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1擬洋風建築を残し続けるために擬洋風建築を残し続けるために擬洋風建築は幕末から明治頃にかけて日本の各地で建築された、日本の大工らが西洋風の建物を見様見真似で建てた西洋風の建築物であり、和洋折衷、様々な意匠や工法が混じった建築物は、文明開化、近代化の象徴的な存在です。しかし、現在その多くは取り壊しや火災などで失ってしまっています。この数少ない重要な建物を残すため、多くの人に魅力を知ってもらうことが重要だと思いました。 その魅力の一つは石の再現です。壁面の出隅は「隅石積」を、壁に漆喰を塗ることで模しています。木造建築でありながら、石造の建築に見せかけるという面白さと知恵を感じます。 もう一つの魅力は独自性です。玄関に唐破風屋根を設けられていたり、天井の飾りに、波に千鳥、松竹梅、菊などが描かれていたりして、洋風に見せながら和の要素を含む和2023-01-31
2中村直人中村直人大正期中ごろ山本鼎が提唱した「農民美術」と「児童自由画教育」の二つの運動の、発祥の地、神川で少年期を過ごした直人は、リアルタイムに農民美術、児童自由画教育の誕生を直視し、その中で小学校時代を過ごしました。 15歳の時、山本鼎の世話で上京し、木彫家吉田白嶺の木心社に入門。昭和10年には院展同人(会員)に推挙され日本の彫刻界の新風として頭角を現し始めました。 その後日本で活躍し、47歳でパリに渡りました。昭和28年のパリ展で大成功し、その後何度か個展を開き話題となり、滞欧12年の間に彫刻家から国際的な画家に見事な変身を遂げました。 昭和39年日本へ帰国。同年滞欧作展でパリ生活12年の成果を証明しました。その後二科会に招かれ、昭和55年には内閣総理大臣賞を受賞しました。帰国後は、様々な分2023-01-31
3兎束武雄兎束武雄上田町大手の銀行家兎束鐘一郎の長男として生まれた武雄は、幼い頃から音楽に特別な興味を示す子どもでした。母親の影響で琴を習っていたそうです。音楽に興味を示していた幼少期ですが、父親からは反対されていたそうです。 上田中学校(現上田高校)を卒業し、東洋音楽学校に入り勉強に励みましたが、東洋音楽大学だけの勉強では満足できず、他の大学でも聴講し、作曲やピアノ、チェロなどを勉強しました。大学を卒業した武雄は、高等学校の教師になることを決意して上田に帰ってきました。武雄は、音楽の楽しさや喜びを多くの人々と分かち合いたいと考え、地域の音楽活動に力を注ぎました。昭和8年、28歳のとき、梅花幼稚園の同窓生に声をかけ、「からたち合唱団」を創りました。当時、県下で混声合唱団と呼ばれるものはなく、上田2023-01-31
4戦時版の新聞③「プロパガンダ映画」とまとめ戦時版の新聞③「プロパガンダ映画」とまとめ映画までもプロパガンダとして利用されていたことが分かる記事である。 イギリス領インドの青年を日本人(岡倉天心等)が助けるといった内容であると書かれている。 実際の人物までもプロパガンダ映画で使われていたことに驚いた。 岡倉天心の「東洋は一つ」という言葉を都合よく解釈し、戦争に利用したように感じる。 参考サイト 【戦後75年】戦時中の中部日本新聞をPDFで読んでみよう 2023年1月31日閲覧 ▼この資料は以下から参照できます。 『中部日本戦時版』「2023-01-31
5戦時版の新聞②戦時版の新聞②バチカン市国について書かれた記事である。しかし、内容は敵国(アメリカ、イギリス)に対する批判である。 現代の世界史とは違った視点から歴史を見ることができ、興味深く感じた。 参考サイト 【戦後75年】戦時中の中部日本新聞をPDFで読んでみよう 2023年1月31日閲覧 ▼この資料は以下から参照できます。 『中部日本戦時版』「戦争と闘ふヴアチカン 非道へ法王の睨み」(昭和19年3月16日)2023-01-31
6戦時版の新聞①戦時版の新聞①選民思想をかき立たせるような書き方をしている記事であるように感じる。 情報媒体が限られていた時代であるため、このような偏った情報でも疑いようもなく受け入れられていたのだろうか。 参考サイト 【戦後75年】戦時中の中部日本新聞をPDFで読んでみよう 2023年1月31日閲覧 ▼この資料は以下から参照できます。 『中部日本戦時版』「我等の身体 これぞ日本人の優秀性」(昭和19年3月2日)2023-01-31
7「海外視聴者向けの日本人youtuberと旅行動画」その活用方法の調査 最終版「海外視聴者向けの日本人youtuberと旅行動画」その活用方法の調査 最終版2022年度研究である 『「海外視聴者向けの日本人youtuberと旅行動画」その活用方法の調査』 の最終完成版になります。 私自身海外に向けた動画をいくつか制作してみた結果、 主に言語の面でかなり高度な技術が必要であることが分かりました。 それは同時に、新たに海外へ向けてYouTubeによる情報発信を企業や自治体が行うことは非常に難しいということにもなります。 外国語字幕を付けた動画で発信している企業はもちろん存在しますが、そのほとんどが日本人以外の社員も多く在籍している大企業であるため、それと同様のレベルを地方自治体などがこなすことはほぼ不可能です。 そこで、すでに個人や少人数であっても海外に向けて活動し、好調な成績を出している日本人youtuberに協力を仰ぐことで、世界中へ向けての効率的かつ効果的な情2023-01-30
8プロジェクト研究(長野大学前川ゼミ)2022アウトカムプロジェクト研究(長野大学前川ゼミ)2022アウトカム長野大学企業情報学部前川ゼミ/プロジェクト研究2022成果報告 ▼前川ゼミ2022成果報告 47分 ゼミメンバーの各自が成果を報告しています。(発表順は以下の順と同じ) ▼前川ゼミ・ポートフォリオ(マイサイト) 【1】川口将太(4年) 企業のソーシャルメディアを用いたメディア戦略 【2】高山大和(4年) 持続的な地域活性化策~大洗モデル~ 【3】林 亮太(4年) 「海外視聴者向けの日本国内旅行動画」その特徴と活用方法の調査 【4】中澤愛華(4年) 神川小学校における地域学習支援 【5】春原百々羽(2年) 蚕について地元の人が学ぶ理2023-01-30
9土偶型容器について土偶型容器について出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/collection_item_images/tnm/J-7532?locale=ja) 土偶型容器(どぐうがたようき) 頭部が開いていて足の表現がない人型(ひとがた)の容器で、容器型土偶とも喚ばれる。中から焼けた小児骨が出土した例もあることから、再葬墓という当時の東日本で流行した墓制に関わるものと考えられている。 画像の土偶型容器の出土地は長野県上田市腰越。弥生時代(前期)・前4~前3世紀頃のものとされる。現在は東京国立博物館が所蔵している。 国宝の縄文のビーナス、仮面の女神と比べると険しい顔をしている。首や胴が長く頭が大きい、腕が体全体に対し短いというようにバランスはあまり良くないように見えるが、小児を表しているのではないかと考える。2023-01-29
10お菓子の歴史(洋菓子輸入時代)お菓子の歴史(洋菓子輸入時代)明治頃に、文明開化が始まり、外国の文化が日本に取り入れられ生活が変化していったが、それは菓子も含まれる。明治10年に洋菓子の輸入が5千円であったが、20年には1万円、30年には2万5千円で、38年には一躍して23万5千円とまで上昇し、短期間で需要がかなり増えた。洋菓子製法技術や洋風食材が導入され、相手先もオランダ、ポルトガルから、イギリス、フランス、アメリカに変化した。 ビスケット、キャンディ、チョコレート、キャラメル、クッキーなどが輸入され、日本での消費が増えると国内生産の方が儲かると考える人が出てきて、製造が始まった。日本で最初に作られた洋菓子は明治8年のビスケットで、東京京橋の風月堂が始めた。明治中期になると森永太一郎が森永製菓会社を作り、ビスケットやドロップス、キャラメルなどの洋菓子生産2023-01-29
11戦前長野の農業形態⑤戦前長野の農業形態⑤栽培されたイチゴは鮮度の問題から近郊には青果として、遠方には貯蔵できる形としてジャムにすることで販売していたようである。 この資料に加え、長野のジャムに関して調べてみたとこ ろ、明治10年新宿で初めて日本でジャムが作られ、その四年後に企業として初めてジャムが作られた地が長野であり、長野は日本のジャム生産の先駆的な地のようだ。 信濃産業誌 完」 https://api.ro-da.jp/v1/shinshu-dcommons/library/02BK0102152899/images/629fa7724c1f448586380935d789259b.jp2/651,655,2070,3016/333,485/0/default.jpg 「日本におけるジャムの歴史」 http://www.sudo-jam.co.jp/tokusyu/201402102023-01-28
