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1
城山史跡公園 荒砥城跡
千曲市にある「城山史跡公園 荒砥城跡」です。敷地内には、善光寺大本願別院もあります。 荒砥城は、当時一帯を治めていた地方豪族“村上氏”の支族にあたる“山田氏”により、大永4年に築城されたと伝えられています。 城の形は、郭をいくつも連ねて作られる「連郭式山城」という、当時一般的な形式で築かれています。 川中島合戦の中で、武田軍の城となったり上杉軍が支配したりと、目まぐるしい奪い合いの渦中にありました。 入場料は大人一人300円で、車で行くのも少し大変な場所ですが、興味がある方はぜひ訪れてみてください。
2024-05-09
2
上田合戦の上田城
上田城は二度の徳川軍の襲撃を耐え、撤退に追い込むことができた。徳川軍との戦いは上田合戦と呼ばれ、1585年と1600年に勃発した。 1585年の第一次上田合戦は真田と徳川の間で領地問題が発生したことで起きた。徳川軍7000に対し、真田軍は加勢込みで2000弱しかいなかったが、上田城の急な崖と千曲川の増水、狭い道におびき寄せて叩く様々な策略を用いたことで死者を抑え、撤退に追い込んだのである。 第二次上田合戦は関ヶ原の戦いの前であり、石田か徳川のどちらにつくかで石田についたことで起きた。返答と面会を遅らせた上に、あえて徳川軍をおびき寄せてから反撃する策によって、徳川軍に打撃を与え、関ヶ原への到着を遅らせたのである。 上田城のように大きな合戦に二度も勝利した事例は少ない。この勝利は知恵と地の利がもたらしたも
2024-02-12
3
1925年8月に発行された西塩田時報では無線通信分野における、我が国の現状や問題点、将来性や、欧米諸国との比較について言及されていました。詳しく説明すると、従来日本でも無線技術を兵器工場などでの軍用利用にとどめる形で利用してきていたが、秘匿されていました。国民の科学思想の普及を図る目的もあり、この技術が公開され、さきがけとして東京放送局でラジオ放送が開始されました。 この年、長野県でも1か所放送局開設が許可され、年中に上田市の多くの地域でもラジオ放送が聞くことができることが記されていました。
2024-02-07
4
上田城
上田城跡公園は、上田駅から徒歩12分で行くことができる。 上田城は1583年に真田昌幸によって築かれた平城で、上田盆地の中央に位置している。 堀と土塁で囲まれ、出入口に石垣が使われている簡素な城であるが、第一次、第二次上田合戦で徳川の大軍を撃退し、天下にその名が知られる有名な城となった。 春は桜が咲いており、とても綺麗で上田城の見どころのひとつである。 四季によってさまざまな上田城の姿を見ることができる。 上田城 桜
2024-01-28
5
雨宮刑部
上田原の合戦において、村上方の将として奮戦した雨宮刑部正利(あめのみやぎょうぶまさとし)、そのお墓である。 上田原の合戦において、多くの将兵が討ち死にした。上田原には、雨宮刑部の他に、屋代源吾や小島権兵衛など、村上軍の将、武田軍では板垣信方など、いくつかのお墓がある。それぞれ比較的近くに立地しているため、気になっている人は、ぜひ行ってみてほしい。
2024-01-25
6
上田城
真田真田昌幸によって築城された上田城は、徳川軍を二度にわたり撃退した難攻不落の城である。 上田城は自然が多い場所で、夏は避暑地となっていた。 また頂上から見る景色は、上田を見渡すことが出来絶景スポットとなっている。 春は上田城千本桜まつり・秋には上田城紅葉まつりが行われ、多くの人々が訪れ賑わいを見せる。 2009年に公開された映画「サマーウォーズ」では、ヒロインの実家、陣内家お屋敷の門として登場することで話題となった。多くのファンが訪れるスポットである。
2024-01-25
7
上田城内
上田城は、真田昌幸が真田氏当主であった1583年 に築城が開始された平城である。1585年の第一次上田合戦では攻め寄せた徳川軍を撃退し、その後、関ヶ原の戦いの第二次上田合戦でも東軍別動隊の徳川秀忠軍を退けた。のちに天下統一を成し遂げた徳川軍を二度も退けたことにより、「落ちない城」として現代でも語り継がれており、受験シーズンには合格祈願をする受験生で賑わうことが多い。
2024-01-25
8
砥石城
今回の記事は砥石城。砥石崩れの舞台である。 砥石崩れは、武田信玄と村上義清の戦であり、信玄の人生で二度目の敗北となった場所である。武田軍は数的有利な状況で砥石城を攻めたが、砥石城はかなりの堅城として知られ、信玄でさえも攻めあぐねた。その後信玄は、援軍に来た村上軍と砥石城守備隊に挟み撃ちされる形となり、這う這うの体で撤退した。 この砥石崩れの後、武田家信濃先方衆である真田幸隆(幸村の祖父)が調略で砥石城を落とした。 実際に行ってみた感想としては、さすがは信玄を負かした城、上るのがとても大変だった。一応道が整備されてはいたが、急な坂や階段が多く、運動不足の私にはなかなかきつかった。 もし、行ってみようという人がいたら、しっかりと覚悟をしてから言った方がいいだろう。ただ、
2024-01-25
9
上田市千本桜まつり
第20回(2023年)の桜まつりの画像です。 上田城は天正11年(1583)真田昌幸によって築城され、天正13年(1585)第一次上田合戦・慶長5年(1600)第二次上田合戦の二度にわたり徳川の大軍を退けたことで知られています。廃城後は公園となり、現在に至っています。春には約1000本の桜が咲き誇る桜の名所です。 城として使われなくなっても、現在まで、市民の憩いの場として残っていることがすごいと感じました。
2024-01-23
10
上田城跡
真田昌幸によって築かれた上田城。 この城は真田氏が「関ヶ原の戦い」を含む、二度にわたって、徳川の大軍を追い払った実践経験のある城として有名である。 廃城となったが、現在でも本丸と二の丸には土塁、石垣、堀跡がある。 また、本丸の三基の櫓は昔の姿をとどめており、観覧が可能である(有料)。 堀跡の周りを一周できるように道が整備されており、観光しやすい文化財である。 敷地内や周辺には”真田神社”や”市立博物館”、”児童遊園地”などがあるので 歴史の理解を深めたい方や家族連れなど幅広い方々に楽しんでいただけると考える。 上田市では最も有名な文化財であり、観光スポットであるので まだ訪れたことのない方には是非歴史の一部を体感しに出かけてもらいたい。
2023-12-26
11
超誓寺
超誓寺は上田市神畑にある浄土宗系の寺院。京都府にある御末寺を総本山としている。御本尊は阿弥陀如来三尊像。 この寺の由来は、大永年間(1520年代)に足利将軍に仕えていた浦和式部大輔が神畑の山中にあった庵に篭り出家し、超誓道俊と名乗ったことから始まる。深く村人に慕われていた道俊であったが、亡くなると庵、尊像共に参拝する人も減り次第に荒れ果ていった。これを悲しんだ村人は永禄11(1568)年の神畑のこの地に、超誓寺を建立した。ちなみに、この年は織田信長が足利義昭を擁して上洛した年でもある。 境内には宗派を超えてお薬師様と親しまれた薬師如来像が安置されているお堂や武田信玄が川中島合戦に祈願したといわれているお堂もある。 寺下駅からも近く参拝は比較的容易。4月頃の夜になると桜の木がライトア
