上田市の芸術家

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農民美術運動を促進した人物

農民美術運動を促進した人物

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版画家・山本鼎は、明治15年愛知県岡崎市で生まれましたが、父親が小県郡神川村大屋(現在の上田市大屋)に大屋医院を開業したため、鼎は上田との由縁がありました。
鼎は版画家としてだけでなく、画家としてもその名を残しました。明治35年、20歳で東京美術学校へ入学し、「湖畔」で有名な黒田清輝に油絵を学びました。大正元年にはフランスに渡り、その間に描いた作品はどれも好評を博しました。
帰国後、児童画とその指導方法の改革を目指した運動を起こします。鼎は絵を描く技術、方法が重要ではなく、自分の目で見て、感じたとったものを描くことが、児童の発達に大切などだと説きました。その後大正8年4月には神川小学校で第一回児童自由画展覧会を開催し、自由画教育は全国各地に広がりました。
一方、大正8年11月には神川村で農民美術運動をおこしました。冬の農村の副業として、農民が芸術的美しさを備えた雑貨やこっぱ人形を作り、都市へ向けて販売しようとする運動です。翌年には東京のデパートで頒布会が開催され、人気商品になりました。
山本鼎は、児童自由画、農民美術など美術教育運動を手がけた事業家であったとともに、創造的で自由を求めた芸術家だと思いました。

https://museum.umic.jp/jinbutu/data/032.html


金井正について

金井正について

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金井正は、明治19年神川村国分に、金井家の三男として生まれました。県立長野中学校(現上田高等学校)に入学。家庭の事情から家督を継ぎ、父が局長を務める国分郵便局の事務員として勤務しました。その一方で哲学者西田幾多郎の存在を知り、哲学に関心を高め、神川読書会を企画したり同人雑誌の創刊し、社会主義による啓蒙を図りました。山本鼎がヨーロッパ留学から戻り、訪ね、児童自由画教育と農民美術運動に感銘を受け、協力を約束し、鼎による講演会「児童自由画の奨励について」を企画。続いて「第1回児童自由画展」を開催し、予想以上の成功を収めました。
 農民美術運動については、鼎と連名で日本農民美術建業の趣意書を作成して、神川村の人々に働きかけました。大正8年に第1回農民美術練習所を神川小学校で開設し、経営陣の1人として参加しました。翌年には自宅の蚕室を開放して講習会を実施するとともに、農民美術品展示即売会を東京三越で開催し、出品作品はほとんど売り切れるという大成功を収めました。しかし、昭和に入ると不況が続き、研究所は閉鎖されました。
一方で大正10年に猪坂直一、山越脩蔵とともに創設した自由大学も順調に開設され、土田杏村、高倉輝らによる講義が続けられました。
戦時色が濃くなる中、金井は時報「神川」に教育や行政についての自分の考えを発表します。情熱と全財産をもって尽くした農民美術や、民意を高め戦時下の村政に全力で取り組んだ正ですが、終戦とともにすべての公職から身を引き、その後は、自由大学の再興や戦後の新しい農業方法の研究に努めました。
山本鼎とともに農村の自立を目指した、神川の良い教育者だと感じました。

https://museum.umic.jp/jinbutu/data/007.html


兎束武雄

兎束武雄

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上田町大手の銀行家兎束鐘一郎の長男として生まれた武雄は、幼い頃から音楽に特別な興味を示す子どもでした。母親の影響で琴を習っていたそうです。音楽に興味を示していた幼少期ですが、父親からは反対されていたそうです。
上田中学校(現上田高校)を卒業し、東洋音楽学校に入り勉強に励みましたが、東洋音楽大学だけの勉強では満足できず、他の大学でも聴講し、作曲やピアノ、チェロなどを勉強しました。大学を卒業した武雄は、高等学校の教師になることを決意して上田に帰ってきました。武雄は、音楽の楽しさや喜びを多くの人々と分かち合いたいと考え、地域の音楽活動に力を注ぎました。昭和8年、28歳のとき、梅花幼稚園の同窓生に声をかけ、「からたち合唱団」を創りました。当時、県下で混声合唱団と呼ばれるものはなく、上田でも初めての混声合唱団でした。
昭和39年には日本を代表するバイオリニストであり東京芸術大学教授であった弟の兎束龍夫率いる芸大オーケストラを上田に招き、ベートーベン作曲の「第九交響曲」の初演奏会を実現しました。合唱部分には市内の合唱団と高校生の有志が集まり、演奏されました。この活動によって、上田市民の中にだんだんと音楽を楽しむ生活を浸透させていきました。
その後、上田高校や城南高校(現上田西高校)の教諭を勤め、退職後は上田市公民館長として活躍しました。
地区の各所で始められたコーラスグループへの指導をはじめ、講演会、各種サークルの歌の作曲などに取り組み、上田市の音楽文化の向上に努めた方でした。

https://museum.umic.jp/jinbutu/data/004.html


中村直人

中村直人

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大正期中ごろ山本鼎が提唱した「農民美術」と「児童自由画教育」の二つの運動の、発祥の地、神川で少年期を過ごした直人は、リアルタイムに農民美術、児童自由画教育の誕生を直視し、その中で小学校時代を過ごしました。
15歳の時、山本鼎の世話で上京し、木彫家吉田白嶺の木心社に入門。昭和10年には院展同人(会員)に推挙され日本の彫刻界の新風として頭角を現し始めました。
その後日本で活躍し、47歳でパリに渡りました。昭和28年のパリ展で大成功し、その後何度か個展を開き話題となり、滞欧12年の間に彫刻家から国際的な画家に見事な変身を遂げました。
昭和39年日本へ帰国。同年滞欧作展でパリ生活12年の成果を証明しました。その後二科会に招かれ、昭和55年には内閣総理大臣賞を受賞しました。帰国後は、様々な分野の芸術に挑戦し、完全に日本の画壇に画家として復帰しました。
山本鼎の農民美術、児童自由画教育の元で育った中村が世界的な画家となり、山本の教育の影響があったのだと感じました。


https://museum.umic.jp/jinbutu/data/016.html


農民美術と私

農民美術と私

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山本鼎が感じていることなどが書かれている自伝


https://jpsearch.go.jp/item/dignl-2532505


まとめ

上田市、特に私の住んでいる神川地区の芸術家について探求してみました。
きっかけとして私は山本鼎が初めて自由画教育行った神川小学校にも通っていて小さい頃が馴染みがありました。また「山本鼎先生の部屋」という教室があり、当時の生徒が描いた作品が保管されていました。私が小学校の時も山本鼎について学んだり、農民美術も飾ってあったりと、とても身近な存在に感じていました。
そこで山本鼎のような芸術家はどのような影響を与えたかを探求してみたいと思いました。
多くの芸術家は農民などにあまり縁のなかった芸術に触れてもらおうと活発な運動をしていて、上田に対する愛を感じました。また芸術の他にも教育や行政にも関わることも行っていて上田市民のために動いた芸術家が多くいることが分かりました。今まで上田で暮らしていて感じたことがあまりなかったので、このような芸術家たちの存在を広めたいと思いました。


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