12山賊焼き山賊焼き中信地域の郷土料理。鶏の一枚肉をタレに漬け込み、片栗粉をまぶして揚げた料理。タレのベースの味は、醤油、味噌、塩など、地域によって様々である。名前の由来は諸説あるが、山賊は物を“とりあげる”から、“鶏を揚げる”料理を「山賊焼」と呼ぶようになったそうだ。 [タレのベースの味は、醤油、味噌、塩等店舗によって様々](https://www.nisshin-oillio.com/report/kikou/vol35.html)より引用 紹介したのはほんの一部だが、寒さの厳しい気候を生かした郷土料理や野菜が多いと感じた。日本はたくさんの自然に恵まれ、四季がある。近年、日本の文化の継承が危惧されているが、「郷土料理」という地域の個性あふれる文化を大切にし、郷土料理を通して地元の良さを改めて考えるべきだ。2023-01-28
13ペグーの大臥像に見入る皇軍勇士(『ビルマ作戰 : 大東亜戰史』)ペグーの大臥像に見入る皇軍勇士(『ビルマ作戰 : 大東亜戰史』)ビルマ(ミャンマー)に侵攻した日本軍が、ペグー(バゴー)の寝仏を見ている写真。 この写真が載っている本には、進軍している様子や戦っている様子、町の状況等の写真が多い。そのため、この写真のように戦いに関係のないものが載っていることに違和感を覚えた。 観光できるほど、英軍に圧勝であると伝えるためだろうか。それとも、ただ単純に近況報告をしているだけなのだろうか。様々な考察ができる。 ▼この写真が掲載されている書籍は以下から参照できます。 国立国会図書館デジタルコレクション 『ビルマ作戰 : 大東亜戰史』,同盟通信社,1942年2023-01-28
14お菓子の歴史(点心時代)お菓子の歴史(点心時代)菓子は一日二回の食事の間に食べる間食用として長く続いていたが、鎌倉時代になると都会では三食制となったため、菓子は嗜好品になり、一般庶民からは縁のないものになった。 そのころ、茶が日本に渡来して、喫茶が流行した。その際に使用する菓子を「点心」と呼ぶ。もともと、点心とは定食と定食との間の小食であり、間食やおやつを意味する。点心には主に羹(あつもの)という汁と、まんじゅう類があり、それぞれ多くの種類がある。これらが和菓子の発展に繋がっていった。 守安正 著『お菓子の歴史』,白水社,1965. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2507981 (参照 2023-01-27)2023-01-27
15尺貫法からメートル法へ(1933)尺貫法からメートル法へ(1933) メートル法に関するプリントを、生徒の各家庭に配布したという記事である。この記事の翌年の1934年に、日本従来の尺貫法が廃止され、メートル法が取り入れられた。これまで使ってきた単位を、使わないようにしなければならないと考えると、当時の学生はとても苦労しただろう。教育において、使用する単位を変えるということはとても大変なことだ。 #507 「西塩田時報」第114号(1933年5月1日)3頁 https://mmdb.net/mlab/uedagaku/pdf/nishishioda/ns07_101to120.pdf2023-01-27
16はじめにはじめに私は、大正・昭和初期における教育の特色について調べていきたいと思う。西塩田時報の学校行事などについて書かれた記事を参照して、当時どのような教育が行われていたのかを解き明かしていく。また、当時、軍国主義となっていった日本だが、教育にはどのような影響が及ぼされたのかなども詳しく見ていきたい。2023-01-27
17唐菓子について唐菓子について奈良時代から平安時代にかけて遣唐使によって唐から伝来した唐菓子は,米粉や小麦粉を捏ねていろいろな形に作り,油で揚げたり,焼いたものである。 日本や仏教の世界でお供え物とされるほどであり、当時はとても高価でめったに食べられないものであったが、現在では限られた和菓子店だけではあるが、手軽に食べることができる。 写真は岡田哲「食文化入門-百問百答-」から抜粋2023-01-27
18お菓子の歴史(上古時代~唐菓子時代)お菓子の歴史(上古時代~唐菓子時代)日本のお菓子の歴史はとても古く、約2000年前の上古時代といわれている。菓子の名称については色々な説があるが、初めは「古能美(このみ、木の実)」、「久多毛能(くたもの、果物)」であり、現在でいう菓子とは違っている。 現在の菓子は唐菓子時代(奈良朝平安朝初期)に輸入された唐菓子が始まりとされている。 守安正 著『お菓子の歴史』,白水社,1965. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2507981 (参照 2023-01-27)2023-01-27
19上田市の自然文化について上田市の自然文化について別所温泉は、信州最古の歴史を持つ七久里の湯と呼ばれる温泉を持ち、平安時代の有名な和歌集にも記されている。安息の場として栄えた別所温泉は、かつて真田幸村の隠し湯があったとも言われていて、1500年以上の歴史を持っているとされている。 また別所を含む塩田平は、信州の鎌倉とも呼ばれ、温泉に限らず多くの文化財が残されている。 「幕宮池」と呼ばれる池は、日本で最も降雨量が少ないとされる位置にあり、多くのため池が作られた場所である。 〈参考資料〉 https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/others/01DD001H230003 https://adeac.jp/shinshu-chiiki/catalog/mh0555002023-01-26
20上田紬のデザイン上田紬のデザイン日本らしさが残るデザインになっているため、観光客の目にとまりやすいと感じた。また、近年では若者向けにデザインされるお土産が多い中、伝統的な要素が前面に出されている。 画像・資料参考元:みんなで作ろう信州上田デジタルマップ 投稿者名:あやか様2023-01-26
21戦後80年で人々の価値観はどう動いたのか戦後80年で人々の価値観はどう動いたのか 戦後日本において、新幹線が開通し、オリンピックが開催され、インターネットが普及する間に、日本人の価値観・人生観はその生活の様相とともに大きく動いてきたように思われる。そこで、戦前の人々の価値観は、現在を生きる我々から見ていかに違うのかを研究する。  本記事では西塩田時報第百八十二號第五頁を取り上げて述べる。 「幹部修養講習會に出席して」という項目は、「原田晴章」なる人物が、「三好武治」なる人物の講演の一端を書くというもの。講演の内容は、主に支那事変(日中戦争の、当時の日本での呼び名の一つ)についてのものである。 「日本で今度の事變での勝利は精神力である」 「支那事變は世界に類の無立派なる所の正しき戰争である」  このような記述がある。やはり根拠のない精神論や戦争を美化する意2023-01-26
22吉田東伍について吉田東伍について越後の農民として生まれた吉田東伍は、郷土の大地こそが日本の風土の一部であり、日本を正しく理解するためには、風土を組み立てている郷土についてしっかり見なければならないと考えていた。13年という長い時間をかけて編纂した、大日本地名辞書は人間の活動地帯である「土地」と刻まれた歴史の語り部としての「地名」を大切にすることを教えた。我が国全土の「郷土の未来」を見据えるための学問であると言える。 彼は教育をほとんど独学で行い、図書館に保管されている書籍や学術論文を主な教材としていた。その知識を活かして小学校教諭になった経歴がある。 彼の地理学の研究から、彼は小さな町の目立たない郷土や風土は決して意味のない産物ではなく、日本という国を作る一つの要素として働きかけているのだと伝えているのだと2023-01-25
23兎束武雄(うづかたけお)兎束武雄(うづかたけお)上田町大手の銀行家兎束鐘一郎の長男として生まれた武雄は、幼い頃から音楽に特別な興味を示す子どもでした。しかし、父親は音楽は男のするものではないと考え、武雄の音楽に対する熱意を快く思っては居ませんでした。母親は、音楽を好み自ら琴を弾いたり、4人の姉妹たちにも琴を習わせていました。  上田中学校(現上田高校)を卒業した武雄が、音楽の道に進みたいと父親に相談しましたが猛反対を受けましたが、母親の協力と武雄の熱意に最後には承諾しました。  武雄は上京し、東洋音楽学校に入り勉強に励みましたが、東洋音楽大学だけの勉強では満足できず、他の大学でも聴講し、作曲やピアノ、チェロなどを勉強しました。大学を卒業した武雄は、高等学校の教師になることを決意して上田に帰ってきました。  上田に戻った武雄2023-01-25
