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1地域キュレーション「上田探検」2021地域キュレーション「上田探検」2021信州上田学A(2021年度後学期)の地域キュレーション課題「上田探検」に取り組んだ学生たちのアウトカムをご紹介します。
  1. 上田とコンテンツツーリズム (りった)
     上田の観光事業への取り組みを知り、よりよい策を考える。
  2. 別所温泉めぐり (あゆ)
     別所温泉街を巡り、気になるスポットを撮影する。
  3. 塩田平をめぐる (オガサカ)
     別所温泉がどのような場所であるのか、歴史的背景や、地理的な側面から見たい。
  4. 上田の歴史にふれる (崔)
     昔の上田は何があって、何をしていたのかを探求し今後の活動に活かす。
2021-11-17
2六文銭六文銭お店の名前から真田の家紋が思い浮かびます。 このお店はとんかつが有名です。(開店前でした) どの品もボリュームがあり、サクサクできたてのとんかつやメンチカツを頬張ることができます。 お腹も舌も満足する一品が味わえます。2021-11-17
3上田城跡公園上田城跡公園上田城の跡を核とした公園。春夏秋冬、季節の花が咲く。地元の人だけではなく、観光客も多く訪れる場所だ。広々とした公園で、ゆったりと過ごすことができる。追いかけっこをする子供、ベンチで談笑する人、写真を撮る人、歴史を楽しむ人、ジョギングする人…みんな自分なりの楽しみ方をしているのが、のびのびとしていていいなと思った。2021-11-15
4真田十勇士真田十勇士上田駅から歩き始めて数分。 ふと右手を向くと小さなマスコットの像が見えた。危うく見逃してしまうところだった。どうやら街にこのシリーズの像があるようだ。幼少期に好きでやっていたスタンプラリーをしている気分だった。今回は7人の像を見つけることができたので、また機会があれば注意深く探してみようと思う。2021-11-14
5上田城の歴史2上田城の歴史2関ヶ原の合戦後、上田城は徳川の手で破却されたが、真田に代わって上田城主となった仙石氏によって復興された。1626年に修復された上田城は真田氏時代の縄張りを受け継いだとみられ、仙石氏の後に城主となった松平氏の代になっても、その姿にほとんど変化はなかった。明治維新後、廃藩置県により1874年に上田城は民間に払い下げられ、再び廃城となった。この際、本丸付近を一括して購入した丸山平八郎氏は、1879年の祭り神社(現真田神社)創建に当たり本丸南側の土地を神社用として寄附し1893年には残りの土地を遊園地要として寄附した。これが上田城跡のの公園化の第一歩になった。2021-11-14
6上田城の歴史上田城の歴史上田城は、真田幸村の父、真田昌幸によって1585年に完成したと考えられている。初め徳川家康のもとで上杉に対する城として築かれたが、沼田領の帰属をめぐり、徳川と手切れとなり、その後上杉方の城として完成した。 その直後、徳川の大軍が上田城を責め、第一次上田合戦(神川合戦)が勃発したが、昌幸の巧みな戦術により徳川軍は大敗した。また、1600年には関ヶ原合戦の前哨戦といえる第二次上田合戦が起こり、徳川秀忠率いる3万8千人の軍勢が攻め寄せたが、これも見事に退けた。この徳川との二度の合戦に勝利したことで、真田と上田城の名は、天下に知られるところとなった。2021-11-14
7古舟橋古舟橋青いボディが特徴の古船橋。 真田カラーである赤色ではなく、敢えて青色なのは近くの上田橋(次項で紹介)と比較しやすくするためなのかな、と勝手な想像が膨らみました。2021-11-13
8上田城 本丸東虎口上田城 本丸東虎口北櫓、南櫓、櫓門の三棟の櫓を通称、本丸東虎口と言います。市立博物館やケヤキ並木の方の入口からだと最初に正面から見ることができます。有料で門の上を登ることができますが、毎週水曜日は空いていないので注意しましょう。また、門の入口の正面から右側には、真田石と呼ばれる大きな石があります。2021-11-12
9上田城 真田赤備え兜上田城 真田赤備え兜真田の代名詞でもある全国的に有名な兜。真田神社の敷地内にあります。大阪夏の陣で大活躍した時真田幸村が、赤で統一した「真田赤備え」部隊の時にかぶっていた物を、撮影スポットとして作られたものです。とても細かく作られており、その大きさに圧倒されます。2021-11-12
10上田城 真田神社上田城 真田神社中心部に位置する場所に真田神社があります。真田神社は徳川軍を二度も破ったという功績から、「不落城」にあやかり受験生に人気な神社になっています。そこの神社では、コロナウイルスの影響か、鈴が非接触型のパネルになっていて時代の流れを感じました。また、その奥には真田井戸や西櫓があります。2021-11-12
11真田十勇士説明板真田十勇士説明板上田駅と上田城跡公園までのルートに真田十勇士の説明板が建てられていた。簡潔に書かれていたし、歩きながらそれぞれの人物について知ることができるので、興味のある人は是非行ってみてほしい。2021-11-12
12上田城の歴史上田城の歴史 上田城は天正11(1583)年真田幸村の父である真田昌幸によって築城され、天正13(1585)年第一次上田合戦・慶長5(1600)年第二次上田合戦の二度にわたり徳川の大軍を退けたことで知られています。 二度もの実戦経験があり、上田城のような戦歴を持つ城は全国でも珍しく、他に例がありません。 関ヶ原の合戦後、上田城主は真田信之となり、以後には仙石氏(三代)、松平氏(七代)と代わり、廃城後は公園となり現在に至っています。2021-10-29
132020信州上田学Aふり返りまとめ2020信州上田学Aふり返りまとめ▼全体まとめと成果
  1. 2020信州上田学A講義録(担当教員:前川道博)
  2. 信州上田学A2020⑭オンライン発表会記録 2020/07/29
