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6代松平忠優(忠固)はどんな人物か
下の画像:ミッチーの画像を引用 上田市中央にある願行寺の松平氏の墓所を訪れた。写真に見えるのは、四角い石碑を外して、右手側から、上田藩6代藩主の松平忠優(ただます)またの名を忠固(ただかた)、4代藩主の松平忠済、そして忠済の嫡男で20歳くらいで若くして亡くなった忠英(ただつね)の墓である。この記事では、松平忠固の功績を取り上げたい。 忠固を一言で表すとすれば、幕府の体制を、開国つまり外国と貿易を始めるよう向かわせた人物である(オランダ、中国、朝鮮は入らない)。なぜか。忠固は二度、幕府の中枢つまり幕閣で老中という役職を務めている。そして、忠固の一度目の就任期間時には、幕府は日米和親条約を締結し、二度目の就任期間時には、幕府は日米修好通商条約を締結している。忠固は開国派の立場を
2024-02-08
2
松平忠固
松平家は仙石氏3代の後に上田藩主を務める事になった家である。その中でも特に功績を残したのが忠固であるといえるだろう。忠固は上田藩主だけでなく当時の江戸幕府老中も務めており、条約の締結や、開国が成された際に上田の特産物を貿易に用いようと提案した人物でもある。 参考サイト 上田市立博物館 https://museum.umic.jp/hakubutsukan/ueda-castle-history/03/ 松平忠固史 https://www.matsudairatadakata.com/
2023-01-28
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課題発見ゼミ 12月15日 まとめ
12月15日分 調査まとめ 開国後の日本による生糸輸出と上田の関わりについて 上田藩主・松平忠固と生糸輸出 鎖国を解き、開国を果たした日本が世界に進出する際に大きな武器となった生糸の輸出。それに多大な貢献をした人物が松平忠固である。六代目上田藩主、幕府の老中も務めた松平忠固は、日本開国のきっかけとなった日米和親条約の締結に関わりがあった。この開国をきっかけとして、忠固は上田藩の特産品を諸外国に売ることで利益を上げようとしていた。 その中で注目されたのが上田の「生糸」である。雨が少なく乾燥した地域である上田は江戸時代ごろから蚕種業が始まっており、のちに蚕種業の発展に大きな貢献をした「藤本善右衛門」の家系が先駆けだと言われている。忠固は生糸の輸出を行うことを決め、生糸輸出による利益
2022-12-15
4
第28号『上田小県における感染症の歴史』
上田小県近現代史研究会ブックレット第28号『上田小県における感染症の歴史』 【編著・発行】上田小県近現代史研究会 【発行】2021年12月10日 【定価】600円(税別)上田市内の書店でお買い求めください。 パンデミック(世界的大流行)はこれまでも幾度となく立ち現れ、先人たちもその度に脅かされてきました。多くの命が奪われ、社会活動に支障をきたしました。しかし、その都度全力で立ち向かい、できる限りの対策を講じて乗りこえようとしてきました。なす術もないと思われた時でさえ絶望せず、しばしば神仏に疫病退散を祈り続けました。(略) もう一度各章にわたり取り上げたテーマについて、明らかにできた教訓や課題、厳しい条件の中でも命や暮らし、さらには文化を守るための人々の努力があったことを確認してみましょう。(
2022-03-13
5
まとめ
松平忠固を調べる中で関良基さんの著書『日本を開国させた男、松平忠固』の比重が大きくなってしまったが、本書を読んで、慈悲深い領地運営や開国と交易の主張を貫いた姿勢から忠固の人となりが見えてきた。また、井伊直弼や徳川斉昭、開国、不平等条約改正などさまざまなものの見方が変わったことは収穫だったと思う。歴史から抹消されていた史実が掘り返されると通説が覆されることがあるので、本当の歴史を知っておくためにもそういった情報を仕入れていきたい。 参考資料等 ・関良基著『日本を開国させた男、松平忠固: 近代日本の礎を築いた老中』(1,2番目の記事の写真の出典) https://www.google.com/url?sa=i&url=https%3A%2F%2Fwww.amazon.co.jp%2F%25E6%2597%25A5%25E6%259C%25AC%25E3%2582%2592%25E9%2596%258B%25E5%259B%25BD%25E3%2581%2595%25E3%2581%259B%25E3%2581%259F%25E7%2594%25B7%25E3%25
