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1姨捨駅2008/05/06姨捨駅2008/05/062008/05/06の記録。 JR篠ノ井線の姨捨(おばすて)駅。Wikipediaによると姨捨駅が開業したのは1900年とのこと。「田毎の月」で知られれる姨捨の棚田が眼下に広がり、姨捨駅からは善光寺平が一望できます。日本三大車窓と呼ばれるほどの景勝スポットです。さらにスイッチバック方式の全国的にもめずらしい駅です。 何と言ってもホームから展望する善光寺平の景色は絶景です。ホームのベンチが鉄道側にでなく、善光寺平に向かって設置されている点にもご注目を。篠ノ井~名古屋間を電車で移動する際には姨捨付近を通過します。その夜景も素晴らしい。鈍行の電車は、スイッチバックして姨捨駅に停車します。このスイッチバックもぜひ体験してみたい。 参考資料:Wikipedia/姨捨駅 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%A8%E6%8D%A8%E9%A7%852024-02-13
2梅花幼稚園2008/06/22梅花幼稚園2008/06/222008/06/22の記録。 梅花幼稚園は上田市内にあるキリスト教主義の幼稚園です。1900年に開設されました。現在の園舎は1903年に建てられた歴史的建築です。現存する全国の幼稚園の園舎の中では大阪市立愛珠幼稚園の園舎(1901年竣工)に次いで日本で2番目に古い園舎です。幼稚園の隣には蚕糸業の発展に貢献した三吉米熊(1860-1927)邸があり、クリスチャンでもあった三吉米熊は梅花幼稚園との関わりもあったようです。蚕糸業で古くから栄えた上田の歴史を物語る歴史的スポットです。 参考資料: 学校法人梅花学園梅花幼稚園http://www.baikayouchien.com/ Wikipedia:大阪市立愛珠幼稚園 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%B8%82%E7%AB%8B%E6%84%9B%E7%8F%A0%E5%B9%BC%E7%A8%9A%E5%9C%922024-02-10
3塩田平で発見、猫瓦では?塩田平で発見、猫瓦では?塩田平の前山寺近くのところでふと目にとまったこの瓦。猫瓦ではないでしょうか? むろんこの地域、旧「西塩田村」も蚕種製造、養蚕は盛んだったわけで、まだまだ猫瓦が残っている可能性があります。 蚕種製造が盛んだった塩尻地区、特に上塩尻に猫瓦が多く残っていますが、塩田平にもあるのですね。昔の画像を何気なく見ていたらパッと目にとまりました。思いがけない発見です。(2009/02/07記録)2024-01-16
4黒坂周平先生像黒坂周平先生像塩田平の前山寺近くに「黒坂周平先生像」が設置されています。黒坂周平先生(1913-2003)の功績をたたえ、平成9年(1997年)「黒坂周平先生頌徳事業発起人」「同実行委員会」が建立したものです。平成7年(1995年)建立の「筆塚之記」もあります。地域史研究に大きな功績を残され、数多くの方々から尊敬を受けたことが伝わってきます。(2009/02/07記録)2024-01-16
5現役の蚕種製造企業:上田蚕種株式会社現役の蚕種製造企業:上田蚕種株式会社 上田蚕種は1918年(大正7年)に創業後、世界恐慌、太平洋戦争などの激動の時代を経て日本の蚕種製造を支えてきました。現在も蚕種製造業を営んでいる数少ない企業の一つです。 2023/06/15記録。 現役の蚕種製造企業は上田蚕種(上田市)、高原社(松本市)、冨田蚕種(福島県伊達市)の3社のみです。2023-06-17
6六十里越街道を歩く六十里越街道を歩く 2004年5月「六十里越街道を記録する会」矢野光夫氏一行と残雪の六十里越街道を歩きました。  国道112号線の月山沢トンネル左手に作業道があり、この付近より旧街道が残っている。ここから手前はダムに水没しているので、街道の跡が現存しているのは椿沢が実質の起点になっていると言えよう。この道を500mほど登ると一本木茶屋跡がある。2022-02-03
