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1塩田平観光マップ(上田駅構内)今昔2005→2024塩田平観光マップ(上田駅構内)今昔2005→2024写真上:信州の鎌倉と周辺の図(2005/05/04の記録) 写真下:日本遺産・信州上田・塩田平(2024/02/03の記録) 上田駅構内のしなの鉄道改札出入り口に面したコンコースの壁に塩田平の大きな観光マップが掲げられています。塩田平が日本遺産「レイラインがつなぐ『太陽と大地の聖地』」に選ばれてしばらく経ってから「日本遺産」マップにリニューアルされました。 レトロ感たっぷりの「信州の鎌倉」マップが今となっては貴重な記録です。このマップ、デザインは古い時代様式のものです。退色もしています。あるいは退色したように装ったデザインかもしれません。一見したところ相当に年季が入ったもののように見えますが、新幹線や上田大橋が描かれてもいることから推察すると上田大橋開通後の2000年頃に観光PRのために掲げられたものではないかと2024-02-19
2北向観音堂北向観音堂平安時代初期に比叡山延暦寺座主慈覚大師円仁が開いた 霊場。北向きの本堂(本所は千手観音菩離像)は全国でも珍しく、南向きの善光寺本堂と相対しているとされる。「極楽往生」を願う善光寺と「両参り」し、ここで「現世利益」を祈ることで、より御利益があるとされる。かつて参道脇に長楽寺(常楽寺、交楽寺とともに天台宗の「別所三楽寺」のひとつ)があったが、現在は常楽寺を本坊とする。昭和36(1961)年に善光寺本堂と同じく、「撞木造り」の建物として増改築された。なお、手水舎には境内から湧出している温泉が使われている。 北向観音は『「極楽往生」を願う善光寺と「両参り」』というのをキーワードに、観光業に活かせると感じた。北向観音は、実際に自分で現地に行かないと感じないようなパワーがあると私は考えている。よって2024-02-13
3長福寺銅造菩薩立像長福寺銅造菩薩立像長福寺「信州夢殿」の本尊として安置されている。アルカイックスマイルを特徴とする、像高36.7㎝の小金銅仏で、7世紀後半の白鳳時代の作品と考えられる。もとは上高井郡小布施町の旧家に伝わるものだったが、昭和13(1938)年に長福寺に移された。 長福寺はこの講義を受講するまで名前も聞いたことがなかった。ここは生島足島神社の前に訪れたが、休日であるにも関わらず、訪ねている人は私一人だった。正直なことを言うと、日本遺産に登録されているにしては、閑散としていると感じた。観光客を呼び込むためには、もっと情報発信に努めるべきだと感じた。2024-02-13
4【上田市の銭湯】銭湯の分布から見る地域の考察【上田市の銭湯】銭湯の分布から見る地域の考察突然ですが、皆さんは銭湯に行ったことはありますか? 銭湯というと、富士山の壁画が描かれた、東京の大きな下町銭湯を思い浮かべる人が多いと思います。ここでいう銭湯とは、法律で定められた一般公衆浴場のことです。 ここ上田市にも、地域に根付いた街のお風呂屋さん、銭湯が2軒あります。ですが最盛期には、なんと24軒もの銭湯がありました。昔は市街地ではお風呂のある家庭は一般的ではなく、農村部のお百姓さんの家、どこかの大富豪の社長さんの家など、限られた家庭にしかありませんでした。そこで、「浴場業(銭湯)」という一つの業種が確立されたんですね。今回はこれまでの調査のまとめとして、「銭湯の分布から見る地域の考察」を題として、上田市の銭湯の現状とともに記していきます。 ◎上田市の銭湯の現状 下に上2024-02-12
5【上田市の銭湯】地図から銭湯の分布を見てみよう~「史的ニ上田」編~【上田市の銭湯】地図から銭湯の分布を見てみよう~「史的ニ上田」編~突然ですが、皆さんは銭湯に行ったことはありますか? 銭湯というと、富士山の壁画が描かれた、東京の大きな下町銭湯を思い浮かべる人が多いと思います。ここでいう銭湯とは、法律で定められた一般公衆浴場のことです。 ここ上田市にも、地域に根付いた街のお風呂屋さん、銭湯が2軒あります。ですが最盛期には、なんと24軒もの銭湯がありました。昔は市街地ではお風呂のある家庭は一般的ではなく、農村部のお百姓さんの家、どこかの大富豪の社長さんの家など、限られた家庭にしかありませんでした。そこで、「浴場業(銭湯)」という一つの業種が確立されたんですね。今回は、上田市の銭湯を研究するための必読書、「史的ニ上田(15)上田の銭湯」という文献をご紹介します。 (画像は、文中にも登場する中央3丁目(松原町)の「竹の2024-02-12
6【上田市の銭湯】地図から銭湯の分布を見てみよう~大正期編~【上田市の銭湯】地図から銭湯の分布を見てみよう~大正期編~突然ですが、皆さんは銭湯に行ったことはありますか? 銭湯というと、富士山の壁画が描かれた、東京の大きな下町銭湯を思い浮かべる人が多いと思います。ここでいう銭湯とは、法律で定められた一般公衆浴場のことです。 ここ上田市にも、地域に根付いた街のお風呂屋さん、銭湯が2軒あります。ですが最盛期には、なんと24軒もの銭湯がありました。昔は市街地ではお風呂のある家庭は一般的ではなく、農村部のお百姓さんの家、どこかの大富豪の社長さんの家など、限られた家庭にしかありませんでした。そこで、「浴場業(銭湯)」という一つの業種が確立されたんですね。今回は、そんな上田市の銭湯の分布を、2つの大正期の地図から探っていきましょう。 (画像は最盛期の銭湯をGISアプリで国土地理院の地理院地図にプロットしたもの) 2024-02-12
7上田わっしょい上田わっしょい上田わっしょいのテーマは、「踊る!担ぐ!叩く!」 初めて訪れたが、手拍子をしながら音楽に合わせて踊ったり、神輿を担いだりする様子は本当に賑やかでテーマ通りのお祭りだと感じた。法被のデザインが違ったり、大きな団扇を持っていたり連ごとに個性があり、それを見るのもこのお祭りの楽しみの一つだなと感じた。 この祭りは、昭和47年(1972年)から行われており、2023年で52回目、4年ぶりの開催だという。 訪れてみれば地域に根差した祭りであることがよくわかる。上田で生まれ育った人たちは皆あの音頭に合わせて踊れるのだろうか。老若男女問わず振りが身についているようだった。地域の皆が一緒になって踊れる曲があるというのはとても素敵だ。2024-02-12
8マンホール:飯山市マンホール:飯山市2009/04/10の記録。 飯山市のマンホールです。一本杖スキーの子ども2人を描いています。マンホールカードの解説によると、最初にこの地に伝わったスキーは一本杖スキーで大正初期まで盛んであったとのこと。子どもが被っている頭巾が「みのぼうし」で、これは昭和30年代まで利用されていたとのことです。 私の別記事「飯山のマンホール、一本杖スキー」もご参照ください。 http://d-commons.net/uedagaku/maekawa2?c=&p=88522024-02-11
9【第4回】ホテルルートインGrand上田駅前【第4回】ホテルルートインGrand上田駅前上田駅前にあるルートイン。ここは、Grandブランドであり、普通のルートインに比べハイグレードになっており、観光客をターゲットとしている。歴史は浅く、2019年に開業した。 もともとこの地には、上田西武があった。西武とはいえ、運営は西武百貨店ではなく、西友であった。おなじセゾングループであったことから西武と名乗っていたのだろう。その後、セゾングループ崩壊などもありLIVIN上田店になり、2009年に西友の経営悪化により閉店した。LIVINは昭和後期から平成初期の上田の商文化を語るうえで外せない重要なものであった。 話はルートインに戻り、LIVINが閉店するにあたり上田駅前の空洞化が危惧された。そんな中、ルートインが観光の需要を増やすルートインGrandが開業が決まり、上田市にとって良い方向へ動いた。2024-02-10
