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1自炊の風景:蔵書デジタル化の後自炊の風景:蔵書デジタル化の後数十年の間に蔵書がたまりにたまり、自分の部屋や研究室を圧迫する物理的存在と化してきました。読んで手にするどころの状態ではありません。以前から取り組んでいることが「自炊」です。書籍を裁断し紙をドキュメントスキャナにくべてデジタルデータに変換します。その結果として裁断した紙、棒状の背柱が残ります。背柱は糊で固められ、さながら木材の束のような見え方になります。一種の断捨離です。 だいぶ自炊しましたが、物理的な分量の多さからすると自炊は「焼け石に水」です。知識消費型社会の王様であった書籍が知識循環型社会へのシフトに伴い、デジタルデータになることにより、物理的束縛からは自由になり、書籍がかさばることなくタブレット1枚で自由に閲覧できるよい時代にシフトしたと前向きにとらえています。2024-03-09
2泥宮に行ってきました。泥宮に行ってきました。泥宮まで行ってきました。 歩いて片道45分~1時間ほどかかった気がします。 流石に歩いていくのは時間がかかりました… 私のように散歩感覚で行くのはおすすめしません。 泥宮に行くまでの道のりは、行きは生島足島神社を通り過ぎて、交番があるあたりで右に曲がりました。曲がった先から道には街灯がないので、夜には行かない方がいいと思います。暗いしこの時期の道は雪があったり凍ってたりで危ないので。 帰りの道は、甲田池・塩田町駅・男池を通る形のルートで帰りました。 上田市は少雨地域である為、ため池が多いことは学びましたが、歩いていると思ったよりも近くにため池群があり、楽しかったと思うとともに、すべてのため池を巡りたいなとも感じました。 夜遅くに行ってしまったので、泥宮の雰囲気は不気味に思えました。2024-02-13
3常楽寺石造多宝塔常楽寺石造多宝塔 常楽寺本堂左側の道を上がった奥に多重塔と呼ばれる堂々とした石造の塔が一基立っている。弘長2年(1262)に造られた。総高274.0㎝の重厚で堂々とした風格や造り方は鎌倉期多宝塔の優品とされ、おごそかなたたずまいを感じる境内である。  北向観音の出現地とされているため、同じく別所温泉にある北向観音堂と合わせて訪れる方もいるのではないかと感じた。2024-02-13
4別所温泉近くの寺 常楽寺2別所温泉近くの寺 常楽寺2常楽寺の本堂の左側通路を抜けた先に石造多宝塔が立ち並んでいる。この場所は昼間でもあまり光が届かず、多宝塔にはおごそかなたたずまいを感じた。夏だったにもかかわらず寒さを感じたことを鮮明に覚えている。多宝塔は北向観音の出現値を神聖なものにしようと1262年に作られたもので今は国の重要文化財に指定されている。2024-02-13
5北向観音堂北向観音堂 北向観音堂は、平安時代初期の天長2年(825年)、比叡山延暦寺座主の慈覚大師円仁により開創された霊場である。永元年(1182年)には源平争乱の中、木曾義仲の手により八角三重塔と石造多宝塔を残して全て焼失してしまうが、源頼朝の命のもと伽藍復興がおこなわれ、建長4年(1252年)、塩田陸奥守北条国時により再興された。本堂が北に向いているのは、日本でもほとんど例がない。  私は、全国的にも珍しい特徴があるため、観光客の興味を引きやそうだなと感じた。また、北向観音堂までは坂道が多く歩きづらいが境内は整備がされているため綺麗だった。周辺に温泉があることは、寒い時期でも行きやすくなる要因となっているだろう。2024-02-13
6【上田市の銭湯】地図から銭湯の分布を見てみよう~大正期編~【上田市の銭湯】地図から銭湯の分布を見てみよう~大正期編~突然ですが、皆さんは銭湯に行ったことはありますか? 銭湯というと、富士山の壁画が描かれた、東京の大きな下町銭湯を思い浮かべる人が多いと思います。ここでいう銭湯とは、法律で定められた一般公衆浴場のことです。 ここ上田市にも、地域に根付いた街のお風呂屋さん、銭湯が2軒あります。ですが最盛期には、なんと24軒もの銭湯がありました。昔は市街地ではお風呂のある家庭は一般的ではなく、農村部のお百姓さんの家、どこかの大富豪の社長さんの家など、限られた家庭にしかありませんでした。そこで、「浴場業(銭湯)」という一つの業種が確立されたんですね。今回は、そんな上田市の銭湯の分布を、2つの大正期の地図から探っていきましょう。 (画像は最盛期の銭湯をGISアプリで国土地理院の地理院地図にプロットしたもの) 2024-02-12
7上田合戦の上田城上田合戦の上田城上田城は二度の徳川軍の襲撃を耐え、撤退に追い込むことができた。徳川軍との戦いは上田合戦と呼ばれ、1585年と1600年に勃発した。 1585年の第一次上田合戦は真田と徳川の間で領地問題が発生したことで起きた。徳川軍7000に対し、真田軍は加勢込みで2000弱しかいなかったが、上田城の急な崖と千曲川の増水、狭い道におびき寄せて叩く様々な策略を用いたことで死者を抑え、撤退に追い込んだのである。 第二次上田合戦は関ヶ原の戦いの前であり、石田か徳川のどちらにつくかで石田についたことで起きた。返答と面会を遅らせた上に、あえて徳川軍をおびき寄せてから反撃する策によって、徳川軍に打撃を与え、関ヶ原への到着を遅らせたのである。 上田城のように大きな合戦に二度も勝利した事例は少ない。この勝利は知恵と地の利がもたらしたも2024-02-12
8信州上田祇園祭信州上田祇園祭美しい装飾の神輿40基と、賑やかな「そいや」の掛け声。提灯がたくさんついたような見た目の神輿の中には「樽みこし」というものもあるらしい。とにかく賑やかで迫力のある祭りだった。 この祭りの起源は上田藩の重要な行事として行われていたことにあるそうだ。以来、真田氏、仙石氏、松平氏の時代を通じて、疫病退散や豊作、地域安泰などを祈願し行われてきた。後に信州上田祇園祭実行委員会が結成され現在のようなお祭りが行われるようになったという。 このお祭りは特に人々の熱量がすごく感じられた。近隣の夏祭りの先陣を切る祭りでもあるらしい。一年間待ち望んだ祭りだからこその熱量なのだろう。2024-02-12
9ため池の自然における役割ため池の自然における役割 天然の湖や池が少なく、川も浅い塩田地域では、ため池が水鳥のすみかとなっている。  また、水草が多く茂っているため池もある。その中には水辺にすむ昆虫などが生息していると考えられる。草が多いため池は十分に管理されていない可能性があり、自然に還りつつあるとの見方もできる。  水が少ない地域では、ため池は生き物にとっても貴重な水場である。しかし、ため池はあくまでも人工的な環境である。石やコンクリート、金属で作られた箇所が多く存在する。  ため池を人が利用し続けるなら、人工的な部分を残してもよいだろう。しかし、野生生物のためだけに保存するのであれば、パイプなどの人工物は撤去するべきだと考える。ため池を使い続けるのかどうか、はっきりと決める必要がある。2024-02-10
10常楽寺常楽寺常楽寺は北向観音が建立された825年に建立された。 北向観音の本坊であり、ご本尊は「妙観察智弥陀如来」で全国的にも珍しい阿弥陀様である。 また、本堂裏の北向観音の霊像が出現した場所には、石造多宝塔が保存されており、鎌倉時代に天台教学の拠点として大いに栄えた常楽寺の歴史を証する貴重な文化財となっている。 階段を上がって最初に萱葺の本堂が目に入る。屋根から重厚さを感じられる。2024-02-09