24蚕業の背景蚕業の背景江戸末期、鎖国政策を終え古くから生産されてきた生糸を中心に貿易を開始した。しかし、増える需要に対して品質基準を満たす生糸の生産が追い付かない状況であった。 明治維新を経た日本は、「殖産興業」による「富国強兵」を掲げた。それに伴い、生糸を主要な輸出品とし、品質向上、生産力向上に努めた。 新たな生産工場の建築を行うために、フランスなどから技師が招聘されるなど、積極的な動きがあった。2023-01-25
25蚕業と気候蚕業と気候上田市は年間降水量が1000mm未満であり、日本一晴れの日が多い街である。この気候は蚕の飼育に適しており、上田市は日本でも屈指の蚕の産地になった。2023-01-25
26サントミューゼサントミューゼサントミューゼのサントは、かつて蚕都として栄えた上田市の歴史と、日本一の晴天率を誇るため、太陽が燦々と、さらには文化・まち・人を育てるという3つの目標が込められている。 ミューゼはミュージアムからの造語である2023-01-25
27蚕業の施設蚕業の施設長野県上田市では、かつては蚕業が盛んな地域であった。それを象徴するのが常田館製糸場である。この製糸場は明治33年創業の歴史ある建造物である。当時の養蚕業は日本の近代化の原動力であり、様々な箇所で利用されていた。この施設では、室温度、通風、乾燥などを整えることで、一年を通して平均的に生糸を生産することが可能となっていた。 木造5階建繭倉庫、鉄筋コンクリート5階建倉庫群などは、国指定重要文化財に指定されている。2023-01-25
28桑皮生産増強に就て(『西塩田村公報』第5号2項)桑皮生産増強に就て(『西塩田村公報』第5号2項)桑皮生産の増強についての記事である。上田は桑栽培の適作地であったことから桑が多く栽培されていた。 蚕の餌として生産していたと考えていたが、戦時中は繊維資源としても生産していたようである。 また、「東亜共栄圏」という言葉が多く使われている。 日本政府がスローガンとして使っていただけでなく、日常でも「東亜共栄圏」という言葉が使われていたことが分かる。 ▼この記事は以下から参照できます。 #928 『西塩田村公報』第5号(1942年5月22日)2頁2023-01-25
29安楽寺八角三重塔安楽寺八角三重塔日本で最も古い臨済禅宗寺院の一つである安楽寺。そこにある木造八角三重塔は、木造の八角塔としては全国で一つしかないという貴重な建築で、長野県では一番早く「国宝」に指定された。 https://museum.umic.jp/bunkazai/document/dot1.html2023-01-25
30大湯大湯大湯別所温泉外湯のひとつ。景行天皇の御代、日本武尊の東征の折発見されたと伝えられ、古名七久里の湯、枕草子にも記された信州最古の温泉。大湯は木曽義仲が愛妾葵御前をつれて逗留したと「新・平家物語」に書かれている。 http://db.umic.ueda.nagano.jp/johogura/datadisp.php?arg_sano=3032090より引用2023-01-25
31大東亜戦争完遂映画会(『西塩田村公報』第5号4項)大東亜戦争完遂映画会(『西塩田村公報』第5号4項)農村でも映画会を開き、戦果を伝え、国民の団結力と忠誠心を強めていたと考えると、いかにマスメディアが戦争に利用されていたかが分かる。 上映されていたものはおそらく大本営の戦果発表だと思われる。そのアーカイブはNHKの戦争証言アーカイブス、戦時録音資料で参照できる。 この記事が書かれた当時(1942年5月22日)は、日本軍が優勢であったとされる。アジア・太平洋戦争の転換期であるミッドウェー海戦はこの新聞が発行されて約2週間後に起こる。 NHK「戦争証言アーカイブ 戦時記録資料 勝利の記録」 https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/sp/list.cgi?cat=kiroku 2023年1月25日閲覧 ▼この記事は以下から参照できます。 #930 『西塩田村公2023-01-25
32金井正について金井正について金井正は、明治19年神川村国分に、金井家の三男として生まれました。県立長野中学校(現上田高等学校)に入学。家庭の事情から家督を継ぎ、父が局長を務める国分郵便局の事務員として勤務しました。その一方で哲学者西田幾多郎の存在を知り、哲学に関心を高め、神川読書会を企画したり同人雑誌の創刊し、社会主義による啓蒙を図りました。山本鼎がヨーロッパ留学から戻り、訪ね、児童自由画教育と農民美術運動に感銘を受け、協力を約束し、鼎による講演会「児童自由画の奨励について」を企画。続いて「第1回児童自由画展」を開催し、予想以上の成功を収めました。  農民美術運動については、鼎と連名で日本農民美術建業の趣意書を作成して、神川村の人々に働きかけました。大正8年に第1回農民美術練習所を神川小学校で開設し、2023-01-25
33鉄道施設としての別所線鉄道施設としての別所線写真の通りに別所温泉駅では、日本遺産の別所線の鉄道施設としての説明看板が立てられています。 上田から別所温泉までの路線は大正10年(1921年)に開通したと書かれています。 また、真っ赤な鉄橋である千曲川橋梁(きょうりょう)は224メートルの長さであったそうです。 中塩田駅や別所温泉駅など駅舎に近代の趣が残っている様子が見る事が出来ます。2023-01-22
34信州上田レイライン線について信州上田レイライン線について日本遺産のレイラインを見に行くことが出来るようにレイライン線の時刻表が出されています。 電車から下之郷駅でバスに乗り換えることでレイラインを楽しめるようになっていて、上田駅からどの時間で出発して到着するのかわかりやすく書かれています。 また、切符についても窓口に相談することが出来るようになっています。2023-01-22
351年後期 前川課題発見ゼミ最終まとめ1年後期 前川課題発見ゼミ最終まとめ調査テーマ「地域の特色・歴史」まとめ 上田の歴史的な出来事・人物と聞かれれば多くの人々が「真田氏」に関する事柄を思い浮かべるだろう。しかし、今回の調査を行う中で、真田氏以外にも日本の歴史・文化に多大な影響を与えたと言える人物も存在することを知った。 例えば、上田藩主を務めただけでなく、江戸幕府老中として条約の締結にも尽力した「松平忠固」、日本の児童画に大きな転換・影響を与えた「山本鼎」は良い例だろう。功績としては素晴らしい物であると断言できるものばかりだ。 特に山本の考えは当時としては(今の価値観で考えても)先進的な物だった。山本は真の意味での「自由」を求めた人物であり、今日の教育活動に一石を投じるものであると感じた。現代ですら「型にはまった教育」が基本的である中、山本は2023-01-19
36上田電鉄の重要性を露わにしよう上田電鉄の重要性を露わにしようElaboration課題の提起 2019年9月の「台風19号」により千曲川橋梁が崩落した上田電鉄別所線には、日本中から早期復旧を求める声が届いた。このように、利用者は存続の危機に際して重要性を訴求している。しかし、現状の上田電鉄は補助金に依存した経営を余儀なくされ、観光資源としては物足りないものがある。上田電鉄沿線は貴重な遺構や見どころであふれているのは間違いないが、こういった観光資源を有効活用するには、どうすればよいだろうか。 なぜそうなのか(=仮説、問題の構造を描いてみる) 一番の問題は、会社や地元民が上田電鉄の重要性に気づいていないという点である。また、上田電鉄は利益率が低く、改革を起こしづらいというのも足枷となっている。改革を起こすにも資金がなく、そもそも会社自体にそういった発想がないの2023-01-19
37前川ゼミ まとめ前川ゼミ まとめ課題の提起 大学に進学するにあたり塩田平のアパートを借りた。半年ほど生活してみて上田市の中心地や海野町商店街と比べてあまり生活しやすいとは言えなかったため。 なぜそうなのか 田んぼやため池が多いため土地が確保できないので生活に必要な施設などの距離が遠い。 探求の目標 どのようにすればもっと住みやすい街にできるのかを見つける 「塩田平を住みやすい街に」 塩田平は上田駅周辺と比べて非常に住みにくく感じた。スーパーなども遠く24時間営業ではないし、スポーツ用品店などもアリオまだ行かないとない。それなのに電車の本数も少なくバスもないためどこに行くにしても車が必要となってくる。そのためまだ免許や車を持っていない人や免許を返納したお年寄りなどにとっては非常に生活しずらくなっていると思2023-01-19