2023-12-21
12
上田城の歴史
上田城は1583年、真田昌幸によって築かれた。徳川軍による二度の襲撃を、その半数以下で撃退した実績を持ち、その防御力は伊達ではない。 明治以降は払下げられるも、神社、城址として保存しようとする動きが高まり、現在の公園に至る。
2023-11-30
13
上田のシンボル 上田城
上田城は真田昌幸が1583年に築城を開始した城である。関ヶ原の戦いで、真田昌幸が敗れたことにより天守は解体されたが、石垣や櫓は今でも現存している。また、明治時代初頭には陸軍の分営が置かれたが、その後払い下げられた。何度も戦いの拠点となり、時代によって様々な利用をしてきた上田城だが、現在では観光地と上田の歴史資料として利用されている。春の桜は見どころで、満開の季節には全国から多くの観光客が訪れる。
2023-11-30
14
将軍塚
別所温泉郵便局近くにありました。 古墳時代に、有力な豪族の墓として作られたようです。 素朴ながらも芸術的な小さな石塔が盛り土の上に建てられています。 夕日に照らされ、荘厳な雰囲気を醸し出しています。
2023-10-31
15
上田城跡の桜
上田城は真田昌幸によって築城された城で、徳川軍の攻撃にもびくともしなかった難攻不落の城です。しかし、その後関ヶ原の戦いで徳川軍が勝利をあげた後、上田城は廃城も同然となってしまいました。その後に、仙石氏により上田城が1620年代に復興され、これがほとんど同じ形のまま今も残っています。上田城跡公園は、そのような歴史を今の視点から見ることができるという点でとても有意義なものです。訪れた時は桜が美しかったですが、城から見える四季折々の自然の移ろいが、戦いに挑む兵士たちを癒やし元気づけたのかなと、昔に想いを馳せました。
2023-10-26
16
田子の浦とディアナ号
GWに静岡県富士市の実家に帰省しました。 実家から徒歩数分の場所にディアナ号の錨というものがあったので探検してきました。 富士市のHPによると、「1854年12月、プチャーチン率いる外交使節を乗せたロシア軍艦ディアナ号が下田港に来航しました。... 折からの悪天候のため漂流し、1855年1月、現在の富士市沖で沈没しましたが、地元漁民らの救助活動により、外交使節と多くの乗組員は無事に上陸することができました。」とあります。
2023-05-11
17
無量寿院の石碑たち
無量寿院は、阿弥陀仏(無量寿仏)に由来する寺院をさす。写真はその無量寿院のそばに建てられた数個の石碑。 一番左の石碑には日露戦後軍馬紀念碑とあるが、このほかにも馬力神や勝善神といった馬関連の石碑が深程には多くみられ、明治~大正の人々にとっての馬の重要性がうかがえた。
2023-05-10
18
西南戦争をたどる②
田原坂の戦いで敗れた薩摩軍が敗走した道になります。
2023-02-17
19
西南戦争をたどる①
田原坂の戦いで敗れた薩摩軍が敗走した道になります。
2023-02-17
20
真田昌幸
真田昌幸は戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。武田信玄・勝頼に仕え、武田氏滅亡後には自立した。子には真田信之、真田信繁らがいる。 上田合戦で徳川軍を2度に渡って撃退し、徳川家康を大いに恐れさせたという逸話があるすごい人物だ。
2023-02-08
21
別所温泉将軍塚
常楽寺参道入口にある中型の円墳で将軍塚と呼んでいる。この地方の相当の有力者を葬った。墳上には鎌倉時代の七層の石造多層塔が建っている 引用元 Ueda City Database ( 2581070) https://museum.umic.jp/johogura/bessho/2581070/2581070.html
2023-02-04
22
真田幸村
幸村(信繁)は上田城を築いた真田昌幸の次男(信之〔のぶゆき〕の弟)として生まれ、2度にわたる徳川軍による上田城攻撃を父とともに退けている。 そして、大坂の役にあたっては、豊臣秀頼の大坂城に招かれ、徳川勢を相手に華々しい活躍ののちに討死〔うちじ〕にし、名を後世に残した。
2023-02-01
23
向源寺宛武田信玄朱印状
この文書は戦国時代の永禄九年(一五六六)武田信玄が、重臣の三枝〔さいぐさ〕宗四郎昌貞に命じて「武田方の軍勢が向源寺(当時上田原にあった)境内で陣をとることを禁じ、もし命令に背〔そむ〕く者がいたら、子細〔しさい〕(くわしい事情)を申し出るように。」と、向源寺に伝えた朱印状だそうです(資料参照)。 信玄は信濃国へ、幾度か軍勢を出して合戦を繰りかえしています。このようなとき勢力下におさめた地域の主な寺や社を大事に扱うことが、民の心を安定させるために、大切であることを心得ていて、特に寺社に迷惑がかからぬよう、心配りをしていたことを物語る文書として貴重なものです。」 神仏への信仰心がもたらす力は信玄自身が一番実感していたがための行動だったのではないかと考えさせられます。 https://museum.umic.jp/bunkaza
2023-01-30
24
武田信玄願文(県宝)
武田信玄は、上杉謙信との戦いに備えて、東信濃の名社生島足島神社に、願文を献げ、今後の戦について深く祈願するところがあったそうな。 これがその願文で、おわりに永禄2年(1559)と記され、信玄自筆のものといわれています。 「謹んで、下之郷諏訪大明神に申し上げます。私(信玄)は、越後の軍勢(謙信をさす)が攻めてくるので、戦うがよいかどうかト(うらな)ったところ”吉”という卦が出ました。そこでこの天の教えに従って出陣いたします。何卒私の軍に勝利を与えられ、長尾景虎(謙信)が逃亡するようお助けをお願いいたします。もし私が凱歌をあげて帰国しましたなら、今年から10カ年間、毎年青銅貨10緡ずつお社のために上納いたします。」 調べて知ったことですが、信玄は戦国大名の中でも占いマニアだ
2023-01-30
25
ペグーの大臥像に見入る皇軍勇士(『ビルマ作戰 : 大東亜戰史』)
ビルマ(ミャンマー)に侵攻した日本軍が、ペグー(バゴー)の寝仏を見ている写真。 この写真が載っている本には、進軍している様子や戦っている様子、町の状況等の写真が多い。そのため、この写真のように戦いに関係のないものが載っていることに違和感を覚えた。 観光できるほど、英軍に圧勝であると伝えるためだろうか。それとも、ただ単純に近況報告をしているだけなのだろうか。様々な考察ができる。 ▼この写真が掲載されている書籍は以下から参照できます。
国立国会図書館デジタルコレクション 『ビルマ作戰 : 大東亜戰史』,同盟通信社,1942年
2023-01-28
26
はじめに
私は、大正・昭和初期における教育の特色について調べていきたいと思う。西塩田時報の学校行事などについて書かれた記事を参照して、当時どのような教育が行われていたのかを解き明かしていく。また、当時、軍国主義となっていった日本だが、教育にはどのような影響が及ぼされたのかなども詳しく見ていきたい。
2023-01-27
27
大東亜戦争完遂映画会(『西塩田村公報』第5号4項)