2022-02-14
6
忠固無名の謎
出典:Wikipedia 岩倉使節団https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%80%89%E4%BD%BF%E7%AF%80%E5%9B%A3 では、なぜここまでの功績を上げた人物の名前が知られていないのだろうか。それは、「明治維新を正当化させるためには、幕府が無能でなくてはならなかった」からである。 私たちはこれまで学校で、外交能力の乏しい幕府が列強に強要されるまま関税自主権がなく、治外法権を認めるような不平等条約を結ばされたと習ってきた。そして、明治維新後の薩長土肥を中心とした新しい国家が、幕府の負の遺産である不平等条約の改正を血のにじむような努力の末に成し遂げたとされてきた。しかし、これは明治政府が明治維新の正当性を国民に信じ込ませるために作り上げた「神話」だった。明治政府は、幕府が無能だったという前提のもとで明治維新というクーデタ
2022-02-13
7
松平忠固とは
松平忠固(1812年~1859年)は上田藩の第6代藩主(上田城主に直すと真田昌幸から数えて11代目)で、日米和親条約と日米修好通商条約の調印時に老中を務めた人物である。最初の老中就任時は「忠優(ただます)」という名で、二度目の時は「忠固(ただかた)」に改名している。 忠固は終始一貫して開国と交易を主張し、徳川斉昭や井伊直弼と対立しながらも二つの条約の調印を断行した。その一方で、養蚕業を推進して海外輸出の地盤を固め、日本経済の礎を築いた。
2022-02-08
8
上田藩第6代藩主 松平忠固
関良基著『日本を開国させた男、松平忠固: 近代日本の礎を築いた老中』 当初、上田藩主をマイテーマとして設定していたが、歴代藩主は扱いきれないため、今回は上田藩主の中でも特筆すべき功績を持つ松平忠固をマイテーマとし、探求してきた成果を伝えていきたいと思う。 基本的な情報源は、関良基著の「日本を開国させた男、松平忠固 近代日本の礎を築いた老中」になるが、私たちが学んできた常識を覆される内容が多くあるので、ぜひ歴史的事実との違いを感じてほしい。
2022-02-08
9
上田と生糸貿易‐1 ~開国、横浜開港後~
上田の生糸は主に横浜港を通じ、世界との貿易に関わることになる。横浜港は1859年に開港したが、上田の商人達は、まさにその直後から横浜で貿易活動を行っていたことが知られている。そこには、当時の上田藩主松平忠固の尽力があったとされる。松平忠固は、日米和親条約、日米修好通商条約の2つの条約締結の調印時に老中を務め、条約締結を急いだ積極的開国派であった。彼のもとで上田藩は開港と同時に生糸の輸出を始め、これにより日本の生糸貿易は上田から始まったとも言われるようになるのである。 画像は「横浜海岸フランス役館之景」(横浜開港資料館所蔵)により URL:https://www.mmdb.net/santo-ueda/mono/cn1/pg45.html
2020-07-08
10
上田と生糸貿易‐0 ~開国前の上田と養蚕~
上田は古くから養蚕業が盛んで、農家の自家用として紬が織られるようになった。これが、「上田紬」である。上田紬は、1660年頃より有名になったといわれ、大島紬、結城紬と並んで、日本三大紬の一つとされる。このように、上田は古くから養蚕と深いかかわりを持っていたのである。 画像は「上田紬」によった。 URL:http://ueda-tsumugi.com/#hajimari
2020-07-08
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松平忠固(2)
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