  3. >信州上田学2020/学びの成果発表会(信州上田学A/B合同) 2021/01/24
▼上田市行政チャンネル
  1. >長野大学公開講座「信州上田学A」学生と市民の合同発表会 2020/07/29
  2. >信州上田学2020/学びの成果発表会(信州上田学A/B合同) 2021/01/24
▼学生受講生のマイサイト
ニックネーム、テーマと内容は一致していないケースがあります。
  1. 上田の食
2021-10-06
14真田井戸真田井戸上田城にある真田神社の奥に進むとある真田井戸は、抜け穴になっていて、太郎山麓の砦につながっているという伝説があります。 戦いのときに兵糧を運んだり、井戸から城外に出て奇襲をしたなどと言い伝えられている。 昔、実際に見たわけではないがこの場所に行き、このような事が起きたのだなと想像するだけで非常にワクワクするようなスポットである。2021-07-23
15真田神社真田神社城門を通るとすぐにある真田神社は、松平氏を祀ってあった松平神社だったが、太平洋戦争後に歴代城主である真田氏と仙石氏も合祀されて上田神社となり、昭和38年に真田神社と改称されました。真田の知謀にちなんで、学業成就にご利益がある神社と言われています。その影響もあってか、神社を入って左側にある絵馬には学業成就に関した内容のものが吊り下げられていて、またその場所を写真スポットとしてもお客さんに提供している。記念写真をとる場所としても人気であります。2021-07-23
16そば処 倉乃そば処 倉乃上田市真田町渋沢標高1000mの霧下で、自家栽培、自家製粉したそば粉を、四阿山からの湧き水で打つ拘りの手打田舎そばのお店です。別所温泉の途中にあるのですが、別所温泉は上田市街地とは離れているため、目にする機会が少ないと思うので、投稿を通じて色んな人に知っていただけたらと思います。2021-07-23
17上田の人物伝一覧(『上田市史』1940から)上田の人物伝一覧(『上田市史』1940から)上田市史・下巻(1940)』の「社寺古墳及人物誌/人物篇」をハイパーメディア化。(長野大学「マルチメディア論」2020/2021実習で分担作成) 人物01 真田昌幸
 真田一徳斎幸隆の第三子、天文十六年生る。 人物02 真田信之
  真田昌幸の嫡男、永禄九年生る。母は寒松院三修氏、幼名を源三郎と言ふ。 人物04 真田幸村
 幸村は正幸の代二子、永禄十一年生ると云う。 人物05 仙石政俊
 先の小諸城主後上田城主たりし仙石忠政の
2021-07-21
18人物02 真田信之人物02 真田信之 真田昌幸の嫡男、永禄九年生る。母は寒松院三修氏、幼名を源三郎と言ふ。天正十八年徳川家康の女小松姫を迎て室とす。文禄二年九月諸大夫に任じ、伊豆守と稱す。以下真田氏篇第三章にその事跡を載す。 『上田市史・下巻(1940)』1195頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌  人物篇2021-07-21
19信州が蚕糸王国ってホント? ポスト蚕糸業(産業)の視点から信州が蚕糸王国ってホント? ポスト蚕糸業(産業)の視点から信州が蚕糸王国ってホント? ポスト蚕糸業(産業)の視点から(講演採録全文) 講師:前川道博(長野大学企業情報学部教授) ▼元の講演はコチラ https://youtu.be/yS-xdWDMTwE?t=2779 信州学「信州の蚕糸業とシルクロード」講座 第2回  2016年10月6日/まちなかキャンパスうえだ

【1】蚕糸業って何? 蚕種製造、養蚕、製糸

■そもそも蚕糸業とは?

 今回、この講座は、多くの方に、後からも学習していただけるように、ということで、オンデマンド配信することを想定していますので、全く初めての方がこれを見ると「えっ? 蚕糸業って何?」、そういう基本的な疑問ですね。これを最初の方は誰もわからないわけです。その辺のところも含めてお話をさせていただきたいと思います。
2021-07-15
20阿梅の墓、真田大八(片倉守信)の墓阿梅の墓、真田大八(片倉守信)の墓白石市の当信寺に阿梅の墓、片倉守信の墓が並んで建っています。阿梅は幸村の三女、片倉守信は次男、真田大八です。真田幸村は大坂夏の陣の際に、敵将であった片倉重長に子どもの養育を託したと言われています。重長は阿梅、姉妹の阿菖蒲、おかね)、大八を養育しました。 阿梅は重長の正室の死後、重長の後妻となります。大八は片倉守信と改名して仙台藩士となります。大八の家系が後に復活を徳川幕府から許された仙台真田家になります。現在に至るもなお、姉と弟の墓が白石に残っています。昔を今に伝える数奇な物語です。2021-05-11
21真田幸村ゆかりの寺・清林寺真田幸村ゆかりの寺・清林寺白石の寺・清林寺は、真田幸村の遺臣・三井奉膳が開基です。真田昌幸、幸村に仕えた三井景国の次男とされています。寺紋が真田家の家紋・六文銭です。2021-05-11
22片倉家菩提寺・傑山寺片倉家菩提寺・傑山寺★常英山傑山寺 http://kessanji.jp/ 白石市の傑山寺は、白石城主片倉小十郎景綱が片倉家の菩提寺として創建した寺です。本殿の前には片倉小十郎景綱公像が建っています。歴代藩主の墓所があります。 ☆仙台真田家と傑山寺 http://kessanji.jp/history/sanada.html2021-05-11
23真田城下町看板真田城下町看板上田駅前の商店街に置かれていた看板。 真田ゆかりの地を巡れるようになっている。2021-05-06
24上田駅に真田の広告上田駅に真田の広告上田駅内に何枚か張られていた広告。 駅内に数枚張られていて真田を売りにしているという ことがとても伝わった。2021-05-06
25上田市パンフレット上田市パンフレット観光案内所に伺って上田市のパンフレットをいただいた。 真田関連のものに偏っているものが多くあった。2021-05-06
26十福の湯十福の湯サークル活動で十福の湯に行った際に撮った写真。木の彫刻のフクロウが可愛らしい。2021-05-05
