上田藩第6代藩主 松平忠固

日付:1812年~1859年 作成者:yo-to

上田と言えば真田ばかりが目立つが、その後の藩主はどうだったのだろうか。特に大きな功績を上げたとされる松平忠固をピックアップして詳しく見ていきたい。

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上田藩第6代藩主 松平忠固

上田藩第6代藩主 松平忠固

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関良基著『日本を開国させた男、松平忠固: 近代日本の礎を築いた老中』

当初、上田藩主をマイテーマとして設定していたが、歴代藩主は扱いきれないため、今回は上田藩主の中でも特筆すべき功績を持つ松平忠固をマイテーマとし、探求してきた成果を伝えていきたいと思う。

基本的な情報源は、関良基著の「日本を開国させた男、松平忠固 近代日本の礎を築いた老中」になるが、私たちが学んできた常識を覆される内容が多くあるので、ぜひ歴史的事実との違いを感じてほしい。


松平忠固とは

松平忠固とは

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 松平忠固(1812年~1859年)は上田藩の第6代藩主(上田城主に直すと真田昌幸から数えて11代目)で、日米和親条約と日米修好通商条約の調印時に老中を務めた人物である。最初の老中就任時は「忠優(ただます)」という名で、二度目の時は「忠固(ただかた)」に改名している。
忠固は終始一貫して開国と交易を主張し、徳川斉昭や井伊直弼と対立しながらも二つの条約の調印を断行した。その一方で、養蚕業を推進して海外輸出の地盤を固め、日本経済の礎を築いた。


老中としての松平忠固

老中としての松平忠固

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出典:横浜美術館「コレクション紹介」https://yokohama.art.museum/collection/collection.html
 
 忠固は、すでに日米和親条約の頃から閣内で交易通商論を唱えており、ペリーとの条約交渉の当初から交易通商を条約に含めようとしていた。そこに立ちふさがったのが徳川御三家の水戸の前藩主で、尊王攘夷思想の震源徳川斉昭である。日米和親条約調印の翌年、斉昭によって失脚に追い込まれたもののハリスとの通商条約交渉に際して忠固は老中に復帰し、井伊直弼の調印には勅許を必要とするとの訴えを押し切って調印を断行した。その後責任を負い失脚した。
 以上の老中としての行動からは、忠固の信念強さがうかがえる。


上田藩主としての松平忠固

上田藩主としての松平忠固

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出典:横浜市「横浜港の歴史(変遷図、年表)」https://www.google.com/url?sa=i&url=https%3A%2F%2Fwww.city.yokohama.lg.jp%2Fkanko-bunka%2Fminato%2Ftaikan%2Fmanabu%2Frekishi%2Fhistory0.html&psig=AOvVaw2ehsoQQMOejw2Wg80v6XoR&ust=1644781455506000&source=images&cd=vfe&ved=2ahUKEwjptbDE9vr1AhWdTPUHHbouAioQr4kDegUIARC_AQ

 上田藩主としても忠固は養蚕・生糸・絹織物産業を振興し、生糸を日本の代表的輸出品へと押し上げた。条約調印前から生糸輸出の準備をし、老中から失脚した後も横浜開港に備え生糸輸出に注力した。生糸輸出の先駆けとなったのはやはり上田藩だった。
しかし、忠固は横浜開港から三か月後の1859年7月1日に死去してしまう。
 忠固の先見の明に感服すると同時に、後世でいいように言われ続けたのはこの早世による部分もあるのではないかとも思う。


忠固無名の謎

忠固無名の謎

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出典:Wikipedia 岩倉使節団https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%80%89%E4%BD%BF%E7%AF%80%E5%9B%A3

 では、なぜここまでの功績を上げた人物の名前が知られていないのだろうか。それは、「明治維新を正当化させるためには、幕府が無能でなくてはならなかった」からである。
 私たちはこれまで学校で、外交能力の乏しい幕府が列強に強要されるまま関税自主権がなく、治外法権を認めるような不平等条約を結ばされたと習ってきた。そして、明治維新後の薩長土肥を中心とした新しい国家が、幕府の負の遺産である不平等条約の改正を血のにじむような努力の末に成し遂げたとされてきた。しかし、これは明治政府が明治維新の正当性を国民に信じ込ませるために作り上げた「神話」だった。明治政府は、幕府が無能だったという前提のもとで明治維新というクーデターを正当化するため、幕府は対等な国際関係を築けず、自律的に近代化を遂げることが出来ない政権であったことにした。開国を推進した松平忠固は強要されて条約を結ぼうとしたわけではなかったし、当初日本がアメリカと結んだ通商条約には関税自主権も明記されていた。
 つまり、忠固が未だにほとんど知られていない理由は、忠固を含む幕府側の功績が不都合な明治政府による改竄と、明治政府を否定できないのちの権力にあると考えられる。