102つの資料のデータを比較するために折れ線グラフをつくる。まずは「西塩田時報」のデータを折れ線グラフにしていく。大正13年から昭和6年のデータを見ると、気温が℃の単位以外で表示されていることがわかる。気温や温度を表す単位として他に℉があることから、これらのデータは℉での表示であると判断し上記の式を用いて℃での表示に直す。なお数値は小数点以下第2位を四捨五入して、第1位まで求める。また昭和3年4月の平均・最低気温に書かれている「仝」という漢字の意味が分からなかったため調べたところ「同」の古字であると説明されていたため、最高気温の数値の前に書かれている「室内(資料のタイトルなどが横書きの場合右から書いてあったことを踏まえ当時は横書きの文字は右から読むことがわかった。この資料では現代の表記に2024-02-09
11「西塩田時報」の「長野縣小縣郡西鹽田村一覧」という各種データを取り扱うページから「氣候」という項目をまとめた。大正13年(1924)4月~昭和24年(1949)12月の期間で14年分のデータを見つけることができた。それぞれ「氣温」「結霜」「積雪」という項目があり、さらに「氣温」は「最高」「平均」「最低」に、「結霜」「積雪」は「初月日」「終月日」の項目に分かれる。今回は「氣温」のデータを活用する。2024-02-09
12民間で始まる蚕糸業ものがたり民間で始まる蚕糸業ものがたり【民間で始まる蚕糸業ものがたり】 主催:特定非営利活動法人 糸のまち・こもろプロジェクト 【講演】(2022/07/02開催) 講演1:「シルクの里 純水館ものがたり」~制作秘話~ CTK報道制作部長 後藤 理恵氏  明治23(1890)の創業から昭和期に至るまで小諸の製糸業をけん引した純水館に関わった方々の話やそれを基に制作された「シルクの里 純水館ものがたり」の制作についてのお話です。 講演2:「小諸の交通と蚕糸業」元長野県立歴史館総合情報課長 宮下 健司氏  幕末から近代に至る蚕糸業の歴史を信州全体に亘って解説し、特に小諸の交通に着目してその蚕糸業における役割について語っています。 https://youtu2024-02-08
13長野県上田市にある別所線の終点である別所温泉駅長野県上田市にある別所線の終点である別所温泉駅別所線は大正から昭和にかけて開業した蚕都(サント)上田を支えた5つの私電鉄のうち、唯一現役なのである。また、上田から別所温泉に至る路線は大正10年(1921年)に開通した。また、中塩田駅や別所温泉駅など、駅舎に近代の趣を残す建物が多いのも特徴である。また、別所温泉駅は別所温泉街の玄関口として、別所温泉の発展に大きく貢献してきたと言える。また、別所温泉駅も信濃国分寺・生島足島神社・泥宮も結ぶレイラインの一部である。そして、別所温泉駅は、別所温泉街への玄関として長年、別所温泉の歴史や文化を伝える拠点として重要な役割を担っているとされている。そして別所温泉駅もまた竜と生きる町、上田としての文化的な背景を示す象徴的な存在と言える。 実際に訪れてみて、昭和のレトロ感があり、駅としてだけでなく、2024-02-06
14長野の観光地の持続性 長福寺長野の観光地の持続性 長福寺長福寺には信州夢殿や菩薩像などがあり、それは昭和17年からできていたとされる。その建築方法は奈良の物を使用するといった当時の匠の技がたくさん施されていて、昭和を代表する建築ということが分かった。また観音像は菩薩立像とも言うが、法隆寺にならい救世観音という。 とても歴史を感じる建築で、その当時の文化や歴史が直接伝わってきたような気がした。2024-02-05
15丸窓電車丸窓電車別所線のシンボルともいも言える丸窓電車(モハ5252)。昭和2年に製造された。それから昭和61年まで使用され、別所温泉駅構内に保存されている。 訪れたことで別所線の歴史を学ぶことが出来た。また車内をのぞき込むと木造でできているところが多く驚いた。2024-02-02
16安楽寺の文化財安楽寺の文化財安楽寺の文化財について、3つ紹介する。  一枚目の写真は重要文化財の「安楽寺前開山樵谷惟仙和尚像」。樵谷惟仙(しょうこくいせん)は安楽寺の初代住職。二枚目の写真は重要文化財の「安楽寺前二世幼牛恵仁和尚像」。幼牛恵仁(ようぎゅうえにん)は安楽寺の二代目住職。これらのような禅宗の僧の彫刻像のことを「頂相(ちんそう)」という。  三枚目の写真は上田市指定文化財の「輪蔵」。このなかには「黄檗版一切経」というお経が納められている。この輪蔵を回転すれば、文字を読めない人もお経を読める人と同じ功徳が与えられるといわれている。 参考文献: 上田市塩田地区学校職員会、上田市塩田文化財研究所編,『信州の鎌倉塩田平とその周辺』信毎書籍出版センター発行,昭和六〇年一二月二五日初版発行,p.66-69 曹洞宗安2024-02-02
17常楽寺の''石造多宝塔と石造多層塔''常楽寺の''石造多宝塔と石造多層塔''常楽寺の石造多宝塔について。写真の場所は、昔大きな火柱と一緒に観音が現れた場所と言い伝えられている。  多宝塔というのは一枚目の写真のような塔のこと。多宝塔には木造のものと石造の物がある。常楽寺の物は石造の多宝塔で、重要文化財に指定されている。  多宝塔のほかにも多層塔もあり、二枚目の写真が多層塔。六〇年前の大正一三年に、別所温泉北向観音堂の近くの裏山の地下で発見された。その後どこかに行ってしまったが、滋賀県で発見。別所に返してもらった。 参考文献:上田市塩田地区学校職員会、上田市塩田文化財研究所編,『信州の鎌倉塩田平とその周辺』信毎書籍出版センター発行,昭和六〇年一二月二五日初版発行,p.56-582024-02-01
18北向観音の''絵馬''北向観音の''絵馬''北向観音堂に奉納されている絵馬はとても興味深い。馬の絵や、鬼退治の絵、善光寺地震などが描かれた絵馬がある。絵馬の由来は、神は馬に乗った姿で現れるとするため昔は本物の馬を奉納していたそう。しかし次第に木や紙、馬の像で代用するようになっていった。鎌倉時代以後には、絵馬の図柄は馬だけではなく多様なものが描かれるようになっていった。 一枚目の写真は板絵鬼女紅葉退治の絵馬。平安時代、信州戸隠山に住み悪事を働いた鬼を退治したとされる伝説。鬼女征伐の命令を受けた平維茂は、北向観音の加護によって退治することができたといわれている。 二枚目の写真は善光寺大地震の絵馬。一八四七年に御開帳でにぎわう善光寺を突然大地震が襲い、多くの人が亡くなった。絵馬の中央にいる市之助という人は、一五人の一行と旅を2024-02-01
19西丸子線西丸子線下之郷と西丸子を走る電車で全長8,6キロメートルの間に11の駅があった。大正15年に開通した。マッチ箱電車の愛称で人々に親しまれた。昭和36年の豪雨により、線路が破損し38年に廃止になった。写真は下之郷駅の跡である。2024-02-01
20上窪池上窪池上窪池は塩田鯉の発祥の地とされている。1958年に上窪池で鯉の養殖がはじめられた。その後、塩田の70の池で飼育されるようになり、昭和40年代、50年代初めは年間千トンもの出荷量を誇り、塩田鯉として全国ブランドとなった。しかし、他地域との価格競争などで昭和50年代に衰退し、塩田での鯉の生産は終了した。上窪池の貯水量は二万五千㎥で、満水面積は一万二千㎡となっている。2024-01-31
21信濃国分寺跡信濃国分寺跡 信濃国分寺跡は、平将門の乱により消失した当時の国分寺が立っていたとされる場所である。昭和38年から46年にかけて行われた7回の発掘調査では、僧寺や尼寺が並ぶ伽藍配置と瓦、陶器などの遺物が発掘されている。全国の国分寺においても僧寺と尼寺が近接して建設されることは稀であり、10世紀頃の国分寺衰退の痕跡も確認できるなど歴史的価値の大きい遺産である。現在は、史跡公園として整備されている。  上田市が地元でありながら国分寺跡まで、足を延ばす機会がなかった。行くことがあっても道路沿いまでで、線路を挟んだ向こうにも続いていることを知らず驚いた。併設されている信濃国分寺資料館では、発掘時の釘や瓦を見ることができ当時の歴史を知ることができる。また、安楽寺八角三重塔の模型もあり細部まで構造を確認するこ2024-01-30
22祖父母宅の蘇民将来符祖父母宅の蘇民将来符 蘇民将来符は、毎年1月7日・8日の八日堂縁日にて招福除災を祈り、参拝者に授けられる護符のこと。信濃国分寺の蘇民将来符は、ドロヤナギの木を六角錘形に作ったもので、形状や模様の一つ一つに意味がある。6つの側面には「大福・長者・蘇民・将来・子孫・人也」の文字が記されている。その形状と図柄は民芸的に格調が高く、民俗学的にも貴重な文化財とされている。昭和43年4月には上田市の民俗文化財に指定されている。  祖父母宅には、以前から蘇民将来符があることは認識していたが、どんな意味があるかなど理解していないことが多かった。毎年購入し増え続けるため、何かしらの意味があるとは思っていたが、歴史・意義に興味を持つことは無かったので良い機会となった。2024-01-30
