:500円 講演1:午前10時「シルクの里 純水館ものがたり」~制作秘話~ CTK報道制作部長 後藤 理恵氏 講演2:午後13時30分「小諸の交通と蚕糸業」元長野県立歴史館総合情報課長 宮下 健司氏 【糸のまち・ツアー(着物参加大歓迎)】 日時:2022年7月3日(日曜日) 参加募集:20名(地元会員ガイドがご案内いたします) 集合時間:午後13時30分(ツアー所要時間2時間) 集合場所:荒町 酢久商店駐車場(純水館資料館)前より 荒町商人記録を巡る 渋沢栄一宿泊の家(小山久2022-06-10
28山家神社山家神社2022.06.09(木) 上田市眞田、山家神社へ。(写真) 山家神社は古くから上田城の守護神として、 歴代上田上藩主から一般民衆に至るまで 深い信仰があったとされている。 鳥居にはおおきな桜の木があり、 とても風情が感じられる。 境内に入ると森に入ったように 自然が周りに広がっており時間の流れをゆっくり感じることができた。(写真) 宮司さんの書いた「白山大権現」(写真)と私の御朱印帳の文字(写真)を見てみるととても字体がよく似ている。 御朱印は去年12月にいただいたもの。 きっと宮司さんが書いてくれたものではないかな、と思った。 現在、アリオ上田店「赤ちゃん本舗」と山家神社はコラボしており宮司直筆の腹帯守りと御朱印のプレゼントを行っている。 お堅いイメージのある神社が 少し2022-06-10
29前川ゼミ/藤本蚕業プロジェクト2022/05/30前川ゼミ/藤本蚕業プロジェクト2022/05/30前川ゼミ・藤本蚕業チームの実質3日目は、地元の方々との情報交換がメイン。藤本蚕業が、あるいは蚕種製造が今とどうつながるのか、地域づくりに活かせるのかを緩く探りました。 その中で急浮上したインタレストの対象が「猫瓦」。各家々で解雇を育てていたこの地域ではそれぞれの屋敷の屋根に猫瓦を置いて、蚕の天敵であるネズミを追い払う信仰がありました。蚕種紙の袋には馬の絵が。蚕の卵にどうして馬なの? 多くの人が理解できない蚕種、それゆえに人々から忘れられてしまった蚕種。それと共に蚕種製造で栄えた塩尻地区も藤本も忘れられた存在となっています。知識循環型社会におけるインタレストの接点と地域づくり。一つの方向が早くも見えてきました。2022-06-05
30前川ゼミ/藤本蚕業プロジェクト始動2022/05/12前川ゼミ/藤本蚕業プロジェクト始動2022/05/122022年度になり、前川ゼミの新年度のプロジェクトの一つ「藤本蚕業プロジェクト」が始動しました。 そもそも「藤本蚕業」とは何か。その背景にある蚕種製造業、地域「上塩尻」の理解など、このプロジェクトを進めるには何をおいても現地視察から。藤本蚕業歴史館で地元の方々と顔合わせして情報交換、続いて藤本蚕業歴史館の見学、藤本蚕室、佐藤家住宅(2021年、国有形登録文化財に指定された蚕種製造民家)を見学しました。江戸期の蚕種製造家・藤本善右衛門保右()が著した養蚕の手引書『蚕かひの学』(こがいのまなび、初版は1841年)の版木もあり、残されている史料は貴重なものです。当日は、通常では見学できない藤本蚕室の2階を特別に見学させていただきました。2022-06-05
31益子輝之さんが語る上田の近代@真田太平記館益子輝之さんが語る上田の近代@真田太平記館6/3(金)午後、池波正太郎真田太平記館で益子輝之さんによる特別講座「近代の上田について」を聴いてきました。 この講座は現在、同館で開催中の展示企画「ご近所さんの近代遺産 原町通りの商店編」(3/26~6/19開催)にちなむ企画です。益子輝之さんにお会いするのも、お話を聴くのも久しぶりです。コロナ禍がそうした機会を妨げていたことは手痛かったですが、徐々に復調の方向には向かうことでしょう。 「近代の上田」というお題でしたが、前段でもある近世(江戸時代)のお話も長く、いつから近代に入るのかな?と思いながら、お話に聴き入ってしまいました。 明治2年に起きた青木騒動にまつわるお話は特に興味深く、神社の変遷、中納言などの位、明治天皇の御巡幸など、次から次へと矢継ぎ早に話は進み、メモしようがないぐらいに2022-06-05
32新国立劇場とオペラ文化の進化新国立劇場とオペラ文化の進化新国立劇場 新国立劇場が開館して今年2022年で25周年になります。昨日、久しぶりに新国立劇場を訪れました。グルックの『オルフェオとエウリディーチェ』が演目。なかなかによかった。それと共に改めて感じたことは日本のオペラ文化の著しい進化です。上演の高い質が保証されているかのように、こうした上演が当たり前に行われるようになっていることにここ数十年の進化があります。「ローマは一日にしにしてならず」のたとえの通り、我が国におけるオペラが長年の人々の努力・英知によって積み上げられ、磨き上げられてきたものであることを思います。 私がオペラを劇場でも聞き始めたのは1979年から。大学生の時分です。日本人による二期会の上演に接し、がんばってやっているなあ、と思ったのがその頃2022-05-22
33長野大学正門前夜間長野大学正門前夜間23:30分頃 遠くの家屋の光が見えるが真っ暗2022-05-17
34太陽光パネル設置率太陽光パネル設置率予てから思っていたが、地元の静岡より太陽光パネルを多く見る気がしてならなかった。 いざ家の屋根などに目を向けてみると、改めて見ても確かに多い。気になって「太陽光発電 普及率 都道府県別」で検索してみたところ、長野県は山梨県に次いで2位とわかった(但しデータは2014年とちょっと古いもの)。 しかしながら地元の静岡県も第4位に食い込んでおり、意外だった。 帰ったらもっとよく観察してみよう。2022-05-17
35塩田城跡を目指して塩田城跡を目指して実家を思い出すような激坂をのぼりながら随所に見られる案内を見る。 塩田城跡はどのようなものなのだろうか?2022-05-12
36善光寺周辺お勧めカフェ(新小路カフェ)善光寺周辺お勧めカフェ(新小路カフェ)新小路カフェは、三人の主婦が作っている和食カフェです。店内壁面には今昔地図が描かれていて、長野市などの地元の作家さんが造るアクセサリーや陶器などの雑貨もうられています。今回は抹茶ラテを頂いたのですが、ゆったりとリラックスできるような空間で飲める抹茶ラテは至福のひと時でした。ぜひ行ってみてください♡2022-05-11