38プロジェクト研究 週ごとの報告集プロジェクト研究 週ごとの報告集2022年度の研究における週ごとの報告をまとめました。 可能な限り、同じ週に投稿した動画も添付しておきます。 0510 5月9日は、それ以前の週で行った研究に際しての動画制作とその公開に関する記事をマイサイトに投稿しました。詳しくはそちらに記入してあります。 また私は16日のゼミには参加できないため、研究テーマのまとめ制作を少しずつ進める予定です。 0613 コメント遅れてすいません。 活動報告はマイサイトの方に投稿済みです。具体的には、動画1本投稿、各チャンネルの傾向をメモ等を行いました。現在は動画を投稿しつつタイトル、字幕、チャンネル名、概要などの英語対応化を進めています。 0620 先週は動画を1本投稿し、今日マイサイトに報告を投稿しました。 https://d-commons.ne2023-01-18
39プロジェクト研究の足跡プロジェクト研究の足跡プロジェクト研究の足跡を綴ってきたものをまとめました。 4月25日 前半はグループメンバーの共通項として、研究への取り組み方や考え方を共有しました。後半は、各自のプロジェクトの説明とそれに対する質問や問題意識の共有を行いました。ゼミ内で横のつながりが出来ることで、各自の持つ問題意識への様々な考え方が示され、非常に有意義なものとなったと感じました。今後は、自身のプロジェクトを進める中で頻繁に意見交換をすることで、より多角的な視点から研究していこうと考えています。 5月11日 大洗町における地域学習に関する記事の閲覧及び調査を行いました。また、大洗にフィールドワークに赴く際の調査事項などをまとめました。今後も活動を報告し合う事で様々な視点から調査を行っていきたいと考えています。 5月17日2023-01-16
40海外向け旅行youtuberとその模倣投稿者の違い海外向け旅行youtuberとその模倣投稿者の違いしばらく投稿が出来ていなかったため、その期間に投稿した動画と、研究最終報告へ向けてのメモ代わりとしてテーマごとの記事を残します。 1 海外向け旅行youtuberとその模倣投稿者の違い  初めに、収益を得ている投稿者を「youtuber」収益を得ていない投稿者を「投稿者」とします。  私の研究で注目している海外視聴者向け旅行youtuberは数名いますが、その先駆けとも言える「Travel Alone Idea」さん(以下Travelさん)を最終的に取り上げることにしました。  Travelさんをご存じない方に向けて凄さを簡単に言うと、14本の動画のみで登録者数100万人を達成しており、再生回数最多の動画は10か月前の投稿にも関わらず8049万回再生という驚異的な数字を記録しています。これらの数字はYouTube全体で見ても極めて稀であり、同様の数字2023-01-13
411/12日 調査まとめ1/12日 調査まとめ上田と「山本鼎」 自由画運動 山本鼎(やまもと かなえ)は愛知県岡崎市出身の画家であると共に、上田を拠点に「自由画運動」「農民美術運動」の先駆けとなった人物である。愛知県出身の山本であるが、父親が小県郡神川村大屋(現在の上田市大屋)に病院を開業したことをきっかけに上田と縁を持つこととなる。1912年にフランスに5年間の留学へ向かった山本は、日本に帰国後、児童画の改革を目指した運動を起こした。山本の言葉に「自分が直接感じたものが尊い」というものがあるが、当時の児童画の指導方法は「お手本の模写」が主流であった。山本はこれに対し、絵の技術や方法が重要なのではなく、自分の目で見た物、感じた物を描くことが児童の発達にとって大切であると説き、1919年に神川小学校で第一回児童自由画展覧会が開催され、2023-01-12
42上田市マルチメディア情報センター上田市マルチメディア情報センター上田市マルチメディア情報センターは、長野大学の少し上に位置している、情報化を総合的に支援する環境が整っている施設である。 ●施設・概要 学生は無料で使用できる学習スペース、3Dプリンターがあり、アニメや映画などを250作品以上見ることができるPCが置かれていた。また子供や大人も活用できる学習空間がある。 他には教育支援や無線LAN有線LANの管理など地域にも貢献している施設である ●上田資料映像鑑賞 上田市の50年前の資料映像を見させていただいた。 そこでの貴重な映像を紹介する。 ●「上田つむぎ」信越放送 1964年1月16日放送/上田紬/私たちの周辺 人手を要する養蚕は機械化をする必要はあるが、あまりにも機械化をしてしまうと伝統が欠如してしまう可能性があるとのこと。 手織りのものは個人に合わせて作2023-01-12
43一次資料としてのminiDV一次資料としてのminiDVこれまで社会活動はビデオ映像に記録をしてきました。蚕都上田プロジェクトを始めたのは2008年のこと。当時の記録媒体はもっぱらminiDV(小型ビデオカセット)です。それから15年が経過し、当時は現役で活動された方もご高齢になったりお亡くなりになったり、社会の状況・様子も変遷し続けてきています。miniDVは個人的には1997年以来使い続け、記録テープは1000本を超えます(数えたことはありませんが)。 テープ媒体の問題は再生しないことには記録映像にアクセスできないこと。さらにはこれらの媒体がいつまで再生可能かの保証はなく、テープ媒体の経年劣化の問題、再生機器の保全の限界の問題と重なり、ある時期に全てをデジタル化しデジタル保存しておかないと取り返しがつかないことになります。 この年末年始、デスクワークの片隅でパ2023-01-10
44明治7・8年蚕種焼却(横浜)の写真 (1874)から明治7・8年蚕種焼却(横浜)の写真 (1874)から横浜に出荷された大量の蚕種(蚕卵紙)が焼却されるという衝撃的な出来事を写した写真に着目し、その背景を調査しました。 1860年代、ヨーロッパでは、蚕の伝染病「微粒子病」が蔓延しました。この代替品として、健全な蚕種を日本に買い求めたため、蚕種の輸出は増加し、高値で取引されました。ところが、ヨーロッパ各国が蚕病を克服すると需要は減退し、生産過剰となっため、政府は、輸出予定だった蚕種(蚕卵紙)を買収し、一部の優良紙を残して、他はすべて焼却処分したそうです。 【出典】藤本蚕業アーカイブ https://d-commons.net/fujimoto-arch/(2023/1/10)  史料ID[tf002] 明治7・8年横浜で蚕種焼却の写真 (1874)2023-01-10
45大正期には「キネマ文字」のフォント集まであった大正期には「キネマ文字」のフォント集まであった矢島周一は大正15年(1926)3月に日本で最初のタイポグラフィー字典といわれる『図案文字大観』を出版。自らの映画広告のレタリング制作の経験から考案した書体を集大成したという。以後の日本映画広告では明らかにこの『図案文字大観』の書体が活用されており、使用事例が幾つも確認できる。 『図案文字大観』 矢島周一・著 1926(大正15)より引用2023-01-09
46大正期の新聞広告に用いられたタイポグラフィー大正期の新聞広告に用いられたタイポグラフィー大正期に入ると、日本のタイポグラフィーは欧文書体の影響を受け、毛筆書体から離れた独特な書体が続々と登場した。広告効果としてのタイポグラフィーが重要視されるようになった。 『新聞広告選集』大阪朝日新聞社・編 大阪朝日新聞社(1926)より引用2023-01-09
47明治中期の読売新聞紙上の広告に見られるタイポグラフィー明治中期の読売新聞紙上の広告に見られるタイポグラフィー日本のタイポグラフィーは、平安から始まり江戸期までは、篆書(てんしょ)・隷書・楷書・行書・草書など毛筆を基にしたものであった。 明治に入り、欧文書体との融合が始まった。 写真のような明治中期の新聞広告には英語表記も見られるが、タイポグラフィーの多くはまだまだ毛筆書体を元にしている印象だ。 読売新聞 第 5751 号、4 面、明治 26 年 7 月 26 日発行 東京、日就社2023-01-09
48空海による扁額の文字空海による扁額の文字人物を表した文字、鳥を付託した文字などを見ることができる。 『日本レタリング史』谷峯藏・著/岩崎美術社(1992) より引用2023-01-09