27日暮れの真田神社日暮れの真田神社時間帯 17時 天候 晴れ 真田神社の絵馬を吊るしている通りは上田城跡公園の写真スポットのひとつでもあり、今どきの若い人たちには撮ってみたい写真の一枚ではないだろうか。 日が出ている時間帯は特に写真を撮るのが好きな人は訪れてほしい場所の一つである。2021-05-05
28上田城跡公園上田城跡公園徳川家康が上杉氏に対抗するために築城した。その後上杉に奪われ増築されている。真田氏が第一次上田合戦時、徳川の軍を撃退。現在残っているモノは江戸時代に再建されたモノらしい。堀は深く出入り口も限られているため、責めるのはとても苦労したことがうかがえる。自然豊かで、落ち着いているため観光目的でも休憩目的でも立ち寄る価値は十分あると思う。2021-05-05
29古戦場跡公園古戦場跡公園戦国時代に行われた真田と村上の戦いである、上田原合戦の跡地。現在は公園になっている。武田氏の快進撃を止めた戦いであり、この戦いで武田信玄は初期の武田四天王、板垣信方と甘利虎泰を失うこととなった。現在はグラウンドなどになっており、戦場跡は案外身近にある事を思い知らされた。2021-05-05
30上田城 堀の中の自然上田城 堀の中の自然 上田城の魅力の一つに堀がある。その中を歩いているとたくさんの自然に触れることができる。ふと上を向くと…。きれいな景色がどこでも見れてしまう。  昔通っていた電車の名残も感じながら、歴史ロマンに浸るのもいいのではないだろうか。  2021-05-05
31塩田城跡の石碑塩田城跡の石碑塩田城は北条義政が建てたと言われている。 また、戦国時代には武田氏の重要な拠点としても使われていた。その後、上田城が築城されたため廃城となったが攻めづらく守りやすい城である。この石碑は実際の塩田城の少し下に建てられている2021-05-05
32月窓寺月窓寺このお寺は私のバイトしているスーパーの裏側にあり、スーパーの駐車場から頭だけ見える位置にあるので、ずっと気になっていた場所です。入り口は別の所にありますが、横側からでも入ることが出来ました。ですが、せっかくなので正面の入り口まで戻り、参拝しました。月窓寺は今回の調査の中で一番大きなお寺です。 月窓寺は、海野一族の真田幸隆公の弟、隆永公が開基です。境内には赤松小三郎の髪の毛を埋めた墓があります。 そして、月窓寺を調べたときに「山門は竜宮門(鐘楼門)で天井には龍の鏝絵が描かれています。」と書かれていたので実際に見てみると、見事に美しい龍が描かれていました。2021-05-05
33原田市神社原田市神社長野銀行の駐車場に堂々とした様子で建てられている神社です。今回の調査の中で一番小さい建物で、車で走っていたらなかなか気づきにくいこともあります。 なぜこんな所に建てられているのか気になり、調査しました。この神社の説明には、「城下町を造るにあたって市の守護神である高市事代主命を勧請して祀った神社」と書かれています。そして、ここまで小さくなってしまった原因は「第二次世界大戦後に道路が拡幅されたからだ」とも書かれています。供えられている供物や植えられている植物がしっかりと手入れされていたので、今でもなお忘れられず、崇拝されているのだと考えます。2021-05-05
34海野町市神高市神社海野町市神高市神社この神社に祭祀されている御両神は福の神の代表の恵比寿様、大黒様です。商店街の真ん中に置かれており、周りの環境で薄れることなく威厳のある神社だと感じました。 こちらも神社にしては小さいですが、どの地図にも載っているので多くの方に認知されているのだと考えます。 やはり商店街の中に置かれているだけあって、何人か人が集まっていました。今回の調査で人がいた神社・寺は唯一ここだけです。2021-05-04
35願行寺願行寺 願行寺は、天正14年(1586年)に真田昌幸が上田城下町を造る際に、海野郷(東部町)から城近くの厩裏町(大手末広町)に移転され、その後、元和七年(1621年)、信之によって現在地に移されました。  看板にも書いてありますが、門の造りが細かく、細部までこだわっているのがわかりました。また天井には、実際に何か描かれていた形跡があります。  こちらは日輪寺と比べ、大通り沿いに出来ているほか、入り口も整備されているので、よく人が来るのではないかと考えられます。2021-05-04
36日輪寺日輪寺バイト先へ向かう途中に毎回目に付いていたので気になり調査しました。日輪寺は天文14年(1545年)真田家の先祖である海野小太郎幸義公によって建てられた曹洞宗の寺です。町中にあり、さらに両隣には真新しい家や建物がありますが、門ををくぐるとガラッと景色が変わります。2021-05-04
37上田城跡公園上田城跡公園上田城は、徳川の大軍を2度にわたって退け、日本全国に名を馳せた真田昌幸の居城です。 現在は城跡公園として整備され、上田市の観光拠点になっています。2021-05-03
38眞田神社眞田神社真田家が公に認め参詣のある唯一無二の真田神社。 真田氏発祥の地より時の流れに変節せず、誠の心で真田氏の遺徳を後世に受け伝える。2021-05-03
39生島足島神社生島足島神社生島足島神社(いくしまたるしまじんじゃ)は、長野県上田市下之郷にある神社。式内社(名神大社)。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。2021-05-03
40真田神社真田神社真田氏、仙石氏、松平氏という歴代の上田城主を御祭神としている。おみくじの種類が豊富で、歴史に興味が無く友達や家族と来ても楽しめるだろう。2021-05-03
41[14/09/11]自性院[14/09/11]自性院自性院には車で回ってみることにしました。「曹洞宗宝珠山自性院」です。観光の標識に「自性院」が示されていたので、訪れてみたのですが、あえて普通の寺社を観光の標識で誘導するのはどのような意味があるのだろうかと思いました。 ミニ旅れぽ「真田の郷めぐり2014」はこれでおしまいです。2021-05-01