11常楽寺石造多宝塔常楽寺石造多宝塔石造多宝塔は1262年の作で、総高274㎝の重厚で堂々とした風格や造り方は鎌倉期多宝塔の優品である。国の重要文化財に指定されている。 多宝塔の形は土台石の上に横長の直方体の石をのせ、幅の広いひさしをさしかけている。その上部は円筒形の身舎を造り出しその上に笠をのせ、一番上に細長い相輪を立てている。 塔が建てられている所は北向観音の出現地といい、境内でもっとも神聖な場所とされる。 常楽寺本堂から石造多宝塔まで向かっていくと徐々に神聖な雰囲気が感じられた。 周りを木や緑に囲まれており、空気がとても澄んでいる印象だった。 また、石造多宝塔のすぐ右側には上田市指定文化財である常楽寺石造多層塔が建っている。2024-02-09
126代松平忠優(忠固)はどんな人物か6代松平忠優(忠固)はどんな人物か下の画像:ミッチーの画像を引用    上田市中央にある願行寺の松平氏の墓所を訪れた。写真に見えるのは、四角い石碑を外して、右手側から、上田藩6代藩主の松平忠優(ただます)またの名を忠固(ただかた)、4代藩主の松平忠済、そして忠済の嫡男で20歳くらいで若くして亡くなった忠英(ただつね)の墓である。この記事では、松平忠固の功績を取り上げたい。  忠固を一言で表すとすれば、幕府の体制を、開国つまり外国と貿易を始めるよう向かわせた人物である(オランダ、中国、朝鮮は入らない)。なぜか。忠固は二度、幕府の中枢つまり幕閣で老中という役職を務めている。そして、忠固の一度目の就任期間時には、幕府は日米和親条約を締結し、二度目の就任期間時には、幕府は日米修好通商条約を締結している。忠固は開国派の立場を2024-02-08
13常田館製糸場について常田館製糸場について これはボイラー室の煙突です。主に従業員の生活のために使われいました。当時は個々の横に物資搬入用のトロッコが走っていたそうです。燃料となる石炭を搬入していました。また、トロッコは上田駅までつながっていて、製糸場でできた絹を上田駅まで届けていました。2024-02-07
14学生による地域キュレーション2023(信州上田学A受講生)学生による地域キュレーション2023(信州上田学A受講生)学生による地域キュレーション2023(信州上田学A受講生) 長野大学の地域科目「信州上田学A」2023を受講した学生が「信州上田」を接点として地域キュレーションした地域学習のアウトカムです。タイトルを選ぶとその学生のマイサイトを表示します(2024/02/15更新)。 各キュレーションの「マイテーマ」は次のページからご参照ください。[ Vol.1 | Vol.2 ]
    ▼社会福祉学部学生
  1. いちご/上田の食
  2. しおり/上田の食べ物
  3. な/上田の日本遺産について
  4. るるる/塩田平の文化財
2024-02-05
15上田の街つくり上田の街つくり上田市も松本市と非常に似た、景観を意識した街つくりを行っている。写真は上田市の柳町の通りのものである。以前に投稿した松本市の中町通りとかなり似ており、建物から石畳に至るまでかなりの共通点が見受けられる。2024-02-05
16プロジェクト研究(長野大学前川ゼミ)2023アウトカムプロジェクト研究(長野大学前川ゼミ)2023アウトカム長野大学企業情報学部前川ゼミ/プロジェクト研究2023成果報告 ▼前川ゼミ2023成果報告 60分 ゼミメンバーの各自が成果を報告しています。(発表順は以下の順と同じ) ▼前川ゼミ・ポートフォリオ(マイサイト) 〔地域デジタルアーカイブ〕 【1】竹中丈二(4年) 地域史料のデジタルアーカイブとその活用 【2】久保山遥(4年) デジタルアーカイブ化と社員日誌 【3】石平飛揚(3年) 紙資料のデジタルアーカイブ化 〔地域づくり支援〕 【4】福田晴紀(4年) メディアの活用と地域づくり 【5】春原百々羽(3年) 地元上塩尻の文化の2024-02-05
17松本の街づくり松本の街づくり松本市は国宝松本城を有し、それを基盤とした街づくりを行っている。写真は松本市の中町通りである。御覧の通り、和風なつくりをしており、両脇の店は倉をりのーベーションしたものを使っていたり、またそれに似せた外観であるものがほとんどである。また石畳が敷かれており、景観の良さを引き立てている。2024-02-05
18常楽寺の''石造多宝塔と石造多層塔''常楽寺の''石造多宝塔と石造多層塔''常楽寺の石造多宝塔について。写真の場所は、昔大きな火柱と一緒に観音が現れた場所と言い伝えられている。  多宝塔というのは一枚目の写真のような塔のこと。多宝塔には木造のものと石造の物がある。常楽寺の物は石造の多宝塔で、重要文化財に指定されている。  多宝塔のほかにも多層塔もあり、二枚目の写真が多層塔。六〇年前の大正一三年に、別所温泉北向観音堂の近くの裏山の地下で発見された。その後どこかに行ってしまったが、滋賀県で発見。別所に返してもらった。 参考文献:上田市塩田地区学校職員会、上田市塩田文化財研究所編,『信州の鎌倉塩田平とその周辺』信毎書籍出版センター発行,昭和六〇年一二月二五日初版発行,p.56-582024-02-01
19蚕都上田 常田館製糸所 煙突蚕都上田 常田館製糸所 煙突この煙突に関して2つ、新たに学びがあった。 1つ目はこの煙突は当時、石炭で稼働しており、現在の上田駅とこの煙突のふもとの間にトロッコが通っていたという。当時、物資の輸送は大変重要な役割であった。 2つ目は笠原工業(笠原製糸)が常田館製糸所をこの地に置いた理由は大きく3つあるという。「多くの労働力・都市部や地域内の輸送手段の発達・澄んだ水」である。上田市は当時、人口の8割を超える市民が養蚕業・製糸業に従事していたという。実際、常田館製糸所は2500人の従業員を抱えていた。また、東京・横浜への物資輸送手段が発達していたこと、上田駅と常田館製糸所間にはトロッコが開通していたことから交通が発達していたことがわかる。そして、菅平から流れる澄んだ水を貯水し、水が重要な製糸業に利用していたという。 今2024-02-01
20男池、女池男池、女池上田にある殆どのため池が戦国時代から江戸時代に作られた物である。男池、女池は江戸時代の仙石氏が上田を治めているときに作られた。次に男池の貯水量は約五万㎥で、満水面積は約二万六百㎡。一方で女池の貯水量は約一万八千㎥で、満水面積は約八千八百㎡。男池と女池を比較してみると、男池の方が貯水できる水の量が多い。現在は農業用水として使用されており、隣の産川から池に貯水されている。2024-01-31
21昔と現代の豆知識の変化昔と現代の豆知識の変化今はシミ取り用の洗剤、石鹸、等が普及しているが、当時はそのような便利なものがなかったので、容易に手に入る身の回りものでシミ取りを行っていたと考えられる。 今でもいざというときに使えそうなものはありそうだ。 『西塩田公報』第83号(1954年8月5日)4頁2024-01-31
22白山比咩神社白山比咩神社 白山比咩神社は、天平3年に上田地方において疫病が流行した際、加賀の国(石川)の白山より分産したとされる。弘安元年に現在の位置に再建され、眞田昌幸・信之などの戦国武将からの寄付状など、歴史を物語る資料が多く残されている。幕末から明治初期に信濃の地で活躍した宮大工の彫り物なども多数存在し、先人たちが地域の文化財として脈々と守り受け継がれてきたことが理解できる。  白山比咩神社は毎年初詣に行く神社であり、私の住んでいる地元住民に親しまれている神社である。初詣に行くだけで、石碑などの存在を認識していなかった。歴史についても調べる機会はなかったので、親しみある神社について知ることができ良かった。2024-01-30
23石造多宝塔石造多宝塔 信濃国分寺石造多宝塔は、現在の多宝塔は屋根や塔身の一部に窪みがみられる。これは、削り取った粉を飲むと「病気が治る」や「お守りとするとよい」などの信仰から、民衆が削り取ったものとされる。各部の様式、手法などから鎌倉時代の造立と推定される。全国的にも石造による多宝塔は少ないが、上田市には常楽寺含め二つの多宝塔が現存しており貴重なものである。  三重塔などなどの複数の歴史的価値のある建物が存在していることは知っていたが、その細部まで見ることは無かった。国分寺と共に一体感や壮大さを体感でき、良い経験となった。平日に行ったため、人が少なくゆっくり見ることができ良かった2024-01-30