49空海空海空海(くうかい、774年〈宝亀5年〉- 835年4月22日〈承和2年3月21日〉)は、平安時代初期の僧。能書家でもあったが、遣唐使として中国に渡った際に寺社から影響を受けたといわれ、帰国後に数多くの扁額(へんがく)を作成している。その力感あふれる筆法が、日本のタイポグラフィーの始まりであるという説がある。 『弘法大師(空海)像』(慶應義塾ミュージアム・コモンズ 所蔵) 「慶應オブジェクトハブ 収録」 (https://cultural.jp/item/keioobjecthub-1630)2023-01-09
50手塚治虫手塚治虫手塚治虫は昭和3年(1928)生まれで、漫画家デビューは昭和21年(1946)であるため、昭和14年ごろに書かれたと思われる「藤本蚕業報告書書体」は手塚の影響を受けたわけではなく、手塚もまた当時のタイポグラフィーに影響を受けた一人と考えられる。 髙木康允『手塚治虫(1928-1989) 漫画家 [撮影 昭和62年(1987)]』(日本写真保存センター所蔵) 「写真原板データベース」収録 (https://jpsearch.go.jp/item/photo-00088_00076_0001)2023-01-09
512023元日の上田2023元日の上田2023年の元日は晴天に恵まれ、塩田平にある生島足島神社へ初詣に出かけました。いつも見慣れている風景ながら、「上田とはどんなところか?」、改めて眺め直してみました。 上田からは烏帽子岳が最もよく見えます。何よりも烏帽子状の山容が美しい。 次に美ヶ原、深田久弥が「日本百名山」に選んだ山の一つ。山の頂は起伏が極めて少なく平坦に長く続き、これが一つの山とは認知しがたいぐらいに「控えめ」な佇まいをしています。地元の人は美ヶ原とは呼ばず「うつくし」と呼びます。山頂はほぼ平坦ながらわずかばかり高く見える山頂にテレビ塔がいくつも立ち並んでいます。美ヶ原はこのテレビ塔の存在がアクセントとなり不思議に美しい。 小牧山は地元の人々もそれが何山かを意識することなく存在している超低山です。この地点は地2023-01-03
52昭和27年(1952)の殺人事件(『西塩田時報』第73号)昭和27年(1952)の殺人事件(『西塩田時報』第73号)西塩田広報第73号より 加害者の住所が朝鮮でしたので、てっきり異邦人の犯罪かと思いましたら、当時の朝鮮のこの地区は日本領土でした。強盗内容も千円とありますが、当時の相場としては約5倍ほどだそうです。(間違っていたらすみません)時代背景がわかる記事ですので取り上げさせていただきました。 ▼この記事は以下から参照できます。 #364 #364 『西塩田時報』第73号(1952年7月3日)2頁 https://mmdb.net/mlab/uedagaku/pdf/nishishioda/ns17_post061to080.pdf2022-12-26
53なぜ金を政府へ(『西塩田時報』第188号 1939年7月1日)なぜ金を政府へ(『西塩田時報』第188号 1939年7月1日)金を納めさせる理由として日本で使われている「お札」では海外との取引が出来ないということが書かれている。 当時はそれを理解していなかった人も多かったのかもしれない。 ▼この記事は以下から参照できます。 #843 『西塩田時報』第189号(1939年8月1日)1頁 (恐らく表記ミスで189号になっているが正しくは188号) https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p0843.jpg2022-12-26
54日本国憲法 第二章日本国憲法 第二章今も変わらず残っている大日本国憲法の第九条の制定についての記事を見つけた。 この憲法が今も残っているおかげで他の国との武力的な大きな衝突なく平和に過ごせているのだと思うと感慨深い。 面白記事とは少しずれてしまっているかもしれないが一番興味深いと感じたのでこの記事をピックアップした。 ▼この記事は以下から参照できます https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p0967.jpg2022-12-25
55青年の聲 【『西塩田時報[戦後]』第4号(1947年4月20日)1頁】青年の聲 【『西塩田時報[戦後]』第4号(1947年4月20日)1頁】太平洋戦争が終結した際の日本国内の様子が書かれている。自分にとっては教科書的な内容であった国民主権や思想良心の自由への移行への国内の動向を知ることが出来た。今では当たり前にあるような考え方も当時は反発もあったようだ。現代とギャップが非常に興味深いものだった。2022-12-25
56女性の心理(『西塩田時報』第3号(1946年10月20日)3頁)女性の心理(『西塩田時報』第3号(1946年10月20日)3頁)女性は感情性が強く、その感情が女性の心情を支配するものだと記されている。 同年4月に、女性に参政権が与えられた。「女性として、最も大切なことは慈愛心であり、柔順にして判断力が強く、徒に感情に走らず、事に嘗つては堪え忍ぶ底力の強いのが日本女性の美点とする處である。」という文章が、男女平等、女性を下に見ないために書かれた記事なのかと推測できる。 ▼この記事は以下から参照できます #961「西塩田時報」第3号(1946年10月20日)3頁2022-12-23
57米の節約!勝利の一歩(『西塩田時報』第198号1項)米の節約!勝利の一歩(『西塩田時報』第198号1項)日中戦争時、東京などの都市だけでなく、地方でも節米運動が行なわれていたことが分かる記事である。白米ではなく、麺類や七分づき米、雑穀米を代用として食べるように書かれている。戦時中、栄養不足にならないために栄養豊富である雑穀米などを食べていたのだと考えていたが、日本の物資不足も要因の一つであったことが分かった。 また、「勝利への第一歩」という言葉から、国民の戦争意欲を高めようとしていることがうかがえる。戦時中という時代背景を強く実感できる記事のタイトルだと感じた。 ▼この記事は以下から参照できます。 #879 『西塩田時報』第198号(1940年5月1日)1頁2022-12-23
5812月22日分 調査まとめ12月22日分 調査まとめ上田城の築城・歴史 「日本一の兵」真田幸村を輩出した真田氏は、現在の上田市真田町の周辺を拠点として活動していた。上田城の築城が開始されたのは1583年のことで、真田幸村の父である真田昌幸によって築城が開始された。当時徳川家康に仕えていた昌幸は、その援助を受けながら築城をしていた。しかし、北条と手を組もうとする徳川から土地の受領を要請された際にこれを拒否。徳川と断絶した昌幸は、上杉家に助力を求め次男の幸村を人質に差し出す。これにより、上杉方から戦力と築城の支援を受けた。上田城が一旦の完成を迎えた1585年、家康は鳥居元忠らを真田領に進軍させ「第一次上田合戦」が始まった。およそ1万の軍勢で進軍してきた徳川軍を昌幸は謀略を用いて少数の軍勢で撃退した。時は流れて関ヶ原の戦い最中の1600年、家康の息2022-12-22
59引揚者を暖かい気持ちをもって迎えましょう引揚者を暖かい気持ちをもって迎えましょう過酷な環境から帰ってくる引揚者の人々に冷たい態度をとらず暖かく迎えましょうと呼びかける内容です。 第二次世界大戦が終わった後の記事で海外にとどまることを強いられた人々への思いやりや終戦後の日本の一体感が読み取れる記事です。 #965 『西塩田青年団報』第4号(1946年11月25日)3頁 https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p0965.jpg2022-12-21
60青年の聲 【『西塩田時報[戦後]』第4号(1947年4月20日)1頁】青年の聲 【『西塩田時報[戦後]』第4号(1947年4月20日)1頁】これは当時の太平洋戦争が終わりポツダム宣言を受諾した日本の意見が良く分かる記事です。おそらくこの記事のようにポツダム宣言に賛成した派と否定派で激しく争ったように感じ取れます。そのような昔の雰囲気を感じ取れる記事として面白く思えました。 ▼この記事は以下から参照できます。 #985 『西塩田時報[戦後]』第4号(1947年4月20日)1頁 https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p1261.jpg2022-12-21