42[14/09/11]米山城・砥石城を望む[14/09/11]米山城・砥石城を望む真田氏記念公園の前に「自性院」という道案内があり、日が暮れる前に立ち寄ってみようと見晴らしのよい崖地のここに車を停めてみました。ここの道案内では崖地の階段を登り150mと示されています。周囲に花壇があり「花のまちづくり推進地区」という看板が立っています。赤、オレンジ、紫の花々が植えられて美しい。この高台から真田氏の居城でもあった米山城、砥石城の山並みが見えます。 電信柱やSEIYUの看板によって俗世間の風景と化してはいますが、眺望のよい場所に佇むことができて幸いでした。2021-05-01
43[14/09/11]真田氏記念公園[14/09/11]真田氏記念公園真田氏記念公園については改めて触れることもありません。公園前に「真田三代ゆかりの地マップ」が建てられていました。また「信州上田 幸村街道」の幟が新しいものになっていました。 この公園、駐車場が狭すぎてここに降りて何を見るのか、いまひとつ中途半端な印象は否めません。真田三代(幸隆、昌幸、幸村)のレリーフ肖像画があるのですが、いまひとつつまらないというのが正直な感想です。 私が最も普遍性があると感じるのは「真田氏発祥の郷」という呼び方。この書は池波正太郎によるものです。真田氏といえば幸村にのみフォーカスが当たりますが、幸隆、昌幸にも遡って三代にフォーカスを当てているのはよい。しかし、信綱、昌輝は軽く扱われています。信之は無視されています。信之を主人公にした物語『真田太平記』の2021-05-01
44[14/09/11]上州街道・石の道しるべと分され[14/09/11]上州街道・石の道しるべと分され上州街道石碑群の場所から旧上州街道の道筋を車で移動して下りました。その途中、またしても真田自治会による説明板と出会いました。 見るからにY字路です。街道の分岐点であることがわかります。群馬につながる道、上田につながる道、まさに真田氏の所領でもあった沼田方面と小県がここでつながっていたことがわかります。2021-05-01
45[14/09/11]長小学校周辺を通る[14/09/11]長小学校周辺を通る傾斜地に広がる真田の集落は私には迷路のようです。「上州街道石碑群」を次の目的地に移動してみましたが、入る道がわからず山家神社・長小学校周辺をぐるぐる回ってしまいました。道が意外に狭く、曲がっていて、わかりにくい。2021-05-01
46[14/09/11]山家の「真田氏館跡」[14/09/11]山家の「真田氏館跡」枡形道路とたつ道を進むと民家の石垣にぶつかりT字路となります。余談ですが、このような傾斜地に広がる集落がどことなく和歌山県の九度山に似ていることを想起しました。 この民家のある土地が平らに整地されていることから、ここに館があったという推定が興味を引きます。さらに、ここが真田氏の館跡であるという仮説もワクワクするようなものです。 真田氏の館跡はすでに真田町の各所で見てきました。角間の館跡、ここ山家の館跡、お屋敷公園の館跡、伊勢山にも館跡があったらしい。真田氏は角間から次第に低い方へと移り、やがて上田城へ。やがて真田信幸の代になり、上田藩主居館跡に、更にその後は松代へ移ることになります。この変遷をたどるだけでも実に興味深い。2021-05-01
47[14/09/11]枡形道路・たつ道[14/09/11]枡形道路・たつ道この道を見て、これが枡形とは感じにくい。なぜならこのような曲がった道筋はそこら中にあるからです。「たつ道」は説明板を読んで知りました。 史跡をめぐる時に重宝するのは地元の観光パンフ類です。この日は上田市真田地域自治センターによる『真田三代に出会うMAP 本城・長谷寺・山家神社コース』がどれほど役に立ったか計り知れません。簡潔に勘所が押さえてあって、参照しながら感心していました。 この場所はややわかりにくく、また道路幅が狭く車で進入できなくはありませんが、本来、どこかに車を置いて歩いて訪れる方がよいところであることは現地に行ってみて初めて気づきます。「現地の道は狭いので、山家神社の駐車場に車を置いて歩いて行こう。徒歩?分」のような説明がパンフに載っていたら、そうしたと思いま2021-05-01
48[14/09/11]長村役場等の跡、山家神社[14/09/11]長村役場等の跡、山家神社向畑遺跡から山家神社へ移動しました。山家神社へは過去にも訪れたことがあり、この時は一時休止しただけです。山家神社の駐車場が長村役場跡です。真田自治会による説明板のおかげで歴史がよくわかります。 2009年(平成21年)までここに旧役場庁舎があったことも驚きです。
長村役場・農協・駐在等の跡  「長村」は明治9年5月大日向・横沢・真田・横尾4か村が合併して誕生した。 当初の役場庁舎は、明治元年の神仏分離令により廃寺となった白山寺の一部があてられていたが、ここに庁舎が新築されたのは明治36年。昭和33年に真田町に合併されるまで、改築を経て村政が執行された。 当時から長村の中心地として役場の他、農協や警察官駐在所などがあった。 旧役場庁舎は平成21年に取り壊された。      平成
2021-05-01
49[14/09/11]角間川と角間橋[14/09/11]角間川と角間橋角間川に架かる角間橋です。そのすぐ背後に古い真田氏の居館跡(日向畑遺跡、安智羅明神)、さらにその背後に松尾城跡があります。この橋からは川はさらに下ったところにあります。つまり当時は川を地面とし、居館が高いところに位置していたと想像できます。2021-05-01