23昔から大切にされてきたお盆昔から大切にされてきたお盆これは昭和四年八月一日の西塩田時報より抜粋したもので、物価高騰でお盆の準備に困っている人は、組合が安く提供できると呼びかけているものです。 物価が高騰してもそれぞれの家で事前の準備がなされていることから、昔の人がお盆の大切にしていると読み取れます。 『西塩田時報』第69号(1929年8月1日)3頁よりhttps://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p0301.jpg2024-01-29
24長福寺長福寺長福寺はその八角のお堂は信州の夢殿と称されている。奈良の法隆寺の夢殿完全二分の一に写し、瓦なども奈良のものを使用するなど、当時の匠の技術が集結した昭和を代表する建築である。実際に見てみて、これまで見てきたものと比べて、八角形が珍しく、感じた。縁起のあるものとされているのだから、もう少し、存在感を強調したほうがいいと感じた。この時は見ることができなかった、長福寺銅像菩薩立像があるのだが、これは国の重要文化財にもなっていて、飛鳥時代の歴史遺産として、いつかは見てみたいと感じた。2024-01-25
25戦前と戦後の北海道新聞における文化の移り変わり戦前と戦後の北海道新聞における文化の移り変わりまず初めに何故北海道新聞で文化の移り変わりを調べたかったのかというと西塩田時報で様々な大正から昭和にかけての記事を閲覧していた際に自分の地元ではどのように変化していったのか素直に興味を持ったからだ。 そこで今回は現代の北海道新聞と昔の戦前の新聞を用いて文化をそれぞれ比較しようと思う。 比較する新聞の年は1942年と2020年だ。北海道新聞は1942年に創刊された。1942年といえば日本は第二次世界大戦中であり、アメリカと戦っていた時期であった。実際の記事を見てみるとそれが伺える。下方に「アメリカの焦燥」と書かれた項目がある。当時の日本がアメリカを牽制していたのが分かる。さらに、「戰」や「諸勅令」といった今となっては使われなくなった漢字や表現が使われている。ここからも北海道での戦時中の緊張感が伝2024-01-25
26上田市の景観上田市の景観今回私は上田市の現在と過去の写真や街並みを比べてみることで新たな発見や気づきがあるかもしれないと考え、調べてみることにしました。今回参考にさせていただいたのは上田の海野街や上田のスクランブル交差点の過去の写真と現在の上田の写真に写っている場所です。 比べてみたところ海野街は確かに歴史の流れを感じるほど変わっていましたが、スクランブル交差点の写真に写っているは昭和48年の海野街の写真と現在の海野街の風景はほぼ同じでした。昭和48年から変わらない商店街があり続けていることに少し不思議を感じ、なぜ現在の最新鋭のモダンな見た目の商店街にしていないのか疑問に感じたため上田の景観について調べてみることにしました。その結果過去の街並みや景観が保たれている場所の多くはその景観や見た目の良さ守るた2024-01-24
27刀屋刀屋上田駅から徒歩10分ほどに位置している蕎麦屋 刀屋 でもりそばを食べた。 「刀屋」は昭和36年創業の老舗蕎麦屋です。 こちらの「刀屋」というお店の名前は先祖が刀鍛冶であったことに由来しているそうです。 もりそばをいただき、ボリュームがあり、蕎麦自体にもこしがあって食べごたえがありました。2024-01-24
28牡丹地蔵牡丹地蔵北佐久郡軽井沢町追分の泉洞寺境内にある、第四次東海浪瑞原義勇隊開拓団 瑞原会が昭和46年9厚26日に建立した地蔵尊 泉洞寺ホームページの説明文 「角背型の牡丹地蔵尊(宝性地蔵)で、全長3.14メートル。元満州東海浪瑞原義勇隊開拓団員物故者の27回忌に当たり、仲間の冥福と、永遠の平和を祈願し、無事帰国することのできた団員が組織した「瑞原会」により昭和46年(1971)9月26日に建立された。」https://sentouji.com/stroll/index.html2024-01-24
29越後の伝説についての考察(『越後の国雪の伝説〔正〕』鈴木直著 昭和十七年七月二十二日発行)越後の伝説についての考察(『越後の国雪の伝説〔正〕』鈴木直著 昭和十七年七月二十二日発行)越後の国雪の伝説〔正〕に収録されている23の伝説の中の4つについて、それがなぜ生じたのかという自分なりの考察をおこないました。 *越後の国雪の伝説〔正〕とは、越後に古くから伝わる伝説のうち、雪に関するもののみをピックアップして収録した本です。なお、地域としては中・下越の中でも比較的豪雪な地帯の話が中心的です。 1,茂助地蔵 《あらすじ》 昔、一人の旅人がいた。宿屋を出発して目的地へと歩いていたが、天候は最悪で、顔を前に向けることも困難なほどの吹雪だった。そして、その途中で偶然にも一人の女性に遭遇し、自分の家に泊まっていくことを勧められる。旅人は女についていくことにし、彼女の家で手厚いもてなしを受けた。数日後、旅人は死体となって発見された。死因は凍死であり、近くの村の村人は旅人は雪2024-01-24
30生島足島神社生島足島神社生島足島神社の鳥居です。 式年祭として、御柱祭が6年に一度、寅年・申年の4月中旬に催行される。この祭は、諏訪神が諏訪に向かう途中で当地に留まった際、生島・足島両神に対して御柱を奉ったのが由来です。 御本殿は神池に囲まれた神島の中にまわりを老樹に囲まれて建っています。御扉の奥には御室と呼ばれる内殿(室町期建立)があり、内殿には床板がなく大地そのものが御神体(御霊代)として祀られています。現在の社殿は昭和15年に国費をもって竣工したものです。内殿は平成10年9月「県宝」に指定されました。 駅から近いため、だれでも訪れやすいと感じました。2024-01-23
31上田天満宮上田天満宮 上田駅近くの高架下にある小さな天満宮。ご本尊は菅原道真の座像で江戸時代中期に作られたとされている。  1894(明治27)年に初代上田駅長の上村条治郎が旧高田藩が歴代所有していた天神様を譲り受け祀った。 1950(昭和25)年に上田駅拡張に伴ってここへ移動させられた。  菅原道真公を祀っているため、合格祈願などのご利益があるが、受験前にも関わらす参拝者は誰もいなかった。穴場スポットのようだ。近くには真田十勇士の筧十蔵のモニュメントがある。2024-01-20
32日本遺産 長福寺銅像菩薩立像日本遺産 長福寺銅像菩薩立像日本遺産シリーズの講義で長福寺銅像菩薩立像を訪れた。 ⻑福寺銅造菩薩⽴像は、⻑福寺「信州夢殿」の本尊。 アルカイックスマイルを特徴とする、像⾼36.7cmの⼩ ⾦銅仏で、7世紀後半の⽩鳳時代の作品と考えられる。 もとは上⾼井郡⼩布施町の旧家に伝わるものだっ たが、昭和13年(1938)に⻑福寺に移された。境内には、平和を願うなかよし地蔵や生まれてこれなかった子どもを供養する水子神社などもあった。長福寺はすごく広々としていて、庭園もきれいだった。今の時期は、植物が枯れていたが春になればきれいな姿が見れるのではないかと感じた。実際に菩薩立像を見ることができず残念だった。2024-01-09
33保明水保明水 保命水と呼ばれるこの井戸は1881(明治14)年に海禅寺の湧き水を地下の木簡で柳町に引いたものである。当時の生活用水、非常用水として利用された。  1922(大正12)年には上田市に上水道が開設されたが、市内には良質な飲料水が少なかったため、町民の負担で修理改修を行い管理されてきた。  それから約30年後の1949(昭和24)年、上田市で全域で断水してしまう事故があった。その際には前肢の水源として活躍した。  現在は生活用水としては利用されず、井戸のみが形として残っている。  信州の水50選にも選ばれるほど水質がきれいで、運が良ければカニがみられるかもしれない。2023-12-21