農村でも映画会を開き、戦果を伝え、国民の団結力と忠誠心を強めていたと考えると、いかにマスメディアが戦争に利用されていたかが分かる。 上映されていたものはおそらく大本営の戦果発表だと思われる。そのアーカイブはNHKの戦争証言アーカイブス、戦時録音資料で参照できる。 この記事が書かれた当時(1942年5月22日)は、日本軍が優勢であったとされる。アジア・太平洋戦争の転換期であるミッドウェー海戦はこの新聞が発行されて約2週間後に起こる。 NHK「戦争証言アーカイブ 戦時記録資料 勝利の記録」
https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/sp/list.cgi?cat=kiroku
2023年1月25日閲覧 ▼この記事は以下から参照できます。
#930 『西塩田村公
2023-01-25
28
上田市立博物館
上田市立博物館に行き真田幸村(信繋)について学んできました。 真田家は織田、武田、豊臣家など仕える先を転々としており、豊臣家に仕えた時期が一番長かったそうです。 徳川家と豊臣家の関係が悪化してきた頃、幸村は豊臣家に誘われ、大阪城入りをします。 そこで真田丸という砦を城南に作ります。 その後に勃発した大阪冬の陣で徳川を破り、幸村は武名をあげました。 しかし、その後に起こった大坂夏の陣で徳川、真田両軍とも力尽き、幸村は命を落としました。 幸村がどんなことを行った人なのかよく理解していなかったので知ることができてよかった。 このほかにも上田の歴史を様々な面から見ることができて勉強になった。 また、十勇士の中で穴山小助、海野六郎などは実際に絵があったため 存在する人物であったと考え
2023-01-23
29
小学校だより 『西塩田時報』第19号(1925年6月1日)3頁
当時の西塩田小学校生徒の身体測定の結果が載せられた記事。「身体測定の結果が公にされる」こと事態が現代では考えられないことですが、結果についての講評から軍隊としての戦力をほのめかす様な印象を受け、時代の違いを感じられる記事でした。 ▼この記事は以下から参照できます #85
『西塩田時報』第19号(1925年6月1日)3頁
2022-12-26
30
みんな輪になれ
この曲が発売されたのは昭和16年8月とされている。当時の踊りと言えば盆踊りが主流とされていたが軍歌に振り付けを付けて子供たちに教えていた人たちがいたそうだ。まさに軍国世界の音頭である。 ▼この記事は以下から参照できます。 『西塩田村公報』第7号(1943年3月30日)6頁
2022-12-25
31
12月22日分 調査まとめ
上田城の築城・歴史 「日本一の兵」真田幸村を輩出した真田氏は、現在の上田市真田町の周辺を拠点として活動していた。上田城の築城が開始されたのは1583年のことで、真田幸村の父である真田昌幸によって築城が開始された。当時徳川家康に仕えていた昌幸は、その援助を受けながら築城をしていた。しかし、北条と手を組もうとする徳川から土地の受領を要請された際にこれを拒否。徳川と断絶した昌幸は、上杉家に助力を求め次男の幸村を人質に差し出す。これにより、上杉方から戦力と築城の支援を受けた。上田城が一旦の完成を迎えた1585年、家康は鳥居元忠らを真田領に進軍させ「第一次上田合戦」が始まった。およそ1万の軍勢で進軍してきた徳川軍を昌幸は謀略を用いて少数の軍勢で撃退した。時は流れて関ヶ原の戦い最中の1600年、家康の息
2022-12-22
32
海軍一等機関兵勲八等土屋八八郎碑
小諸市大字菱平字稲荷地籍に建てられた土屋八八郎 の碑 土屋八八郎は1883(明治16)年6月10日 北佐久郡大里村生まれ。日露戦争に従軍し、戦艦三笠乗務。1905(明治38)年9月11日佐世保港において火薬庫爆発のため死亡。死亡後勲八等白色桐葉章受章。 三笠の沈没については下記のサイトを参照。 https://www.jacar.go.jp/modernjapan/p10.html
2022-12-09
33
上田招魂社
上田招魂社は眞田神社と同じく上田城内に建立されている神社です。戊辰戦役従軍の戦死者をはじめ日清日露の戦争を経て今次の大東亜戦争に至る間国家の為尊き命を捧げられた5,936人の英霊をまつる御社です。
2022-12-05
34
上田城
真田幸村で有名な上田城。二度にわたる徳川軍を退けた難攻不落の城と呼ばれている。大河ドラマの「真田幸村」や「サマーウォーズ」のモデルとしても知られ、多くのファンから人気の観光スポットにもなっている。春に行ったときは桜が満開で川に移る姿や楽し気な屋台の列が印象的でした。奥に進むと結構大きな神社もあって素敵な場所でした。
2022-12-05
35
旧小県蚕業学校(上田東高校)
旧小県蚕業学校は1892(明治25)年に設立されました。現在の上田東高校の敷地に移転しました。養蚕教師の養成のために建てられた施設です。全国から生徒が集まっていました。1944(昭和19)年に米軍による爆撃を受けて炎上しました。今でもその痕跡が残っています。
2022-11-27
36
上田城
天正11年(1583)真田昌幸によって築城されました。 第一次・第二次上田合戦で徳川軍を二度にわたり撃退した難攻不落の城と呼ばれています。 信州上田真田丸大河ドラマ館が併設しており、信州上田の主たる観光地として観光客でにぎわいます。
2022-10-31
37
上田城の堀の秘密
上田城の堀には1箇所欠けている部分があります。 これは建設当時、風水において縁起の悪い方角を無くす目的があったそうです。これがあったからこそ真田晶幸は徳川軍を退けることができたのかもしれません。
2022-10-29
38
上田城 二の丸跡の歴史物⑤ 青年眞田幸村公之像
幸村の初陣とされる第一次上田合戦頃の、青年・真田幸村をイメージして造型されたもの。彼の眼が見据える先は徳川の大軍である。 <引用文> https://kojodan.jp/castle/60/photo/229664.html 10月21日15時頃にフィールドワークしました。 青年時代の真田幸村を表した銅像。眞田神社すぐ横にある。後ろには、壮大な景色が広がっていてとても綺麗でした。この銅像の場面は幸村の初陣、徳川との戦いを表しています。なんとこの戦いの結果は幸村が勝利を収め、大名として独立を確定させた戦いです。こう言ったことから眞田神社のご利益が「勝負運」なのかと考察できました。
2022-10-27
39
上田城 二の丸跡の歴史物② 東虎口櫓門
天正11年(1583)真田昌幸によって築城された上田城は、第一次・第二次上田合戦で徳川軍を二度にわたり撃退した難攻不落の城。春は上田城千本桜まつり・秋には上田城紅葉まつりが行われ、現在は信州上田真田丸大河ドラマ館が併設しており、信州上田の主たる観光地として観光客でにぎわいます。 <引用文> https://nagano-ueda.gr.jp/uedajo/about.html 10月21日15時頃にフィールドワークしました。 上田城跡に聳え立つ大きな門、この門はなんと、大河ドラマだけでなくサマーウォーズに出てくる門のモデルにもなってるそうです。徳川軍を二度も撃退したなんて、凄く頑丈なことがわかります。歴史的にも、見た目も話題性がとても高い歴史物だと感じました!!
