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1下之郷駅下之郷駅生島足島神社に合わせた朱色の駅舎が特徴的で可愛らしいです。上田電鉄の本社と車両基地があり、運行上の中心駅です。かつては西丸子線との分岐駅でした。西丸子線の廃線後もホームはそのままの姿が残っています。2024-02-13
2丸子の蚕業を支えた鉄道丸子の蚕業を支えた鉄道かつて上田小県では蚕業が盛んだったことは有名です。現在は廃線のため存在しませんが、当時それを支えた鉄道路線がありました。丸子では製糸業者によって丸子鉄道という会社が設立され、丸子線が建設されました。この路線は旅客だけでなく、丸子で生産された生糸などを東京に輸送する役割がありました。しかしモータリゼーションによって衰退し、廃線になりました。写真は丸子駅跡地とその名残です。2024-02-10
3北本原駅と駅前食堂北本原駅と駅前食堂北本原駅は真田線の駅です。この駅では野菜など貨物の取り扱いが行われていたそうです。駅の跡地前には駅前食堂という食堂があり、廃線となってから50年以上たった現在でも地元住民に愛されている。20年近く真田に住んでいる私ですが、ここのもつ煮は食べないと損です。2024-02-10
4上田交通真田傍陽線廃線跡上田交通真田傍陽線廃線跡上田駅と真田駅を結んでいた路線。1927年に開業し1972年に廃止された。現在では遊歩道として整備されている。 実際に訪れたことで上田の繁栄の歴史や当時の姿を感じることが出来た。2024-02-02
5上田城のトンネル上田城のトンネル上田城の外側の堀ですが、実は昔電車が通っていました。上田交通真田傍陽線(さなだそえひせん)という電車が50年間走っていました。 廃線となったのは1972年だそうです。なんか懐かしい感じ。知らんけど。2022-10-29
61路線だけ生き残った鉄路1路線だけ生き残った鉄路長野県上田盆地には始め五つの路線が張り巡らされていた。車社会の進展にともない昭和40年代までに次々と廃止となったが、唯一残ったのが別所線であったという。 しかし、昭和48年、輸送人員の減少を理由に上田交通が廃線を表明した時があった。沿線住民による存続運動が起こり、翌49年、国と県による鉄道軌道欠損補助の公的支援とともに、上田市が3年間の補助金を交付することで、別所線存続が決まった。3年後の昭和52年にも、沿線住民により存続運動が行われたが、この時点では上田交通の営業努力で赤字幅が減少していたため、廃線を免れている。 [参考文献] https://www.mintetsu.or.jp/association/mintetsu/pdf/63_p26_27.pdf [写真] https://www.city.ueda.nagano.jp/site/besshosen/5563.html2022-02-06
7上田別所線を掘り下げ、広めたい上田別所線を掘り下げ、広めたいこの本は上田小県近現代史研究会が15年ほど前に、上田別所線の歴史をまとめた本だ。 この本を読めば上田の歴史を知ることが出でき、どれだけ地元の人に愛されてきたかが分かる。 今上田の観光地となっている別所温泉街の原型は別所線開業後に、温泉を新たに掘削して完成した。 この本によれば上田別所線は昔、丸子線や青木線など様々な路線がありましたが、バス交通の発達に押され次々と廃線となってしまいました。しかし、別所線は住民たちの存続運動などのおかげもあり、今もなお走り続けています。 参考文献 夢と暮らしを乗せて走る別所線2022-01-24
8上田駅周辺の変化上田駅周辺の変化今回中心として見ていく上田駅は、1888年(明治21年)に官設鉄道の長野駅-上田駅間の開業に伴い、終着駅として開業した。 いままで様々な線の始発駅や途中駅、終着駅として昔から現在まで活躍している。 上記の画像は2021年(令和3年) 1月26日にGoogle Mapで上田駅周辺を見た状況となっている。現在どのようになっているのかが分かる。 今回発見した1922年(大正11年)の上田市全図では、市役所や小学校・中学校などの主要な建物が上田駅周辺に集まっていることが資料から分かった。 また、上田駅が上田停車場と記載されている。この上田停車場という言葉で調べてみると、上田駅お城口を出てすぐの長野県道162号上田停車場線が出てきて、日本一短い県道とされているという情報を知ることができた。 次に発見した1928年(昭和3年)の大日本職業別明細図2021-01-27
