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1梅花幼稚園2008/06/22梅花幼稚園2008/06/222008/06/22の記録。 梅花幼稚園は上田市内にあるキリスト教主義の幼稚園です。1900年に開設されました。現在の園舎は1903年に建てられた歴史的建築です。現存する全国の幼稚園の園舎の中では大阪市立愛珠幼稚園の園舎(1901年竣工)に次いで日本で2番目に古い園舎です。幼稚園の隣には蚕糸業の発展に貢献した三吉米熊(1860-1927)邸があり、クリスチャンでもあった三吉米熊は梅花幼稚園との関わりもあったようです。蚕糸業で古くから栄えた上田の歴史を物語る歴史的スポットです。 参考資料: 学校法人梅花学園梅花幼稚園http://www.baikayouchien.com/ Wikipedia:大阪市立愛珠幼稚園 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%B8%82%E7%AB%8B%E6%84%9B%E7%8F%A0%E5%B9%BC%E7%A8%9A%E5%9C%922024-02-10
2信州蚕糸業遺構、和田峠信州蚕糸業遺構、和田峠下諏訪町と長和町の境界にある和田峠と和田トンネル。現在、国道142号線はバイパスされ新和田トンネルを経由するため、通常迂回しなければ旧和田トンネルを通ることはありません。 この道は国道の旧道であるだけでなく、明治初期に車が通行できるよう勾配を計算して開削された道路です。旧中山道に並走しています。トンネルが開通したのは1933年です。トンネル脇の土手に彫り込まれた道筋の跡があります。これがその開削路です。当時、諏訪方面の生糸はこの和田峠を越え、小県を経由して横浜まで運ばれました。信州蚕糸業遺産として記憶すべき歴史的遺構です。2023-09-23
3上田自由大学を彷彿させる旧山越脩蔵宅上田自由大学を彷彿させる旧山越脩蔵宅1921年、上田で「信濃自由大学」(後に上田自由大学)が始まってから約100年が経過しました。当時の神川村の青年だった山越脩蔵、金井正らが始めた上田自由大学は「学ぶとは何か」「自由とは何か」といった時代を超えた根源的な問いかけを現代に対しても投げかけています。 今日8/23、たまたま信濃国分寺の周辺を訪れました。上田自由大学の主要メンバーの一人、山越脩蔵(1894-1990)の生家が現在も残っています。その屋敷の広大さは外塀の大きさからもうかがい知れます。しっかりと綺麗に保全されていることに感心をしました。道路側から見える手前は増築された建物。山越脩蔵が暮らしていた時代の母屋はその奥にあります。 現在はバックパッカーが宿泊できる宿として運営されていることを知りました。歴史的な建造物をこのような形で保全・2022-08-23
4信州大学繊維学部講堂(旧上田蚕糸専門学校講堂)信州大学繊維学部講堂(旧上田蚕糸専門学校講堂)当時の上田は、高品質な蚕種・生糸の生産と、三吉米熊らによる人材育成により、近代日本の主要産業であった蚕糸業の発展に大きく貢献し、「蚕都上田」と称された。 この講堂ほとんど改変を受けることなく建築当初の姿を残しており、現存する近代の中・高等教育施設の建造物としては屈指のものだ。2023-05-01
5明治二十四年上田全図明治二十四年上田全図この図面は、上田の町を印刷により表わした初期の地図だ。実測図ではないため、縮尺や距離感は不正確である。地図の周囲にとは、明治維新後の近代化した上田の姿を、建築物を中心に表している。「上田尋常小学校」「高等小学校(旧藩主屋敷)」、「上田女学校」、「上田停車場」、「第十九国立銀行」、「上田橋」などが見られる。図面の中央の上田城本丸には「松平神社」がある。また、本丸には櫓が2基残っていたことがわかる。二の丸は「監獄」となっている。また、大手門の堀が残存していた。明治21年に鉄道の駅「上田停車場」(現在の上田駅の前身)が営業を開始するとともに、駅と「海野町」「原町」をつなぐ「松尾町」も開通した。2021-11-14
6第二代上田市長・勝俣英吉郎の像第二代上田市長・勝俣英吉郎の像上田が興隆した背景には蚕糸業の興隆があります。蚕糸業で発展した上田は1919年に市制を施行し、その頃から「蚕都上田」と呼ばれるようになってきました。歴代市長の政治的貢献も顕彰すべきものでしょうが、歴史的には第3代・成澤伍一郎、第4代・伊藤傳兵衞のネームバリューの大きさからかどうも第1代、第2代の影が薄いのは否めません。 市制施行からもかれこれ100年近くが経ち、当時の市長を知る人などはこの世に存在しなくなりました。上田城跡公園の中にひっそりと佇む銅像があります。それが、第2代市長・勝俣英吉郎の像です。 勝俣こそ蚕都上田の絶頂期に市長を務めた人物です。1929年の世界恐慌で蚕糸業のみならず、日本が一挙に大不況に陥った直後の1930年に逝去したというあたりも不思議に象徴的です。 この顕彰像、面白2020-07-18
