上田のため池

日付: 作成者:nika

他の地域と比べかなりの数が見られる上田のため池。これらのため池がどういった経緯でつくられたのか調べる。

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上田のため池

上田のため池

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私たちは上田市塩田のため池について調べようと思う。

このテーマを選んだ理由は、上田に来てため池が地元と比べ多いという印象を抱いたからである。どうしてこんなにため池が多いのか興味を持ったので、塩田の歴史やどんなものがあるのか調べたいと思った。

上田市文書館の資料や長野大学付属図書館、塩田の里交流館などで塩田の歴史とため池の関係をまとめていきたい。


ため池の歴史①

ため池の歴史①

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塩田には多くのため池がみられる。その理由は降水量と土地が関係している。上田市は年間降水量が全国で最も少なく、その中でも塩田平は最少の地域であった。しかし、気温も低すぎず肥沃な土地で、水田農業に最適の地域だった。そこで農民は農業用水を確保するためにため池を作ることにしたのだ。この地域の土壌が粘土質で、ため池の土地を作るのに好都合だったことも影響していたのだろう。


〈参考文献〉
信州上田の里 塩田の里
http://www.shiodanosato.jp/tameike/rekishi.php


ため池の数

ため池の数

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塩田平のため池数は、個人利用の小池まで含めると200余りあり、これらが拡大または新たに構築されたことで、しだいに大規模な池に統合された。
昭和50年代の「溜池施設台帳」には、東塩田112、富士山5、中塩田10、西塩田10、別所1の141池が登録されている。

塩田は地元よりもため池が多い印象だったが、141ものため池があるのは予想外だった。雨量の少ない地域であるため、多くのため池が塩田の農業には必要なのだろう。


〈参考文献〉
信州上田 塩田の里
http://www.shiodanosato.jp/tameike/mukashi.php


ため池の歴史②

ため池の歴史②

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ため池は農業用水を確保するためだけに使われていたと思っていたが、歴史を遡るとそれ以外にも利用されてきた歴史があった。

例として挙げられるのは食用鯉の養殖である。塩田地域のため池は水温が高く、養蚕が盛んであったことから、鯉の餌としてたんぱく質の豊富な蚕の蛹が多く採れた。このような地域特徴から鯉の養殖に使われてたが、1980年代末には鯉の養殖は衰退し、今はフナの養殖に非常に少数のため池が使われているだけである。


〈参考文献〉
長野県上田市塩田地域におけるため池群の維持管理と存続
https://www.geoenv.tsukuba.ac.jp/~chicho/nenpo/43/08.pdf


ため池の歴史③

ため池の歴史③

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この資料から、塩田のため池がいつ頃造られたものなのか読み取ることが出来る。

真田氏の時代(1622年まで)には、山田池、舌喰池、小島池、甲田池などの広大な池が修造築または新築された。
そして、仙石氏の時代(1706年まで)には、手洗池、上原池、上窪池、山田新池などが造られた。この時代は、どの大名も領内の新田開発に力を入れた時代であるため、仙石氏もため池の築造・修造に力を入れたことが分かる。
松平氏の時代(1867年まで)に造られたため池は小さいことが見受けられるが、この時代のため池政策は、従来のため池の堤塘の高さを増し、貯蓄量を増大させるものであったからである。

〈参考文献〉
信州上田 塩田の里
http://www.shiodanosato.jp/tameike/rekishi.php


山田池(やまだいけ)

山田池(やまだいけ)

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山田池は1938年に沢山池が造られるまで塩田平一の大きなため池だった。
池の歴史は古いため増築年は不詳だが、1650年にそれまで並んでいた2つの池を1つにまとめ現在の池ができた。
この池では、1840年頃に養鯉を試みたり、上田藩の事業として薬草の栽培をしたりしていた。古くから農業用水の確保としてだけでなく、様々なことに利用されていたことが分かる。

〈参考文献〉
信州上田 塩田の里
http://www.shiodanosato.jp/tameike/rekishi.php


手洗池(てあらいけ)

手洗池(てあらいけ)

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手洗池には二つの名前の由来がある。こららを紹介したいと思う。