61test蚕糸試験場 蚕糸の森公園test蚕糸試験場 蚕糸の森公園蚕糸試験場 蚕糸の森公園 子供時代に蚕糸試験場(東京杉並区)が近所にあり、 すでに廃墟となっていて不思議なところだと思っていました。 春蚕繭繰糸試験成績一覧表 藤本蚕業デジタル資料館 https://d-commons.net/fujimoto-index/?c=&p=11876 近代化と国際規格と日本の関係性、 国際規格の導入と変遷は絹糸が最初ではないか? 以前自動車業界にいて国際規格からSDGsに変遷していった過程から、 規格の重要性が正義や善につながっていて基本なるのは美学ではないか?と考えています。 naganuma2022-12-17
62課題発見ゼミ 12月15日 まとめ課題発見ゼミ 12月15日 まとめ12月15日分 調査まとめ   開国後の日本による生糸輸出と上田の関わりについて 上田藩主・松平忠固と生糸輸出 鎖国を解き、開国を果たした日本が世界に進出する際に大きな武器となった生糸の輸出。それに多大な貢献をした人物が松平忠固である。六代目上田藩主、幕府の老中も務めた松平忠固は、日本開国のきっかけとなった日米和親条約の締結に関わりがあった。この開国をきっかけとして、忠固は上田藩の特産品を諸外国に売ることで利益を上げようとしていた。 その中で注目されたのが上田の「生糸」である。雨が少なく乾燥した地域である上田は江戸時代ごろから蚕種業が始まっており、のちに蚕種業の発展に大きな貢献をした「藤本善右衛門」の家系が先駆けだと言われている。忠固は生糸の輸出を行うことを決め、生糸輸出による利益2022-12-15
63D.W.Griffithと小津安二郎の インターテクスト的連関(2020)D.W.Griffithと小津安二郎の インターテクスト的連関(2020)研究発表「D.W.Griffithと小津安二郎のインターテクスト的連関」 (2020/09/27 日本映像学会第46回大会 研究発表/研究A2) 【研究概要】 D. W. Griffith(1875-1948)の初期作品には、小津安二郎(1903-1963)のそれと極めてよく似たシステムが同定できる。小津がアメリカ映画、とりわけ Ernst Lubitsch の強い影響を受けていたことはよく指摘されている。しかしながら小津に最も類似した特徴を備えているのは Griffith の初期作品である。この点、先行研究では指摘されることがなかった。本研究ではGriffith作品、小津作品における人物の動きに沿った移動空間の分節、動きの分節が極めて共通性が高いことを実証した。 こうした特徴を備えた作品は映画初期において見られるものの、トーキー期においては類例を見出せない。特に小津のトーキー期における《動きの連続=時間2022-12-12
64地域資料デジタル化の課題と解決に向けた方策(2022)地域資料デジタル化の課題と解決に向けた方策(2022)研究発表 地域資料デジタル化の課題と解決に向けた方策 「デジタルアーキビスト養成講座」の紹介を兼ねて (2022/11/23 日本教育情報学会第19回デジタルアーカイブ研究会)  前川道博(長野大学企業情報学部) 【研究の概要】 デジタルアーカイブの大きな課題の一つは地域資料のデジタル化が極度に立ち遅れていることである。DXが進む現代においては資料のデジタル化により誰もが地域の情報源に直に触れ、主体的に地域を学び・理解に踏み出すことのできる社会の実現が望まれる。本研究では、地域資料のデジタル化を提起すると共に、地域資料のデジタル化が担えるデジタルアーキビストの養成を地域人材のリスキル/リカレント教育の観点から具体的にどのように養成講座としてモデル化できるか、諸課題の解決が図れるかを課題提起する。2022-12-12
65インドカレーインドカレー2022/12/05 この日の夕食はインドカレーを食べた。 数ヶ月に一回インドカレーを食べたくなる。 というのも、 私は中学2年生の時インドにホームステイしたことがある。インドのカレーは甘さを選ぶことができず非常に困った。(私は辛いものを食べることができない) 当時、インドという国に衝撃を受けた。 町の人々・文化・風習・活気。どれをとっても日本といい意味でも悪い意味でも異なっていた。 インドの投稿はいつかまた。2022-12-07
66上田紬上田紬 上田紬は、日本三大紬の一つで400年の歴史がある。  絹は透湿性に優れており、夏は涼しく冬は暖かいのが特徴である。2022-12-05
67生糸の輸送方法とルート生糸の輸送方法とルート長野県や群馬県で盛んだった生糸ですが、その多くは海外輸出となっていました。より高効率な輸送を実現するべく建設されたのが、画像にある信越線です。江戸時代は東京に至るまで3日かかっていたのが、同線の開通によって4時間程度にまで短縮され、日本の外貨獲得の柱であった生糸・蚕種の大量輸出に一役買っていました。2022-12-05
68市街地方面の寺院、神社市街地方面の寺院、神社やはり城下町らしく、この地を治めた真田氏に縁あるものが多い。欧州ではキリスト教、東洋で仏教、そして日本の神道。古来より信仰というものは人々の生活の隣にあるものだった。信仰のあり方はその地域の生活のあり方ともいえる。歴史を紐解くうえで貴重な材料となり得るものである。(今回キリスト教を取り上げなかったのは、ここいら一帯はキリシタンが現れた時期が遅かったと考えられるためである。)2022-12-04
69小文『プリンス・マツダイラ物語』小文『プリンス・マツダイラ物語』明治5年からアメリカへ留学した最後の上田藩主・松平忠礼と弟の忠厚。その後忠厚は日本へ帰ることなく土木と建築を学びアメリカ人女性と結婚し、エンジニアとして測量器具を発明、大陸各地の橋や鉄道建設に携わる活躍をしながらも肺結核に倒れ、37才の若さでデンバーで亡くなりました。 今では上田の方々にはよく知られた話ですが、2000年上田市立博物館での松平忠厚展を機にした『プリンス・マツダイラ物語』は、2人の留学に随行した山口慎(山口平太郎毅の息子)の孫の金子香代が2004年「文芸せたがや」に書いたものです。ファミリーヒストリーの延長で当時随筆部門の3席でしかなく、批評の通り、練り直しを考えつつもできないまま没しました。そんな母の小文ですが、最近Wikipediaなどから関心を持って下さる方がいるので、この場をお借2022-12-02
70養蚕業が衰退した理由養蚕業が衰退した理由日本の繭生産量は、今から約90年前1930年(昭和5年)の40万トンをピークに減少し、昭和40年代に持ち直しの傾向が見られたものの、2016年(平成28年)には約130トンまで落ち込んでしまいました。繭生産量の減少に伴う製糸業の衰退も著しく、昭和34年には1871工場あった国内製糸工場数は、平成26年にはわずか7工場を残すのみとなってしまいました。 日本の絹産業は、生糸の原料となる蚕の繭を作る養蚕農家から、生糸を作る製糸業者へ。そして絹織物業者へという流れから、おもに着物や帯などに加工・縫製されて小売される形になっている。 衰退した理由としては和装から洋装へ変化する「和装離れ」により需要そのものが減少したと考えられている。価格競争で中国などから低価格繭の流入や、後継者不足など社会構造の変化も考えられます。2022-11-30
71養蚕に適した気候上田養蚕に適した気候上田上田は古くから養蚕業が栄えていました。かなり古い歴史を持つ上田の養蚕業は、世界に向けても、輸出され蚕の産地として名を轟かせました。上田は降水量が少なく、乾燥しているため、蚕が育てやすく、長野は傾斜地が多いため蚕の餌になる桑などを生育しやすいという有利になる利点がありました。具体的には、上田の年間の平均降水量は約900mmであり、日本の平均降水量は1718mmであり、上田は全国平均の約半分ほどであるということが分かります。また、傾斜か多いため果樹や桑を育てることに有利な条件である水はけが良いということもあり、上田は気候の面でも後押しされて養蚕業が栄えてた要因の一つは気候であると言えるでしょう。2022-11-30
72上田紬上田紬日本三大紬とは主に、大島紬、結城紬、上田紬のこと指すそうです。この日本三大紬の中の一つが上田にあるということで、調べてみました。  上田紬の特徴は、柔らかい肌触りの生地に、丈夫で、夏は涼しく冬は暖かく感じられることである。また、上田紬は、大島紬、結城紬と違って縦糸をまっすぐな糸で、横糸で真綿から引いた糸という少し波がある糸を使っていることも特徴です。 小岩井工房は、現在も上田紬を作っている数少ない工房です。そこでは着物も以前は紺色などの色が主流で一般の人々が日常で着ていた着物でしたが、現在では着物はあまり着られなくなって残念と話していました。また、今はグラデーションや、パステルカラーなどを使った今風の着物も出しているそうで、色のバリエーションを増やすなどすることで今の需要の変2022-11-30