37善光寺周辺お勧めカフェ(C.H.PCOFFEE)善光寺周辺お勧めカフェ(C.H.PCOFFEE)おすすめな善光寺周辺のカフェC.H.PCOFFEEを紹介します。C.H.PCOFFEEは、ビニール加工工場をリノベーションした建物で、自家焙煎のコーヒー専門店をやっています。名前の由来は大好きなバンド「クリープハイプ」の略称を使っているお店です。そのため、お店のBGMはクリープハイプ、本が店の中で並んでいるのですが、そこにもクリープハイプのボーカル尾崎世界観さんの本も並んでいてメニューもクリープハイプ独特の歌詞を使った商品が多くあります。クリープハイプファンにはとびきり楽しい場所なので是非訪れてほしい場所です。もちろん、クリープハイプのファンでなくてもお洒落でコーヒーのいい香りが漂う素敵な雰囲気や美味しい色んな色(赤、青、黄色、緑)のクリームソーダ・パフェ・キーマカレー・ホットサンドなどの軽食や飲み物が楽しめ2022-05-11
38松本てまり松本てまり松本てまりは伝統的な民芸品であり、市内のマンホールのふたにもその絵柄が使われている。 実家に戻った際に、玄関をみてみると少し埃をかぶった松本てまりを発見した。鮮やかな色合いと手作りの温かみが感じられるつくりになっている。2022-05-10
39上田市別所温泉 将軍塚上田市別所温泉 将軍塚上田市別所温泉駅から少し登ったところにある。戸隠にいたという伝説がある鬼女紅葉を倒したと伝わる、平維茂の塚。 塚には「朝日さし夕日かがやくそのもとに黄金千枚二千枚」という、朝日長者や徳川埋蔵金伝説に登場する歌と類似した詩が書かれている。別所が衰退し、家屋が残り3軒になったら掘って、埋まっている黄金を使え。3軒になる前に掘り返すと別所が滅びるという言い伝えが残っている。 ちなみに、鬼女紅葉を倒すことに使われた刀は北向観音で授かったとされているそうだ。2022-05-10
40レトロ感溢れる古民家カフェ 甘味処 雪屋Concoレトロ感溢れる古民家カフェ 甘味処 雪屋Conco雪屋Concoさんは上田駅から徒歩2分ほどの場所にある、レトロ感溢れる築80年の古民家をリノベーションしたカフェです。美味しいかき氷や和甘味などが人気です。 雪屋という名前の通り「雪のようなかき氷を食べたい」という思いから、かき氷のことを雪と呼んでいるそうです。 まさに雪のような食感の雪たちをみなさんも味わってみてください。 写真は上から順に抹茶大納言、杏仁豆腐の雪です。他にもいちごミルクなどの定番の味の雪、季節限定の雪がありますので、食べ比べなどしてみてはいかがでしょうか。 雪の他にもランチ、あんみつ、パフェ、パンケーキ、大学芋、色々あります。ランチでは昔懐かしのソフト麺や、チーズ好きにはたまらないチーズ焼きなどがあります。 支払い方法は、電子マネー支払いがあります。カード払いはでき2022-05-10
41上田藩士・山口毅(平太郎)上田藩士・山口毅(平太郎)山口毅(つよし、通称:平太郎、号:玄山)1818年(文政元)-1873年(明治6) 山口家は初代権兵衛が1673年(延宝元)に召し出されてより代々上田藩士で、毅は6代目。松平忠礼が藩主を継いだ後、塩崎の旗本松平家へ養子となった弟の忠厚について塩崎知行所代官として仕える。明治維新後は権大参事職。明治2年に忠礼の御婚姻御用掛、明治4年には翌年にアメリカ留学を控えた忠礼と忠厚の御修行御供を命じられたが、病気のため次男の山口慎(別のファイル)に後を託し退職する。明治6年、東京の旧藩邸で死去、56才。2022-05-10
42山口慎『白露日記』改訂・現代語訳(明治中期のペルー日記)山口慎『白露日記』改訂・現代語訳(明治中期のペルー日記)私の曾祖父・山口慎の『白露日記』(明治22-23年)の現代語訳を今回少し改訂しました。上田藩出身の武士道精神は潔く、故郷の多くの方に知っていただければと思います。 山口慎(1846-1913)は上田藩士・山口毅の次男で、明治5年に松平忠礼・忠厚兄弟公のアメリカ留学に随行し、帰国後、東京銀座で日本初の西洋酒問屋「清水谷商会」を営みました。明治22年、高橋是清のペルー銀山開拓事業に同行し、その顛末を『白露日記』として残します。明治45年、旧藩主・松平家の財政再建を頼まれ、東京の松平邸に移り住んで私財を投げうつも病いに倒れました。 五味篤氏の『銀嶺のアンデス』、板谷敏彦氏の『小説高橋是清』でも取り上げられた日記です。2023-05-20
43山口慎『白露日記』原本山口慎『白露日記』原本激動の明治時代を生きた上田出身の私の曾祖父・山口慎について上田の方々に知っていただけたらと思い投稿します。別ファイルに現代語訳があります。 山口慎(1846-1913)は上田藩士・山口毅の次男で明治5年松平忠礼・忠厚兄弟公のアメリカ留学に随行し、帰国後は東京銀座で日本初の西洋酒問屋「清水谷商会」を営む。明治22年、高橋是清のペルー銀山開拓事業に同行し、その顛末を『白露日記』に残す。明治45年には松平家から財政再建を頼まれて、東京の松平邸に移り住み私財を投げ打つが病いに倒れた。2022-05-07
44分散型地域デジタルコモンズ d-commons.netの開発分散型地域デジタルコモンズ d-commons.netの開発
▲デジタルアーカ犬
前川道博 d-commonsプロジェクト/長野大学
【1】はじめに 分散型地域デジタルコモンズは、地域デジタル知識循環型プラットフォームのコアとなる知識・データの共有地である[1][2]。その中核のクラウドサービスとなるd-commons.netを開発した。現在も地域資料のデジタルアーカイブ化、地域学習支援など多目的的で柔軟な運用、長期にわたる運用ができる課題解決の支援にd-commons.netを適用し、サービスの機能強化を図ってより実用性の高い、使いやすいサービスを目指している。 デジタルコモンズはさまざまな知識や学びの成果をどの地域からでも、誰でもが載せ合えるクラウドサービス上の「ネット上の本棚」(デジタルアーカイブ)、クラウドサービスと
2022-03-13
45デジタルコモンズが拓く地域資料のデジタルアーカイブ化デジタルコモンズが拓く地域資料のデジタルアーカイブ化
▲デジタルアーカ犬
前川道博 d-commonsプロジェクト/長野大学
【1】消費する知識から活用する知識へのパラダイムシフト 知識消費型社会から知識循環型社会へのパラダイムシフトが今世界中で起きています。これまでの社会では知識を書籍や講座などから受け取るものが知識、学問分野の権威が提供する知識、それを獲得することが学習と思い込まれてきた傾向があります。知識の源泉の一つは、それ以上は遡れない情報源、つまり一次資料にあります。書籍や講座は研究者などが咀嚼・編纂した二次情報に過ぎず、受け手は普通それを受け売り(消費)することぐらいしかできませんでした。さらにはデジタルな手段が当たり前に使えるようになったことにより、知識とは活
2022-03-13
46力亭力亭旅先になるので、その土地ならではのものを食べたいのですが、こちらは別行動した家族におすすめされて、行ってみました。 とてもボリュームのある美味しい海老と豚カツの定食でした。キャベツの千切りは、地野菜なのか?さすがみずみずしいという印象でした。2022-03-07