50[14/09/11]日向畑遺跡と松尾城跡登り口[14/09/11]日向畑遺跡と松尾城跡登り口『真田氏資料集』(上田市立博物館)によると日向畑遺跡が発掘されたのは1971年。それほど昔でないのが意外です。「古くは真田氏の菩提所であったと伝えられる常福寺の跡M」にあたり、「幸隆以前の真田一族の墓地ではないかと考えられている」。 真田氏の古い居館跡とされていることから、日向畑遺跡がその墓所であるとするのは最も順当な推定です。歴史の未知の領域に一歩踏み出したかのようなワクワク感を感じる遺跡でした。 なお、日向畑遺跡は松尾古城の登り口にもなっています。背後の山が古城であるということもさらにそのもっともらしさを後押ししているようです。2021-05-01
51[14/09/11]角間区民広場[14/09/11]角間区民広場安智羅明神と日向畑遺跡の間に矩形の公園「角間区民広場」があります。真田氏館跡とされる日向畑遺跡の屋敷跡であるようです。ゲートボール場になっているようです。
角間区民広場  真田昌輝第十二代 真田幸雄 書 (以下裏面の文面) 昭和五十四年末中電送電線架設実施計画がはじまりこれに対する地域補償金を基金とし公共施設の区民広場建設に当り、町当局をはじめ土地所有者・工事施工者・関係区民の深いご理解とご協力によりここに完成をみるに至りました。 ここに所在する日向畑遺跡をはじめ松尾城跡は真田氏発祥の関係域跡群の一つとして重要な文化財であります。この遺跡を誇りとし この広場が区民のさわやか健康づくりの場として大いに活用されることを期待します。 昭和五十七年九月吉日 (略)
2021-05-01
52[14/09/11]安智羅明神[14/09/11]安智羅明神日向畑遺跡に行くつもりで安智羅明神に先に立ち寄りました。史跡「安智羅様」の看板に誘導されました。祠と鳥居が建っています。その手前には門石のような石柱が2つ建っています。「辛亥九月建立」と読めます。辛亥(しんがい)と聞くと先に「辛亥革命」を連想してしまうせいか、「辛亥九月」には違和感がありました。これは干支のイノシシという意味のようです。イノシシ年9月…何年をさすのでしょうか。 角間自治会による説明板の存在が実にありがたい。この説明を見て安智羅明神を理解しました。
安智羅明神(あんちらみょうじん)  鎮座地 上田市真田町長角間 この地は真田家の古いお屋敷跡で松尾古城のふもとに位置する。 神社のご神体は真田幸隆の幼少の姿を写した像と伝えられている。 ※創立は一五三〇年(
2021-05-01
53[14/09/11]角間渓谷・山神宮と角間配水池[14/09/11]角間渓谷・山神宮と角間配水池角間渓谷の角間集落と角間温泉のほぼ中間地点に「山神宮」があります。これについては何の基礎情報も持ち合わせていません。そのほぼ向かいに「真田町水道 新角間配水池」という施設があります。上水道の水源となっているようです。 山神宮の前には「熊出没注意」の注意書きが出されています。2021-05-01
54[14/09/11]角間渓谷・鬼ヶ城と岩屋館[14/09/11]角間渓谷・鬼ヶ城と岩屋館角間温泉は岩屋館のみが存在する温泉です。秘境の湯という感じがします。 この辺りから急に岩の絶壁が角間川に迫り、この道路もその間をぬって延びているかような場所です。「鬼ヶ城」の説明板には「角間鬼ヶ城遊歩道周囲略図」が描かれています。遊歩道に沿って行くと、鬼ノ門、鬼ヶ城があり、一杯清水の近くを通ってこの場所に戻れるようになっています。 それにしても、真田幸村ばかりでなく、坂上田村麻呂の伝説まであるとは恐れ入りました。2021-05-01
55[14/09/11]真田町の真田→横沢を進む[14/09/11]真田町の真田→横沢を進むまさに里山の秋、収穫の秋です。稲が黄金色の実をつけて稲穂の先が垂れ下がってきました。収穫も間近いことでしょう。 真田氏発祥の地とされるのがこの周辺、旧真田町真田です。標高730mですから、上田城よりさらに300mほど高い位置になります。 上田から菅平へと続く国道144号線から一歩集落の中に入ると傾斜地に展開する独特の景観に変わります。何度訪れてもどこがどこなのかがよく記憶できません。道が曲がり、似たような傾斜地の特性を持っていることに一因があります。2021-05-01
56[14/09/11]真田氏歴史館[14/09/11]真田氏歴史館真田氏歴史館が開館したのは1991年ということです。NHKのドラマ『真田太平記』(大河ドラマではありません)が放送されたのが1985年。ドラマで使用された昌幸・信之・幸村の甲冑などが展示されています。 開催中の企画展「大坂冬の陣」を見学しました。戦国武将の中でも人気が高い真田幸村の人気にもかかわらず、幸村所用の甲冑「南蛮銅具足」がそれほど有名でないのはどうしたわけでしょうか。「伝幸村」「幸村所用」とされる遺産はいくつかありますが、この甲冑もその一つです。  2021-05-01
57[14/09/11]真田町を進む、途中駅前食堂[14/09/11]真田町を進む、途中駅前食堂旧真田町に入って間もなく「駅前食堂」が右手に見えてきます。この店名が面白い。かつて鉄道・真田傍陽線が通っていたときにここに駅があったことに由来しています。隠れスポットとして知っておくと訪れたときに楽しいです。ただしこの時は通過しました。 最初に向かった先は真田氏歴史館です。2021-05-01
58[14/09/11]ようこそ真田の郷へ、途中伊勢山バス停[14/09/11]ようこそ真田の郷へ、途中伊勢山バス停真田氏発祥の地「真田」は上田の市街地からはやや遠く、菅平高原に行く途中にあります。上田市街から行くとずっと登り坂になります。そうした坂の途中に伊勢山バス停があります。 このバス停は映画『サマーウォーズ』で描かれたことから同映画の聖地巡礼の地として知る人ぞ知る隠れスポットとなって久しくなります。 伊勢山バス停を過ぎると「ようこそ真田の郷へ」の看板が見えてきます。ここからがいよいよ「信州真田」です。上田市に真田町が合併する前の町域となります。2021-05-01
59上田招魂社上田招魂社この上田招魂社は戊辰戦役従軍の戦死者をはじめ日清日露の戦争を経て今次の大東亜戦争に至る間国家の為尊き命を捧げられた人々の英霊をまつる御社。 真田神社の近くにあるため、向かった際にも足を延ばしてみてはどうでしょう。2021-04-25