2022-10-26
40
眞田神社
徳川軍から2度も守った不落城の上田城。不落ということから受験に落ちない、として縁起のいい神社である。受験前に訪れた人も多いのではないか。
2022-10-24
41
上田城跡公園
上田市1の観光スポット。真田昌幸が建て、徳川軍から2度も守った不落城である。春には千本桜まつりが開かれ大勢の人が訪れる。
2022-10-24
42
上田城 二の丸跡
上田探検の西部地域の最終地点は、上田城の二の丸跡である。上田市に来たら訪れない人はいないのではないだろうか。第一次、第二次上田合戦で徳川軍を二度にわたり撃退した難攻不落の城。大河ドラマ真田丸でも有名なこの地に、容易にアクセスできることは、非常に貴重なことであると再認した。
2022-10-21
43
現代に繋がる主導的産業の偏移について
幕末の開港によって長野県は地域経済を世界につなげることになった。そこで長野県を国外まで広げる一翼を担ったのは生糸でした。 長野県は外国との交流が始まると、器械製糸を取り入れ、養蚕や蚕種業の技術開発や改良に力を入れました。それで、蚕糸王国と呼ばれることになったわけです。長野県の近代のあゆみは養蚕や製糸業の盛衰に左右され長野県の命綱は、蚕糸業であったと断言して過言ではありません。 長野県の製糸業は県外や外国にまで進出し、日本の製糸の中心となります。なので、長野県内のいたるところの農家では養蚕が営まれました。 蚕糸業は大正時代から昭和初年にかけて全盛期を迎えますが、1929年(昭和4)からの世界大恐慌の影響をうけ、製糸業を営む会社の倒産が相次ぎ、繭価の価値の大暴落のため生活を養蚕に
2022-08-10
44
長野飛行場跡地
長野県長野市大豆島には長野飛行場の跡地があります。長野飛行場は昭和14年に開場され、東京や大阪などに定期便が運行し、その2年後の昭和16年に軍用飛行場として利用されるようになりました。しかし昭和20年、太平洋戦争によって長野市は空襲に遭い、飛行場とその周辺の民家にまで被害が及びました。 戦後は民間飛行場としてセスナ機や鉄道機関、長野県警のヘリポートとして利用されていましたが、平成2年に閉鎖されました。現在は中学校や住宅が立ち並んでおり、一目見ただけでは跡地だとは分からないのですが、当時の滑走路は現在も道路として残っています。 現在の日本は戦争とは無縁のような社会ですが、この飛行場の歴史を知って、戦争というものを少し身近に感じました。
2022-08-09
45
上田城
大きな門がお出迎えする上田城。ここで思い浮かべるとしたら真田一族をおいて他にないでしょう。真田の父、真田昌幸によって築城された上田城は第一次・第二次上田合戦で徳川軍を二度にわたり撃退した難攻不落の城として知られています。NHKの大河ドラマ「真田丸」でも注目を集めました。また、上田城の東虎口櫓門(ひがしこぐち・やぐらもん)はサマーウォーズの陣内家の門のモデルになっています。 観光客の姿は、門付近と真田神社で多くみられましたが、上田城跡公園内は忍者修練場などはあるものの、閑散としていている印象をもちました。 途中に博物館もありましたが、人はあまり入っていないようでした。個人的な感想ですが、資料館には堅い雰囲気があり、気軽に入りずらいということと興味のない人は楽しみ方がわからないと
2022-08-09
46
霊泉寺の由来、『紅葉狩』平維茂との関係
霊泉寺温泉のある霊泉寺の境内に「霊泉寺温泉の由来」「霊泉寺の由来」と題する説明板が立っています。 それによると霊泉寺は「金剛山波羅蜜院霊泉寺と称し安和元年(九六八年)鎮守府将軍平維茂朝臣の命により、空也上人の開山」と伝えられているとのこと。霊泉寺温泉は平維茂の伝説と深い関わりがあります。文楽、歌舞伎の有名な演目『紅葉狩』の主人公平維茂が実在の人物であったことはこの説明からうかがい知れました。また戸隠でなく、ここ霊泉寺にその由来があることにも興味をそそられました。
2022-06-20
47
上田市別所温泉 将軍塚
上田市別所温泉駅から少し登ったところにある。戸隠にいたという伝説がある鬼女紅葉を倒したと伝わる、平維茂の塚。 塚には「朝日さし夕日かがやくそのもとに黄金千枚二千枚」という、朝日長者や徳川埋蔵金伝説に登場する歌と類似した詩が書かれている。別所が衰退し、家屋が残り3軒になったら掘って、埋まっている黄金を使え。3軒になる前に掘り返すと別所が滅びるという言い伝えが残っている。 ちなみに、鬼女紅葉を倒すことに使われた刀は北向観音で授かったとされているそうだ。
2022-05-10
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第28号『上田小県における感染症の歴史』
上田小県近現代史研究会ブックレット第28号『上田小県における感染症の歴史』 【編著・発行】上田小県近現代史研究会 【発行】2021年12月10日 【定価】600円(税別)上田市内の書店でお買い求めください。 パンデミック(世界的大流行)はこれまでも幾度となく立ち現れ、先人たちもその度に脅かされてきました。多くの命が奪われ、社会活動に支障をきたしました。しかし、その都度全力で立ち向かい、できる限りの対策を講じて乗りこえようとしてきました。なす術もないと思われた時でさえ絶望せず、しばしば神仏に疫病退散を祈り続けました。(略) もう一度各章にわたり取り上げたテーマについて、明らかにできた教訓や課題、厳しい条件の中でも命や暮らし、さらには文化を守るための人々の努力があったことを確認してみましょう。(
2022-03-13
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はじめまして
関西在住ですが、父方の先祖が上田出身で、本籍地とお墓が上田にあります。年1回ぐらいのペースでお墓参りのためお邪魔しています。曾祖父が人物伝56に掲載されている、鈴木志津衛です。 個人的にいろいろ調べているところ、このサイトをみつけて登録させていただきました。 曾祖父のことで、調べて判明したこと、残しておきたいことなど、投稿していきたいと思います。もしご縁がある方がいらっしゃっれば、共有できると嬉しいです。 このサイトを開設いただきありがとうございます。 早速、曾祖父の写真を掲げてみます。 中央髭の人物です。軍人のようですが・・・
2022-02-21
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小学校でのくじ引き
祖母の通っていた小学校では進駐軍が児童をグラウンドに集めてくじ引きによって物資を配給していたそうだ。ノートなどの学習道具が多かったが高価な景品だと靴があったらしい。
2022-02-14
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日米和親条約と日米修好通商条約
出典:Wikipedia 下関戦争https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E9%96%A2%E6%88%A6%E4%BA%89 最後に、忠固が関わった二つの条約について詳しく見ていきたい。 日米和親条約の調印前に忠固(当時は忠優)は徳川斉昭との論争を制し、城中評議の場で五年後の交易承認という結論が出ていた。評議の翌日、斉昭は抗議の意思から参与辞職の意向を、自らの参与就任を推薦した老中首座の阿部正弘に伝えた。これを受けて阿部は、参与辞職を思いとどまらせるために会議の結論を覆し、交易の承認をしないという決定をした。そして日米和親条約は交渉術で勝った日本がアメリカから譲歩を引き出し、漂流民の人道的な扱いや食料・薪水・石炭の供与、長崎・下田・函館の開港などの内容に留まった。日米和親条約締結後、斉昭はアメリカの条約に基づいた「下田三箇条」と呼
2022-02-14
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ごはんのようい(『西塩田時報』第178号(1938年9月10日)2頁)
第169号(1937年12月25日)の辺りから急に戦争ムードに突入し、「戦線」「陸軍」「兵隊さん」などととてもレシピどころではない言葉が並んでいた『西塩田時報』であったが、その中に一つほっこりする記事を一つ見つけた。 「尋二西」とあること、この記事が小学校便りであることから、おそらく書き手は10歳以下であろう。そんな子供が、母の頼みを聞いて、妹と思われる「やい子」と一緒にご飯を炊き、茹でたとうもろこしを妹と二人で食べるという内容である。 発行された当時にも、この記事を読んで心が癒された人は多かっただろう。 ▼資料出典元 #792
