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1戦後の選挙戦後の選挙1947年4月25日金曜日には第23回衆議院議員選挙が行われた。この時期から民主化に向けて選挙運動が活発に行われていたことがよく分かる。 『西塩田時報「戦後」』第4号(1947年4月20年)1頁2022-02-14
2日米和親条約と日米修好通商条約日米和親条約と日米修好通商条約出典:Wikipedia 下関戦争https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E9%96%A2%E6%88%A6%E4%BA%89  最後に、忠固が関わった二つの条約について詳しく見ていきたい。  日米和親条約の調印前に忠固(当時は忠優)は徳川斉昭との論争を制し、城中評議の場で五年後の交易承認という結論が出ていた。評議の翌日、斉昭は抗議の意思から参与辞職の意向を、自らの参与就任を推薦した老中首座の阿部正弘に伝えた。これを受けて阿部は、参与辞職を思いとどまらせるために会議の結論を覆し、交易の承認をしないという決定をした。そして日米和親条約は交渉術で勝った日本がアメリカから譲歩を引き出し、漂流民の人道的な扱いや食料・薪水・石炭の供与、長崎・下田・函館の開港などの内容に留まった。日米和親条約締結後、斉昭はアメリカの条約に基づいた「下田三箇条」と呼2022-02-14
3まとめまとめ戦後の生活を見る事例の一つとして今回調査を行ったが、歴史の教科書には載っていないような、終戦後立ち直っていく住民の姿がありありとみることができた。 具体的には、GHQが取り組んだ民主化が地方にも広がっていたことや、政治参加への意欲が現代よりかなり高かったことがわかり、良い学びになったと思う。 [参考資料] 『西塩田時報』Vol.2(戦後編1946~1956)ページごとの画像(https://d-commons.net/uedagaku/detail.php?id=3622) みんなでつくる信州上田デジタルマップ 信州上田学アーカイブ2022-02-02
4新憲法とポツダム宣言(『西塩田青年団報』第5号(1947年5月20日)2頁)新憲法とポツダム宣言(『西塩田青年団報』第5号(1947年5月20日)2頁)明治憲法(大日本帝国憲法)が改正されたのは、憲法をポツダム宣言に沿う内容にしなくてはならなかったからだと主張している記事。改正後の憲法がポツダム宣言に準じているということを、実際にそれぞれの条文を比べることで示している。 日本を愛する人民として、新憲法とポツダム宣言は理解しておくべきだという主張が、当時の政治への意欲を表しているように感じた。2022-01-27
5拔け切れぬ弊習 村議戰を顧みて(『西塩田青年団報』第5号(1947年5月20日)1頁)拔け切れぬ弊習 村議戰を顧みて(『西塩田青年団報』第5号(1947年5月20日)1頁)記事発行以前に行われた村議員選挙において、それがいかに非民主的なものだったかということを痛烈に批判している記事。後ろ盾の無い民主団体や個人は不利な状態に立たされ、女性の候補者も一人も現れなかったという状況を、封建的なかつての選挙と変わらないと言っている。 戦前や戦時中ではこのような政治に対する批判は絶対にできなかったと思うので、自らの意見を自由に発信できる時代の訪れを感じた。2022-01-27
6働くものが幸福になる!民主政府は総選挙で(『西塩田時報[戦後]』第4号(1947年4月20日)1頁)働くものが幸福になる!民主政府は総選挙で(『西塩田時報[戦後]』第4号(1947年4月20日)1頁)これから選挙に臨む村民達に、勤勉に働く者が損をしないような社会を作るべく考えて投票を行うことを促している記事。 そのために、どのように投票するのがいいのかを解説しているのがわかりやすく、政治に疎い読み手のことを考えているな、と思う一方、現代では自由な投票を歪める可能性があるのであまり推奨されることではないようにも思う。また、女性の選挙権を求める記事も同時掲載しているのが、差別撤廃を目指す時代性を表していると感じる。2022-01-27
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