9上田城東側の遊歩道上田城東側の遊歩道上田城と二の丸通りの間にある遊歩道の写真。 昭和3年から昭和47年まで走っていた路線の廃線跡地で、当時の駅のホームらしき石造りの建造物を見ることができる。欅の木やモミジを楽しみながら散歩を楽しむことができる。2020-10-30
10上田藩主/老中・松平忠固の墓上田藩主/老中・松平忠固の墓2018/05/10、願行寺にある松平忠固の墓を訪れました。上田藩主・松平忠固(1812~1859)は2度に渡り、老中をつとめた人物です。老中の職にあった時に、日米和親条約(1854年締結)、日米修好通商条約(1858年締結)を結んだことの功績は極めて大きい。日本が列強と互角に対し、列強並みの好条件で列強と貿易協定を結んだことは、その後の日本の近代化を決定づけたと言ってもいい。貿易を推進し、殖産興業を推進しました。 上田における松平氏に対する関心の低さは、この墓の状況が端的に物語っています。かつての願行寺は上田城と対峙するように大手町~海野町の旧城下町のメインストリートの対極に位置し、海野町の通りはその門前のように位置していました。しかし、その道筋が真っ直ぐに貫通し、願行寺の真ん中は道路によって分断されました。さら2020-07-18
11水面の亮岸に(神川橋梁橋台跡)水面の亮岸に(神川橋梁橋台跡)勢いよく流れる川のほとり。 奥に見える橋台とは別に、手前の方にも何かコンクリートの塊があるのが見える。 これも形は違うが橋台である。 本来ならば振り向いた反対側にも橋台跡があるのだが、こちらは個人所有の地で、行ったときには新しい塀ができてしまい見えなくなってしまっていた。 廃線跡の遺構はいつまでもそのまま変わらずに残る、というものではない。 次々に消えていくものを追いかける、そんな風に言えるのではないだろうか。2020-07-15
12愛される鉄路(曲尾駅跡)愛される鉄路(曲尾駅跡)植物に半ば埋もれるようにして、たたずむこちらの看板。 曲尾駅の駅名と、その両隣の駅名が刻まれている。 廃止になった後で地元の人々が設置したようである。 当時の遺構が1つもない曲尾駅において、駅がここにあったことを伝える大切な役割を果たしている。2020-07-15
13思わぬ発見(傍陽線神川の橋跡)思わぬ発見(傍陽線神川の橋跡)真田傍陽線の跡を辿るために自転車をこぎ、ふと右を見ていたら、突然視界によく見た形の構造物が現れた。 これはどう見ても、橋の橋台である。 だが、事前に調べた情報には一切なかった。 驚きと喜びと興奮、困惑が入り乱れる。 廃線跡探索の大御所やほかの方々のサイトには載っていなかったし、Googleマップのストリートビューで見たときも分からなかった。 そんなものが、自分の目の前に存在している。 これだから廃線跡探索はやめられないのだ。2020-07-15
14時代が変われど物流を支え続ける(真田傍陽線真田駅跡)時代が変われど物流を支え続ける(真田傍陽線真田駅跡)道路の脇にひっそりとある、草に覆われた石垣のようなもの。 よく見れば上にはトラックが停め置かれている。 ここは真田傍陽線の2か所ある終点のうちの片方、真田線の真田駅跡。 この石垣は当時のホームである。 人々や貨物が行きかったホームも、現在はトラックの駐車場となって目立たぬ存在となっている。 時代は変わってしまったが、鉄道が廃止となって半世紀が経とうとしている現在でも、地域の物流を支えている。2020-07-15
15駅がないのに「駅前」?(駅前食堂)駅がないのに「駅前」?(駅前食堂)壁一面に貼られた、古ぼけた写真。 そして、ところどころ塗装の剥げた大きなライト。 ここは北本原駅があった場所のそばにある、駅前食堂。 とっくの昔に駅がないのに「駅前」という不思議なお店だ。 壁に飾られた写真は真田傍陽線の現役当時のもので、写っていない範囲にもたくさんあった。 また手前にある大きなライトは実際に電車についていたものなのだそうだ。 値段がかなりお手頃価格で、しかもとても美味しい。 菅平高原への道中にふらりと立ち寄ってみるのもよいかもしれない。2020-07-15