47ル・ヴァンル・ヴァン柳町にある、言わずと知れた天然酵母のパン屋さん 古民家を利用して雰囲気があり、来たら必ず行ってしまいます。 2階の畳とちゃぶ台の空間も、1階の庭が見えるレストランもどちらも好きです。店頭で、食べきれないほどパンを選んで。持ち帰ったりもします。 こちらは、2月にお邪魔した際のプレート。ごぼうのスープと赤米のキッシュ、パン2種とお惣菜・サラダです。 身体によさそうな滋味を感じる一皿でした。2022-03-03
48おお西おお西信州に来たらお蕎麦ということで、たくさんお店があり、あちこち行きました。車で来ている時は、上田から少し離れた所などにも足を延ばしました。こちらは柳町にある大西さん、店構えも古民家風で大きなお店です。こちらは、お蕎麦の実の種類もいくつかあるようで、ちょっと迷いました。こちらでもてんぷらと一緒にいただきました。2022-03-02
49キリヌキ細工キリヌキ細工こちらは11番目のキリヌキ細工 大正4年11月17日印刷、30日発行 巻頭の言葉に、モンガタキリガミ雪・月・花と図解キリヌキ12か月の中から、高尚なものを選んで再編集したと書かれています。だんだん難易度が上がっていき、家紋のような模様もたくさんあります。電柱にとまったつばめ模様などは、なかなか斬新なデザインです。2022-02-28
50竹細工と麦わら竹細工と麦わらこちらは8冊目の竹細工と麦わら 大正4年9月5日印刷、8日発行です。 角源泉(すみげんせん)という方が寄贈したようで、その方と思われる顔写真がページの冒頭に挟まれています。wikiで調べてみると、和歌山出身(印鑑も紀州国となっています。)も日本の政治家で、のちに新宮市の市長も務められていた方でした。大正4年当時台湾総督府に赴任されていたようです。発行後1か月もしないうちに寄贈されているようですが、日本と台湾との物流網についても、ちょっと驚きます。台湾の図書館に保管されているものすべてを寄贈されたのか、これだけなのかはわかりませんが、同じ作者のものとして分類保管されています。整理番号を表紙に書き込むなど、ちょっと粗い管理にも、こうして大事に保管してくださっているので文句は言いますま2022-02-28
51京城日報での13回忌の記事京城日報での13回忌の記事こちらは昭和5年12月5日の京城日報です。11/12の冒頭に、志津衛13回忌の法要が行われた記事が掲載されています。出火当時の様子や、その人柄、その後の家族の様子まで詳しく書かれています。外地であるはずの京城でも日本と同じように新聞が発刊されていること、当時の事件や広告記事など、現在とあまり変わりがないことに驚きます。 祖父俊三が京城大学在学中で、野球をしていると記載されています。上の兄たちとともに鈴木三兄弟と野球で有名だったそうです。2022-02-24
52この方が教え子でした。この方が教え子でした。上田駅から山側へ上る道途中に小林正子さん、のちの女優松井須磨子さんが、住んでいた家に看板があります。 松代の生まれだそうですが、一時養女として育てられ上田尋常小学校に通っていたそうです。志津衛氏の教え子だったそうで、女優になった後、京城への公演の際には、面会の機会があったそうです。 志津衛殉職の大正7年12月の年明けすぐ、前年11月に亡くなった島村抱月の後を追って亡くなっています。2022-02-22
53時間とともにネット上の情報が増えていく時間とともにネット上の情報が増えていくたまたま書店で見つけた切り紙細工作家の方の本に紹介されていた鈴木江南著の本を、初めてカラーで見ました。その方もどこかの古本で手に入れられたのでしょう。 そのうち、古書の売買を専門にするサイトや、個人の所蔵品の売り買いのサイトができて、運よく実物を見つけることができるようになりました。手の届かない値段でない限り入手するようにしています。 こちらは、モンガタキリヌキ花の巻、シリーズになっている冊子の1号めだと思われます。裏表紙には、三越のマークが入っていて、何色かの色紙の付録がついた紙ファイルに収められています。一冊拾八銭とあります。。 古い本がアーカイブ化されネット上で見ることができるようにもなってきました。 東京や大阪にある国会図書館もネット検索で、少年少女向けの雑誌に、記事2022-02-21
54書物とインターネット書物とインターネット何度か御参りしている時に、戒名にある”江南”ってなに?京城と関係があるのかな?と思い、なぜか鈴木江南と検索してみると、一つのブログ記事にたどり着きました。 これが大きなきっかけになりました。作家で古書収集がご趣味だった黒岩比佐子さんの古書の森という収集した古書について説明とコメントを書かれたものの一つがヒットしたのです。子ども向けの教材のようなものでした。小学校の先生をしていたことはわかっていましたが、そんなものを作っていたということは聞いていないし、教材は東京の京橋区あたりで出版されています。今の距離感から考えても、一致するとはいいがたい。ただ 教材の中には当時の戦争の色や仁川など韓国にある地名などの記述もあり、それっぽい。確信が持てないまま時間が過ぎました。黒岩さんにも直2022-02-21
55上田とのつながり上田とのつながりお墓は、上田駅から歩いて20分ばかりにある呈蓮寺さんにあります。曾祖父の代から上田を離れているので、全く縁はありませんでした。ただ本籍地が長野県にあるということぐらい。母が父と結婚する時に、京都から身上調査的なつもりで、祖母と上田に来たことがあったそうです。もう60年ほど前のこと、関西から長野って今でも距離感ありますが、そんな時代によくもまあ!と思います。どなたかに、会ってそこのおうちの方なら大丈夫みたいな(なんの太鼓判やねん?と突っ込みたくなりますが・・・)ことを聞いて帰ってきたようです。 私が学生の頃、父が車で大事故を起こしたり、(車が丈夫だったため無傷でした)経営している印刷会社の業績が厳しくなった時期がありました。アルバイト先の方に紹介していただいた占い師の方に観て2022-02-21
56自力で、ファミリーヒストリー自力で、ファミリーヒストリー人物伝に、曾祖父志津衛は、上田の士族、鈴木幸蔵の次男とあります。兄は平吉さん。こちらが本家筋になります。外地で殉職して、引き揚げてきたため、志津衛の墓石は、本家の隣に置かせていただいています。そこには古いご先祖様方の墓石があり、三太夫重明、彦三郎重義、重直、六郎衛門頼母などの名前が読み取れます。これら検索して行くと、静岡あたりにつながるようなのですが、どうなのでしょう?上田にはたくさん古地図が残っていてアーカイブ化されていますね。街中にも掲示されているものがあります。どれどれと探していると、鈴木姓がいくつか見つかりました。助之進という方は娘が殿様に嫁入りされたような・・・ 昨日、上田にお邪魔した際に、再度その地図を確認したところ市役所に隣接している場所に、鈴木平太左衛門とい2022-02-21
