旧坂井村と戦争

日付:2022年1月29日 作成者:みや

旧坂井村(現・筑北村坂井)という地域に焦点をあて、戦時中にどのような出来事が村内で発生し影響を与えたのか、そこで生きた人たちは何を思ったのかを考えていきたい。

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1 地域探求のテーマと目的

1 地域探求のテーマと目的

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テーマ:旧坂井村と戦争

第二次世界大戦の終戦から76年が経ち、戦争の記憶が若い世代にとって遠いものに感じ始めている。知識としては知っていても、感覚的にどこか遠く感じてしまう。
その理由として「70年以上前のこと」という時間的要因の他に、「自分の身近に感じにくいスケールの大きさ」が要因として考えられる。

小中高それぞれの学校では、日本全体や世界全体の戦時中の出来事を学ぶ機会が多く得られるため、ある程度多くの人が知識として戦争について知っている。しかし、スケールが大きすぎてしまい、どこか他人事の様に感じられてしまうこともある。

そこで、都道府県単位や市町村単位における戦時中の出来事から、戦争をみていきたいと思う。都道府県や市町村ごとであれば、現代を生きるそれぞれの人にとっても、「自分にとって身近な存在」「自分の身の回りに関わる内容」と感じやすく、前述に比べて小さなスケールから戦争について知ることができる。
強いて言うと、一人一人の当時を生きた人々が、「どのような状況におかれ」「何を感じ」「何を考えたのか」を調べたり、考えるキッカケになると考えられる。

今回は旧坂井村(現・筑北村坂井)という地域に焦点をあて、戦時中にどのような出来事が村内で発生し影響を与えたのか、そこで生きた人たちは何を思ったのかを考えていきたい。
市町村単位や個人単位の小さなスケールで戦争について知っていけば、大きなスケールで戦争について考えたときに、内容を捉えやすくなる。そうやって戦争について多くの人が身近に考え、感じることが出来るようにしていきたい。


2 探求にあたり

・今回の探求では日中戦争から太平洋戦争にかけて(昭和12年ころ~昭和20年)を対象として調査する
・主な資料として「坂井村誌」を参考文献とする
・はじめに年表から紐解いていき、特に気になった点について深堀していきたい


3 坂井村とは

3 坂井村とは

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画像は市町村合併前の2005年10月1日時点の坂井村所在置
引用:http://mujina.sakura.ne.jp/history/20/index2.html
(2022年1月29日閲覧)

坂井村は1874年(明治8年)11月12日に筑摩県筑摩郡永井村・安坂村が合併し誕生した。

松本盆地と長野盆地の中間に位置する筑北盆地(麻績盆地)の最東端に位置する。

昔話「うばすて山」が有名で、姨捨伝説がある冠着山(かむりきやま)・別名 姨捨山(おばすてやま)をはじめとした1000m級の山々に囲まれており、村の中心に位置する坂井小学校や村役場周辺は標高640mほどである。
(長野大学の標高はおよそ470m)

2005年10月11日に本城村・坂北村と合併。現在の筑北村が発足し、坂井村は廃止された。
廃止時のデータ
面積:37.41㎢ 総人口1,515人
村の木:ミズナラ 村の花:ハギ 村の鳥:ウグイス


4 年表からひもとく

坂井村誌内の年表を一部引用し、特に重要な部分をまとめた。

昭和12年(1937年)


盧溝橋事件が勃発。村内の予備兵に召集下令があり、村内に一気に緊張感が流れた。
・銃後後援会(後に奉公会)結成、村防護団結成・応召家庭の農作業奉仕。
・軍の指示により、初めて防空演習が行われる。
・国防婦人会結成(全村)、国民精神総動員長野県実行委員会(会長・県知事)坂井村支部(支部長・村長)結成。
⇒日中全面戦争の開始に伴って始められた、国民の戦争協力を促す官製国民運動。「精動」と略されることもある。1937年(昭和12)8月第一次近衛文麿(このえふみまろ)内閣は「国民精神総動員実施要綱」を閣議決定し、同年10月「挙国一致、尽忠(じんちゅう)報国、堅忍(けんにん)持久」のスローガンのもとに国民精神総動員中央連盟(会長有馬良橘(ありまりょうきょう)海軍大将)を創設した。当初は精神運動の性格が強かったが、やがて長期戦下の経済国策への協力を中心とするようになり、貯蓄増加や国債消化の奨励、金属回収などがしだいに強力に実施されていった。
(引用:「コトバンク 国民精神総動員運動」)
宮島軍平・開拓移民第一号出発(11月)

昭和13年(1938年)


