長野県の蚕の歴史

長野県の蚕の歴史

今回、私は、上田市と岡谷市の養蚕と製糸産業の歴史について調査をした。このテーマにしようと考えた理由は、上田市と岡谷市で蚕にまつわる歴史があったからだ。私の地元の岡谷市は、かつて製糸産業が盛んだった。そして、上田市は、「蚕都」と呼ばれるように、養蚕の地であった背景がある。養蚕と製糸という、蚕によって結びつけられたテーマを元に、今回は、調査結果を述べていく。
はじめに、上田市の養蚕についてだ。蚕種製造・養蚕は、寛文の時代 (1661~1673) に始まった。蚕の飼育をする上で、気候が適していたため、春に育成していたようだ。一方、岡谷市の製糸は、幕末から明治にかけて盛んになっていった。「近代国家」への転換のための、外貨の獲得に、岡谷市の製糸産業は大きな貢献をしたようだ。
上田市で、養蚕が盛んになった理由としては、二つのことが考えられる。一つ目は、桑の栽培に適していたからだ。蚕の餌である、桑を栽培するのに土壌が適していた。さらに、蚕に食べさせていた桑の種類は、歩桑と呼ばれる品種で、蚕の寄生虫の産卵が防げるという効果を持つ桑だった。二つ目は、気候が適していたことが挙げられる。蚕を育てやすく、桑の栽培もしやすかったため、うってつけだったと言えるだろう。
次に、岡谷市の製糸が盛んになった理由としては、三つのことが考えられる。一つ目は、「諏訪式」という繰糸機が開発されたことだ。製糸会社、中山社の武居代次郎が欧州機のしくみを採り入れつつ、日本の実状に合わせて開発したものが原型となったものである。二つ目は、経営基盤の強化だ。小規模経営のリスク軽減や、操業安定化が図られた。最後に三つめは、蚕業教育の充実化である。学校や専門学校による教育が施され、その専門学校は、上田蚕糸専門学校と言う名称で、今の信州大学繊維学部にあたる。
かつて、隆盛を極めると言う表現に相違ないほどに栄えた長野県の養蚕・製糸産業だったが、1960年代から徐々に精密機械工業へ力を入れ始めた。特に諏訪地方は、「東洋のスイス」と呼ばれるほどになった。現代では、養蚕・製糸産業に、当時に比べると衰退し、群馬に一位の座を奪われてしまった。しかし、近代国家の転換に多大な貢献をしたという揺るぎない実績を残した。

登録日:2022-08-05 投稿者:Evelisten1
地区コード岡谷市
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