60真田神社真田神社上田城本丸跡に鎮座するこの真田神社は、真田氏、仙石氏、松平氏という歴代の上田城主を御祭神としています。 しかし、もともとは松平家の御先祖をお祀りする御宮であり、松平神社と称していました。 神社の近くには、実際に昔使われていた井戸や巨大な兜、真田幸村の像などがあります。 個人的には、神社前の門や兜が記憶に強く残っています。2021-04-25
61上田温泉電軌真田線の延伸計画について上田温泉電軌真田線の延伸計画について1926年11月25日の官報第4277号と1935年9月16日の官報第2613号に、上田温泉電軌(現在の上田電鉄)真田線の真田から先の区間の延伸について記述があった。 以下が国立国会図書館デジタルコレクションのURLである。 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2956427/3 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2959092/4 この2つの官報では、終点であった真田駅から先、当時の小県郡長村の大字であった大日向地区への路線敷設免許の下付と失効それぞれについて記述されていた。 下付が1926年、失効が1935年であることを考えると、その間の昭和恐慌によって計画を断念せざるを得なくなってしまったのではないかと考えられる。2021-02-27
62白鳥神社白鳥神社これは2021年2月10日に撮影した白鳥神社の写真である。 海野氏と真田氏の氏神として祀られた。2021-02-10
63運の石運の石これは2021年2月10日に撮影した運の石の写真である。 この運の石は海野町商店街の高市神社に祀られている。 高市神社のご神体は、海野宿の隣にある白鳥神社にあった霊力のある石であり、真田昌幸が築城する際に祀られたといわれている。このとき祀られたご神体には直接触れられない。そのため、真田昌幸と関係がある高野山九度山の神石が触れられる運の石として祀られている。2021-02-10
64上田と沼田の歴史観の違い まとめ上田と沼田の歴史観の違い まとめ調べた内容のPPでのまとめ2021-02-10
65戸鹿野八幡宮戸鹿野八幡宮説明 代々沼田が信奉していた神社 1580年に真田正幸が出陣に際して祈願したといわれる2021-02-09
66小松姫の墓小松姫の墓説明 沼田にある小松姫の墓 上田にもあるらしい2021-02-09
67沼田公園写真沼田公園写真説明 沼田公園内の史跡及び資料に関する写真 像、鐘楼、またそれらに関する説明の看板 用法 実際の公園内に残されているものを一次資料として確認できる。2021-02-09
68沼田資料館写真沼田資料館写真説明 沼田資料館の写真 16~18世紀の資料 用法 沼田市における真田に関する事実のまとめ2021-02-09
69海野宿と海野町商店街の共通点海野宿と海野町商店街の共通点海野宿と海野町商店街について調べて、以下の共通点があることがわかった。  まず、真田昌幸が海野郷の豪族の海野氏の子孫だったことから、海野町商店街は海野郷にいた住民によって作られた。そのため、海野宿と海野町商店街は海野氏という豪族に関係があることがわかった。  また、海野宿の横に位置する白鳥神社にあった霊力がある石を、真田昌幸が築城する際に海野町商店街の高市神社に祀ったことがわかった。そのため、高市神社と白鳥神社には、ありがたい石でつながっているという関係があることがわかった。2021-02-09
70海野町史-海野町の誕生海野町史-海野町の誕生海野町は、真田安房守昌幸が先祖の地である海野郷から住人を移住させて、街並みをつくらせたのが起源である。また、三年遅れて、原の郷から招致したのが原町である。この海野町と原町を上田城下の元町という。海野町と原町は、真田・仙台・松平時代から明治・大正・昭和まで上田の中心枢要な位置にあり、共に商業経済の発展に貢献している。 海野町へ移住して来た人々は、海野郷大平寺村の住人で、氏神様の深海神社の祠(ほこら)だけを残し、全村挙って五十八家族が移住した。その人々は、思い思いに農村風の家を作り、大方南側に向き、従来に出入り口のない家や瓦をのせず床もない素朴な家に住んでいたという歴史が残っている。(海野町史第1章より)2021-01-31
71私の地域探求テーマ一覧(情報通信文化論2020)私の地域探求テーマ一覧(情報通信文化論2020)長野大学の講義科目「情報通信文化論2020」(講義担当:前川道博)では、情報通信文化の根幹をなす文化伝承・知識伝承を概念的に学ぶだけではなく、受講生たちに自ら文化伝承・知識伝承による「キュレーション型」の学びを実践してもらいました。地域循環型社会にシフトしつつ現代においては、自ら問いを立て、一次資料に当たったり、地域に赴いて自ら得たデータを新たな一次資料とし、主体的に探求していくことが求められます。その学習プロセスが文化伝承・知識伝承に他なりません。 それらの課題探求テーマと成果を以下のマイサイトからカテゴリ「私の地域探求」を選んで御参照ください。 <私の地域探求テーマ一覧> 1 舌喰池の名前の由来(LGTMのサイト) 2 2021-01-28
72海野町商店街の起源海野町商店街の起源 海野町商店街の始まりには、真田幸村の父の真田昌幸が関係している。真田昌幸は現在東御市本海野の海野宿がある地にあった、海野郷の豪族、海野氏の子孫だった。真田昌幸は1583年(天正11年)に上田の千曲川の支流にあった尼ヶ渕という地名の場所に城を築くときに、海野郷大平寺村にいた住民に町を作らせた。これが、海野町商店街の起源である。 参考資料 「海野町史」中澤好冨 「海野町商店街の歴史」 ナガブロ URL「http://unnomachi.naganoblog.jp/e1286383.html2021-01-27