24信濃国分寺信濃国分寺 信濃国分寺は、741年に発せられた国分寺建立の詔により建立された。当時の国分寺は、平将門の乱において消失したと伝えられており、この事件を機に現在の位置に再建されたとされている。現在の信濃国分寺は天台宗の寺院で、本尊は薬師如来である。境内は天平の伽藍の北側、⼀段高い場所にかつての僧寺と主軸線を合わせて整備されている。  信濃国分寺には、八日堂縁日に際に行くのがほとんどで行く機会はなかった。縁日の際に行くため、人が多く境内をしっかり見たことが無かった。本堂のほか石造多宝塔や三重塔など、多くの歴史的価値がある建物が残る場所であると理解できた。2024-01-30
25松平氏とゆかりのある上田のスポット松平氏とゆかりのある上田のスポット 上田を治めた松平氏にゆかりのあるスポットを載せたマップを作製した。今まで紹介してきた記事に加え、4つのスポットをマップに加えた。  信濃国分寺の三重塔修復で紹介した松平忠周であるが、彼は正徳2年(1712)5月に山家神社の社殿を、正徳4年(1714)8月には紺屋町八幡神社の社殿も修復している(ただ、どちらの修復も三重塔修復より前の時代になる)。上田に引っ越してきて間もない忠周は、古くから上田住民の心の拠り所となってきた上記の神社仏閣を修復することで、上田領民の信用・信頼を得ようとしたのではないか、と私は考える。加えて、これから先、領内で天災や大きな事件が起こらないように、と土着の神仏に願かけをする気持ちもあったと思う。  山家神社であるが、額縁の『山家神社』という字は、上田最後の藩主で、知2024-01-30
26北向観音北向観音日本遺産の一つである北向観音を訪れた。 北向観音堂は、平安時代初期の天長2年(825年)、比叡山延暦寺座主の慈覚大師円仁により開創された霊場である。 寿永元年(1182年)には源平争乱の中、八角三重塔と石造多宝塔を残して全て焼失してしまうが、源頼朝の命のもと伽藍復興がおこなわれ、建長4年(1252年)、塩田陸奥守北条国時により再興された。北向観音様は北向に建立され 千手観音様を御本尊として現世利益を願う。祈祷では厄除・家内安全・商売繁盛・身体健全・交通安全をお願いすることができる。 率直に、想像していた場所よりも高いところにあると感じた。割といきなり北向観音が現れたように感じたが、周りと調和していると感じた。また、別所の街並みを見渡すことができた。2024-01-30
27信州上田祇園祭信州上田祇園祭祇園祭の起源は869年、疫病の流行を鎮めるため御霊会が行われたことから始まりました。この御霊会が祇園祭の起源とされています。 上田市の祇園祭は、1584年6月12日真田正幸公が上田城へ入城された日が、土地の祇園祭であったことから「お城祭」とも言われています。 上田祇園祭は真田氏、仙石氏、松平氏の時代を経て疫病退散祈願、豊作祈願、地域安泰祈願を兼ねたお祭りです。平成18年には、信州上田祇園祭実行委員会組織され、宮神輿、樽神輿、こども神輿などを合わせて100基以上が集まり開催されました。今では地域に根付いたお祭りになっています。2024-01-30
28しめ縄しめ縄 前回、別所を知っていただくため別所の特産物として売りだしている「まこも」について紹介した。  そして今回は、自分たちが育てた稲やまこもの葉の活用を紹介する。  別所でお世話に農家さんとおじいちゃんおばあちゃんに教えて頂きながら、私は「しめ縄づくり」を体験した。実際に作ってみて、昔の人はこんなに大変な思いをして手作りでしめ縄を作っていたのだと気づいた。まず乾燥させた稲を形を変えやすいように石などでたたいて柔らかくした。そして、すべて手作業で稲を手の上で転がすように編み込むことを繰り返して完成させた。手の上で転がすということが難しく、コツをつかむまでにとても時間がかかった。私は稲でしめ縄を作ったが、まこもの葉でも、同じようにしめ縄を作ることが出来る。  自分で頑張って作ったし2024-01-30
29安曽神社安曽神社鈴子、石神、柳沢の3地区の産土神(うぶすながみ)であり、地域の守り神。社伝によると、崇神天皇の御宇、国家安泰を祈願し、各地に天社国社を建てた時、御震筆阿曾山舎社(がしゃ)阿曾大明神の御勅額が奉納されたという古社。境内入口は東向き。参道脇には「郷社 安曽神社」と刻まれた社号標が建つ。鳥居をくぐり、木々の参道を進むと、立派な隨身門がある。隨身門の中には、左右に隨身像が安置されている。門をくぐると、砂利の境内。境内西奥に、両翼を広げた形の拝殿があり、拝殿の後方、垣の中に流造の本殿がある。 実際に訪れてみて、一歩境内に入ると、風情を感じられるような空間であった。特に印象に残っているのは、随身門である。とても立派な木造建築の門で、左右の随身像は守り神の様な存在感だった。2024-01-29
30炭焼き小屋炭焼き小屋炭焼きや薪取りなどの山の仕事は主として冬の仕事であったため、冬の山は賑やかであった。良い炭を焼くには経験と勘が大切で、体力的にも大変な仕事であった。窯の造り方も経験を要するもので、窯の良し悪しで炭の出来具合が分かると言われていた。 実際に訪れてみて、石積みの作りから歴史と時代の流れを感じられた。訪れた時期が秋であったこともあり、周辺の紅葉がとても綺麗だった。2024-01-29
31上田城上田城上田城跡公園は、上田駅から徒歩12分で行くことができる。 上田城は1583年に真田昌幸によって築かれた平城で、上田盆地の中央に位置している。 堀と土塁で囲まれ、出入口に石垣が使われている簡素な城であるが、第一次、第二次上田合戦で徳川の大軍を撃退し、天下にその名が知られる有名な城となった。 春は桜が咲いており、とても綺麗で上田城の見どころのひとつである。 四季によってさまざまな上田城の姿を見ることができる。 上田城 桜2024-01-28
32常楽寺常楽寺寺伝によれば、平安時代初期の天長2年(825年)、「七久里の里」と呼ばれていた別所温泉に観音菩薩が出現し、その霊地に菩薩を安置するため、円仁(慈覚大師)が開創したとされる。 石造多宝塔は弘長2年(1262)の作で、総高274.0㎝の重厚で堂々とした風格や造り方は鎌倉期多宝塔の優品。塔が建てられている所は、北向観音の出現地といい、境内でもっとも神聖な場所とされる。 本堂の茅葺屋根が立派だった。石造多宝塔は神聖な場所だけあって周りが木に囲まれていて神秘的な雰囲気を味わえた。2024-01-25
33眞田神社眞田神社東虎口櫓門を抜けると眞田神社がある。案内板によると上田城を築いた真田父子を主神とし、民政に尽くした仙石・松平の歴代藩主を祭神とした神社だという。眞田神社には合格祈願に訪れる学生の姿が見られた。日本一の智将といわれた真田幸村は今でも智恵の神様としてあがめられていることがうかがえた。2024-01-25
34信濃国分寺信濃国分寺信濃国分寺本堂は文永12年に起工、万延元年に竣工され、彫刻・絵様は江戸時代末期の特徴が表れている。住宅街の中にあり、訪問した時は人があまりおらず静かな雰囲気だった。思っていたよりも大きく立派で本堂だけでなく周りの石畳や石造からも歴史を感じた。三重塔の前には紅葉が見られ、とても映えていた。上田地域の、雨が少なく太陽が出る気候も国分寺の建設地に選ばれた理由のひとつと考えられる。日本遺産のストーリーにある「太陽」というワードに関連する文化財であると考える。2024-01-25