日米和親条約と日米修好通商条約

日米和親条約と日米修好通商条約

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出典:Wikipedia 下関戦争https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E9%96%A2%E6%88%A6%E4%BA%89

 最後に、忠固が関わった二つの条約について詳しく見ていきたい。
 日米和親条約の調印前に忠固(当時は忠優)は徳川斉昭との論争を制し、城中評議の場で五年後の交易承認という結論が出ていた。評議の翌日、斉昭は抗議の意思から参与辞職の意向を、自らの参与就任を推薦した老中首座の阿部正弘に伝えた。これを受けて阿部は、参与辞職を思いとどまらせるために会議の結論を覆し、交易の承認をしないという決定をした。そして日米和親条約は交渉術で勝った日本がアメリカから譲歩を引き出し、漂流民の人道的な扱いや食料・薪水・石炭の供与、長崎・下田・函館の開港などの内容に留まった。日米和親条約締結後、斉昭はアメリカの条約に基づいた「下田三箇条」と呼ばれる要求を拒否するか否かで忠固との対立を深めていった。ここでまたも阿部が斉昭に同調して下田三箇条拒否の方針を固めた。阿部を味方につけた斉昭は忠固をはじめとする下田三箇条賛成派の老中三人の更迭を要求した。阿部は斉昭を制御しきれず忠固と他一人を免職とした。その後も斉昭は国政全般に口を挟むなど増長し続け、斉昭を擁護しきれなくなった阿部は老中首座を退いた。ほどなくして阿部正弘が病没し、後ろ盾を失った斉昭は参与を辞職した。
 
 斉昭が辞職したことで忠固(このとき改名)は国政に復帰することになった。そして、交易を含む条約交渉に入ることが宣言された。日本側が今まで実施してこなかったため最も厄介に感じていた関税率は、日米修好通商条約の14回目の最終交渉で決定された。その内容は一般の輸入品への関税率は20%、輸出品への関税率5%であった。そして関税率は日本側の意思で変更が可能となっていた。また、アメリカが課していない輸出税を日本が課すことで双務性が崩れないようにするため、日本はアメリカに片務的最恵国待遇を約束した。これらから、関税自主権がないことと片務的最恵国待遇の約束が不平等であるということは否定される。加えて、日米修好通商条約の第6条にある領事裁判権については、日本人のアメリカ人に対する犯罪は日本が裁き、アメリカ人の日本人に対する犯罪はアメリカが裁くこととなっている。ここで疑問視されるのは、日本人がアメリカで犯罪をした場合について曖昧にされている点だが、当時の両国の刑罰は罪の重さに大きな違いがあったし、海外渡航も許可されていなかった。そのため当面は曖昧にしておく方が良策だったのだ。よって、領事裁判権を認めることも不平等とは言えない。なお、関税自主権がなくなったのは下関砲撃事件や生麦事件などの事件に起因する。下関戦争に勝ったイギリス・フランス・オランダ・アメリカは莫大な賠償金で幕府に揺さぶりをかけ、その減免と引き換えに関税率の一律5%への削減などの要求したのだ。もちろん幕府側も逆提案をして交渉を長引かせ減税実施を遅延させるなど抵抗を見せたが、ついに受け入れざるを得なくなった。そして、日本側の意思で関税率を変えることが出来るという日米修好通商条約の内容も削られ、関税率5%が固定されてしまったのである。
 
