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1文字が彫られている瓦文字が彫られている瓦この写真の鬼瓦ですが、よく見ると文字が書かれています。何という文字が書かれているかと言うと「銀行」という文字が浮き出ています。鬼瓦は装飾瓦のためこのように文字が浮き出ている鬼瓦は初めて見ました。この当時は銀行をやっていたのでしょうか。2023-05-09
2飯島保作(花月)(いいじまほさく(かげつ))飯島保作(花月)(いいじまほさく(かげつ))飯島保作は、文久3年(1863)に飯島家の長男として横町に生まれました。明治6年(1873)上田街学校に入学し、明治10年(1877)に上等小学校全科を卒業しました。上田街学校の教員補助の職は、天皇の御巡幸が終わった後退職し、家業(質屋)に従事しました。  自らが作成した年賦には「家業のかたわら独学」とあります。向学心旺盛な青年で、この向学心が実業家飯島保作を生み、このころから雑誌に狂歌、川柳等々の投稿を始め、後の上田地方の庶民文学のリーダーとしての文学上の資質を開花させたのです。  保作は、上田商工会議所会頭、第十九銀行の頭取を歴任して生涯を閉じた上田を代表する傑出けっしゅつした実業家でした。明治15年(1882)10月、上田郵便局に採用され、最初の職業の第一歩を踏み出し、2023-02-01
3兎束武雄兎束武雄上田町大手の銀行家兎束鐘一郎の長男として生まれた武雄は、幼い頃から音楽に特別な興味を示す子どもでした。母親の影響で琴を習っていたそうです。音楽に興味を示していた幼少期ですが、父親からは反対されていたそうです。 上田中学校(現上田高校)を卒業し、東洋音楽学校に入り勉強に励みましたが、東洋音楽大学だけの勉強では満足できず、他の大学でも聴講し、作曲やピアノ、チェロなどを勉強しました。大学を卒業した武雄は、高等学校の教師になることを決意して上田に帰ってきました。武雄は、音楽の楽しさや喜びを多くの人々と分かち合いたいと考え、地域の音楽活動に力を注ぎました。昭和8年、28歳のとき、梅花幼稚園の同窓生に声をかけ、「からたち合唱団」を創りました。当時、県下で混声合唱団と呼ばれるものはなく、上田2023-01-31
4兎束武雄(うづかたけお)兎束武雄(うづかたけお)上田町大手の銀行家兎束鐘一郎の長男として生まれた武雄は、幼い頃から音楽に特別な興味を示す子どもでした。しかし、父親は音楽は男のするものではないと考え、武雄の音楽に対する熱意を快く思っては居ませんでした。母親は、音楽を好み自ら琴を弾いたり、4人の姉妹たちにも琴を習わせていました。  上田中学校(現上田高校)を卒業した武雄が、音楽の道に進みたいと父親に相談しましたが猛反対を受けましたが、母親の協力と武雄の熱意に最後には承諾しました。  武雄は上京し、東洋音楽学校に入り勉強に励みましたが、東洋音楽大学だけの勉強では満足できず、他の大学でも聴講し、作曲やピアノ、チェロなどを勉強しました。大学を卒業した武雄は、高等学校の教師になることを決意して上田に帰ってきました。  上田に戻った武雄2023-01-25