・国家総動員法公布
・宮島隼人開拓青少年義勇軍(第一号)出発。内原の訓練所に入所。
筑北青年学校射撃大会・修那羅で行われる。
・関森功・南沢一眞 北支戦線で戦死・8月遺骨帰還・10月村葬挙行
・吉池英幸少尉戦死 12月遺骨帰還
村民戦争の悲痛を覚える
.・国家総動員法が一部施行 物資動員計画公布され、配給統制実施(ガソリン切符制、綿製品・肥料の配給統制開始)

昭和14年(1939年)


・国内体制強化のため、消防団が警防団となり、警察の補助機関も兼ねる。
・ノモンハン事件発生し、日本軍苦戦の報に国民は衝撃を受けた。
・米穀統制法が公布され、消費者は一日「米二合三勺」と決められる。しかし、これも次第に遅配になりがちとなる。
・ガソリン不足から木炭自動車が走り始める。

昭和15年(1940年)


・民主党・政友会・社会大衆党みな解散し、大政翼賛会が結成。村長が村の支部長となる。記号の労働組合も解散し産業報国会となる。
金属回収運動始まる。お寺の梵鐘から蚊帳の吊手金など、また土蔵の窓の金棒も対象。(名鐘と言い伝えのあった、安養寺の鐘・矢倉善導寺の鐘もこの時供出。各家庭の仏具も供出の対象)
・食料が欠乏しはじめ、次第に総量が割り当てに達しなくなりはじめた。

昭和16年(1941年)


国民学校令が公布され、児童にも少国民として責任を負わせる。
緊急食糧増産報告推進隊結成(青少年団-国民学校5,6年以上が対象)。食料増産のため。
・農地作付統制規則を公布、命令されたものを作付することとなる。
12月8日太平洋戦争に突入。最後の決戦体制に入る。
→三日後、松本歩兵第150連隊に動員下令、予備兵・補充兵の在郷の働き手が根こそぎ召集された。同時に馬匹の徴発も行われた。

昭和17年(1942年)


「昭和17年に入ると、国民はミッドウェー海戦の大敗北は知らなかったが、戦局が容易でないことを知りはじめた。それは30歳近い未教育補充兵が召集され、製糸工場が軍需工場に転換されると共にわずかに残った農村の若者が徴用されたからである。食料もいよいよ切迫し始めた。」

・総選挙が行われる、翼賛会非推薦の植原悦次郎氏は落選(非戦論者)。
・食糧管理法施行される。凡ての米麦は政府の管理下に入る。
・肥料の配給が急減した中で、食料は増産を要求され、この為和牛飼育でたい肥の増産運動となり、農会中心で進められた。
・都会は燃料難となり、各村へ薪炭など供出割当が行われ始めた。
・実業学校生の卒業が繰り上げて12月卒業となる。
防空体制が必要な戦況となり、筑北各村が連合して、麻績村天王に防空監視哨を構築し青年学校生徒が立哨の任務に就いた。

昭和18年(1943年)


・木材供出の大量共木割当来る。特に木造船用のケヤキ材の共木は容易でなかった。
・製糸工場は企業整備により63%は軍需工場となり、絹の大部分はパラシュートなどに加工され、農家の年少労働者がおおく、就職した。
・物価急上昇・たばこ6割値上げ(ひかり 18銭-30銭)
作ったことにない甘藷の作付命令がでる。

昭和19年(1944年)


・増産のため田地改良事業、暗渠排水・客土工事のため食糧増産隊(高小生・青高生主体)動員される。
大本営が松代に来るという噂が広がり、村の職人衆、徴用でいなくなる。
・松根油のための松根掘り取り供出の割り当てあり、戸主当たり三十六貫であったが、完了しないうちに追加で倍量となる。
・満蒙の守りとして第六次青少年義勇軍が送出される(坂井村は丸山中隊)。
・この年はじめて開拓農家二戸が家族ぐるみで渡満した。
・女子挺身隊が編成され、川崎方面の東芝工場へ派遣された。

昭和20年(1945年)


冠着駅建設。

松根油
昭和20年に入ると、松根の割当がさらに倍増され一戸当たり200貫近くなり、又松脂(松やに)の割り当ても来た。そこへさらに松根を搾って油にして出せと命令が来た。丁度な資材が無いので一部冷却パイプは竹の筒を使うような苦心のなかで、二釜を完成し20年7月には坂井村産航空燃料はドラム罐に溜まった(場所は安坂川左岸の境ナシ橋の袂である)。

決戦体制
戦局がいよいよ切迫し敗戦の色は濃厚となり、「本土決戦」の声もチラホラ聞こえるようになった。松代に大本営が映る工事が始まる頃は、決戦用の飛行場を松本神林村に作る為勤労奉仕隊が割り当てられ、又その飛行機を隠す為の豪を掘る作業隊も割り当てられた。場所は、中山村、山辺村などで遠い処を、弁当もない奉仕隊員が参加した。