 そして、調印を待つという段になって条約勅許問題が浮上してきた。交渉担当者の岩瀬忠震と新しく老中首座となった堀田正睦が諸大名を同意させるために、天皇の権威を利用しようと勅許の取得を検討し始めたのだ。彼らは勅許獲得に失敗した後、松平慶永を大老、一橋慶喜を将軍後継にすれば勅許を獲得できるだろうと考えた。そして将軍である徳川家定に松平慶永の大老推挙を進言したところ、家定はそれを却下しその場で井伊直弼を大老に任命することを宣言した。これは家定を無能扱いするような噂を流し続けた一橋派に属する松平慶永が大老になることを阻止するため、そしてもともと蟠りがあった徳川斉昭を実の父とする一橋慶喜を避け、紀州の徳川慶福を後継にするためだったと考えられる。大老に就任した井伊は条約調印には勅許が必要であるとして、勅許獲得に自らが大老であることの存在意義を賭けていたようだ。それに対して忠固は、勅許は不要であるとしていたため、相容れないことを知ると井伊は忠固更迭へと動き出した。そして、忠固を罷免したいが堀田正睦は留めたい井伊と、松平慶永を大老に推薦した堀田正睦を罷免したいが忠固は留めたい家定とが互いにそれぞれの罷免を認め合うことにし、堀田と忠固は将軍後継が決まり次第罷免となった。政治生命に期限がつけられた忠固は、アロー戦争で清国を侵略・蹂躙した英仏軍艦隊が日本に来航するだろうことに焦りつつ条約調印を急いだ。1858年7月29日、忠固はついに城中評議で井伊に賛成した一人以外の賛成を得て、条約の調印に至った。通説では井伊直弼が無勅許調印断行したとなっているが、無勅許調印を認める評議を主導したのは忠固なのである。


まとめ

松平忠固を調べる中で関良基さんの著書『日本を開国させた男、松平忠固』の比重が大きくなってしまったが、本書を読んで、慈悲深い領地運営や開国と交易の主張を貫いた姿勢から忠固の人となりが見えてきた。また、井伊直弼や徳川斉昭、開国、不平等条約改正などさまざまなものの見方が変わったことは収穫だったと思う。歴史から抹消されていた史実が掘り返されると通説が覆されることがあるので、本当の歴史を知っておくためにもそういった情報を仕入れていきたい。


参考資料等
・関良基著『日本を開国させた男、松平忠固: 近代日本の礎を築いた老中』(1,2番目の記事の写真の出典)
https://www.google.com/url?sa=i&url=https%3A%2F%2Fwww.amazon.co.jp%2F%25E6%2597%25A5%25E6%259C%25AC%25E3%2582%2592%25E9%2596%258B%25E5%259B%25BD%25E3%2581%2595%25E3%2581%259B%25E3%2581%259F%25E7%2594%25B7%25E3%2580%2581%25E6%259D%25BE%25E5%25B9%25B3%25E5%25BF%25A0%25E5%259B%25BA-%25E8%25BF%2591%25E4%25BB%25A3%25E6%2597%25A5%25E6%259C%25AC%25E3%2581%25AE%25E7%25A4%258E%25E3%2582%2592%25E7%25AF%2589%25E3%2581%2584%25E3%2581%259F%25E8%2580%2581%25E4%25B8%25AD-%25E9%2596%25A2-%25E8%2589%25AF%25E5%259F%25BA%2Fdp%2F4861828120&psig=AOvVaw21LNDIURZ6vnZQaWbaMFcg&ust=1644780879863000&source=images&cd=vfe&ved=2ahUKEwiz_fGx9Pr1AhUTFIgKHQXRBfoQr4kDegUIARCgAQ
・蚕都上田ものがたり「日本初の輸出生糸は上田から」
https://www.mmdb.net/santo-ueda/mono/cn1/pg45.html
・横浜美術館「コレクション紹介」(3番目の記事の写真の出典)
https://yokohama.art.museum/collection/collection.html
・横浜市「横浜港の歴史(変遷図、年表)」(4番目の記事の写真の出典)
https://www.google.com/url?sa=i&url=https%3A%2F%2Fwww.city.yokohama.lg.jp%2Fkanko-bunka%2Fminato%2Ftaikan%2Fmanabu%2Frekishi%2Fhistory0.html&psig=AOvVaw2ehsoQQMOejw2Wg80v6XoR&ust=1644781455506000&source=images&cd=vfe&ved=2ahUKEwjptbDE9vr1AhWdTPUHHbouAioQr4kDegUIARC_AQ
・Wikipedia 岩倉使節団(5番目の記事の写真の出典)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%80%89%E4%BD%BF%E7%AF%80%E5%9B%A3
・Wikipedia 下関戦争(6番目の記事の写真の出典)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E9%96%A2%E6%88%A6%E4%BA%89


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