73木々と水の音が響く神聖な場所木々と水の音が響く神聖な場所今回は「別所温泉森林公園」や「別所氷沢の風穴」の近くにある、「三嶋神社」にきました! 木々に囲まれ、静かに流れる水の音を聞きながらの参拝。 とても身が締まる気持ちになりました。 日が陰っている時間帯でしたので、全体的に薄暗く、少し怖くもありました。 その厳かな雰囲気に圧倒されながらも、これぞ日本という感覚を直に受けることができた、良い経験となりました。2022-11-30
74前橋市蚕糸記念館①前橋市蚕糸記念館①前橋市蚕糸記念館は1912年に国立原蚕種製造所前橋支所として建設された。当時、日本全国で6か所に建設されたうち現存する唯一のものになっている。蚕の飼育方法や品種改良、病気対策において大きな業績を挙げた。2022-11-30
75戸隠神社 中社戸隠神社 中社 ゼミの研修で戸隠神社の中社に行く機会があった。これは、その時に撮影した写真である。  戸隠神社には、奥社・中社・宝光社の3社が存在している。平安時代から修験道が行われ、日本有数の霊場として知られていた。 この歴史は古く、嘉祥2年(849)頃、学問行者により戸隠寺(奥院)が開かれたと言われる。康平元年(1058)に宝光院、寛治元年(1087)に中院がそれぞれ開かれたと伝えられている。  中社のご祭神は「雨八意思金命 あめのやごころおもいかねのみこと」である。この神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)の度重なる非行に天照大神がお隠れになった時に岩戸神楽(太々神楽)を創案し、岩戸を開くきっかけを作った神である。  学業成就・商売繁盛・開運・厄除・家内安全に御神徳がある。2022-11-30
76志”まん焼き志”まん焼き昭和初期から開店している富士アイス。 店名の由来である富士山は日本一を自慢しているから、そして長野県で初めてアイスクリームを売り出したことからこの名前になりました。しかし、志”まん焼きの「志」になぜ濁点がつくかはわかっていません。 今川焼きと同様の原料を用いて焼成されても形状が異なると様々な呼称があり、全国各地で同様な食品が作られています。大判焼きのように志”まん焼きもその一つです。2022-11-30
77長野で盛んなジャム作り長野で盛んなジャム作り日本で初めてジャムをつくったのは、明治10年。 東京の新宿にあった勧農局で、そのいちごジャムを試売したそうです。 企業としての始まりは、その4年後、1881年(明治14年)のことで、長野県人により缶詰のいちごジャムがつくられました。 以来、長野県はジャムづくりが盛んになりました。 上田で有名な、みすゞ飴本舗さんや、ツルヤスーパーさんで種類豊富なジャムが売られています。 長野特産のブルーベリーやあんずがおすすめです!2022-11-30
78桑折における養蚕業②桑折における養蚕業②現在桑折町では製糸業は営まれていません。しかし、いくつか名残りのある場所を発見したのでそれについて述べていきます。 まず、桑折町における養蚕業①で触れた郡是製糸工場ですが平成15年に建物が解体された後、東日本大震災の災害公営住宅が建てられています。郡是製糸工場時代の面影は庭園の一角にある「多行松」のみになってしまいましたが、「桑折町蚕糸記念公園」と名を付け、養蚕業によって繫栄した歴史を伝え、町民や来訪者の交流の場になることを願って新たに公園として再生されました。また、桑折町の伊達崎と呼ばれる地区にはかつて養蚕家だった大きな家が見られる他、桑折町の本町通りにある商店街には繭を取り扱う問屋である蚕問屋が今でも残されています。そして、実際に私が通っていた醸芳中学校では校章に桑の葉が2022-11-30
79上塩尻における養蚕業②上塩尻における養蚕業②本来常田製糸場を訪れるつもりだったのですが閉館時間が過ぎてしまい、「手織り上田紬小岩井工房」に向かいました。西上田駅から国道のそばを通り、小道に入った先にありました。遅い時間に訪れたのにも関わらず、ご丁寧に案内してもらい、二階にある機織り機も見学させてもらいました。 上田紬は結城紬(茨城県結城市を中心)と大島紬(鹿児島県奄美大島の奄美市名瀬地区を中心)に並ぶ日本三大紬に選ばれており、丈夫かつしなやかで縦糸と横糸の重なりによって多様な柄や色合いを生み出すのが特徴とされています。 入ってすぐ左側には買い物ができるスペースがとられています。そこで様々な話をお聞きしましたが、中でも小岩井工房の方が考えられたという「りんご染め」の上田紬がとても興味深かったです。りんごの品種と媒染の2022-11-30
80老農船津伝次平老農船津伝次平船津伝次平は日本三老農の一人で養蚕の基本である桑栽培を研究し「桑苗簾伏法」を出版した。また、養蚕に限らず農業の近代化に貢献しており東京大学農学部(駒場農学校)の講師として農学の指導をしていた。2022-11-30
81生島足島神社生島足島神社 生きとし生けるもの万物に生命力を与える「生島大神」と、生きとし生けるもの万物に満足を与える「足島大神」の2神が祀られ、摂社(下社・下宮)には諏訪大神が祀られる信濃屈指の古社である。  ご本殿は神池に囲まれた神島のまわりを老樹に囲まれて建っている。御扉の奥には御室と呼ばれる内殿があり、内殿には床板がなく大地そのものが御神体として祀られている。この池を巡らせて神域とされる島を作る様子は「池心の宮園池いけこころのみやえんち」と称され、出雲式園地の面影を残す、日本でも最古の形式の1つとされるものである。  2枚目の神楽殿からちょこっとのぞく内殿の写真が個人的ベストショットです。2022-11-30
82観光地としての塩田地域観光地としての塩田地域 無言館のそばにある山王山公園にあった看板。  私は今回初めて塩田地域を歩いてみたが、かなり多くの標識や看板があり、道順を調べずとも観光施設などの目的地まで容易に向かうことができた。看板は方向と距離のみがわかるようなシンプルなものだが、英語の表記やイラストもあって外国人観光客にも配慮がなされていた。このような看板の設置は、塩田平が日本遺産に指定されたことで外国人観光客の増加が予想されるためと考えられる。  塩田地域は観光資源や遺産、文化芸術施設が多く存在するが、それらは目立たない場所にあったりそれぞれの距離が遠かったりして、個人で車を利用せずに巡るには少し不便だった。だがこのような観光客向けの看板の設置は、塩田平を初めて訪れた私のような人の不安を解消させてくれる良い存在であり2022-11-30
83蚕糸業の衰退蚕糸業の衰退上の資料から読み取れる通りピーク時日本の主要産業であった日本の蚕糸業は今や細々と続けられているもののみとなってしまった。 そこでその蚕糸業の、主要拠点であった上田市がその後どのような変革、転換を遂げたか調査してみることにした。 参考資料:蚕糸業をめぐる事情 農林水産省 令和4年7月 https://www.maff.go.jp/j/seisan/tokusan/attach/pdf/sannshi-3.pdf2022-11-30
84安楽寺 八角三重塔安楽寺 八角三重塔八角三重塔は信州最古の禅寺であり、この塔の特徴は日本で唯一の木造八角塔で、国宝として長野県で最初に指定されました。しかし、創建年代は不詳だそう。一番下の屋根は裳階(もこし)と言われるそうです。2022-11-30
85気候と養蚕業気候と養蚕業上田市は年間降水量が1000mm未満であり、日本一晴れの日が多い街である。この気候は蚕の飼育に適しており、上田市は日本でも屈指の蚕の産地になった。2022-11-30
86サントミューゼサントミューゼサントミューゼのサントは、かつて蚕都として栄えた上田市の歴史と、日本一の晴天率を誇るため、太陽が燦々と、さらには文化・まち・人を育てるという3つの目標が込められている。 ミューゼはミュージアムからの造語である。2022-11-30
87上田の蚕業上田の蚕業長野県上田市では、かつては蚕業が盛んな地域であった。それを象徴するのが常田館製糸場である。この製糸場は明治33年創業の歴史ある建造物である。当時の養蚕業は日本の近代化の原動力であり、様々な箇所で利用されていた。この施設では、室温度、通風、乾燥などを整えることで、一年を通して平均的に生糸を生産することが可能となっていた。 木造5階建繭倉庫、鉄筋コンクリート5階建倉庫群などは、国指定重要文化財に指定されている。2022-11-30
88生島足島神社生島足島神社日本の真ん中に位置していると言われている「生島足島神社」です。池には鯉や鴨がいて、餌やりができました。2022-11-30