7上塩尻蚕種製造民家群上塩尻蚕種製造民家群全国一の蚕種製造地といっていい上塩尻の蚕種製造民家群。古いまちなみの地区は全国に数多くあっても蚕種製造民家群がこれだけの規模で現存している地区は国内では稀有です。世界一の蚕糸王国であった日本の蚕種製造の中心地として並外れた価値を持つ産業遺産ではないかと思います。これこそ「世界遺産」にふさわしい。 上塩尻蚕種製造民家群はこれまでにも全国的に関心を持たれる節目がありながら、それをステップに次に踏み出しきれなかった経緯があります。 ふり返ってみると小林昌人氏による集落・民家の調査レポートが古い(「蚕業の先駆者を輩出した上田市 上塩尻の集落と民家」『信濃』1990年1号)。同氏による『写真集 民家の風貌』(1994年)にも上塩尻の民家が収録されています。大がかりな調査事業としては上田市による「塩尻地2020-07-18
8小県蚕業学校(上田東高)の校歌小県蚕業学校(上田東高)の校歌2018/05/10、1年生ゼミでの上田探検。信州大学繊維学部に続き、上田蚕種へ。信大の裏口から実にアクセスしやすいミニマムパスを見つけ、そのパスを抜けると旧小県蚕業学校(上田東高校)の真ん前に出ました。 小県蚕業学校は全国で営まれていた養蚕を各地で指導する養蚕教師を養成していた中等教育機関です。全国からここへ養蚕を学びに生徒が集まっていました。国の基幹産業でもあった蚕糸業(養蚕)を支える人材を育成していた学校です。このような言い方が適切かどうかわかりませんが、現在は全国のどこにでもあるいわゆる「普通高校」と化してしまいました。かと言って蚕業学校のまま、現在に残るわけにもいきません。普通高校と化したのはやむを得ない。 この学校の歴史の重さはその校歌にも刻まれています。通過する道路際から2020-07-18
9上田藩主/老中・松平忠固の墓上田藩主/老中・松平忠固の墓2018/05/10、願行寺にある松平忠固の墓を訪れました。上田藩主・松平忠固(1812~1859)は2度に渡り、老中をつとめた人物です。老中の職にあった時に、日米和親条約(1854年締結)、日米修好通商条約(1858年締結)を結んだことの功績は極めて大きい。日本が列強と互角に対し、列強並みの好条件で列強と貿易協定を結んだことは、その後の日本の近代化を決定づけたと言ってもいい。貿易を推進し、殖産興業を推進しました。 上田における松平氏に対する関心の低さは、この墓の状況が端的に物語っています。かつての願行寺は上田城と対峙するように大手町~海野町の旧城下町のメインストリートの対極に位置し、海野町の通りはその門前のように位置していました。しかし、その道筋が真っ直ぐに貫通し、願行寺の真ん中は道路によって分断されました。さら2020-07-18
10上塩尻の蚕種製造民家群と文書を見聞する上塩尻の蚕種製造民家群と文書を見聞する2018/08/18、上田市上塩尻の蚕種製造民家群と文書を見聞する会を開きました。長野大学前川研究室、上塩尻自治会、上塩尻今昔の会の連携で実施したものです。地元上塩尻の方々を中心に、建築や歴史文化の専門の方などが加わり20名ほどが参加しました。 幕末から近代にかけて日本の産業を牽引した蚕糸業の中でも、長野県は蚕糸王国と呼ばれるほどに近代日本の殖産興業に貢献をしました。その中で上田小県は蚕都上田と呼ばれ、その中心地の一つでした。とりわけ上塩尻を中心とした塩尻地区は蚕種製造の一大中心地となり、江戸時代から幾人もの優れた蚕種製造家を輩出した他、各家が蚕種製造業を営んでいました。その当時の蚕種製造民家は現在もなお数多く残り、「蚕種製造民家群」という全国的にも稀有な歴史的景観地区となっています。 2020-07-18
11大里村役場跡碑大里村役場跡碑碑文 大里村役場跡  小諸市長 塩川忠巳書 大里村役場沿革誌 明治二十二年市町村制実施により大里村発足       諸二〇七番地に役場開設 大正十五年大里尋常高等小学校隣接地諸字矢鼻       二六番地ー二近代的役場新築 昭和二年新役場により事務執行 昭和二十九年市町村合併法により小諸町になる 同    年四月小諸市となり諸支所となる 昭和三十八年諸出張所となる 昭和四十四年諸出張所廃止 平成四年三月吉日記念碑建立         記念碑建立実行委員会2020-07-13