35砥石城砥石城 今回の記事は砥石城。砥石崩れの舞台である。  砥石崩れは、武田信玄と村上義清の戦であり、信玄の人生で二度目の敗北となった場所である。武田軍は数的有利な状況で砥石城を攻めたが、砥石城はかなりの堅城として知られ、信玄でさえも攻めあぐねた。その後信玄は、援軍に来た村上軍と砥石城守備隊に挟み撃ちされる形となり、這う這うの体で撤退した。  この砥石崩れの後、武田家信濃先方衆である真田幸隆(幸村の祖父)が調略で砥石城を落とした。  実際に行ってみた感想としては、さすがは信玄を負かした城、上るのがとても大変だった。一応道が整備されてはいたが、急な坂や階段が多く、運動不足の私にはなかなかきつかった。  もし、行ってみようという人がいたら、しっかりと覚悟をしてから言った方がいいだろう。ただ、2024-01-25
36常楽寺 石造多層塔常楽寺 石造多層塔常楽寺境内北向観音の出現地にある石造多宝塔のすぐ右がわに、総高168cm、五層のよく整った層塔が一基建っています。これが多層塔といわれる石造塔です。 鎌倉時代に建てられたものです。 一時はこの石造塔群がどこかに流出して、一基も無くなってしまいました。しかし、研究家が捜索する中で滋賀県に一基あることを見つけ、上田市に戻ってきました。 説明には「多層塔の各層の笠の反り、軒の厚み、相輪の形、一層から上層へ次第に減らした安定感など、鎌倉時代の特徴をよくそなえたりっぱな多層塔です。」とあります。 実際に見た感想としては、素朴な感じながらも安定したような、重厚感があるなと思いました。2024-01-25
37長野の観光地の持続性 牛臥川長野の観光地の持続性 牛臥川牛臥川は古来よりたくさんの洪水が起きているところで、様々な対策が行われている場所である。その対策である砂防工事の完成形がとてもきれいで、それは階段工と呼ばれるものである。階段工は名前の通り階段のように連なっている水路でそこに水が流れる様子は実際にみてもとてもきれいだった。そして、その石積技術や景観をもとに、国指定の重要文化財となった。しかし見に行ってみたら、季節的な問題もあるかもしれないが人は全然いなかったためやはり盛り上げていきたいと考えた。2024-01-25
38生島足島神社生島足島神社生き物に生命力を与える生島大神と満足を与える足島大神の二神が祀られている。摂社には諏訪大神が祀られている古社である。 全体的に朱色で統一されていて、景観が美しかった。鳥居から太陽が出ているところを見てみたかったが、タイミングが分からず難しかった。太陽の上る時間、沈む時間は毎日異なるため、大鳥居、西鳥居にそれぞれ太陽が重なる時間を発信したら、神秘的な瞬間を見ることを目的とした集客ができるのではないかと感じた。また、日本中心の石像があったが、生島足島神社が日本の中心とはあまり聞いたことがないので、発信したいと感じた。2024-01-25
39石久摩神社石久摩神社石久摩神社は隣の川辺小学校とつながりが深く、北鳥居の下に埋められたタイムカプセルの中に児童作文があります。 また、東鳥居付近にある上田原自治会館では5年に1度「上田原古戦場祭り」が行われます。2024-01-25
40上田紬上田紬長野県の上田市、飯田市、松本市、岡山市、駒ケ根市周辺などで生産されている絹織物の総称を「信州紬」という。 信州紬の種類として上田紬、飯田紬、伊那紬、松本紬の四種類ある。上田市の上田紬とは江戸時代に信州紬の中で最も有名だった紬の着物である。昔は愛染系の縞柄が基調の着物だったため、「上田縞」とも呼ばれていた。特徴として縞と格子柄で丈夫でしなやかな風合いである。 この上田紬の織りを体験できる場所として「織りの休日俱楽部」がある。そこではストールが作れる。一ヵ月に一回と開催日が少なく、参加費も一万二千円と高めではある。 このような体験は上田市に限らず、他の地域でも行われていることが分かった。 上田紬についてもう少し詳しく調べてみた。 生糸に適さない屑繭を真綿にし、 真綿からつむいだ紬糸2024-01-23
41上田地域の高校の蚕産業についての歴史上田地域の高校の蚕産業についての歴史上田市にある上田東高等学校。旧小県蚕業学校とも言い、農業課程・林業課程・蚕業課程がありました。 学校の校内には蚕業学校時代をしのぶ、しだれ桑が植えられています。さらに、爆撃の際に黒ずみになった欅の痕跡が今も残っています。 そして、この学校の有名な人といえば鈴木敏文さんです。 鈴木敏文さんは、坂城町の生まれで、小県蚕業学校の出身です。また、セブンーイレブンの元社長でもあります。鈴木社長は、創立120周年の時には「変化対応」というメッセージを贈っており、今でも石碑に刻まれています。 創立130周年では、新型コロナウイルスの影響でオンライン開催になりましたが、実際に貴重なお話を聞かせていただきました。 その際、「この学校はとても長い歴史があります。」と言い、実際に学生時代に経験したことを2024-01-23
42常楽寺常楽寺別所温泉・北向観音の本坊。鎌倉時代には天台教学の道場として栄えました。境内には国の重要文化財に指定されている石造多宝塔があります。 階段を上がって最初に目に飛び込んでくるのは茅葺の本堂です。平成15年に修復工事を行った際、建立当時の建築様式に改めました。 堂内には当時そのままの色彩を残す格天井が美しく、ご本尊の妙観察智弥陀如来は、阿弥陀如来には珍しい宝冠を頂く阿弥陀です。 授業の課題で訪れました。2024-01-23
432011年3月「新生上田市5周年」2011年3月「新生上田市5周年」2011/03/22の記録。 平成の大合併により、新生上田市がスタートしたのが2006年3月6日。それまでの上田市は丸子町、真田町、武石村と対等合併し、新たな上田市となりました。 2011年3月、上田市役所には「祝・新生上田市5周年」の垂れ幕が掛けられていました。この旧市庁舎は現在は新庁舎になっています。変わる前の市役所の姿の記録ともなっています。2024-01-21
44紺屋町 八幡神社紺屋町 八幡神社 上田市中央西にある神社。境内には小さな公園もある。  市指定の文化財に指定さている「紺野町八幡社絵馬」が奉納されていた。現在は上田市立博物館に展示されている。 1688(貞享8)年、徳川綱吉が世を収めていたこの時代に当時の上田藩主、仙石政明らによって奉納された大絵馬である。高さは102㎝、幅160cmの大きさを誇り、黒と白の大鷹が描かれている。長谷川派の作者によるもの。 この神社は上田城から見て鬼門の方向にあるため、当時から上田城主に手厚く保護されていたようだ。 近くにはスーパーやホームセンター、喫茶店があるため買い物やお茶ついでにいらしてほしい。2024-01-20
45炭焼き小屋炭焼き小屋2009/02/07、塩田平にある前山寺付近を訪れた際、あじさい小道の入口にある炭焼き小屋に目がとまりました。昔当たり前だった暮らしの痕跡が少なくなる中、冬の仕事だった炭焼きの小屋の石積みが今も残っているのはたいへん貴重です。2024-01-16
46眞田神社眞田神社眞田神社は上田城本丸跡に位置していて、真田氏、仙石氏、松平氏という歴代の上田城主を御祭神としています。なかでも松平家は真田氏、仙石氏のあと、江戸時代の中期から明治時代の廃藩に至るまで、七代で160年以上上田城主であり続けました。そのため、眞田神社は松平(しょうへい)神社と称されていました。 @上田市二の丸1-122024-01-15
47塩田城跡塩田城跡塩田平の南方にそびえる独鈷山の一支脈である弘法山の北山麓にあり、塩田平を一望できる位置にある。鎌倉時代に北条義政が鎌倉から塩田の地に入ったときに居城として築いたといわれているもの。 現在はあじさいの名所として知られ、6月下旬ごろからの見頃には満開のあじさいを見ることができる。 実際に訪れてみて、山の中腹にあるこの石碑から見る眺めは非常に広大だった。北条氏が当時ここから塩田平を眺めていた風景が浮かんでくるような、そんな景色であった。2024-01-11