34小学校便り『西塩田時報』第101号(昭和7年4月1日)2頁小学校便り『西塩田時報』第101号(昭和7年4月1日)2頁学校の出席に関して書かれている この記事は以下から参照出来ます 『西塩田時報』第101号(昭和7年4月1日)2頁 https://mmdb.net/mlab/uedagaku/pdf/nishishioda/ns07_101to120.pdf2023-12-12
35上海より『西塩田時報』第101号(昭和7年4月1日)1頁上海より『西塩田時報』第101号(昭和7年4月1日)1頁上海からの手紙 この記事は以下から参照出来ます 『西塩田時報』第101号(昭和7年4月1日)1頁 https://mmdb.net/mlab/uedagaku/pdf/nishishioda/ns07_101to120.pdf2023-12-12
36学校だより(『西塩田時報』第84号(1930年11月1日)2頁)学校だより(『西塩田時報』第84号(1930年11月1日)2頁)アニメなどのイメージから昭和にはおかっぱの女の子がいたというのは想像していたが、ここまで多くの子がおかっぱにしており、学校からもおかっぱが推奨されていたことに驚いた。2023-12-12
37海野町商店街海野町商店街海野町商店街を歩いてみました。海野町商店街を歩いてみて昭和レトロな雰囲気を感じることができました。以前に千曲市の戸倉上山田の温泉街を歩いてみたことがあるのですが、その場所と同じようなレトロな雰囲気を感じました。また、同じ上田市の柳町のように昔懐かしい雰囲気が醸し出されているので貴重な観光資源になるのではないかと感じました。 @上田市中央2丁目2023-12-11
38道路で遊ばないように道路で遊ばないように昭和25年4月5日の西塩田広報第1項の記事。交通取締法が改正されて、その変更点、注意すべき点が掲載され、自転車や歩行者、さらには保護者の子供に対する注意事項まで書かれていた。  「事故を防ぐために」という項目で、荷牛馬車についての注意点は細かく書かれているのに、一番危険だと考えられる自動車について書かれていないのは変に感じて面白いと思った。もちろん、自動車が当時はまだ、全然普及していなかったからだと思うが、現代の交通のメインの1つである自動車についての注意点が書かれていないことに私は違和感を感じた。 参照元 https://mmdb.net/mlab/uedagaku/pdf/nishishioda/ns15_post021to040.pdf 2023-12-11
39村民運動会プログラム村民運動会プログラム昭和24年10月20日の西塩田時報第3項での記事。同年11月3日に行われる村民運動会の開催プログラムが掲載されていた。 その内容を見てみると、リレーやマラソンなど今でもよく行われているようなものもあるが、ドヂョーつかみや女子仕度競争などユニークなものもあった。特に、「自轉車(自転車)徐行」は何を採点基準に競うのか謎に思えたので面白いと感じた。 参照元 https://mmdb.net/mlab/uedagaku/pdf/nishishioda/ns15_post021to040.pdf 2023-12-11
40入学前の家庭教育に就て 西塩田時報入学前の家庭教育に就て 西塩田時報入学前に家庭内で教育してほしいことについて友達のことや先生を怖がらないように教育してほしいといったことが書かれており、今の新聞ではないので珍しく面白いと感じた。 西塩田時報 戦後 昭和22年1月25日 第1号2頁2023-12-11
41成人の日に成人の日に来年二十歳のつどいがあるので、興味を持ちました。 約70年前からこの行事があるのは驚きです。 成人代表で三人の感想と心構えが載っています。 いつまでも十代でいたい、無責任が許されない立場になり不安だ、という気持ちは同じですが、今の自分より考えがしっかりしていて、大人の印象を受けました。 記事は以下から参照できます。 『西塩田時報』昭和28年2月5日第65号⑵2023-12-11
42食べる楽しみ食べる工風食べる楽しみ食べる工風現在、インターネットを使うことで、食べたいものがあれば検索してレシピを知れたり、使いたい材料を検索すればそれを使った料理を紹介してくれたりします。今でも雑誌や新聞でレシピが紹介されていることがあります。 この記事でも、鰯のたたき上げの作り方を紹介しています。材料や作り方以上に、アドバイスがたくさん載っていて親しみやすい記事だと思います。 記事は以下から参照できます。 『西塩田時報』昭和24年1月25日第22号⑶2023-12-11
43映画上映遅延の話(『西塩田広報』第68号昭和28年5月5日)映画上映遅延の話(『西塩田広報』第68号昭和28年5月5日)映画館での上映時間が一時間ほど遅延したときの内容です。現代の映画で遅延する事はほとんどないし、遅延したとしても、記事になることはないので、当時の映画の貴重さ、珍しさを感じられる面白い内容でした。2023-12-10
44部落通信(「西塩田時報」戦後第1号 昭和22年1月25日)部落通信(「西塩田時報」戦後第1号 昭和22年1月25日)村で行われた会議の日付と内容が書かれている。一般の方にも西塩田時報を通して情報が共有されたと考えられる。2023-12-10
45伝染病の発生状況についいて(「西塩田時報」戦後第18号 昭和23年9月25日)伝染病の発生状況についいて(「西塩田時報」戦後第18号 昭和23年9月25日)記事の右下に伝染病の発生状況が載っている。具体的な数字を知ることは感染予防の促進にもつながる。2023-12-10
46入学前の家庭教育に就て(西塩田時報 第1号昭和22年1月25日)入学前の家庭教育に就て(西塩田時報 第1号昭和22年1月25日)この記事には、入学前に家庭教育でやってほしいことが記載されていれています。具体的には、家庭や友達、先生、学習、身体的なしつけについてなどの項目に分けて、詳しく述べられていました。 私は、この記事の中の「性格は、家庭の育て方一つで決まるので生まれつきなどではない」という表現に時代の違いを感じます。このような言い切った表現に対して、負の感情を抱く現代人が多くいるのではないかと考えました。 ▼この記事は以下から参照できます。 『西塩田時報』第1号(昭和22年1月25日) https://mmdb.net/mlab/uedagaku/pdf/nishishioda/ns14_post001to020.pdf2023-12-06
47男池男池 日本遺産の「塩田平のため池群」の一つである。上田市の池は戦国時代から昭和時代までの間に数多く作られてきた。その背景には、上田地域が全国でも有数の寡雨地域であることがある。一方、雨が少ないため晴天の日が多く、気温も低すぎることは無かった。したがって、肥沃な土地で農業用水を確保さえすれば、水田農業に適した土地であった。農民たちはため池を造成し、男池も農業用水確保のために作られた。男池は、江戸時代に仙石氏が統治していた時に作られたため池であるとされている。江戸時代では、ため池の存在は重要であったため上田藩をあげて作られた。現在の男池は、農業用水として使われ、産川からため池に水を貯水している。男池の貯水量は約50000㎥で、満水面積は約20600㎡、堤高は8mである。  男池が作られた背景を知る2023-11-30
48舌喰池の伝承舌喰池の伝承舌喰池は、大池とも呼ばれる塩田平のため池の中の一つである。他の池と比べても名前が一段と奇妙な理由には理由がある。昔、池の水がなかなかたまらないという時があった。その際に、人柱として村の娘が一人選ばれてしまった。その娘は、人柱に選ばれたということを聞いて、悲しみ、舌を食い切って池に身を投げてしまった。この悲しい伝承から、舌喰池と呼ばれるようになったといわれている。  しかし、昭和50年には、池の北側の田から、墓石が4基出土するなど、あながち伝承と言い切ることが出来ないことも、この人柱伝説の怖さなどを伝えているように感じる。2023-11-30
49本町近代化事業完成記念碑本町近代化事業完成記念碑佐久市岩村田本町通りの近代化事業の完成を記念し、昭和47年11月3日に建立された記念碑。題字の揮毫は井出一太郎氏。場所は西念寺に隣接する交差点の角。2023-11-30
