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1上田と生糸貿易‐2 ~蚕種の大量輸出~上田と生糸貿易‐2 ~蚕種の大量輸出~蚕種は蚕の卵を指す。幕府は民間人の蚕種輸出を禁じていたが、横浜港開港当初より、蚕種の密輸が横行した。そのため、1865年に幕府が民間人の蚕種輸出を認めると、蚕種輸出はますます盛んになり、相場も高騰していった。このような背景としては、当時ヨーロッパに蔓延していた蚕の微粒子病の存在があった。ヨーロッパ諸国はこれにより良質な蚕種を求めていたのだ。長野県では上田が特に蚕種の生産地であり、上田は明治初期には実に日本の3分の1を生産していたという。このような蚕種輸出の高騰状態は、1870年の普仏戦争の勃発により沈静化し、その後暴落の一途をたどってしまうが、上田の蚕糸業がこれをきっかけに発展したことは想像に難くないであろう。 画像は「蚕紙」wikipediaより URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9A%95%E7%B4%99#/media/%E3%83%95%E3%822020-07-08
2上田と生糸貿易‐1 ~開国、横浜開港後~上田と生糸貿易‐1 ~開国、横浜開港後~上田の生糸は主に横浜港を通じ、世界との貿易に関わることになる。横浜港は1859年に開港したが、上田の商人達は、まさにその直後から横浜で貿易活動を行っていたことが知られている。そこには、当時の上田藩主松平忠固の尽力があったとされる。松平忠固は、日米和親条約、日米修好通商条約の2つの条約締結の調印時に老中を務め、条約締結を急いだ積極的開国派であった。彼のもとで上田藩は開港と同時に生糸の輸出を始め、これにより日本の生糸貿易は上田から始まったとも言われるようになるのである。 画像は「横浜海岸フランス役館之景」(横浜開港資料館所蔵)により URL:https://www.mmdb.net/santo-ueda/mono/cn1/pg45.html2020-07-08
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