73真田祭り真田祭り説明 上田城下町で毎年4月末に行われる真田三大をたたえる祭り。真田氏発祥の地として上田市内では真田ゆかりの地が多くある。 用法 上田市の真田資料は16世紀が多いという一つ 参考 https://www.mtlabs.co.jp/shinshu/event/sanada.htm2021-01-27
74上田城パンフレット上田城パンフレット説明 上田城の内装について書かれているパンフレット。どういった設備が整備されているのかを知ることができる。また、どういった城なのかも書かれている。 用法 沼田公園のパンフレットとの比較化 情報として載っている年代2021-01-27
75沼田公園パンフレット沼田公園パンフレット説明 沼田公園のポイント及び歴史の詳細について書かれているパンフレット。真田氏や沼田氏の歴史を概要として知ることができる。 用法 上田城パンフレットとの比較化 掲載されている年代の調査2021-01-27
76うちいれうちいれうちいれは(画像右)上田盆地の懐かしいふるさとの味として愛されていたようですが、地粉が手に入りにくくなったことや手間がかかることから現在は忘れられて来てしまっている料理だそうです。 材料は、小麦粉、かぼちゃ、はくさい、にんじん、だいこん、じゃがいも、煮干し、みそを使用し作られ多くの野菜が入った麺料理です。 お米の少なかった昔に夜食としてうちいれがよく食べられていたそうです。 ※うちいれの写真は本に掲載されていなかったため上田市真田町にある「真田庵」で提供されているうちいれをネットから 参照URL:さなだんごの旅 真田ファンの旅づくり応援サイト 参考図書:「つけものの味ふるさとの味」長野県農業改良協会(p.342)2021-01-27
77上田紬の特色上田紬の特色上田紬の特色としては、手触りが良く軽く丈夫で、吸放湿性の高い絹であることが分かった。真田昌幸・幸村父子の活躍により有名になったことから、真田幸村のように丈夫で強いといわれることもあったそうだ。縞や格子柄のデザインが多く、シンブルで飽きの来ないデザインが江戸時代から受け継がれていることが分かった。 参考文献:上田紬 http://ueda-tsumugi.com/#rashisa      小岩井紬工房 http://www13.ueda.ne.jp/~koiwai-tsumugi/index.html2021-01-26
78上田紬について上田紬についてこの資料から、上田紬を有名にしたのは真田昌幸・幸村父子だということが分かった。また、江戸時代では絹織物を身に付けることが禁止されており、絹であっても生糸ではないと容認され庶民から高い支持を得ていたという。 上田紬の良さとしては、裏地を三回取り替えられるほど長持ちするという軽く丈夫な点であることが分かった。 参考文献:(上田紬 http://ueda-tsumugi.com/#hajimari)2021-01-26
79海野町通り(1913年)海野町通り(1913年)1913年(大正2年)に撮影された海野町通りの写真である。 海野町商店街がある場所は海野町通りとも呼ばれている。1913年の海野町通りは海野宿を思わせる町並みをしている。 この写真は、西側から東側に向けて撮られており、荷車や着物姿の子供が多く見られる。 また、左側に「喜光堂茶舗」という名前が見える。これは、現在もあるお茶屋喜光堂の店舗である。 画像は海野町通り,「写真集上田いまむかし:上田市・丸子町・真田町/郷土出版社編」,郷土出版(1980年2月18日),P50より引用 現在の喜光堂 URL「http://www.d-commons.net/uedagaku/detail.php?id=3954」 現在の海野町商店街(2021年) りらっくすさんのサイト みんなで作る信州上田デジタルマップ2021-01-26
80ナオミナオミ1枚目が2012年、2枚目が現在の外見を表した写真である。 お店の雰囲気も建物全体の雰囲気も変わった様子はないが、商店街の雰囲気にとても馴染んでいるように感じる。 (2012年の写真→Googleマップ・ストリートビューより引用)2021-01-24
81旧美容室いちばん星Loop's・現cafebosso/Nofy旧美容室いちばん星Loop's・現cafebosso/Nofy1枚目が2012年、2枚目が現在の外見を表した写真である。現在は1階がカフェ、2階が美容室となっており、2012年の時点であった美容室いちばん星Loop'sは反対側の通りに移転している。 (2012年の写真→Googleマップ・ストリートビューより引用)2021-01-24
82ヨロズヤヨロズヤ1枚目が2012年、2枚目が現在の外見を表した写真である。 利用している人はあまり見たことないが、雰囲気が現在もそのまま残されていて、歴史を感じる建物である。 (2012年の写真→Googleマップ・ストリートビューより引用)2021-01-24
83フードショップみやしたフードショップみやした1枚目が2012年、2枚目が現在の外見を表した写真である。 雰囲気というのはほとんど変わらないが、このような食料品が売っている小さなお店というのはなかなかないため、とても貴重であると感じる。 (2012年の写真→Googleマップ・ストリートビューより引用)2021-01-24
84但馬軒但馬軒1枚目が2012年、2枚目が現在の外見を表した写真である。 一部塗り直したたところもあり、外見自体少しきれいになった感じもするが、もともととてもおしゃれな雰囲気もあり、まるで見た目では精肉店のような雰囲気ではない建物 のように感じる。 (2012年の写真→Googleマップ・ストリートビューより引用)2021-01-24
85万年筆の庄村万年筆の庄村1枚目が2012年、2枚目が現在の外見を表した写真である。 現在も営業しているお店であり、外見も変わらずそのままで、そして、看板の字も変わらず昔の雰囲気を感じる。 (2012年の写真→Googleマップ・ストリートビューより引用)2021-01-24