57曾祖父との関係曾祖父との関係人物伝にあるように、鈴木志津衛には4男2女の子供がいました。私は三男の俊三の孫にあたります。祖父が生まれた後、上田から京城(現ソウル)に渡り、日本人学校の 校長を務めていました。大正7年12月の学校火災で、殉職しますが、その後も家族は、京城に暮らしていたようです。1937年生まれの父、敬之(ひろゆき)が小学校1年の時、終戦で日本に引き揚げるまでです。 聞いた話だと、京城から釜山経由で、山口県仙崎へ戻ってきたようです。その後、祖母の実家に縁のある岐阜などで過ごした後、銀行に勤めていた祖父の関係で大阪に暮らすことになりました。 写真は、子どもたちの写真です。 陽一さん・はるさん・忠雄さん・愛さん・俊三(祖父) 俊三の出生地は明治四十四年小県郡上田町二千百九十九番地となっています。2022-02-21
58千曲川と近代文学①千曲川と近代文学①近代の作家、島崎藤村は「千曲川旅情の歌」という詩を明治38年に発行された「落梅集」で初出している。 明治32年、小諸義塾の教師として信州・小諸に招かれ、小諸で6年間生活し、家庭を持った。 「千曲川旅情の歌」は「小諸なる古城のほとり」から始まる歌であり、長野での生活が藤村の歌に影響を与えていたことが分かった。 『国立国会図書館デジタルコレクション』に、 『落梅集』が収録されている。2022-02-15
59まとめ・参考文献まとめ・参考文献【まとめ】 今回は本を読む時間をとることができなく、ネットでの情報のみとなりましたが、楽しみながら調べることが出来ました。しかし物語についての情報はあったのですが、詳しい情報はすぐに見つけるのが難しく、計画的にやっておくべきだったと後悔しました。 【参考文献】2022/2/15参照 祈り岩〔源平屋島合戦古戦場〕|高松市 https://www.city.takamatsu.kagawa.jp/kurashi/kosodate/bunka/bunkazai/shiteibunkazai/shiseki/inoriiwa.html 扇の的弓道大会|日光の伝統行事|日光観光ライブ情報局 http://nikko.4-seasons.jp/festival/function_detail.shtml?0:41 郷土の誉れ那須与一|大田原市 https://www.city.ohtawara.tochigi.jp/docs/2013082771858/ 玄性寺 大田原市観光協会 栃木県大田原市の観光案内 https://www.ohtawara.info/spot_detail.html?id=6 那須与一が愛したお寺:即成院|レンタサイクル京都ecoトリップ2022-02-15
60那須さんと椎葉さんだらけ!宮崎県椎葉村那須さんと椎葉さんだらけ!宮崎県椎葉村 壇ノ浦の戦いに敗れた平家の武士たちは、追っ手から逃れるために各地の山奥へと入り、椎葉へとたどりつきました。那須与一も追討を命じられましたが、病気のため、代わりに弟の那須大八郎宗久が追討へと向かいました。しかし、そこで彼が見たのは農耕をしてひっそりと暮らす落人たち。哀れに思った大八郎は追討を断念し、幕府には追討を果たしたと報告しました。この後ふつうなら帰りますが、大八郎はこの地にとどまり、平清盛の末裔の鶴富姫と出会います。二人は深い仲になりましたが、幕府から帰還の命令が出され、大八郎は帰らなければならなくなりました。この時にはすでに鶴富姫は身ごもっており、大八郎は「生まれた子が男子ならわが故郷下野国へ、女ならこの地で育てよ。」と言い残し、椎葉を後にします。生まれたのは女の子2022-02-15
61那須与一とは那須与一とは 那須与一は、『平家物語』や『源平盛衰記』に登場する武将です。与一とは10あまり1、つまり11男を示す通称となっています。その名の通り10人兄がいますが、10人のうち9人が平氏の味方となり、残る1人も罪を得てしまったため、与一が家督を継ぎました。その後与一は彼らに那須各地を分地します。屋島の戦いにて扇の的を射ったことで有名です。  誕生日は不明で、京都伏見にて病死、即成院に埋葬されたと伝えられています。しかしその年月日は史料により異なり、那須系図(那須隆氏蔵)、那須拾遺記によると1189年8月8日、那須系図(続群書類従)によると1190年10月となっています。  那須与一が頼朝より与えられたと伝えられる荘園は以下の五つです。 ・丹波国五賀庄(京都府船井郡日吉町) ・信濃国角豆庄(長野県松本市、塩尻市) ・若狭国東宮2022-02-15
62イナゴで作る持続可能な食生活イナゴで作る持続可能な食生活FAOは、世界の人口は2050年には現在の75億人から90億人まで増加し、世界中で10億の人々が慢性的な飢餓に陥ると指摘。 さらに2030年頃には、タンパク質の需要に対して供給が足りなくなると予測されています。 そんな食糧問題の解決策のひとつとして、昆虫を食用としたり、家畜の飼料にしたりすることを推奨する報告書が公表されました。 海のない長野県で、貴重なタンパク質の供給源として古くから食べられてきた昆虫食、イナゴ。 これからの「次世代のスーパーフード」として世界に見つかれ!!!イナゴ!!! 参考: https://www.inadanikankou.jp/special/page/id=11072022-02-15
63貰い風呂貰い風呂戦後の日本では持ち風呂の所有率が低く、祖母の実家では「貰い湯」をしいたそうだ。東京特殊電線という会社では無料で大衆浴場を開放していたためよく利用していたらしい。 祖母の話より2022-02-14
64日米和親条約と日米修好通商条約日米和親条約と日米修好通商条約出典:Wikipedia 下関戦争https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E9%96%A2%E6%88%A6%E4%BA%89  最後に、忠固が関わった二つの条約について詳しく見ていきたい。  日米和親条約の調印前に忠固(当時は忠優)は徳川斉昭との論争を制し、城中評議の場で五年後の交易承認という結論が出ていた。評議の翌日、斉昭は抗議の意思から参与辞職の意向を、自らの参与就任を推薦した老中首座の阿部正弘に伝えた。これを受けて阿部は、参与辞職を思いとどまらせるために会議の結論を覆し、交易の承認をしないという決定をした。そして日米和親条約は交渉術で勝った日本がアメリカから譲歩を引き出し、漂流民の人道的な扱いや食料・薪水・石炭の供与、長崎・下田・函館の開港などの内容に留まった。日米和親条約締結後、斉昭はアメリカの条約に基づいた「下田三箇条」と呼2022-02-14