48上田城跡上田城跡真田昌幸によって築かれた上田城。 この城は真田氏が「関ヶ原の戦い」を含む、二度にわたって、徳川の大軍を追い払った実践経験のある城として有名である。 廃城となったが、現在でも本丸と二の丸には土塁、石垣、堀跡がある。 また、本丸の三基の櫓は昔の姿をとどめており、観覧が可能である(有料)。 堀跡の周りを一周できるように道が整備されており、観光しやすい文化財である。 敷地内や周辺には”真田神社”や”市立博物館”、”児童遊園地”などがあるので 歴史の理解を深めたい方や家族連れなど幅広い方々に楽しんでいただけると考える。 上田市では最も有名な文化財であり、観光スポットであるので まだ訪れたことのない方には是非歴史の一部を体感しに出かけてもらいたい。2023-12-26
49水かけ地蔵水かけ地蔵 旧街道でもある柳町商店街の入り口付近にちんまりとたたずむ一体のお地蔵様。すぐ近くにある湧き水を柄杓ですくい、お地蔵様にかけると縁結びのご利益があるようだ。 この湧き水は明治時代初期に海禅寺の境内から柳町まで地中に敷いた木管を流れてくる「保命水」だという。  隣の石碑には江戸時代の俳人である加舎白雄が柳町で詠んだ句が彫られている。白雄は上田藩主の次男である。 「白壁に 百筋あまり 柳かな」2023-12-21
50高市神社について高市神社について高市神社は、真田昌幸氏が上田城を築いた際に城下の惣町として海野町を造り、商いの守護神として創建されたと伝えられています。高市神社は「運の石」が有名です。運の石を右から左に撫でると悪運を払い、左から右に撫でると開運効果があるそうです。 @上田市中央2丁目92023-12-19
51別所温泉 石湯別所温泉 石湯別所温泉は日帰りで入れる温泉が立ち並んでいますが、その中でも石湯はとてもいい温泉でした。行ったことない人はぜひ行ってみてください。2023-12-07
52上田の文化財 前山寺上田の文化財 前山寺前山寺は独鈷山の山麓に位置しており、塩田平が望める寺である。812年に空海によって開かれたという歴史を持つ。境内には国の重要文化財に指定されている三重塔や天皇陛下の当寺参拝に合わせて作られた長い石段があり、非常に見どころがあった。石段にそっておかれている石碑には心にしみる格言が書かれていた。山麓にあるため寺にたどり着くまで険しい道が続くが、境内に休憩所や売店があるため疲れを癒せる。2023-12-05
532023年度デジタルアーカイブ後期中間作業報告(10/9-11/27)2023年度デジタルアーカイブ後期中間作業報告(10/9-11/27)10/9 先週は日曜日に上田市で開催されたキモノマルシェに参加し、藤本蚕業の史料の魅力についてスライドショーで常時公開しました。中にはスライドショーに興味を持って見たいという人もおり、非常に驚くと共に史料の貴重さについて改めて認識しました。金曜日は藤本蚕業の段ボール史料の整理棚の組み立てを一日中行い、史料展示の再整理について考えました。今後は藤本蚕業史料の解説サイト、及び小諸の史料サイトの開設に向けて動く予定です。 10/23 先週は藤本蚕業歴史館で史料紹介の配信についてテストしました。その中で、史料を紹介するには1人で解説をしながらでは面白さが伝わらず、関心の高い方を介した対話形式で史料について語り合う事で面白さを引き出せることが分かりました。今週は水曜日にKAN-PRO中村さんと話し合いがあり2023-12-04
54【上田市の銭湯】②宮桜の湯【上田市の銭湯】②宮桜の湯突然ですが、皆さんは銭湯に行ったことはありますか? 銭湯というと、富士山の壁画が描かれた、東京の大きな下町銭湯を思い浮かべる人が多いと思います。ここでいう銭湯とは、法律で定められた一般公衆浴場のことです。 ここ上田市にも、地域に根付いた街のお風呂屋さん、銭湯が2軒あります。今回は、日の出町(常田3丁目)の「宮桜の湯(みやざくらのゆ)」さんをご紹介します。 宮桜の湯さんは、イオンスタイル上田や信州大学繊維学部の近くにあります。イオンの前の「信大繊維学部入口」交差点から信大正門の方へ進み、道なりに行けば右手に看板が見えてきます。玄関の「わ」の看板と薪のいい香りは営業中の証。ちなみに夏と冬で暖簾が違うんです。水色地に花火の絵柄が牛乳石鹸制作の2005年夏バージョンの暖簾、紺地に図形が描2023-11-30
55別所温泉にのこる伝承③ ~大師湯~別所温泉にのこる伝承③ ~大師湯~これまで上げてきた、石湯、大湯、とこの大師湯の三つが別所温泉の内湯である。大師湯は慈覚大師円仁が入浴し、病を治療した、という伝承からこの名前が呼ばれている。大師湯は、特に目に関係する病に効くと昔から多くの人々に知られた温泉であった。また、大師湯には、別所内にある、安楽寺の開山樵谷、二代幼牛らの木造が夜な夜な入浴に来たり、大入道が目を洗っていた、など、石湯、大湯とは雰囲気の違った伝承が残されている。  2023-11-30
56男池男池 日本遺産の「塩田平のため池群」の一つである。上田市の池は戦国時代から昭和時代までの間に数多く作られてきた。その背景には、上田地域が全国でも有数の寡雨地域であることがある。一方、雨が少ないため晴天の日が多く、気温も低すぎることは無かった。したがって、肥沃な土地で農業用水を確保さえすれば、水田農業に適した土地であった。農民たちはため池を造成し、男池も農業用水確保のために作られた。男池は、江戸時代に仙石氏が統治していた時に作られたため池であるとされている。江戸時代では、ため池の存在は重要であったため上田藩をあげて作られた。現在の男池は、農業用水として使われ、産川からため池に水を貯水している。男池の貯水量は約50000㎥で、満水面積は約20600㎡、堤高は8mである。  男池が作られた背景を知る2023-11-30
57別所温泉にのこる伝承② ~大湯~別所温泉にのこる伝承② ~大湯~大湯も、別所温泉に存在する内湯の一つである。この温泉は、湯量が多いため、大湯と名付けられた。そしてこの温泉にも数多くの伝承が残されている。昔、猟師に矢を射られたキジがこの温泉で傷をいやした、という伝承から、きじ湯とも呼ばれていた。また、平安時代の武将である木曽義仲とその愛妾である葵の前が戦いの傷をいやすため、大湯を利用し、「葵の湯」とも呼ばれていた。  このように様々な別名を持つ大湯は、現在も公衆浴場として営業中なため、一度訪れることをお勧めする。2023-11-30
58別所温泉にのこる伝承① ~石湯~別所温泉にのこる伝承① ~石湯~石湯は、別所温泉の内湯の一つである。天然の岩石で作られた浴槽を利用するため、石湯と呼ばれている。この石湯には、様々な民話が残されている。  昔、ある季節になると、別所では蛇が作ったとされる道が現れるのであった。ある時、村の若者がこの道を作るものの正体を確かめようとした際、道の終わりに大蛇の抜け殻を発見した。その抜け殻の先に湧き出る温泉を発見したことが石湯の起こりである、と伝えられている。 他にも、岩場から落下した牛が足をこの温泉で癒した伝承から、うし湯とも呼ばれていたなど、様々な伝承が残される温泉である。2023-11-30
59舌喰池の伝承舌喰池の伝承舌喰池は、大池とも呼ばれる塩田平のため池の中の一つである。他の池と比べても名前が一段と奇妙な理由には理由がある。昔、池の水がなかなかたまらないという時があった。その際に、人柱として村の娘が一人選ばれてしまった。その娘は、人柱に選ばれたということを聞いて、悲しみ、舌を食い切って池に身を投げてしまった。この悲しい伝承から、舌喰池と呼ばれるようになったといわれている。  しかし、昭和50年には、池の北側の田から、墓石が4基出土するなど、あながち伝承と言い切ることが出来ないことも、この人柱伝説の怖さなどを伝えているように感じる。2023-11-30