疎開学童
極度な食糧難の時に疎開学童を受け入れねばならなかった(東京足立区梅島国民学校)。安養寺へ70余名の児童を行け入れたが、政府は何の手当もできない状態だったからうすい野草入りのお粥を食べるくらいで、婦人会や、女子青年団の人たちの当番の奉仕も各家庭がすでに食糧難であったから、僅かな野菜や芋干し、クリなどの差し入れ位の物であった。

国民義勇隊(別名郷土防衛決戦隊ともいう)が結成され、あらゆる団隊員がこれに参加することとなった。

軍工場・軍倉庫の疎開
突然海軍補給廠と、陸軍東京経理部が疎開してくる事となり、東部軍の担当の将校が来て役場に泊まり込みで指図するようになった。又海軍航空本部の将校も役場に泊まり込み地下工場を作るといって、山秋・堀海道、須明・永井中村の山麓に横穴を掘るように命令を下した。農繁期で合ったのに大人数(全村一戸一人)の動員であったから村内騒然たる処へ東部軍の経理部による資材が突然鉄道貨車で何十輌も到着し保管を命ぜられた。下安坂・下永井の土蔵・学校の体操場教室・さては神社の舞台にまで積み込まれた。これも全村の勤労動員であった。

全村動員による山秋の裏山での横穴掘りが始まって、二日後に敗戦降伏の詔勅が出されたのである。
敗戦の二日後の17日、新潟にソ連兵士上陸の偽情報が流され婦女子は握り飯を作って山へ逃げるという一幕もあった。


5 数字からひもとく

昭和16年 関東軍特別大演習
→兵力約70万が動員(wikipediaより)
→坂井村からは予備役・後備役補充兵役の16名が召集。軍服ではなく作業衣や浴衣を着て部隊に集合せよという状態であった。(村誌より)

日支事変以来の大戦での坂井村の戦没犠牲者 108名(村誌より)
→昭和22年の臨時国勢調査による統計によると、昭和21年の坂井村総人口は2,998人
→正確な数字ではないが、人口のおよそ3%が戦争によって命を落とした


6 松根油の生産について

6 松根油の生産について

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画像は「長崎ディープブログ「長崎街道11~松並木と松根油と」」から転載
http://blog.nadeg.jp/?eid=43&imageviewer&image=20171028_726412.jpg

年表・数字からひもといた中で、特に「航空燃料用の松根油」の生産に関して注目したいと感じた。

興味を感じた理由は下記の二つである。
①自分の生まれ育った地域、しかも長野県の山の中で航空機の燃料を作っていたことを全く知らなかった。日本の山奥で航空燃料を生産するに至るまでに、どのような経緯があったのか調べたい。

②のちに記すが、坂井村誌内の記述によると、私の実家の近く、小学校の通学路の橋の袂で生産を行っていたらしい。そのためより身近に感じた。

村誌内の記述


下記は坂井村誌内に記述されている、松根油に関する記述である。
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松根油
昭和20年に入ると、松根の割当がさらに倍増され一戸当たり200貫近くなり、又松脂(松やに)の割り当ても来た。そこへさらに松根を搾って油にして出せと命令が来た。丁度な資材が無いので一部冷却パイプは竹の筒を使うような苦心のなかで、二釜を完成し20年7月には坂井村産航空燃料はドラム罐に溜まった(場所は安坂川左岸の境ナシ橋の袂である)。
[村誌 p563]

松根油工場は境ナシ橋の川端(後に製材所)に当時の農業会が引き受けて建設し、乾留鑵を据えて、事業をはじめた。農家は第一次の割合六〇貫を掘り取り、出荷をはじめた。そして事業を始めて三ヶ月ほどで八月には終戦となり、九月末からの豪雨の大洪水で集荷した松根の何千貫という山は殆ど流出してしまった。
[村誌 p778]
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松根油とは・生産に至る経緯


生産に至るまでの経緯は、Wikipediaから情報を見つけることができた。
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松根油(しょうこんゆ)は、マツの伐根(切り株)を乾溜することで得られる油状液体である。テレビン油の一種であるため松根テレビン油と呼ばれることもある。太平洋戦争中の日本では航空用ガソリン(航空揮発油)の原料としての利用が試みられたが、非常に労力が掛かり収率も悪いため実用化には至らなかった。

1944年(昭和19年)7月、ドイツではマツの木から得た油を燃料に混ぜてジェット戦闘機を飛ばしているとの断片的な情報が日本海軍に伝わった。日本でも南方からの原油還送が困難となって燃料事情が極度に逼迫していたため、国内で同様の燃料を製造することが検討された。当初はマツの枝や材を材料にすることが考えられたが、日本には松根油製造という既存技術があることが林業試験場から軍に伝えられ、松根油を原料に航空揮発油を製造することとなった。

