上田の歴史

日付: 作成者:ぽんず

神社では、自然物や自然現象を司る神々、衣食住や生業を司る神々など、八百万の神だけでなく、偉人、霊が奉られている。また、神社はお祭りが催されたり、初詣、厄除のために訪れたりする場所でもあり、日本人の生活における行事に溶け込んでいると言える。そのため、上田の神社を探求することによって上田の歴史、人々の暮らしぶり、価値観などを理解する。

★クリップ

アリオ神社

アリオ神社

ダウンロード

 2021年12月28日にアリオ上田に設置された通称アリオ神社。本当の名前は「四阿流尾神社(あずまやりゅうおじんじゃ)」といい、上田市真田町長にある「山家神社」の分祀だそうだ。

 社の大きさは横68㎝、奥行き88㎝、高さ約100㎝で総ヒバ造り。真田町の建築業者が設計し、武石村の大工が建築した。

 山家神社の始まりは、食物の実り、郷の安寧、人々の無事を大きなしぜんのなかの一部として生かされていることに感謝し、祈りを捧げ掌を合わせたことである。
 主祭神は国造り、国護り神話の中心的な神である大国主神、対偶神の伊邪那伎神との国生み、神生みの伊邪那美神、伊邪那伎神が伊邪那美神を追って黄泉国に到り、そこから逃げ帰ろうとして、黄泉平坂で争った際、間に立って二神の調停をした菊理媛神である。

 神社の隣にはかわいらしいおみくじ、2か月ごとにデザインが変わる御朱印が販売されていた。


眞田神社

眞田神社

ダウンロード

 眞田神社は上田城本丸跡に鎮座しており、真田氏、仙谷氏、松平氏という歴代の上田城主を御祭神としている。しかし、本来は松平家の御先祖をお祀りする御宮であり、松平(しょうへい)神社と称していた。

 松平家は、真田氏、仙谷氏のあと、江戸時代中期から明治の廃藩に至るまで7代160余年の長きにわたる上田藩主であった。
 上田藩主となった系統の藤井松平氏の初代忠晴公は、隠退後は忠山と号した。寛文9年(1669)に亡くなった。忠山公の御墓所は京都の金戒光明寺にあり、京都に忠山公の御霊をまつる忠山社が設けられてもいた。これが眞田神社の起源となっている。

 明治維新の変革の中、国に接収された上田城もまもなく民間に払い下げられ、城跡は急速に桑園・麦畑などに変化していった。そのような情勢の中で、旧上田藩士や旧領内有志により、旧藩主松平氏への報恩のため、初代忠山公、二代忠昭公、三代忠周公の御霊璽をあわせてお祀りする神社を、上田城跡に建立したいとの声が起こった。他にも、真田氏の活躍などで名高い上田城跡を、史跡として後世にまで伝えたい、という願いもあった。そして、上田城本丸跡の所有者となっていた丸山平八郎氏の篤志より整備された。


生島足島神社

生島足島神社

ダウンロード

生島足島神社

ダウンロード

 生きとし生けるもの万物に生命力を与える「生島大神」と、生きとし生けるもの万物に満足を与える「足島大神」の2神が祀られ、摂社(下社・下宮)には諏訪大神が祀られる信濃屈指の古社である。

 ご本殿は神池に囲まれた神島のまわりを老樹に囲まれて建っている。御扉の奥には御室と呼ばれる内殿があり、内殿には床板がなく大地そのものが御神体として祀られている。この池を巡らせて神域とされる島を作る様子は「池心の宮園池いけこころのみやえんち」と称され、出雲式園地の面影を残す、日本でも最古の形式の1つとされるものである。

 2枚目の神楽殿からちょこっとのぞく内殿の写真が個人的ベストショットです。


地図で見る
情報を探す
キーワード
    同じキーワードを持つ記事