60上田のシンボル 上田城上田のシンボル 上田城上田城は真田昌幸が1583年に築城を開始した城である。関ヶ原の戦いで、真田昌幸が敗れたことにより天守は解体されたが、石垣や櫓は今でも現存している。また、明治時代初頭には陸軍の分営が置かれたが、その後払い下げられた。何度も戦いの拠点となり、時代によって様々な利用をしてきた上田城だが、現在では観光地と上田の歴史資料として利用されている。春の桜は見どころで、満開の季節には全国から多くの観光客が訪れる。2023-11-30
61泥宮と上窪池泥宮と上窪池泥宮は、古くから稲作に使われた泥を神聖視し、上窪池の泥を御神体としている。よって、その目の前にある上窪池と二つで一つのものだといえる。また、生島足島神社とも、江戸時代から関係があり、生島足島神社の旧跡地であったという伝承もある。   神社自体はそこまで大きくはなく、簡素なものであったが、自分が行った時間が夕方だったからか、非常に荘厳な雰囲気があった。昼間の時間に行くことも良いが、夕方の雰囲気もぜひ味わってみてほしい。2023-11-30
62歴史を感じる別所の湯 石湯歴史を感じる別所の湯 石湯別所温泉は古くから温泉街として栄えた町で、その名残を残す建物が多くある。温泉は貴重な資源で、一家に一つお風呂が引けない時代には、外湯という共同浴場が住民の憩いの場となった。別所温泉には外湯が三か所あり、その中の一つが石湯である。国土地理院の地図などを調べると、昔からその場所に石湯が存在していることが分かる。昔からの風情を残す別所温泉にぜひ足を運んでみてはいかがだろうか。2023-11-30
63信濃国分寺に残る、初代・松平忠周の影信濃国分寺に残る、初代・松平忠周の影 信濃国分寺本堂には、上田松平氏の「五三の桐」が描かれた垂れ幕と提灯が掛けられている。上田市立博物館が発行した『松平氏史料展』によると、松平忠周(ただちか)はそれまで損傷していた信濃国分寺の三重塔を、享保11年(1726)3月8日に修復したと書いてある。修復された当時の状態のまま今日まで残されているかどうかはわからない。だが、忠周が三重塔を今見えている形状に正したのは確かだろう。なお、忠周だけでなく、仙石氏や、その後の松平藩主も国分寺を保護・援助している。  私は実際に塔を見てみて、三重の屋根は青銅で葺かれているのではないかと思った。その青緑色と塔の木材部分の茶色の組み合わせは綺麗だった。また、塔のすぐそばには池がある。池側から三重塔を見ると、池の大きさはかなり違うけれど、京都府木津川2023-11-30
64上田市の上室賀にあるササラの湯のイルミネーション上田市の上室賀にあるササラの湯のイルミネーション少し山ですが広くてゆっくりできます。また、今ならイルミネーションもあり、見ごたえもあると思います。ぜひ行ってみてください。 地下1500メートルから湧き出る良質な温泉は、肌がすべすべになる美肌の湯や美人の湯、美粧水の湯などがあり、親しまれています。また、施設には温泉以外にも、食堂や農産物直売所もあり、一日中ゆっくり楽しめる温泉となっている。 また、温泉隣接施設では「そば亀作や」という蕎麦屋が営業している。蕎麦は全て職人が打つ手打ち蕎麦で、蕎麦粉は信州上田産蕎麦粉100%を使い昔ながらの石臼焼き丁寧に仕上げている。2023-11-29
65北向観世音道(別所街道)北向観世音道(別所街道)塩田平保野辺りをはしる別所街道を一本南にずれると、そこには旧別所街道が通っている。この石碑が置かれている場所は(昔の)別所街道と善光寺街道が交差した地点で、市が立ち並び賑わったようだ。 あの武田信玄がこの地を治めた時代があったようで、信玄は保野の3集落をこの道沿いに集め、宿場風の街にしたと伝えられているそうだ。 上田築城以降は上田城下から別所温泉までの重要な交通路となり、湯治・観音様詣、そして集落に繋がる生活道路として使われたようだ。 保野、そして別所街道に、中世から続くこのような歴史が存在したことを知らなかった。たくさんの人がこの道を往来していたこと、そして今も大事に使われていることを感じながら、実際にこの道を通って、別所温泉を訪れるのもよいだろう。2023-11-28
66塩吹池塩吹池上田市保野にある大きなため池。訪れた日(2023年11月23日)には、工事中ということで水が抜かれて、工事車両が入っていた。水が無い分、より池が大きい印象を受けた。また、近くには石祠のようなものが設置されていた。なんのためのものなのかは分からないが、降水の少ない地域なので、雨を降らせる神様のようなものが祀られているのかな、と勝手に思った。とっても広い池なので、水が張られていたらより良い風景が楽しめたのかもしれない。2023-11-28
67大師湯大師湯今回は、別所温泉の「大師湯」を紹介する。ここは、別所温泉にある三つの外湯(共同浴場)のうちの一つだ。 天長二年、比叡山延暦寺の座主円仁慈覚大師が北向観音堂建立のために来錫に訪れた際、好んで入浴したことから大師湯と名付けられたそうだ。 ・源泉名 : 第3号源泉 ・泉質 : 単純硫黄温泉 とあり、源泉が何個か分かれているという気付きを得た。 料金は大人200円、子ども100円と非常に手ごろな価格で、地域住民に長く愛される所以だと考える。また、弱アルカリ性温泉の美肌効果や、源泉かけ流し100%というのも温泉好きを引き寄せる魅力であるだろう。 ただ、シャンプーや石鹸、タオルなどは有料で、ドライヤーも設置されていないことが注意点である。2023-11-27
68氷沢風穴氷沢風穴今回は、別所温泉にある「別所氷沢風穴」に訪れた。 風穴は、春から秋まで蚕を飼育できるように蚕種を低い温度で保存し孵化を抑制させるといった機能を持つ。 実際に訪れてみると、山の中にあり非常に涼しい場所であった。階段から風穴に降りることができた。高さは3m以上、広さは6畳程で、壁となる石と石の間には隙間が空いており、冷気が通っていた。 他にも、氷沢風穴の近くに小規模な風穴の跡が見つけられた。 訪れる際の移動手段には車をすすめる。別所温泉駅から距離がある上に、きつい斜面を登っていくことになるため、徒歩では心が折れる。2023-11-26
69別所温泉を知れる別所温泉センター別所温泉を知れる別所温泉センター今回は、北向き観音付近にある、別所温泉センターを訪れた。石碑には「別所村役場跡」と書かれていた。建物の外観が、倉澤家蚕室と似ているように感じる。 三階建ての建物で、一階にある温泉歴史資料展示室は、入場無料で開放されているため、誰でも気軽に立ち寄れる。 温泉の歴史にまつわる資料だけでなく、塩田平の縄文~平安時代の石器・土器などが展示されていた。他にも岳の幟や、別所温泉の蚕糸業の説明もあり、さまざまなことを学ぶことができる。 以下は、氷沢風穴についての歴史資料をまとめたものである。 1877年以前:すでに風穴があった。最初の穴蔵は1871年創設したという記録もある。 1894年 :倉澤運平、他三名を世話人とし、別所村役場に新しい風穴建設願書を提出、塩田の蚕種家組合である共全会が総額24円40銭を出資2023-11-26
70倉澤家蚕室倉澤家蚕室今回は別所温泉にある倉澤家蚕室に訪れた。中心温泉街のつきあたりに位置する。 蚕種製造家、倉澤運平によって大正5年に建てられ、蚕の飼育や桑の保存に利用されてきた建物である。 温泉街の風景の中で、ここが蚕糸業で栄えた「シルクの里」でもあったことを伝える象徴的存在である。 石積み擁壁の上に建つ二階建ての立派な蚕室で、かつての倉澤家の財力がうかがえた。2023-11-26