5当研究会発行のブックレット バックナンバー当研究会発行のブックレット バックナンバー号によっては品切れがあります。上田市内の書店でお買い求めください。または上田小県近現代史研究会事務局へお申込みください(下記に住所記載)。 号数 ブックレットタイトル 著者 発行年月 1 『深町広子と上田自由大学』上原民恵[著] 1995.03,2000[改訂]【品切れ】 2 『上田小県地方に空襲があった』新津新生[著] 1996.07,2005[改訂]【品切れ】 2 『上田小県地方に空襲があった 増補改訂版』新津新生[著] 2005.07【品切れ】 3 『信州の鎌倉 別所温泉―歴史と文化―』上田小県近現代史研究会[編] 1997.10,1998[改訂]【品切れ】 4 『2022-03-06
6曾祖父との関係曾祖父との関係人物伝にあるように、鈴木志津衛には4男2女の子供がいました。私は三男の俊三の孫にあたります。祖父が生まれた後、上田から京城(現ソウル)に渡り、日本人学校の 校長を務めていました。大正7年12月の学校火災で、殉職しますが、その後も家族は、京城に暮らしていたようです。1937年生まれの父、敬之(ひろゆき)が小学校1年の時、終戦で日本に引き揚げるまでです。 聞いた話だと、京城から釜山経由で、山口県仙崎へ戻ってきたようです。その後、祖母の実家に縁のある岐阜などで過ごした後、銀行に勤めていた祖父の関係で大阪に暮らすことになりました。 写真は、子どもたちの写真です。 陽一さん・はるさん・忠雄さん・愛さん・俊三(祖父) 俊三の出生地は明治四十四年小県郡上田町二千百九十九番地となっています。2022-02-21
76 まとめ6 まとめ明治~大正時代の文化や生活について調べていて、西洋の文化が取り入れられ現代つながる様々な変化が訪れたことを知り大変興味深く思いました。伝統や文化的特徴が残るというのは、そのもの自体に価値があることの証明なのだと感じました。 上田市も建築や鉄道開発などの点で影響を受けており、養蚕業で発展した街がさらに賑わうことの一助となりました。「蚕都上田」と呼ばれる当時の上田市は、金融業も盛んであり、資料で見てみると街の中の銀行の多さが如実にそれを表しています。製糸業の盛んな街には銀行の数が多いのも大きな特色なのだと思われます。 この探求を通して、上田市の文化的特徴や、当時の観光、産業の発展について深く知ることが出来ました。現在の上田市は、観光都市として発展しているわけではありませんが、こ2022-02-10
8明治二十四年上田全図明治二十四年上田全図この図面は、上田の町を印刷により表わした初期の地図だ。実測図ではないため、縮尺や距離感は不正確である。地図の周囲にとは、明治維新後の近代化した上田の姿を、建築物を中心に表している。「上田尋常小学校」「高等小学校(旧藩主屋敷)」、「上田女学校」、「上田停車場」、「第十九国立銀行」、「上田橋」などが見られる。図面の中央の上田城本丸には「松平神社」がある。また、本丸には櫓が2基残っていたことがわかる。二の丸は「監獄」となっている。また、大手門の堀が残存していた。明治21年に鉄道の駅「上田停車場」(現在の上田駅の前身)が営業を開始するとともに、駅と「海野町」「原町」をつなぐ「松尾町」も開通した。2021-11-14
9信州が蚕糸王国ってホント? ポスト蚕糸業(産業)の視点から信州が蚕糸王国ってホント? ポスト蚕糸業(産業)の視点から信州が蚕糸王国ってホント? ポスト蚕糸業(産業)の視点から(講演採録全文) 講師:前川道博(長野大学企業情報学部教授) ▼元の講演はコチラ https://youtu.be/yS-xdWDMTwE?t=2779 信州学「信州の蚕糸業とシルクロード」講座 第2回  2016年10月6日/まちなかキャンパスうえだ

【1】蚕糸業って何? 蚕種製造、養蚕、製糸

■そもそも蚕糸業とは?