『西塩田時報』第178号(1938年9月10日)2頁
2022-02-09
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上田紬について③
上田紬が高級品になった背景 終戦後、まだ衣類が欠乏していた頃、商工省は京都のコブラン機とともに上田紬など数種を、技術保存織物として自由商品に指定した。 などの数種を、技術保存織物として自由商品に指定した。農家の家内生産によって、ほそぼそ自家用を織りだす程度であって、絹紬が機業として再開していく機会が、なかなか熟さないでいた。このとき昭和24~5年頃から、神科出身で元蒙古自治政府最高顧問をされた故金井章次氏は、軍放出の真綿を利用して糸を紡ぐことを提唱、農村副業による手織りのなかから紬織りの再興を考えた。草木染の紬織りを現代に生かそうと苦心をされる一方、草木染料や媒染材の化学研究をされて、生産量の増大や、新販路の開拓のことに努力をはらわれた。江戸時代からの上田縞・上田紬の名声は、特
2022-02-09
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呉の歴史~昔と現在の比較2~
現在は、「マリンジャパンユナイテッド呉造船所」となり、大型船舶の建造を行っている。また、2005年には、呉市が後世に技術を伝えるために、「呉市海事歴史科学館」、通称「大和ミュージアム」を開館した。現在では、多くの観光客が訪れる人気観光スポットになっている。 出典:「海軍とともに発展した呉の街」 https://smtrc.jp/town-archives/city/hiroshima/p07.html
2022-02-09
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呉市の歴史~昔と現在の比較2~
これは、「呉海軍工廠」の様子。1889年に「呉鎮守府」が設置されるとそのもとに、「造船部」が置かれた。1903年に組織され、「呉海軍工廠」が誕生。東洋一の設備を誇り、ドイツの「クルップ」とならび、「世界の二大兵器工場」と称されるようになる。巨大戦艦「大和」、戦艦「長門」、航空母艦「赤城」などの海軍を代表する戦艦を数多く建造した。 出典:「海軍とともに発展した呉の街」 https://smtrc.jp/town-archives/city/hiroshima/p07.html
2022-02-09
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2 文明開化
この時代は西洋の文化が日本に浸透し始め、現代につながる様々な変化が生じた時代です。 食や服飾、建築などの文化において西洋の要素を取り入れ、模倣し、日本のものを取り入れるなどをして洋風に変わっていきました。 服装に関しては軍人や役人、上流階級の人の間には制服や礼服として早くから洋服が広まっていきました。庶民の間では着物が一般的であり、外で洋服を着ている男性も家では和服に着替える等の例もあったそうですが、髪型は明治に入り大きく変わりました。「散髪令」によってちょんまげを切ることが強制されました。男性は誰もが洋風の短髪になり、それに合わせて山高帽などの帽子も流行るようになりました。 女性は明治に入っても着物に日本髪が主流でしたが、化学染料を使った染物や西洋風の模様が取り入れられ、
2022-02-08
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戦国時代の上田城
戦国時代、天才的な軍略家として称された真田昌幸が、上杉家に対抗するため徳川家康を説得し、上田城を築城した。上田城の築城構想は、実に巧みなものとなっている。 千曲川の北岸一帯は、神川や矢出沢川が作った谷間にある、勾配の大きな扇状地となっており、千曲川の河岸段丘となっている。そのため、大外堀の役割を果たしているため、簡単には攻め込まれない。城の南端でも、千曲川の分流が高低差の大きな岸をつくっていることや、対岸や東側も難攻不落の地となっている。 この時代から土地を生かした築城がされていたとは驚きで、上田の土地柄ならではのことであると感じた。 参考文献・資料 ・
信州街あるき 上田城址を訪ねる
・
上田城跡
2022-02-04
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呉市の歴史~昔と現在の比較1~
同じ場所で撮影されたものである。現在の写真の方が、「灰ヶ峰」が確認できるが、いずれも絵葉書の姿とは異なっている。 現在、この「四ツ道路」には多くのお店が存在するが、人口の減少により、シャッターが下りている店も多く、これからの呉市の課題といえる。 出典:「海軍とともに発展した呉の街」 https://smtrc.jp/town-archives/city/hiroshima/p07.html
2022-02-08
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呉市の歴史~昔と現在の比較1~
この場所は呉を代表する「四ツ道路」の交差点を撮影したもの。左手にあるのは、「呉本通郵便局」、奥には標高737mの「灰ヶ峰」がそびえたち、当時山頂には防空砲が設置されていた。また、この灰ヶ峰の高さにちなみ、呉市の郵便番号は737である。絵葉書上では、灰ヶ峰の部分が加工されている。 1909年には、県内初となる市内電車が呉に開通する。 出典:「海軍とともに発展した呉の街」 https://smtrc.jp/town-archives/city/hiroshima/p07.html
2022-02-08
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第二次世界大戦以後の上田紬
第二次世界大戦以後の上田紬 終戦後、まだ衣類が欠乏していた頃、商工省は京都のコブラン機とともに上田紬など数種を、技術保存織物として自由商品に指定した。 などの数種を、技術保存織物として自由商品に指定した。農家の家内生産によって、ほそぼそ自家用を織りだす程度であって、絹紬が機業として再開していく機会が、なかなか熟さないでいた。このとき昭和24~5年頃から、神科出身で元蒙古自治政府最高顧問をされた故金井章次氏は、軍放出の真綿を利用して糸を紡ぐことを提唱、農村副業による手織りのなかから紬織りの再興を考えた。草木染の紬織りを現代に生かそうと苦心をされる一方、草木染料や媒染材の化学研究をされて、生産量の増大や、新販路の開拓のことに努力をはらわれた。江戸時代からの上田縞・上田紬の名声は、特有
2022-02-08
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第二次世界大戦以後の上田紬
終戦後、まだ衣類が欠乏していた頃、商工省は京都のコブラン機とともに上田紬など数種を、技術保存織物として自由商品に指定した。 などの数種を、技術保存織物として自由商品に指定した。農家の家内生産によって、ほそぼそ自家用を織りだす程度であって、絹紬が機業として再開していく機会が、なかなか熟さないでいた。このとき昭和24~5年頃から、神科出身で元蒙古自治政府最高顧問をされた故金井章次氏は、軍放出の真綿を利用して糸を紡ぐことを提唱、農村副業による手織りのなかから紬織りの再興を考えた。草木染の紬織りを現代に生かそうと苦心をされる一方、草木染料や媒染材の化学研究をされて、生産量の増大や、新販路の開拓のことに努力をはらわれた。江戸時代からの上田縞・上田紬の名声は、特有の風合や柄模様にもあったが
2022-02-08
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上田紬が庶民的なものから高級品になるまで~戦後以降~
第二次世界大戦以後の上田紬 終戦後、まだ衣類が欠乏していた頃、商工省は京都のコブラン機とともに上田紬など数種を、技術保存織物として自由商品に指定した。 などの数種を、技術保存織物として自由商品に指定した。農家の家内生産によって、ほそぼそ自家用を織りだす程度であって、絹紬が機業として再開していく機会が、なかなか熟さないでいた。このとき昭和24~5年頃から、神科出身で元蒙古自治政府最高顧問をされた故金井章次氏は、軍放出の真綿を利用して糸を紡ぐことを提唱、農村副業による手織りのなかから紬織りの再興を考えた。草木染の紬織りを現代に生かそうと苦心をされる一方、草木染料や媒染材の化学研究をされて、生産量の増大や、新販路の開拓のことに努力をはらわれた。江戸時代からの上田縞・上田紬の名声は、特有
