6代松平忠優(忠固)はどんな人物か

6代松平忠優(忠固)はどんな人物か6代松平忠優(忠固)はどんな人物か

下の画像:ミッチーの画像を引用
 
 上田市中央にある願行寺の松平氏の墓所を訪れた。写真に見えるのは、四角い石碑を外して、右手側から、上田藩6代藩主の松平忠優(ただます)またの名を忠固(ただかた)、4代藩主の松平忠済、そして忠済の嫡男で20歳くらいで若くして亡くなった忠英(ただつね)の墓である。この記事では、松平忠固の功績を取り上げたい。
 忠固を一言で表すとすれば、幕府の体制を、開国つまり外国と貿易を始めるよう向かわせた人物である(オランダ、中国、朝鮮は入らない)。なぜか。忠固は二度、幕府の中枢つまり幕閣で老中という役職を務めている。そして、忠固の一度目の就任期間時には、幕府は日米和親条約を締結し、二度目の就任期間時には、幕府は日米修好通商条約を締結している。忠固は開国派の立場を取っており、外国との貿易は必要であると懸命に幕閣の人物たちへと訴えかけた。しかも、天皇の許可を得ずとも幕府だけで条約に調印してもいいと言うのである。日米修好通商条約を調印したのは井伊直弼であるが、「天皇の許しをもらわずとも幕府だけですぐにでも調印するべきだ」と声を上げて果敢に訴えたのは忠固なのである。水戸徳川家の徳川斉昭と激しく対立したり、井伊直弼に条約調印を迫ったりと、格式の高い者たちに臆せず立ち向かったその姿は評価すべきである。上田にはそのような偉人がいたのである。ここでは、上田市立図書館の地域資料室で調べた内容を挙げた。
 「従四位下」の位を授かったのは、初代藩主で二度側用人に登用された忠周と、この忠固だけである。それ以外の藩主は皆「従五位下」である。上記の2名に共通しているのは幕閣で働いた点である。忠固の墓碑に刻まれている「故従四位下行侍従兼伊賀守上田源公髪歯之冢」という文言を少しは理解できた気がする。

登録日:2024-02-08 投稿者:コスモス
地区コード上田地域(上田市)
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