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1上田原古戦場公園上田原古戦場公園 最初は上田原古戦場公園。  ここは、甲斐国の戦国大名・武田信玄と北信の戦国大名・村上義清の戦った場所である。上田原の合戦では、武田信玄が初めて敗北した戦いとも知られていて、武田家重臣である、板垣信方や甘利虎泰などが戦死している。  現在では、上田原古戦場公園として、野球場やスケートボード場、テニスコートなど皆が楽しんで運動できるような場所になっている。自分が行った時も、犬の散歩や、夫婦でウォーキングなど、運動している人が多くいた。  だいたい500年前には殺し合いをしていた場所が、今では皆の憩いの場になっているというのは、なかなか面白いと思う。上田原の戦いで死んでしまった将兵たちは、これをどう思っているだろう。恨めしく思っているだろうか。それとも、一緒に野球を楽しんだりして2024-01-25
2安楽寺 八角三重塔安楽寺 八角三重塔安楽寺は信州最古の禅寺。 境内の奥にたたずむ塔は日本で唯一の木造八角塔で、長野県で最初に国宝に指定された。 塔は本来、お釈迦様の遺骨を奉安したものだが、中世以降は特定の人物や戦死者の 供養の建てられたものが多いため、恐らくこの塔も北条氏の供養塔として建てられたものと考えられる。 一見四重塔に見えるのだが、一番下の屋根は「裳階」と言われており、ひさしに相当するので数えないそう。 本堂のある位置から入場料を払い、木々の間に整備された階段を数十段と上っていくと その塔はある。 造りがとにかく細かく、あの湾曲した木はどのようにして切り出したのかと 考えさせられる。 八角ともなると立体的かつ厚さを感じ、圧倒された。 塔に着くまでにかなり階段を上るので ご高齢の方や身体に不自由がある方だと2023-12-14
3上田招魂社上田招魂社上田招魂社は眞田神社と同じく上田城内に建立されている神社です。戊辰戦役従軍の戦死者をはじめ日清日露の戦争を経て今次の大東亜戦争に至る間国家の為尊き命を捧げられた5,936人の英霊をまつる御社です。2022-12-05
4無言館無言館 太平洋戦争などで戦死した画学生の遺作や遺品を展示する、戦没画学生慰霊美術館 無言館。  今年の24時間テレビのスペシャルドラマの題材にも取り上げられていたため以前から興味があり、今回初めて訪れることができた。  「自問坂」という大変急な坂道を上った先の、コンクリート造りで静けさに包まれた館内には、画学生が出兵前や戦地にいる間に描いた作品や家族に送った手紙、画材などが展示されている。遺族が語る画学生の人物像や彼らとの思い出とともに作品を眺めることで、彼らが必死に作品に込めた家族や故郷への愛、絵画・彫刻への情熱を受け取れた気がした。2022-11-30
54 年表からひもとく4 年表からひもとく坂井村誌内の年表を一部引用し、特に重要な部分をまとめた。

昭和12年(1937年)

盧溝橋事件が勃発。村内の予備兵に召集下令があり、村内に一気に緊張感が流れた。 ・銃後後援会(後に奉公会)結成、村防護団結成・応召家庭の農作業奉仕。 ・軍の指示により、初めて防空演習が行われる。 ・国防婦人会結成(全村)、国民精神総動員長野県実行委員会(会長・県知事)坂井村支部(支部長・村長)結成。 ⇒日中全面戦争の開始に伴って始められた、国民の戦争協力を促す官製国民運動。「精動」と略されることもある。1937年(昭和12)8月第一次近衛文麿(このえふみまろ)内閣は「国民精神総動員実施要綱」を閣議決定し、同年10月「挙国一致、尽忠(じんちゅう)報国、堅忍(けんにん)持久」のスローガンのもとに国民精神総動員
2022-01-29
6英靈故山に還る(『西塩田青年団報』第1号(1946年8月25日)1頁)英靈故山に還る(『西塩田青年団報』第1号(1946年8月25日)1頁)戦死した五名の男子。その名前と戦死日時、場所が中央に大きく書かれていた。 この記事における「英靈」とは死者、特に戦死者の霊を敬って言う語を意味していると思われ、「故山」とは彼らの故郷。 つまり、故郷に遺体という形ではあるが再び還ってきた五名の霊を追悼しよう、という心がけが見受けられる。 国のために命を捧げて死ぬのは美徳であり、仕方ないことだという戦前の考え方が薄れてきているようにも思えた。2022-01-27
7雨宮刑部の墓雨宮刑部の墓武田氏と村上氏の合戦である上田原合戦でなくなった村上側の武将、雨宮刑部(あめみやぎょうぶ)のお墓。道外れにひっそりと立っている。現在は公園や野球場がある場所で、合戦があり多くの人が亡くなったという事を知ることができた。また今自分がいる所は、昔何が行われた場所なのかに興味を持たせてくれた。2021-05-05
8無言館無言館太平洋戦争などで戦死した画学生の遺作、遺品が展示されている美術館である。 作品を見ているとなんとも言えない悲しい気持ちになってくるが、ぜひ一回は見る価値はあると感じた。2021-05-05
9日露戦没忠魂碑日露戦没忠魂碑1904年から1905年にかけて勃発した日本とロシアの戦争による戦死のための慰霊碑です。このような戦争とは関わりのないと思っていたところにもこのような記念碑があることに驚きます。2021-05-04
10上田招魂社上田招魂社この上田招魂社は戊辰戦役従軍の戦死者をはじめ日清日露の戦争を経て今次の大東亜戦争に至る間国家の為尊き命を捧げられた人々の英霊をまつる御社。 真田神社の近くにあるため、向かった際にも足を延ばしてみてはどうでしょう。2021-04-25
11謹んで諸兄の御冥福を祈る(『西塩田時報』第17号(1948年7月25日)3頁)謹んで諸兄の御冥福を祈る(『西塩田時報』第17号(1948年7月25日)3頁)第二次世界大戦で亡くなった方々の冥福を祈る内容と、国が行った侵略戦争の悔い嘆くと共に平和への道を築くと誓う内容の記事である。また、戦死した上田市に住む人々の名前や死因などが記載されている。 敗北した日本で生き残り、そして戦争の実態を知って悔恨の念を感じながら平和を実現すると心に誓うという凄絶な内容に心を打たれた。 ▼この記事は以下から参照できます。(戦死した方々のリストも以下URLで閲覧可能) #1021 『西塩田時報[戦後]』第17号(1948年7月25日)3頁2020-12-13
12石久摩神社石久摩神社鳥居の横には、「上田原合戦」前後の出来事が書いてあったり、「上田原古戦場」と書かれた石碑がある。  上田原合戦とは、1548年、武田信玄と村上義清が激しい戦いを行い、両軍合わせて数千人という戦死者を出した。この戦いは、川中島合戦の前哨戦ともいわれる有名な戦いである。  この神社は、旧上田原村の産土神であり、1827年神祇官より社号を明神社から石久摩神社に改称を受け今に至る。2020-05-25
13日露戦後忠魂碑(上田市)日露戦後忠魂碑(上田市)日露戦争に出征し戦死した兵士の記念のために制作された記念碑。上田市からも戦争に出征し戦った人がいることが分かるものである。一人一人の名前が記されており、地域の記録として存在している。戦争と平和について考えさせられるものである。2020-05-25
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