2022-02-08
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呉市の歴史
呉市は、湾の周辺が島と山に囲まれ、背後には丘陵があり、敵の攻撃を防ぐうえで良好な場所ということで、設置された。 「此呉湾ヲ除キテ他二ナシ」という言葉が残されていることからも分かるように、軍港に最適であったということが伺える。 また、軍事機密ということで湾岸部の詳細な部分は、地図上からは消されるという修正が加えられた。 出典:「海軍とともに発展した呉の街」 https://smtrc.jp/town-archives/city/hiroshima/p07.html
2022-01-29
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6 松根油の生産について
画像は「長崎ディープブログ「長崎街道11~松並木と松根油と」」から転載 http://blog.nadeg.jp/?eid=43&imageviewer&image=20171028_726412.jpg 年表・数字からひもといた中で、特に「航空燃料用の松根油」の生産に関して注目したいと感じた。 興味を感じた理由は下記の二つである。 ①自分の生まれ育った地域、しかも長野県の山の中で航空機の燃料を作っていたことを全く知らなかった。日本の山奥で航空燃料を生産するに至るまでに、どのような経緯があったのか調べたい。 ②のちに記すが、坂井村誌内の記述によると、私の実家の近く、小学校の通学路の橋の袂で生産を行っていたらしい。そのためより身近に感じた。
村誌内の記述
下記は坂井村誌内に記述されている、松根油に関する記述である。 -------------------- 松根油 昭和20年に入ると、松根
2022-01-29
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呉市の歴史
広島県呉市は、面積35,318平方キロメートル、人口213,640人と広島県三番目の都市。 平安時代に遣唐使の往来があったことや、平清盛が関係した「音頭の瀬戸」からも分かるように、古くから海と船にゆかりのある地域である。 明治時代には、海軍の拠点の一つとして海軍の鎮守府を置き、軍港と共に発展を遂げる。 海軍開庁時に、人口も増加に転じ、ピーク時には400,000人にも上り、職人だけで30,000人もいたが現在は半減し、尚も減少傾向にある。 終戦後、「旧軍港転換法」の成立により、現在の産業の発展の糧となる。 海軍の施設は、観光資源としても再利用され、毎年多くの観光客が訪れる。 2016年には、映画「この世界の片隅に」がヒットし、再び注目を浴びる。 出典:「富国強兵とひろしま~軍港呉~」 https://www.pref.hiroshima.lg.jp/uploade
2022-01-29
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5 数字からひもとく
昭和16年 関東軍特別大演習 →兵力約70万が動員(wikipediaより) →坂井村からは予備役・後備役補充兵役の16名が召集。軍服ではなく作業衣や浴衣を着て部隊に集合せよという状態であった。(村誌より) 日支事変以来の大戦での坂井村の戦没犠牲者 108名(村誌より) →昭和22年の臨時国勢調査による統計によると、昭和21年の坂井村総人口は2,998人 →正確な数字ではないが、人口のおよそ3%が戦争によって命を落とした
2022-01-29
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4 年表からひもとく
坂井村誌内の年表を一部引用し、特に重要な部分をまとめた。
昭和12年(1937年)
・
盧溝橋事件が勃発。村内の予備兵に召集下令があり、村内に一気に緊張感が流れた。
・銃後後援会(後に奉公会)結成、村防護団結成・応召家庭の農作業奉仕。 ・軍の指示により、初めて防空演習が行われる。 ・国防婦人会結成(全村)、国民精神総動員長野県実行委員会(会長・県知事)坂井村支部(支部長・村長)結成。 ⇒日中全面戦争の開始に伴って始められた、国民の戦争協力を促す官製国民運動。「精動」と略されることもある。1937年(昭和12)8月第一次近衛文麿(このえふみまろ)内閣は「国民精神総動員実施要綱」を閣議決定し、同年10月「挙国一致、尽忠(じんちゅう)報国、堅忍(けんにん)持久」のスローガンのもとに国民精神総動員
2022-01-29
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犬もヒトと同じ扱い!?
ヒトだけが戦争に動因されるのではなく犬も戦争に協力させられてた!? 今でこそペットというイメージが強いが当時は軍犬になっていた… ヒトだけでなく犬も戦争には散々… 参考文献:https://www.city.sapporo.jp/kobunshokan/kankobutsu/documents/ronkou3-2.pdf 写真4-2 勝つために犬の特別攻撃隊を!と呼びかける隣組回報 昭和19年11月 八王子市郷土資料館提供
2022-01-26
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小島大池(こじまおおいけ)
小島大池は塩田平の中でも大きなため池であり、1618年に造られたものである。そんな小島大池の1689年に起きた事件についての民話を紹介していきたい。 下之郷山から降りてきた沢山の猪によって田んぼが荒らされ、田んぼの稲を守ろうと玉の入っていない鉄砲を一発打った。驚いた猪は小島大池に飛び込んでしまい、22匹のうち5匹が溺死してしまった。 騒ぎが大きくなり上田藩に届け出たところ、役人から「入念に猪の死骸を埋め、猪が死んだ理由を書いた木札を立て、周りを竹矢来で囲みなさい」といった処置が命じられた。 なぜ猪のためにこれほど大騒ぎになったのか。それは、当時徳川幕府の将軍綱吉が「生類憐みの令」を出しており、動物に危害を加えた場合重い罰が与えられたからである。 なお、小島大池に実際に行ったところ、現在工
2022-01-26
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会見之地
真田と徳川の合戦のなかで国分寺が登場するのが第二次上田合戦。この地で1600年9月(慶長5年)「国分寺の会見」が行われたとされている。真田が徳川秀忠の軍を足止めしたことで秀忠は関ヶ原の戦に間に合わず、後の家康と秀忠の関係に影を落としたそう。
2022-01-26
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壮行會
こちらの記事は小學校での行事を示した記事である。 今と少し異なるところが5月27日と3月10日に行われた行事だ。 5月27日には海軍記念日として登山を、3月10日には陸軍記念日として記念講話を行っている。これらはどちらも軍を重んじた行事であり、小學校からこのようなことが行われていたと言うことを生の資料から受け取ることができた。 記事はこちらから https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p0078.jpg
2022-01-25
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現役兵
この記事は塩田の村における現役兵を示したものである。 大勢の方の名前が記されているが、私が疑問に思ったのは左側に書かれている「海軍」についてだ。筆者は横須賀という文字から神奈川に配属された兵だと考察をした。なんとなく海がある県の方が適していると感じているが、長野県は海無し県であるのにも関わらず海軍に任命されるのが少し疑問に思った。 記事はこちらから https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p0003.jpg
2022-01-25
73
大湯