65忠固無名の謎忠固無名の謎出典:Wikipedia 岩倉使節団https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%80%89%E4%BD%BF%E7%AF%80%E5%9B%A3  では、なぜここまでの功績を上げた人物の名前が知られていないのだろうか。それは、「明治維新を正当化させるためには、幕府が無能でなくてはならなかった」からである。  私たちはこれまで学校で、外交能力の乏しい幕府が列強に強要されるまま関税自主権がなく、治外法権を認めるような不平等条約を結ばされたと習ってきた。そして、明治維新後の薩長土肥を中心とした新しい国家が、幕府の負の遺産である不平等条約の改正を血のにじむような努力の末に成し遂げたとされてきた。しかし、これは明治政府が明治維新の正当性を国民に信じ込ませるために作り上げた「神話」だった。明治政府は、幕府が無能だったという前提のもとで明治維新というクーデタ2022-02-13
66おいだれ焼き鳥の歴史おいだれ焼き鳥の歴史画像:焼き鳥 鳥正 さん 以下より拝借  https://tabelog.com/nagano/A2004/A200401/20000407/ 昭和30年代の高度経済成長期 上田市も活気に溢れるなか、多くの人々が家路につく前の時間を焼き鳥店で過ごしていた。 需要に合わせて焼き鳥店が増える中、上田市の焼き鳥店「鳥正」の初代店主である宮下正三氏が、焼き鳥の新しい食べ方を考案した。焼き鳥にニンニク醤油だれをかけて食べるという方法を、仲間と相談しながら作り上げたといわれてる。 瞬く間にこの食べ方が広まり、今のおいだれ焼き鳥となった。 引用元:https://oidareyakitori.jp/2022-02-09
67甲田池(こうだいけ)甲田池(こうだいけ)甲田池は塩田平の中でも大きなため池で、水源は一級河川産川からの導水に依存する典型的な中継的ため池である。一般に皿池と呼ばれ、景観が良い。水抜き用の底樋は岸から5m程沖にあるため、橋が渡されている。 また、この池にはカッパにまつわる民話が残されているので紹介したい。 昔、十人村の甲田池に一匹のカッパが住んでいた。 ある日、村のお百姓さんが池の土手に馬をつないでおいたところ、いたずら好きのカッパは馬を池の中へ引っ張った。ところが馬は驚いてカッパを引きずってお百姓さんの家の馬屋に帰ってしまった。お皿の水がなくなって動けなくなったカッパは「助けてくれれば、この家にお祝いごとがあるときにはお膳を用意してさしあげます。」と言った。優しいお百姓さんはその言葉を信じてカッパを放してあげた。それ2022-02-09
68まとめまとめ食生活に関する記事を探すことを主眼に置いて西塩田時報を最後まで読んでみたが、探していたジャンル以外の記事であっても、少し目を通してみると案外面白く感じる言い回しなどが見つかり、意外と楽しく読めた。 また、通して読んだことによる発見として、戦前の記事では栽培法や家畜の育て方についてのものが多く、レシピは漬物などシンプルなものばかりであったが、戦後の記事ではそれらに加えて多少凝ったレシピについての記事もみられるようになった。 それまでは日持ちさせるための工夫であったレシピが、時代とともにさらに幅広い食事を楽しむためのものに変化していったことの表れだろうか。 掲載されている中には現在でも食べられているようなレシピもあったが、当時の人々がみな、時報に掲載されているような十分な食事2022-02-09
69上田紬について③上田紬について③上田紬が高級品になった背景 終戦後、まだ衣類が欠乏していた頃、商工省は京都のコブラン機とともに上田紬など数種を、技術保存織物として自由商品に指定した。 などの数種を、技術保存織物として自由商品に指定した。農家の家内生産によって、ほそぼそ自家用を織りだす程度であって、絹紬が機業として再開していく機会が、なかなか熟さないでいた。このとき昭和24~5年頃から、神科出身で元蒙古自治政府最高顧問をされた故金井章次氏は、軍放出の真綿を利用して糸を紡ぐことを提唱、農村副業による手織りのなかから紬織りの再興を考えた。草木染の紬織りを現代に生かそうと苦心をされる一方、草木染料や媒染材の化学研究をされて、生産量の増大や、新販路の開拓のことに努力をはらわれた。江戸時代からの上田縞・上田紬の名声は、特2022-02-09
70米じゃなくて麦? 麥の増産に就て(『西塩田時報』第11号(1943年11月10日)1頁)米じゃなくて麦? 麥の増産に就て(『西塩田時報』第11号(1943年11月10日)1頁) 日本はお米のイメージがあるがこの記事では麦の生産が奨励されている。お米は水も多く使うし、時間もかかるということでこの時期は早く生産できる麦が奨励されていたのでは。  私達が毎日食べてられるのは農家さんであったり、漁師さんのおかげである。今こうやって食べられる時代に感謝をしたい。 出典元:  『西塩田時報』第11号(1943年11月10日)1頁2022-02-09
714 上田市の建築物4 上田市の建築物明治、大正から機能を失わず現在まで残り続けている上田市の建物を身近なところから探してみました。 旧宣教師館、上田蚕種協業組合事務所棟、大家駅、飯島商店、別所温泉など数多くあり、この時代から存在する産業や文化を読み解くことが出来ます。 私たちが利用する上田駅も明治21年に開業されたものであり、駅や店が多い街の庶民の生活は非常に賑わっていたのだと思われます。 また、上田市は養蚕業で発展を遂げた地域です。観光、文化、特産品の面でもそれは大きく影響していると思います。2022-02-09
723 生活の場3 生活の場明治~大正時代の建築については、日本は古来から一貫した木造建築でしたが、明治には洋風の石造、煉瓦造が移入され末期には鉄骨造や鉄筋コンクリート造の新構造が出現し、大正期の耐震耐火の本格的近代建築へ発展しました。いわゆるルネッサンスやネオバロックの復古様式の二番煎じが移植され、疑似洋風建築と呼ばれるような建築物が多く造られました。しかし洋風化には多額の費用がかかったため、庶民の生活の場である住宅は、やはり日本家屋が多かったそうです。 生活を便利にしたアイテムとしてはランプやマッチが挙げられます。江戸時代まで使われていた行燈やろうそくに比べ石油式ランプはかなり明るく、通り沿いに設置されたガス灯は夜の街を照らすのに大変役立ちました。 また、マッチの輸入によってそれまで火打石で火を起2022-02-09
73プロジェクト研究発表①~⑬と各アウトカム(前川ゼミ2021)プロジェクト研究発表①~⑬と各アウトカム(前川ゼミ2021)長野大学前川ゼミ(企業情報学部科目「プロジェクト研究」) オンライン発表会 2022/01/31ゼミ時間帯に実施 発表①~⑬+講評 ▼2・3年生 プロ研6「海野町レトロ写真館」(発表者:足立光紅) プロ研7「西部地域の地域づくりに向けた支援」(発表者:飯髙綾) プロ研8「大洗型地域振興事業推進仮想モデルの作成」(発表者:高山大和) プロ研9「山本鼎の部屋資料のデジタ2022-02-09