昔、柳沢村(現上田市古安曽)に幹が6メートルもある大きなけやきの木がありました。ある秋、このけやきの木の枝が折れてしまい、村人は何か変わったことが起きるのではないかと心配していました。すると翌年の夏、すさまじい嵐が起こりました。このため山のほとんどの木が風や落雷のために倒れてしまい、村人は途方に暮れました。さらにこの年も大きなけやきの木の枝が折れてしまい、その翌年もまた大荒れに見舞われました。村人たちは、大きなけやきのせいではないかと考えるようになり、どのようにしたらよいか考えていました。
ちょうどその時、木曽義仲に仕えていた手塚太郎金刺光盛という人が、丸子のお城から手塚へ帰る途中、柳沢を通られましたので、相談したところ「けやきを切り倒して御神木にしなさい。」と言われ、近くの池で手を清め、けやきを倒して、御神木としました。
こうしてこの池は「手洗池」と名付けられた。

また、もう一説は、弘法大師が、讃岐(今の香川県)の善通寺より前山寺にみえたとき、小さな水溜まりを見て、「これはきれいな水だ」と言われ手を洗い、この場所にその後ため池を築造したため、「手洗池」と命名されたとも言われている。


手洗池ができた歴史としては、上田城主に仙石忠政氏が就いた頃、藩の財政再建の策として水田の開発に力を注ぎ、その頃に築造されたと言われている。
人足という仕事は上田藩全域に割り当て、毎日数百人もの人が集められ、冬期間の突貫工事で行い、1年ないし2年で完成させたと言われている。

〈参考文献〉
水辺遍路
https://bunbun.hatenablog.com/entry/2014/10/25/132811

信州上田 塩田の里
http://www.shiodanosato.jp/tameike/mukashi.php


空池(からいけ)

空池(からいけ)

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空池は、1734年5月に西前山の庄屋児玉伝兵衛がため池を造る許可を上田藩に願い出たことで作られた。1737年2月14日から毎日5~600人、延べ10,167名もの人足が動員され、1ヶ月後の3月15日に完成し、翌3月16日に完成届(目録書)が上田藩に差し出された。
しかし、水が思うようにたまらず1736年4月14日から6日間、約600人の人足をかけ、1737年には2,240人の人足をかけて池の修繕をしたが、漏水が多く2~3年後には空池となってしまった。

現在は公民館と付近の畑が池の跡地である。


〈参考文献〉
信州上田 塩田の里
http://www.shiodanosato.jp/tameike/mukashi.php


小島大池(こじまおおいけ)

小島大池(こじまおおいけ)

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小島大池は塩田平の中でも大きなため池であり、1618年に造られたものである。そんな小島大池の1689年に起きた事件についての民話を紹介していきたい。


下之郷山から降りてきた沢山の猪によって田んぼが荒らされ、田んぼの稲を守ろうと玉の入っていない鉄砲を一発打った。驚いた猪は小島大池に飛び込んでしまい、22匹のうち5匹が溺死してしまった。
騒ぎが大きくなり上田藩に届け出たところ、役人から「入念に猪の死骸を埋め、猪が死んだ理由を書いた木札を立て、周りを竹矢来で囲みなさい」といった処置が命じられた。
なぜ猪のためにこれほど大騒ぎになったのか。それは、当時徳川幕府の将軍綱吉が「生類憐みの令」を出しており、動物に危害を加えた場合重い罰が与えられたからである。

なお、小島大池に実際に行ったところ、現在工事中であり、ため池の水が全て抜かれていた。

〈参考文献〉
信州上田 塩田の里
http://www.shiodanosato.jp/tameike/mukashi.php


上窪池(かみくぼいけ)

上窪池(かみくぼいけ)

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上窪池は1645年に池を改修するまで「泥池」と呼ばれていた。
1957年の新農村建設で、ため池を使って養鯉を計画した際、その先頭に立ったのが上窪池である。これが成功し、塩田平の他のため池にも広がった。そして、1975年頃には生産量が1千トンを上回り、「塩田鯉」として全国に名をとどろかせた。
現在、上窪池のほとりにある泥宮の境内に「塩田鯉」と刻まれた石碑が建っている。

山田池でも養鯉が行われていたが、この上窪池が始まりであったことが分かる。

〈参考文献〉
信州上田 塩田の里
http://www.shiodanosato.jp/tameike/mukashi.php


甲田池(こうだいけ)

甲田池(こうだいけ)

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甲田池は塩田平の中でも大きなため池で、水源は一級河川産川からの導水に依存する典型的な中継的ため池である。一般に皿池と呼ばれ、景観が良い。水抜き用の底樋は岸から5m程沖にあるため、橋が渡されている。
また、この池にはカッパにまつわる民話が残されているので紹介したい。