見つけた温泉の2つ目がこの大湯だ。別所温泉にも同じ名前の温泉があり、見つけたときは驚いた。こちらには養遐齢という大きな額があり(撮り忘れました)、意味としては「養遐」が長生き、長寿を意味し、この大湯に入り長生きをするようにという願いが込められている。この額は陸軍軍医総督の松本順によって書かれたものになる。
2022-01-23
74
呉市の歴史
地元である呉市は、日本でも数少ない軍港であり、かつてはとても栄えており、昔の貴重な資料や、町の良さを投稿することで、多くの人に見てもらうことができると考え、テーマに選んだ。 軍港としての街ということを中心的に探究していきたい。
2021-12-18
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「銃後の完璧 体位向上の秋!本団体育大会 見よ堂々の戦華を」(『西塩田時報』第190号(1939年10月1日)1頁)
当時行われた体育大会の結果の様子を掲載した記事。全体的な種目は現代とほぼ変わらないが、中には「手りゅう弾投げ」のような非常に軍事色のある種目も行われ、競い合っていたことが分かる。このようにスポーツにおいても戦争の色が濃くなっていることが示されている記事を地域ニュースとして保存されているのは歴史的に非常に価値があり、次世代への教訓にもなると感じた。
2021-12-14
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靑年團廻れ右!軍隊化を目指す文相新體制案 (『西塩田時報』第203号(1940年10月1日)1頁)
この記事は、政府が地方を把握しきれていないと批判し、改善を提案している。 国民を機械にすることが新体制であるとまで言っており、日本が強くなる過程で国民が政府に絶対服従することは容認しつつ、逆に政府も完璧であることを求めているところが興味深い。 ▼この記事は以下から参照できます。 #907
『西塩田時報』第203号(1940年10月1日)1頁
2021-12-14
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あいそめの湯②
信州最古の温泉といわれている別所温泉であるが、あいそめの湯に飾られていた別所温泉の歴史が書かれたものがあったので、自分でも深く調べてみた。 別所温泉は景行天皇の時代、日本武尊の東征の折りに発見されたといわれている。または平安時代(794年-1185年)中期の女流作家、清少納言によって書かれた「枕草子」にある「湯は七久里の湯、有馬の湯、玉造の湯」という一節の中の「七久里の湯」が起源ではないかという説もある。 12世紀に入ると別所は木曽義仲(源 義仲)信州を平定するために派遣した軍勢によって火を放たれ、多くの寺院建築が灰になってしまったが、大悲殿ならびに安楽寺の八角三重の塔だけは焼失をまぬがれた。その後、焼失した別所の寺院は源頼朝、次いでに塩田北条氏によって再建されることとなった。そして、こ
2021-11-16
78
上田城の歴史
上田城は、真田幸村の父、真田昌幸によって1585年に完成したと考えられている。初め徳川家康のもとで上杉に対する城として築かれたが、沼田領の帰属をめぐり、徳川と手切れとなり、その後上杉方の城として完成した。 その直後、徳川の大軍が上田城を責め、第一次上田合戦(神川合戦)が勃発したが、昌幸の巧みな戦術により徳川軍は大敗した。また、1600年には関ヶ原合戦の前哨戦といえる第二次上田合戦が起こり、徳川秀忠率いる3万8千人の軍勢が攻め寄せたが、これも見事に退けた。この徳川との二度の合戦に勝利したことで、真田と上田城の名は、天下に知られるところとなった。
2021-11-14
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上田城 真田神社
中心部に位置する場所に真田神社があります。真田神社は徳川軍を二度も破ったという功績から、「不落城」にあやかり受験生に人気な神社になっています。そこの神社では、コロナウイルスの影響か、鈴が非接触型のパネルになっていて時代の流れを感じました。また、その奥には真田井戸や西櫓があります。
2021-11-12
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上田城の歴史
上田城は天正11(1583)年真田幸村の父である真田昌幸によって築城され、天正13(1585)年第一次上田合戦・慶長5(1600)年第二次上田合戦の二度にわたり徳川の大軍を退けたことで知られています。 二度もの実戦経験があり、上田城のような戦歴を持つ城は全国でも珍しく、他に例がありません。 関ヶ原の合戦後、上田城主は真田信之となり、以後には仙石氏(三代)、松平氏(七代)と代わり、廃城後は公園となり現在に至っています。
2021-10-29
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人物47 世良田亮
安政五年を以て上田に生る。(略)明治十年米国留学を命ぜられ、同十四年卒業、後二ヶ年間欧州を歴遊し、同十六年帰朝し、海軍中尉に任ぜられ(略)、海上には彼の巨艦鎭遠等其功績に大なるものありき。(略) 『上田市史・下巻(1940)』1261頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌 人物篇
2021-07-19
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松川(福島県)
松川は、山形県米沢市および福島県福島市を流れる一級河川です。写真は福島市で、国道4号線の上を通る松川橋とともに撮影したものです。近くの中学校の校歌の歌詞に入るほど、昔から身近な川として、花火大会が開かれるなど地元の人々に利用されてきました。 また、1600年に起きた関ヶ原の戦いとともに松川の戦いが展開された地でもあることを初めて知りました。上杉景勝率いる西軍上杉軍と、福島に攻め込んできた伊達政宗率いる東軍伊達郡による戦いが「松川の戦い」です。 登下校で毎日通っていた橋の下で、過去には戦いがあったことを知ると、これまでとは違った思いで通ることができます。
2021-05-05
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上田蚕種-2
上田蚕種協業組合事務棟の説明文。建物の特徴について説明されている。上田蚕種株式会社は時代の進行に伴って蚕糸の中心地から軍需工場、そして戦後の名称変更等、様々な役割を担っていた。このような建物の存在は、主に20世紀における上田の様相の変化を知るうえで重要であると考える。
2021-05-05
84
上田城跡公園
徳川家康が上杉氏に対抗するために築城した。その後上杉に奪われ増築されている。真田氏が第一次上田合戦時、徳川の軍を撃退。現在残っているモノは江戸時代に再建されたモノらしい。堀は深く出入り口も限られているため、責めるのはとても苦労したことがうかがえる。自然豊かで、落ち着いているため観光目的でも休憩目的でも立ち寄る価値は十分あると思う。
2021-05-05
85
戦争を伝える松(東山)
第二次世界大戦末期に、枯渇している航空機の燃料を松脂から作ろうとして傷つけられた松。大戦末期の日本はここまで追い詰められていたのかと実感させられた。自身が見たモノは大分傷が見えなくなってきており、写真や映像などでしっかり記録し伝える必要があると感じた。
2021-05-05
86
仁古田飛行機製造地下工場跡
第二次世界大戦中、空襲で被害を受けた名古屋の航空機工場を移設するために建設された。内部に入ることはできない。他にもあったようだが老朽化によって崩れてしまったらしい。中は暗く、とても不気味で自分は間際まで近づくことができなかった。
2021-05-05
87
上田飛行場跡
第二次世界大戦中、軍用機の訓練場として利用された飛行場。現在は上田千曲高等学校などになっており、元関係者、地元住民により「碑」が建てられた。今現在は町とし上書きされてしまっており、面影もなくなっている。飛行場があったということを伝えるためにも、碑はとても重要だと感じた。
2021-05-05
88
高田城址公園観桜会
高田城址公園は高田城の城跡公園です。明治42年、在郷軍人会が第13師団の入城を祝い、城跡に2200本の桜を植えたのが観桜会の前身と言われています。 また、日本三大夜桜と呼ばれており、お城と桜のコラボレーションが見られたり、桜ロードを楽しむことができます。現在では約4000本の桜があり、ほとんどがソメイヨシノです。昼間に見る桜もきれいですが、おすすめはライトアップされた夜桜です。