742 文明開化2 文明開化この時代は西洋の文化が日本に浸透し始め、現代につながる様々な変化が生じた時代です。 食や服飾、建築などの文化において西洋の要素を取り入れ、模倣し、日本のものを取り入れるなどをして洋風に変わっていきました。 服装に関しては軍人や役人、上流階級の人の間には制服や礼服として早くから洋服が広まっていきました。庶民の間では着物が一般的であり、外で洋服を着ている男性も家では和服に着替える等の例もあったそうですが、髪型は明治に入り大きく変わりました。「散髪令」によってちょんまげを切ることが強制されました。男性は誰もが洋風の短髪になり、それに合わせて山高帽などの帽子も流行るようになりました。 女性は明治に入っても着物に日本髪が主流でしたが、化学染料を使った染物や西洋風の模様が取り入れられ、2022-02-08
75戦国時代の上田城戦国時代の上田城戦国時代、天才的な軍略家として称された真田昌幸が、上杉家に対抗するため徳川家康を説得し、上田城を築城した。上田城の築城構想は、実に巧みなものとなっている。 千曲川の北岸一帯は、神川や矢出沢川が作った谷間にある、勾配の大きな扇状地となっており、千曲川の河岸段丘となっている。そのため、大外堀の役割を果たしているため、簡単には攻め込まれない。城の南端でも、千曲川の分流が高低差の大きな岸をつくっていることや、対岸や東側も難攻不落の地となっている。 この時代から土地を生かした築城がされていたとは驚きで、上田の土地柄ならではのことであると感じた。 参考文献・資料 ・信州街あるき 上田城址を訪ねる上田城跡2022-02-04
76郷土料理郷土料理 佐久鯉について調べましたが、実際に食卓に並んでいた料理の一部を紹介します。 ①鯉こく  鯉こくとは、鯉をぶつ切りにして味噌で煮込む簡単な料理で、地域や家庭により砂糖や山椒を入れる家庭や、調理法に関しては鱗を取らずに調理する過程もあります。 ②鯉の洗い  名前だけではピンと来ないかもしれないが、鯉の洗いとは刺身である。川魚を刺身で食べるのは大変珍しく、新鮮な鯉を扱うことが出来る佐久市ならではの料理であると言える。2022-02-08
77プロ研⑤大津拓人「長沼地域におけるりんご農家の災害復興」(前川ゼミ2021)プロ研⑤大津拓人「長沼地域におけるりんご農家の災害復興」(前川ゼミ2021) 8分 ▲クリック/タップして発表動画をご覧ください。 発表:2022/01/31 オンライン発表 発表者のマイサイト(プロジェクト研究のアウトカム) 発表者(学生):大津拓人(長野大学企業情報学部4年) (ゼミ担当:前川道博@長野大学企業情報学部)2022-02-08
78第二次世界大戦以後の上田紬第二次世界大戦以後の上田紬第二次世界大戦以後の上田紬 終戦後、まだ衣類が欠乏していた頃、商工省は京都のコブラン機とともに上田紬など数種を、技術保存織物として自由商品に指定した。 などの数種を、技術保存織物として自由商品に指定した。農家の家内生産によって、ほそぼそ自家用を織りだす程度であって、絹紬が機業として再開していく機会が、なかなか熟さないでいた。このとき昭和24~5年頃から、神科出身で元蒙古自治政府最高顧問をされた故金井章次氏は、軍放出の真綿を利用して糸を紡ぐことを提唱、農村副業による手織りのなかから紬織りの再興を考えた。草木染の紬織りを現代に生かそうと苦心をされる一方、草木染料や媒染材の化学研究をされて、生産量の増大や、新販路の開拓のことに努力をはらわれた。江戸時代からの上田縞・上田紬の名声は、特有2022-02-08
79老中としての松平忠固老中としての松平忠固出典:横浜美術館「コレクション紹介」https://yokohama.art.museum/collection/collection.html    忠固は、すでに日米和親条約の頃から閣内で交易通商論を唱えており、ペリーとの条約交渉の当初から交易通商を条約に含めようとしていた。そこに立ちふさがったのが徳川御三家の水戸の前藩主で、尊王攘夷思想の震源徳川斉昭である。日米和親条約調印の翌年、斉昭によって失脚に追い込まれたもののハリスとの通商条約交渉に際して忠固は老中に復帰し、井伊直弼の調印には勅許を必要とするとの訴えを押し切って調印を断行した。その後責任を負い失脚した。  以上の老中としての行動からは、忠固の信念強さがうかがえる。2022-02-08
80第二次世界大戦以後の上田紬第二次世界大戦以後の上田紬終戦後、まだ衣類が欠乏していた頃、商工省は京都のコブラン機とともに上田紬など数種を、技術保存織物として自由商品に指定した。 などの数種を、技術保存織物として自由商品に指定した。農家の家内生産によって、ほそぼそ自家用を織りだす程度であって、絹紬が機業として再開していく機会が、なかなか熟さないでいた。このとき昭和24~5年頃から、神科出身で元蒙古自治政府最高顧問をされた故金井章次氏は、軍放出の真綿を利用して糸を紡ぐことを提唱、農村副業による手織りのなかから紬織りの再興を考えた。草木染の紬織りを現代に生かそうと苦心をされる一方、草木染料や媒染材の化学研究をされて、生産量の増大や、新販路の開拓のことに努力をはらわれた。江戸時代からの上田縞・上田紬の名声は、特有の風合や柄模様にもあったが2022-02-08
81上田紬上田紬蚕の絹糸は上田紬となって商品化されている。 上塩尻にある小岩井紬工房では実際に上田紬で商品を作り、売り出している。例えば、名刺入れ、ピアス、ネクタイなど、様々な商品がある。どの商品もキレイでデザインにも優れているものが多いので買いたくなる人もたくさんいるのではないでしょうか。小岩井紬工房に行く道のりには蚕を育てていた特徴のある越屋根の民家が多くあるのでそこも注目です。 「参考文献」 http://www13.ueda.ne.jp/~koiwai-tsumugi/2022-02-08
82蚕都蚕都江戸中期の寛保2年、奥州(福島県)でのこと。福島の蚕種家、遠藤氏が自家で製造した蚕種(蚕の卵)を「蚕都」と命名。この蚕種を遠藤氏と親交のあった上田藩上塩尻村の塚田与右衛門が仕入れ、当地近郷で販売したことから「蚕都」の名が上田小県で知られるようになった。  「参考文献」画像 https://www.tamarokuto.or.jp/blog/rokuto-report/2020/09/05/kaiko25/2022-02-08