7サントミューゼができる前サントミューゼができる前サントミューゼは、昭和24~56に操業していたたばこ産業(株)の上田工場(JT)跡地だそうだ。JTから工場跡地の活用を上田市に打診し、再開発が行われ公共ゾーンとして建てられたのがサントミューゼだ。また、JT以前、上田が蚕都として栄えていた頃は金紡の上田工場だったらしい。上田市マルチメディア情報センターのYouTubeでは、当時の様子を見ることができる。工場で働く女性の姿、彼女らが広場でダンスする様子、少し映り込んだ上田城などが映像で記録してあった。2022-02-02
8信州上田学・地域連携パートナー事業アグロフォレストリープロジェクト活動記録2信州上田学・地域連携パートナー事業アグロフォレストリープロジェクト活動記録2信州上田学〜地域連携パートナー事業アグロフォレストリープロジェクトでは、長野大学地域づくり総合センターと(一社)信州上田里山文化推進協会が連携して、古くから自然と調和していきてきた先人の知恵を伝承し、次世代の若者が地域資源を活用して自らの力で未来を開いていくための人づくり、地域づくりを行っています。  塩田平・別所温泉地区を中心に、上田市は、「レイラインがつなぐ太陽と大地の聖地〜龍と生きるまち」として、日本遺産になっています。学生たちも龗や九頭竜大権現を祀る男神岳、女神岳に抱かれた民話や雨乞い祭り、文化財について学びました。   今年の8月、10月には、ボランティアガイドの会など他の地域団体とも共同して、日本遺産に認定された塩田・別所地区の文化財についてレイラインの観点から方位や日2022-01-05
9戦争を伝える松(東山)戦争を伝える松(東山)第二次世界大戦末期に、枯渇している航空機の燃料を松脂から作ろうとして傷つけられた松。大戦末期の日本はここまで追い詰められていたのかと実感させられた。自身が見たモノは大分傷が見えなくなってきており、写真や映像などでしっかり記録し伝える必要があると感じた。2021-05-05
10塩田平のため池:舌喰池と里山の秋塩田平のため池:舌喰池と里山の秋2012年10月の記録。この時期、ため池は池干しされて地面が丸見えになっています。さらに塩田平の遙か彼方に広がる浅間山から烏帽子岳の山々の美しいこと。独鈷山の山麓に緩やかに広がる棚田の景観、里のたたずまいなど風情があります。いつもの見慣れた風景とは感じられるものが違っていました。2020-07-31
11野球と蚕糸業野球と蚕糸業1927年に建設された上田市営野球場。蚕都上田の隆盛があって、地元に野球場が出来る。キモノマルシェで旧常田館製糸場の鉄筋繭倉庫を現存する長野県最古の鉄筋コンクリート造の建物(1926年=大正15年)として紹介したばかり。なるほど、この野球場の建物に接する鉄筋コンクリート造の橋はその竣工年がその翌年(1927年=昭和2年)になっています。蚕都上田の隆盛を背景に当時としてはまだ数少なかった鉄筋コンクリートの建造物が建造されたことがわかります。 野球と蚕糸業。この視点で知り得ているのは諏訪蚕糸学校(現岡谷工業)の甲子園での輝かしい準優勝の記録。校名に「蚕糸」とあることからもはっきりとその学校の背景がわかります。蚕糸業による経済的繁栄があって、野球が盛んになったことが物語られています。 (2016/10/28投稿2020-07-18
12下塩尻蚕種製造民家群の佇まい下塩尻蚕種製造民家群の佇まい2017/11/27の記録。日本一の蚕種製造地を私は「上塩尻蚕種製造民家群」と呼んできましたが、より包摂的には「塩尻地区蚕種製造民家群」と呼ぶのが適切です。本日、日本ナショナルトラストのUさんが上田に来訪され、地元の方と塩尻地区(秋和・上塩尻・下塩尻)を見聞しました。 下塩尻はこれまであまり見聞したことがなく、地元のMさんの御案内で私も認識を新たにしました。下塩尻は北国街道沿いばかりでなく、千曲川沿いの一帯に「蚕種製造民家群」が集積しています。上塩尻と違い、千曲川沿いの低地に屋敷が広がっているせいか、一軒一軒の家々の敷地が広く、狭いところに屋敷がひしめきあう上塩尻とは対照的です。総じてゆったり感があります。その佇まいが下塩尻の景観をなしています。川べりという立地のせいか、集落の景観が群馬県2020-07-18