50昭和レトロな喫茶店昭和レトロな喫茶店上田駅前にある喫茶店「ニュービーナス」。私はこの店の持つ雰囲気と魅力が自分のテーマにあっていると感じたためピックアップした。店内は昭和レトロな雰囲気が感じられる、非常に魅力のある良いお店だった。メニューにはハンバーグ定食やオムライスなどがあり、どれもお手頃な価格にもかかわらずかなりのボリュームがあった。また、学生はドリンク一杯無料やご飯のおかわり無料などのサービスがあるため、ぜひ一度足を運んでもらいたい。昔ながらの喫茶店が好きな人にはおススメな店だ。2023-11-30
51信濃国分寺信濃国分寺寺伝では、1197年に源頼朝が善光寺参拝の帰りに寺の衰退を憂い、塔の復興を命じたとされている。建築様式から室町時代に建立されたと推測され、「和様」の外観をしている。第一層の大日如来が安置されている仏壇の鏡天井を囲む「如意頭文」は「禅宗様」の建物で用いられているものである。 駐車場が境内のすぐ側にあったが、そこまでの道が細く、車では少し通りにくいと感じた。境内の周りの民家も雰囲気あるつくりの家が多く、地域になじんでいる印象であった。境内の中には、小さな寺院が多くあったが、本堂とのつながりがあまりよく分からなかったので、どのような関連性があるのか説明が欲しいと感じた。 信濃国分寺の建立は推定室町中期で、昭和7年から解体修理が行われた。その時に、三重塔古心柱も取り換えが行われ、その柱が2023-11-30
52信州夢殿 長福寺信州夢殿 長福寺信州夢殿は昭和17年に篤い観音信者で建設されたお堂。八角のお堂は「信州夢殿」と称され、奈良法隆寺の夢殿完全二分の一に写し当時の匠の技が結集された昭和を代表する建築である。 長福寺に入り左側の小道を進んだ先にある、この信州夢殿は少しわかりにくい場所にあるが美しい形をした建物であり日本遺産にもなっている。2023-11-29
53丸窓電車丸窓電車昭和61年まで別所線を走っていた上田電鉄の車両「モハ5250」が別所温泉駅に展示されていました。 「丸窓電車」はかわいらしい丸窓から付けられた愛称です。 愛称があったということは今と同様、別所線は地域住民に愛されていたのでしょうね。2023-11-10
54別所温泉駅別所温泉駅上田電鉄別所線の別所温泉側の終点に当たる別所温泉駅は大正10年に「別所駅」として作られた長い歴史を持つ駅。大正13年に「信濃別所駅」と改称され、現在の駅名になったのは昭和5年だそうです。 西洋風のレトロな見た目ですが、不思議と和風建築が並ぶ別所温泉に調和してるように感じました。 長い歴史を持つため、時間をかけて地域文化の中に溶け込んでいったのでしょう。2023-11-10
55肉のみつかど肉のみつかど昭和41年創業の歴史ある精肉店『肉のみつかど』 新鮮で安心な国産肉の販売や、手作り惣菜を販売している 何度か通りかかり気になってはいたが、入ったことがなかったお店 信州上田学の地域キュレーションをきっかけに初来店 コロッケ(¥80)、メンチカツ(¥120)を購入 注文をしてから店主が揚げてくれるので、出来たてを食べられる 安いのにかなりの食べ応えがあり、とても美味しかった 店主もとても人柄が良く、優しい方だった これを見て気になった方は是非、食べに行って欲しい2023-11-08
56【上田市の銭湯】①柳の湯【上田市の銭湯】①柳の湯皆さん、銭湯に入浴したことはありますか? 銭湯というと、富士山の壁画が描かれた、東京の大きな下町銭湯を思い浮かべる人が多いと思います。ここでいう銭湯とは、法律で定められた一般公衆浴場のことです。 ここ上田市にも、地域に根付いた街のお風呂屋さん、銭湯が2軒あります。今回は、柳町(中央4丁目)の「柳の湯」さんをご紹介します。 柳の湯は、北国街道柳町の外れにあります。路地を歩いていると、「湯乃柳」と右書きの文字と看板建築が目に入ります。玄関に入りますと、右手が男湯、左手が女湯になっています。木戸を開けてさっそく中に入ってみましょう。 入るとすぐ番台があり、ここで料金を払います。脱衣場で服を脱ぎ、さっそく入浴です。浴室は広く、奥に2つ浴槽があります。両脇にはシャワーとカランがあり、椅2023-10-27
57初めて見る1929年上田市の航空写真!初めて見る1929年上田市の航空写真!『アサヒグラフ臨時増刊号 東日本航空号』(1929年=昭和4年)にあっと驚く写真が! 当時の上田市の航空写真です。市街のほぼ中心部を捉えています。まさか戦前の上田市の航空写真があるとは思ってもいませんでした。藤本蚕業歴史館に保存されている資料の一つです。これは手に取って見るしかないですね!2023-10-24
58「蚕都上田マップ」長野大学附属図書館に設置「蚕都上田マップ」長野大学附属図書館に設置長野大学附属図書館の地域資料室に「蚕都上田マップ」を設置しました。地図は2種類あります。横1.8m/縦2.8mの巨大マップです。それぞれのPDFマップは下のリンクからも参照できます。 ★市街図(明治~昭和) 1928年(昭和3年)の「上田市全図」に土地利用を色分け蚕糸業スポットをポインティングしました。蚕糸業で栄えた上田の絶頂期の記録です。 ★上小地域(明治~昭和) 日本一の蚕種製造地であった塩尻地区、製糸業で栄えた丸子地区にフォーカスを当てています。 これらのマップは蚕都上田プロジェクト(代表:前川道博)が2010年に作成したものです。当時日本地理学会会長だった斎藤功先生(故人、当時は環境ツーリズ2023-10-04
59常盤街の歴史 昭和45年から昭和49年まで常盤街の歴史 昭和45年から昭和49年まで昭和45年 1   自治会会則が一部変更し、監事2名を置く。 9   「これからの親と子のあり方」の講習会を開く。     講師は上田三中校長黒坂周平氏。 10   西小・三中PTA支部廃品回収を実施、収益金20,884円 11   新上田橋が完成する。 昭和46年 9    敬老会を市老人福祉センターで開く。米寿会員33人出席。 10   常盤町簡易郵便局が開局する。 10   上田市交通安全協会鎌原支会の分会として常盤町分会が設立される。 10   自治会館南側の道路を日曜広場として利用し始める。 12   町婦人部主催で金子康夫さん撮影の8mm映画「常盤町の誕生より今日まで」の上映会を開く。 12   団地南端の交差点(山寺さん宅前)へカーブミラーや「止れ」の交通標識が建つ。 12 2023-08-09
60常盤町の歴史 昭和40年から昭和44年まで常盤町の歴史 昭和40年から昭和44年まで昭和40年 1   新年の賀詞交換を行う。(以後毎年実施している。) 3   太郎山に山火事が発生して4時間余り燃え続け自治会館が消防詰所となり、炊き出しをする。 8   台風のため町内にも被害が発生する。 昭和41年 3   町内道路舗装促進の陳情書を市に提出する。 3   郵便ポスト設置実現の陳情書を上田郵便局へ提出する。 6   急行バスの生塚停車実現の陳情書を川中島バス会社へ提出する。 12  社会部と西小PTA支部共催で「ママポリスさんと語る夕べ」が開かれる。 12  道路簡易舗装第1期工事180mが団地入り口から始まる。 昭和42年 2   山火事が発生し、3時間余り燃え続ける。 3   町内下水路改装(100万円)がしゅん工する。 4   米寿会(初期は老人クラブと称した)2023-08-09
61常盤町の歴史 昭和35年から昭和39年まで常盤町の歴史 昭和35年から昭和39年まで今回の「常盤町の歴史」では、常盤町創立(昭和35年)から平成3年(「常盤町30年のあゆみ」に記載されている範囲)の範囲内を可能な限り記す。内容に関しては私個人が重要な事を抜き出し及び文章を変更して記載すると事実と異なる内容となる危険性があるため、記されている内容をそのまま記載する。尚、該当ページは第3章常盤町30年のあゆみ、第1節常盤町30年の沿革表が記されている77頁~100頁である。文量が多いため、5年毎複数のページに分けて記載する。 昭和35年 12  県企業局より住宅団地造成計画のあることが地元(生塚区)に示される。 昭和36年 2   このころから生塚区及び関係地主の対応が具体化し始め、団地造成委員会を設けたり関係地主大会も開かれ、県や市との交渉・話し合いが頻繁にも2023-08-09