 今回、この講座は、多くの方に、後からも学習していただけるように、ということで、オンデマンド配信することを想定していますので、全く初めての方がこれを見ると「えっ? 蚕糸業って何?」、そういう基本的な疑問ですね。これを最初の方は誰もわからないわけです。その辺のところも含めてお話をさせていただきたいと思います。
2021-07-15
10人物68 飯島保作人物68 飯島保作文久三年九月二十一日市内横町佐兵衛氏の長男として生る。(略) 昭和六年六十三銀行と合併し八十二銀行(資本金壱千五百萬)圓を創立して、其頭取となり、前途尚氏の手腕と要する多々ある際に於て、病に冒され昭和六年七月廿六日、遂に逝去せしは惜むべき事なりき。(略) 『上田市史・下巻(1940)』1286、1287、1288貢を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌  人物誌2021-07-14
11小県蚕業学校-2小県蚕業学校-2小県蚕業学校では、生徒の出身地が広範囲にわたっているという特徴があった。具体的には、岩手県から鹿児島県に至るまで範囲内にあった。その背景には、小県の蚕種製造業者がそれだけ広範囲に販路を広げていたことが挙げられる。卒業生の動向としては実家での養蚕・蚕種業の従事や養蚕指導者になったものが多い一方で、遠く清国や朝鮮、アメリカにまで人材を輩出している。また、蚕糸業だけでなく上級学校への進学や教職員、官公吏、銀行員となる者も存在していることから、教育機関としての機能も果たしていたことが分かる。このような点から、小県における蚕糸業はたんにそれのみで存在しておらず、金融業や教育業などあらゆる業界と密接に結びついていることが分かる。あるいは、蚕糸業を基盤としてあらゆる業界が幅広く発達したと2021-06-13
12原田市神社原田市神社長野銀行の駐車場に堂々とした様子で建てられている神社です。今回の調査の中で一番小さい建物で、車で走っていたらなかなか気づきにくいこともあります。 なぜこんな所に建てられているのか気になり、調査しました。この神社の説明には、「城下町を造るにあたって市の守護神である高市事代主命を勧請して祀った神社」と書かれています。そして、ここまで小さくなってしまった原因は「第二次世界大戦後に道路が拡幅されたからだ」とも書かれています。供えられている供物や植えられている植物がしっかりと手入れされていたので、今でもなお忘れられず、崇拝されているのだと考えます。2021-05-05
13明洞通りを調べた内容と写真明洞通りを調べた内容と写真明洞通りは巨大ショッピング都市を連想させる空間です。地下鉄4号線の明洞駅近くの約1kmほどの距離です。ここには様々なブランドの売り場、デパートなどが密集しています。流行に気を使う若者におすすめの街です。衣類、靴、アクセサリーなど様々な商品を購入できます。 各種ブランドショップが中央通りをはじめ、サイド側に密集しています。 デパートはロッテデパート、新世界デパートがあり、街には明洞ミレオレ、M Plaza のようなショッピングモールがあります。 ショッピングだけではなく食べ物も多いです. ファーストフード店はもちろん、洋食、韓食、和食など様々で、その中でも'明洞餃子'という食堂の明洞カルグクスが最も有名なおすすめのグルメ店です。 その他にもヘアショップ、銀行、劇場など多くの便宜施設があります。2021-01-26
14三井住友銀行上田支店三井住友銀行上田支店1枚目が2012年、2枚目が現在の外見を表した写真である。 銀行ということで、とくに建物なども変わってはいないが、とても立派な建物である。 (2012年の写真→Googleマップ・ストリートビューより引用)2021-01-23
15勝俣英吉郎と上田市民大学勝俣英吉郎と上田市民大学上田市の勝俣英吉郎は蚕都上田の絶頂期に当たる1922年、第2代市長となり文教に重点を置いた施策を次々と実施します。その一つに「上田市民大学」があります。勝俣自身、上田自由大学の聴講生でもあり、「先ず郷土を知れ」の信条のもと、後に『上田市史』(1940)を執筆する藤澤直枝を起用し、地域に密着した学習を奨励したと言います(下記参照)。 地域学習の原点としても顕彰される実践です。 ----------------------------------------------------- 上田市民大学開講  上田自由大学の聴講生だった勝俣英吉郎は大正十三年七月、市長に就任すると同年九月に上田市民大学を発足させました。勝俣は図書館の充実、市営運動場建設、徴古館(現上田市立博物館)の開館など社会教育重視の施策を打ち出しましたが、市民大学開講もその一つでした。「先ず2020-08-25