2021-05-04
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上田城跡公園
上田城は、徳川の大軍を2度にわたって退け、日本全国に名を馳せた真田昌幸の居城です。 現在は城跡公園として整備され、上田市の観光拠点になっています。
2021-05-03
90
超誓寺
浄土宗の寺で、本尊は阿弥陀如来。 足利将軍の臣 浦和式部道俊が神畑大銅山 山中の庵に篭り名を超誓道俊とした。そして村人に深く慕われていた道俊の亡き後にこれを悲しんだ村人たちがこの地に寺を建立し、超誓道俊をしのび寺名を超誓寺とした。
2021-05-03
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上田招魂社
この上田招魂社は戊辰戦役従軍の戦死者をはじめ日清日露の戦争を経て今次の大東亜戦争に至る間国家の為尊き命を捧げられた人々の英霊をまつる御社。 真田神社の近くにあるため、向かった際にも足を延ばしてみてはどうでしょう。
2021-04-25
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地域学講座④みんなで地域探求ネット展示披露会
左:「みんなで地域探求ネット展示披露会」(前川道博) 右:「著作権と資料の権利処理」(久世均)
第4回 2月27日(土) みんなで地域探求ネット展示披露会 13:30 本日の説明 13:35 ミニ講義:著作権と資料の権利処理 14:05 受講者のキュレーション成果披露・講評Q&A 15:00 (休憩) 15:10 成果披露・講評Q&A(続き) 15:40 認定資格デジタルアーカイブ・クリエイター について 15:50 まとめ講評、これからに向けて 16:30 終了 <講師> 久世均さん(岐阜女子大学教授) ミニ講義「著作権と資料の権利処理」 小平千文さん(上田小県近現代史研究会会長) 成果披露の助言・講評 <みなさんの地域探求ネット展示> ★buchiさん
南牧村の歴史と満蒙開拓
★オリサさん
2021-02-27
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上田松本間に計画された鉄道
大正8年(1919年)に泉田村に提出された、鉄道敷設に関する意見書の内容を まず前置きとしては、 ・上田松本間はもともと2つの県道で旅客や貨物の輸送が盛んだったが、信越本線と篠ノ井線ができたことによって衰退した。 ・世の時勢が交通機関の発展を促している ということが述べられている。 この路線が開通した時のメリットとしては、 ・沿線に浅間温泉、別所温泉、田沢温泉、沓掛温泉などの年間の観光客が10万人を超える観光資源がある ・沿線に石炭などの特産品が少なからずある ・信越本線と篠ノ井線の半分の距離しかない (関東と濃尾地方の連絡にも大きな利点がある) ・篠ノ井線が塩沢の辺りなどで地盤崩壊が起きるときにバイパスとして機能する (軍事的にも利点である) ことが挙げられている。 当時沿線で石炭の
2021-02-27
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十二方作命丙第五八号 七月二十二日
上田附近三菱重工業に関する件 昭和20年7月22日 http://www.nids.mod.go.jp/military_history_search/Viewer 十二方作命丙第五八号 七月二十二日 1 第8野戦輸送隊を、十二方作命丙第30号による上田付近、三菱重工業会社第5製作所分散防護工事協力期間を約1か月延長す。 2 第8野戦輸送隊長は前号工事のため、自動貨車役20両に応ずる人員を増強すると共に、引き続き該工事に協力すべし。 また左記により兵力を差し出し宇都宮地区における、皇国第1814工場の資材疎開輸送を援助すべし。 左記 (イ)差出兵力 将校の指揮する自動貨車役20両 (ロ)差出期間 約一週間 (ハ)所要自動車燃料は工場側の負担とす。 3 細項に関しては関係機関相互協定すべし 第十二方面軍司令官 田中静壹 下達□印刷交付(工場側には宇都宮師管
2021-02-23
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•探求計画
•探求計画 –探求タイトル 上田が軍事的にどのように扱われてきたか –探求のねらい 特定の地域を、日本全体からどう扱い、地域からどう扱われたか、上田を一つの例として係わりを調べ、他地域との比較などをとおして、軍事史研究の参照例としたい。 –探求の計画 具体的には未定 他の研究との吻合を測りながら進め、相乗効果を期待したい。 –参照予定の資料 具体的には未定 進捗に合わせて参照して行きたい。当面、ネットを通じて予備的に収集する。いずれ必要なものがあれば上田の公文書館も利用したいが、国会図書館や防衛研究所を調べることが先になると思う。
2021-02-20
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国立小諸療養所(現小諸高原病院)の旧門柱
陸軍軍医学校小諸療養所が前身だったのですね。 病院の沿革はこちらにでています。 http://bit.ly/2JNq6Hn 沿革 昭和18年7月31日 陸軍結核治療研究機関として建物が落成 昭和19年1月19日 陸軍軍医学校小諸診療所として開所し、結核患者を収容 昭和20年12月1日 終戦に伴い厚生省に移管され、国立東京第一病院小諸分院となる 昭和25年4月1日 国立小諸療養所と改称 国立菱野療養所を分院とする 昭和29年12月25日 菱野分院を閉鎖 昭和36年3月31日 精神病棟を併設 昭和38年4月1日 精神療養所に転換 昭和52年7月1日 重症児病棟併設 平成5年11月1日 老人性痴呆疾患治療・研修事業施設の指定 平成6年4月1日 研修施設群による精神科臨床研修病院 平成7年4月1日 老人性痴呆疾患治療病棟開設 平成12年4月1日 精神科救急病院 平成12年8月1日 応急入院指定病院 平成16年4
2020-12-08
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千曲公園
奇岩として有名な半過岩鼻の上にある公園です。頂上に着くまでは、細くて狭い曲がりくねった道がひたすら続いていました。途中片面がガードレールのない道もあり、日曜の夜に放送しているぽつんと一軒家を思い出しました。 頂上からの景色は、千曲川と上田盆地が一望できる絶景でした。日本百景にも選ばれているそうです。また、この地は武田軍と村上軍の間で激しい合戦が行われた古戦場であるらしく、古戦場巡りスポットの一つとして訪れるのも楽しみの一つだそうです。 紅葉のシーズンということもあり、とても綺麗でした。夜景も絶対に綺麗だと思うので機会があれば行きたいですが、夜道には気をつける必要があると思いました。
2020-11-18
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上田城の堀
上田城は上田合戦で徳川軍に2度勝ったということで有名ですが、この深い堀を実際に見るといかに上田城が攻めにくい城であったかということが分かりました。
2020-11-05
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上田城
上田城は徳川軍を二度にわたって退けたことで知られているのだそう。 駐車場から上田城に向かうけやき並木遊歩道は紅葉した木々に囲まれていてきれいだった。 写真は本丸東虎口に復元された櫓門。
2020-11-04
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上田城 真田神社
上田城本丸跡にある神社で、真田・仙石・松平の歴代上田藩主を祀っているそうです。 真田神社は、徳川の大軍でも攻め落とされなかったことから「落ちない」縁起をかついで受験生などに人気になっているようです。 また、絵馬のトンネルもあり、幻想的で見ごたえがありました。内容は受験に関することが多かったです。わたしもこれから資格取得や就活の時にはお参りしようと思います。
2020-11-03
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