62常盤町30年のあゆみ 目次常盤町30年のあゆみ 目次常盤町30年のあゆみ  1.入居当時の常盤町  2.昭和50年当時の航空写真  3.常盤町周辺の航空写真  4.常盤町の歌  5.常盤町地籍の小字図  6.歴代自治会長  7.完成近い自治会館  8.発刊に当たって  9.「常盤町30年のあゆみ」 第1章 常盤町の自然と歴史  第1節 大字常磐城地区の変貌  第2節 自然の様子  第3節 上田市の歴史  第4節 常盤町周辺の寺社・史跡等 第2章 常盤町の団地造成と自治会の発足  第1節 戦後の市内住宅事情と常盤団地の造成  第2節 団地造成に対する生塚住民の協力  第3節 県企業局の団地造成計画  第4節 宅地区画と住民募集経過  第5節 自治会の発足と自治会館建設  第6節 当時の入居者構成分布  第7節 初期の公共生活環境整備に向けて 2023-08-09
63昭和レトロな喫茶店昭和レトロな喫茶店散策中に見つけた昔から上田にあるような趣があってかわいいレトロな喫茶店2023-05-12
64蒸し竈蒸し竈木炭で炊く炊飯器。大正から昭和初期に一部の大きな料理屋等で使用された。現在も販売されている。 使い方は、木炭に着火して中に羽釜を入れる。炊き上がったら、上の穴に蓋(紛失)をして漏らす。美味しいご飯が食べるということで今でもお寿司屋さんやうなぎ屋さんで使っている店もあるという。2023-05-11
65馬力神馬力神母校の小学校の通学路にある石碑。 馬力神信仰は、栃木県を中心に江戸末期から昭和初期まで盛んだった風習である。 大部分は愛馬の供養のために造立されたものであり、栃木県内に274の馬力神の石碑が存在するという。 石碑には「大正十年七月三十日死亡」とあることから、その時代に建てられたものと考えられる。2023-05-10
66須波三穂神社西の宮(スワミホジンジャニシノミヤ)須波三穂神社西の宮(スワミホジンジャニシノミヤ)こちらの神社は上田市の住宅街と上田バイパスの間に存在している。神社についてまとめられている「神社人」というサイトによると創建は天暦6年(952年)とされていた。その後、何度か改装されているためか、神社の建物には定礎昭和59年(1984年)と埋め込まれており、手水鉢にはおそらく安永2年(1773年)と記されていた。 神社には、賽銭箱と見受けられる物は見当たらなかったが、神社の西側には小さな石で作られたほこらがあり、一円玉がお供えされていた。おそらく、賽銭箱の代わりに石のほこらへお供えするルールがあるのではないかと考えられる。 参考文献 国際教養振興協会ICPA.「須波三穂神社西の宮」. 神社人-日本を楽しむポータル&コミュニティ.http://jinjajin.jp/modules/newdb/detail.php?id=9727(2023/05/10)2023-05-10
67二十四の瞳二十四の瞳何度もマイサイトで紹介している二十四の瞳。 前回の投稿で紹介した古本屋でカバー付きの本を見つけ購入。 昭和45年の本。 後ろには180円(今で言うと約414円)と書いてある。 現在のほんと異なり文字も小さくインクも薄い。紙は少し黄ばんでいるがそれもまたよし。2023-05-06
68丸の内:都市環境の変遷丸の内:都市環境の変遷東京ステーションギャラリーに東京駅周辺の都市環境の変遷がジオラマで展示されています。東京駅前に新丸ビルが竣工した1950以後の昭和時代の姿、そして高層ビルが立ち並ぶようになった現在の姿。旧丸ビルの高さを基準としビルの高さが100フィートに制限されていた時代のオフィスビルの画一的な高さのビルの連なりをその時代、子ども心なりに美しい都市景観と感じてきました。それが都市景観の規範にすらなっていたと思い返されます。が、今となっては「だからどうなの?」という思いが先に立ちます。 私が旧丸ビルの外観・内観を記録に収めておかなければと思ったのが1997年2月のこと。その頃丸の内はまだ味もそっけもないオフィスビル群でした。その後丸ビルは解体工事が始まり、現在の新しい高層ビルに建て替わりました。その後さらに2023-02-20
69実践講座2:地域資料のデジタルアーカイブ化講座[第3回]実践講座2:地域資料のデジタルアーカイブ化講座[第3回]【オンデマンド講座】 ★DA講座2-3皆さんのデジタルアーカイブ/地域学習企画披露会 182分 【講座タイムテーブル】 講師:前川道博(長野大学企業情報学部教授) ゲスト講師:桂木惠さん(上田小県近現代史研究会事務局長)、朝倉久美さん(デジタルアーキビスト) 第3回 2月18日(土) 13:00~16:30 皆さんのデジタルアーカイブ(DA)/地域学習企画披露会 13:00 はじめに、ゲスト講師紹介 13:10 DA/地域学習企画披露会 Part1 (14:20 休憩) 14:30 DA/地域学習企画披露会 Part2 16:20 講評・まとめ 16:30 終了 《披露会の発表者と発表テーマ》敬称略。発表資料は以下に掲載してあります。 ①島津千登世/下河辺淳+戦後国土計画関連資料アーカイヴス  →下河辺淳アーカイヴス  →2023-02-19
70コピーヌクラブ演奏会 「小諸唱歌」「信濃の国」「糸(中島みゆき)」「ピチカート」コピーヌクラブ演奏会 「小諸唱歌」「信濃の国」「糸(中島みゆき)」「ピチカート」 【目次】 0:00 コピーヌクラブ紹介 2:16 「信濃の国」 5:29 「小諸唱歌」 8:01 「糸(中島みゆき)」 13:45 「ピチカート」 【動画説明】 2022/11/3に開かれた特定非営利法人 糸のまち・こもろプロジェクト主催「民間で始まる蚕糸業ものがたり」内で演奏されています。 「民間で始まる蚕糸業ものがたり」 「コピーヌクラブ」  コピーヌクラブは2009年に結成された女性3人演奏家グループで、東信地域を中心にホテル、イベント会場などで演奏活動を続けています。ピアニストの竹鼻恵子さん、フルート奏者の椎名真美子さん、バイオリニストの吉田枝理佳さんで構成されていて、動画では竹鼻さんと吉田さんが出演しています。 「信濃の2023-02-15
71篠ノ井日曜新聞篠ノ井日曜新聞昭和25年9月3日(創刊)~12月24日 <新聞目録作成中>  (大見出し,記事,キーワード)2023-02-13
72篠ノ井日曜新聞昭和25年(9月3日~12月24日)篠ノ井日曜新聞昭和25年(9月3日~12月24日)長野市合併前の篠ノ井町時代の毎週日曜に発行されていた新聞。2023-02-13
73学生による地域キュレーション2022(信州上田学A受講生)学生による地域キュレーション2022(信州上田学A受講生)長野大学の地域科目「信州上田学A」を受講した学生が「信州上田」を接点とした地域キュレーションの学習成果です。タイトルを選ぶとその学生のマイサイトを表示します。 ▼カテゴリ1:蚕都上田 【1】 長野県の中でなぜ上田市が蚕都で有名なのか 【2】 上田の養蚕の歴史を掘り下げ、伝え続けるには。 【3】 蚕都上田の歴史と未来 【4】 製糸業の歴史 【5】 蚕都上田の歴史 【6】 蚕都上田2023-02-10
74花岡みよし花岡みよし花岡は、明治25年鍛冶町に生まれた。太平洋戦争の終戦を期に、女性の積年の願いであった婦人参政権が認められ、昭和21年の総選挙は女性の初参加で行われ、国会の女性議員は39名という驚異的な結果となった。女性の政治への進出は地方にも波及し、「女性議員を出そう」の機運は上田でも高まっていった。市議会議員候補者に何人か上がったが、最後はともに婦人団体活動でリーダーを長く経験した花岡と金子ふじが候補者として選ばれた。 女性の権利が認められていないことが多い時代に女性が活躍していけるように努力を続けた人だった。 参考…上田人物伝 https://museum.umic.jp/jinbutu/data/023.html2023-02-08
75西塩田時報から学ぶライフハック④西塩田時報から学ぶライフハック④ 西塩田公報には『家庭メモ』というコラムがあり、生活に役立つコツやレシピなどを紹介している。  ここでは私が気になった記事を紹介していく。 ~この記事で知ることができるライフハック一覧~ ・味噌のカビを防ぐには笹の葉を表面に敷き詰める ・食塩をさらさらのまま保存するには、容器の底に粉炭を入れてその上にザラ紙(新聞紙などのわら半紙)を12枚敷き詰めておく ・水虫対策には、煎茶を患部に当てる ・切り傷に応急手当には、煙草の粉を患部に当てておくと出血が止まる ・醤油の白カビを防ぐには容器に焼酎を入れておく ・やけどをしたときにはきゅうりの種を綿にしみこませて患部に当てると痛みも引き水ぶくれにもならない。 今回は応急手当だったり、調味料の保存法の知恵ですね。私が気になったのは「煙草の粉」2023-02-08