715代松平忠学と明倫堂5代松平忠学と明倫堂 この場所にはかつて、松平忠学(たださと)の命によって設立された明倫堂があった。ここで、上田藩の多くの若者が文武教育を受けた。  私が散策したところ、この学校(現在は上田市立第三中学校となっている。)は3種類の石垣によって囲まれているのが分かった。左から二つ目の石垣は、横に長く敷き詰められており、一枚一枚はの厚さは薄く、どれも四角形であった。左から三つ目の石垣と一番右の石垣を比べると、左の石垣は、全体的に白く、配列がきれいである。それに対し右の石垣は、全体的に黒いけれども青、赤、黄などの色の石もあり、また、上にいけばいくほど石の大きさが小さくなっている。配列が乱れている箇所もある。  おそらく左から二番目の石垣は今日に近しい時代に、一番右の石垣は古い時代に積まれたものだろう。2023-11-25
72チームラボ金沢城光の祭チームラボ金沢城光の祭チームラボ金沢城光の祭(公式サイト) 学会で金沢に滞在し、幸いなことにチームラボのイベントが金沢城で開催されていました。11/11(土)、ついでにイベントを体験してきました。前日の雨から一転し肌寒くも幸い好天に恵まれました。大勢の人々が訪れ賑わっていました。チームラボを見るのは1年前、水戸の偕楽園のイベント以来です。趣向はほぼ同じで会場が異なり、どのように違うのかを比べるのも楽しみでした。このイベント、初見の時には感興があって感動的でしたが、2回目は感動はどうしても薄れます。広い会場だけあって今回は卵がめちゃくちゃ多い。卵の狭間に埋もれそうになります。偕楽園の梅林にしつらえられた光の仕掛けの繊細2023-11-17
73DA学会発表「地域デジタルコモンズで拓く知識循環型メディア環境」(2023)DA学会発表「地域デジタルコモンズで拓く知識循環型メディア環境」(2023)▲研究発表資料(PDF) デジタルアーカイブ学会第8回研究大会/一般研究発表 2023/11/10 発表会場:石川県立図書館 前川道博/[B11] 地域デジタルコモンズで拓く知識循環型メディア環境:オープンプラットフォームによる地域アーカイブ化支援を目指して 同予稿2023-11-13
74常楽寺石造多宝塔常楽寺石造多宝塔常楽寺石造多宝塔は、北向観音の出現地とされる常楽寺境内に建てられています。 1292年の作で、大日如来を具現化したものとされています。 静かな山の中のこの場所はまるで別世界。観音様が出現したというのも頷けます。 そんな神聖な雰囲気の境内には学徒出陣した信州大学繊維学部学生の鎮魂碑もありました。 ※拝観料100円を常楽寺境内にある箱に入れてから行くようにしてください。2023-11-08
75常楽寺常楽寺上田市の指定文化財です。 平安時代の始めに北向観音の本坊として慈覚大師(円仁)によって建てられた天台宗の寺で、大日如来の化身妙観察智阿弥陀如来がまつられています。 学問への貢献も知られている寺で、多くの青年僧が学んだとされています。 重厚な茅葺き屋根が神聖な雰囲気を醸し出しています。 寺の裏手の林は北向観音が出現したと言われ、石像多宝塔があります。(100円の拝観料が必要) また境内に美術館も併設されています。(記事作成者が行ったときは残念ながら閉まっていました。)2023-10-31
76風情ある道風情ある道別所神社や常楽寺に至る石畳の道です。地域住民の家々の間を通るように伸びていることが分かるかと思います。 地域文化の中に寺社が密着していることを再認識しました。2023-10-31
77将軍塚将軍塚別所温泉郵便局近くにありました。 古墳時代に、有力な豪族の墓として作られたようです。 素朴ながらも芸術的な小さな石塔が盛り土の上に建てられています。 夕日に照らされ、荘厳な雰囲気を醸し出しています。2023-10-31
78別所神社別所神社別所温泉にある上田市の指定文化財です。 建てられた当時は熊野大宮大社(和歌山県)の熊野大神を祭ったものでした。 後に本殿の後ろにある「男石」、「女石」、「子種石」 も「縁結び」のご利益があるとされ、祀られました。 現在の「別所神社」は明治11年からの名称になります。 熊野大宮大社の分社でありながら、別所の地域文化に根ざしている特殊な神社です。2023-10-31
79上田城跡の桜上田城跡の桜上田城は真田昌幸によって築城された城で、徳川軍の攻撃にもびくともしなかった難攻不落の城です。しかし、その後関ヶ原の戦いで徳川軍が勝利をあげた後、上田城は廃城も同然となってしまいました。その後に、仙石氏により上田城が1620年代に復興され、これがほとんど同じ形のまま今も残っています。上田城跡公園は、そのような歴史を今の視点から見ることができるという点でとても有意義なものです。訪れた時は桜が美しかったですが、城から見える四季折々の自然の移ろいが、戦いに挑む兵士たちを癒やし元気づけたのかなと、昔に想いを馳せました。2023-10-26
802代松平忠愛と尼ヶ淵2代松平忠愛と尼ヶ淵 上田城南側に切り立つ崖の下段には、横に長く敷き詰められた石垣がある。この石垣は、松平忠愛(ただざね)が築造したものだ。享保17年(1732)に大雨で増水した千曲川がこの崖面を大きく削ったため、護岸工事を行ったそうだ。(戌の満水)  上田城南側の芝生広場を訪れた際に感じてほしいのは、江戸時代にはその地に広場はなく、尼が淵という千曲川の分流が流れていたということだ。そのため、崖面を見ることができている我々は貴重な体験をしている。そして、下段の石垣は強固に見えるが、敵が登ってくるのをを防ぐために築かれたのではないことも知ってほしい。  二度の上田合戦や大坂の陣で名を轟かせた真田氏の居城であったからこそ、忠愛は、南櫓、西櫓を崩れささせたくなかったのだろうと私は思った。  2023-10-23
81上田市の景観上田市の景観石畳が美しいですね。2023-10-22
82別所温泉「石湯」別所温泉「石湯」別所温泉には3つの共同浴場がある。その一つの石湯だ。一番山付近に位置しており堂々とした佇まいである。2023-10-20
83解体された大屋駅解体された大屋駅しなの鉄道の大屋駅が解体され建て直されます。5月1日に訪れた際にはまだ古い駅舎のまま残っていました。 ★解体前の大屋駅 2023/05/01 この日7/21に訪れた時には完全に解体されていました。駅舎は完全に取り壊され、大屋駅建設を記録した石碑のみが残されています。駅舎部分の基礎工事が行われている段階でした。2023-09-23
84旅れぽ『津軽滞在記2015』旅れぽ『津軽滞在記2015』マッピング津軽/津軽滞在記2015 今から8年ほど前の2015年8月、青森県弘前市に滞在しました。長野県上田市を発ったのが8月2日、上田市に戻ったのが8月22日、約3週間の滞在です。弘前滞在の理由は家内の実家の整理。その滞在期間に小坂(秋田県)、弘前(以下青森県)、黒石、青森、田舎館、五所川原などを見聞しました。 特に夏の期間でなければ見れない津軽各地のまつり、弘前ねぷた、青森ねぶた、立佞武多(五所川原)、大河原の火流し(黒石)、黒石よされ(黒石)などを記録しました。 それから8年が経過し、記録した画像を見直してみると、津軽という地域を記録したことの価値に気づき、当時の記憶をこのマイサイト『ミッチーのサイト』とは別サイト『2023-10-03
85津軽ねぷたそれぞれの違いを見る津軽ねぷたそれぞれの違いを見る観光資源としても有名な青森ねぶた、弘前ねぷた以外のねぷたを見たのは1997年、黒石ねぷたが初めてです。民俗的な文化でもあるねぷたは、本来的にはそれぞれの地元のまつりであって観光資源ではありません。 1997年当時、黒石ねぷたを『マッピング津軽』(現在は閉鎖)で紹介しました。もしかすると黒石ねぷたをネットに紹介したのは私が初めてかもしれません。 ねぷた(ねぶた)は津軽各地にあります。青森、弘前、黒石、平川、田舎館、大鰐、五所川原、つがる(木造)、…。ねぷた文化がどのように遍在しているのか、当時は知る術もなく、現地に訪れ初めて接しました。観光資源化されたねぷたではなく、土着的な祭りとしてのねぷたを直に見て紹介しようというのがその時の動機。平川(当時は猿賀)や田舎館などにもあることは知っていましたが、2023-08-06