89上田紬について上田紬について上田紬は結城・大島紬に並ぶ三大紬として江戸時代から称されていた。上田で蚕種の製造がはじまり、生糸にできなかったまゆ、くずまゆを紬の原料にしていた。良質であったため紬織りが盛んになったのだ。今回訪れたのは藤本さんである。こちらは上田東高校から近くの工房だ。浴衣なども織っていて現在も上田紬の魅力を発信している。私自身過去に小岩井公房さんで機織り体験をさせていただいた。とても難しく、職人の多大な労力を要するものであった。そこでお話を聞いたのが、上田紬を後世まで伝えていきたいが、職人不足が問題だとおっしゃっていた。上田にたくさんあった工房も今では2件である。一時期は日本の蚕業を支えていた蚕都上田がこのように衰退してきている。私たち学生が上田紬を使って何か発信できたらなと思う。2022-11-29
90信州大学繊維学部信州大学繊維学部信州大学は明治43年1910年設立の旧制上田蚕糸専門学校を前身とする日本唯一の繊維学部である。この上田蚕糸専門学校は蚕糸に関する最初の高等教育機関であり、長野県下初の官立学校として設立された。 この繊維学部は信州大学設置の昭和24年1949年と同時に設置された。その後も多様な学科が設置され、全国からたくさんの学生が集まる大学である。2022-11-29
91別所線のれいんどりーむ号別所線のれいんどりーむ号 別所線の車両についてです。 別所線は側面に丸窓を持つ丸窓電車が走っていたこで知られ、丸窓は路線を象徴する特徴になっています。 平成17年2月には丸窓ラッピング電車の愛称が募集され、全国から250通の応募をもらいました。選考した結果、多くの人に夢を与えながら、ずっと走り続けて欲しいという思いからまるまどりーむ号になり上田駅で命名式が行われました。  現在では、信州上田日本遺産のラッピングがされたれいんどりーむ号も運用されている様子を見ることが出来ます。上田市の日本遺産のデザインとして、塩田平の歴史・文化の一つである雨乞いの儀式にちなんだ、塩田平に進む龍が表現されています。鉄道に親しみが持ちやすい愛称を募集したり、地域にちなんだデザインがされたりしている様子から地域住民に密着した鉄道だ2022-11-29
92上塩尻まちあるき:モリス先生と一緒に上塩尻まちあるき:モリス先生と一緒に上塩尻まちあるきでは、建築史学のマーティン・モリス先生をお迎えして一緒にまちあるきし、古建築の保全・活用に関するレクチャーもしていただきました。モリス先生は上塩尻の蚕種製造民家の建築史的調査をされた方で、上塩尻の建築・景観に対しては特別の関心を持たれています。 モリス先生の母国イギリスは歴史的な建造物である古建築を民間の意思で保全活用する「ナショナルトラスト」が発達した社会です。日本では歴史的建造物を保全し活用しようという気運は少ないのが実情です。上塩尻では「佐藤家住宅(三ツ引)」が2021年、上塩尻では初めて国登録有形文化財となりました。これを機会に、上塩尻の古建築、歴史的景観の貴さが再発見され、地域づくりに活かされていくことを願いたいものです。2022-11-29
93常田館資料室常田館資料室長野県での蚕種製造の歴史は上田地方が最も早く、藤本善右衛門家によって寛文の時代に始められたとされている。はじめ奥州産蚕種を仕入れ販売していたものが、次第に奥州へ出向き蚕種製造をするようになり、自家製造へ発展し全国へと販路を広げていった。上田地方が日本一の蚕種製造地帯となった背景としては、蚕種の改良と歩桑による種繭の生産によるものである。2022-11-28
94上田の蚕業について⑤上田の蚕業について⑤常田館製糸場に行きました。飾ってあるクラフトの中には猫が多く「猫は蚕の神様です」という張り紙もあり、また、猫瓦というものも展示されていました。 上田の蚕業について記された記録には、「養蚕で恐ろしいことは、蚕が病気で死んでしまうことです。(中略)羽虫や鼠の防除にも配慮するよう注意しています。鼠は蚕を食べてしまうので、猫を飼ったり、猫の画を蚕室に貼ることも流行しました」(「上田市誌 近現代編(2) 蚕都上田の栄光」22ページ 上田市誌編さん委員会 平成15年3月1日信毎書籍印刷株式会社より)という記述があります。 公益社団法人 日本動物福祉協会のホームページでは、「【動物福祉】とは一言でいえば、『動物が精神的・肉体的に充分健康で、幸福であり、環境とも調和していること』です。」と紹介されています。2022-11-28
95上田の蚕業について④上田の蚕業について④蚕業を行っていた頃の農家の主婦についても現在の社会の状況と重なる部分が多々あります。 女性の労働について記録された書籍(「人権の確立と女性のあゆみ」 (平成14年)編集者 上田市誌編さん委員会 発行者 上田市・上田市誌刊行会より)に載っている写真を見ると、家の一角のような場所で女性や子どもが写っていたり、女性が男性に交じって働く写真があったり、特定の性別や年齢で限らず、人々の生活に蚕業が根付いていたように思われます。特に女性の仕事は家事育児、給桑作業や農作業など多岐にわたるように見受けられました。 同誌によると、 「明治から大正期に蚕糸業が全盛であった上田地域では、多くの農家の主婦が蚕の世話に始まる農作業や家事に追われ、目の回る忙しさでした。乳幼児をかかえた母親たちも例外ではなく、重2022-11-28
96上田の蚕業について③上田の蚕業について③上田の蚕業について記された記録には、工女の消費活動についても以下のような記述があります。 工場の休日は日頃の長時間労働から解放された工女にとっては楽しいひとときで、小間物屋に寄って化粧品や小物を求めたり、呉服屋で普段着を買ったりしました。おやつの鯛焼きは工女に人気があり、休日や工場の開業前になると店先に行列ができるほどでした。(中略)常田館などのような大きな工場になると、呉服屋や小間物屋などが出張して郷里へのお土産を売りました。(「上田市誌 近現代編(2) 蚕都上田の栄光」135、136ページ上田市誌編さん委員会 平成15年3月1日信毎書籍印刷株式会社より) 既婚でもなく、子どもでもない、大人の労働者である工女たちの消費行動は羽振りが良いように感じられます。加えて、結婚前に、経済力と自由がある2022-11-28
97手織り 上田紬 小岩井紬工房手織り 上田紬 小岩井紬工房上田紬は、400年ほど前、真田昌幸が上田城を築城した際に地場産業として奨励した真田織が始まりと言われています。上田の気候や風土が養蚕に適していたことで、江戸時代には日本三大紬の一つとなりました。 上田紬の特徴は、丈夫なことです。この小岩井紬工房さんは創業以来手織り一筋で、上田紬独自の丈夫でしなやかな風合いを織りつむいでいます。 小岩井紬工房さんでは、工房見学、花瓶敷織体験、着尺や帯、小物の販売をしています。ぜひ行ってみてください!2022-11-28
98蚕養国神社②蚕養国神社②県歌である「信濃の国」の3番後半の歌詞には、蚕都上田の蚕糸業が日本経済の命運を左右する程重要な産業であることが歌いこまれている。 養蚕・生糸から始まった上田市産業文化の発展を願い、平成19年に神社脇に「萬葉歌碑」が建立された。上田市の産業と蚕には深い関わりがある。2022-11-27
99笠原工業常田館製糸場笠原工業常田館製糸場笠原工業に残る製糸工場の遺産は、「蚕都」とうたわれた上田地域の製糸工場に関連する倉庫群や建造物が、セットとして残っていることにその価値が集約されています。製糸場道構では、この常田館は民営で、イタリー式製糸を行っており、日本の近代製糸業を語り対比する上で欠かすことのできない遺産です。繭倉庫は、南乾燥機が発達した時代の倉庫までの変選が歴然と残り、学術的にも貴重な近代化道産として指定されました。2022-11-25
100卒業研究 概要卒業研究 概要卒業論文の概要の草案です。 <概要> これまで地域活性化策として、地域外から大企業や工業を誘致することで地域の発展を図る「外来型開発」が行われてきたが、誘致企業の本社が地域外にあることによる経済効果の低さや雇用が創出できないなどの問題点からその有用性は疑問視された。 その結果、「外来型開発」の代わりとして、地域の連携や固有性を重視し、企業や自治体、住民が主体となりその地域の文化や自然を守りながら行う「内発的開発」が取り組まれ始めた。 実際先行研究として、この「内発的開発」は地域の雇用創出や経済効果といった面において有用であり、その効果の持続性も高いとされている。また先行研究ではさらに、持続的な地域活性化に必要なものは「人づくり」であると結論付けられており、地域活動を行う主2022-11-22
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