こたのサイト

12月22日分 調査まとめ

12月22日分 調査まとめ

上田城の築城・歴史
「日本一の兵」真田幸村を輩出した真田氏は、現在の上田市真田町の周辺を拠点として活動していた。上田城の築城が開始されたのは1583年のことで、真田幸村の父である真田昌幸によって築城が開始された。当時徳川家康に仕えていた昌幸は、その援助を受けながら築城をしていた。しかし、北条と手を組もうとする徳川から土地の受領を要請された際にこれを拒否。徳川と断絶した昌幸は、上杉家に助力を求め次男の幸村を人質に差し出す。これにより、上杉方から戦力と築城の支援を受けた。上田城が一旦の完成を迎えた1585年、家康は鳥居元忠らを真田領に進軍させ「第一次上田合戦」が始まった。およそ1万の軍勢で進軍してきた徳川軍を昌幸は謀略を用いて少数の軍勢で撃退した。時は流れて関ヶ原の戦い最中の1600年、家康の息子である秀忠は関ヶ原への道中にある上田城に進軍を開始した。「第二次上田合戦」の始まりである。この戦いでは再び昌幸の知略が発揮され、徳川秀忠は関ヶ原の本戦に送れることとなった。このように徳川との二度の戦に耐え抜いたとされる上田城であるが、関ヶ原で西軍が敗戦した後、昌幸と幸村は和歌山県の九度山に幽閉となり、徳川に接収され一度は取り壊されることとなった。

上田城の復興・現在までの変遷
関ヶ原の後、初代上田藩主となった真田信之(幸村の兄)は上田城ではなく、新たに居館を構え(現在の上田高校の土地)滞在していた。その後信之は松代へ転封されることとなり、上田城は放置されることとなった。しかし、真田氏の後に上田藩主を受け継いだ仙石氏が1626年に上田城の復興を開始した。完成こそしなかったが、今に続く上田城の姿の多くを修繕した。その後、明治期には払い下げが行われるなどの事態があったが、本丸の大部分を所有していた丸山平八郎氏により公園・神社用の土地が寄付され、現在の上田城跡公園の礎となった。

参考サイト
上田城の歴史https://www.city.ueda.nagano.jp/soshiki/shogaku/2378.html

上田城年表 制作:上田市マルチメディア情報センター
https://museum.umic.jp/vruedajo/history.html

真田昌幸の歴史
https://www.touken-world.jp/tips/36824/

登録日:2022-12-22 投稿者:こた
地区コード上田地域(上田市)
ハッシュタグ
(キーワード)
ライセンスこのライセンスは原作についてあなたに対するクレジットの表示を行う限り、あなたの作品をリミックスし、改変し、あなたの作品を使って新しい作品を作ることを許すものです。これはもっとも懐の広いライセンスです。ライセンスされた資料の流通・利用の最大化のためにお勧めしています。 表示(BY)
投稿者こた
管理番号16
カテゴリ名未設定
地図で見る
情報を探す
キーワード
同じキーワードを持つ記事
上田城跡公園の夜桜

上田城跡公園の夜桜