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1水面の亮岸に(神川橋梁橋台跡)水面の亮岸に(神川橋梁橋台跡)勢いよく流れる川のほとり。 奥に見える橋台とは別に、手前の方にも何かコンクリートの塊があるのが見える。 これも形は違うが橋台である。 本来ならば振り向いた反対側にも橋台跡があるのだが、こちらは個人所有の地で、行ったときには新しい塀ができてしまい見えなくなってしまっていた。 廃線跡の遺構はいつまでもそのまま変わらずに残る、というものではない。 次々に消えていくものを追いかける、そんな風に言えるのではないだろうか。2020-07-15
2愛される鉄路(曲尾駅跡)愛される鉄路(曲尾駅跡)植物に半ば埋もれるようにして、たたずむこちらの看板。 曲尾駅の駅名と、その両隣の駅名が刻まれている。 廃止になった後で地元の人々が設置したようである。 当時の遺構が1つもない曲尾駅において、駅がここにあったことを伝える大切な役割を果たしている。2020-07-15
3思わぬ発見(傍陽線神川の橋跡)思わぬ発見(傍陽線神川の橋跡)真田傍陽線の跡を辿るために自転車をこぎ、ふと右を見ていたら、突然視界によく見た形の構造物が現れた。 これはどう見ても、橋の橋台である。 だが、事前に調べた情報には一切なかった。 驚きと喜びと興奮、困惑が入り乱れる。 廃線跡探索の大御所やほかの方々のサイトには載っていなかったし、Googleマップのストリートビューで見たときも分からなかった。 そんなものが、自分の目の前に存在している。 これだから廃線跡探索はやめられないのだ。2020-07-15
4時代が変われど物流を支え続ける(真田傍陽線真田駅跡)時代が変われど物流を支え続ける(真田傍陽線真田駅跡)道路の脇にひっそりとある、草に覆われた石垣のようなもの。 よく見れば上にはトラックが停め置かれている。 ここは真田傍陽線の2か所ある終点のうちの片方、真田線の真田駅跡。 この石垣は当時のホームである。 人々や貨物が行きかったホームも、現在はトラックの駐車場となって目立たぬ存在となっている。 時代は変わってしまったが、鉄道が廃止となって半世紀が経とうとしている現在でも、地域の物流を支えている。2020-07-15
5駅がないのに「駅前」?(駅前食堂)駅がないのに「駅前」?(駅前食堂)壁一面に貼られた、古ぼけた写真。 そして、ところどころ塗装の剥げた大きなライト。 ここは北本原駅があった場所のそばにある、駅前食堂。 とっくの昔に駅がないのに「駅前」という不思議なお店だ。 壁に飾られた写真は真田傍陽線の現役当時のもので、写っていない範囲にもたくさんあった。 また手前にある大きなライトは実際に電車についていたものなのだそうだ。 値段がかなりお手頃価格で、しかもとても美味しい。 菅平高原への道中にふらりと立ち寄ってみるのもよいかもしれない。2020-07-15
6役割は変われども(伊勢山トンネル)役割は変われども(伊勢山トンネル)入口が板でふさがれたトンネルが存在する。 真田傍陽線では唯一のトンネルであった、伊勢山トンネルの跡である。 建設時にルート変更が行われた結果、この山をトンネルで貫く険しいルートとなり、工事の難易度が上がってしまった。 そのため、開業当初はトンネル手前の伊勢山駅が終着駅であった。 廃線後は、キノコの養殖場として使用されているようである。2020-06-24
7叢の中で眠る(樋之沢駅跡)叢の中で眠る(樋之沢駅跡)生い茂る野草の中、何かコンクリートの細長いものが見え隠れしている。 ここは、樋之沢駅のホーム跡である。 真田傍陽線が開業した時は唯一、列車の行き違いができる駅であった。 草に覆われていてわかりにくくなっているが、赤い丸の部分にホームが残っていて、黄色の線のようにレールがあった。(レールは現存せず) 今回は夏に近い時期に訪れてしまったため、草の枯れた冬にもう一度訪れてみようと思う。2020-06-24
8近き水面のそばで(矢出沢川橋梁の橋脚)近き水面のそばで(矢出沢川橋梁の橋脚)勢いよく流れる川のそばで、護岸の一部が飛び出している。 かつては川を渡る橋を支えていた、橋脚である。 くぼんだ部分に鉄骨の橋げたが乗せられ、その上を毎日電車が人々や物資を載せて行きかっていた。 現地で見ても写真で見ても思うのだが、橋桁の下の面があったと思しき高さから水面までがとても低いようである。 現役時代にはいったいどのような景観をしていたのだろうか、などと妄想にふけるのもまた楽しいことだ。2020-06-24
9縁の下の力持ち(架線柱の基礎)縁の下の力持ち(架線柱の基礎)苔むしたコンクリートの塊から飛び出る、錆びた金属片。 これも実は真田傍陽線の遺構である。 電車には当然電気が必要であり、その電気を電車に送るために必要なのが、架線という電線である。 その架線を吊り下げる柱、重い架線柱を支えていたのがこのコンクリートの基礎なのである。 上田城の堀の区間では、確認できたもので5つも残されていた。 全国数ある廃線跡の中でも、こういったものがこれだけ残っているところはそう多くない。 ここはとても貴重な場所なのだということをもっと広めていきたいと考えた。。2020-06-22
10堀から鉄路、遊歩道へ(公園前駅跡)堀から鉄路、遊歩道へ(公園前駅跡)切通しの底にある、立派な石のトンネルと低い石積みのホーム。 ここは公園前駅の跡。 元々は上田城の二の丸掘りであったところに、1927年に真田傍陽線が通された。 トンネルに見えるのは上田城址公園への橋で、側面上部には電線を通すための碍子(がいし)も残されている。 廃線後、現在はケヤキ並木遊歩道として整備され、人々の憩いの場所となっている。 城の守りの要から人々の生活の足へ、そして憩いの遊歩道へ。 不思議な人生(土地生?)もあるものだ、と考えた。2020-06-22
11支え続ける、足元で(古レールの車止め)支え続ける、足元で(古レールの車止め)お城のほど近くの月極駐車場。 やけに細長くまっすぐな土地、そして車止めに使われているのはなんと鉄道用のレールだ。 ここも、上田交通真田傍陽線の廃線跡のうち1つである。 電車は上田駅を出てから北へ進路を変え、ここを通ってお城の堀を登って行った。 昔は電車を、今は車を支える存在となった古レール。 半世紀前に、確かにここには鉄道が通っていた。 その歴史の生き証人として、今日も静かに横たわっている。2020-06-22
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