1944年10月20日に最高戦争指導会議において松根油等緊急増産対策措置要綱が決定され、1945年(昭和20年)3月16日には松根油等拡充増産対策措置要綱が閣議決定された。原料の伐根の発掘やマツの伐採には多大な労力が必要なため、内地に残った高齢者、女性や子供が動員された。得られた伐根を処理するため大量の乾溜装置が必要となり、計画開始前には2,320個しか存在しなかったところ、同年6月までに46,978個もの乾留装置が新造された。これらは原料の産地である農山村に設置されて、大量の松根粗油が製造された。その正確な量については不明であるが、『日本海軍燃料史』(上)45ページには「20万キロリットルに達す」という記述があるという。
[wikipedia 松根油]
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以上のことから、松根油等緊急増産対策措置要綱、松根油等拡充増産対策措置要綱によって、日本全国で松根の伐採、松根油の抽出が行われたことが分かる。坂井村でも、同要綱によって松根油の生産が命令されたようだ。
当時は「200本の松で航空機が1時間飛ぶことができる」と宣伝されていたようだ。
しかし、集めた松根油も航空機燃料として利用するためにはさらなる加工が必要となり、実際に航空機燃料としてレシプロ機に使用されたという記録は残っていないようだ。

また、様々な文献の記述によると、男性の多くは徴兵で戦地に行ったり、工場や土木作業などの徴用で不在のため、松根の採取は女性や子供が多く行っていたようだ。


7 総括

今回私は、地元である旧・坂井村が戦時中にどのような影響を受けたのか、村誌を中心に紐解いていった。
まず第一に、これまでに自分の出身地について調べるために村誌を読んだり、自分の地域と戦争を絡めて当時のことを考えた経験があまりなかったため、今回調べたことで新たに知った内容がとても多かった。そのなかの大きな一つが松根油の採取だ。

私の祖母も戦争を経験している世代で、隣接している麻績村で育った。当時の状況や、今の自分と同じ年代のころに何を体験し、何を考えていたのか、知りたいと強く思うきっかけとなった。
今の私たち学生世代は、戦争についてやはり遠い存在に感じている面がある。私は今回、地元と絡めて戦争を見たことで、今まで以上に当時の状況や出来事に興味や関心を抱いたし、何より戦時中の生活の苦労さを今まで以上に重く感じた。当時の状況を知っている人からすれば、全くわかっていないに等しいかもしれないが、少しでも自分の中で意識が変わったきっかけになったのは事実だ。

今回自分で調べてみて思ったが、授業や誰かに教えてもらうだけでは理解することや考えを巡らせることは難しい。自分で調べるからこそ、さらに興味が湧いてきたり、どうすれば情報が手に入るか考えを巡らせ行動にしていくことができる。だから、今後とも少しでも興味関心を持ったことに関しては、どんな方法でも構わないから自分で調べて、知見や興味をさらに広げていきたい。
その大切なことを、今回の講義内の学習で改めて強く感じることができた。


8 参考文献等

・坂井村誌(坂井村・平成四年三月三十日)

・Wikipedia「坂井村(長野県)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E4%BA%95%E6%9D%91_(%E9%95%B7%E9%87%8E%E7%9C%8C)
(2022年1月29日最終閲覧)

・パラパラ地図長野県(2005年10月1日)http://mujina.sakura.ne.jp/history/20/index2.html
(2022年1月29日最終閲覧)

・まんが日本昔ばなしデータベース「うばすて山」
http://nihon.syoukoukai.com/modules/stories/index.php?lid=28
(2022年1月29日最終閲覧)

・コトバンク「国民精神総動員運動」
https://kotobank.jp/word/%E5%9B%BD%E6%B0%91%E7%B2%BE%E7%A5%9E%E7%B7%8F%E5%8B%95%E5%93%A1%E9%81%8B%E5%8B%95-64263
(2022年1月29日最終閲覧)

・e-Stat「国勢調査 / 昭和22年臨時国勢調査 / 全国都道府県郡市区町村別人口(確定数)」
https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?page=1&layout=datalist&toukei=00200521&tstat=000001036870&cycle=0&tclass1=000001037104&stat_infid=000007914571&tclass2val=0
(2022年1月29日最終閲覧)

・長崎ディープブログ「長崎街道11~松並木と松根油と」画像引用
http://blog.nadeg.jp/?eid=43&imageviewer&image=20171028_726412.jpg
(2022年1月29日最終閲覧)

・Wikipedia「松根油」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%A0%B9%E6%B2%B9
(2022年1月29日最終閲覧)


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