13上塩尻の蚕種製造民家群と文書を見聞する上塩尻の蚕種製造民家群と文書を見聞する2018/08/18、上田市上塩尻の蚕種製造民家群と文書を見聞する会を開きました。長野大学前川研究室、上塩尻自治会、上塩尻今昔の会の連携で実施したものです。地元上塩尻の方々を中心に、建築や歴史文化の専門の方などが加わり20名ほどが参加しました。 幕末から近代にかけて日本の産業を牽引した蚕糸業の中でも、長野県は蚕糸王国と呼ばれるほどに近代日本の殖産興業に貢献をしました。その中で上田小県は蚕都上田と呼ばれ、その中心地の一つでした。とりわけ上塩尻を中心とした塩尻地区は蚕種製造の一大中心地となり、江戸時代から幾人もの優れた蚕種製造家を輩出した他、各家が蚕種製造業を営んでいました。その当時の蚕種製造民家は現在もなお数多く残り、「蚕種製造民家群」という全国的にも稀有な歴史的景観地区となっています。 2020-07-18
14信州夢殿 長福寺 本堂信州夢殿 長福寺 本堂本堂の建築年代は、記録から寛文9年(1669年)とされていましたが、今回の解体調査により、外陣中央間仕切り部分に存する蓑束上部の実肘木から「寛文八年六月豊後之國日田郡友田村ノ住人(後)藤作之丞作之」の墨書が発見され、寛文期に建てられた事が明らかとなっています。2020-06-22
15弥栄神社弥栄神社大星神社の拝殿の左奥にある神社です。創建時代は不詳ですが、宝永8年(1711)4月再建の記録が残っています。周りの柵が新しくなっていたため、柵だけ浮いてるように感じられました。大星神社の奥にあるため、気づかない人も多くいると思います。2020-05-26
16大星神社大星神社創建時代は不詳ですが、第60代醍醐天皇延長2年(924)に社殿を改築された記録が存在しています。御祭神は、事代主命・建御名方刀美命・前八坂刀売命です。秋にはお祭りが開かれるため、賑わいを見せます。自然が豊富でその場にいるだけで、力を貰える、パワースポットのような雰囲気を感じられることができます。境内案内板が古く、一部読むのが困難な箇所がありました。また以前は、ゲートボール場があり、ご老人の遊び場となっていたのですが、いつの間にか駐車場になっており、時間を感じさせられ少し寂しい気持ちになりました。2020-05-26
17日露戦後忠魂碑(上田市)日露戦後忠魂碑(上田市)日露戦争に出征し戦死した兵士の記念のために制作された記念碑。上田市からも戦争に出征し戦った人がいることが分かるものである。一人一人の名前が記されており、地域の記録として存在している。戦争と平和について考えさせられるものである。2020-05-25
18上塩尻の蚕種製造民家群と文書を見聞する上塩尻の蚕種製造民家群と文書を見聞する2018/08/18、上田市上塩尻の蚕種製造民家群と文書を見聞する会を開きました。長野大学前川研究室、上塩尻自治会、上塩尻今昔の会の連携で実施したものです。地元上塩尻の方々を中心に、建築や歴史文化の専門の方などが加わり20名ほどが参加しました。暑いとは言え、連日の猛暑からは解放されたように秋めいた爽やかさが感じられる一日となりました。

全国的にも稀有な蚕種製造民家群

幕末から近代にかけて日本の産業を牽引した蚕糸業の中でも、長野県は蚕糸王国と呼ばれるほどに近代日本の殖産興業に貢献をしました。その中で上田小県は蚕都上田と呼ばれ、その中心地の一つでした。とりわけ上塩尻を中心とした塩尻地区は蚕種製造の一大中心地となり、江戸時代から幾人もの優れた蚕種製造家を輩出した他、各家が蚕種製造業を営んで
2020-05-10
19秋和の文庫蔵を訪ねる秋和の文庫蔵を訪ねる2/17、地元の方々と学生と秋和文庫蔵を訪ねました。 秋和は蚕種製造の中心地であった塩尻村の中で、上塩尻、下塩尻と共に蚕種製造が営まれ、蚕都上田の興隆にも大きく貢献した一地域です。そうした近代の地域の背景を知る上でも地元の古い資料は欠かせないものです。 いくつか手にした文書は「明治十八年 祭典諸事記載帳」「明治三十年度 人夫賃金支払帳 塩尻村秋和土木委員」「明治十年第三月 秋和学校貸附金証書」「明治十三年金銀出納簿 一月ヨリ 秋和学校」などなど。少し手に取っただけでもまるでタイムカプセルから地域の埋もれた歴史に陽光が当てられたかのような感興がありました。 これらの資料をどうするか。それが問題です。地元の資料は地元の力でともかくも目録化に着手するのが第一との課題を共有しました。2020-04-22
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