76西塩田時報から学ぶライフハック③西塩田時報から学ぶライフハック③ 西塩田時報には『家庭メモ』というコラムがあり、生活に役立つコツやレシピなどを紹介している。  ここでは私が気になった記事を紹介していく。 ~この記事で知ることができるライフハック一覧~ ・玉ねぎを調理するとき、ぬるま湯の中で皮をむくと涙も出ないし、手にも臭みが残らない ・天ぷらの衣にはすりおろしたとろろ芋やベーキングパウダー、重曹を混ぜると軽くておいしい衣になる ・魚を焦がさずに焼くには、尾やヒレなどの焦げやすい部分に塩を塗ってから焼くとよい。また二をかぶせて焼くと熱が逃げないので、上手に焼ける パンを薄く切るには包丁を熱い湯につけて温めてから切るときれいに切れる ・革物の汚れには揮発性のもので洗った後、コールドクリームか靴クリームを薄く塗る 今回は調理の知恵が多いです。天2023-02-08
77村のトピック村のトピック村での些細な出来事を取りあげられている。お祭りや講演などのイベントから、火の用心といった注意喚起まで、町中の出来事が掲載されている。 現在の広報と似ている部分であり、何年経っても続いているのが面白いと思った。 「西塩田公報」昭和26年6月10日 https://www.mmdb.net/mlab/uedagaku/pdf/nishishioda/vol2.pdf2023-02-08
78農事メモ農事メモ農業で大切になるポイントや注意すること、栽培方法などがメモとしてまとめられている。 「馬鈴薯の収穫は必ず乾燥した時に実施して下さい」など、農業初めての人でも読んだら分かりやすく、ここまで詳しく説明する広報は見たことがないため、面白いと感じた。 「西塩田公報」第59号 昭和27年7月5日 https://www.mmdb.net/mlab/uedagaku/pdf/nishishioda/vol2.pdf2023-02-08
79二・二六事件を記録したアサヒグラフ二・二六事件を記録したアサヒグラフ藤本蚕業歴史館に所蔵されている昭和時代のグラビア雑誌です。2023-02-05
80昭和48年の広報うえだのキッチンダイヤル昭和48年の広報うえだのキッチンダイヤル昭和48年広報うえだのキッチンダイヤルの献立だ。 28日にすきやきうどんとある。 https://museum.umic.jp/iiif/pdf/ueda-kohoS480416.pdf2023-02-01
81飯島保作(花月)(いいじまほさく(かげつ))飯島保作(花月)(いいじまほさく(かげつ))飯島保作は、文久3年(1863)に飯島家の長男として横町に生まれました。明治6年(1873)上田街学校に入学し、明治10年(1877)に上等小学校全科を卒業しました。上田街学校の教員補助の職は、天皇の御巡幸が終わった後退職し、家業(質屋)に従事しました。  自らが作成した年賦には「家業のかたわら独学」とあります。向学心旺盛な青年で、この向学心が実業家飯島保作を生み、このころから雑誌に狂歌、川柳等々の投稿を始め、後の上田地方の庶民文学のリーダーとしての文学上の資質を開花させたのです。  保作は、上田商工会議所会頭、第十九銀行の頭取を歴任して生涯を閉じた上田を代表する傑出けっしゅつした実業家でした。明治15年(1882)10月、上田郵便局に採用され、最初の職業の第一歩を踏み出し、2023-02-01
82西塩田時報から学ぶライフハック②西塩田時報から学ぶライフハック② 西塩田公報には『家庭メモ』というコラムがあり、生活に役立つコツやレシピなどを紹介している。  ここでは私が気になった記事を紹介していく。 ~この記事で知ることができるライフハック一覧~ ・壁についたインクや墨汚れを落とすには白布に食酢を二倍に薄めたものをぬらして拭く ・手についた魚臭さはミカンの皮を茹で、その煙を手に当てると匂いは消える ・鼻が詰まるとき、洗ったドクダミの葉を塩でもみ、細かく刻んだものを鼻の中に入れる。30分から1時間ほど待機×3回ほど行うと鼻詰まりが解消される。  薬が簡単に手に入らない時代だと思うので、こういった身近な植物を使った治療法が良く記載されています。  現代でもこの知識は活用され、薬という風に形を変えて存在しているものも数多くあります。昔の人の知識2023-02-01
83西塩田公報から学ぶライフハック①西塩田公報から学ぶライフハック① 西塩田公報には『家庭メモ』というコラムがあり、生活に役立つコツやレシピなどを紹介している。  ここでは私が気になった記事を紹介していく。 ~この記事で知ることができるライフハック一覧~ ・サビた包丁には大根の切り口に歯磨き粉をつけて磨く ・おでき(ニキビ?)には患部に直接ゴボウの葉を当てて縛っておくと膿が抜ける ・新品の歯ブラシを使う前に熱い塩水に水が冷めるまでつけておき、しっかりと乾かしてから使うと二倍長持ち ・味付けをする際、塩は砂糖よりも材料にしみこむ速度が速いため、砂糖は先に使うこと  現代では用途によってさまざまな洗剤や掃除用具が存在 していますが、この記事掲載時(昭和28年4月5日)にはまだそういったものはなく、知恵を用いて生活をしていたことがうかがえます。  また、2023-02-01
84信州の自然と人、47年前と今信州の自然と人、47年前と今昭和51年(現在2023年から47年前)に長野県が制作した、信州の自然と人の暮らしとの関わりを記録した映像です。 白馬三山の雪形、山の信仰、水質・大気汚染、自然観察会などをまとめており、2023年の現在と比較検証し、変っていない点と変わっていった点を考察していく。 仮説として、現在と47年前で変わっていない点は普遍的な部分で今後も変わらないのではないかと推測する。 URL:https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/museum_history/03FS00000001322023-02-01
85笹沢檪亭 (ささざわれきてい)笹沢檪亭 (ささざわれきてい)檪亭は、安政2年(1855)、小県郡坂井村(現上田市塩川)に生まれ、本名を清十といい、幼い頃より画才に富み、花鳥画を描いては村人を感嘆させたといいます。早くに父を亡くし苦労して育ちますが、母の理解もあって、明治6年(1873)、18歳の折に島田桃渓とうけいに師事して絵の指導を受けたのを手始めに、明治18年(1885)、29歳の時には、水戸の木下華圃かほに師事。この頃から専業画家としての道を歩むことを真剣に考え始めたものと思われます。  明治19年(1866)、31歳の折には終生の師となる児玉果亭に入門を許され、果亭より檪亭の雅号を受けました。この檪亭が入門した明治19年は、第2回内国絵画共進会に出品した果亭の即品が天覧に供され、出品2点のうち1点が宮内省買上げ、1点が銀杯(こ2023-02-01
86林倭衛 (はやししずえ)林倭衛 (はやししずえ)父は、倭衛が小学校在学中に製糸工場経営に失敗し、明治40年の春、倭衛と弟を実家の小林家にに預けたまま夜逃げ同様に東京へと出てしまいました。実家は上田駅に近い北天神町通りで蚕種用の和紙などを商っていましたが、倭衛は友人たちから離れ孤独にさいなまれましたが、同じ頃に同じ北天神町に移り住んだ馬場衛まさるが、生涯の友となりました。約1年の後にようやく父母の下に引き取られはしたものの、何かにつけて旧士族出身にこだわって失敗を繰り返す父に対して、倭衛は激しく不信を覚え続け、やがて少年の孤独感は次第に不屈な自立心へと成長していくのでした。  明治43年には印刷会社の給仕となり月給を得るようになると、近くの水彩画研究所の夜間部に入り、明るく旺盛な好奇心のままに、生涯にわたる美術関係の友人を2023-02-01