昔、十人村の甲田池に一匹のカッパが住んでいた。
ある日、村のお百姓さんが池の土手に馬をつないでおいたところ、いたずら好きのカッパは馬を池の中へ引っ張った。ところが馬は驚いてカッパを引きずってお百姓さんの家の馬屋に帰ってしまった。お皿の水がなくなって動けなくなったカッパは「助けてくれれば、この家にお祝いごとがあるときにはお膳を用意してさしあげます。」と言った。優しいお百姓さんはその言葉を信じてカッパを放してあげた。それからお百姓さんの家にお祭りで人が集まるときは、その晩に必ずお客の数だけ綺麗なお膳が庭先にそろえてあった。
ところがあるとき、隣のおばあさんがそのお膳を一つ隠してしまった。お百姓さんは一生懸命探したが見つからず、カッパにお膳を返せなかった。それ以来お膳は二度と見ることができなくなった。そして、お膳を隠したおばあさんの家には不幸が続き、とうとうその家は潰れてしまったそうだ。

〈参考文献〉
信州上田 塩田の里
http://www.shiodanosato.jp/tameike/mukashi.php

水辺遍路 2014.10.20 市原千尋
https://bunbun.hatenablog.com/entry/2014/10/20/084200

カッパの恩返し 2012.09.15 マツカゼ
https://blog.nagano-ken.jp/josho/nochi/634.html


舌喰池(したくいけ)

舌喰池(したくいけ)

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舌喰池は塩田の里交流館(とっこ館)の近くに位置するため池であり、手塚自治会によって管理されている。貯水量は13万㎥もある。
耐震のための改修工事や、田園空間整備事業による水辺景観の整備が行われている。また、百八手という千駄焚きを行って雨乞いをする祭りや、舌喰池付近の芝生でコンサートの開催を行うなど、文化遺産やレクリエーションの取り組みを行っている。

舌喰池には悲しい伝説が伝えられているので紹介したいと思う。

昔この池がつくられた頃、土手から水が漏れて十分に水をためることができなかった。そこで池の改修をするに当たり、土手に「人柱」を入れなければ水がたまらないという話が出回った。悩んだ結果くじ引きで決めることになり、美しい娘が人柱に選ばれた。
娘は日夜悲しみに明け暮れたが、人柱に立つ前の晩、身の不運を嘆いて舌を食い切り、池に身を投げて死んでしまった。
この出来事から村人たちはこの池を「舌喰池」と呼ぶようになった。


〈参考文献〉
長野県上田市塩田地域におけるため池群の維持管理と存続 
2021 狩野仁慈・小原悠太
http://www.geoenv.tsukuba.ac.jp/~chicho/nenpo/43/08.pdf

信州上田 塩田の里
http://www.shiodanosato.jp/tameike/mukashi.php


塩野池(しおのいけ)

塩野池(しおのいけ)

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塩野池は、西前山境東前山の小字「市来」にある。池のある市来が、西前山の小字「塩野間」「塩野」に隣接していることや、独鈷山から流れ出す「塩野川」などの塩野と関係して「塩野池」と名付けられたと考えられる。
塩田平の多くのため池は、山麓または平地にあるが、塩野池は標高約560mとやや高く、山の傾斜に造られている。また、塩野池は、雨乞いの山・独鈷山の水だけを純粋に集めて成り立っているため池である。


〈参考文献〉
信州上田 塩田の里 
http://www.shiodanosato.jp/tameike/mukashi.php


まとめ

まとめ

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ため池のつくられた歴史や、民話などを調べることで、ため池自体ができた経緯は降水量の関係で同じだったことがわかった。しかし、そのため池一つ一つには違ったエピソードが存在することがわかりおもしろかった。
現実離れした民話が多く残っており、特に、舌喰池に残っている伝説は印象的で、このように残酷な話が残っていることが衝撃だった。

面白い話を知ることができたし、知らなかった歴史を学ぶことはできたが、ネット上では思うように深掘りをして調べことができなかったように感じる。そのため、受け売りとなる二次情報ではなく自ら調べる一次情報の重要さを実感した。



〈参照した資料〉
Googleマップ
信州上田 塩田の里 http://www.shiodanosato.jp/
長野県上田市塩田地域におけるため池群の維持管理と存続https://www.geoenv.tsukuba.ac.jp/~chicho/nenpo/43/08.pdf
水辺遍路 2014.10.20 市原千尋https://bunbun.hatenablog.com/entry/2014/10/20/084200
カッパの恩返し 2012.09.15 マツカゼhttps://blog.nagano-ken.jp/josho/nochi/634.html


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