16上田と生糸貿易-4 ~上田の生糸と世界~上田と生糸貿易-4 ~上田の生糸と世界~これまでの内容をまとめる。上田は、日本初の生糸貿易を生み出したといえ、生糸貿易は、日本の発展に多大な貢献をした。それに伴い、上田の蚕糸業はますます発展し、第十九国立銀行の設立などといった金融面の発達にもつながった。そして、明治、大正にわたり、日本の生糸生産の3割を占め、「蚕糸王国」と呼ばれる長野県の発展を下支えした。 画像は「常田館製糸場の歴史」より URL:http://www.kasahara.co.jp/kasahara/tokidakan/history.html2020-07-15
17『上田市史・下巻』2/2(1940年)画像データ『上田市史・下巻』2/2(1940年)画像データページ番号(画像データの連番)は表紙からの通し番号になっています。それぞれはJPG画像です。ダウンロードしてお使いください。 647ページ 第四章 諸官衙 648ページ 649ページ 650ページ 651ページ 652ページ 653ページ 654ページ 2020-06-28
18自分の「上田探検1」計画自分の「上田探検1」計画上田の製糸業を金融面で支えた第十九国立銀行について調べることを目的とする。それが終わり、時間に余裕があれば製糸業関係で上田と世界とのつながりに関わる調査を行う。2020-06-23
19第十九国立銀行について-5 (八十二銀行)第十九国立銀行について-5 (八十二銀行)八十二銀行上田支店。これまで、上田は生糸業の発展によって栄えたが、第一次世界大戦後に続いた慢性不況と1929(昭和4)年の世界恐慌により生糸価格が崩壊するなど、その繁栄にも暗い影が忍び寄ってきた。このような不況により、当時、県内の最大銀行であった信濃銀行の倒産などが発生し、長野県は「全国一の不況県」と言われるまでになった。このような中、1931(昭和6)年、第十九、六十三銀行が合併し、それぞれの行名の数字を足した呼称である「八十二銀行」が誕生した。2020-06-23
20第十九国立銀行について-4第十九国立銀行について-4黒沢鷹次郎の碑。黒沢鷹次郎の業績を称え建立された。2020-06-22
21第十九国立銀行について-3第十九国立銀行について-3黒澤鷹次郎像。黒沢 鷹次郎(嘉永2年(1850年) - 大正8年(1919年)1月27日)は、明治-大正期の銀行家で、明治10年(1877年)に第十九国立銀行の設立に参加した。黒沢鷹次郎は当時の常識を破り動産(原料繭)担保の融資で製糸業者を支援し、また、債権の保全と繭の品質向上のため、明治42年(1909年)1月、自ら諏訪倉庫建設に着手するなど、製糸業発展に貢献した。第1次世界大戦の後、不況に見舞われた岡谷の製糸業界は黒沢の金融政策によって救われ、更なる躍進を遂げた。2020-06-22
22第十九国立銀行について-2第十九国立銀行について-2八十二銀行上田支店(旧:第十九国立銀行)。国立銀行の説明は「第十九国立銀行について-1」を参照2020-06-22
23信濃銀行支店跡(蚕都まちあるき2008)信濃銀行支店跡(蚕都まちあるき2008)看板「すわん」のある鉄筋コンクリート造の建物がかつての信濃銀行支店だった。この道路は上田駅から続くメインストリートだった時代がある。旧上田東駅の近くにある。周辺には宮下製糸場など複数の製糸場があった。蚕都は銀行業が盛んであったことを物語っている。 解説:斎藤功さん(長野大学環境ツーリズム学部教授、地理学)=当時 蚕都上田まちあるき2008 (企画・制作:蚕都上田プロジェクト) 2008/10/25の記録2020-06-19
24第十九国立銀行について-1第十九国立銀行について-1第十九国立銀行跡(現在の八十二銀行上田支店)を示す説明文。第十九国立銀行は、1877年(明治10年)、長野県の佐久地方の豪商であった黒沢鷹次郎らを中心に設立され、養蚕、生糸事業を中心に事業を拡大した。明治から昭和の初めに至るまで、長野県はわが国の生糸生産量の約3割を占め、外貨獲得に多大に貢献するが、第十九国立銀行は、金融面において生糸商人を支え続けた。2020-06-16
25八十二銀行八十二銀行三好町の八十二銀行です。三好駅から歩いて3,4分です。2020-05-25
26蚕都上田まちあるき2008蚕都上田まちあるき2008 企画・制作:蚕都上田プロジェクト 2008/10/25の記録 竹内秀夫さん(都市・建築工房、建築設計) 斎藤功さん(長野大学環境ツーリズム学部教授、地理学) 新津新生さん(上田小県近現代史研究会) 小野寺芙美子さん(梅花幼稚園園長) 三田育雄さん(長野大学地域連携センター長)=まちあるきの企画者 <まちあるき探訪先リスト> リンクを選ぶとその部分を頭出し再生できます。 1. 上田駅前に集合 2. 往時の駅前の状況 3. 曳家した繭倉 木造4階建(笠原工業) 4. 2020-05-24
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