16役割は変われども(伊勢山トンネル)役割は変われども(伊勢山トンネル)入口が板でふさがれたトンネルが存在する。 真田傍陽線では唯一のトンネルであった、伊勢山トンネルの跡である。 建設時にルート変更が行われた結果、この山をトンネルで貫く険しいルートとなり、工事の難易度が上がってしまった。 そのため、開業当初はトンネル手前の伊勢山駅が終着駅であった。 廃線後は、キノコの養殖場として使用されているようである。2020-06-24
17叢の中で眠る(樋之沢駅跡)叢の中で眠る(樋之沢駅跡)生い茂る野草の中、何かコンクリートの細長いものが見え隠れしている。 ここは、樋之沢駅のホーム跡である。 真田傍陽線が開業した時は唯一、列車の行き違いができる駅であった。 草に覆われていてわかりにくくなっているが、赤い丸の部分にホームが残っていて、黄色の線のようにレールがあった。(レールは現存せず) 今回は夏に近い時期に訪れてしまったため、草の枯れた冬にもう一度訪れてみようと思う。2020-06-24
18近き水面のそばで(矢出沢川橋梁の橋脚)近き水面のそばで(矢出沢川橋梁の橋脚)勢いよく流れる川のそばで、護岸の一部が飛び出している。 かつては川を渡る橋を支えていた、橋脚である。 くぼんだ部分に鉄骨の橋げたが乗せられ、その上を毎日電車が人々や物資を載せて行きかっていた。 現地で見ても写真で見ても思うのだが、橋桁の下の面があったと思しき高さから水面までがとても低いようである。 現役時代にはいったいどのような景観をしていたのだろうか、などと妄想にふけるのもまた楽しいことだ。2020-06-24
19縁の下の力持ち(架線柱の基礎)縁の下の力持ち(架線柱の基礎)苔むしたコンクリートの塊から飛び出る、錆びた金属片。 これも実は真田傍陽線の遺構である。 電車には当然電気が必要であり、その電気を電車に送るために必要なのが、架線という電線である。 その架線を吊り下げる柱、重い架線柱を支えていたのがこのコンクリートの基礎なのである。 上田城の堀の区間では、確認できたもので5つも残されていた。 全国数ある廃線跡の中でも、こういったものがこれだけ残っているところはそう多くない。 ここはとても貴重な場所なのだということをもっと広めていきたいと考えた。。2020-06-22
20堀から鉄路、遊歩道へ(公園前駅跡)堀から鉄路、遊歩道へ(公園前駅跡)切通しの底にある、立派な石のトンネルと低い石積みのホーム。 ここは公園前駅の跡。 元々は上田城の二の丸掘りであったところに、1927年に真田傍陽線が通された。 トンネルに見えるのは上田城址公園への橋で、側面上部には電線を通すための碍子(がいし)も残されている。 廃線後、現在はケヤキ並木遊歩道として整備され、人々の憩いの場所となっている。 城の守りの要から人々の生活の足へ、そして憩いの遊歩道へ。 不思議な人生(土地生?)もあるものだ、と考えた。2020-06-22
21支え続ける、足元で(古レールの車止め)支え続ける、足元で(古レールの車止め)お城のほど近くの月極駐車場。 やけに細長くまっすぐな土地、そして車止めに使われているのはなんと鉄道用のレールだ。 ここも、上田交通真田傍陽線の廃線跡のうち1つである。 電車は上田駅を出てから北へ進路を変え、ここを通ってお城の堀を登って行った。 昔は電車を、今は車を支える存在となった古レール。 半世紀前に、確かにここには鉄道が通っていた。 その歴史の生き証人として、今日も静かに横たわっている。2020-06-22
22市街地の片隅に遺るもの(上田交通真田傍陽線の橋脚跡)市街地の片隅に遺るもの(上田交通真田傍陽線の橋脚跡)上田市の中心部にほど近い、川沿いの遊歩道。 歩いていると突然、まっすぐ続く護岸の中に他とは違って出っ張った、左右対称のコンクリートの柱が現れた。 これは、今から約90年前に開業し約50年前に廃止された、上田交通の真田傍陽線の橋の跡である。 このコンクリートの上部のくぼんだ部分に鉄骨でできた橋げたが乗せられ、その上を毎日電車が走り抜けたのであった。 こういった遺構は、多くの場合には再開発の際に取り壊されてしまったりするものであるが、ここでは遊歩道の一部として再整備されている。 片方の柱は柵が取り付けられて遊歩道の一部に、もう片方は民家の敷地となっている。 このようなものが、市街地のしかも中央郵便局のすぐ近くというような発展した場所に残っているというのは、 全国的に見てもかなり珍しい2020-06-02
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