86旧玉井フルーツ店・現VACILANDO COFFEE旧玉井フルーツ店・現VACILANDO COFFEE1枚目が2012年、2枚目が現在の外見を表した写真である。 2012年の時にはあった玉井フルーツは現在移転し、今はカフェとして使われている。建物の茶色の部分とはだいぶ違う真っ白な壁となっており、とてもきれいな雰囲気を感じる。 (2012年の写真→Googleマップ・ストリートビューより引用)2021-01-24
87アサヒカメラ堂アサヒカメラ堂1枚目が2012年、2枚目が現在の外見を表した写真である。 見たことがあるのみで、実際お店の中には入ったことはないが、約10年経ってもそのままの形で残されている。 (2012年の写真→Googleマップ・ストリートビューより引用)2021-01-24
88ホケン堂藤岡薬局ホケン堂藤岡薬局1枚目が2012年、2枚目が現在の外見を表した写真である。 目印となる左上の看板は少し雰囲気は変わったが、建物自体はそのまま残されている。 (2012年の写真→Googleマップ・ストリートビューより引用)2021-01-24
89千串屋千串屋1枚目が2012年、2枚目が現在の外見を表した写真である。 現在も1階にある焼き鳥屋は特に変化がないが、2階に関しては、今では居酒屋ができていたり、一番上の広告のようなものも新しいものに変わっている。 (2012年の写真→Googleマップ・ストリートビューより引用)2021-01-24
90旧むぎの里・現Nakamura旧むぎの里・現Nakamura1枚目が2012年、2枚目が現在の外見を表した写真である。 ピンク色でとても目立つ建物だが、それ自体には特に変化がない。しかし、左下のお店が2012年ではむぎの里だったのが、現在はNakamuraという居酒屋に変わっている。 (2012年の写真→Googleマップ・ストリートビューより引用)2021-01-24
91メガネのヤジマメガネのヤジマ1枚目が2012年、2枚目が現在の外見を表した写真である。 このお店は大きな看板も建物も特に変化がないことが分かる。とても大きく目立つ建物であるが、特に眼鏡の形をした看板には歴史を感じる雰囲気がある。 (2012年の写真→Googleマップ・ストリートビューより引用)2021-01-24
92清水書店清水書店1枚目が2012年、2枚目が現在の外見を表した写真である。 全体的に変化していないのが特徴であり、まさに歴史を感じやすいお店・建物である。 (2012年の写真→Googleマップ・ストリートビューより引用)2021-01-24
93いけだ薬局いけだ薬局1枚目が2012年、2枚目が現在の外見を表した写真である。 変わった点としては、2012年の時点ではカタカナでイケダと書いてあるのが、今はひらがなに変わっている。しかし、特徴があり目印ともいえる緑と白の屋根はそのまま残されている。 (2012年の写真→Googleマップ・ストリートビューより引用)2021-01-24
94旧上田情報ビジネス専門学校3号館・現有料駐車場旧上田情報ビジネス専門学校3号館・現有料駐車場1枚目が2012年、2枚目が現在の外見を表した写真である。 2012年の時点であった上田情報ビジネス専門学校3号館は現在1号館の横に建てられており、そして、写真からも分かるように、今は有料駐車場になった。 (2012年の写真→Googleマップ・ストリートビューより引用)2021-01-24
95学志ゼミナール学志ゼミナール1枚目が2012年、2枚目が現在の外見を表した写真である。 建物自体は特に変化がないが、2012年ではDSKパーソナルクラスだったのが、現在は学志ゼミナールに変わっている。 (2012年の写真→Googleマップ・ストリートビューより引用)2021-01-24
96bb(ブラウスビューティフル)上田店bb(ブラウスビューティフル)上田店1枚目が2012年、2枚目が現在の外見を表した写真である。 特に大きな変化というのはないが、現在はお店の入り口の上にも看板が付けられていて、屋根の部分があるだけでも、また雰囲気が変わるように感じる。 (2012年の写真→Googleマップ・ストリートビューより引用)2021-01-24
97ル・カドルル・カドル1枚目が2012年、2枚目が現在の外見を表した写真である。 現在はフランス料理店として経営している建物であるが、2012年の時点では特にお店はなかったことが写真から分かる。壁の色も茶色から白に変わり、とてもおしゃれである。 (2012年の写真→Googleマップ・ストリートビューより引用)2021-01-24
98昭和商事株式会社 上田支店昭和商事株式会社 上田支店1枚目が2012年、2枚目が現在の外見を表した写真である。 2012年の時点では何も利用されていない建物だったが、今では2階には昭和商事株式会社、そして、1階には学習塾や不動産屋として利用されている。 (2012年の写真→Googleマップ・ストリートビューより引用)2021-01-24
99信学会 上田予備校信学会 上田予備校1枚目が現在、2枚目が2012年の外見を表した写真である。 私も一時期通っていた学習塾だが、今も多くの学生が利用しており、建物自体はほとんど変化がないことが分かる。 (2012年の写真→Googleマップ・ストリートビューより引用)2021-01-24
100旧レオパレス旧レオパレス1枚目が2012年、2枚目が現在の外見を表した写真である。 現在は特にお店としては使われてないが、2012年時点ではレオパレス21となっていたことが写真から分かる。 (2012年の写真→Googleマップ・ストリートビューより引用)2021-01-23
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