83上田紬が庶民的なものから高級品になるまで~戦後以降~上田紬が庶民的なものから高級品になるまで~戦後以降~第二次世界大戦以後の上田紬 終戦後、まだ衣類が欠乏していた頃、商工省は京都のコブラン機とともに上田紬など数種を、技術保存織物として自由商品に指定した。 などの数種を、技術保存織物として自由商品に指定した。農家の家内生産によって、ほそぼそ自家用を織りだす程度であって、絹紬が機業として再開していく機会が、なかなか熟さないでいた。このとき昭和24~5年頃から、神科出身で元蒙古自治政府最高顧問をされた故金井章次氏は、軍放出の真綿を利用して糸を紡ぐことを提唱、農村副業による手織りのなかから紬織りの再興を考えた。草木染の紬織りを現代に生かそうと苦心をされる一方、草木染料や媒染材の化学研究をされて、生産量の増大や、新販路の開拓のことに努力をはらわれた。江戸時代からの上田縞・上田紬の名声は、特有2022-02-08
84身延線の開通身延線の開通明治38年あたり、以前の富士川鉄道を企画した資産家をはじめ、甲州の資産家らが賛同し、「富士身延鉄道株式会社」を設立した。この計画では以前の、富士市の岩淵から富士川の流域に沿って甲府までというコースから富士宮市大宮地区の経済発展を考え、富士から大宮を通り甲府に向かうルートで計画された。そのため、甲府までの鉄道の用地買収に加えて、先ほども説明した富士馬車鉄道の権利の買収を行なった。 日蓮宗の総本山である身延山参拝を鉄道計画の一つの目的としていたため、富士身延間の工事をまず行った。富士大宮間は問題なく開通された。しかし、大宮から芝川、そしてその北部の工事がはじまると、第一次世界大戦と重なり物価の異常な高騰により、建築資材の調達、用地買収が難しくなっていき、中断を余儀なくされてしま2022-02-05
85富士地区の経済発展の成り行き富士地区の経済発展の成り行き明治18年、富士地区で富士製紙株式会社の影響により、紙の資源となる富士山麓の木材を効率よく輸送するため、富士市から富士宮市大宮までの「富士馬車鉄道」が開業される。その後さらなる効率化を目指し、大宮から人穴まで富士軌道を開業し、この影響により、富士地区の経済は発展していった。 このころ、鉄道の開通の出願が増えており、この富士地区の鉄道計画に関して資産家らが「富士川鉄道」を設立し、国からの免許が下りたが、日清戦争により経済が悪化し、結局富士川鉄道に対して運行の免許が取り消されてしまった。2022-02-05
86びみダレ?うまダレ?おいダレ!びみダレ?うまダレ?おいダレ!長野県出身ですが、上田の大学に進学するまで一度も食べたことが無かったのが、美味ダレ焼き鳥でした。 ゼミとは全く関係ないのですが…(笑) 大学2年生になって、20歳を迎え、お酒が飲めるようになったのをおきに上田の街へ出てみました。 どこのお店の看板にも「美味ダレ焼き鳥あります!」の文字が並んでいて、驚きました。 実際に食べてみましたが思っていたよりも全然ニンニク臭くなく、女性でも全然食べれました。 また、ニンニクダレということもあって、お酒に合うため用かと思っていましたが、一般家庭料理として小さい子でも食べていると聞いて驚きました。 上田のソウルフードを通して大人になったことを感じた20歳の夏でした。2022-02-04
87まとめまとめ上田城を観光して、地域の歴史を知り、代表的な場所をめぐり、改めて真田氏について学べた。 上田創造館では、農具や再現された鍛冶屋の職場や農家の暮らしや商家の生活を垣間見れた。日本史の教科書にでできた現物をみれて楽しめた。 信州大学繊維学部では、上田地域では養蚕業が盛んだったことが登録有形文化財が現存することによって、実感した。また、天皇陛下が訪れたことに驚いた。2022-02-02
883.蚕(カイコ)という虫について3.蚕(カイコ)という虫について今回のテーマである蚕糸産業では蚕という虫が欠かせない存在です。そんな蚕について解説していきます。 長野県民の方なら授業で習う機会もあるらしいのですが、県外出身の私は授業などで習ったことはなく、名前だけしか知りませんでした。 蚕(カイコ)という名前は知ってるけど、どういった虫かはあまり知りませんよね。 カイコは別名カイコガ(学名:Bombyx mori) チョウ目カイコガ科に属する昆虫です。 蚕は自然界に存在しない虫で、遥か昔に家畜化された虫なので人間が世話をしないと生きていけない虫なのです。 何故、世話をしなければ生きていけないのか ・幼虫の頃は脚が弱く、葉にくっつけないから。 ・成虫になり、羽があるのに一切飛べないから。 蚕の起源 5000年前の中国で東アジアに生息するクワコという蛾の一種を糸と2022-02-02
89北の入池北の入池この池を最初訪れた際に初めに気付いたことは、水位がとても少ないことだ。この特徴は多くの溜池に見られる特徴で、おそらく冬季は降水量が少ないことが関係していると思われる。 ため池の推移が少ないということは野鳥の生活にも影響を与えていたと考える。写真にはアオサギが魚を獲って食べているシーンが写されているが、水の量が少なくなり魚の隠れ家が少なくなってきて魚がどんどんと捕獲しやすくなり、それをアオサギが食べに来ていると考えた。 このように時期によって野鳥の生活が変わるのも野鳥観察の面白さだ。 観察できた野鳥 ・アオサギ ・カワウ ・カルガモ ・ハクセキレイ ・ダイサギ2022-02-01
90西塩田の耕作地西塩田の耕作地耕作地のビニールハウス近くにワラやイネが干してある所があり、そこにスズメの群れが集まって米をついばんでいた。夏は山や森に虫や新芽など餌が豊富にあるためあまり頻繁には人里に降りてこないが、冬になると事情は違ってくる。虫もおらず木々の葉が枯れた冬は鳥たちにとっても過酷で、餌を探すために人里の身近な所まで降りてくる。今回のように農家が残したコメなどを食べにくるという例は、厳しい冬を生き抜く野鳥の人間への適応の良い例だと思った。 スズメはたくさんいるように見えるが実は数が減少傾向にある野鳥だ。このような景色はもしかしたら数十年後には見られなくなるかもしれない。 観察した野鳥 ・スズメ ・ツグミ2022-02-01
91上田藩主居館上田藩主居館 現在上田高校がある場所には、かつての真田氏以降、仙石氏、松平と続いた上田藩主の居館がありました。一般的に城主の御殿は城の本丸に設けられていますが、上田城は徳川家に恨みを買っていた歴史的背景があり、三の丸とはいえ城の中心からだいぶ離れた場所に建てられました。同行東側の表門と、その両脇に続く土塀、堀、土塁は上田市の文化財に指定されています。2022-01-31
92上田紬を「現代に生かす」上田紬を「現代に生かす」上田紬を現代に生かすために、紬・呉服交流所「GOFUKURA(仮)」を提案します。 ・家や店に眠っている、上田紬をはじめとした呉服を提供してもらう ・販売許可をいただいたものは店頭で販売を、収益の一部は提供者へ ・ほどきを行って生地としての販売も可能 ・地元の高校の服飾系の部活や、県内の服飾系の学校に提供し、リメイクに挑戦してもらう。 文化祭のファッションショーなどで披露してもらう ☆「買い取り店」ではなく「蔵」の仕組み  →売れない限りは無料で手元に戻せる+ただ持っているよりお金になる可能性がある ☆紬を残すことと、現代にマッチするよう生まれ変わらせることが両立できる ☆若者に興味を持ってもらえる、魅力を知ってもらえる2022-01-31