86本陣本陣本陣と書かれた大きな石碑を見つけました。2023-05-11
87石油タンク石油タンク坂城町の国道18号を歩いているととても大きな石油タンクを発見しました。緑色で染められており真ん中にバラの街坂城と大きく書いてあり、遠くからでも坂城町と分かる建造物で素晴らしいと思いました。2023-05-11
88愛宕神社(アタゴジンジャ)愛宕神社(アタゴジンジャ)こちらの神社は上田バイパスの北側に建てられている。神社の周りは木で囲まれており、離れたところからは鳥居のみしか見ることが出来ないようになっている。鳥居をくぐると181段(著者が数えたため正確性は保証できません)の急な階段があった。高齢の方に配慮してなのか階段の東側に階段よりは緩やかな道が作られていた。 登り終えて正面には木造のほこらがあり、左手側に神社が見える。本当であれば神社の正面から撮影を行いたかったが、神社の前はこう配が急な斜面となっており、撮影することは出来なかった。神社西側の裏には石のほこらがあり一円玉のお供えがされていた。2023-05-10
89庚申塔庚申塔庚申塔は、中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石碑である。 この石碑にはほかに、明治の政治家である高橋是清と板垣退助の名や、日光東照宮で有名な三猿の絵も刻まれていた。三猿については、庚申の申にかけて刻まれることが多かったという。2023-05-10
90小松神社の青面金剛小松神社の青面金剛小松神社は、実家のすぐ近くにある小さな神社である。 この地域に住む子供たちにとっては貴重な遊び場であり、私も小学生の頃はよく公園がわりにしていた。 石碑に刻まれている青面金剛は日本仏教における信仰対象のひとつで、日本の庚申信仰の中で独自に発展した。庚申講の本尊として知られる。 神社の軒下につくられたまま放置されたスズメバチの巣は、この地の少子化の深刻さを物語っていた。2023-05-10
91無量寿院の石碑たち無量寿院の石碑たち無量寿院は、阿弥陀仏(無量寿仏)に由来する寺院をさす。写真はその無量寿院のそばに建てられた数個の石碑。 一番左の石碑には日露戦後軍馬紀念碑とあるが、このほかにも馬力神や勝善神といった馬関連の石碑が深程には多くみられ、明治~大正の人々にとっての馬の重要性がうかがえた。2023-05-10
92馬力神馬力神母校の小学校の通学路にある石碑。 馬力神信仰は、栃木県を中心に江戸末期から昭和初期まで盛んだった風習である。 大部分は愛馬の供養のために造立されたものであり、栃木県内に274の馬力神の石碑が存在するという。 石碑には「大正十年七月三十日死亡」とあることから、その時代に建てられたものと考えられる。2023-05-10
93須波三穂神社東の宮(スワミホジンジャヒガシノミヤ)須波三穂神社東の宮(スワミホジンジャヒガシノミヤ)こちらの神社は、上田バイパスを「上田市緑ヶ丘」の信号で南に降りた先の右側に存在する。 須波三穂神社西の宮とは異なり、「神社人」という神社に関わることが記されているサイトに情報が記載されておらず(2023年5月現在)、創建された年は不明である。また、定礎が記されているものも埋め込まれていないため、改装された年なども不明だ。しかし、手水鉢に記されている名前が「絶主 柳澤○右衛門」(○の部分は読むことが出来ませんでした)と西の宮と同一であるため、1770年代には存在したのではないかと推測される。また常夜灯には寛政十年(1798年)と記されていた。 西の宮には存在した石のほこらは東の宮にはなく、代わりに大きな石が置かれていた。2023-05-10
94諏訪神社を散策諏訪神社を散策大通りを少しそれたところに、諏訪神社を発見しました。一礼をしてから鳥居をくぐると、ひっそりとした雰囲気の神社がありました。近くのベンチには、お年寄りの方が座られて談笑しており、地域の憩いの場にもなっているようでした。鳥居からの石畳をよく見ると、人口的な四角い跡を発見。頻繁に見られるので、なんの後なのか非常に気になりました。2023-05-10
95須波三穂神社西の宮(スワミホジンジャニシノミヤ)須波三穂神社西の宮(スワミホジンジャニシノミヤ)こちらの神社は上田市の住宅街と上田バイパスの間に存在している。神社についてまとめられている「神社人」というサイトによると創建は天暦6年(952年)とされていた。その後、何度か改装されているためか、神社の建物には定礎昭和59年(1984年)と埋め込まれており、手水鉢にはおそらく安永2年(1773年)と記されていた。 神社には、賽銭箱と見受けられる物は見当たらなかったが、神社の西側には小さな石で作られたほこらがあり、一円玉がお供えされていた。おそらく、賽銭箱の代わりに石のほこらへお供えするルールがあるのではないかと考えられる。 参考文献 国際教養振興協会ICPA.「須波三穂神社西の宮」. 神社人-日本を楽しむポータル&コミュニティ.http://jinjajin.jp/modules/newdb/detail.php?id=9727(2023/05/10)2023-05-10
96聖・パウロカトリック教会聖・パウロカトリック教会車一台が通れるような道路を進むと教会を見つけました。西洋的な石造りではなく、日本的な木造建築となっています。外国人からもここ軽井沢が、夏場の別荘地として良い場所だと見られていたことがわかります。2023-05-10
97保科のお観音さん保科のお観音さん「清水寺 (せいすいじ)」 長野市の若穂保科にある清水寺に行きました。 ここは、紅葉と牡丹で有名で一度行ってみたかった場所です。 観音堂までの石段は、緑のトンネルのようでした。 秋は紅葉がいっぱいになり間違いなく綺麗だと思います。 今度は紅葉が綺麗な時期に行きたいと思いました。2023-05-10
98大正橋大正橋千曲橋から人通りが減少してきたここまでですが、この大正橋まで来ると賑やかさが戻ってきました。 この大正橋、観光スポットとしても有名です。というのも、「恋しの湯伝説」という言い伝えがある、ロマン溢れるスポットだからです(石碑の写真参照)。橋に埋め込まれた赤い小石を探すのも楽しいかもしれません。 また、とてもデザイン性が良い橋で、橋の名前にもある「大正」のロマンをイメージし、ガス灯を模した橋灯が飾られています。2023-05-07
99武石余里一里花桃の里武石余里一里花桃の里2023/04/21 午前中、空いていたため武石村、花桃の里へ。 駐車場には、県外ナンバーがずらりと並んでいた。自分と同じくらいの歳の人はほとんどおらず、年齢層が高い。 花桃を見て回るコースがあり、ゆっくりと回った。 気温の影響で例年よりも2週間ほど早く見頃になったらしい。2023-05-06
100石刻獅子像(友好のシンボル)石刻獅子像(友好のシンボル)鎌倉時代に中国の寧波から上田市へ禅宗文化を伝えた別所温泉安楽寺開祖の樵谷惟遷らが行き来したという縁などから平成7年2月に上田市は寧波と友好交流都市提携を結びました。 この像は友好交流提携10周年を記念して寧波市から上田市に贈呈されたそうです。上田市からは「上田獅子」の石彫レリーフを寧波市に贈りました。 二頭の獅子がともに向き合っている姿が目に入り撮影させていただきました。2023-05-05
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