87西川小扇八 (にしかわこせんぱち)西川小扇八 (にしかわこせんぱち)上田地方だけでなく、広く東信地方から県内にかけて日本舞踊の普及に尽力した小扇八は、明治38年東京浅草瓦かわら町に生まれました。小扇八(本名金子光みつ)の育った浅草界隈は、古くから歌舞音曲かぶおんぎょくの盛んな土地柄でした。生まれつき体の弱かった光を心配した両親は、健康のために芸事を身につけさようと、長唄や日本舞踊、華道、茶道など日本古来の伝統芸能を一通り習得させました。  とりわけ光は日本舞踊に強く興味を示し、自ら進んで西川流に入門し、稽古に励みました。縁あって18歳で結婚しますが、婚家になじまず実家に戻ります。浅草に戻った光は生涯進むべき道を日本舞踊と決め、西川扇五郎に師事します。再び踊りの世界に没頭し、厳しい稽古に耐え、艱難かんなんを克服して次第に頭角とうかくを現あらわ2023-02-01
88中村直人 (なかむらなおんど)中村直人 (なかむらなおんど)大正期中ごろ山本鼎が提唱した「農民美術」と「児童自由画教育」の二つの運動の、発祥の地、神川で少年期を過ごした直人は、リアルタイムに農民美術、児童自由画教育の誕生を直視し、その渦中で小学校時代を過ごしました。  15歳の時、山本鼎の世話で上京し、木彫家吉田白嶺の木心社に入門。兄弟子松村外次郎より木彫の手ほどきを受け、小杉法庵にデッサンを習い、自己の彫刻表現の模索が始まりました。大正14年、直人21歳で院展初入選、以後連続入選し大正15年に日本美術院賞を受賞。昭和10年には院展同人(会員)に推挙され日本の彫刻界の新風として頭角を現し始めました。  終戦後は、新日本美術会創設に参加し、各種展覧会に出品しました。その後、以前から親交を深めていた画家で彫刻家の藤田嗣治がフランスに渡り、2023-02-01
89中村直人中村直人大正期中ごろ山本鼎が提唱した「農民美術」と「児童自由画教育」の二つの運動の、発祥の地、神川で少年期を過ごした直人は、リアルタイムに農民美術、児童自由画教育の誕生を直視し、その中で小学校時代を過ごしました。 15歳の時、山本鼎の世話で上京し、木彫家吉田白嶺の木心社に入門。昭和10年には院展同人(会員)に推挙され日本の彫刻界の新風として頭角を現し始めました。 その後日本で活躍し、47歳でパリに渡りました。昭和28年のパリ展で大成功し、その後何度か個展を開き話題となり、滞欧12年の間に彫刻家から国際的な画家に見事な変身を遂げました。 昭和39年日本へ帰国。同年滞欧作展でパリ生活12年の成果を証明しました。その後二科会に招かれ、昭和55年には内閣総理大臣賞を受賞しました。帰国後は、様々な分2023-01-31
90兎束武雄兎束武雄上田町大手の銀行家兎束鐘一郎の長男として生まれた武雄は、幼い頃から音楽に特別な興味を示す子どもでした。母親の影響で琴を習っていたそうです。音楽に興味を示していた幼少期ですが、父親からは反対されていたそうです。 上田中学校(現上田高校)を卒業し、東洋音楽学校に入り勉強に励みましたが、東洋音楽大学だけの勉強では満足できず、他の大学でも聴講し、作曲やピアノ、チェロなどを勉強しました。大学を卒業した武雄は、高等学校の教師になることを決意して上田に帰ってきました。武雄は、音楽の楽しさや喜びを多くの人々と分かち合いたいと考え、地域の音楽活動に力を注ぎました。昭和8年、28歳のとき、梅花幼稚園の同窓生に声をかけ、「からたち合唱団」を創りました。当時、県下で混声合唱団と呼ばれるものはなく、上田2023-01-31
91戦時版の新聞③「プロパガンダ映画」とまとめ戦時版の新聞③「プロパガンダ映画」とまとめ映画までもプロパガンダとして利用されていたことが分かる記事である。 イギリス領インドの青年を日本人(岡倉天心等)が助けるといった内容であると書かれている。 実際の人物までもプロパガンダ映画で使われていたことに驚いた。 岡倉天心の「東洋は一つ」という言葉を都合よく解釈し、戦争に利用したように感じる。 参考サイト 【戦後75年】戦時中の中部日本新聞をPDFで読んでみよう 2023年1月31日閲覧 ▼この資料は以下から参照できます。 『中部日本戦時版』「2023-01-31
92戦時版の新聞②戦時版の新聞②バチカン市国について書かれた記事である。しかし、内容は敵国(アメリカ、イギリス)に対する批判である。 現代の世界史とは違った視点から歴史を見ることができ、興味深く感じた。 参考サイト 【戦後75年】戦時中の中部日本新聞をPDFで読んでみよう 2023年1月31日閲覧 ▼この資料は以下から参照できます。 『中部日本戦時版』「戦争と闘ふヴアチカン 非道へ法王の睨み」(昭和19年3月16日)2023-01-31
93戦時版の新聞①戦時版の新聞①選民思想をかき立たせるような書き方をしている記事であるように感じる。 情報媒体が限られていた時代であるため、このような偏った情報でも疑いようもなく受け入れられていたのだろうか。 参考サイト 【戦後75年】戦時中の中部日本新聞をPDFで読んでみよう 2023年1月31日閲覧 ▼この資料は以下から参照できます。 『中部日本戦時版』「我等の身体 これぞ日本人の優秀性」(昭和19年3月2日)2023-01-31
94『昭和国民読本』(1939)『昭和国民読本』(1939)明治から昭和初期(1939)までの出来事や歴史がまとめられた書籍である。 出来事が事細かにまとめられていることが目次から推測できる。 当時(戦時中)の国民の思想を知るのに重要な資料として活用できそうだと思った。 ▼この資料は以下から参照できます。 『昭和国民読本』(1939)2023-01-31
95記事3記事3 この記事は戦事の状況の報告である、「帝国」や「正義」などの語彙で、今の所で見ればは妙な体験だ。 参考資料:西塩田時報(1937~)第161号~第180号 昭和十二年八月号2023-01-30
96記事2記事2 これらの記事から、満州事変後に、満洲国の移民の宣伝である、東京以外の地方ではそういう宣伝があれば全方位で、特にあの時代で影響力が高いの新聞で宣伝が多ければ、全面戦争の始まりのサインではないかと思う。 参考資料:西塩田時報(1937~)第161号~第180号 昭和十二年四月号 昭和十二年七月号 2023-01-30
97記事1記事1昭和六年一月号  この記事は徴兵制度を示したものである、全面戦争前の1931年に戦争の準備をはじめと見える様子。 参考資料:西塩田時報(1930~)第81号~第100号 昭和六年一月号2023-01-30
98別所温泉駅の歴史別所温泉駅の歴史別所せんはは大成10年に「川西線」として開業した。 当時「信濃別所駅」という名前で開かれ、昭和5年に、駅名が「別所温泉駅」となり、同25年に現在の駅舎が完成した。 この駅舎が一年で最も混雑するのは、大みそかから正月三が日まで。二年参りのときには終夜運転も行われ、北向観音に訪れる人たちでいっぱいになる。 引用元 Ueda City Database ( 3033024) https://museum.umic.jp/johogura/bessho/2691012/2691012.html2023-01-29
99お菓子の歴史(洋菓子輸入時代)お菓子の歴史(洋菓子輸入時代)明治頃に、文明開化が始まり、外国の文化が日本に取り入れられ生活が変化していったが、それは菓子も含まれる。明治10年に洋菓子の輸入が5千円であったが、20年には1万円、30年には2万5千円で、38年には一躍して23万5千円とまで上昇し、短期間で需要がかなり増えた。洋菓子製法技術や洋風食材が導入され、相手先もオランダ、ポルトガルから、イギリス、フランス、アメリカに変化した。 ビスケット、キャンディ、チョコレート、キャラメル、クッキーなどが輸入され、日本での消費が増えると国内生産の方が儲かると考える人が出てきて、製造が始まった。日本で最初に作られた洋菓子は明治8年のビスケットで、東京京橋の風月堂が始めた。明治中期になると森永太一郎が森永製菓会社を作り、ビスケットやドロップス、キャラメルなどの洋菓子生産2023-01-29
100はじめにはじめに私は、大正・昭和初期における教育の特色について調べていきたいと思う。西塩田時報の学校行事などについて書かれた記事を参照して、当時どのような教育が行われていたのかを解き明かしていく。また、当時、軍国主義となっていった日本だが、教育にはどのような影響が及ぼされたのかなども詳しく見ていきたい。2023-01-27
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