936 松根油の生産について6 松根油の生産について画像は「長崎ディープブログ「長崎街道11~松並木と松根油と」」から転載 http://blog.nadeg.jp/?eid=43&imageviewer&image=20171028_726412.jpg 年表・数字からひもといた中で、特に「航空燃料用の松根油」の生産に関して注目したいと感じた。 興味を感じた理由は下記の二つである。 ①自分の生まれ育った地域、しかも長野県の山の中で航空機の燃料を作っていたことを全く知らなかった。日本の山奥で航空燃料を生産するに至るまでに、どのような経緯があったのか調べたい。 ②のちに記すが、坂井村誌内の記述によると、私の実家の近く、小学校の通学路の橋の袂で生産を行っていたらしい。そのためより身近に感じた。

村誌内の記述

下記は坂井村誌内に記述されている、松根油に関する記述である。 -------------------- 松根油 昭和20年に入ると、松根
2022-01-29
944 年表からひもとく4 年表からひもとく坂井村誌内の年表を一部引用し、特に重要な部分をまとめた。

昭和12年(1937年)

盧溝橋事件が勃発。村内の予備兵に召集下令があり、村内に一気に緊張感が流れた。 ・銃後後援会(後に奉公会)結成、村防護団結成・応召家庭の農作業奉仕。 ・軍の指示により、初めて防空演習が行われる。 ・国防婦人会結成(全村)、国民精神総動員長野県実行委員会(会長・県知事)坂井村支部(支部長・村長)結成。 ⇒日中全面戦争の開始に伴って始められた、国民の戦争協力を促す官製国民運動。「精動」と略されることもある。1937年(昭和12)8月第一次近衛文麿(このえふみまろ)内閣は「国民精神総動員実施要綱」を閣議決定し、同年10月「挙国一致、尽忠(じんちゅう)報国、堅忍(けんにん)持久」のスローガンのもとに国民精神総動員
2022-01-29
95美味だれ焼き鳥の歴史美味だれ焼き鳥の歴史日本が高度経済成長期だった昭和30年代、上田市の産業も大きく発展していました。まちは働く人たちで活気にあふれ、その活気は仕事終わりの時間も収まることはありませんでした。そんな活気ある時代、上田では多くの人が家路に着く前の時間を焼き鳥店で過ごしていました。そして、家で待つ家族のためにその焼き鳥をお土産に持ち帰るというのも日常的な風景のひとつでした。 需要とあわせて焼鳥店の数も次第に増えるなか、鳥正の初代店主である宮下正三氏が、焼き鳥の新しい食べ方を考案。焼き鳥にニンニク醤油だれをかけて食べるという方法を、仲間と相談しながら作り上げたといわれています。その食べ方は見る見るうちに上田中に広がり、新しく店を出す人々も、タレの味を覚えるために修行に入ったり、味を盗むために通い詰めたり2022-01-28
96上田紬について①上田紬について①〇紬とは 紬とは、紬糸を平織りにした絹織物で作られた着物のこと。 絹特有の光沢を持つ生糸とは違い、紬糸で織られた生地は落ち着いた光沢と凹凸のある表面で独特の風合いがある。 丈夫で軽く、普段着やちょっとしたおしゃれ着におすすめな着物で、最初はかっちりとした着心地ですが、着慣れるほどに柔らかく馴染んできます。簡単に言うと、糸を先に染めたあとに布を織る絹織物でかつ、カジュアル 用のきもののことです。 〇上田紬の魅力 目の細かい糸使いでしっかりと織り込まれていて丈夫で強い。縞・格子柄が多く、 シンプルで飽きのこないデザインで江戸時代から織り継がれている。また、大島紬や結城紬と並ぶ日本の三大紬として知られ、紬の中でも軽くて丈夫なことから全国で広く愛用されてきた。 〇上田紬の歴史 今から2022-01-27
97イナゴイナゴ長野県の山間部などで多く食用とされてきたイナゴ。 動物性たんぱくをとるための貴重な栄養補給源だった。 昔に比べいなごの数も減少しており、生活や食文化の変化により各家庭で調理されることは少なくなってきたものの、今もなお伊那谷では昆虫食文化が残っている。2022-01-27
98家庭生活の民主化から家庭生活の民主化からこの記事では終戦後の民主化政策に困惑する女性の意見を知ることができる。男性よりも女性が教育を受ける機会が少なかった当時の状況で「男女同権」を主張する民主主義に対して女性にはあまり受け入れられなかったようだ。 『西塩田青年男報』第5号(1946年12月25日)第一頁より2022-01-27
99上田紬が庶民的なものから高級品になるまで~江戸時代から戦前~上田紬が庶民的なものから高級品になるまで~江戸時代から戦前~古代から中世にかけて信濃の織物として知られていたのは、麻布であった。(中略)紬は屑繭等を原料として地機で織れたから、原料生産地がそのまま織物生産地となり得た。しかもそれは商品としてよりも、農村で自家用として織られている場合が多かった。 紬は、江戸時代の庶民に許された唯一の絹織物であった。 上小地方の蚕糸業は江戸中期を過ぎる頃から、1つは養種製造、もう一方は生糸生産へと重点が移っていった。江戸中期にすぐれた繰糸技術が取り入れられ、良質の生糸が生産されるようになった。その結果蚕種・生糸の生産で十分な利益を挙げることができるのであれば、手間のかかる機織をする必要はない。このようにして幕末期に近づくに従って、上小地方の上田紬・上田縞の生産は減少していった。 さらに安政6年横浜開港以2022-01-26
100上田紬が庶民的なものから高級品になるまで~江戸時代から戦前~上田紬が庶民的なものから高級品になるまで~江戸時代から戦前~古代から中世にかけて信濃の織物として知られていたのは、麻布であった。(中略)紬は屑繭等を原料として地機で織れたから、原料生産地がそのまま織物生産地となり得た。しかもそれは商品としてよりも、農村で自家用として織られている場合が多かった。 紬は、江戸時代の庶民に許された唯一の絹織物であった。 上小地方の蚕糸業は江戸中期を過ぎる頃から、1つは養種製造、もう一方は生糸生産へと重点が移っていった。江戸中期にすぐれた繰糸技術が取り入れられ、良質の生糸が生産されるようになった。その結果蚕種・生糸の生産で十分な利益を挙げることができるのであれば、手間のかかる機織をする必要はない。このようにして幕末期に近づくに従って、上小地方の上田紬・上田縞の生産は減少していった。 さらに安政6年横浜開港以2022-01-26
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