12世界のタイル博物館世界のタイル博物館この博物館は、山本コレクションとINAX独自の資料による装飾タイルを展示公開し、来館者が「観て、学んで、発見」する、日本で唯一の研究博物館です。1階常設展は、「装飾する魂(たましい)」をテーマに5500年前のクレイペグ空間、4650年前のエジプト最古のタイル空間、イスラームのドーム天井の再現など、ライブミュージアムにふさわしい臨場感あふれるタイル空間を再現。世界の他の博物館でも体験できない時代別の装飾タイル空間が誕生しました。 2階常設展は「時空を超えるタイルたち」をテーマに、中近東諸国(オリエント・イスラーム)、スペイン、オランダ、イギリス、中国、日本という地域別の展示を追いながら、5500年前から近代までのタイルの歴史の流れや個々のタイル技術についても、理解しやすいように解説を加えて展示してい2020-05-24
13天満宮天満宮1771年(明和8年)の創建と伝えられ、舟形の地形が特徴です。古い絵馬や俳句の額が掲げられています。明治6年に村社になり、かつては春秋の例祭には村人の踊り、大々神楽、相撲等が奉納されました。敷地内には、福島安正書の「菅公一千年記念碑」もあります。 出典:『上田 しおじり』/塩尻地区近代化遺産活用ガイドブック編集委員会/ 発行 上田市教育委員会 2003年3月 学問の神様とも呼ばれている菅原道真を祭神とする神社の一つであり、正月にはここで年を越す方もいます。昭和時代からありながらきれいなまま現存しているのが面白い。2020-05-21
14水天宮水天宮下塩尻字日月地籍に舟人の守護神、水の神、安産の神として水天宮が祀られています。千曲川水系では比較的大きな社殿と言われ、毎年9月には神主が来場して区民が例祭を行っています。 出典:『上田 しおじり』/塩尻地区近代化遺産活用ガイドブック編集委員会/ 発行 上田市教育委員会 2003年3月 少子化という地域課題がある中でこういった神様が祀られていることにより地域の方々に安心と安寧を与えているという歴史的な効果が素晴らしく、興味を持たせてくれる。2020-05-21
15旧土浦中学校本館旧土浦中学校本館山形県出身の建築家・駒杵勤治(こまぎね・きんじ)による名建築、旧茨城県立土浦中学校本館(1904年施工)は、1976年、重要文化財に指定されました。 近代の木造洋風建築の校舎として絵になる外観のよさ、建物の様式美、気品があります。NHK朝のテレビ小説『エール』(2020年)では昭和初期の音楽学校の校舎として使われています。 本館前に掲げられた重要文化財説明板(茨城県教育委員会)には、建物の特色として次のように書かれています。 「平面構成は、凹字型の左右対称で、正面を重視した古典的な手法をとっている。廊下を教室の西側に配した点は、当時の学校建築の基本に従ったものである。意匠的にはゴシック様式を基調とし、正面中央玄関の三進突燭アーチ・左右の突燭・切妻破風・屋根窓などの直線的な意匠が特徴になっている2020-05-18
16上塩尻の蚕種製造民家群と文書を見聞する上塩尻の蚕種製造民家群と文書を見聞する2018/08/18、上田市上塩尻の蚕種製造民家群と文書を見聞する会を開きました。長野大学前川研究室、上塩尻自治会、上塩尻今昔の会の連携で実施したものです。地元上塩尻の方々を中心に、建築や歴史文化の専門の方などが加わり20名ほどが参加しました。暑いとは言え、連日の猛暑からは解放されたように秋めいた爽やかさが感じられる一日となりました。

全国的にも稀有な蚕種製造民家群

幕末から近代にかけて日本の産業を牽引した蚕糸業の中でも、長野県は蚕糸王国と呼ばれるほどに近代日本の殖産興業に貢献をしました。その中で上田小県は蚕都上田と呼ばれ、その中心地の一つでした。とりわけ上塩尻を中心とした塩尻地区は蚕種製造の一大中心地となり、江戸時代から幾人もの優れた蚕種製造家を輩出した他、各家が蚕種製造業を営んで
2020-05-10
17藤本蚕業歴史館藤本蚕業歴史館蚕種製造の中心地であった歴史館。文書館と展示施設の機能を併せ持っている。2020-04-29
18秋和の文庫蔵を訪ねる秋和の文庫蔵を訪ねる2/17、地元の方々と学生と秋和文庫蔵を訪ねました。 秋和は蚕種製造の中心地であった塩尻村の中で、上塩尻、下塩尻と共に蚕種製造が営まれ、蚕都上田の興隆にも大きく貢献した一地域です。そうした近代の地域の背景を知る上でも地元の古い資料は欠かせないものです。 いくつか手にした文書は「明治十八年 祭典諸事記載帳」「明治三十年度 人夫賃金支払帳 塩尻村秋和土木委員」「明治十年第三月 秋和学校貸附金証書」「明治十三年金銀出納簿 一月ヨリ 秋和学校」などなど。少し手に取っただけでもまるでタイムカプセルから地域の埋もれた歴史に陽光が当てられたかのような感興がありました。 これらの資料をどうするか。それが問題です。地元の資料は地元の力でともかくも目録化に着手するのが第一との課題を共有しました。2020-04-22
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